2016年10月9日日曜日

日々の記録8(無常観、限界集落、比良八講、西本さん近江文学、群青の湖、比良のし ゃくなげ、桂米朝)

ingress実践をする。
http://dekiru.net/article/5052/index.shtml

日本遺産
滋賀県は提案した7件から「琵琶湖とその水辺景観-祈りと暮らしの水遺産」
が認定を受けた。湧き水を家に引き込む「川端(かばた)」など水と生活が
調和した景観や、いかだ乗りを川の魔物から守るシコブチ信仰などの宗教、
ふなずしに代表される食など「水の文化」の深さをアピールした。
文化庁が、日本版の世界遺産として今年度から始めた「日本遺産」に
びわ湖の水と人々が織りなす文化が認定されました。
「日本遺産」は、海外からの観光客の増加につなげようと、文化庁が、
国内に点在する有形・無形の文化財をまとめて日本版の世界遺産として
認定する今年度からの制度です。
今回は全国から18件が選ばれ、滋賀県からは、びわ湖の水と人々が織りなす文化
を集めた、「琵琶湖とその水辺景観ー祈りと暮らしの水遺産」が認定されました。
びわ湖に面する県内6つの市にある、▽国宝に指定された寺院や、▽国の重要文化
的景観に選定された近江八幡市の水郷などが含まれています。
このうち▽大津市の延暦寺は、比叡山から臨むびわ湖を最澄が理想郷とたたえて
建立したとされています。
▽竹を編んで作った仕掛けでアユを取るびわ湖の伝統漁法「ヤナ漁」は、
高島市の安曇川で平安時代からの歴史があるとされています。
三日月知事は「滋賀県では、びわ湖を中心として『水の文化』が人々の暮らしの
中に脈々と育まれてきた。貴重な資源を次世代に引き継ぎ滋賀の魅力を国内外
に発信したい」というコメントを出しました。
福井県 ◎福井県
(小浜市,若狭町) 海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群 
~御食国(みけつくに)若狭と鯖街道~


日本の過疎地には6.5万の集落がある。限界集落は、65歳以上が半数を超え、
道や村の施設などの管理が困難になる集落を社会学者の大野晃氏が定義した事
に始まる。人口の2割以上を占める昭和1桁の世代の力が大きく、今まで
存続してきた。しかし、その世代も既に80歳を超えて、集落の終焉も見えている。
60年代の林業の衰退、70年代の工場誘致の失敗、土木工事を中心とする80年代
の活気ある町も公共事業の緊縮財政に伴う減少の2000年代となっていく。
そのような流れの中、新しい変化が起きつつある。「火や土があって、自然に生きる
暮らしを子供たちに教えたかった」と言う若い夫婦の移住に見られるような価値観の
変化である。ある四国の村では、そのような農山村に新しい生き方を見つけて都市から
移住してくる人が3年間で60人を超えた。便利さの陰で見落としていた農山村の
価値に気付く人が増えたのだろう。
農山村には、「自然と折り合って暮らす豊かさや集落と言う共同体に生きる幸せ」があ
る。
また、林業再生や木質バイオマス発電や有機農業の試みなど新しい生業が生まれつつあ
る。

