ingress実践をする。 http://dekiru.net/article/5052/index.shtml 日本遺産 滋賀県は提案した7件から「琵琶湖とその水辺景観-祈りと暮らしの水遺産」 が認定を受けた。湧き水を家に引き込む「川端(かばた)」など水と生活が 調和した景観や、いかだ乗りを川の魔物から守るシコブチ信仰などの宗教、 ふなずしに代表される食など「水の文化」の深さをアピールした。 文化庁が、日本版の世界遺産として今年度から始めた「日本遺産」に びわ湖の水と人々が織りなす文化が認定されました。 「日本遺産」は、海外からの観光客の増加につなげようと、文化庁が、 国内に点在する有形・無形の文化財をまとめて日本版の世界遺産として 認定する今年度からの制度です。 今回は全国から18件が選ばれ、滋賀県からは、びわ湖の水と人々が織りなす文化 を集めた、「琵琶湖とその水辺景観ー祈りと暮らしの水遺産」が認定されました。 びわ湖に面する県内6つの市にある、▽国宝に指定された寺院や、▽国の重要文化 的景観に選定された近江八幡市の水郷などが含まれています。 このうち▽大津市の延暦寺は、比叡山から臨むびわ湖を最澄が理想郷とたたえて 建立したとされています。 ▽竹を編んで作った仕掛けでアユを取るびわ湖の伝統漁法「ヤナ漁」は、 高島市の安曇川で平安時代からの歴史があるとされています。 三日月知事は「滋賀県では、びわ湖を中心として『水の文化』が人々の暮らしの 中に脈々と育まれてきた。貴重な資源を次世代に引き継ぎ滋賀の魅力を国内外 に発信したい」というコメントを出しました。 福井県 ◎福井県 (小浜市,若狭町) 海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群 ~御食国(みけつくに)若狭と鯖街道~ 日本の過疎地には6.5万の集落がある。限界集落は、65歳以上が半数を超え、 道や村の施設などの管理が困難になる集落を社会学者の大野晃氏が定義した事 に始まる。人口の2割以上を占める昭和1桁の世代の力が大きく、今まで 存続してきた。しかし、その世代も既に80歳を超えて、集落の終焉も見えている。 60年代の林業の衰退、70年代の工場誘致の失敗、土木工事を中心とする80年代 の活気ある町も公共事業の緊縮財政に伴う減少の2000年代となっていく。 そのような流れの中、新しい変化が起きつつある。「火や土があって、自然に生きる 暮らしを子供たちに教えたかった」と言う若い夫婦の移住に見られるような価値観の 変化である。ある四国の村では、そのような農山村に新しい生き方を見つけて都市から 移住してくる人が3年間で60人を超えた。便利さの陰で見落としていた農山村の 価値に気付く人が増えたのだろう。 農山村には、「自然と折り合って暮らす豊かさや集落と言う共同体に生きる幸せ」があ る。 また、林業再生や木質バイオマス発電や有機農業の試みなど新しい生業が生まれつつあ る。 「祇園精舎の鐘の声」で始まる軍記物語『平家物語』、西行の「桜の下にて春死なん その如月の望月の頃」に代表される散りゆく桜と人生の儚さ、吉田兼好の随筆 『徒然草』、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」で始まる 鴨長明の『方丈記』など、仏教的無常観を抜きに日本の中世文学を語ることは できない。 単に「花」と言えばサクラのことであり、今なお日本人が桜を愛してやまないのは、 そこに常なき様、すなわち無常を感じるからとされる。「永遠なるもの」を追求し、 そこに美を感じ取る西洋人の姿勢に対し、日本人の多くは移ろいゆくものにこそ美 を感じる傾向を根強く持っているとされる。「無常」「無常観」は、中世以来長い間 培ってきた日本人の美意識の特徴の一つと言ってよかろう。 この「無常」を説明するのに、「刹那無常」(念念無常)と「相続無常」の二つの説明 の仕方がある。刹那無常とは、現象は一刹那一瞬に生滅すると言う姿を指し、相続無常 とは、人が死んだり、草木が枯れたり、水が蒸発したりするような生滅の過程の姿 を見る場合を指して言うと、説明されている。この無常については、「諸行無常」 として三法印・四法印の筆頭に上げられて、仏教の根本的な考え方である とされている。 なお大乗仏教では、世間の衆生が「常」であると見るのを、まず否定し「無常」である としてから、仏や涅槃こそ真実の「常住」であると説いた。これを常楽我浄と言うが、 これについては大乗の大般涅槃経に詳しい。 インドの仏教は、「すべてのものは無常である」と観ずる無常観を説きます。 この無常観は、人間が苦を脱却するための哲理としての無常観です。 どんな風に哲理なのかと言いますと、「無常」の「常」とは、「常にそのまま」という ことで、それに「無」がつきますと、「常にそのままで無い」となりますので 「変化する」ということです。 何が変化するかといいますと、「すべてのものが」です。ですから私たちのこの体も 変化します。すなわち、刻一刻老化し、最後に死んでしまいます。このように観ずる ことが無常観です。 ところが私たちは、若くありたい、死にたくないと思っています。そうすると、刻一刻 老化し最後に死ぬという「事実」と、私たちの「思い」とは食い違いを起こします。 そこに「苦」というものが起こる要因があるわけです。 この場合の「苦」の意味は、その原語である”dukkha”から「思い通りにならない こと」という意味だとされています。 その苦を脱却するためには、「事実」と「思い」との間に食い違いを起こさない ことです。 ところが、「事実」の方は変えようがありませんから、私たちの「思い」の方を換えて 「事実」に合わせるしかありません。 すなわち「刻一刻年を取り、やがては死ぬのだ」という思いに換えるのです。 そうすると「事実」との食い違いがありませんから、「苦」というものは起こらず、 心は平安となるというわけです。勿論その場合、自己の「思い」を換える程の 厳しい無常観が求められることになりましょう。 日本人は、仏教の説くこの「無常観」に大きな影響を受けたとされています。 人の命のはかなさ、世の中の頼りなさを歌った『万葉集』、無常を想う遁世生活 を述べた『方丈記』、「諸行無常」の言葉で始まる『平家物語』、更には〈能〉 の中にも無常観を表そうとしたものが多いと言われています。 しかしながら、これらは単に、人間や世間のはかなさ、頼りなさを情緒的、 詠嘆的に表現しようとした日本的美意識としての「無常感」であり、インドの仏教が 主張する、苦を脱却するための「無常観」とはかなり趣が異なります。 文学の世界だからというのではなく、日本では仏教の世界においても主体的な 苦の克服としての「無常観」は影が薄いように思われます。 漢字の「諦」の字は「真相をはっきりさせる」という意味ですが、日本語では 「あきらめる」という意味に変わります。この変化は、「観」から「感」への変化 と何か関係がありそうに思っています。 「群青の湖、芝木好子」 つづら折の湖畔をまわりきって、視界が変わり、広々とした湖の浦が現われた時、 岸辺に打ち寄せられたように小さな部落があった。風光の清らかな、寂とした、 流離の里である。 琵琶湖の秘した湖は、一枚の鏡のように冷たく澄んでいる。紺青というには 青く、瑠璃色というには濃く冴えて、群青とよぶのだろうか。太陽の反射が 湖面を走る一瞬に、青が彩りを変えるのを彼女は見た。 「群青の湖」に書かれた研ぎ澄まされた文章を抜粋してみた。 「冬が来て、東京に雪の降る日が続くと、瑞子は琵琶湖の雪景色を思った。北の湖にし んしんと雪が降るとあたりは白い紗幕に蔽われてゆき、群青の湖のみは白いあられをの みもみながら、昏い湖底へ沈めていく。雪が止み、陽が射すと、雪でふちどられた湖は 蘇っていよいよあおく冴えかえる。・・・中略・・・瑞子は湖の永遠に触れて、片鱗で もいい一枚の布にとどめたいと思うようになった」 「初秋の気配であった。湖水も空も縹色(はなだ)で小舟もない、鏡のような湖・・・ ・」 「湖は深海よりも透明で、藍が幾重にも層を成して底から色が立つ・・・・」 「奥琵琶湖の秘した湖は、一枚の鏡のように冷たく澄んでいる。紺青(こんじょう)と いうには青く、瑠璃色というには濃く冴えて、群青とよぶのだろうか」 最後に、 「いま 私に見えているのは、湖の生命と浄化の雪と枯葦の明るい茶なの。清らかな鎮 魂の布が織れたら、私の過去から開放され自由になれそうな気がするの。そうしたらこ の次は、あなたをおどろかすような魅惑的な真っ赤な蘇芳(すおう)や、妖しく匂う紫 や、老いた女の情炎のような鼠茶や、いろんな色を糸に乗せて、思い切り織ってゆきた い」と結んでいる。 滋賀県の地名として大津、近江八幡、大原、朽木、安曇川、そして菅浦が登場 してくる。 特に、菅浦に関する場面は、3回ほど出てくる。作家芝木好子にとっては、最も気に 入ったところであったのであろう。 菅浦については次のように紹介している。 岬へと進むほどに深山幽谷の眺めになって、町で見る湖とは趣が違う。つづら折りの 湖畔をまわりきって、視界が変わり、広々とした湖の浦が現われた時、その岸辺に打寄 せられたように小さな集落があった。 風光の清らかな、寂とした、流離の里である。入り江に沿って漁船が舫っているが、 人の姿はない。閉ざされた集落だが、どこからか侵入者を監視する眼を感じる。 里の入口に湖に面して神社があり、石の鳥居が立っていて、鬱蒼とした木立の山を背 に、奥深く参道が伸びている。鳥居の脇に古びた要塞門があって、由緒ありげな隠れ里 を思わせる。雪の残る山は深く敬虔な雰囲気を持ち、浮世の外に取り残された流謫(り ゅうたく)の哀しみが漂って、心が惹かれた。 石段を登っていると森閑として、左右の繁みの下から狐狸でも現われそうだが、振り向 くと琵琶湖がみえる。参道は長い傾斜道で、しばらく登ると急な石段の上に白木の神社 が現われた。 履物を脱ぐこと、と立て札がある。 この作品は、昭和35年当時の話であるが、今も言葉通りの情景が伝わってくる。 やはり、ここは流離の里であった。 詩集北国「比良のしゃくなげ、井上靖」 むかし写真画報と言う雑誌で、比良のしゃくなげの写真を見たことがある。 そこははるか眼下に鏡のような湖面の一部が望まれる北比良山系の頂で、 あの香り高く白い高山植物の群落が、その急峻な斜面を美しくおおっていた。 その写真を見たとき、私はいつか自分が、人の世の生活の疲労と悲しみを リュックいっぱいに詰め、まなかいに立つ比良の稜線を仰ぎながら、 湖畔の小さな軽便鉄道にゆられ、この美しい山嶺の一角に辿りつく日が あるであろう事を、ひそかに心に期して疑わなかった。絶望と孤独の日、 必ずや自分はこの山に登るであろうと。 それから恐らく10年になるだろうが、私はいまだに比良のしゃくなげを 知らない。忘れていたわけではない。年々歳々、その高い峯の白い花を瞼に 描く機会は私に多くなっている。ただあの比良の峯の頂き、香り高い花の群落 のもとで、星に顔を向けて眠る己が眠りを想うと、その時の自分の姿の 持つ、幸とか不幸とかに無縁な、ひたすらなる悲しみのようなものに触れると、 なぜか、下界のいかなる絶望も、いかなる孤独も、なお猥雑なくだらなぬものに 思えてくるのであった。 現代人が進める開発と言う行為の中には、自然への畏敬の念が欠落していることが 多く、自然は一つづつ生命を終えていってしまう。比良にしかない清々しい魅力を 先人たちから私たちがもらったように、次代へも伝えてあげたい。 小説「比良のシャクナゲ」より ここの主人が琵琶湖を賞するには、三井寺、粟津、石山、その他にも名だたる琵琶湖望 見の地は十指に余る。しかしこと比良を望むにおいては、湖畔広しと雖も、堅田に勝る 地はなく、特にここ霊峰館の北西の座敷に比肩し得るところはあるまいと自慢し、比良 の山容が一番神々しく見えるところから、この宿を霊峰館と名附けたのだと説明したこ とがあったが、まことにこの座敷から眺める比良は美しい。 わしは家を出てタクシーをとめた時、殆ど無意識に堅田と行先を告げたのだが、わし の採ったとっさの処置は狂っていなかった。わしはまさしく琵琶湖を、比良の山を見た かったのだ。堅田の霊峰館の座敷の縁側に立って、琵琶湖の静かな水の面と、その向う の比良の山を心ゆくまで独りで眺めたかったのだ。 堅田の浮御堂に辿り着いた時は夕方で、その日一日時折思い出したように舞っていた 白いものが、その頃から本調子になって間断なく濃い密度で空間を埋め始めた。わしは 長いこと浮御堂の廻廊の軒下に立ちつくしていた。湖上の視界は全くきかなかった。こ ごえた手でずだ袋の中から取り出した財布の紐をほどいてみると、五円紙幣が一枚出て 来た。それを握りしめながら浮御堂を出ると、わしは湖岸に立っている一軒の、構えは 大きいが、どこか宿場の旅宿めいた感じの旅館の広い土間にはいって行った。そこがこ の霊峰館だった。 「花と匂い 伊藤整」 文中で比良山さんの説明がある。 比良山と申しますのは、一つの山ではございません。比叡山の来たにつらなって、 琵琶湖の西岸に聳える武奈ヶ岳、釈迦岳、蓬莱山、打身山、権現山などを含む山地を 包括して比良山と申します。語源はアイヌ語のピラであるらしく、これは絶壁の あるところ、または扇形にひろがった土地と言う意味だそうでございます。 「幻住庵紀、松尾芭蕉」 石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ。そのかみ国分寺の名を伝ふ なるべし。ふもとに細き流れを渡りて、翠微に登ること三曲(さんきょく) 二百歩にして、八幡宮たたせたまふ。神体は彌陀(みだ)の尊像とかや。 唯一の家には甚だ忌むなることを、両部(りょうぶ)光をやはらげ、利益 (りやく)の塵を同じうしたまふも、また尊し。日ごろは人の詣でざりければ、 いとど神さび、もの静かなるかたはらに、住み捨てし草の戸あり。 蓬根笹(ねざさ)軒をかこみ、屋根もり壁おちて、狐狸(こり)ふしどを 得たり。幻住庵といふ。あるじの僧なにがしは、勇士菅沼氏曲水子の伯父 になんはべりしを、今は八年(やとせ)ばかり昔になりて、まさに幻住 老人の名をのみ残せり。 五木寛之『蓮如』?われ深き淵より 井上靖『星と祭』 井伏鱒二『安土セミナリオ』 沢田ふじ子『比良の水底』 泉鏡花『瓔珞品』 永井路子『一豊の妻』 杉本苑子『埋み火』 水上勉『湖笛』 川端康成『虹いくたび』 立原正秋『雪の朝』〔ほか〕 今日は3月26日比良八講の日である。 近江舞子は白く長い砂浜と幾重にも重なるように伸びている松林に静かな時間を 重ねていた。冬の間は、この砂の白さも侘しさが増すのであるが、比良山系の 山に雪が消えるこの頃になると一挙に明るさを取り戻す。山々もここから見ると 蓬莱山、武奈ヶ岳、打身山などが何層にも重なり合い和邇から見える景観よりも 変化に富んだ顔を見せる。その幾層もの連なりには微かな雪化粧が残っている ものの、すでに木々の緑がそのほとんどを支配し始めていた。 子供たちの声とともに和太鼓の激しい響きが聞こえてくる。その響きにあわせて やや凹凸のある道を進んでいくと、左手に紅白の幕が風に揺られるように手招き している。そして、松林の切れたその光を帯びた先に護摩法要のための杉の枝を 積み上げた小山が見える。小山といっても2メートルのほどの高さのものであるが、 周囲をしめ縄で仕切られ、祭壇が置かれているのを見ると、比良八講の四字が たなびく旗とともに目の前に大きく浮かんでくる。護摩壇の先には、蒼い湖が 広がり沖島の黒い姿が見えている。陽射しはこれら全てに容赦なく注ぎ込まれ、 更なるエネルギーを与えているようにも感じられる。やがて、法螺貝とそれに 先導された僧や行者が念仏を唱える音、人のざわつきの音、道を踏みしめるなど の様々な音とともに横を緩やかな風とともに通り過ぎていく。 そして、それに連なる祈祷を受ける人々の一団が思い思いの歩みで現われる。 背筋をキチンと伸ばしただ一直線に護摩法要の祭壇を見ている老人、数人で 談笑しながら歩む中年の女性たち、孫と手を携えている老婆、各人各様の想い が明るく差し込む木洩れ陽の中で踊っているようだ。 そこには、信仰の重さは感じられない。 法螺貝が止み一つの静寂が訪れ、次へと続き僧や修験者の読経が始まり、 やがてあじゃりの祈祷となる。あじゃりの読経する声は1つのリズムとなり、 護摩法要の祭壇を包み込み、その声が一段と高まり、水との共生をあらためて 想いの中に沸き立たせていく。その声が参列する人の上を流れ、蒼い空の下でやや 霞を増した比良の山並に吸い込まれていく頃、護摩木を湛えた杉の小山に火 がかけられいく。 杉の小山から吐き出される煙はその強さと濃さを増しながら青き天空へと消えて 行くが、その煙が徐々に渦を巻き、龍がとぐろを巻くが如き姿となっていく。 下から燃え上がる炎と渦を巻き上げながら舞う煙が一体となって龍の姿を現し、 ゴーと言う音ともに比良山に向かっていく。ここに護摩法要は最高潮となり、 周りを取り巻く人々も跪き般若心経を唱え始める。 そして、この日から1週間ほどして、周辺の木々はピンクの色模様となっている。 比良山、その頂上にある雪もあとわずかの残り日を残すような風情であり、その 姿を写す舞子の内湖も比良の晴れ姿を映し、桜模様をなしている。 法要の効力であろうか、いまだ比良おろしは来ていない。 西本梛枝(にしもと なぎえ)の話を旅くらぶで聞いた。 詩集や旅の案内書、滋賀銀行発行季刊誌『湖』連載の「近江の文学風景」をまとめた 『鳰の浮巣』(サンライズ印刷出版部)『湖の風回廊』(東方出版)ほかで、「近江」 と関わりのある文学作品をきっかけにして、作家や作品をひもとき、 近江の魅力 ある風景、風土を再認識している。 カイツブリは人相(鳥相)の悪い鳥だ。その愛想のない面構えが好きだ。 雪のせいだろうか、いつもなかなか近づいてくれないやつが、近くまでやってきた。 さて、カイツブリというと頭に浮かんでくるのが芭蕉の句。 五月雨に鳰の浮巣を見にゆかん 松尾芭蕉 芭蕉の俳句の中でこの作品が優れているかどうかは別として、雨の中、鳰(にお…カイ ツブリのこと) の巣を見に行こうという芭蕉の気持ちに私の心は惹かれる。そんな意味で好きな俳句の 一つである。 http://www.shiga-bunshin.or.jp/rekisikairou/index.html レイカディア講座 http://lacadia-clg.com/lacadia-clg-kusatsu-34-40-chiiki/senntsku/1206senntaku/ 210802gakusyuumatome.html 春の趣きがあちらこちらから聞こえてくる。 残念ながら、今日は曇り、午後からはかなりの風が吹くとの予想だが、 今はその気配なし。 琵琶湖が灰色になった湖面を見せているが、更にその先には白い色紙の如き朝空の中に 灰色と黒、そしてグラデーションのかかった薄墨色の山々が何層にも重なり 合っている。 モノトーンの世界がこの坂の上から見る琵琶湖全体を覆っているようだ。 しかし、数ヶ月前の冬の情景とは違い、寂しさよりも静けさだけが目立つ。 春は人の心も落ち着かせるようだ。 桂米朝の話を聞いた。 上方落語の再生者である。戦後間もなく戦争や漫才などの人気に押され、上方落語 はその落語家が数人まで落ちて、消滅寸前であったという。そのような状態の中で、 米朝は入門する。 元々、上方落語は口承、伝承が基本であり、書いた資料はほとんどなかったとのこと。 それを現存の落語家や落語の好きな人から聞き取たり、江戸時代の古文書を調べたり、 様々な手づるを活用して180ほどの演目を復活させた。 更に、それらに時流のネタを加えたりもした。 はてな茶碗、、、、などがある。生涯5300回もの高座をした。 本人は、落語こそ「もっとも洗練された芸術」と言うほどに愛していた。 その著作である「落語と私」では、大きな事をするのではなく一日一日を キチンとやって行くことが大切と言っている。 彼の芸風はその顔や仕草で何人もの登場人物を見事に演じ切る事にある。 また、彼の信条は「直ぐにチャネルを変えるような時代、落語の持つ言葉の 流れから徐々にその面白さを感じてもらえるように落語家は努力するが、 お客もそのように育てることにあった。 世界は殺人の嵐が吹いている。 イスラム国の残虐な行為が当たり前と受け取られる様なってほぼ1年。 イスラム教の教えとはいうが、単に殺しあう事に自分たちの存在を 認めさせようとしている。チュニジアの150人近い学生の無差別殺人や ボゴハラムによる200人以上の少女の誘拐など、社会はそのときは 一時的に騒ぐが、それも時間が過ぎると忘れ去ったように次の事件へと 流れて行く。世界が傍観者化し、直接の被害者のみがその渦の中で、 自分の受けた傷を癒さざるを得ない状況である。 今、起きている海の異変 北海道の海は、これまでサケ、ホッケにホタテなどの豊かな漁場となってきました。 ところが、4年ほど前から、これまであまり見られなかったブリやマンボウ、 シイラといった魚が大量に押し寄せています。 この魚、もともとは本州から南でよく見られる魚です。 その一方で、北海道のなじみの魚介類の水揚げが減り始めています。 こうした海の異変は北海道の各地に広がっています。 サケの網にブリが大量にかかるようになり、日によってはサケよりも多いことがある。 3年前までは年間1トンほどだったブリの水揚げが、今年(2014年)はすでに 400トンを超えています。 沖縄などでよく見られる魚・シイラの群れです。 2年半ほど繰り返し北海道の海を潜ってきた私も出会うのは初めてでした。 さらにマンボウです。 マンボウは、北海道ではこれまで、時折迷いこんでくる程度でしたが、今年は、 網によっては毎日のように入り込むといいます。 天然のホタテの漁場も潜ってみることにしました。 すると、これまであまり見られなかったヒトデが急増していました。 北海道の北西部の礼文島(れぶんとう)。 コンブで有名なこちらの海。 沖合に進んでいくと、コンブを覆いつくすように別の海草がびっしりと生い茂って いました。 これまで九州や中国地方などに多く見られていた「ヨレモク」と呼ばれる背の 高い海草です。 北海道全体の統計で、「ホッケ」の漁獲量が15年前の4分の1以下に減っている。 4年前から、春先の水温が、平年よりも2度ほど低くなっている。 夏から秋にかけての水温が最大で4度も上がっているのです。 魚にはそれぞれ生息に適した水温があるため水温が変化すると、 生息域が大きく変わってくる。 魚が取れない・日本の海に何が? 札幌市中央卸売市場で特に高騰しているのがホッケ。 いま全国のホッケ漁師たちが直面しているのが歴史的な不漁。 収入も減っている。 漁師・小西正之は「死活問題」とコメント。 資源量の推移(出典・水産総合研究センター)によると、アジやサバなど食卓 になじみの深い魚の資源量も軒並み減少。 その原因としてあげられているのが、温暖化による海水温の変化や魚の取りすぎ。 欧米諸国に比べると日本には漁獲量を制限する規制が少なく。 早いもの勝ちの漁獲競争に歯止めがかけられていない。 国による制限があるものの、上限は実際の漁獲量を上回り、サイズ規制もない。 漁師・西宮大和は最新の魚群探知機を導入。 見つけたのは成長前の小さなサバの群れ。 養殖魚のエサなどにしかならないが、網を入れた。 自分が獲らなくても、ほかの船にとられてしまう。 規制がない現状では、収入のためにやむを得ないという。 現実的に漁獲量も減り、サイズが小さくなっていることから、値段も さがって経営が苦しい。 そうなると後を継がせられない。 結果として高齢化が進んでいるのが現状。 国による規制の効果はほとんどない。 漁業経営が厳しいことを考えて、頑張っても取りきれない漁獲量が 設定されているので、実際に漁獲にブレーキをかける効果がない。 魚が減り続けると、そのまま減ることになっている。 現場では魚が減っている。 漁業者のモラルの問題でなく、現在の制度の問題。 取らざるを得なくなっている。 取り残す制度がない。 規制がないことの漁業者は被害者。 テクノロジーの発展で漁業の能力があがるのに応じて、 魚を残すための制度も進化させないといけない。 サバの場合、小さいサイズだとエサにしかならないが、2年待てば 鮮魚サイズになり、高く売れる。 アマエビの場合、きちんとした規制ができたおかげで、自分たちが 獲らなかったものを後で獲れる。 だから漁業者は取り組める。 サバの場合、そういう制度がないので、自分たちが獲らないと ほかの人が獲ってしまう。 きちんと取り残したものを、我慢したひとが獲れる仕組みを早く導入してほしい。 規制を入れる際は、どの国も苦慮している。 漁業者は最初は大反対する。 だが実際に規制が始まると、5年もしないうちに漁業が儲かるようになる。 そのため漁業者は支持するようになる。 だが最初の政治的ハードルは高い。 待つと価値は上がる。 きちんとした規制をいれ、マグロは6年間大きくしてから獲れるよう にすれば、消費者もより多くのマグロを今より安く食べられるようになる。 消費者も漁業者も一時的な我慢ができるような支援を政治が支えることが必要。 規制があることで漁業は成長産業になる。 全体の利益が増えるビジョンを共有することと、我慢した人が報われる制度が必要。
