NHKの鶴瓶、家族で乾杯!の放送で、南房総訪問を観た。 房総うちわを作るしっかりものの奥さんとコマ作りの職人さんの 旦那。絶妙の取り合わせ、多分、ここまで来るのには、それなりの時間が かかったと思うが、素晴らしい。 まだまだ、多くの日本の中に、点在する日本の伝統工芸品を愛し、 創り上げている職人さんがいる。地元の人達とのつながりとその 地方の風土のなかで、楽しく、慎ましく生活する。 今の日本に、求められている姿の様だ。 ご近所には、ガラス工芸の職人さんもおり、何となく、比良地区と重なる。 知のソフトウェアの立花隆より いくつかの断片的指摘から述べる。 ・心がけるベキ事は、自分が何を必要としている、を明確に認識する事。 ・人に問う時は、自分が問われている、と認識する事。 ・5W1Hは、情報整理と論理構成の基本で有るが、それを総合的組み上げるには 質問者の論理的な創造力が必要となる。 ・その1つにコンテを作ると言うやり方も有る。 また、文の流れが見えなくなった時には、徹底的に短文として、それから あらためて、自分が納得するまで追加して行く事。 ・情報は次数が上がる程、精度が落ちて来る。当然、1次元情報を持っている 人との接触が必要である。3次、2次情報者の有効な使い方は、彼らが 持っているより上位の人を聞き出す事。 立花隆が情報のポータブルとして、推奨するのが、 NRIのreserchと言う雑誌。各分野の情報のあり場所がわかるとのこと。 広島の土砂災害 ある専門家の言葉が印象に残った。 昔は、その土地を、いくつかのステージに分別されていたとの事。 もともと、土地は、神との共有に成り立っている。 たとえば、 家の庭ー野良ー野辺ー里山ー奥山ー嶽(タケ)なっていた。 これが、、山村での自然利用の基本となていた。 野良から里山は、傾斜地であるが、奥山、嶽は神に存するものとして、 人間としての利用は考えられなかった。 野良は、平坦な生産場所、 野辺は、傾斜地ながら作物利用の出来る場所、 里山は、利用が可能な樹林地帯であり土砂や水害からの防御的活用、と 考えられていた。昔から言い伝えられ、地域の住民の共有意識で あったのだ。 それが、経済の原理が働き、その土地を、神との共有ではなく、 単なる資産、スペースと考える様になった。 この考え方は、今の我々には、当然の事と受け取られている。 日本全体がそうなのである。 私達の周辺も、その様な新規開発の場所にあるのだから、とうぜん、 考えなくてはならないのだが、、、、、、? キチンと意識を持つべき時期が来ているのかもしれない。 9月1日、アサイチを観た。 シニアトラブルと言うテーマであった。 シニアの列への割り込み、親切心から申し入れに対する逆ギレ、携帯電話 での大きな会話などなど。 よくある話ではあったが、気になったのが、年齢に伴う頑固さの増加である。 自身の過去の経験から来るこだわりや肉体的な衰えに対する自己反発である。 60歳からかなりはっきりしてくると言うデータもある様だ。 最近は、ジェロントロジー(老年学)が、結構研究されているとのこと。 参考程度でも、見ておく必要が有る。 そこで、感じたのが、最近の我が奥さんの言動である。この数年前からの態度と 比べると、自由な発想が少なくなり、思い込みが強くなった。 息子達も気づいている様である。 今後、それとなく気にかけて行く必要がある。 特に、来年4月からは、仕事を辞める事も考えて行くと、趣味の充実、付き合いの 拡大、などなど、単なる家の中の事だけで生活をして行くと、今の様な態度では、 ボケと頑固さだけが、強くなり、介護への心配が増える。 特に、藤井の母の病気があの様に酷いものであったし、その娘である事もあり、 かなりの要注意である。 8月28日nhkの15人家族の記録を見た。 衝撃的であった。 今までの自身の行動、考え方を否定された様である。 京都南丹市の子供13人と頑張る夫婦の日常生活の記録であるが、 金銭的には、かなり苦しいと思うのだが、皆さんの顔が活き活き としている。とくに、夫婦の顔が良い。