「祇園精舎の鐘の声」で始まる軍記物語『平家物語』、西行の「桜の下にて春死なん 
その如月の望月の頃」に代表される散りゆく桜と人生の儚さ、吉田兼好の随筆
『徒然草』、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」で始まる
鴨長明の『方丈記』など、仏教的無常観を抜きに日本の中世文学を語ることは
できない。
単に「花」と言えばサクラのことであり、今なお日本人が桜を愛してやまないのは、
そこに常なき様、すなわち無常を感じるからとされる。「永遠なるもの」を追求し、
そこに美を感じ取る西洋人の姿勢に対し、日本人の多くは移ろいゆくものにこそ美
を感じる傾向を根強く持っているとされる。「無常」「無常観」は、中世以来長い間
培ってきた日本人の美意識の特徴の一つと言ってよかろう。
この「無常」を説明するのに、「刹那無常」(念念無常)と「相続無常」の二つの説明
の仕方がある。刹那無常とは、現象は一刹那一瞬に生滅すると言う姿を指し、相続無常
とは、人が死んだり、草木が枯れたり、水が蒸発したりするような生滅の過程の姿
を見る場合を指して言うと、説明されている。この無常については、「諸行無常」
として三法印・四法印の筆頭に上げられて、仏教の根本的な考え方である
とされている。
なお大乗仏教では、世間の衆生が「常」であると見るのを、まず否定し「無常」である
としてから、仏や涅槃こそ真実の「常住」であると説いた。これを常楽我浄と言うが、
これについては大乗の大般涅槃経に詳しい。
インドの仏教は、「すべてのものは無常である」と観ずる無常観を説きます。
この無常観は、人間が苦を脱却するための哲理としての無常観です。
どんな風に哲理なのかと言いますと、「無常」の「常」とは、「常にそのまま」という
ことで、それに「無」がつきますと、「常にそのままで無い」となりますので
「変化する」ということです。
何が変化するかといいますと、「すべてのものが」です。ですから私たちのこの体も
変化します。すなわち、刻一刻老化し、最後に死んでしまいます。このように観ずる
ことが無常観です。
ところが私たちは、若くありたい、死にたくないと思っています。そうすると、刻一刻
老化し最後に死ぬという「事実」と、私たちの「思い」とは食い違いを起こします。
そこに「苦」というものが起こる要因があるわけです。
この場合の「苦」の意味は、その原語である”dukkha”から「思い通りにならない
こと」という意味だとされています。
その苦を脱却するためには、「事実」と「思い」との間に食い違いを起こさない
ことです。
ところが、「事実」の方は変えようがありませんから、私たちの「思い」の方を換えて
「事実」に合わせるしかありません。
すなわち「刻一刻年を取り、やがては死ぬのだ」という思いに換えるのです。
そうすると「事実」との食い違いがありませんから、「苦」というものは起こらず、
心は平安となるというわけです。勿論その場合、自己の「思い」を換える程の
厳しい無常観が求められることになりましょう。
日本人は、仏教の説くこの「無常観」に大きな影響を受けたとされています。
人の命のはかなさ、世の中の頼りなさを歌った『万葉集』、無常を想う遁世生活
を述べた『方丈記』、「諸行無常」の言葉で始まる『平家物語』、更には〈能〉
の中にも無常観を表そうとしたものが多いと言われています。
しかしながら、これらは単に、人間や世間のはかなさ、頼りなさを情緒的、
詠嘆的に表現しようとした日本的美意識としての「無常感」であり、インドの仏教が
主張する、苦を脱却するための「無常観」とはかなり趣が異なります。
文学の世界だからというのではなく、日本では仏教の世界においても主体的な
苦の克服としての「無常観」は影が薄いように思われます。
漢字の「諦」の字は「真相をはっきりさせる」という意味ですが、日本語では
「あきらめる」という意味に変わります。この変化は、「観」から「感」への変化
と何か関係がありそうに思っています。

「群青の湖、芝木好子」
つづら折の湖畔をまわりきって、視界が変わり、広々とした湖の浦が現われた時、
岸辺に打ち寄せられたように小さな部落があった。風光の清らかな、寂とした、
流離の里である。

琵琶湖の秘した湖は、一枚の鏡のように冷たく澄んでいる。紺青というには
青く、瑠璃色というには濃く冴えて、群青とよぶのだろうか。太陽の反射が
湖面を走る一瞬に、青が彩りを変えるのを彼女は見た。

「群青の湖」に書かれた研ぎ澄まされた文章を抜粋してみた。 

「冬が来て、東京に雪の降る日が続くと、瑞子は琵琶湖の雪景色を思った。北の湖にし
んしんと雪が降るとあたりは白い紗幕に蔽われてゆき、群青の湖のみは白いあられをの
みもみながら、昏い湖底へ沈めていく。雪が止み、陽が射すと、雪でふちどられた湖は
蘇っていよいよあおく冴えかえる。・・・中略・・・瑞子は湖の永遠に触れて、片鱗で
もいい一枚の布にとどめたいと思うようになった」

「初秋の気配であった。湖水も空も縹色(はなだ)で小舟もない、鏡のような湖・・・
・」
「湖は深海よりも透明で、藍が幾重にも層を成して底から色が立つ・・・・」
「奥琵琶湖の秘した湖は、一枚の鏡のように冷たく澄んでいる。紺青(こんじょう)と
いうには青く、瑠璃色というには濃く冴えて、群青とよぶのだろうか」

最後に、
「いま 私に見えているのは、湖の生命と浄化の雪と枯葦の明るい茶なの。清らかな鎮
魂の布が織れたら、私の過去から開放され自由になれそうな気がするの。そうしたらこ
の次は、あなたをおどろかすような魅惑的な真っ赤な蘇芳(すおう)や、妖しく匂う紫
や、老いた女の情炎のような鼠茶や、いろんな色を糸に乗せて、思い切り織ってゆきた
い」と結んでいる。