2016年10月9日日曜日
日々の記録8(無常観、限界集落、比良八講、西本さん近江文学、群青の湖、比良のし ゃくなげ、桂米朝)
日々の記録9(梁塵秘抄、ソーラー飛行機、蓮如上人御一代記聞書、3Dプリンターの 地域活性化、リディラバ)
人口変化,さすがマップ化されるとよく分かる http://www.nikkei.com/edit/interactive/population2014/map.html ブラタモリの鎌倉編を見た。 鎌倉石と言う加工のしやすい石材で作り上げた街。鎌倉は小山が多い街でもある。 材木海岸は遠浅で船着場としての活用が難しい中、和賀江島という人工の港を 1ヶ月で作り上げた。幕府の力は強かったのだろう。その影響で八幡宮を境にして 土地の高低差が大きくなった。砂丘となって市街地に寄って来たからである。 余り知らない鎌倉があった。詳細は別のページに金沢とあわせて、ある。 一瞬、すべてが自分の周りから消えた。目の前のずんぐりした身体に申し訳なさそうに 張り付いている頭の毛とその下にあるどんより曇った目、派手なピンク縞のネクタイ、 白く光る中に消えた。体がゆらぎ、手と足の先が見えない。今日は黒の革靴 だったんだけ、そんな考えが頭を支配していた。 そして、急激な感情が足元から突き上げてきた。俺はくびになったんだ、人生も 終わりだ。妻と啓太の顔が目の前に大きく写り、直ぐに消えた。目の前の常務の 口だけが動いている。金魚がえさを食べる時のようにただただそれは閉じたり 開いたりしているだけ。断片的に「明日から、、、、」 「和邇君どうした、、、」「まあ、君も頑張った、、、、」が聞こえてくる。 再び、あのどんよりした目と脂に汚れた歯だけが目の前に現れてきた。 それに向って私は言った。 「いつからですか」「わかりました」 冷静に答える自分がいた。周囲は既に何時もの部屋に戻り、目の前には何時もの 人間が愛想笑いをしながら立っていた。 ピンク色の小ぶりの花が幾重にも重なり合うように五月が庭を覆っている。その花に 一粒、二粒と雨がかかってくる。道路にもその水跡が初めは現われては消えていたが、 やがて小さな水模様となり次第に大きくなり、道路は水面となる。五月の周りある 紫陽花の葉、その花はすでに枯れ落ちているが、も降り落ちる雨に洗われる様に 先程より一段とその緑が映えていた。すでに、ポーチにも水が薄い膜を張るかの 如く雨が降り注いでいた。ガラス戸には、その雨が降り注ぐたびに一すじづつ その軌跡が下へと続いている。少し目を上げれば、薄い光を含んだ雲間から幾筋もの 雨が注いで来るのが見えた。遠く琵琶湖は薄明かりの中で、八幡山や三上山の 灰色の姿を背景に静かな水面をたたえている。静寂という言葉が似合う情景に 思わず、ごくりとつばを飲み込んだ。雲の流れが少しづつ早くなっているのか、 黒く重たい雲が次第に私の前に現われてきた。 「今日は、もっと雨になりそうだな」思わず、気持が言葉になった。 午後の晴れと言う気象予報に期待していた私にとって、最悪の状態になりそうだ。 気持がさらに落ち込むのが感じられた。 5月の連休最中である。 世間では多くの人が何か楽しみを見つけようと動いているのだろう。 しかし、我が夫婦は少し違う。 先ずは、365日連休のような年金生活者となったからである。 さらに、人の多さが苦痛となって来た年齢であるからだろう。 代わりに、自然の中で過ごす事に幸せを感じる年齢になったからでもある。 今日は、雨の日。先日までの青空と強い陽射しはそれなりに素晴らしい日々を 与えてくれるが、このしっとりとした静けさは老夫婦にとって、恵みの雨でもある。 比良山は雲の中に顔を隠し、琵琶湖も遠い鈴鹿連山や八幡の山々が霞む中、 湖面の灰色と共にその静けさを漂わせている。気のせいか通り過ぎる車も 柔らかく微妙な音感を周囲に発しながら、この静けさに一種の高まりを与えていく。 2人の周り全てがゆるゆると流れる時間の中で進んでいるようだ。 我5人の同居人たちも夫々の思いや夢を描きながら、それぞれの姿でこの静けさを 味わっている。チャトはいつもの如く窓辺のソファーに、ナナは二階の ママのベッドでお休みし、ライはレトと共にテーブルの椅子でノンビリと 毛繕い、ハナコも最近の生活パターンとなった二階の主人のベッドにナナに 睨まれながらも、堂々と寝ている。ママは小雨の中、芝桜やまだ咲かぬ紫陽花 に想いを込めながら小さな草花をいじっている。主人は、何をするのでなく、 漫然と庭の梅ノ木に滴り落ちる小雨の露をみている。 燕が一羽、軒先に飛んできた。新しい巣でも造ろうとしているのか、忙しく 羽を動かし、周囲を見回している。その羽音に気付きチャトが上目遣いに 燕を見ていたが、この静かさを破りたくないのであろう、その三角眼を 再び閉じていく。燕が飛び去った後には、しばらく音がこの家から消えた。 初夏の陽射しはきつい。眼を閉じその奥にある眼球までその光りが差してくる。 少し眼を開けると、その先にあるのは白く輝く蒼い空とそれを取り囲むかのように 風に揺られる緑の葉の群れである。 さらに細めた視線を下に向ければ、そこには数ヶ月前まで咲き誇っていた白の 西洋芙蓉や赤いガーディアン、さらには小粒のさくらんぼの白い花、全てが 消え去り、緑色一色に変わり、わずかな風の動きに合わせて様々な緑の模様を 描いている。中天からふり降りる強い光の中で、緑色に塗られた世界ですべて がその生命を謳歌している様でもある。 私の身体にも差すその光りはその暑さと共に、生きるためのエネルギーも与えて くれている。同時に、わずかな空気の流れが頬をなぜ、少しながらの安らぎを 与えてくれる。私と太陽の間を遮るものは何もない。 だらりと下げた指の先にわずかな動きを感じるが、多分、チャトなのであろう。 わずかにできた日陰の中に身を横たえ、私に寄り添うように寝ているはずである。 いつもそうなのだ。彼との付き合いは長いが、それがそろそろ終末を迎えよう としている。私にも、猫の予知能力が移ってのか、それともチャトの予知能力を ただ感じ取ったのであろうか、多分、後者のような気がする。彼も残された 日々を私と過ごしたいのかもしれない。 ハーブは薬草でもあるが、料理のスパイスにもなる。しかし、これらを使って料理を するとか、何かの薬を煎じる事など考えもしない。ただ、全部ムラサキ色で庭が 咲き乱れた情景を思えば何かしたいという気持は起こる様だ。 ローズマリー、ポリジ、タイム、イリスバリダ、セージ、アマ、フレンチラベンダー、 ムラサキハナナ。 夢から引き戻されるように、朝の光りをまぶたに感じた。薄く開けた眼の先に軽く 流れるような朝日が窓辺に差し込んでいる。今日も天気だ、と思いつつまだ夢の中 にいたい。このまま起きると昼間がきついな、と半ば念じるような思いで眠りに 入ろうとする自分が居る。傍では、妻がナナにあっちにいって、もう少し眠りたいの、 とうわ言のように喋っている。たぶん、夢うつつの中でナナと会話をしているので あろう。窓辺にかすかな影が動いている。部屋の外では、ライとハナコが大きな声で 何かを求めるように歩き回っている。多分、朝の食事がしたいのであろう。 人間とは違う習慣の猫たちは朝夕関係なく私たちに様々な要求をしてくる。 夢と現実の中で、行きつ戻りつ今日もまた朝を迎える。 ペットの高齢化が進んでいると言う。 日本では、今、犬猫合わせて2000万人の犬猫が居ると言う。この数字がどんな 形で把握できたのか分からないが、野良猫の多さを考えるとさらに多いのであろう。 飼っている人の比率では、50代が44.5%、40代が37.2%、60代が 36.4%と言われている。50代が多いのは少し意外だが、かなりの家でペットは 飼われ、しかも食糧事情や日本人の特性から家族の一員として大事にされる こともあり、高齢化が進んでいる。昔は、10数歳で亡くなるのが多かったよう であるが、今は20歳前後(人間で言えば、90歳)のペットが増えている。 このため、人間並みの介護が行われており、デイケアーサービスや歩けなくなった ペットのための義肢具など、要介護度のレベルに応じた様々な介護サービスがある。 まさに人間の高齢者サービスがペットにも同様にビジネスとしても成り立つ社会なので ある。 これはキリスト文化の世界のペットと人間の主従関係ではない、日本の家族意識化 の現われでもある。人の高齢化が進む中、よき伴侶としてペットは益々その必要性 を高めていくであろうし、たとえば、ペットと一緒に住める特別養護施設もある。 『梁塵秘抄』は、後白河法皇(1127-1192)によって、嘉応(かおう)元年(1169年) 頃にそのプロトタイプが完成し、1180年前後に補筆されたと考えられる、今様の歌詞集 全十巻と口伝集全十巻のことである。(口伝集第十一巻から十四巻も発見されているが 、歌い方や伝承など編纂前の印象もあり、解読も困難で、後白河法皇と直接関わりがあ るのか不明である)そのうち、現存するのは歌詞集が巻第一の一部(309首のうち21首 )、巻第二(545首)、口伝集が巻第一の断片、巻第十(後白河法皇の今様歴)となっ ている。 題目の『梁塵』とは、「梁(うつばり)の塵(ちり)」の意味で、虞公(ぐこう)・ 韓娥(かんが)という歌の名手が歌うと、人々はなみだを流し、柱の上に掛ける横木( 梁・うつばり)の塵さえも響きに呼応して、三日の間静まらなかったという中国の故事 に由来する。 『梁塵秘抄』と言えば、 「近江の湖は海ならず、天台薬師の池ぞかし、何ぞの海、常楽我浄の風吹けば、 七宝蓮華の波ぞ立つ」 第二に収められた有名な歌である。 近江の湖、すなわち琵琶湖は、常楽我浄の風が吹き、七宝蓮華の波の立つ、天台薬師の 聖なる池だ。天台薬師とは、天台宗総本山延暦寺のある比叡山こそ日本の天台山であり 、 根本中堂の本尊は宗祖最澄が自ら刻んだという薬師如来立像であった。薬師如来の いる東方瑠璃光浄土にあるべき宝池が、現実の琵琶湖の風光に二重写しになっている。 「誘給べいざたべ隣殿,大津の西の浦へ雑魚漉すきに、此の江に海老無し彼の江へ 往坐いませ、海老混じりの雑魚やあると」 「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえ こそ動がるれ。 舞え舞え蝸牛、舞はぬものならば、馬の子や牛の子に蹴させてん、踏破せてん、 真に美しく舞うたらば、華の園まで遊ばせん。」 のような童心の歌が有名であり、あるいは 「東屋(あづまや)の妻とも終(つい)に成らざりけるもの故に、何とてむねを 合せ初めけむ。」 のように艶っぽいものもある。 しかし、数の多くを占めるのは 「仏は常にいませども、現(うつつ)ならぬぞあわれなる、人の音せぬ暁に、 ほのかに夢に見え給ふ。」 のような法文歌である。また、神社への道行や、風景を歌ったものも多い。 337 天魔が八幡に申すこと 頭の髪こそ、前世の報にて生いざらめ そは生いずとも絹蓋長幣なども奉らん 呪師のまつりぬとただ秘せよ しないたまえ (訳) 天魔が八幡神にこう言った 「その頭がつるつるなのは 前世の報いでハゲたんでしょう 髪の毛なんか生えなくたって 絹蓋や長幣を着せて豪華にしてあげましょう 呪師が奉納したんだと言って 人には秘密にしておきなさい お取りはからいなさい」 425 聖の好むもの 比良の山をこそ尋ぬなれ 弟子やりて 松茸、平茸、滑薄 さては池に宿る蓮のはい 根芹(ねぜり)、根ぬ菜(ねぬなは)、牛蒡(ごんぼう) 河骨(かわほね)、独活(うど)、蕨、土筆(つくづくし) (訳) 修験者の好物なら 比良の山で探すといいよ 弟子をやって 松茸 平茸 榎茸 それから池底の蓮の根っこ 芹の根にじゅんさい ごぼう 河骨 うど わらび つくしんぼ 梁塵秘抄の歌集 http://homepage3.nifty.com/false/garden/kuden/index0.html ソーラー飛行機 3月に中東のUAE=アラブ首長国連邦を出発した太陽光発電だけで飛ぶ飛行機が、中 国・南京に到着して、地元で盛んな歓迎を受けました。化石燃料を使わない飛行機によ る世界一周に成功すれば世界初の快挙で、飛行機は今後、世界一周に向けた山場ともい える太平洋横断に挑戦することになっています。 この飛行機は、2003年からスイスで開発が進められてきたもので、3月9日にUA Eのアブダビを出発し、およそ5か月かけて世界一周する計画です。 飛行機は1人乗りで、ジャンボジェット機に匹敵する72メートルある両翼に取り付け られた1万7000個余りの太陽電池を使って、4基のプロペラを稼働させ、最高速度 は時速140キロということです。 4月21日の早朝、5か所目の経由地中国内陸部の重慶を出発し、1300キロ余り飛 行して、その日の深夜に南京の空港に到着し、盛んな歓迎を受けました。 計画の発案者で、飛行機を操縦するスイス人の冒険家、ベルトラン・ピカールさんは、 「16時間飛行して、半分は夜間だったが電池も十分あり、あすにも飛行できる 状態だ。この技術が飛行機だけでなく、あらゆるところに活用できることを知って もらいたい」と述べました。 次の経由地はハワイで、5日間連続して飛行することから、世界一周に向けた大きな山 場ともいえます。出発は5月上旬の予定ですが、飛行機は雷や暴風雨に遭うと墜落する おそれもあることから、飛行に適した気象状況を慎重に判断して出発日を決めることに しています。 目的は再生可能エネルギーの本格的利用 プロジェクトを提唱したのは、1999年に気球による無着陸世界一周を達成したスイ スの冒険家、ベルトラン・ピカール氏で、環境に優しい再生可能エネルギーの本格的な 利用を実現することが大きな目的です。 プロジェクトの総予算はおよそ1億5000万スイスフラン(日本円にしておよそ19 0億円)で、民間企業が出資したり、スイスの大学などが技術支援したりしています。 太陽光発電だけで飛ぶ飛行機「ソーラー・インパルス2」は、飛行機の両翼の長さはジ ャンボジェット機に匹敵する72メートルあり、最高速度は時速140キロということ です。 機体に1万7000個余りの太陽電池を貼り付けて、日中に余った電気を小型で軽量な リチウムポリマー電池に蓄えて、夜間の動力源にすることができます。 完全に充電できれば、曇りや雨の場合でも10時間程度飛行できるということです。 操縦室は、大人1人が乗り込むのがやっとの広さで、暖房や気圧を調節する装置はあり ません。 食事は特別に作った流動食で、操縦席で済まさなければならないほか、トイレは操縦席 の下に備え付けられ、密封性のある専用の袋を利用しています。 飛行ルート 3月スタートした今回のフライトでは、ベルトラン・ピカール氏とパイロット経験のあ る事業家アンドレ・ボルシュベルグ氏の2人が、1人乗りの飛行機を経由地で交代しな がら操縦しています。 「ソーラー・インパルス2」は、3月9日にUAE=アラブ首長国連邦を出発し、イン ドやミャンマーなどをへて、4月21日に6番目の経由地中国・南京に到着しました。 これで7300キロ余りを飛行したことになりますが、まだ全体の5分の1で、世界一 周を達成するまでには2万8000キロ近い道のりが残っています。 飛行機は今後、南京を出発し、これまでの総飛行距離を上回る8172キロを飛んでハ ワイに向かう予定で、その後もハワイを経由しての太平洋横断や、ニューヨークからの 大西洋横断など、最大で5日間にも及ぶ長時間のフライトが予定されています。 前人未踏の挑戦は早速、山場を迎えることになりそうです。 ソーラー飛行機 挑戦は日本でも 太陽光で発電したエネルギーで飛び続ける、ソーラー飛行機を実現させるための挑戦は 、日本でも進められています。 東京・青梅市の航空エンジニア、四戸哲さんのグループは3年前から、日本初の人が乗 れるソーラー飛行機の開発に取り組んできました。 開発中の機体は、全長およそ9メートル、翼の幅はおよそ17メートル。 木や発泡スチロール、それに炭素繊維などの軽い素材でできていて、重さは原付バイク 1台分ほどの80キロほどしかありません。 翼一面に張り巡らした太陽光パネルによって、ヘアドライヤー1つ分ほどの消費電力に 当たる700ワットの電気を起こします。 この電力でプロペラを回して、自力で離陸し、飛行を続けることを目指しています。 機体が完成した去年、福島県の飛行場で車で引っ張って加速し、機体をグライダーのよ うに飛ばすテストを行いましたが、横風にあおられ、バランスを崩して失敗。 このときの教訓から、四戸さんは横風でも機体を制御できるよう翼に改良を加え、こと し中の成功を目指しています。 四戸さんは、規模の違いこそあれ、自分たちと同じ挑戦を行っているソーラーインパル スの動向を固唾を飲んで見守っています。 四戸さんは、「これまで世界中でさまざまなチャレンジがありましたが、ソーラーイン パルスがその最先端を走っていると思います。 日中に発電して貯めた電気だけで夜間も飛び続けるという、技術は非常に 高いものです。 彼らのチャレンジを支える文化的な背景もあり、やりたいことを思いっきりできている のが羨ましい」と話していました。 四戸さんのプロジェクトのメンバーは、航空工学を専攻する高等専門学校の生徒や大学 生などおよそ10人。 小型飛行機の設計から製作までをこなす四戸さんの技術を学ぼうと、ときには泊まり込 みで作業を進めてきました。 機体の製作や操縦を担当するサレジオ工業高等専門学校の卒業生、横山慎二さんは「も のづくりには、技術も勉強もどちらも必要だということを、四戸さんから教わり ました。 ソーラーインパルスに対しては、ライバルや憧れというよりも、本当にすごいなと感じ ます。自分たちの挑戦は比べものにならないくらい小さいですが、自分たちの力を試し たい」と話していました。 四戸さんは「自分たちのプロジェクトは若い世代に関心を持ってもらい、チャレンジで きる環境を提供するのが趣旨で、そういう環境さえあれば、あとは自然に育って いきます。 若い世代にものづくりの合理的な考え方を教えるのが、僕の使命だと思っています」と 話しています。 蓮如上人御一代記聞書 「南無阿弥陀仏」の教えが、多くの人に伝わったのは、 五百年程前、蓮如上人のご苦労が大きいといわれます 蓮如上人の日頃のお言葉を記録した 「蓮如上人御一代記聞書」の現代語版が、 この度、新しく発刊されました。 内容は、浄土真宗の教義、倫理、生活、儀礼などにいたるまで、 懇切に興味深く記されていますが、全体を通しての主題は 「他力の信心」 を 得ることが、いかに大切で あるかに、尽きるといってよいでしょう。 お念仏の喜びを味われた、南無阿弥陀仏の 生活を体験された方、蓮如上人の、有難い記録です。 蓮如上人御一代記聞書き現代語版より 本願寺出版社 平成11年発刊 蓮如上人御一代記聞書 (一) 勧修寺村の道徳が、明応二年の元日、 蓮如上人のもとへ新年のご挨拶にうかがったところ、 上人は、「 道徳は今年でいくつになったのか。 道徳よ、念仏申しなさい。 念仏といっても自力と他力とがある。 自力の念仏というのは、念仏を数多く称えて 仏に差しあげ、その称えた功徳によって 仏が救ってくださるように思って称えるのである。 他力というのは、弥陀におまかせする信心が おこるそのとき、ただちにお救いいただくのであり、 その上で申す他力の念仏は、お救いいただいたことを、 ありがたいことだ、ありがたいことだと喜んで、 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と申すばかり なのである。 このようなわけで、他力というのは他の力、 如来の本願のはたらきという意味である。 この信心は臨終まで続き、浄土に往生する のである 」 と 仰せになりました。 (二) 朝の勤行で、『高僧和讃』 の 「 いつつの不思議をとくなかに 」 から 「 尽十方の無碍光は、無明のやみをてらしつつ、 一念歓喜するひとを、かならず滅度にいたらしむ 」 までの六首をおつとめになり、 その夜、蓮如上人はこれらのご和讃のこころに ついてご法話をされたとき、『観無量寿経』 の 「 光明はひろくすべての世界を照らす 」 という文と、 法然上人の、 月かげのいたらぬさとはなけれども、 ながむるひとのこころにぞすむ 月の光の届かないところは一つとしてないが、 月はながめる人の心にこそやどる。 という歌とを引きあわせてお話しになりました。 そのありがたさはとても言葉に表すことができません。 蓮如上人が退出された後で、実如上人は、 前夜のご法話と今夜のご法話とを重ねあわせて お味わいになり、「 まったくいいようのないありがたい ご法話であった 」 と仰せになり、上人の目からは とめどなく涙があふれ出たのでした。 3Dプリンターが生み出す地域活性 デジタルモールドで作る製品は多品種だけれど小ロット。そんな組み立てラインはなか なかどこの工場も引き受けてくれないという問題がありました。そこに、地元に歴史深 いスワニーに近所のお年寄りから声がかかりました。「月に一万円でもいいから毎日何 かできる内職はない?」そんなニーズがあったのか! と、シャッターが増えていた商店 街の空きスペースを利用して「内職ワークスペース」を設置しました。 長野県の小学新入生に無料で配る防犯ブザーを地元の大人が作るというコンセプトでス タートし、現在組み立てをやってくれる内職者は80名ほどの登録があるそうです。