この親にして、この子ありだ。 我々の世代は、高度成長期と言う流れに中で、豊かさ=お金の多さ? と言う考えが必然的に出てきた様に思う。 しかし、ここでは、大分違う。 あえて言えば、日本の大家族性が生きていた良き時代がある。 中学校の娘から小学校の娘が、ある意味率先して、家族を世話する。 しかも、下には、8ヶ月の幼児までいる。 母親の言葉が良い。 命の尊さを大切にするため、ここまで子供を創ってしまたった、という言葉。 自身の今までの生活を考えると、その必然性は認めるが、息子3人に汲々としている 現状の姿が、なぜか?哀しくなる思いだ。 多分、この映像をまとめたディレクターは、かなりのポジティブ性の高い人なの であろう。 幸福とは、何かを、日常生活を撮ることにより、明確に示している。ここでは、 愛情と美徳と言う、考えが似合う様だ。 自身も、いま、第六転換として、次へ進もうとしているが、どうも、浅はかな 自分に気付く。第五転換から第六転換をその延長として、考えて来たが、 全く違う次元のレベルで考えないと、残された時間に対する有意義な結果は 得られない。 まずは、過去の自身の否定がある。 ・今までの生活習慣は、自身の能力を徹底活用するための効率性重視 であったが、それを見直す必要がある。 たとえば、起きる時間を5時としても,自分が気持ち良く生活出来るのであれば、 いつの時間でもよいのでは? ・自身の効率性や優位性を考えた場合,自身の規準を中心に進める事が善として、 考えて来た。しかし、まずは、現状への深い理解とそれを素直に反映させる 姿勢、行動の変革が求められる。 当面、考えるべきは、(^-^)/原点回帰への旅(^-^)/に対する上記の自己否定に沿った 見直しである。 ・何故、私は歩くのか?歩く行為に対する再度の問い直しが必要である 無目的に、(^-^)/ただただ、歩く(^-^)/事に、終始する。第五転換までにはない、 発想である。 ・途中見聞する現状をどう自身の中に取り組むべきなのか? その街の人々の生活は?nhkの鶴瓶の番組の様な素直な人の姿の見聞、 寂れている商店街、里山などの見聞、触れ合いなど。 これらを第五転換までの自身の行動と同じく、単に通り過ぎる物体?の様に して行くと、この旅の意味を失い、挫折すると思われる。 これは、潤への対応にも言える。 まずは、潤もまた、原点回帰への悩みを持っている事を認めよう! そして、何年かかるか?分からないが、それをベースに、自身を どう変えて行きたいのか?を待つ事とする。 唯一も含め、我々は、それを支援する立場、決して無理強いしない、 で、見守る事とする。結果として、残された唯一、亮に迷惑がかかるかも しれないが、それは、、家族としてのつながりで、頑張ってもらうしかない。 作家は、五感全部を使う事が必要である。 見えないものを見る。 聞こえない声、音を聴く。 心で触れるものに触れる。 心と眼で味わう。 人の心の匂い、自然の匂いを素直に嗅ぐ。 そして、一番、大事なのが五感にはないが、 心にあるモノ、ありそうなモノ である。 病院の夜は、静かである。 緊張と希望を交えた静けさである。 無機質な壁と蛍光灯が、周辺の様々な匂いや色を消し去り、 静かな床擦れの音とそれを介する静けさがある。 コトコトと軽妙な音が静かに聞こえてくる。点滴液を運んでいるのだが、希望と勇気 も一緒に運んで来る。 白いカーテンの先から見えてくる僅かな光が廊下を照らし出している。 看護士の白い影が、スーと流れる。また、患者さんからの呼び出しである。 人が、行く。実体はあるのだが、何かあるだけのモノ? 病院は、病気と言うキーワードでつながる非日常の世界でもあり、 患者もいる、見舞いの人もいる。 服装も色とりどりであるが、それを解き放つと人が覆い隠している 姿が垣間見えて来る。 それぞれから聞こえてくる声を聴いていると、その人の過去と 日常の生活が何となく、感じられる。 夫々が夫々の空気を持っている。たとえば、 永く闘病している人の空気は薄く、透明度が高い。 今入院した人の空気は濃密である。 圧倒される濃さがある。 