滋賀県の地名として大津、近江八幡、大原、朽木、安曇川、そして菅浦が登場
してくる。
特に、菅浦に関する場面は、3回ほど出てくる。作家芝木好子にとっては、最も気に
入ったところであったのであろう。

 菅浦については次のように紹介している。
 岬へと進むほどに深山幽谷の眺めになって、町で見る湖とは趣が違う。つづら折りの
湖畔をまわりきって、視界が変わり、広々とした湖の浦が現われた時、その岸辺に打寄
せられたように小さな集落があった。
 風光の清らかな、寂とした、流離の里である。入り江に沿って漁船が舫っているが、
人の姿はない。閉ざされた集落だが、どこからか侵入者を監視する眼を感じる。
 
 里の入口に湖に面して神社があり、石の鳥居が立っていて、鬱蒼とした木立の山を背
に、奥深く参道が伸びている。鳥居の脇に古びた要塞門があって、由緒ありげな隠れ里
を思わせる。雪の残る山は深く敬虔な雰囲気を持ち、浮世の外に取り残された流謫(り
ゅうたく)の哀しみが漂って、心が惹かれた。
石段を登っていると森閑として、左右の繁みの下から狐狸でも現われそうだが、振り向
くと琵琶湖がみえる。参道は長い傾斜道で、しばらく登ると急な石段の上に白木の神社
が現われた。
履物を脱ぐこと、と立て札がある。

この作品は、昭和35年当時の話であるが、今も言葉通りの情景が伝わってくる。
やはり、ここは流離の里であった。

詩集北国「比良のしゃくなげ、井上靖」
むかし写真画報と言う雑誌で、比良のしゃくなげの写真を見たことがある。
そこははるか眼下に鏡のような湖面の一部が望まれる北比良山系の頂で、
あの香り高く白い高山植物の群落が、その急峻な斜面を美しくおおっていた。
その写真を見たとき、私はいつか自分が、人の世の生活の疲労と悲しみを
リュックいっぱいに詰め、まなかいに立つ比良の稜線を仰ぎながら、
湖畔の小さな軽便鉄道にゆられ、この美しい山嶺の一角に辿りつく日が
あるであろう事を、ひそかに心に期して疑わなかった。絶望と孤独の日、
必ずや自分はこの山に登るであろうと。
それから恐らく10年になるだろうが、私はいまだに比良のしゃくなげを
知らない。忘れていたわけではない。年々歳々、その高い峯の白い花を瞼に
描く機会は私に多くなっている。ただあの比良の峯の頂き、香り高い花の群落
のもとで、星に顔を向けて眠る己が眠りを想うと、その時の自分の姿の
持つ、幸とか不幸とかに無縁な、ひたすらなる悲しみのようなものに触れると、
なぜか、下界のいかなる絶望も、いかなる孤独も、なお猥雑なくだらなぬものに
思えてくるのであった。

現代人が進める開発と言う行為の中には、自然への畏敬の念が欠落していることが
多く、自然は一つづつ生命を終えていってしまう。比良にしかない清々しい魅力を
先人たちから私たちがもらったように、次代へも伝えてあげたい。

小説「比良のシャクナゲ」より
ここの主人が琵琶湖を賞するには、三井寺、粟津、石山、その他にも名だたる琵琶湖望
見の地は十指に余る。しかしこと比良を望むにおいては、湖畔広しと雖も、堅田に勝る
地はなく、特にここ霊峰館の北西の座敷に比肩し得るところはあるまいと自慢し、比良
の山容が一番神々しく見えるところから、この宿を霊峰館と名附けたのだと説明したこ
とがあったが、まことにこの座敷から眺める比良は美しい。

わしは家を出てタクシーをとめた時、殆ど無意識に堅田と行先を告げたのだが、わし
の採ったとっさの処置は狂っていなかった。わしはまさしく琵琶湖を、比良の山を見た
かったのだ。堅田の霊峰館の座敷の縁側に立って、琵琶湖の静かな水の面と、その向う
の比良の山を心ゆくまで独りで眺めたかったのだ。
 