商店 街に来る予定がなかった40人ほどが毎日通うというだけでも活気が沸くことでしょう。 耐久性がなくて数がこなせない。でもはるかに安くて短時間で簡単に出来る。そんなメ リットを最大限に活かしたデジタルモールドは地域活性化にも役立っています。失敗を こなして新しいことに挑戦する。そんなスワニーの姿勢が産業界の革命へとつながりま した。 *補足: 産業用3Dプリンターの一般的利用方法 産業界のものづくりに馴染みがない読者のために、3Dプリンターがどこに使われている か少し補足です。一般に3Dプリンターが使われているのはプラスチック部品などの開発 途中の試作品です。まずCADという設計ソフトでアイデアを形にして、最初のプロトタ イプ1を3Dプリンターで作ります。3Dプリンターには実際の製品の材料が使えないので ここではあくまで形の確認がメインです。 プロトタイプ1が合格したら次に実際の材料を使って耐久試験と呼ばれるようなテスト をしないといけません。なので金属などで作るモールド(鋳型)と言われる型を 作ります。 型が出来たらプロトタイプ2を作ります。最終製品としての手触りや機能、耐久性のテ ストをします。 ダメならまたCADに戻って描き直しをします。 そしてプロトタイプ1,2へと繰り返します。 だいたい3,4回は繰り返して、やり直しの度にこのモールドを作り変える必要 があります。 モールドを作るには数日がすごくかかります。早くても数日から数週間、小さいもので もコストが何十万円もかかります。 ちょっと考えるべきたび企画のサイト。 http://ridilover.jp/ さまざまな場所で問題が解決せず、人々を苦しめ続けている 原因のひとつに 「構造的な社会への無関心」 があります。 リディラバは、その無関心を生み出す構造を解消するために、 「社会問題を知ることのできるツアー」 を立ち上げました。 このツアーに参加すれば、社会問題の現場に自ら訪れることができ、 そして、そこで知ったことを、私たちの提供するメディアで発表することができます。 さまざまな問題を知り、そして、それを発信できる場ができたことにより、 社会問題に対するアクションを起こすことはより簡単になりました。 リディラバでは、これからも、もっと気軽に、社会に存在する課題に 「情報を知ることができ」 「現場に訪れることができ」 「解決方法を考えられる」 環境をつくり、社会問題に対して興味を持ってもらえる社会を実現します。 さらに、リディラバが運営している投稿サイトにTRAPRO(トラプロ)がある。 その中から、社会事情について、 「1980年代の新聞を読むと意外とおもしろい。ここでは1980年代の新聞記事を引用して 紹 介していきます。 働き過ぎ・遊び過ぎ ? 睡眠不足増える 日本人は宵っぱりで、成人の3人に1人が睡眠不足?NHKの世論調査部が昭和35年から5年 に1回実施している「国民生活時間調査」の昭和60年度の調査結果が、2月28日まとまっ た。それによると、夜ふかしをする人が前回調査より増え、平均睡眠時間は平日で前回 より9分短い7時間43分。 (読売新聞:1986年3月1日) 【意見・感想】 7時間43分と聞くとたくさん寝てるという印象を感じてしまいます。実際、2010年のNHK の調査では平均睡眠時間は7時間14分となっており、25年でさらに30分近く短くなって いるそうです。 昨今では短眠法が注目されたりと睡眠時間を削ってやりたいことをやるという志向が増 えていたり、睡眠は習慣であり長短は関係ないという意見もあったりしますが、この短 眠傾向が良からぬ結果を招くのではないかと懸念しています。 親子の同居志向強まる 親子は、同居か、同居しない場合も近くに住みたいと考える人が親子とも約8割を占め しかも子の若い世代ほどそう望んでいることが、3月20日、経済企画庁がまとめた「 長寿社会へ向けての生活選択」調査で明らかになった。 (読売新聞・朝日新聞:1986年3月21日) 【意見・感想】 1986年に同居志向が強まっていたというのは驚きである。 しかし現実には、1986年以降三世代世帯は減少傾向にある。 (参考:年々増える核家族と一人身世帯…種類別世帯数の推移をグラフ化してみる http://www.garbagenews.net/archives/1344618.html) 2012年現在、同居志向の人はどれくらいいるのだろうか。 新人類は”フリーアルバイター”志向 フリーアルバイターということばをよく見かけるようになった。学校を卒業しても会社 に入らなかったり、入ってもすぐに退社して、アルバイトで生活している若者たちが、 自分たちのことをそう呼び出したのが始まりらしい。 (読売新聞:1987年11月7日) 【意見・感想】 フリーター(=フリーアルバイター)という言葉は20年ですっかり定着しましたね。 この時代は自己選択でフリーターを選ぶことが多かったらしく、現代においてもその印 象でフリーターも捉えられてしまっている部分はあるのではないかと思います。 生活に満足68%?総理府世論調査 生活への「満足度」「充実度」「中流意識」のすべてで、女性が男性を上回っているこ とが、総理府が11月2日発表した「国民生活に関する世論調査」で分かった。 (読売新聞・東京新聞:1987年11月3日) 【意見・感想】 タイトルを見ると、当時の生活満足度の高さがうかがえる。 (別団体調査になるが、2007年の調査では満足度は46.2%となっている。 http://www.research.nttnavi.co.jp/304z/701koufuku.html) 生きがい新旧格差 20歳代の社員ほど、家族を犠牲にして仕事に打ち込むことに否定的であり、生きがいを 仕事以外に求める人が3分の1を占めている?日本能率協会が11月24日発表した「生活意 識多様化調査」で20歳代と40歳代の「新・旧対比」がはっきりした。 (朝日新聞:1987年11月25日) 【意見・感想】 1987年の20歳代というと、2012年現在40歳代だと思うが、実感値として家族を犠牲にし て仕事に打ち込む40代が多い印象を受ける。 それは立場によるものもあるかもしれないが、例えば「残業後に会社チームで飲み会に 行く」「会社のゴルフ大会に精を出す」など、生きがいを仕事に求める人が多いのでは ないだろうか。 近年取られるアンケートでも20代の仕事離れが進んでいるという話題がたびたび取り上 げられるが、20年後には立派に仕事人間になっていると思うので、あまり問題視する必 要性はないのかもしれない。」 約30年前の社会事情だが、現状はどのように変わっているのだろうか? 温故知新と言うように、古き時代から今を見直すのも、中々に参考となる。
日々の記録10(郡上の白山盛衰、現在の信仰は?フットパス、遺跡ウォーカー、和邇 祭り、団地未来プロジェクト、青の浮世絵、10句観音経、綱島温泉
「神仏習合思想としての白山信仰の背景?現代に生きる平和と文化・歴史・ 自然環境保全の思想」 白山エコカフェでは、白山と長良川流域の自然と文化に関して地域の皆さんの ご経験・(伝統的)知識・視点と、科学的な観点から研究者(家)・技術者等 と共に自由に話し合い、長良川・白山の自然とその文化に関する情報を共有・ 発掘し、地域の自然環境・文化の保全と継承の大切さ、そして共生と進展、 さらには持続可能な地域活性化のための糸口等をみつけられれば幸いで あろうと考えております。 今回は昨年に続き、郡上地域に1300年にわたって生き続けている「神仏習合 思想としての白山信仰の背景」を、基調講演(後半)と意見交換等によって 学びたいと思います。 神仏習合思想の創始者の一人は白山を開山された泰澄大師であるといわれており、 現在も白山山系(中部域)を中心として全国的に根づいています。 郡上市には太平洋側の白山信仰の拠点として、長滝白山神社と長滝長瀧寺、 白山中居神社、洲原神社等が残っています。また白山美濃禅定道へは静岡県、 愛知県、三重県、滋賀県から続き、岐阜県に入り美濃市洲原神社で合流し 長良川に沿ってさかのぼります。その禅定道に沿って白山系神社・寺院、修験の場、 十一面観音菩薩等の泰澄大師ゆかりの白山信仰文化が今でも根づいています。 白山信仰に関連する歴史遺産として、加賀禅定道、越前禅定道、美濃禅定道の3つ のうちの一つである本禅定道は、白山市内にあり今も残っていることは、先人の 偉業が現代に残る貴重な証拠である。 また、白山信仰にまつわる文化は今も祭りや芸能として受け継がれている。 「生雲いくも」 建物の中央にある本殿て?は、「神道護摩・古代神道火祭り」を行っています。 生雲の火祭りとは、仏教・道教・神道を一つとした日本古来の 祈りの儀式て?あり、 現代の日本て?体験て?きるのは生雲た?けて?す。 自然を本尊とする道場て?、自他の願いや想いを書き記した「符」を煙とともに天に 昇らせ、魂を鎮め、心を平安にします。 古代の白山信仰を受け継き?、自然を本尊とするため、尊像は祀られていません。 東側には、いつて?も白山を拝すことか?て?きるように大きな窓を設置しています。 ここて?はひたすら白山を拝み、自然と感応しなか?ら、宇宙のエネルキ?ーを感し ことかできる。 生雲は、素朴な信仰の儀式を守りなか?ら、自然を拝し、新しい信仰のスタイルを 模索する場て?ありたいと願っています。 古代の人々が、かけがえのない存在として崇めてきた山や川。 越の国(北陸)では、白き女神の住む孤高の山「白山」が、泰澄神融禅師 (たいちょうじんゆうぜんじ)※が登拝して以来、仏教的山岳信仰の対象となり、 那谷寺とともに信仰が深まりました。 その那谷寺と白山を結ぶ線に、かつて修験者たちが修行したとされる伝説の山 「円行山」があり、ここに自然智行の求聞持堂を建てたのが生雲のはじまりです。 さらに、白山・那谷寺・円行山を結ぶ線の延長線上には、加佐ノ岬・木曽御嶽山・ 富士山も存在し、パワースポットで名高い場所が不思議と繋がります。 天と地、山と川、そして深い森に抱かれた生雲は、心と身体を浄化・再生させる 現代の癒しの宿。 下界から霧か?立ち昇り、雲か?湧き上か?る見渡す限りの自然の中て?、日常 のストレスから解 放され、自然と融け合う安らき?を感し?てみてくた?さい。 ※泰澄神融禅師:奈良時代に白山を開き、白山信仰を広めた僧。 明治になると、廃藩置県が行われ現在の県の範囲はなかなか定まりませんでしたが、 白山山頂の帰属も同様で、明治5年(1874)ようやく決まり、白山麓18ヶ村は石川県 となり現在に至っています。白山本宮・白山寺は白山比咩神社として、白山を奉祀 するようになります。また、越前馬場は白山神社と平泉寺に、美濃馬場は長滝白山 神社と長滝寺に分離されました。明治期、神仏分離-廃仏毀釈で幾多の仏像が破壊 されましたが、石川県では、当初は白山比咩神社周辺の仏教関係事物の撤去だけを おこなっていましたが、明治7年(1874)になると、石川県令は、前年白山比咩神社 の本社と指定された山頂の三社から、仏体仏器を取り除き、下山さすよう通達を 出しました。この仏体下山作業に際して、山頂や、かつての信仰登拝のための 登山道であった禅定道周辺に多く奉納されていた無名の石仏が、ただちに破壊された ようです。そして山上にあった本尊は白峰の林西寺や、尾添の白山社に下山仏 として安置されることになりました。 こうした廃仏毀釈運動の先頭に立って実行 したのは、石川県の場合、神社係で、急進的廃仏論者で、白山信仰など考証論的な 郷土史の先駆者の一人である森田平次という人のようです。これも1つの信仰の 厚さゆえに、他宗教を排他しようとする一例といえましょう。 ただ森田平次氏は、その急進的神仏分離論から、一時期取り上げられることが 敬遠される時期もあったようですが、近年、白山信仰の縁起、本来の姿など、 その地域史的研究の成果はあらためて評価されてきたようです。 郡上八幡市街地は近世初期に形成された山と川に囲まれた城下町であり、町の骨格が 変わることなく現代に受け継がれ、建物 ... 発祥祭. 日吉神社 大神楽. 長滝地区は、 白山信仰の拠. 点であった美濃馬場の中心的. な存在である。 白山信仰で隆盛を極めた。 古くから白山信仰の美濃馬場で「一に長滝お蚕祭り・二には千虎の甘酒祭り」と いわれたこの祭りはかつては甘酒六斗余を社前にすえた大釜で煮立て、村人は一人 ずつ名前を呼ばれて一椀の甘酒を受け、全員飲み終わると一同ときの声を 上げて大釜を囲み、残った甘酒をたいらげたという。祭礼は三月の第一日曜日に行われ ます。 白山比咩大神(菊理媛神)については、 http://www.y-tohara.com/shirayama-11.html 白山七社とは、加賀における里宮(遙拝所)7社をまとめた呼称で、その成立時期は 不詳ながら、白山本宮が比叡山延暦寺の末寺となった久安3年以降、比叡山・日吉七社 にならって成立したともいわれ、白山之記によれば次の7社から成っている。 本 地 垂 迹 現 在 本 宮 十一面観音 女形(白山妙理大菩薩) 三宮の地に遷座 金剣宮 倶利伽羅明王 男神(武神)・白山第一の王子 金剣宮(白山市鶴来日詰町) 三 宮 千手観音 女形・白山第三の姫君 白山比咩神社(白山市三宮) 岩本宮 地蔵菩薩 僧形・禅師権現 岩本宮(能美市辰口町) 中 宮 如意輪観音 女形・ただし童形(児宮)か 筍笠中宮神社(白山市中宮) 佐羅宮 不動明王 男神(金剣宮と同じ) 佐羅早松神社(白山市佐良) 別 宮 十一面観音 阿弥陀如来 聖観音 女形(本宮と同じ) 奇眼の老翁 宮廷に仕える大臣形 白山別宮神社(白山市別宮) 今回から3回は白山信仰にかかわる連続講演で、講師は長滝神社宮司の若宮多門氏がつ とめる。 今回の講演は、神社の拝殿で行われたのですが、拝殿に並べられた椅子が埋まるほどの 盛況振りだった。 私自身、若宮宮司のお話は何度か伺っているので、決して驚くようなことはありまない が、 初めてお話を聞いた人はたぶんきっと大いに驚かれたのではないだろうか。 というのも、宮司の話される話は、宗教者の語る内容とも、研究者の語る内容とも 違い、白山山系から流れ出る水が長良川となり濃尾平野を潤す、その「水」という キーワードから白山信仰の意味を説き、現代にこそその「水」の信仰が必要であるとい う。 今日の話を聞いていてふと昨日聞いた話を思い出した。 昨日は、「市民による豊かな海づくり大会」というテーマで、 河口堰閉鎖後の河川環境の変化についての話でしたが、 河口から40キロ当たりまでは汽水域と言い、海の潮の影響を受ける地域だという。 その周辺は現在大量のヘドロが溜まっており、干満の変化のなくなった堰上流部には、 以前まで大量に生い茂っていた葦原がほとんど姿を消したという。 若宮宮司は、長滝のあるこの地域は、古くから中品(ちゅうぼん)と呼ばれ、 人々が暮らす生活の場所である下品(げぼんと読む)と、神の領域である 上品(じょうぼん)とをつなぐいわば汽水域のようなところであったという。 だからこそ、さまざまな文化や芸術、芸能が古来よりこの地域で生まれて きたのだと語った。 葦原のある汽水域も、海から川へ、川から海へと交じり合う生物の交流点であり、 また、その自然環境が水の美しさを保つ浄化作用をもつという場所であった。 まさに、白山の神は、海から豊かな幸の姿となって川を溯り、人々や獣の命 をささえる糧となり、そして、みどり豊かな山の中をめぐって、ミネラルたっぷりの 水となって海を下り、伊勢湾という豊かな海を作り出していると言えるの ではないだろうか。 循環する命のそのものを、白山と長良川は現しているといっても過言ではない。 そういう意味においては、河口堰という人の欲望の作り出した境界は、循環という 神の意思を冒涜しているとも言える。 長滝白山神社 でででん祭り 拝殿の背戸扉がとりはずされた向こうから、郡上の遅い春の風が吹き降ろして いました。それはあたかも、白山三山の神々が中品(ちゅうぼん)の庭に風 となって現れたようです。 祝詞と巫女舞と玉ぐしが奉納された後「でででん」というリズムが響き渡り、 神輿渡御の始まりです。 三基の神輿は一直線に神社境内を駆け下ります。 フットパスとは 「森林や田園地帯、古い町並みなど、地域の昔からあるありのままの風景を楽しみなが ら歩く 【Foot】ができる小径(こみち)【Path】」のこと。 イギリスが発祥の地とされており、日本各地においても、市民団体、自治体を中心に 整備が進められています http://www.japan-footpath.jp/index.html 遺跡ウォーカー http://www.isekiwalker.com/ 彼の顔に赤みが差し、次第に顔全体がゆがみ始めた。目尻は下がり、目が潤んで いるようにも見えた。半開きとなった口からは、訳の分からない単語が発せられ、 息苦しそうにも見える。 身体が浮き立つようにゆらりと揺れた。やがて、自分で自分にで納得させるかの如く、 何度もうなずき、座り込んでしまった。今の彼には、何も見えないのであろう。 たとえ、そこに死体が転がっていようと、それさえ分からないのかもしれない。 そこにお金が転がっていようと、ただの紙切れと思うかもしれない。もっとも、 その紙切れの存在すら見えないかもしれない。 彼は、喜びと言う表現を最大限にしているのだ。 チャトはじっとその光景を見ていた。主人とのつながりから人間の行為の不思議さには 慣れていたが、いまだその本当のところは分かっていない。身体と言う見えるものに 対しての認識はできるが、その心と人間が呼ぶ見えないものには理解が及ばない。 仙人猫によれば、その見えない心を喜怒哀楽と呼ぶそうだが、それが人間としての 最大の欠点と言う。 目の前のこの不可思議な行為を見ていると、中々に楽しいものである、 とチャトは最近思うようにもなった。猫たちの行為は怒りと言う、尻尾と体の毛 を逆立て、牙を剥く、だけである。この単純な表現にチャトは飽きていた。 自分も、彼のような喜びという感情を身体全体で表したいとも思っていた。 レトは大変なものを見てしまった、そんな想いが身体を突き抜けて行った。 何げなく通った見知らぬ農家の庭であった。 一人の年寄りが、力なく庭先に立って、湧き上がる憐憫の情のために眉をよせ、 舌で上顎のすりへった金歯をいじりながら、彼女を見ていた。 彼は、少女が眠っている犬の上にかがみこむのを見た。 犬は、彼女が触れると、涙ぐんだような片目を開けた。その眼のすみに緑色 のにかわのようなものが、べったりこびりついている。 彼女は手を伸ばして、犬のあたまにさわり、やさしくなでてやった。 それから、肉の塊りを軒下にいる犬の鼻のそばにおいた。 犬は臭いで目がさめた。頭を上げ、もっとよく臭いをかごうと立ち上がった。 それから、三口か四口でそれを食べてしまった。少女がもう一度犬の頭をなでると、 犬は大人しい三角の目で彼女を見上げた。 突然、犬は咳、痰が詰まった老人の咳、をして立ち上がった。 少女は跳び上がった。 犬は咽喉を詰まらせ、空気を吸い込もうとくちをあけてあえいだが、すぐに ばったり倒れた。それから、起き上がろうとしたが、起き上がることができず、 再び起きようとして、そばにあた壊れかけの椅子にぶつかった。 息をつまらせ、よろめきながら、犬はこわれた玩具のように、庭中を 這い回った。少女の口が開いて、ちいさな花びらのような舌が見えた。 彼女は片方の手で狂ったように訳の分からない身振りをしたが、やがて 両手で口をおおった。少女は吐くまいと一生懸命になっていたのだ。 犬は再び倒れ、からだがピクピク痙攣した。それから静かになった。 少女は両手で口をおおったまま、少しづつあとずさりし、それから 背を向け、庭から走り出て、通りを下って行った。 老人は、横たわっている犬の傍に近づきそっとその顔を撫ぜた。 その皺に満ちた顔は、無表情であったが、身体からは黒い悲しみの空気 がそっと上がって行った。 レトはしばらくその場を動かなかった。というより、動けなかったという方が 正確なのかも知れない。特徴あるあの鍵型の尻尾が小刻みに震えていた。 足は地面に吸い付いたように動かない。頭では、早くこの場から離れろと 言っているのだが、身体は膠着したままであった。その黒い瞳だけが 横たわってる犬の、既に死骸と化した、姿に注がれている。後ろ足に 温かいものを感じた。水が後ろ足の周りに溜まっているのに気付いた。 レトにとって、凄く長い時間が亀が進むが如き遅い速度で進んでいた。 和邇祭り 5月の第二日曜日 その天皇神社(大宮)の両脇に合計5つの神社が並んでいる。 左から、三宮神社、樹下神社、若宮神社、大国神社、松尾神社。 御神輿は5基あり、それぞれ地元の各地区が担当しているとのこと。 その各地区と担当神輿をリストする。 三宮神社:北浜 樹下神社:中浜 大宮(2):今宿、下今宿 若宮神社:高城 木元という神輿グループもあったが、大宮の一つかと思う。 その和邇祭が5月12日(日)に行われた。 裃(かみしも)を着た年配の関係者に聞いた話では、昔は5月8日に行っていた そうだが、平日にはなかなか町内の人も集まりにくく、数年前から、 5月第二日曜日に実施、となったそうだ。昔はほとんど農家の体力も ある人が多かったが、最近はみな高齢化し、若者が少なくなりさらに 会社勤めが多くなったため、町内で人を集めるのも大変、と言っていた。 先頭では祭の責任者がなにやら祝詞奏上。 突然若い担ぎ手が竹竿をもって疾走してきた。 竹竿は神輿に立てかけられた。おもしろいことに大部分の竿の先端には藁が 荒縄で巻きつけられている。 またまた例の年配の関係者に聞いてみた。 今は、体力ある若い人がすくなくなり、神輿を全行程担ぎ通すことはせず、 大分部分は台車に載せて練り歩くことにした。しかし昔は全行程を担ぎ通していた。 時々登り坂で厳しくなったときにこの竿を使って皆で押して、助けたそうで、 藁先はその時のクッションのために巻いてあるそうだ。 今は竿を使うことはないが、伝統的な形式を残すために、こうして青竹の 竿を準備するそうだ。 神輿の飾り付けの一つに鏡がある。「神輿大全」P36によると、 『昔から鏡は、神秘の力の宿るものとして、多くの神社でご神体とされ、 また、魔を撥ね退ける魔除けとしても珍重されてきた。 神輿で唐戸の前に据えられる鏡は、邪気を祓う防波堤のような役割を 果たしていると考えられる。また、機能としては唐戸を押さえる役割もある』 とある。 この神輿の鏡は側面にあった。この場合魔除けではなく、 神を招き入れる意味があるのかも。 「祭りの風景」 春から夏への季節の移ろいが始まり、大きく育った草花がそれぞれの花や大きな葉 を気の向くまま広げていた。 この頃、彼方此方で春の祭りが行われる。田には水が満ち、稲の子供たちが一列 となって希望の歩みを始めるようだ。今日は近くの神社の春の祭りである。 昨日から我が家にも風に乗って祭囃子の練習の音が聞こえてきた。 ゆるゆるとした尺のテンポと小気味よさを伴った太鼓の連打する音がこれを聞く 人々にもなにか心地よさを与えてくれる。 そして全く雲が一片足りとも見えない蒼い空とともに祭りの日となった。 普段わずかな人影だけが残されている境内には8基ほどの神輿がきらびやかに 鎮座している。その少し先にある鳥居から3,4百メートルの道の両脇には 色々なテントが軒を並べている。焼きとうもろこし、揚げカツ、今川焼き、 たこ焼きなど様々な匂いが集まった人々の織り成す雑多な音とともに一つの 塊りとなってそれぞれの身体に降り注いでいく。