見舞いの人の空気は、何故か?汚れている。 まるで、ウィルスや病原体が、攻めて来ている様な感じもある。 とくに、エレベーターの様な凝縮した空間では、それが、顕著だ。 心にある何がしかの声、不満、妬み、失望、喜び、などが一挙に その空間に充満する。 雲が様々な色合いを持つ木々に、時には、深く、時には、白く、時には黒い不安な 影を落としながら、流れて行く。 今日も、日差しは雲の兵隊達に阻まれ、その雄姿を見せてくれない。 しかし、既に、 人間世界の営みは始まっている。木々の間に無様に広がる無機質なコンクリート の道を行く車や玩具の様な緑と橙色の電車が、音も無く通り過ぎて行く。 鳥達が風に逆らいながら、我が家に戻るのであろうか、1羽が力強く、羽ばたいて 南へ飛んで行く。 その下を、やや元気のなさそうな人々が、その糧を求めて、歩き去って行く。 車が数台、 その横を我がもの顏で通り過ぎて行く。どけどけ、人間ども、!! 朝靄の中から比叡の顔が覗いている。遠く比良方面には、やや薄い雲の傘が静かに漂っ ている。 夏の朝が、足元に広がる。朝日を浴びたビルの下を 行きかう人の足取りはやや重い?月曜日とお盆明けの影が体全体に漂っている様が見え 隠れする。 しかし、街は動いている。夏の暑さと比叡から三井寺まで続く木々の彩り、 強い影を落とし始めた朝日が、夫々に縦糸と横糸を織り成しながら、今の街を作ってい る 様だ。雲の切れ切れとのんびりと飛びかう鳥達の点描の様な変化を除けば、 昨日と変わらぬ日々が続いている。 多分、これが、69年続いた重みなのであろう。当たり前の情景と当たり前の営みが これから始まる。 鰯雲が、西へと流れて行く。赤い色とやや青みがかったいく筋が比叡の山にへばりつい て いる様だ。明日は、天気なのであろう。鳥達も何か、リズムを持って軽やかに飛んでい る。 少しづつ明かりが灯り始めている。我が家でも、腹をすかした猫族が、大騒ぎをしてい る に違いない。まあ、食べる事に関しては、負けない連中であるのだから。 少しづつ増える明かりに合わす様に、空と周辺の趣きは、暗さを増していく。 やがて、夜の帳が、全てを支配し、人々は、夕食の安らぎと明日へのエネルギー を得て、眠りに着く。 白い閃光が、コンクリートの隙間を走り抜ける。更に、下には、赤いテールランプ の花が咲き誇っている。 今日の仕事に疲れ、また、彼女との事で喜びを噛み締め、明日の仕事への緊張感 をそのままの人もいる。 やや黒ずみ始めた浮雲と僅かに残った鰯雲が、それを見つめている。 まさに、戦い終わり日がくれての1日が終わるのであろう。 赤い4つの目が世の世界を睥睨するかの様に、光っている。 黒い闇が周りを覆う中、 俺は、世のため人のためによるも寝ずに頑張ている、かの如くである。 高層マンションが少ない中、 その一際目立つビルの上には、今日もま他、いつも通りの光景が広がる。 既に、比叡の山並みは暗闇の中で、後休息か?静かな寝息さえ聞こえる。 黒はあくまでも黒く、 白い光はあくまでも白く、 赤い光はあくまでも赤く、 都市の夜に彩をさしている。 既に、この窓から見る風景も1ケ月あまり、毎日が、ただ、通し絵のように過ぎて行く 。 今日もまた、近くを死を迎えた人が、白い布に包まれとおり過ぎて行く。 死は静かなものである。 病院で死を見るのは、当たり前と思っていたが、違う様だ。 これは、非日常なのである。 そして、 死を覆う雰囲気は、その重さと空気の濃密さは、大分違う。 それは、生命体として、発散していた人間のエネルギーが 失われ、死のみのエネルギーが支配しておるからかもしれない。 患者にとっては、緊急でここへ来たのだろうから、この様な事を言っては、失礼かも しれないが、その持つ空気と合わせ、体力の低下に伴う日頃の隠し通しておるもう1つ の 姿が浮かび出て来ている様だ。 また、入院中の人は、更に、 ただ、静かにベッドで、息のみをしている様な人、 様々な器具を付けて、以下にもここにいるのだ、と誇示している人、今だ迎えにこない 親族に 早く来てと懇願し、怒鳴っている老人、金の依頼をそーとしている人、退院の喜びに溢 れている人、 ただただ己の我を通そうとする老人、やや老醜にちかくなりつつある人? 