堅田の浮御堂に辿り着いた時は夕方で、その日一日時折思い出したように舞っていた
白いものが、その頃から本調子になって間断なく濃い密度で空間を埋め始めた。わしは
長いこと浮御堂の廻廊の軒下に立ちつくしていた。湖上の視界は全くきかなかった。こ
ごえた手でずだ袋の中から取り出した財布の紐をほどいてみると、五円紙幣が一枚出て
来た。それを握りしめながら浮御堂を出ると、わしは湖岸に立っている一軒の、構えは
大きいが、どこか宿場の旅宿めいた感じの旅館の広い土間にはいって行った。そこがこ
の霊峰館だった。

「花と匂い 伊藤整」
文中で比良山さんの説明がある。
比良山と申しますのは、一つの山ではございません。比叡山の来たにつらなって、
琵琶湖の西岸に聳える武奈ヶ岳、釈迦岳、蓬莱山、打身山、権現山などを含む山地を
包括して比良山と申します。語源はアイヌ語のピラであるらしく、これは絶壁の
あるところ、または扇形にひろがった土地と言う意味だそうでございます。 


「幻住庵紀、松尾芭蕉」
石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ。そのかみ国分寺の名を伝ふ
なるべし。ふもとに細き流れを渡りて、翠微に登ること三曲(さんきょく)
二百歩にして、八幡宮たたせたまふ。神体は彌陀(みだ)の尊像とかや。
唯一の家には甚だ忌むなることを、両部(りょうぶ)光をやはらげ、利益
(りやく)の塵を同じうしたまふも、また尊し。日ごろは人の詣でざりければ、
いとど神さび、もの静かなるかたはらに、住み捨てし草の戸あり。
蓬根笹(ねざさ)軒をかこみ、屋根もり壁おちて、狐狸(こり)ふしどを
得たり。幻住庵といふ。あるじの僧なにがしは、勇士菅沼氏曲水子の伯父
になんはべりしを、今は八年(やとせ)ばかり昔になりて、まさに幻住
老人の名をのみ残せり。

五木寛之『蓮如』?われ深き淵より
井上靖『星と祭』
井伏鱒二『安土セミナリオ』
沢田ふじ子『比良の水底』
泉鏡花『瓔珞品』
永井路子『一豊の妻』
杉本苑子『埋み火』
水上勉『湖笛』
川端康成『虹いくたび』
立原正秋『雪の朝』〔ほか〕


今日は3月26日比良八講の日である。
近江舞子は白く長い砂浜と幾重にも重なるように伸びている松林に静かな時間を
重ねていた。冬の間は、この砂の白さも侘しさが増すのであるが、比良山系の
山に雪が消えるこの頃になると一挙に明るさを取り戻す。山々もここから見ると
蓬莱山、武奈ヶ岳、打身山などが何層にも重なり合い和邇から見える景観よりも
変化に富んだ顔を見せる。その幾層もの連なりには微かな雪化粧が残っている
ものの、すでに木々の緑がそのほとんどを支配し始めていた。
子供たちの声とともに和太鼓の激しい響きが聞こえてくる。その響きにあわせて
やや凹凸のある道を進んでいくと、左手に紅白の幕が風に揺られるように手招き
している。そして、松林の切れたその光を帯びた先に護摩法要のための杉の枝を
積み上げた小山が見える。小山といっても2メートルのほどの高さのものであるが、
周囲をしめ縄で仕切られ、祭壇が置かれているのを見ると、比良八講の四字が
たなびく旗とともに目の前に大きく浮かんでくる。護摩壇の先には、蒼い湖が
広がり沖島の黒い姿が見えている。陽射しはこれら全てに容赦なく注ぎ込まれ、
更なるエネルギーを与えているようにも感じられる。やがて、法螺貝とそれに
先導された僧や行者が念仏を唱える音、人のざわつきの音、道を踏みしめるなど
の様々な音とともに横を緩やかな風とともに通り過ぎていく。
そして、それに連なる祈祷を受ける人々の一団が思い思いの歩みで現われる。
背筋をキチンと伸ばしただ一直線に護摩法要の祭壇を見ている老人、数人で
談笑しながら歩む中年の女性たち、孫と手を携えている老婆、各人各様の想い
が明るく差し込む木洩れ陽の中で踊っているようだ。
そこには、信仰の重さは感じられない。
法螺貝が止み一つの静寂が訪れ、次へと続き僧や修験者の読経が始まり、
やがてあじゃりの祈祷となる。あじゃりの読経する声は1つのリズムとなり、
護摩法要の祭壇を包み込み、その声が一段と高まり、水との共生をあらためて
想いの中に沸き立たせていく。その声が参列する人の上を流れ、蒼い空の下でやや
霞を増した比良の山並に吸い込まれていく頃、護摩木を湛えた杉の小山に火
がかけられいく。
杉の小山から吐き出される煙はその強さと濃さを増しながら青き天空へと消えて
行くが、その煙が徐々に渦を巻き、龍がとぐろを巻くが如き姿となっていく。
下から燃え上がる炎と渦を巻き上げながら舞う煙が一体となって龍の姿を現し、
ゴーと言う音ともに比良山に向かっていく。ここに護摩法要は最高潮となり、
周りを取り巻く人々も跪き般若心経を唱え始める。
そして、この日から1週間ほどして、周辺の木々はピンクの色模様となっている。
比良山、その頂上にある雪もあとわずかの残り日を残すような風情であり、その
姿を写す舞子の内湖も比良の晴れ姿を映し、桜模様をなしている。
法要の効力であろうか、いまだ比良おろしは来ていない。