やがて祭りが最高潮となると ハッピを着た若者たちが駆け足で神社に向って一斉に押し寄せてくる。 周りの人もそれに合わすかのようにゆるりと横へ流れる。 駆け抜ける若者の顔は汗と照りかえる日差しの中で紅く染め上がり、陽に 照らされた身体からは幾筋もの流れとなって汗が落ちていく。 神社と通り一杯になった人々からはどよめきと歓声が蒼い空に突き抜けていく。 揚げたソーセージを口にした子どもたち、Tシャツに祭りのロゴをつけた若者、 携帯で写真を撮る女性、皆が一斉に顔を左から右へと流していく。 その後には、縞模様の裃に白足袋の年寄りたちがゆるリゆるりと歩を進める。 いずれもその皺の多い顔に汗が光り、白髪がその歩みに合わし小刻みに揺れている。 神社の奥では、白地に大宮、今宮などの染付けたハッピ姿の若者がまだ駆け抜けた 興奮が冷めやらぬのか、白い帯となって神輿の周りを取り巻いている。 団地の未来プロジェクト 先ずは洋光台から 「団地の未来を描く。それは、社会の豊かな未来像を描くことでもあります」 クリエイティブディレクター、佐藤可士和氏がそう語る通り、日本の高度成長期に誕生 し、 以来、40年以上の歴史を持つ「団地」には、日本の社会が抱える課題と可能性が 映し出されている。 今年3月、都市再生機構(UR都市機構)が団地の再生に取り組む「団地の未来プロジェ クト」 が発足した。プロジェクトには、佐藤可士和氏とともに、建築家の隈研吾氏が参加。 横浜市磯子区の洋光台団地を舞台に、新しい住まい方、地域のあり方を発信する 試みが始まっている。 「集住のパワー」を引き出す かつて成長期には憧れの対象でもあった「団地」は、人口減少の時代の中で、空室の 増加や老朽化に直面しており、その再整備・再活用は大きな課題となっている。 プロジェクトは、逆風の中にある「団地」の価値を再定義し、新たな視点で 未来を描いていく。 佐藤可士和氏によると、大切な考え方の一つが「集住のパワー」を最大化すること。 集まって住むメリットをさまざまな形にし、住む人が享受できるようにするという。 今後、プロジェクトで展開する試みの一つが、「図書館」。団地に図書館をつくり、 知育や世代交流のコミュニティスペースとして活用し、独自のライブラリーを そろえる予定だ。また、「防災の新しいカタチ」や「商業空間の活性化」などの 取り組みも予定されており、開かれたまちづくりにつながるプロジェクトにしていく。 新しいライフスタイルに適した建築・空間設計を担当する隈研吾氏は、団地の 外壁のリニューアルを実施。露出していた室外機置き場をアルミ製の「木の葉パネル」 で覆うことで、室外機のようなマイナスと思われていた要素をポジティブな 要素へと転換した。 団地のイメージを刷新 団地の未来プロジェクトのロゴデザインも担当した佐藤可士和氏は、そのコンセプト について、「『団』の字の四隅を丸くしたアイコンで、既存の枠組みに捉われない 柔軟な考え方から創造される新たな可能性を表した」という。そして、「団地から 想像するこれまでのイメージを刷新し、新たな文化の創造につながる独自のアイデア を展開していきたい」と、プロジェクトに懸ける思いを語った。 団地の未来プロジェクトは、目標を2020年に設定した長期の取り組みとなっている。 今後、そこで生まれた成果は、他の団地にも活かすことが考えられている。 日本に数多く存在する団地という「ストック」の価値が、見つめ直されている。 青の浮世絵 三島市の佐野美術館(三島市中田町)で現在、浮世絵の展覧会「世界を魅了した『青』 浮世絵名品展 春信・歌麿の“露草青”写楽の“藍”北斎・広重の“ベルリンブルー” 」 が開催されている。 同展覧会では、東京都文京区にある礫川(こいしかわ)浮世絵美術館の約2000点の収蔵 品から、 江戸時代の浮世絵の名作約100点を展示している。 展覧会の構成は、初めて青色を本格的に使用した鈴木春信などの美人画に見られる淡く 繊細な 「露草青」、東洲斎写楽の役者絵の頭の青々とした月代(さかやき)に見られる「藍」 、 そして18世紀初頭にドイツで発明された合成顔料「ベルリンブルー」という3種類の青 色 の絵具の変化によって、浮世絵の表現の変遷をたどっている。 作品には、どの種類の青色彩色がなされているか表記があり、「露草青」が使われてい る とされる作品は、退色して青が全く見えなくなっているのに対し、藍が使われている とされる作は淡い青色を見ることができる。そして、「ベルリンブルー」が使われた傑 作、 葛飾北斎の「冨嶽三十六景」では、ふんだんに使われた青色によるグラデーションや ぼかしなど、多様な表現を楽しむことができる。 来場者からは「青という着眼点が面白い。青の歴史、浮世絵の変遷がわかった」 「見慣れるとどの絵具が使われているか分かるようになってきて面白い」などの声が聞 かれた。 5月23日(土)、30日(土)の午後2時から、主要な作品を解説する、担当学芸員の ギャラリートークが予定されている。 『十句観音経』 観世音。南無仏。 (観世音菩薩に帰依します) 与仏有因。与仏有縁。 (我々にも仏と同じ因果の法則があり、また縁でつながってい ます) 仏法相縁[1]。常楽我浄。 (仏と法の縁によって、私たちは常に心を清らかにし、楽 しく過ごせます) 朝念観世音。暮念観世音。 (朝にも夕べにも観世音菩薩を念じます) 念念従心起。念念不離心。 (この念は仏心から起こり、また心を離れません) 綱島温泉 今日NHKでこの温泉の休館が報じられていた。 綱島は私の故郷である。小学生の頃、よくここのラジウム温泉の湯船の中で、泳いだり していた事が忘れられない。その頃の記憶はかなり薄くなったが、3,4歳のでこチン の 私がこちらに眼を飛ばしている、そんな写真が残っている。広場には、沢山の人が 何やら陽気に騒いでいたようであった。 スーパー銭湯がにぎわっているこの時代には、既に姿を変えていたと思っていたが、 今まで営業していたとは、感激である。しかも、今回のNHKの映像からは、私の記憶 の 端にあるあの皆が和気藹々と過ごしていた昔の情景がそのまま残っている。 建物はコンクリートになっているが、庭はまだその面影を残している様でもある。 創業が昭和21年とのことだから、私の時間とほぼ同じ時間をお互いすごしてきたのだ 。 映像からも中の施設が綺麗とは余りいえないものの、知らぬ同士が歌い、踊り、 食べて、そしてゆるやかな人間関係を作っていく、昭和のよき姿が残っている。 以下の幾つかのサイトの記事からもその雰囲気が分かるのでは。 「綱島温泉東京園は東急東横線の綱島駅のすぐ近くにある温泉センターだ。東京園 は 1946年操業だが、綱島温泉の歴史は1914年に始まるという。 戦前は東 京の奥座敷として大きな温泉街になっていたが、現在は数件の温泉銭湯と 東京園 がその名残を止めている。、、、、、 浴室の端に源泉そのままと思われる水風呂がある。足を浸けるだけでも効果があると 掲示してあるのでためしてみることにした。水風呂にしばらく足を浸し、温浴槽に 浸かり、また水風呂と繰り返した。これはなかなか効果がある。体の芯からさっぱり した気がする。 休憩室は1階にも2階にも大広間が何カ所もある。売店でビールやつまみも安く 売っている。中庭に面した窓際に座って、風に当たりながらビールを飲むのは最高に贅 沢だ。 、、、、、、、 東京園は温泉センターでも特に気取らない雰囲気だ。昭和の初めのレトロな雰囲気を 残して、なにかなつかしい、ほのぼのとした気分を満喫した。」 「こちらの「東京園」にはめちゃんこデカい宴会場がついていて、 温泉を堪能しながら宴会が出来るのです! 実はフォロワーさんから「マジで良いっすよ」っていう情報が何度か入っていて、 その度に「温泉の神であるところの僕が知らない東京周辺の温泉があるわけないし、 その温泉神に意見しようなど神をも恐れぬ所業である事を自覚するべき」なんてな 感じで激怒していたのですが、とある忘年会に誘われてこちらに来た所、 マジでハンパ無く良い施設だったのでご紹介したいと思います。」 「創業昭和21年という歴史を持つ当店は、元気で楽しく低料金をモットーに、人々に 憩いの場を提供しています。 自慢の温泉は天然のラジウム温泉です。まじりっけなし100%天然のお湯は、 さらりとした中にもまろやかな粘り気があり、肌全体を潤してくれます。 またラジウムの効果で体の芯から暖まります。 ラジウム温泉、広間、店内には日当たりの良い大小4つの大広間があり、庭の樹や 花を眺め、小鳥のさえずりを聞きながら、舞台で歌ったり踊ったり、また ラジウム温泉に入り、のんびり読書やおしゃべりに最適です。」 2005年4月の文芸春秋には「消えた「昭和」 日本人が失くした暮しと心」 の特集があった。今読んでも参考となる。 蚊帳 蚊に灯虫毒虫なつかしや 佐藤愛子 焚き火 暖を取りモノを焼き語り合う 椎名 誠 和式便所 日本が誇るべき「腰・肚」文化 齋藤 孝 ナイフ 僕たちは、なめていた 重松 清 原っぱ 虫取り、凧あげ、草野球 北 杜夫 紙芝居 実はモダンな路上芸 鴨下信一 駄菓子屋 ねえちゃんばあちゃんの店 泉 麻人 ラジオ 家族の話の真ん中にラジオ 永 六輔 縁側 日溜りの中、母の社交場 久世光彦 箒とちりとり 母・幸田文のお下がり 青木 玉 ちゃぶ台 秘技「ちゃぶ台返し」の効用 山本一力 神棚と仏壇 「神仏共存」日本列島の源流 山折哲雄 蝿取り紙 私が最後に看取った蝿たち 小川洋子 押入れ 女の子と一緒にかくれんぼ 藤原智美 書斎 絶滅する男の居場所 藤森照信 給料袋 幸福が月に一度やってきた 阿久 悠 半ドン 土曜の午後は父とともに 深田祐介 社員旅行 会社がいまだ共同体だった頃 嵐山光三郎 中卒 学歴なくとも皆夢があった 小関智弘 そろばん はじける珠は「人間の音」 出久根達郎 内容は記事でかくにんしたい。
日々の記録11(琵琶湖八珍、人物描写、歴史認識、第二の人生、目利きビジネス、「 ひがい鰉」「いさざ?」ひうお氷魚、平城宮)
フローについて http://www.ted.com/talks/mihaly_csikszentmihalyi_on_flow?language=ja ポジティブとは? http://www.ted.com/talks/martin_seligman_on_the_state_of_psychology 滋賀美味しいもの http://shigaquo.jp/ 夕闇が迫っていた。木々の梢が硬質なうねりを見せる空を背に輝きを放ち、 やがて最初の風に打たれて身を震わせた。木の葉と小枝が宙に舞った。 鳥たちが叫びをあげた。彼方で雨の帆がはためき、私と山際の木々との間に 垂れさがった。私は折りたたみの傘の中に縮こまり、雨の最初数滴をしのいだ。 一面薄墨を引いた景色の中で黄色に変色し始めた畑だけが山の裾まで伸びている。 どこにも隠れ場所はない。 慌てて着た防水服を叩き、なん筋もの雨が首筋を下り、伸縮性のある糸を織り込んだ 袖口を駆け上がる。やがて雨粒が胡椒の実のように身体を打ち、水溜りで渦を巻き、 側溝を猛烈な勢いで走始める。 しばらくの間、沈黙の中に妻の言葉だけが響いていた。彼女の発する声は和邇には 届かず、ただ部屋の中に充満し、消えていく。目の前には、怒りに支配された人の 姿がただあるのみである。そして、あらためて人生が一瞬にして変わりうるもので あることに気付かされて胸をつかれた。ごく日常な仕草、普段交わす会話、自分の パートナーの犬の散歩をしたり、いつも靴を履いたりと言うごく日常的なことを していながら、大切なものを失おうとしていることに気づかない、ということ だってありうるのだ。人とは鈍感なものだ。その変化が眼前に現われない限り、 事態の大きさを理解できないのだ。むしろそれは理解する事が怖く、敢えて 見過ごしているのかもしれない。彼は何も言わなかった。 背筋をぐっとのばしたが、口はポカンと開いているし、顔が漂白でもされた 様に蒼白だった。暫くして、やっとその口から出てきたのは、小さくて ずっと遠くから聞こえて来る様な声だった。普段のあのどよめきにも似た声 からは想像の出来ないか細さと頼りなさのこもった声だった。 和邇は、息苦しさを覚えた。脚か胸のどれかひとつでも、あるいは、筋肉の ひとつでも動かしたりすれば、必死となって抑え付けている激情が堰を切って 溢れ出すのではないかと不安だった。足が微かに震えている、気持のどこかで そんな声が聞こえた。 ハナコは賢い猫だ。まだノロと一緒に野良猫生活をしていた時のことがその脳裏 浮かんだ。食べ物を運んでくれたあの老婆の優しさが、そして、横で静かに彼らを 見ていた老人の優しさが蘇った。彼らが遠慮したにもかかわらず、半分は野良猫 としての警戒心の故でもあったが、慰めと休息の場を提供してくれた。 そんな老夫婦の親切を受け入れた時、彼らは新しい何かを学んだ。 受け取ることは与えることと同じ様に贈り物だと言う事を。なぜなら、 受け取ることも与えることも、ともに勇気と謙虚さの両方を必要とするからだ。 前々日の夜、その家の縁の下で寝ていたときに感じた安らぎを思い出した。 そんなことをあれこれと考えながら歩く彼らの眼下では、どこまでも続く 大地がはるかな空と溶け合っていた。その道でさえ、春の生きるものの息吹き、 夏の強い陽射しからの強力なエネルギー、秋の大地の恵み、冬の次の春への希望を 与えてくれた。そこは普段よく通る道ではあったが、今見るそれは優しさと安らぎ を与える場所に見えた。ふいにハナコは気付いた。 ノロのように野良猫として猫の尊厳を守るのも良いが、あのニコニコしながら 2人に食事を出してくれた大きなオッサンと優しそうなおばさんのもとで暮す のも、このことと同じなのだ。彼らもハナコから何かを受け取りたいから食事 を出すという行為で、それを促しているのだ。ハナコはノロと別の道を行く事を 選んだ。ノロは何も言わなかった。それから暫らくして、ハナコのノンビリとした 姿が我が家にあった。 露地と言うのは、不思議な場所だ。 通りを一筋入っただけなのに、違う世界がある。通りが時代に沿ってその姿を 変えていくのだが、露地はその流れに逆らい、幾10年もそこに生きた人、生きる 人の痕跡を残していく。春になれば、家から年寄りや御かみさんが梅や少し経てば 桜の賑わいに誘われるように這い出してくる。家の前の縁台や露地の角にある ごみ置き場の横で、あるときは立ち話に花を咲かせ、ある時は時候の挨拶 とともに家に誘われ、時には犬の散歩の途中で子供たちに囲まれる。 昼は子供たちの遊び場として、その声に誘われかのように、家でくすぶっていた 大人たちをも引きずり出す。 少し前までは、露地の多くは舗装もされず、雨ともなれば、ぬかるみと化し、 露地に住まう人々は大いに迷惑をしたものであるが、それが時候の挨拶ともなり 人々のつながりの一つともなっていた。夏には、垣根越しに夕涼みの一刻を 仕事から帰る人のなごみであり、安らぎの場所でもあった。家々の中の団欒の 光りが周囲を照らし、その開放感が暑さに負けそうな人の心の支えともなった。 一番、露地が華やぐのが、秋の夕べである。特に満月とその光の下で迎える 日々は柔らかな適度の涼しさと乾いた空気のすがすがしさがそこにいるだけで 明日への力が湧いて来るのだった。日中の蒼い天空と薄く白く流れる鰯雲は、 更にその透明感を高め、そこに集う人々全てを心地よくしていく。 冬は、その寒さが人々を家に閉じ込めるが、子供たちは元気だ。特に雪の 降った日は、露地中に子供の声が鳴り響く。まるで、そこは白く小さな遊園地。 白く降り注ぐそれが金粉の如く、子供たちに降り注ぎ、笑顔と嬌声を もたらす。 ふと目の前を自分が走り去る。ベーゴマのぶつかる音、やめんこの跳ねる世界 がそこにある。皆の輪の中で、遊ぶ自分がいる。横でニコニコとそれを見守る 母がいる。子供の背丈ほどしかない板塀の向こうからは、洗濯物を干しながら、 これも近所のオバサンたちと高笑いの会話が続く。 白い割烹着のオバサンは頭をうしろにのけぞらせて笑っている。 彼女たちの笑いは、身体の奥底から湧き上がってくるようだ。露地と言う狭い空間で あるが、蒼き空の下で広々とした海を目指し、深い水をたたえ、のびのびと流れて くるたくさんの川の響きのように、子供たちの声を掻き消すかのように。まだ若い 娘のような奥さんはくすくす笑った。ひとつひとつの喘ぐような笑いと甲高い声が、 眼に見えない紐をひっぱる眼に見えない手によって、この露地に満ちてくる ようである。 その中に、屈託なく遊ぶ自分がいた。多分、これは願望だ、と思った。 正直を言うと、ライはその雌猫の顔を、初めにちょっと見たときは、 「ちょっといいな」と思った。が、つくづくと見ているうちに、だんだん 方々にアラが出てきて、美人でもなんでもないと感じ出した。ただ、 足が長く、身体全体がすらりとした、胴のくびれた、尻の大きい、 白く長い尻尾、その白さの目立つ体全体がある種の味わいのある肉付き が、美人であるかの如く猫たちの目を欺くだけで、橙のように円い顔の造作を、 一つ一つ吟味すると何処と言って取り得がない。鼻は高いけれども黒く大きいし、 眼は細く長く目尻が軽薄そうに下がっているし、いやに色の紅い薄い唇が 蓮っ葉らしく大きく切れて、しかも、鳴くと三日月型に大きく裂けるようだし、 悪く言えばこの街にはこのくらいな御面相はいくらでもある。それに、若い くせに雄猫を向こうに回して、威張り散らし頗るつきの強情のように見えて、 あまりいい気持がしなかった。 家もその住む人と同じく様々な顔を持つ。 コンクリートで全てが覆いかぶさられたような無機質な顔の家、白い石塀と 僅かな枯れ木の如き梅ノ木が1つのみの殺風景な庭、その佇まいの単調さから 清潔と言うよりも人の気配のない家の様だ。多分この家の人は冷めた心の 持ち主なのであろう。その隣りは、木々が家を占拠したごとく、家の佇まいよりも 桜、百日紅、樫、花見月、ゴールデンクレストなどの木々が生茂りその下には 五月、ツツジ、雪柳などの小粒の花が足元を多くの色で取り囲んでいる。木々は 自然体で伸びやかに育ち、四季折々の草花がその下で自分たちの命を咲き誇って いる様でもある。ここの主は、ジーパンにTシャツでノンビリと出てくるのでは。 瓦葺の屋根が重々しく周りを睥睨する板壁の和作りの家には老夫婦がひっそりと 住んでいるのかもしれない。紅い瓦に黄色の壁、緑の芝生に合う形で作られた 小さな煉瓦の花壇、そしてそこに芽を出している黄色のチューリップの群れ、 ここは新婚さんがいるのかもしれない。 この小高い丘から街一面が見える。よく見るとこの丘と反対にあるこんもりした姿の 森の間からは、夕陽にそのきらめきを見せる琵琶湖が家々の上に浮かぶような形で 垣間見られた。家々は西から一直線に指す光りを浴びて、紅く燃えているようだ。 黒や茶色の屋根が幾重にも重なり東の彼方に消えていく。蒼い空と屋根の重なりが 少しづつ色を失いつつ、やがて来る暗闇の時に合わせるかのように徐々にその景観を 整えている。主人は、もう17年か、と思った。ここへ移住して来た時の屋根と 連なりの記憶は薄くなっていたが、これほどの連なりになっていたのをあらためて 見た思いであった。そして、夕陽の先を見れば、うす赤く染まった中に比良山が その稜線を黒く引き、いつも見る姿とは違うようにも見えた。数羽の鷹であろうか、 その赤薄い空の中をこちらの森に悠然とした体で、飛んでくる。岡の後ろの森に 数本の高い杉の木があるが、そこが棲家なのかも知れない。よく見れば、その森も 杉を中心にまばらな木々の群れとなり、以前と比べて小さく萎んだ形になっている ような気がした。鬱蒼とした木々の塊りではなく、木々それぞれがその姿をさらした 姿となり、その間を落ち行く陽射しが数状の光りとなってこの丘にも届いていた。 丘には、黄色やピンクの名も知らぬ小さな花々がそれぞれの色の群れをなしており、 数羽の雀がなにやらつまびやかにさざめきながら群れていました。 主人の顔は大きく変わった。冬がその全てを支配し、黒と白の世界になった。 眼は、湖の黒く重たい雲に覆われた灰色の水面の如く悲しさを満たしている。 眉毛は、冬の風に吹き飛ばされた丸裸な木々の黒い小枝ようにたわんでいる。 肌は、比良の山並の冬のわびしげな薄緑色を帯びている。顎は、その直線の 山肌を削り取られた伊吹山無様な冬の稜線だ。高い額は、広々とした湖面で 白い波頭を見せるように思考の流れを乱れさせている。 狼殺しと鷹追いの一人二役をやっているかのように、彼の戸口 から一方を追い払い、窓の下枠から他方を入れまいと、昼夜働く。 自分のブラウスの袖口を彼の青いスーツのポケットに入れた。 スカートの裾をズボンの脚に絡めた。もう1着のドレスを彼の青いカーディガン の腕で包んだ。目には見えない何人ものモーリーんとハロルドが衣装ダンス の中で、外に踏み出すチャンスを待っている。 それを見て彼女の顔に微笑が広がり、やがて彼女はなみだにくれた。それでも、 タンスの中身はそのままにしておいた。 ハロルドは、鏡の中の、おぼろげにしか覚えていない顔と対面した。 皮膚が黒ずんだ襞となって垂れている。その下にある頭骨を包むには、 皮膚が大き過ぎ、余った部分が下がっているという感じだ。 額と頸骨のあたりに切傷が5つ、6つ。髪の毛とひげは思った以上に ぼさぼさ、眉毛と鼻孔からは針金のようにごわごわした長い毛が 飛び出している。もの笑の種とはこの事だ。はみ出しものだ。 手紙を出すために家を出た男の面影はどこを探しても見当たらない。 歴史認識 最近、ゴードン教授らを中心に歴史認識のキチンとした対応への宣言が出された。 彼によれば、日本が出そうとしている阿部首相の戦後70年の声明に対して、 中国、韓国の民族意識の煽るための偏見的な対応に憂いを表している。 確かに過去の歴史問題の対応は難しい事が多い。これをもう少しキチンと 事実認識を基本として対応して欲しいと思う有識者の想いであろう。 これに賛成する人も居るが、阿部首相が出すこの時期を狙うという事は 政治的な思惑があるのでは、という学者も居るようだ。 この点で2つのことも考えなくてはならない。 一つは、最近の意見の異なるものの極端な排除とそれを受け入れないという 風潮である。卑近な霊では、ヘイトスピーチの増加や異なる意見の出版物の 発売停止などの偏った行動の増加である。もう一つは国による歴史の伝え方が 違い、それによって若者が間違った方向に向けられていることへの懸念である。 それは中国、韓国、日本の学生の直接対話でも明らかな様である。 50代第二の人生 企業のリストラの動きは変わらない。業績が良いといっても、昔の勢いを 持っている企業が少ない中、人件費の重みは大きい。 NHKで40代後半、50代の人の第二の人生に向けた自分探しの映像を見た。 この歳になると、過去の栄光、自身の固定観念があり、「じぶんとはなにか?」 にキチンと向き合うのは中々に難しい様だ。 人生塾では、まず「自分史」を書かせ小さい頃、若い頃に熱中した事、楽しんだ事を 見つめ直してもらう。ここまだ新鮮な時代の想いを見て発見し、第二の人生で やりたい事に気付いてもらう。自分の原点を見つける作業が主となる。 ある人は、「やはり私はモノづくりにこだわる」を結論し、ある人は 「人生の出会いを大切にしていきたい」という形で自分を再確認する。 自分の心を問い直すのも良い事だ。 