年と言う仮面はここでは通用しなくなるのであろうか?結構。赤裸々な日常生活では 抑制された姿が更に、、強く垣間見える。 気付かない内に、自身の普通の?姿が出て来ている。 ここには、非日常の人間模様があるが、日常人々のつながりも出ている。 そう言う自分もそのプレイヤの1人でもあるが。 比叡の山に、ドカンと灰色の綿飴の様な雲が居座っている。 蒼い水と黒白の水滴の塊、そして、何十となく見える木々の緑の葉達。 緑色にも、これほどの色があったのか、不思議と感激の昼天である。 これから、やがて、赤紫に覆われ、やがて、1日が次の場面になって行く。 平穏な日々が今日も過ぎて行くのだろうか?? また、死が目の前を通り過ぎて行く。 3度目のことか? ここでは.死は、当然の行為とは言え、あらためて考えさせられる。 まだ、自死に強い関心を持つ私にとっても、避け得られない行為のはずである。 死の持つ空気は、透明な様ではあるが、生きている人間の持つ空気とは、少し違う。 生命エネルギーの持つ、所謂、人としてのこだわりが無くなるかもしれない。 比叡が泣いているのか? どんよりとした幾重にも重なった灰色の絨毯の下で、何か悲しげである。 広島の方で、数10人以の人が、山崩れで、亡くなったとのこと。 先日のここでの死は、ある意味必然性があるとは言え、日常性の 日々が、突然の非日常化する事に、人間は慣れていない。 私の死の場合は、個体1つの非日常化ではあるが、それには、日常性 の高いつながりがある。有りていに言えば、私の存在は、 私だけでは無いのだ!連綿と続く生命保持の仕組みの1つなのだ。 ある方が、その様な趣旨のことを言っておられたのを、突然、 思い出した。 目の前に、老人がいる。 白い髪の下には、何10年の楽しさ?苦しみが、静かに見え隠れしている。 薄い赤いシワのある顔には、絶望感よりも安堵感が漂っているのだが、 シワの見える黄色の作業服を、規則的に動かしている。 私よりも、年は、上か?少し半目の状態で、自身の存在を 確認しておる様にも見えるが、その心うちは,わからない。 友達らしき人が,荷物を1つかかえながら、その影で気付く。 お互いの目が合い、2人は、ノロノロと、立ち上がる。 彼らの日常と生活が見えない糸で手繰り寄せる。 無機質な空気と消え掛かった影だけがそこに残った。 いずれ、私もこの様になるのだろうか?! 人間は、孤独な生物とは言え、 やはり人との繋がりには、、、、、、さて、数10年後は。 夏の朝。 静寂が、ある。 西の空には、薄青い空と深緑の比叡のお山の間に、茜色の真鱈雲が幾重にも、 重なり浮いている。人の営みはまだであろうか? 少し上を見上げれば、朝の光に、やや押され気味な、スズメ達が数羽、 東のこれも、ようやく顔を出したお陽様に向かい飛んで行く。 ここ数日、山の稜線がまず、薄く光り始め、その線が色濃くなる情景を 見ている。やがてその広がりは、周辺の神社、ビルに静かに伝わって行く。 街に拡がっていた人工の光を遮り、朝日のひかりが、それらを駆逐して行く。 そして、 突然、東からその圧倒的な力で、すべての暗闇を払い除け、朝日が顔を出す。 そこには、何の躊躇いもない。ただ一直線に、光は進む。 日が少しづつ翳り始めた。 深緑の山裾を薄煙の様な雲が、まるで、高い波に対して、小舟の様に すり抜ける様にすり抜けて行く。 小気味良く、チョットカッコをつけながら。 しかし、 すでに、比叡のお山には、厚い雲が、墨汁を流すが如く、覆い被 って来た。琵琶湖にその優雅な佇まいを見せていた高層マンションが あっという間に、かき消される。一瞬の内に、全てが雨の中、鋭く 牙を剥いた水の集団が、凄まじい水音を建てて、眼前を流れる。
2016年10月9日日曜日
日々の記録その1 (野辺、病院から見た情景もあり)
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