西本梛枝(にしもと なぎえ)の話を旅くらぶで聞いた。
詩集や旅の案内書、滋賀銀行発行季刊誌『湖』連載の「近江の文学風景」をまとめた
『鳰の浮巣』(サンライズ印刷出版部)『湖の風回廊』(東方出版)ほかで、「近江」
と関わりのある文学作品をきっかけにして、作家や作品をひもとき、 近江の魅力
ある風景、風土を再認識している。

カイツブリは人相(鳥相)の悪い鳥だ。その愛想のない面構えが好きだ。
雪のせいだろうか、いつもなかなか近づいてくれないやつが、近くまでやってきた。
さて、カイツブリというと頭に浮かんでくるのが芭蕉の句。
五月雨に鳰の浮巣を見にゆかん 松尾芭蕉
芭蕉の俳句の中でこの作品が優れているかどうかは別として、雨の中、鳰(にお…カイ
ツブリのこと)
の巣を見に行こうという芭蕉の気持ちに私の心は惹かれる。そんな意味で好きな俳句の
一つである。

http://www.shiga-bunshin.or.jp/rekisikairou/index.html
レイカディア講座
http://lacadia-clg.com/lacadia-clg-kusatsu-34-40-chiiki/senntsku/1206senntaku/
210802gakusyuumatome.html


春の趣きがあちらこちらから聞こえてくる。
残念ながら、今日は曇り、午後からはかなりの風が吹くとの予想だが、
今はその気配なし。
琵琶湖が灰色になった湖面を見せているが、更にその先には白い色紙の如き朝空の中に
灰色と黒、そしてグラデーションのかかった薄墨色の山々が何層にも重なり
合っている。
モノトーンの世界がこの坂の上から見る琵琶湖全体を覆っているようだ。
しかし、数ヶ月前の冬の情景とは違い、寂しさよりも静けさだけが目立つ。
春は人の心も落ち着かせるようだ。


桂米朝の話を聞いた。
上方落語の再生者である。戦後間もなく戦争や漫才などの人気に押され、上方落語
はその落語家が数人まで落ちて、消滅寸前であったという。そのような状態の中で、
米朝は入門する。
元々、上方落語は口承、伝承が基本であり、書いた資料はほとんどなかったとのこと。
それを現存の落語家や落語の好きな人から聞き取たり、江戸時代の古文書を調べたり、
様々な手づるを活用して180ほどの演目を復活させた。
更に、それらに時流のネタを加えたりもした。
はてな茶碗、、、、などがある。生涯5300回もの高座をした。
本人は、落語こそ「もっとも洗練された芸術」と言うほどに愛していた。
その著作である「落語と私」では、大きな事をするのではなく一日一日を
キチンとやって行くことが大切と言っている。
彼の芸風はその顔や仕草で何人もの登場人物を見事に演じ切る事にある。
また、彼の信条は「直ぐにチャネルを変えるような時代、落語の持つ言葉の
流れから徐々にその面白さを感じてもらえるように落語家は努力するが、
お客もそのように育てることにあった。

世界は殺人の嵐が吹いている。
イスラム国の残虐な行為が当たり前と受け取られる様なってほぼ1年。
イスラム教の教えとはいうが、単に殺しあう事に自分たちの存在を
認めさせようとしている。チュニジアの150人近い学生の無差別殺人や
ボゴハラムによる200人以上の少女の誘拐など、社会はそのときは
一時的に騒ぐが、それも時間が過ぎると忘れ去ったように次の事件へと
流れて行く。世界が傍観者化し、直接の被害者のみがその渦の中で、
自分の受けた傷を癒さざるを得ない状況である。