彼が好きな曲がある。馬場信英の「スタートライン」、正に今の自分の心境なのであろ う。 私はこのような局面にならなかったが、自分で自分の道を選んだつもりである。 それがただしかったか、どうかは死での旅に出るまで分からないのであろう。 それも又人生である。 目利きビジネスが盛ん。 インターネットの拡大で、多くのものがクリック1つで手に入るようになった。 しかし、情報の処理よりもその発生の方が圧倒的に多くなり、ある調査では、処理量は 数%と言うデータもある。このような状況をビジネスの一つとして捉えた様々な ビジネスモデルが登場している。 自身の着たい衣服をスタイリストなどのプロに任せるサービスがある。 air closetと言う会社が始めた。自分の好みや着てみたい色などを登録すると、 それにあわした3点ほどの服が届けられる。それもレンタルも可能。 どうしても、自分の思考から抜け着れない人がプロの智慧を借りて新しい自分の 姿を見出す。お互いがwin-winの関係が成り立つわけである。 服装だけではない。食べ物の選別や読みたい本の選択まで、幅広く目利きの力を 活用したビジネスがある。岩田屋と言う本屋が紹介されていた。 また、新製品開発でもこの目利きの力を活用し始めている。 各地域にいる中小企業とのつながりの深いコーディネータ(産業コーディネータ) のネットワーク化を進めている会社がある。リンカーズは地域で活躍している 地域の中小企業支援の専門家を登録して、ある新製品に必要な技術を持っている企業 とのマッチングを図る。過去にも、マッチングの仕組みやシステムが行政を中心に 色々と作られたが、思うような効果は上がっていない。中小企業の持っている 技術を評価し、その専門家を信用すると言った人の要素を考慮してなかったから である。 優秀な目利きの人は、流行への鋭敏なセンスと情報に加えて顧客側の個性の 把握がきちんとできる人である。 最近は、単なる情報提供のビジネスでは満足できない顧客が多くなっている。 マッチングを基本とするビジネスでも、顧客側の個性や想いをきちんと把握し、 それにあわしたお任せとしてのビジネスが出来ていないと中々に難しい。 また、一時はやりかけたシェア、マッチングのビジネスも顧客側が選べる スタイルでないとこれもその拡大は難しくなる。 この点を克服したのが、クラウドワークスであり、街コンなのであろう。 私自身も、その様なマッチングのシステムを作ったが、大きな効果は得られなかった。 一人一人の専門家と中小企業とのつながりを上手くシステムに盛り込めなかった からであろう。実は、この課題は以前からも指摘されて来た事でもある。 今回も今後上手く行くのか、不明であるが、是非大きな成果をあげてもらいたいもの。 琵琶湖特有の食文化を広めようと、安土城考古博物館(滋賀県近江八幡市安土町下豊浦 )などが選考を進めてきた湖魚のブランド「琵琶湖八珍」に、ビワマス、コアユ、ニゴ ロブナなど8種の魚介類が選ばれた。 11月に同館が発表した湖魚料理の人気投票の結果を基に、識者や観光関係者らでつく る、県ミュージアム活性化推進委員会の選定委員が議論を重ねた。ほかにハス、ホンモ ロコ、イサザ、ビワヨシノボリ、スジエビが入った。 選ばれた8種のうち5種が琵琶湖固有種で、料亭から家庭料理まで広く親しまれている 。人気投票で上位だったウナギ、アユ(大アユ)、シジミなどは供給量や独自性などの 観点から外された。 「八珍」を広め、湖魚料理に親しんでもらおうと、同館などは1月から4回「琵琶湖 八珍カルチャー&ツアー」を開く。湖東地域の料理店で、同館の大沼芳幸副館長が湖魚 の生態や漁法を紹介し、八珍料理を味わう。 19日の第1回では愛荘町で酒蔵を見学し、ホンモロコとイサザを舌と耳で学ぶ。参加 費5千円。問い合わせ、申し込みは休暇村近江八幡TEL0748(32)3138。 「鰉」 ヒガイは、漢字で書くと「鰉」と書きます。これは、明治天皇が琵琶湖水系の瀬田川に て獲れたヒガイを食したところ、非常に好まれたことから付けられた物です。 日本に生息するヒガイは3種存在しますが、霞ヶ浦に移入されて現在繁殖している種 は「ビワヒガイ」という種で、最大20cm程に成長する種です。霞ヶ浦には、水産資源と して琵琶湖よりの移入が大正6年に行われ、その後も数度の移入が行われて現在に至っ ています。他水系でのヒガイの分布は、「カワヒガイ」が濃尾平野以西の本州及び九州 北西部に生息し、「ビワヒガイ」「アブラヒガイ」は琵琶湖のみに分布していましたが 移入や湖産鮎の放流に混じりかなりな範囲に分布を広げてきています。 ヒガイ類はタナゴ類と同様に二枚貝に産卵する習性がありますが、タナゴ類が鰓葉腔 に産卵するのに対してヒガイ類は外套腔に産卵します。また、二枚貝がない場合には石 の隙間などにでも産卵します。 ヒガイは白身の魚で、味は非常に淡泊なため天ぷらにして食べるのが一般的です。( 骨は比較的硬めです。) ヒガイを飼うには? ヒガイを飼うのは特に難しい物ではありません。飼い方の概要としてはタナゴの飼育 法に書いているものと同様ですので、そちらをご覧下さい。ここではヒガイ特有の事項 を取り上げます。 ヒガイは通常警戒心が強いため、水槽に入れてから数週間程度は餌を食べないことが あります。しかしそのうちに食べるようになりますので無理に食べさせようとしなくて も大丈夫です。慣れれば他の魚よりもなれなれしいというか図々しいと言うかの状態に なります。また、餌の問題としては元々肉食が強いため(熱帯魚・金魚のフレークや粒 状の餌も食べます)冷凍アカムシや糸ミミズなどを併用します。 産卵期に水槽内に二枚貝を入れておくと雄同士での争奪戦が激しくなるため、水槽に 収容する構成に注意が必要です。雄雌1つがいのみを入れるか繁殖させる予定がない場 合は二枚貝を水槽から出してしまいます。 「いさざ?」(?いさざ)魚偏に「少」がつくが漢字変換が出来ないようだ。 イサザは、琵琶湖固有のハゼの一種。「躍り食い」や「卵とじ」で有名なシロウオの俗 称も「イサザ」と言いますが、まったく別の魚です。昔からなぜか獲れなくなる時期が あることから、漢字も「魚」偏に「少」と書いて「?」(いさざ)と読ませます。佃煮 の他「じゅんじゅん」という鍋で食べられることが多く、白身でありながら濃い味付け に負けない独特の風味があり、湖魚のなかでもファンが多数います。 普段は水深70m前後の深いところにすんでいますが(ちなみに琵琶湖の最も深いとこ ろは約100m)、桜の花が咲く4月頃、湖岸近くの岩礁帯にやってきて、浅瀬で産卵 。オスは孵化するまで卵の世話をします。主な漁場は、琵琶湖でも水深が深い湖北が中 心になっています。 長浜市にある尾上(おのえ)漁港は、竹生島(ちくぶしま)や琵琶湖の最北端に突き出 た葛籠尾(つづらお)半島が間近に迫る風光明媚な港。漁船からのおこぼれを狙うユリ カモメやサギなどが飛び交う中、朝9時前に漁港に伺うと、すでに漁師の松田さんが奥 さまと一緒に今日とれた魚を選別していました。 「ほら、これがイサザやで」 松田さんが差し出した魚は、体長7cmほど。薄茶色で頭と口が大きく、ひょうきんな 顔をしていて、なんだかかわいい! 「腹が白いやろ。普段は湖底に、腹をつけて暮らしてるんや。」 しかも、口やお尻から・・・、ぷくっと浮き袋などが出てます。 「このイサザは深さ70mぐらいのとこで獲ったもんやから、水面に出たとき水圧の変 化で浮き袋が飛びでよるんや」 琵琶湖は、竹生島の南あたりで深くなっていますが、イサザの漁場もそのあたり。漁港 から船で5分ほど走ったところ、葛籠尾半島の先端である葛籠尾崎のすぐ近くにありま す。 イサザ漁は、主に冬季に沖(ちゅう)びき網で行われます。これは、長いロープの先端 に取り付けた網で底を引きずり、イカリで固定した船へ巻き上げるという、底びき網の 一種。湖底から獲られたイサザは、水面に出ると水圧の関係で、お腹を上にした状態で 浮き上がってくるので、それをすばやく網ですくいとるんだとか。 穏やかに見える琵琶湖ですが、強風が吹き荒れることもあり、湖に慣れた漁師さんが遭 難することも。特に冬場、突風にあおられて湖に落ちれば、凍るような水の中では致命 的。それゆえ漁に出る前は、雲のカタチや風向きを見て、悪い風が吹かないかを見極め られるようになることが、一人前の漁師への第一歩です。 「伊吹山のてっぺんに雲が出ると、北西の風が吹く前触れ。漁に出られんから私らは" 貧乏風"とゆうとるけどな(笑)。大津から吹いてくる南西の風もよくないし、春先に 比良山から吹きつける比良八荒(ひらはっこう)も恐ろしい。こんな、急に吹く強風を 私ら漁師は"ハヤテ"と呼んでるんや」 結婚以来ずっと一緒に漁をする奥さまも、何度か「頭の上に波がきて死ぬかと思った」 というほど。そんな琵琶湖の変貌ぶりは、澄んだ湖面からは想像もできません。 田さんのイサザ漁は、朝の6時頃に港を出発。以前は漁場で3回操業したといいますが 、最近はイサザが少なく、今日は2回操業しただけ。「昔は1回で50~60kgは獲 れたもんやが」と松田さんはため息。「今日は12~3kgぐらいかなあ。トロ箱の半 分にもならん」 もともとイサザは、周期的に漁獲量が大きく変動することが知られていますが、多いと きで400tを超えていた漁獲量が、現在は数十tにまで減少したまま回復してきませ ん。一時はまるでとれなかった時期があり、「幻の魚」といわれていたほど。ここ数年 で少し漁獲が盛り返してきましたが、最盛期にはまだまだ及びません。 深いところで操業するイサザの沖びき網漁のロープは、約1000mにおよぶ。漁船は ロープで一杯。 湖北名物、イサザの「じゅんじゅん」 イサザは、大豆と煮た「イサザ豆」や佃煮のほか、湖北地域では、すき焼き風に煮た「 じゅんじゅん」という料理でよく食べられています。松田さんの家では、「ネギと油あ げ、麩を入れ、醤油と砂糖で甘辛く煮る」のだそう。正月の定番料理で、帰省した家族 や親族が楽しみにしている郷里の味なのだとか。 「イサザは、白身の淡泊な味でおいしいですよ。特に秋から1月頃のものは、骨も柔ら かくておいしい」と奥さま。 ほかに、唐揚げや味噌汁にしても食べるといいます。 「そやけど、今は数も少のうなって、みんな売りもんに回してしまうから、家で食べる ぶんはないわな」と、松田さんも少し寂しそう。 少なくなったイサザですが、冬季に長浜市など漁港近くの道の駅や湖魚専門店では、" 運"がよければ手に入れることができます。冬の琵琶湖の貴重な味覚を召し上がってく ださい。 氷魚(ひうお) 琵琶湖には、冬だけにとれる特産品があります。それが、氷魚(ひうお)。鮎の稚魚で 、大きさは3~6cmくらい。体が氷のように透き通っているため、「氷魚」と呼ばれ ています。 氷魚は、釜揚げにするのが一般的。「しらす」のように熱を加えると白くなり、身はし っとりしていて、舌触りは滑らか。そこはかとなく鮎とわかる繊細な味わいは、琵琶湖 の冬の味覚として愛されています。釜揚げのほかにも、かき揚げや佃煮などでも食され ています。 氷魚が主に水揚げされるのは、12月から3月頃まで。透き通っている氷魚は、やがて ウロコができ、体型も変化し、5月頃には小鮎(コアユ)と呼ばれるようになります。 透き通る体をした氷魚。 朝の和邇漁港では、料理店などの専門業者に交じり、近所の主婦数人が氷魚漁から帰 る船を待ちわびていました。聞けば、自宅で釜揚げにするのだとか。湖近くに住む人だ けの贅沢な楽しみです。 そこへ漁船が待望の帰港。甲板に設けられた水槽の中には透明な氷魚が元気に泳いでい ます。すぐに漁港でハカリにかけられ、次から次へ、キロ単位でまたたくまに引き取ら れていきました。 「3月のいまの時期は例年通りの漁獲量ですが、今年の1月と2月は氷魚は不漁だった んですよ。天候が悪く、船の出る日数が少なかった。といっても、30年くらい前とは 比べ物になりませんがね。あの頃は、それこそ船いっぱいにとれたもんです。」 そう話すのは、水揚げの様子を見ていた志賀町漁業協同組合の組合長、礒田さん。湖西 にある同組合は組合員42名。和邇漁港と北小松漁港を根拠地とし、県下でも有数の氷 魚出荷量を誇ります。 琵琶湖独特の漁法、エリ漁 「琵琶湖の漁には、季節や魚の種類によりさまざまな方法があるんですが、この時期の 氷魚は主にエリ漁です」 エリとは琵琶湖の伝統的な漁法で、定置網の一種。湖岸沿いを車で走っていると、岸か ら沖合に向けて杭が並んでいるのが見られます。これを上空から見ると、矢印のような 形をしています。これが、エリ。湖岸近くに来た魚を矢印の両側に張出した「ツボ」と 呼ばれる部分に誘導し、ツボに仕掛けておいた網を引きあげて捕獲する漁法です。志賀 町漁業協同組合では、丹出川(たんでがわ)から高島市の白鬚(しらひげ)浜あたりま での湖岸22kmの間で15のエリがあるといいます。 「この時期の氷魚の習性は単純でね、夜に岸辺近くにむらがり、夜明けになると沖に出 て行くんです。その時、障害物であるエリにぶつかり、誘導されて網(ツボ)の中へ入 ります」 氷魚漁の船は、水槽のある本船1隻が小舟2隻を伴って朝の6時くらいに港を出発。エ リのツボに着いたら底網を機械であげ、残りの網を小舟に乗った漁師さんが手で繰りな がら引きあげていきます。 エリに使う網はデリケート。長さ30m近くになるものもあり、引きあげるのも、引き あげてからの作業も大変。 エリ漁で使う網を手にする礒田さん。氷魚漁は網目が細かい。 「藻がからみついて、手入れに苦労します。琵琶湖が汚れてきているんでしょうねえ」 と、礒田さんもため息。 「琵琶湖の漁も、琵琶湖の魚も好きで漁師をやっているので、琵琶湖が年々汚れ、在来 の魚が減っていくのは悲しいことです。私ら漁師も、藻の掃除などをやっているのです が、なかなか追いつかない。氷魚も、本当においしいし、しかもこの時期の琵琶湖だけ にしかとれない魚だから、もっとたくさん獲って、多くの人に食べてもらいたいんです が...。」 とはいえ、湖岸沿いの湖魚専門店などでは、冬の季節には氷魚の釜揚げや佃煮を手に入 れることができます。皆さんもみかけたら、この時期の琵琶湖だけが生み出す新鮮な味 をぜひ楽しんでください。 最後に、礒田さんから聞いた、あまり知られていない「ゆで氷魚(ひお)」の作り方を 。塩分を効かせて固めにゆでた氷魚を陰干しで2日間干すのだそう。「ちりめんじゃこ の味の濃いようなものになり、旨い」とのこと。また、生の氷魚をすき焼き風にして食 べてもおいしいそうです。機会があれば、試してみてください
日々の記録12(東海道五十三次、郷土食、平城宮、健康ツアー琵琶湖八珍、ローカル 鉄道、古民家再生、平和の要件)
台風が過ぎたとはいえ、夏の顔にならない。陽射しもまだそれほど強くはないし、 なんと言っても、この蒸し暑さはなんなのだ。 体の隅々に水が染み渡るように湿気が私の身体を被いつくす。毛穴からは その湿気が逆流するかのように汗が染み出してくる。首筋と額から頬にかけて 一筋、二筋と汗が流れて行く。まるで私のけだるさと憂うつな気分を声なき 声として洗い出しているようだ。 黒い雲が駆けていく。その間を縫うように白い雲を突き抜けるかのように 陽射しが私の顔に届く。白い雲の上にはさらに高層の雲が秋の天空を 思い出させるかのように霞み光る太陽のまわりにゆっくりと一筆を描くか のごとく流れ過ぎ行く。それは蜘蛛なのであろうか、視界の端にうごめく 黒いものがいる。さらには、鼻息荒く動き回る我が家の孫娘、犬のルナ、 が私の傍で寝そべっていたと思うと数秒後には、垣根の横で忙しく吼えまくる。 そんな光景をぼんやりと見ながら私はリクラインの椅子にもたれ、この やるせない気持と体の湿気に身を任せていた。目を閉じれば、全てが 闇になるのではない。闇になるかどうかは心のなせる業なのだろう。 今は、目を開けても暗闇が見えるのみ。人間とは不思議なものだ。 転換点は、古い友人たちと一緒に神戸に出かけた時だった。神戸から京都へと ただ、思い出を探すが如く、飲み歩いた。 あの晩、和邇は久しぶりの午前様となり、ぎこちない手つきで玄関ドアの 鍵穴にキーを差し込み、その友に声をかけ、そのあと靴を履いたまま 階段を上がり、そのまままっすぐに夫婦で使っていた寝室に入っていった。 その副が乱雑におかれた中に、何もかも着たままでベッドに倒れ込み、目を閉じた。 真夜中、自分がどこにいるのか気づいて、小さなパニックの痛みに 襲われたが、やがて痛みは安堵感に変わった。終わった。何が終わったか 正確には分からなかったが、ずしりと重く漠然とした痛みが消えたことだけ ははっきりしていた。羽毛布団を引き上げ、妻の枕にしがみついた。 妻がかってよく使っていた石鹸と妻のにおいがした。暫くして眼が覚めたとき、 かってと同じ軽やかさが温水のように全身に広がっていくのがわかった。 それ以降、和邇はそれまで使っていた書斎から自分の衣類を抱えて運び 出しては、衣装ダンスの妻の衣類が掛かっている側とは反対の端に掛けて 行った。自分に努力目標を課していた。毎日妻がいなくても、一つ新しい事を しようと決めたのだ。それが彼女に対する愛情なのだ、とおもった。 もっと別のやり方をすればよかった、と思うことが妻にはいくつもあった。 朝の光を浴びてベッドに横たわったまま、あくびをして伸びをしながら、 からだを右から左へとそして、両手でマットレスの広さを感じた。四隅の 人の体温の届かないところまで触ってみた。暫くして、その手で自分に触れた。 頬に触れ、喉に触れた。顔から体全体へと輪郭をなぞった。お腹と腰周りの肉の 多さに、そして肌はたるみに、指先はもう若い頃のあの敏感さをなくしている。 結婚して既に40年近く、白く光る天井に影が差し、少しづつ動いているでも ある。時の流れをそのわずかな動きからあらためて感じる。この小さな動きが 積み重なり、肉体の変化として、心の変化として、今の自分がいる。そして 夫と息子がいる。衣装ダンスのドアが僅かに開いていて、夫のシャツの袖が 見えた。胸をえぐられるような、それでいた何か新鮮な痛みが走った。 横にいつものようにナナが来た。その白い和毛を擦り付けてくる。衣装ダンス の扉がわずかに開き、うってつけの仕事が向こうから勝手に姿を見せた。 ツィードのジャケットが目に留まった。胸をどんと叩かれたような気がした。 何かが胸の内側に閉じ込められているような感じだ。そういえば、ずいぶん 長いことそのジャケットを見ないようにしてきた。 それをハンガーから外し、身体の前で広げて夫の胸の高さに上げてみた。 歳月が後景にしりぞき、自分たち夫婦の姿が浮かび上がってきた。 そのあと、自分のものと彼のものを一着づつペアにした。自分のブラウスの袖口を 彼の青いスーツのポケットに入れた。スカートの裾をズボンの脚に絡めた。 もう1着のドレスを彼の青いカーディガンの腕で包んだ。目には見えない何人もの 夫と私の衣装がそのタンスの中で、外に踏み出すチャンスを待っている。 それを見て彼女の顔に微笑が広がり、やがて彼女はなみだにくれた。それでも、 タンスの中身はそのままにしておいた。 和邇の頭は次第しだいに澄み渡り、身体が溶けた。雨が家々の屋根と 道路を打ち始めた。けれども、その音はやさしく、あくまでも、寛容で、 幼い息子たちを寝かしつけた時の妻の歌声を思い出させた。やがて、 雨音はやんだが、和邇にはむしろそれが寂しかった。いつしか雨音が 彼の一部になっていたかのようだった。いまや彼自身と地上との間に実体 あるものなど何一つ存在しないような気がした。 夜明け前に眼が覚めた。片肘をついて起き上がり、窓辺の隙間から新しい 日が夜の闇を追いやり、地平線にあくまでも淡い夜明けの光がしみこんで 行く様を眺めた。鳥たちがいっせいに歌い始めた。かなたの風景がはじめは ゆっくりと浮かび上がり、やがて、新しい日が自信たっぷりに立ち現れた ときのことだった。空は、灰色の淀んだ光りからクリーム色に、クリーム色 から淡い橙色に、更に、藍色に、そして、透き通った青に変化した。 霧の柔らかな舌が道路を這い、雲の中から丘の頂と人々の家が立ち上がってきた。 西に咲く月は早くもおぼろな影となり、その姿をかき消され始めていた。 キジ虎の言う場所を目指して北上しながら、足取りがいやに軽くなり、歩を進める ごとになんの苦もなく前進できるできるようになった。片足を上げて、次にもう 一方の足を上げる、などと考える必要もなくなった。歩くことは、他の四人を 活かし続ける力が自分には備わっているという確信の延長であり、チャトの肉体も いまやその確信の一部だった。やがて、何も考えなくても丘を登って下ることが でき、日頃の怠惰の身体が歩くに相応しい身体になりつつあるような気がした。 眼に映るもののほうに余計に心を奪われることもあった。そんな時は、周りの変化を 表現するに相応しい言葉を見つけたくて、あれこれと思い巡らせた。主人の使う人間 の言葉であり、仙人猫のいう猫語である場合もあった。それでも、時には、眼に映る 様々な光景がチャトの考えを入り乱らせ、ごちゃごちゃになって訳が分からなく なることがあった。時には、自分のことにも、歩くことにも、周りの景色にも、 全く意識が向かない時間もあった。そんな時には、何も、少なくとも、言葉として 表現ができるようなことは考えていなかった。ただそこに存在するだけ。 肩に太陽を感じ、森の静かな息ぶきを感じ、翼を広げて音もなく大空を舞う カラスアゲハの優美な姿を見守った。自分が自然の一部になっていくような気持 になっていた。仙人猫の言う猫の転生と言うものがこんなものなのか、とも 思った。 東海道五十三次 http://japan-highlightstravel.com/jp/themes/201505/ http://japan-city.com/sina/107/107a90.html →原点回帰のねたになる TDK57 二川が人気 寺社建築に関する勉強をしていると、 「檜皮葺」 だとか 「?葺き」 って出てきますよね。 ※読み方は「ひわだぶき」 と 「こけらぶき」です。 檜皮葺はヒノキの皮を使って葺いていきます。 ?葺きは木材を薄くしたもの、板厚は2~3mmだそうです。 そこでハッと気づきました。 「こけらぶき」の「こけら」って、「カキ」の漢字と同じじゃなかった!! コケラより、カキの方が一画多いのでした! 神社の勉強をしながら日本語の学びもありました。 郷土食をどう伝えるか 中沢弥子ひろこ 郷土食には先人の知恵と技が詰まっている。日本家政学会の食文化研究部会では 日本各地の食文化に触れる機会が多いが、どこでもその土地の気候風土を生かした 食がある。いっとき、何でも冷凍、冷蔵すればいいと言う事で乾燥の技が遠ざけられた 時期もあったが、昔の業を大事にしていまの人の嗜好にあう食材や料理を工夫 することで新しい形になれる。手間ばかりかかって美味しくない郷土色は 淘汰されていく。 郷土食は地域の人の濃密なコミュニケーションが磨き上げて来た側面もある。 昔は行事や農作業などで寄り集まる機会が多く、そこで作り方や食べ方の情報交換が 行われた。地域の年寄りが作る惣菜やおやつはその食経験の深さが違い、大家族の 職の世話をしてきた経験が健康的で美味しいものを作る努力がそこにある。 例えば、長野で見られる寒の利用だ。寒さと風を利用した、凍み大根、切った餅を ワラで結んだ凍り餅、凍り豆腐、などがある。 奈良平城京の話。ブラタモリ 奈良はならしたが語源との話もある。 平城宮は朱雀大路が80メートルほどもある大通り。 碁盤の目のように四角に伸びているが、現在の奈良駅周辺は出っ張った形に なっている。これは地震により隆起した高台に興福寺を、その隆盛を 見せた藤原不比等が一族の権威を示すものとして建立した。ここの 北円堂は当時はここから都が一望できたという。 この地域を外宮とも言っている。 そのため、駅周辺の奈良町や春日大社は傾斜の町並みである。春日大社の 四つの神殿も少しづつ段差をもって、建てられている。また、東向き 商店街やなら町の商店街も京都のような鰻の寝床風の町屋であるが、 家の中も表から裏へと少しづつ傾斜をなしている。 また春日大社は御カサ山をご神体としている山岳信仰を基本とした 神社であり、たとえば参道の1つである剣先道は御かさ山に直接延びている 道であり、特別な行事にしか仕えなかった。 街歩きツアーが今盛んである。 日頃は通っているが、いざとなると知らない露地や建物、旧跡などをゆっくりと 味わう。ポイントはよく紹介される人気スポットは避ける。 地元に根付いたお店、隠れた旧跡、名所などを半日程度でめぐる旅。 例えば、鎌倉などはその様な場所が多く、人気があるとのこと。 京都ほかでもあるのが、銭湯めぐりやマンホールウォッチなど探せば その対象は色々とある様だ。目的を一つに絞り明確にすること、視点を 変えてみることが大事である。 例えば、「山の音」には、鎌倉の神社や旧跡、鎌倉文学館がうまく 描かれていることもあり、その場所を辿るのも1つである。 琵琶湖八珍 http://caddiswing99.seesaa.net/article/419559808.html http://ameblo.jp/bobbin-odamaki/entry-11737261368.html これはびわ湖の魚を、その味覚とともに守ろうと、「鮒鮨」の材料となる「ニゴロブナ 」など8種を選定したのでした。 琵琶湖にいる約80種の魚から、同館や観光関係者らで構成された選考委員会が、琵琶 湖だけにすむ固有種を軸に、県内外の3,300人の人気投票にて選定したという。 その八珍は「ニゴロブナ」「ビワマス」「コアユ」「ハス」「ホンモロコ」「イサザ」 「ビワヨシノボリ」「スジエビ」と、どれも琵琶湖固有種が選定されています。 こうした地域の魚料理を定めたものに、「宍道湖七珍」があり有名です。これは島根県 の宍道湖(しんじこ)の魚料理を選定しています。 ことの始まりは昭和5年(1930)に、島根新聞社の「松井柏軒」が、中国の「西湖十景 」に倣って、「宍道湖十景八珍」を選定したことに始まります。 曲折を経て、昭和33年(1958)にあらためて「宍道湖七珍」が選定されました。その後 幾つかの変更を経て、現在の七珍は「スズキ」「モロゲエビ」「ヨシエビ」「シラウオ 」「コイ」「シジミ」となっています。 全国の専門店で簡単にいただくことができます。わたくしも10年ほど前に、大阪駅の 近くでいただいたことがありました。 琵琶湖八珍の中で、「コアユ」「イサザ」「ビワヨシノボリ」「ハス」「スジエビ」な どは、佃煮(甘露煮)などとして、全国に流通しています。 ところが、「ニゴロブナ」や「ビワマス」に「ホンモロコ」は、滋賀県に住んでいても 滅多に口に入らない高級魚になっています。 「ニゴロブナ」は鮒鮨(ふなずし)に使われますが、近年は産卵場所の減少やブラック バスやブルーギルなど外来魚の食害によって、智行が食べられ漁獲高は激減しています 。 image 鮒鮨はなれずし(現在のお寿司の元)ですから、食べられない人は受けつけにくいと思 います。現に滋賀県に来て求めたものを、米原駅で開けて『腐っている』と捨てられた という、笑えない話があります(なれずしですから腐らしているのです)。 食べ慣れれば、日本酒にこれだけ合う肴はないと思うほど、深みのある味をしています 。残念ながら、贈答用だと30cmほどの子持ちで1万円ほどします。 「ビワマス」は「ヤマメ」の陸封タイプで、海に出ると「サクラマス」になります(厳 密には差がありますが)。 成魚になりますと70cm以上になり、その刺身はトロのようだと言われています。こ れも残念ながら「ニゴロブナ」と同じく。養殖されたものが主流となっています。 「ホンモロコ」は滋賀県というより、京料理に用いられる高級魚になっています。琵琶 湖の貴婦人の名に恥じなく、白焼きは絶品です。 image 最盛期(40年ほど前)には、バケツにいっぱい釣れていたのですが、外来魚の食害の ため最盛期の1/10以下になっています。 滋賀県はすでに、「近江八景」や「琵琶湖八景」などを選定していますから、八珍にな ったと思われるのですが、「セタシジミ」が選ばれていないのが残念です。 image 「ヤマトシジミ」に比べて肉厚で大きく、琵琶湖にしか棲息していません。ところが、 琵琶湖の水質悪化とともに漁獲高は激減して、最盛期の1/120になっているそうで す。とても供給量が確保できなかったのかもしれません。 これら琵琶湖の固有種が観光資源となることにより、環境浄化や養殖の採算性が成立す るようになることを願っています。 琵琶湖ほど多様な価値を内包する湖は、少なくとも日本にはない。古代湖にして太湖 、これだけでも他に無い強烈な個性(湖性)である。さらに、琵琶湖を巡る歴史文化は 、日本の歴史文化の縮図であるといっても過言ではない。 そして、忘れてはいけない湖性に、琵琶湖に棲う魚を対象とした魚食文化の伝統がある 。琵琶湖には1万年にも及ぶ永い漁業の歴史があり、捕られた魚は、その時々の技術に より調理され、食として饗されてきたのだから、豊かな魚食文化が伝えられている事に 、何の不思議はない。しかし、この琵琶湖の魚食文化を国内の内水面(湖や川)と比較 すると、それでも、他地域とは異なる、際立った多様性に気づく。 滋賀県立安土城考古博物館では、2013年夏に、琵琶湖の漁業と食の歴史をテーマ とした特別展「華麗なる漁と美味なる食-魚・人・琵琶湖の過去・現在・未来-」を開 催した。展示に先立つ琵琶湖の魚食文化の分析で、様々な興味深い事象が浮かび上がっ てきた。いずれも琵琶湖の湖性に根差した事象である。 ① 近江の人は淡水魚を生で食べる 一般に淡水魚の生食は、寄生虫のリスクがあり避けられる傾向が強い。しかし、琵琶 湖は違うのである。中、大型の魚は殆ど生食の対象となる。コイの生食は「あらい」と して全国に分布するが、琵琶湖では「あらい」は勿論であるが、普通の「造り」として も賞味される。ゲンゴローブナ、二ゴロブナも「造り」にされる。さらに、産卵期の魚 は「子まぶし」として、茹でた魚卵を文字通りまぶして食べる。小型のフナはジョキと 称して、皮つき骨付きのまま細く刻んで生食する。さらにウグイやハスのような細長い 魚は骨ごと輪切りにして生で饗される。ほかの地域では味わえない琵琶湖の味覚である 。 私は、展示取材、その他の機会に度々湖魚を生食したが、寄生虫の症状はいまだ発症 していない。 ② 野菜とのコラボレーション 琵琶湖では、畑の産物と琵琶湖の産物を併せた料理が多数伝えられている。一番馴染 み深いのは、スジエビと大豆を甘辛く煮き合わせた「エビ豆」であろう。この他に、大 豆と魚を炊き合わせた料理には「イサザ豆」「ウロリ豆」「ヒウオ豆」等が広く食され ている。米どころ近江では、水田の畔に豆を植えることが広く行われていた。「**豆 」は、この豆と、琵琶湖の魚が合わさり生まれた料理なのだろう。この食文化は、琵琶 湖の漁師の多くが農業もおこなう。言い換えれば農民が漁業を行うという伝統に根ざし ている。 同様に、野菜との組み合わせでは、「ジュンジュン」と称される料理が広く食されて いる。「ジュンジュン」とは「すき焼き」のことである。「牛のジュンジュン」は無論 、「カシワのジュンジュン」のような肉類の他に、ウナギ、イサザ、ナマズ、コイ等々 、多くの湖魚がジュンジュンとして饗され、多量の野菜と共に煮込まれる。同じ魚でも 、海の魚にはあまり見られない食文化であろう。 ③ 稚魚・小魚を大量に食べる 海においても、チリメンジャコのように稚魚を集約的に漁獲して、これを加工する食 文化がある。しかしその種類は少ない。 ところが、琵琶湖においては、コアユの仔魚である「ヒウオ」、ビワヨシノボリの仔 魚である「ウロリ」、ハスの稚魚である「ハスゴ」等が盛んに捕られ消費される。その ほか、イサザ、スゴモロコ、コアユのような小型の魚も盛んに漁獲され、利用されてい る。このような小型の魚を集中的に利用する食文化も、琵琶湖の特徴であろう。 ④ 調理への工夫 淡水魚を食べるうえでどうしても気になる点がある。小骨の多さである。これを克服 するため、様々な調理技術が駆使されてきた。 小骨に対応するために多用される技術に「骨切」がある。魚体に小刻みに包丁を入れ 、小骨を断ち食べやすくする技術である。これさえ施せば、ハスなどは淡白な絶品料理 の食材となるし、ニゴイも美味しく食べることができる。 また、醤油と甘味料でゆっくりと煮くことにより、骨まで軟らかくなり、小骨を気に せず食べることができるようになるし、保存性も高まり、家庭の常備菜として重宝され てきた。また、びわこの土産品としても親しまれている。 ⑤ 魚を発酵させる技術 忘れてはいけない調理技術に「ナレズシ」がある。塩漬けした魚を御飯に合わせて乳 酸発酵させた食品で、現在の日本人が愛してやまない「スシ」の原型の食である。そし てその代表がフナズシである。 フナズシの起源は、メコンデルタ地帯にあり、水田の伝播とともに伝わってきたと考 えられている。何故、魚と稲作がセットとして伝播したのか。この謎は琵琶湖岸の水田 開発の様を思い起こすと理解できる。水田の開発は湖岸の低地から始められる。水田は 水深の浅いプールであり、夏には大量のプランクトンが発生する。水田の開発と共に湖 岸に異変が生じた。産卵のために水田に押し寄せる魚群の出現である。水田に産み落と された卵は孵り、稚児は豊富なプランクトンを食べ成長し、琵琶湖に帰る。稲作と魚の 生態の関係を見たとき、湖岸の農民は想った。「魚が稲魂を運んで来る」と。この時、 稔の米と、魚が合わさり聖なる食が生まれた。「ナレズシ」である。そして、この聖性 故に、神祭りの食として定着し、ここから派生した「スシ」が日本人のソールフードと して愛され続けているのである。 琵琶湖には、かくも素晴らしい湖魚に対する食文化があり、これを支える食材として の魚が生息している。まさに琵琶湖にしかない個性(湖性)である。全国、画一的な食 文化が席捲している中、その土地にしかない、しかも、その土地に行かなければ味わえ ない食べ物など、極めて稀な存在である。琵琶湖の湖性が生み出した、食文化の発信は 、内には、湖の湖と共に生きる誇りを、外には琵琶湖に対するあこがれを醸しだす、ま さに最高のブランディングといえる。 琵琶湖八珍の提案 世界には三大珍味があり、宍道湖には七珍がある。何故、琵琶湖に湖魚を対象とした ブランドがないのか?それなら、博物館の特別展の一環として、ブランドを創出し、提 案をすることはできないかと考え、博物館周辺の団体の方々に諮ったところ「面白い・ やろやないか」と話が進んだ。そして、その前段として、博物館来館者を中心に「どの ような湖魚の料理に関心があるのか」を把握する、湖魚料理人気投票を行った。335 0票もの参加をいただき、その結果を分析したところ、1位は「うな丼」、2位は「ア ユの塩焼き」、3位は「シジミのみそ汁」という、何の変哲もない結果となってしまっ た。そもそも、これらの料理素材は、多くの場合、県外産の素材であり、これをそのま ま琵琶湖のブランドとすることはできない。 検討を重ね、得られた結論は、「琵琶湖らしさを前面に押し出す」であり、必然的に 、琵琶湖の固有種をを中心に、食材としての魚を8種選ぶこととなった。食材で選んだ のは、料理を8種に固定するより、食材で選んだほうが、より、湖魚料理の多彩さを発 信できると考えたからである。 結果、以下の8種の魚達が琵琶湖八珍に選ばれ提案された。ニゴロブナ・本モロコ・イ サザ・ビワマス・ハス・ビワヨシノボリ(ウロリ)・コアユ・スジエビである。 湖魚を食べる大きな意味 琵琶湖には、実に多様な湖魚に対する食文化が生まれ、継承され、現代に 至っている。 しかし、その時と場面毎に湖魚を食べる意味合いは変容してきた。ある時は命の糧とし て、ある時は貢納物として、ある時代は嗜好品として。 未来の湖魚食を考えるとき、湖魚が大きな役割を担っていることに気づく。それは、 「琵琶湖の魚が泳いでいる水は、我々滋賀県民、近畿圏の多くの人たちが飲んでいる水 である」という動かし難い事実である。魚が住めないような水は、いかに科学的の浄化 されようが、私は飲みたくはない。魚が気持ちよく泳ぐ琵琶湖であってほしい。そのよ うな琵琶湖にするために必要なことは、琵琶湖に身を寄せる人達が、琵琶湖に対する当 事者になることである。そして、琵琶湖に対する当事者となる一番簡単な方法は、「琵 琶湖の魚を食べる」ことであると思う。琵琶湖八珍の提案を機会に、一人でも多くの人 たちが琵琶湖の魚を食べ、これが泳ぐ琵琶湖にも思いを馳せて貰いたい。 http://www.atw.ne.jp/~suwa_h/FUKUI/FJYOSYA.html えちぜん鉄道 場所: 福井県あわら市など 【 見 所 】 福井市内と永平寺・勝山・芦原温泉・東尋坊などを結ぶ。主に1両で運行されており、 ローカル線の風情たっぷり。車内では全国でも大変珍しい女性アテンダントがご案内。 なごやかな空気が旅情を誘う。 ポイント: <風光明媚><名所旧跡><乗って楽しい!> <アクセス> 地下鉄四条駅から京都駅のりかえ、JR特急雷鳥号で福井駅下車。 えちぜん鉄道福井駅へ徒歩3分。 福井鉄道に新駅ができたのと、一部駅名が変更になったため、北陸の駅更新のため、福 井鉄道福武線に乗ることに した。18切符を利用して9時18分に福井へ到着、328Mで武生へ行き福井鉄道で 取材しながら福井へ戻る予定 だったが列車がない。328Mはダイヤ改正で福井打ちきりとなっていた。419系の 独壇場だった芦原温泉-武生 間に521系が進出している。金沢-福井間の多くの駅で521系4両分ホームが嵩上 げされ、安全柵が新設されて いた。 急遽予定変更、えちぜん鉄道福井駅でえちぜん鉄道・福井鉄道共通1日乗車券120 0円を購入。三国芦原線電車 で田原町へ、田原町から歩いて裁判所前から仁愛女子高校に駅名が変わった電停へ、撮 影後、越前武生行きモ880 +881に乗る。この日は福井マラソンのため、午前中駅前へは入れないため市役所前 で12分間停車する。田原町 福井鉄道 場所: 福井県鯖江市など 【 見 所 】 武生・福井両市へのアクセスに便利。最新型の低床車が田園風景と都市の路面を走る姿 は必見。レトロな車両も健在で、見所は多い。 ポイント: <風光明媚><個性派車両あり><ファン必見> <アクセス> 地下鉄四条駅から京都駅のりかえ、JR特急雷鳥号で武生駅下車(停車しない列車があ ります)。福井鉄道武生新駅へ徒歩3分。 3階建ての駅舎だが、待合室・改札・窓口はすべて1階にある。営業時間は5時45分 - 23 時05分。トイレは駅舎の外側に独立して入り口がある。同じビルには2011年7月から福 鉄バスチケットセンターが入居している。かつて入っていた福鉄観光社は北府駅近くの 福鉄バス嶺北営業所内に移転した。福井鉄道の駅では唯一、行き先案内の電光掲示板を もつ。また2013年4月26日より福井鉄道の中で唯一発車メロディが流れる駅となった。 それまでは発車前に発車ベルが鳴らされていたが、福井テレビジョン放送(福井テレビ )のマスコットキャラクターである「EarEarちゃん(イヤイヤちゃん)」のダンス曲『 ハッピーEarEar ダンス』をアレンジしたものに変更された。 ホーム 櫛形ホーム(2006年4月2日) 2面の櫛形ホームと3線の発着線を持つ。主には両面ホームの2番線が使用される。夜間 滞泊設定駅でもある。 3番線の更に東側には留置線が、福井方面に向かう線路より東側に洗車機を備えた側線 がある。 岐 阜 県 樽見鉄道 場所: 岐阜県大垣市など 【 見 所 】 美しい自然が残る濃尾平野をさっそうと走る。沿線には豊かな自然を満喫できるスポッ トがいっぱい。車両のラッピングもバラエティに富んでいる。 ポイント: <風光明媚><乗って楽しい!> <アクセス> 地下鉄四条駅から京都駅のりかえ、JR琵琶湖線米原駅で東海道線のりかえ。大垣駅で 樽見鉄道のりばへ。徒歩すぐ。 築50年を超える古民家の存続、再生事業に取り組む一般社団法人「おんなたちの古民家 」は、過疎化、高齢化が進む典型的な中山間地域である山口市阿東に拠点を置き、地域 の活性化にも力を注ぐ。東京・日本橋の高島屋本店で今年2月から販売が始まった桐箱 入りの「田楽米」は、同法人によるプロデュースで誕生。国内の名だたる産地の米と肩 を並べる商品として、“阿東米”のブランディングに成功した。 古民家再生と米づくりの関係とは?「おんなたちの古民家」の代表理事・松浦奈津子氏 の挑戦をたどる。 「やるなら一番に」と設立を決意 松浦氏は1981年、山口県錦町(現岩国市)生まれ。豊かな自然に囲まれた山あいの小さ な町で、高校卒業まで育った。山口県立大学でジャーナリズム論を専攻したことをきっ かけに、卒業後は地域情報紙「サンデー山口」の記者を7年間務めた。 行政、経営者、市民活動に携わる人など、山口をこよなく愛する人たちへの「取材」が 松浦氏の“地元 愛”を確固たるものにし、さらに自身を大きく成長させたという。 松浦氏が生まれ育ち、思い出に刻まれた実家がまさに古民家だった。古い建築物にもと もと興味を持っていた松浦氏は、結婚退職後の2010年12月に「古民家鑑定士」(財団法 人職業技能振興会)の資格を取得。その理由は、「面白そう」という直感的なものだっ た。 当時、山口県内には古民家再生を手掛ける組織は存在せず、「やるなら一番に」と思い 立ち、「おんなたちの古民家」の設立を決意。さらに、資格をどのように使っていくか 模索する中、記者としての経験が活かされた。 平和の要件? http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44269
日々の記録13(モノクロ写真家、クラフトビール、バラ園、ブラタモリ仙台、滋賀の 製造業)
和邇には、季節ごとに好きな花がいくつかある。どうして、それと、言われても 明確には答えられない。自分の心の奥底にある何か、がそれを求めているの かもしれない。 それが歓喜を与えるものだったり、安らぎを与えるものであったり、楽しさが 湧いてくるものかもしれない。多分、他の人も同様の感じを持っているのでは、 と思っている。例えば、妻は紫陽花が大好きであった。特に青の色の映えた 大輪の紫陽花は、何時間見てもいいわ、とよく言っていた。和邇が何故、と 聞いても明確な理由を聞けなかった。何と無くこれを見ていると心が静まる、 と言っていたものだ。近所の太田さんも、庭中に、チューリップを植えて 毎春、その黄色やピンクのお椀の姿に、眼を細めていた。彼も、その色に惚れた と言うが、それ以上の答えはなかった。和邇の勝手な解釈でも、顔形の整った いわゆる美人であっても、一般的な綺麗と言う感情は湧くが、その整った 顔や形に自身が歓喜する、楽しくなる、幸福感が増すなどの行為になる、 とは思っていない。自身が意識していない何か、心の琴線と呼ばれるものに 触れることが重要なのだ。さらに、和邇の場合は、昔写真に入れ込んだときから カラーよりもモノクロの持つ見えざる力に共感していた。カラーは、色に よって、人の感情を高めるが、それは本当の写真の持つ力ではない。ある意味、 誤魔かし、とさえ考えている、と言うより確信していた。最近、ある高齢の 女性写真家がモノクロによる神社や社などの風景を撮った写真を見た。 素晴らしいと思った。神社や社の持つ不可思議な雰囲気と神と言う形の 見えない何かを何故かその写真は感じさせてくれた。多分、これらをカラー で見せていたら、単なる風景写真として、人の心を振るわせることには ならないであろう、和邇は写真の前でそう感じたし、現にその写真家もカラーで 数年、同じ題材を撮っていたが、ほとんど評価されなかったと言う。 色と言う人の心を惑わす所作がなくなった分だけ、見る人も写真の持つ力を 感じ取れるのではないだろうか。 夏は、向日葵と百日紅が和邇の好きな花である。 向日葵の茶褐色のパウンドケーキのよう真ん中の種子の周りに黄色の小さな 花びらが太陽を仰ぎ見る姿は、神々しくも見える。その無限のようなエネルギー の発散が身体中をドンと突き抜けていく、様だ。そして、百日紅は、この 暑さの中で一服の涼しさと優しさを与えてくれる。やや遠くからでも映えている そのピンクは、良く見れば、ごく小さなピンクの花が数十となり寄り添って 一つのピンクの華を形作っている。更には、その小さな花一つ一つに黄色の 雌蘂がピンクの花びらに守られかの如く密やかに存在する。この一見華やかだが、 実は密かなるモノ立ちの集まりが和邇に安らぎを与える。 今、チャトと野辺をふらりと、チャトはやや警戒しながら、歩いている。 夏の真ん中とはいえ、朝の夏はその生命力を周辺の木々、鳥たち、花々に ふりまくように、そのエネルギーを抑えている。空は相変わらず透きとおり、 比良山麓の緑も美しく、そして優しく2人を見守っている。今、右手には 朝日に向って向日葵の一群が空の蒼さと山麓の緑の中で、神々しく立っている。 和邇は、暫らくその光景に心を奪われ、立ち尽くしていた。チャトが下から、 早よう行こうやと例の三角眼を和邇に投げかけている。先ほどは、幾つかの 家の庭でピンク色に覆われた百日紅の花に清清しさを覚えた和邇であった。 今日は大満足、そんな気持が和邇を支配していた。 はるか遠い記憶が浮かぶ。親父と母と私、3人でとったちゃぶ台での朝夕の食事 の風景がそこにある。ちゃぶ台に置かれた晩の食事、それは質素と呼ぶべきほどの モノであったのだろう、に頂きますのお礼をして静かな動きの中で、タンスの上に 置かれたラジオの音に埋もれるように過ごした日々。良くある昭和の食事風景が 何かの記憶として残っているのか、小学校1年生ほどであった私の記憶の一片 なのかは定かではない。両親はともに口数の少ない人であったが、そこには、 不思議な温かさを感じたものである。さらに、時が経て、横浜から京都の隣の 市に移ってきたとき、既に息子も3人となり、朝も晩もがさがさと動き回る 一番下の息子と上二人のおかずの取り合い、妻の夫々をたしなめる声、テレビの 騒々しい音など、静けさと言うものが全くなかったが、庭の先に電燈に照らされ ながらも白と紫の綺麗な色を見せる花しょうぶの群れを見ながらの食事は喧騒と 静けさの混在した不思議な時間でもあった。それは、琵琶湖の近くの今の家に 引っ越して来たときでも同じであった、と思っている。ドンと置かれたテーブル を囲んで青年となった息子たちとやや勢いの衰えた私、介護関係の仕事で頑張っている 妻、横浜、京都と続き、相変わらず心のつながりはあったように思える。 そして、2人ではやや広くもあるダイニングで妻とテーブルを囲む10年ほど 前からの朝夕の静かな日々がある。