今、起きている海の異変
北海道の海は、これまでサケ、ホッケにホタテなどの豊かな漁場となってきました。
ところが、4年ほど前から、これまであまり見られなかったブリやマンボウ、
シイラといった魚が大量に押し寄せています。
この魚、もともとは本州から南でよく見られる魚です。
その一方で、北海道のなじみの魚介類の水揚げが減り始めています。
こうした海の異変は北海道の各地に広がっています。
サケの網にブリが大量にかかるようになり、日によってはサケよりも多いことがある。
3年前までは年間1トンほどだったブリの水揚げが、今年(2014年)はすでに
400トンを超えています。
沖縄などでよく見られる魚・シイラの群れです。
2年半ほど繰り返し北海道の海を潜ってきた私も出会うのは初めてでした。
さらにマンボウです。
マンボウは、北海道ではこれまで、時折迷いこんでくる程度でしたが、今年は、
網によっては毎日のように入り込むといいます。
天然のホタテの漁場も潜ってみることにしました。
すると、これまであまり見られなかったヒトデが急増していました。
北海道の北西部の礼文島(れぶんとう)。
コンブで有名なこちらの海。
沖合に進んでいくと、コンブを覆いつくすように別の海草がびっしりと生い茂って
いました。
これまで九州や中国地方などに多く見られていた「ヨレモク」と呼ばれる背の
高い海草です。
北海道全体の統計で、「ホッケ」の漁獲量が15年前の4分の1以下に減っている。
4年前から、春先の水温が、平年よりも2度ほど低くなっている。
夏から秋にかけての水温が最大で4度も上がっているのです。
魚にはそれぞれ生息に適した水温があるため水温が変化すると、
生息域が大きく変わってくる。

魚が取れない・日本の海に何が?
札幌市中央卸売市場で特に高騰しているのがホッケ。
いま全国のホッケ漁師たちが直面しているのが歴史的な不漁。
収入も減っている。
漁師・小西正之は「死活問題」とコメント。
資源量の推移(出典・水産総合研究センター)によると、アジやサバなど食卓
になじみの深い魚の資源量も軒並み減少。
その原因としてあげられているのが、温暖化による海水温の変化や魚の取りすぎ。
欧米諸国に比べると日本には漁獲量を制限する規制が少なく。
早いもの勝ちの漁獲競争に歯止めがかけられていない。
国による制限があるものの、上限は実際の漁獲量を上回り、サイズ規制もない。
漁師・西宮大和は最新の魚群探知機を導入。
見つけたのは成長前の小さなサバの群れ。
養殖魚のエサなどにしかならないが、網を入れた。
自分が獲らなくても、ほかの船にとられてしまう。
規制がない現状では、収入のためにやむを得ないという。
現実的に漁獲量も減り、サイズが小さくなっていることから、値段も
さがって経営が苦しい。
そうなると後を継がせられない。
結果として高齢化が進んでいるのが現状。
国による規制の効果はほとんどない。
漁業経営が厳しいことを考えて、頑張っても取りきれない漁獲量が
設定されているので、実際に漁獲にブレーキをかける効果がない。
魚が減り続けると、そのまま減ることになっている。
現場では魚が減っている。
漁業者のモラルの問題でなく、現在の制度の問題。
取らざるを得なくなっている。
取り残す制度がない。
規制がないことの漁業者は被害者。
テクノロジーの発展で漁業の能力があがるのに応じて、
魚を残すための制度も進化させないといけない。
サバの場合、小さいサイズだとエサにしかならないが、2年待てば
鮮魚サイズになり、高く売れる。
アマエビの場合、きちんとした規制ができたおかげで、自分たちが
獲らなかったものを後で獲れる。
だから漁業者は取り組める。
サバの場合、そういう制度がないので、自分たちが獲らないと
ほかの人が獲ってしまう。
きちんと取り残したものを、我慢したひとが獲れる仕組みを早く導入してほしい。
規制を入れる際は、どの国も苦慮している。
漁業者は最初は大反対する。
だが実際に規制が始まると、5年もしないうちに漁業が儲かるようになる。
そのため漁業者は支持するようになる。
だが最初の政治的ハードルは高い。
待つと価値は上がる。
きちんとした規制をいれ、マグロは6年間大きくしてから獲れるよう
にすれば、消費者もより多くのマグロを今より安く食べられるようになる。
消費者も漁業者も一時的な我慢ができるような支援を政治が支えることが必要。
規制があることで漁業は成長産業になる。
全体の利益が増えるビジョンを共有することと、我慢した人が報われる制度が必要。

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