食事を通して家族の絆を感じ、時には口論 となる日もあったろうが、それも翌日には、既に過去の出来事となって、また 5人の夫々の生活が始まる。家族の幸せの形と呼べる1つであろう。時の移ろいに 合わせ、囲む人と食卓の内容は変わってきたものの、5人が心持ちとしてつながる と言う行為は素晴らしいものだ。途中、私自身が午前様の生活となり、4人との つながりが細くもなった時期があったものの、傲慢な私を上手く扱いながらも 妻の一貫した家族をつなげていくと言う意志と行動が幸せの形を作って来たの かもしれない。夫として、父親として立派といえば、先ず嘘になるが、幸せの形 の中で、この人生を過ごせたのは、有難い、この旅でも何人かの人が自身の幸せ が何かを求めている様でもあったが、それをつかめたのであろうか、和邇はこの 絶え間なく行きかう人々の顔を見ながら、一人違う世界にいるようでもあった。 怒りの中に悲しみを見た。 40年ともに過ごした人生だったが、お互いが何も見ていなかった。 それはホンの些細な口論から始まった。息子の生活態度への非難はいつもの調子で あったはずであったが、今回は少し違った。もともと妻はこの息子に対して負い目を 持っているのだ。彼の眼の不調や精神的な不調が生んだときの自分の対応の 悪さから来ていると思い込んでいる。少し前までは、精神的な余裕で彼の日常生活 への非難は適当に聞き流していたが、歳を経るとともに小さな黒い過去の負い目が 彼女を支配して行った。息子への非難は自分への非難と強く思うが、それを解決する 術はない。このジレンマが彼女をして、更に精神的な崩壊への道を作って行った。 「もう、あなたとは一緒に住めない。あなたのような家族を考えない自分本位な人 とは顔を合わせるのは嫌」。 突然の怒りに私は圧倒された。黒い津波が、紅い高波が私に襲い掛かってくる ような衝撃を受けた。 しかし、思う。あの目に宿る悲しみは何なのだろうか、と。怒りは体全体から 噴出するマグマの如く湧き上がっているが、悲しみをたたえるその目には 静かな、しかしほかを寄せ付けない冷たさが見える。私への失望感、自分への 焦燥、家族が霧散することへの後悔、彼女にとってこの40年、息子を 含めた家族の絆作りが生活の最優先事項でもあったのだから。 彼女の最後の言葉、私への最後通告、そして緊張感のある無言の時間が 2人の横をすり抜けていく。 「今度こそ、本気で別れが来るのかな」。 「妻はまだ怒りの中で浮遊している。これに手を差し伸べれば、手痛いしっぺ返し が来るだろうな」。 白く光る天井を見ながら、そんな考えが体の中を、頭の中を、まわっていた。 ずっしりと重たい静寂が身体を這い上がっていく。 40年間、夫婦の間には様々な口には出来なわだかまりがある。そして、それには 触れないように上っ面をかすめる程度に言葉を交わすことで生きてきた のかもしれない。 和邇は、一瞬自分の目がおかしくなったのか、と思った。いつもは、紺青の水を 静かにたたえている琵琶湖が見えない。朝日を浴びながら、坂をゆっくりと下りつつ この強烈な暑さで、身体も頭もおかしくなったのでは、と思った。春霞ならぬ 夏霞の朝であった。道路には影一つ無く、まるで砂漠が如き様相である。 汗が容赦なく顔に幾筋もの流れをつけていく。2ヶ月ほど前に味わっていた 朝の清清しさは影を潜め、灼熱と化した太陽が中天にどっしりと居座っている。 後ろを振り返れば、比良の緑の稜線が透き通った青さの中に、まるで太い毛筆の 線で引いたように描かれている。 我が家の孫娘のような犬のルナを息子が飼ってから約半年、そのルナを我が家に 連れてくるのが毎朝の日課となった。やや寒さの残った3月から正に百花繚乱の 春の草花を味わいながらの4月から6月、そして時は確実に過ぎ行きて、今は 夏の真っ盛り、連日の猛暑である。 我が家に向うには、この急な坂を上がるしかない。それでも、若いルナは和邇を 先導するかのようにどんどん先に行く。若さの違いであろうか、和邇が衰えたのか、 いずれにしろ、後ろから刺し込むように朝日が2人を押し包んでいる。 ふと、見れば淡いピンクの色を付けた百日紅の木々が和邇を和ましてくれている。 味気ない緑一色の中にその紅の花は、真珠の粒のごとききらめきと優しさを 道行く人に与えているのだ。一段と増した汗の川が顔全体を覆っているが、 ルナの影を見る形で、右の足をだし、そして左の足を出すという単純な行為 に更ける和邇であった。ルナはこの暑さを感じているのか分からないほどに 歩く先々の様々な匂いを感じ取ろうと一生懸命である。公園の横の太田さんが 花に水をやりながらこちらに挨拶を送っている。和邇もルナもそれに応えるが、 暑さがその間を裂くがごとく、会話もなく、一段と増す暑さに我が身を委ねる。 角を曲がった先に長く白く光る道が続いている。この一番先に我が家があるのだが、 まるで数キロもあるように、和邇には見えた。 これが明日も続く、そして明後日も、人生とは終わりのない道、そんな思いで 我が家の扉を開き、元気なママの声を聞く。 薄灰色のとばりが湖面まで垂れ下がり、灰色の水面を覆う形で琵琶湖がいた。 その上には、わずかに残る力を振り絞るが如き姿で朝日がわずかな形を見せている。 既に比良山には、頂上を雪の切れ切れが白く大きく被っている。こちらも薄墨の 背景に浮かぶ山々の山水画の風情をしている。 和邇は坂をゆっくりと、その歩みを確認する仕草で下りて行く。肩に白い粉が かかる。雪であろうと思った。昨日よりもその寒さは一段と厳しくなり、全ての 動作を油の切れた機械の様で、見せている。夏、秋と華麗な姿を見せていた家々 の草花もすでに、茶色に変色し、和邇の気持を一段と寂しくする。坂を下り 左へ曲がれば、ルナの待っている姿がそこにある。今日も、あのぼんぼりのような 黒い尻尾をふって、一段の愛想の良さを見せるのであろう。まだ1年ではないが、 息子が飼ってからその体躯は一段と逞しくなった。一応、我が家の孫娘ではあるが、 日々の行動からは、どうしても男、雄犬としか見えない。やんちゃぶりは一段と 増してきた。散歩に行ってももう妻の力では、抑えきれない。ルナに合わせて 行かないと、彼女も力尽きた様相で戻ってくる。 元々、寒さには強い犬であるから、最近の散歩も元気そのもの、おかげで和邇も 朝の寒さを彼女の元気さで吹っ飛ばしている日々である。今も、先陣をきる 勢いで急な坂を駆け上がっていく。和邇もリードに引き連れられ、その老体を 必死に前に出す。前方から小さな茶色の犬が若い娘さんに連れられて下りて来る。 まるで機械仕掛けのような足の運びに思わず、和邇も苦笑する。 黒のジーパンに赤いセーターの彼女は、ルナの勢いに思わず立ち止まる。 その顔には驚きと可笑しさが混在している。眼は一心にルナの黒い毛並みに白の 線のある、その顔に注がれている。一緒に茶色の犬も恐ろしさと珍しさを同時に たたえた仕草でルナを見る。しかし、その情景もルナの一声で、一瞬に変わる。 茶色の犬も声で応戦するが、どこか弱々しい。彼女も眼に驚きの色を見せつつ 通り過ぎて行く。この犬見かけと違って結構怖そう、とそんな表情が読み取れる。 右手には、更にその灰色を強めた比良山がこちらを見下ろしている。 黒い雲が次第に周辺に積み重なり、白いものがルナの身体にもはっきりと落ちていく。 明日の朝は雪かな、そんな想いが浮かぶ。 やがて、あけた扉の向こうには温かい空気が2人を迎える。 昔、和邇は秋が好きだった。夏の暑さに打ち萎れるのは人間だけではない。 安物のクーラーでは防ぎきれないあの強烈な暑さの流れをまともに受け、 その暑さに気の狂いそうな自分がいた。この身の弱さを年とともに感じてきた。 猫たちも一緒だろう。今年の夏は、チャト、ナナ、ライが1回のクーラーの効いた 部屋で日がな過ごしているのが、目立って来た。元気なのは、ルナとハナコの 若者だけの様である。ハナコの平然とした様とルナの部屋中を駆け回るエネルギー の凄さをママとともに、唖然としてみる日々が続いていた。そして、夏の過ぎ去りに あわせて、秋は、身体も意識もその暑さから逃れ、新しき躍動を見せたからである。 この朝の素晴らしさは何ともいえない。琵琶湖は紺青に輝き、透き通るような先には、 鈴鹿山脈や伊吹の山々が、その曇りなき姿をガラス細工のように見せている。 白い鰯雲が中天高く泳いでいる。どこからか、研ぎ澄ました光輝くような風鈴の 音色が聞こえてくる。その白い響きに、坂を下りつつも、和邇は左右に気を配る。 通り過ぎる家々の庭には、黄色の大輪をつけた菊が、その堂々たる姿を見せている。 既に色づき始めた紅葉の木々が数軒おきにその紅と黄緑、そしてまだ残る深緑 の葉を幾重の重なりとなって庭庭に彩りを添えている。更には、夏は雑草の大群に 覆われていた空き地には見事な穂をつけたススキの一群が、支配を始めている。 ルナもさすがにこの暑さには、やや体力を落としていたのであろう。 私を迎える態度も一段と激しさを増し、玄関の扉を開ける途端に、飛びついてくる。 坂を上がるのも、ただひたすら猪突猛進の如き所作で、和邇もそのリードに 引かれるが如き速さである。我が家へ向う路では、ノンビリと比良の山並や 先ほど見た琵琶湖の透明感のある姿など見ることさえ叶わぬほどだ。 少しづつ赤さを増す比良の山々も何か和邇を笑いながら応援している様でもある。 我が家の着く頃には、まだまだ歩み足りないような顔をして、和邇を見るルナと 息を切らせ、中腰なりながら息を整えようとしている老人の態となった和邇が居た。 更には、自分の到着を知らせるためのルナの一声が最近の日課となっている。 まだ白いものが残る比良山の山並が少しづつ後ろに流れて行く。目の前に広がる 蒼き湖がそれに合わすかのようにこれも少しづつ大きくなっていく。春の霞に 薄いベールを通して見るような沖島や八幡山の対岸の風景もどことなく 暖かさをもって見える。右手のやや深い森からは鳥たちの朝のさざめきがとき に激しく、時に密かに和邇の耳の届く。この坂も何十年と歩いた道ではあるが、 四季の色合いを感ずるのは、春である。特に、身体の衰えを感じ始めた4,5年前 から和邇は、今まで好きだった秋よりも春に喜びを感じている。 薄暗い空が多くを占め、山と湖をその力で押さえつけるような冬の死に近い風情は、 死が近くなったものにとっては、何の慰めにならないし、寒さの中で縮こまる 自分の姿に情けなささえを覚える日々でもある。そのような季節から雨水、啓蟄 といった二十四節気のいう生命の息ぶきを感じる春は、今の自分にとって、 大きな慰めであり、勇気付けでもあった。足下に眼を落とせば、芝桜の可愛い ピンクがあり、庭にはピンク、黄色、白など様々な色の花たちが一斉に咲き 始めている。名もなき雑草と言われる草たちも冬のややくすんだ緑や茶褐色 から光る緑へとその姿を変えつつある。歩き過ぎる家々の風情も、同じ姿で あるはずだが、その醸し出す空気は緩やかな暖かさで和邇を包み込む。 既に、青味の増した芝生の上にルナはいた。和邇を見ると、出迎えへの喜びを 身体全体で表している。尻尾を絶え間なくふり、前足をこちらに向け、いつもの 片足を上げる仕草で握手を求めて来た。眼を見れば、オッサン早く散歩に 連れてってな、早ようしてな、と言っている。ここで飼われてからまだ1ヶ月ほど だが、すでに10年もいるような態度で、この孫娘はしっかりと和邇を見つめていた。 リードを持てば、脱兎の如く坂を駆け上がろうとする。長いペットショップの 狭い空間で過ごして来た憂さをこれ以上ないような仕草で晴らそうとしているようだ。 しかし、想いとは別に、まだ体力不足なのであろう。和邇を引き回すほどの 力はない。結局、この足の遅い老人の歩調に合わせて、やがてゆったりとした 歩みとなる。それでも、家の前に行く頃は、2人ともが、息切れが大きい。 何しろ、片方は4ヶ月近い闘病生活であったし、片方も3年近い狭い檻の中の 生活であったのだから。そんな二人に既に咲き始めた梅の花がその優しい ピンクの色合いを染め付けている。遠くで、ウグイスの元気な声が聞こえる。 様々な神社の風景をモノクロ写真として撮りつづけて10年の大津市大江在住の 女性がいる。神社の持つ佇まいに魅かれたのが、きっかけで白洲正子のかくれ里 との出会いも大きいという。確かに、モノクロの持つ魅力が生きるのは神社のような 静けさと杜の情景かもしれない。一度は加藤国子さんと話をしてみたいもの。 作者は鄙びた里の鎮守の杜の思いがけない美しさに魅せられて、この8年ほど滋賀県内 の 観光客の訪れることもないような神社を訪ね歩き、撮影してきた。 どこの神社も集落の人の月当番が落ち葉を掻き、下草を刈り、本殿や拝殿の掃除を 怠りなく、清らかに守られていた。 この小さき島国は、歴史始まる以前より台風や地震、それに伴う大雨、洪水、津波や 地滑りなどの天災に遭遇してきた。古事記などに記される神々については研究している 人に任せ、作者は、神社というのは、抗いようもなく再々繰り返される災害への恐れか ら、 安らかに暮らせる日々を願う人々の祈りから始まったのではないかと思っている。 近年もテレビで映し出される未曾有とか想定外と表現されるような阪神の震災、東北の 震災など、近くは御嶽山の噴火の様子に胸がつぶれる思いをした。神戸の震災の折に 目にした風景に、作者は、神はこんなことをしていいのかと胸が震えたが、そう 言いながら、やはり神戸の生田神社は思いのほか早々と再建され、年の初めには、 またの穏やかな1年を神に祈る初詣の人でにぎわっている。 抗いがたい天災に、神頼みではどうにもならないと知りつつ、それでも頼りたい、 頼ってしまう、そんな人々と神々のつながりの長い歴史を思いつつ撮影した作品 である。モノクロ46点。 作者のプロフィール 加藤 國子(カトウ クニコ) 1942年生まれ。退職後、インターネットでホームページを作り、琵琶湖の写真を撮って アップしたのが写真を始めたきっかっけとなる。一眼でという勧めにニコンD80を購入 し、 故安岡孝治氏に2年ほど手ほどきを受ける。また、いくつかの教室やワークショップに も 在籍。現在は気ままに写真を楽しみ、ブログ「にごろぶなの歌」、Facebookに毎日写真 をアップしている。 主な写真展に、2002年「時の過ぎゆくままに」(コンタックスサロン京都)、12年 「近江風土記 祈りの風景」(滋賀県立近代美術館)、13年6月同展(ギャラリー PlaceM) 、 11月同展(ギャラリーら・しい/奈良県當麻)があり、大阪写真月間「写真家150人の一 坪展」、 ギャラリーの企画展などにも参加している。 今、クラフトビールが人気があるという。 いわゆる、地ビールだ。ネーミングや入れ物のデザインがかなりユニークなものが 多い。全国に200社以上あるという。 ビルスナー、アイピーエー、ヴァイツェなどがある 1990年代には、地ビールとして騒がれたが、その後、味や入れ物の安易さで 消えていった。 種類としても、かんきつ類を主体のホワイトビール、黒麦芽の黒ビール、ペールエール など、多種多様である。製造するための設備も数10万円でできるというから、ビール 好きの人間が自分で創るという想いをもって、各地で頑張っている。 これに一役かっているのが、SNSなどによる広範な情報の拡散である。飲んだ時の 感触や好みに対する評価などで、新しい顧客を増やしていく。 福島にあった全国でも有名な個人経営のバラ園が消えた。 岡田勝彦さんが17歳でバラの魅力に取り付かれ71歳の今日まで育てて来た 双葉バラ園である。原発事故で立ち入りが禁止の地域にあったため、今は見る影もなく 荒れ果てている。しかし、震災前の写真では広大な敷地の中にあらゆるバラが 咲き誇っていた。オールドローズなど極めて育てるのが難しいとされる品種の バラもある。しかし、映像に映る薔薇のそのは、ただの藪と化している。 岡田さんにとっては、娘以上の愛着があるのだろう。中々、次の場所での 開園は考えられないようだ。震災の傷跡はまだあちこちにあるのだろう。 多くの人の人生を一瞬のうちに全て無に帰した。これが自分に起きたと 考えると恐ろしい気持になる。 ただ、この園の写真愛好者が写真展などを開き、活動の輪を広げている。外国からも おおいそうだ。一枚の写真が語る薔薇の姿は素晴らしいからであろう。 ブラタモリ仙台 仙台は杜の都と言われているが、これらには伊達政宗の思い入れが強い。 もともと、仙台周辺は河岸段丘という地層からなるため、それを上手く利用した 城つくりが行われていた。さらに、かなり昔に津波によって海岸近くの村は 壊滅的な被害を受けた事を知っていたためか、城は海岸から8kmも離れた 岡の上に構築されている。また、治水のため、幾つもの谷を暗渠などを作りながら 城下町に上流から生活用水として配水していた。その跡は、市の中心街でも 今も生活用水の設備として使われている。これらは四つの谷を渡って来たため 四つ谷用水とも呼ばれている。場所によっては、暗渠が川の上を渡っている ところもあり、網の目のように配水路が整備されていた。城下町はそのような 生活基盤の整備によって発展して来たのだ。 又この配水の沁み込んだ水が井戸水として多く使われている。 現に市の真ん中にある鰻屋は、今も井戸水で鰻を育て、商売をしている。 杜の都と言われる所以は、江戸時代から武家屋敷を中心に色々な木々を育てて いたことが大きい。正宗の時代家康に逆らった事もあり、領地は160万石から 80万石程度の半分となった。しかし、家来の数はそのままにしたため、武家 も自分の屋敷でクリやミカンなどを栽培して生活を成り立たせる必要があった。 このため、木々の多い町となった。中には樹齢千年という木もあり、その歴史 の長さを感じる。 特に、城に近い武家屋敷には、大奥の木々が植えられていた。また、商業の発達を 更に進めるため、正宗は若村城という隠居用の城?を作ったため、街の構成が 元の武家屋敷と商人の町とでは大きく違う佇まいとなっている。 なお、東京編での中に、今も残る江戸城の跡として「常盤橋御門」がある。 現存する史跡としては見る価値がありそう。 第2次産業の比率が最も高いのは滋賀県。 内閣府の県民経済計算によると、2012年度の県内総生産のうち、第2次産業 (鉱業、建設業、製造業の合計)は全体の40.9%を占めて、全国首位とのこと。 全国平均の23.5%を大きく上回っている。2位は38.5%の静岡。1959年 に名神高速道路が出来て、栗東、彦根などのインターチェンジ周辺に電機や自動車の 工場が出来て製造がアップし、日本の中央付近に位置している立地のよさも大きい。
日々の記録14(自分史
現代文を古文に変換 http://catincat.jp/javascript/kogo2_1.html 女性支援のサイト アイデアや具体的な取り組みがわかる https://www.womenwill.com/japan/ ノロの動きは速かった。いつも我が家で見せる平和的友好的な猫ではなく、 野良猫としての彼の生き様の一端を見せていた。既に、狩人の顔立ちとなり、 目を鋭く蛇のほうへ向けl低い姿勢から一気に飛び掛る。 彼は左手と右手を交互に蛇の頭を叩いている。猫と言うやつは、左利きも 右利きも区別がないようである。左手で叩くときも右手で叩く時も、蛇の 鎌首をもたげている頭上を正確に打った。蛇は打たれるたびに鎌首を下げていって、 その首を枯れ葉の上に置いた。するとノロは、片手を上げたまま前後左右を 見回した。よその猫か犬の来るのを警戒するためなのだろうか。きょろきょろ と辺りを見回した。その隙に蛇がさっと彼に向って首を伸ばした。ノロは 慣れているのか、まだきょろきょろしながら、ちょっと手を引くだけでうまく 蛇の牙を避けた。蛇は鎌首を上げて、続けざまにノロの手を襲った。 しかしノロはちょっと手を引っ込めるだけである。蛇の体勢でどこまで頭が 伸びるかノロは正確に知っているに違いない。必要以上には避けない で、蛇の口とほとんどすれすれの程度まで手を引っ込める。 この闘争は同じやり方で繰り返された。蛇は叩かれる度に首を垂れるが、 逃げようとはしない。彼は相手を叩くが、相手が首を垂れると落ち着き なさそうに前後左右を見回している。いずれ猫は油断して噛み付かれる かもしれない。私はそれが気になるので、鳶口を持って蛇の頭を抑えた。 その瞬間、猫が蛇の首に飛びついた。蛇は首のところから皮を鞘に 剥がれほとんど全身、赤身の裸になっていた。これが、一瞬の出来事であった。 私は猫に何の合図もしないで鳶口を使ったが、猫は前もって私と打ち合わせて いたかのように振舞ったのである。電光石火と言う形容が当たっている。 蛇の剥げた皮は、裏返しの短い筒になって、その母体の赤肌の胴の末に つながっていた。尻尾の細い先だけが河の筒尻からすこしのぞき、蛇の 舌のように震えていた。猫はそれを嬉しがって仰向けにひっくり返し、 後足で蛇の震える尻尾をからかった。蛇は頭の部分だけ皮を残した 無残な姿に変じ、かなり弱っていたが心底から腹を立てているようであった。 赤肌の鎌首をもたげて猫に噛み付こうとした。猫は遊びふざけている 脚を素早く引っ込めた。蛇は孤立無援ながら急に立ち直って、鎌首を 高く上げて猫の足を覗った。猫は起き上がって、前足で前後左右に蛇の 頭を叩いた。これが正攻法と思われる。もう辺りを見回す事は抜きにして 蛇が鎌首をもたげる力がなくなるまで叩きつけ、蛇の首に噛み付いた。 止めを刺すと言ったところだろう。 「妻の死、それは予想をはるかに超えたことであった。 和邇は、何かが崩れてばらばらになるのを感じた。部屋ががたんと 揺れたような気がした。階段を踏み外した時の気分だった。 手に持った電話機が重くなり、持ちきれなくなった。ゴトンといって、 それは落ちた。どこか遠くで、自分を呼ぶ声が聞こえる。その声から 離れたくて、リビングの大きなテーブルに歩くのだが、たった1メートル ほど先にある椅子に近づけない。周りが全て暗闇となり、彼を進ませ まいとする大きな力が立ちはだかっていた。 「男とは、家父長とは、男権とは、我が家には堂々たる玄関から入り、 洋風応接間で客を迎え、妻が静やかにお茶を差し出す。正月には座敷の 床柱を背に坐って家族や部下の挨拶を受け、ふと庭に目をやると池の 向こうに松ノ木が見える、それが昭和の男の居る風景だった。しかし、 今、このような情景を浮かぶものさえほとんど居ない。消えゆく 存在となった。これに代わり家の中でその存在を高めたのは、妻であり、 母であり、女権の空間であった。台所と居間はほぼ一体となり、家族団らんの 場であるはずの居間も夜遅く帰宅する男は、父は付属品の如き存在となる。 多くは母中心の場となっていった。庭も妻や母が好む小さな色とりどりの 草花が中心となり、松などは遠く昔に忘られた存在ともなった。座敷も 思い出されたように一部屋あればよいほうで、多くはフローリングと呼ばれる 板の間の部屋となり、当然床柱の言葉さえ死語に近くなっている。 「家を出て6日、家からおよそ60キロ、大分時間がかかっている。幸い ここまでわずかな時間、雨に降られたが、ほとんどは、太陽との根競べ、 ズボンの腰周りはゆるくなり、額と鼻の皮膚が日に焼け赤く染まっている。 腕時計を見たが、その前から時間がわかっていた事に気がついた。 朝と晩、足の指と踵と土踏まずを入念に点検し、皮膚の破れたところや すりむけたところを絆創膏と軟膏で手当てした。経口水は外で飲み、 雨が降った時にはビルの1階や公民館で雨宿りをした。 すでに春から夏への変化の時期、華やかな花びらの群れを見ることは 少なくなり、最初の忘れな草の群生がその陽射しの強さに励まされる様に 白く淡く輝いている。 そして、自分がもう半分ほど忘れてしまった世界のことを考えた。 家の中で、街中で、あるいは、車の中で、人々が日々の営みを 繰り広げる世界。日に三度の食事を取り、夜になったら、眠り、人と人との 付き合いのある世界のことを。日々の終りには、今日1日が安泰であったこと を喜び、そんな人々の中、世間と言うつながりから抜け出せたことにも 満足していた。 「雨がやみ、それと同時に自然界に新たな成長の季節が訪れた。 木々や草花はいっせいに華やかな色彩とかおりをまき散らし、トチノキの 枝は小刻みに震えながら、円錐形の花キャンドルを支えていた。 白いヤマニンジンの花笠が道端をびっしりと覆っている。つるバラが 庭塀を這いあがり、深紅のシャクヤクがテッシュペパーのような花弁 開いている。りんごの木は花びらを振り落としはじめ、その後にビーズ のような小さな実をのぞかせている。 朝の空は青一色、そこに櫛で梳いたような雲がたなびき、木立の向こうには、 いまなお細い月が消え残っている。けれど、広々と視界の開けた自然な中に 戻ったいま、彼はふたたびある場所と別の場所との中間地点にあって、 頭には、様々な情景がなんの束縛もなく去来している。歩きながら、 40年ものあいだの過去のもろもろを解き放った。おかげで、いま彼の 頭の中では過去がけたたましくさえずりながら、独特の騒々しいエネルギー で駆け巡って行く。 「ある日何気なく本棚の隅に打ち残されていた、いまはもう見るものさえいない アルバムに気付いた。こびりついてやや黄色みを帯び始めた写真の数々、それを 愛しいものを見る仕草で1枚づつ触りながら、ページを、1枚1枚、丹念に 見つめた。ほとんどが妻と息子たちののものだが、その間にはさまるようにして 何枚かそうでないものが混ざっていた。彼の膝に抱かれた赤ん坊の長男や次男そして、 籠に入れられた末の息子。赤ん坊を見つめる父親、遠慮がちに、触ってはいけない と自分を戒めているようだ。そして、何枚かの妻との旅先での写真がある。 二人はにこやかにこちらを見て、仲の良い夫婦ぶりである。全てがまだ若い。 ふと、最近はデジタル写真だからパソコンの中か、と思う。でも、それをあらためて 見る気はしない。すべてが過ぎ去ったものだ、そんな衝動が彼を支配していた。 それから数日間、気分は一層落ち込んだ。二階の客用の部屋の床じゅうにアルバムが 転がっていた。それを元に戻すと言う作業に向き合う事が出来なかった。朝早く 洗濯機を回しても、洗いあがったものはそのまま1日中ほったらかしにしていた。 食事は冷凍食品の買い置きのもので済ませた。やかん一杯のお湯を沸かす気に さえなれなかったからだ。彼はいまや単なる独居老人でしかなかった。昔、 彼が一番嫌っていた人間になっていた。 「遠くには、地平線をまたいで木曾の連山と幾つかの山々、平成山、高沢山など が横たわっている。木々の切れた間からは、小さなビルの四角な塊りと工場の 屋根とお寺の甍のぼやけた輪郭が見える。小さくマッチ箱のように見えるのは、 民家と車にちがいない。あそこにはあまりにもたくさんのものがある。そして、 たくさんの人生が、日常の営みが、苦しみと闘いと喜びの営みがある。 だが、人々は、ここから和邇に見られていることを知らない。 和邇は再び、心の奥底から感じた。自分は今このこの目に映るものの 外側にいると同時に内側にもいる、この目に映るものとつながっていると 同時にそういうものを突き抜けようとしている。 自身の足で歩くとは、じつはそういうことなのだ。自分は色々なものの一部 であると同時にその一部ではないということだ。 この旅を成功させるには、そもそも、最初に自分を駆り立てたあの気持ち に忠実であり続けなければならない。妻への感謝と老醜化する自分の最後の 見極めと。他の人なら別の方法をとるだろうが、そんなことはどうでもいい。 事実、自分にはこうするしかないないのだから、あくまでも歩き続けよう。 昭和後期から平成へと生き抜いた一人の人間として、何を持って死への友と 出来るのか。そんな大袈裟な事でもなく、ごく些細な気付きを得られれば、 この70年を生きて来た何かの証を自分として持てれば、道は下りとなった。 「道は白山に源を発する長良川の流れにそうて下り、それがもう1本の渓流、板取川と 合する立花という辺りに来て中州を作りながら、真っ直ぐに下っている。しかし、 関へ行く本道は「道」には違いないが、左へ折れる方は木深い杉林の中に、わずかに それと人の足跡を辿れるくらいな筋がついているだけである。おまけに数日前の降雨 があったり、長良川の水嵩がにわかに増え、崩れかかったりしていて、激流の逆巻く 中に岩が牙をむくが如く、その荒々しさを一段と高めている。 長良川は、川幅も広いが、最後に達するまで、川と川のとの間の道は、何丈と 知れぬ絶壁の削りたった側面を縫うて、あるところでは道が全く欠けてしまって、 迂回路で古びた橋を渡り、崖の横腹を幾曲がりも迂回したりした。そういうわけで その谷間の緑は夏の陽射しの中、素晴らしい眺めであったけれども、足下ばかり 見つめていた私は、おりおりの眼の前を飛び立つ四十雀の羽音に驚かされたくらい で恥ずかしながらその風景を詳述する事は出来ない。昔見た長良川はゆったり とした風情であったと記憶しているが、歩いて見るとその違いに驚きが一段と 増した。昭和初期までは、充分に道路が整備されていたとは言えない。このような 河傍の間道を通って関から名古屋へと歩いていたのかもしれない、とそんな想いが 沸いてきた。しかし、それも僅かなことで、道幅は幾度となくまるで旅人をあざ笑うか の如く変化を見せた。 「夏の朝と夕刻の庭の水遣りがいつしか彼の仕事になっていた。 さして大きくないその庭にも、気をつけてみると梅の木がどんと居座り、その存在を これでもか、と見せている横には、数株の紫陽花が他の木々に挟まれるように ひっそりと立っている。少し外れてはいるが、これもどんと根を生やしたかのような 蜜柑の木が梅ノ木に対抗するが如く天に一直線に伸びている。さらには、いつの間にか ススキの一群が片隅を占拠し、秋になるとあのやや灰色の穂を野太く道路まで 被うように茂っている。さらには、春の遅くに真っ赤な花を咲かせるベゴニアの 木がいる。それに対比するかのように少し奥の塀の近くには、大輪の西洋芙蓉が この赤い世界が消え去ろうとする時分になると咲き始める。さらには、秋から冬には 全くの枯れ木状態であった紫式部の木が立派な枝を四方に伸ばし、その名の 紫の小さな実をつけ始めている。 そんな季節ごとの花の協奏曲を思い浮かべながらも、彼は朝の光をその一つ一つ の水滴が反射しながら降りかかり、そのたびに夫々の花や葉が息を吹き返す様 を見ている。ほとばしる水が鞭となって空気を打ちながら、ときおり朝の陽の光を 捉えてきらめいていた。 ふと、目に付いた切り株に驚きが走る。それは妻が数週間前にばっさりと切った 榊の木であるが、既にそこには新しい命が生まれていた。それはつらつとした 緑の葉をキラキラと光らせていた。確か、それを見たのは1週間ほど前に わずか1つほどの新芽がその切り株から出ていたと思ったが、いま眼の前に あるのは、10本近くに増えた若い小さな枝の群れである。 それは、放物線を描いて光りながら伸びる水のシャワーの先で水と光の中、 圧倒的な若さを見せている。 彼は、水遣りのことも忘れ、暫らくその若い枝の群れに見入っていた。 生命とは凄い、頭の中でそれが何回となく反芻していた。 その感触は、木々や草花だけではない。時たま、水に驚いて飛び出す トカゲの親子や糸トンボの夫婦、烏アゲハの夫婦などなど色づいた木々や 草花の下では、多くの生き物が毎年、生まれ育ち、その姿を見せる。 しかし、それらの姿も秋となり、冬となるにつれてその数は減っていく。 気付けば、黒く垂れ込めた冬の雪を含んだ雲が比良からこの辺り一面を 被い尽くす頃には、全ての生命が見えなくなっている。今、眼前に広がる 紫式部の花も紫色が大きく鮮やかになる秋から知らぬ間に枯れ木に変身する。 そこには、何も残っていない。しかし、翌年には、また見事な紫の世界を 現出する。そのような変転が10年以上も続いているのだ。ただ、和邇も 含めてそのような世界を味わう人が少ないのも、事実である。皆、何かに 追われるように日々を過ごしている。 「道路の脇に、打ち捨てられた様に、新聞の自動販売機がポツネンと立っている。 20年ぐらい前には、よく見かけたものだが、すでに塗装は剥げ落ち、錆びた身体を 無理にも元気よく見せようとする老人の如き風情がある。彼もこの20年風雪に 耐えて、己が使命を全うしてきた、そんな風に和邇には見えた。 ふと昔の新聞記事の紹介の事を思い出した。 ここ数年でも、特にあの事以来、いきがいという言葉さえ自身から消失したように 思えていた。老いること、日々に何かを尽くす相手がいなくなる事がこれほど、 自分の行動を縮退させ、影の如き日々の人になるとは、思えなかった。 その新聞記事は1987年11月のものであった。 「生きがい新旧格差について、20歳代の社員ほど、家族を犠牲にして仕事に打ち 込むことに否定的であり、生きがいを仕事以外に求める人が3分の1を占めている。 日本能率協会が11月24日発表した「生活意識多様化調査」で20歳代と 40歳代の「新・旧対比」がはっきりした」。 それに寄せられた意見・感想として、 「1987年の20歳代というと、2012年では40歳代だと思うが、実感値 として家族を犠牲にして仕事に打ち込む40代が多い印象を受ける。 それは立場によるものもあるかもしれないが、例えば「残業後に会社チーム で飲み会に行く」「会社のゴルフ大会に精を出す」など、生きがいを仕事 に求める人が多いのではないだろうか。 近年取られるアンケートでも20代の仕事離れが進んでいるという話題 がたびたび取り上げられるが、20年後には立派に仕事人間になっていると 思うので、あまり問題視する必要性はないのかもしれない」。 約30年前の社会事情だが、現状はどのように変わっているのだろうか、 すでに社会から一歩も2歩も退いた和邇にとって、その変わりの様を知るのは、 難しくなっていた。ただ、息子たちを見ていると、仕事への取り組みの強さ と考えれば、それが生きがいになっている様でもある。 ただ、和邇があの成長期に感じた生きがいと彼らの思っていることには、大分 の開きがある、遠く山並を黒く流れる雲とその速さに眼を移しつつ、彼は思った。 「和邇は、近くで紙をすいている家があるとのことで、宿の人の案内で出かけた。 丸顔の布袋さんと言っても誰もが納得するその気の良い主人が軽のワゴン車で走らせ、 10分ほど山道を行く。 「お客さんは手漉きの紙にえろう興味がありますんやな」、と私に問い掛けながら 車を運転している。緑一色のトンネルの中を走る様に、茶褐色のごつごつとした山道 をテンポのずれた音を立てながら、進んでいく。やがて美濃の山々が見下ろすように 立ち並ぶ麓の一面白い花に囲まれた中に2階建ての大きな家が見えた。 その前には、何枚もの板の上にすかれたばかりの紙が張り付いている。 「あそこですわ。名古屋から来た職人さんが4年ほど前から奥さんとやってますわ」 「手漉きで薄い上に強い、と言う評判でわざわざ見に来る人もいるそうですわ」 と、ノンビリとした調子で教えてくれた。 宿の主人は、顔なじみらしく断りもせず作業場へと私を案内する。 置くの作業場では、その職人さんが、ちらっとこちらを見たが、一切構わず作業を している。 私と宿の主人は、そっとその横に佇む。まるで影が二ついる様でもある。 枠の中の白い水が、蒸篭のように作ってある簾の底へ紙の形に沈殿すると、彼は それを順繰りに板敷き並べては、やがてまた枠を水の中に漬ける。裏に向いた作業場 の板戸が開いているので、和邇は一藁の野菊のすがれた垣根と彼の一挙一動 を見ながら、見る間に2枚3枚と漉いていく彼の鮮やかな手際を眺めた。 姿は細やかであるが、職人らしくがっちりと堅肥りした、中柄の風情であった。 その頬には鬚が野太く広がり、黒々と光り、張り切って、つやつやしていたけれども、 それよりも、和邇は、白い水に浸っている彼の指に心を惹かれた。黒くしなやかに 伸びた指は俊敏に動き、時折微妙な動きをする。冬の寒さがつのれば、 「ひびあかぎれに指の先ちぎれるよう」になるのであろう。が、寒さにいじめ つけられるであろうその指も、この夏の暑さにも、動じない強さがそのうしろ姿 から滲み出ていた。奥さんがお茶を出したが、彼女も特段我々の訪問を歓迎する でもなく、嫌がるわけでもなく、淡々と漉かれた紙を次の部屋に運び、庭の ほぼ仕上がった紙を入念に観察している。時が淡々と流れ、わずかにそよぐ風 の音が大きく聞こえる。遠くで鳥たちのさえずりがこれも普段より大きく高く こだましていた。「有難う」の一言を残して我々は帰途についた。車でも あの静寂がそのままついてきたように、宿の主人も何もしゃべらず、途中の道 で私を降ろし、軽く会釈をして分かれた。すでに陽射しは道路と家々を強く 照らし、その暑さを一層引き立てている様でもある。 「和邇にとって、和服の女性は憧れであった。学生時代には、その立ち姿に思わず 振り向く事もあった。記憶にある母も、近所のオバサンも皆かすり姿の中に、 不思議な雰囲気を醸し出していた。丸髷に結い、縞模様の絣の上に白い割烹着 は、小さい頃はどこにでも、ある風情であったが、帯の締め方、着物の胸元の あわせに人それぞれの性格が出るのであろうか、帯がやや緩んだ様に巻かれ、 合わせ着の線がキチンとしている人は、顔立ちの意識がなくとも、美人であったように 思えた。浮世絵でも、北斎はじめ多くの絵師が美人画を描いているが、やや 崩れた姿の女性の場合は、専門家の評価は別として、淫らさだけが彼をして 打ち付けるかのように、興味を惹く対象とはならない。 以前に、百年前に取られた写真が何処かのオークションにかけられ、 当時の日本の素晴らしさが再認識されたことがあったが、写真の中の女性は モデルでもなんでもないのだろうが、箒をもち、どこか遠くを見つめるその 立ち姿は一幅の絵画の如く、あらためて若い頃の憧れの和服姿の女性への 敬慕の念を沸き立たせたものである。昔大阪で接待などでクラブへ行くと ママやちいママがよく和服でお客の相手をしていたが、洋装の時とはその 持つ雰囲気の違いに感じ入っていた事も思い出される。今では、良く外国人 が着物姿に憧れ、それを着ている姿に合う機会が多くなったが、なにか しまりのない、温くなったビールの様に、それを美人が着ていようと不美人 に見えるのは、時代は変われど、やはり日本人としての潜在意識が発露を しているからであろう。そして、この旅でも、立ち寄った旅館で和服の 女将が出迎えてくれたところは、不思議と記憶が鮮明に残っている。 山中温泉、浜松、鎌倉いずれの女将の顔がはっきりと浮かんでくるのだった。 しかし、昭和の美しさは、彼女らの着物姿の消滅とともに、消え去っていく。 「20代から50代まで、幾つかの恋、単なる性欲の発露を求めた、をした。 しかし、その女性に自身を焼き付ける、一体を望むような強い想いと行動は、 なかった。少し深く自分を見れば、それは母としての愛を求めていたのかもしれない。 性欲を満たすための男としての行為と母への思慕が自分の中では、上手く 切り分けていられない、そんな自分を良く感じた。 今記憶に残るのは、亡くなった母の遺影を肩から下げ、墓地へ向う自分の歩みと 小学2年生の時、分けもなく母に逢いたくなり、一駅先にあった病院へ歩いていった 時の心細さと白い病室で優しく迎えてくれた母の透き通った顔と指の白さに 驚きをもった自分である。午後の日差しの中にいる母との自分の姿が今でも はっきりと浮かぶ。が不思議に思うことは、そういう風に常に想いが慕ったのは、 母の方であって、父に対してはほとんど何もなかった。その何か分からぬ思いは 息子たちが大きくなるに連れて分かって来た。子供にとって、父親とは少し離れて、 その立ち姿を見る存在なのだ、と言う事を。自分の母を恋うる気持は漠然たる 「女性という未知なる者」に対する憧憬、つまり少年時代の母との愛の不十分な 関係を満たしてくれる人なのでであろう。なぜなら自分の場合には、過去に母で あった人も将来妻となるべき人も、等しく「未知なる人」であって、それが目 にみえぬ因縁の糸で自分に繋がっていることは、どちらも同じなのである。 こういう心理は自分のような境遇でなく、誰にも幾分か潜んでいるだろう。 自分にとって、「未知なる人」は、母の幻を投影したものであり、母への甘えが 女性へは愛と言う形であるのかもしれない。だから自分の小さな胸の中に ある母の姿は、年老いた婦人でなく、若く美しく、全てを抱擁してくれる女である。 そして、死と言う影を背負い、無常と言う事を体現している人でもある。 「鯖江の街を通りながら、和邇は昔、NHKで見た映像を思い出した。 大きな石の塔があり、そこには「忠霊塔」とある。その下で、ひたすら周辺の 五月や紫陽花の花などの刈り取り、雑草の取り除きをしている老人がいる。 緑の広がりの中に、石造りの四角な箱型の台とその上に聳え立つ「忠霊塔」の 3文字が刻まれた石塔、周辺に鳴り響く蝉の声、それ以外はただ、草刈る音が 静かにその刃先のすれあう音ともに、響くのみ。かなり薄くなった白髪頭に 手ぬぐいを巻きつけ、無精ひげの残っている頬を何筋もの汗が白い水跡を 残しながら首を伝わり、褐色の作業服の中に消えていく。中腰の身体は ややつらそうに左右に揺れている。しかし、その眼は力を持ち、ひたすら 眼前の草木に向けられている。 ここには、福井にいた陸軍の戦死者が骨壷として、25000余り祀ってある。 彼は此処の掃除や草木の刈り取りを50年以上ほぼ毎日続けて来たと言う。 その映像を見ながら、この単純作業を50年以上を続けて来たと言うその 意志の強さと何のために、誰のために、という、和邇の判断基準では、無駄と 思われることへの執念に驚かされた。彼を突き動かしている心の底にあるあるもの 何かは、映像では語られなかったが、自分にはとても出来ない、と思った。 そして、今その塔のある街の近くを、自分の原点を確認したいがために、歩んでいる。 これも無駄な行為では、との疑問が絶えず彼をして留まり続けて入る。 「古き時代には、かくれ里、僻地の村々としてその旧き生活習慣や独自の文化を 継承して来たことで、尊敬の念でも見らてはいたが、今や限界集落とかいう 一くくりの中で、身体の片隅に出来た腫瘍の如き扱いを受けている。 日本の過疎地には6.5万の集落があると言われている。限界集落は、65歳 以上が半数を超え、道や村の施設などの管理が困難になる集落をある社会学者が 定義した事に始まる。人口の2割以上を占める昭和1桁の世代の力が大きく、今まで 存続してきた。しかし、その世代も既に80歳を超えて、集落の終焉も見えている。 60年代の林業の衰退、70年代の工場誘致の失敗、土木工事を中心とする80年代 の活気ある町も公共事業の緊縮財政に伴う減少の2000年代となっていく。 産業の発達とともに、老人やその土地の持つ智慧が無意味と思われてきた中では、 その自然の持つ人間を助ける力さえ、無視される時代になってきた。 そのような流れの中、新しい変化が起きつつある、和邇はこの山道を歩きながら、 そのわずかな情報で、最近の社会の動きを考えていた。 テレビや新聞でも、よく目に付く良いになった。 「火や土があって、自然に生きる暮らしを子供たちに教えたかった、と言う若い夫婦 の移住に見られるような価値観の変化である。ある四国の村では、そのような農山村 に新しい生き方を見つけて都市から移住してくる人が3年間で60人を超えた。 便利さの陰で見落としていた農山村の価値に気付く人が増えたのだろう。 農山村には、自然と折り合って暮らす豊かさや集落と言う共同体に生きる幸せ、 がある」と。我が家の近くの比良でも、同じ様な自然への想いを募らせた人々が何十人 となく、住み着いている。昭和の始めまでの密やかな山や里での営みが、平成と なり、その社会の成熟とは別の別の、旧き時代の、生き方を望む人が増えてきている のだろう。高島、朽木、敦賀、武生、と歩き続け、その土地の人と話す中で、自分が 過ごして来た30代、40代の人々の思い、またそれは自身の思いでもあるが、物的な 豊かさを求めた時代とは違う空気を感じていた。この行軍の中で、単に自身の 終りが見えてきたからなのか、ここ数年で起きた家族の形の変化によるものなのか、 自分の意識が周りの変化を素直に受け入れられる様になったからなのか、足と体の 痛みへの恐れを打ち消すかのようにその歩みの一歩ごとに、頭から足へとその漠と した想いがながれ、そしてまた、頭から足へと同じ流れが起きていた。 自分史フォトブック 人生の節目を迎えて今までの写真を1冊の本にまとめる自分史フォトブック が人気とのこと。言葉も添えるが、文章の苦手な人には人気な様だ。 フォトブック作成サービス「ビビプリ」を使う。 60ページほどで1冊1万円ていど、自費出版よりも安い? 以下の様な進め方が良いとのこと。 ①アルバムなどの古い写真を整理する。 ②自分の歩みを年表にして節目ごとに写真を選ぶ ③それぞれに当時の心境を短文で配する ④フォトサービスを利用して、②と③をまとめて本にする。 今回は自分史を作成できる 無料ツールをご紹介いたします。 CHRONICLES http://nt.1step-m.com/link/69l 使い方は簡単。 上のプラスマークをクリックして、 自分の名前や、印象的な イベントを登録するだけ。 出来上がった自分史は>再生ボタンをクリックして、>自分の人生を視覚的に ふり返ることができます。 ここまでの人生のまとめに。 ハチと言う猫 NHKでハチと言う猫の映像を見た。 この猫、白地に黒くまるで眉毛のような八の字がある。更には、背中には 黒のハートマークが白い毛並みにくっきりと浮いている。 茨城の水戸駅の傍の商店街の煙草やさんに「福猫」として毎日いる。 もっとも、ほとんど寝ているようではあるが。猫好きの57歳の女性が ハチを毎日見に来て、ブログに書いているとのこと。以前、猫を飢餓状態 で死なし、家族がバラバラになった事への悔悟の念があるのだそうだ。 死んだ猫を囲んだ幸せだった時の写真をパソコンの前においている。 また、ハチを気に入った古着屋の人がハチ猫グッズなるものを売り出している。 Tシャツやブロマイドなど様々だ。また、このタバコ屋さんは宝くじも 売っているので、縁起の良いハチがいる事のご利益を得ようと、かなり遠くからも 宝くじとハチを見に毎日来る人もいる。高校生の女子たちがスポーツの大会で 優勝できるようにと手を合わしていた。 しかし、ハチの飼い主は商店街で工事などをしている人であった。昼は事務所 で作業があるため、このタバコ屋に預かってもらっているのだそうだ。 帰りは商店街の多くの人に触られたりして、この街の人気者である。 また、このハチ猫が大人しいのだ。和歌山のタマ駅長猫もそうであったが、 人気の出る猫は皆、自分の立場を心得ているようだ。我が家の猫、爪の 垢でも煎じて飲んで欲しいものだ。
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