生産者との直接な関わりを楽しむ マイ農家、マイ漁師と言う言葉がキーワード。 自分の信頼する農家や漁師から直接購入する。 大船渡で漁師をする人がSNSで、捕れたばかりの魚を参加者で味わう事や、 無農薬の米つくりの農家が普段購入してもらっている消費者に稲刈りのお手伝いを お願いし、250人ほどの人が応援に駆けつけた、という話題があった。 地産地消は、いまや知産知消となって来た。これが進むと空き家となった古民家を クラウドファンでリングで500万円以上集め、古民家を寄付者の集まる場所とした。 これにより、都会の参加者と地元の農家との交流もあり、古民家を中心とした コミュニティが作られた。 まだ、小さな活動の様であるが、この考え方はほかでも色々な形で、地域の活性化に つながるのでは。 ブラタモリ出雲大社 江戸時代以前はあまり知られていなかった。 しかし、出雲御師という人たちが全国にその布教を進め、その存在が全国的にも 知られる様になっていった。 さらに、遷宮がこの街の活性化を促した。 また、街の人はこのような行事に合わせて、富くじを売り出し、更に人集めを 行うと同時にわずか、8日の大祭では今の金で28億円もの売り上げを上げた。 更には、明治に鉄道が敷設されると大鳥居の勢留からの参道を大社おおやしろ 駅に近くなるように新しく造った。現在の駅は廃駅となっているが、建物として 残され、250年前から有名な駅舎となった。最盛時には年間で100万人の 参拝者がこの駅を使って、大社もうでをしたとのこと。 出雲大社は天井に7つの雲の絵が描かれており、近くには十九社という茅葺の 建物がある。これは全国から来る神様のための宿とのこと。 ブラタモリ軽井沢 昔は中山道の宿場町として栄えた。碓氷峠を越すためにその休息の地として 多くの旅人が使った。しかし、明治以降、中仙道としての利用が鉄道に変わられると 寂れて行った。しかし、夏の保養地として宣教師たちが使い始め、明治の終りには 100件ほどのユニオンチャーチが建てられた。 軽井沢が拓けた理由の一つにここが火山による火砕流によって出来た平坦な 土地であったから。この土地の広さと夏の保養地としてのよさに眼をつけたのが、 野沢源次郎と言うひと。彼はまず、土地としてのステータスを上げるため、 上流階級の人を積極的に呼び込んだ。さらに、同心円型の都市開発を行い、 日本では見られない景観を作り上げた。道路はすべて、六本辻という中心点に 集まるユニークな造り方になっている。 今の若者は恋愛をしない。したくない。 アンケートなどでも、12000人からのデータでも、恋人はいないが、恋愛を したくない若者が60%もいるという。バブル、平成時代直前では、恋愛は当たり前 の行動であったが、今は違う。生涯未婚率も平成の初めから上がり、今は男性が 20%ほど、女性が10%ほどとなり、いずれも増加傾向は変わらない。 何故、若者は恋愛をしないのであろうか? その理由に挙げられるのが、面倒くさいがトップである。恋愛をする時間があれば、 他の自分にとって有意義のあることに使いたい、相手の事を色々と考えるのが大変、 など昔には考えられなかった事である。 外部的な要因を考えれば、恋愛の情報が多くあらためて自身で体験する必要がない、 価値が多様化してそちらへの行動が優先する、年収が少なく将来が見えない、など 様々である。恋人がいることが常識の時代であった我々の時代から、大きく 変わってきている。 老後破産と言う言葉がある。 今、親と同居している中高年の人は10年前の2%から10,5%になるという。 これには、この世代の収入が100万円以下の人が3割から4割に増えている 現状が大きい。年金だけの暮らしをしている世帯が4割以上ある中で、低収入の 息子や娘が同居する事態となって、共倒れになる可能性が増えている。 また、低収入のため生活保護を受けていた老人が、働けるはずの息子たちが 同居する事で生活保護を停止される。老人が毎月10万円程度で生活していた中で、 生活保護とあわせぎりぎりの生活がこの停止により破綻する。 高齢者が益々増え、昔は親を支える事が普通だった息子たちが低収入や失業が 常態化していくことで、これは多くの家庭で起こる事にもなる。 農事暦七十二候 半夏生はんげしょうは、二十四節気の夏至を3つにわけた 最後の3分の1 (第三候、末候)。 雑節のひとつとして残っている。夏至のほかの候は、初候(第一候)「乃東枯」、 次候(第ニ候)「菖蒲華」である。やはり植物などと関連している。 昔の農事暦では、この頃までに田植を終えるとされていた。 (二十四節気をそれぞれ3つにわけた「七十二候[しちじゅうにこう]」という) https://kinarino.jp/cat6-%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A 4%E3%83%AB/10552-%E5%AD%A3%E7%AF%80%E3%81%AE%E7%A7%BB%E3%82%8D%E3%81%84%E3%82% 92%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%84%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%A7%E3%80%82%E3% 80%8C%E4%B8%83%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%80%99%EF%BC%88%E3%81%97%E3%81%A1%E3%81%98% E3%82%85%E3%81%86%E3%81%AB%E3%81%93%E3%81%86%EF%BC%89%E3%80%8D%E3%82%92%E3%81% 94%E5%AD%98%E7%9F%A5%E3%81%A7%E3%81%99%E3%81%8B%EF%BC%9F?page=4 ----------- 彼は、妻の実家の京都に行くと、必ず銭湯へ行った。ここに来ると不思議な懐 かしさ と安らぎがあるからだ。別に銭湯であれば、京都でも大阪でも横浜でもどこでも 良かった。1年間の単身赴任であった名古屋でも毎日銭湯に通った。 その銭湯も子供時代の記憶から大きく変わってきた。人のつながりがなくなった。 横浜の子供時代には、番台にいた奥さんに良く怒られた。湯船をプール代わり に潜ったり、泳いだものである。木で作られたロッカー、柳の籠と富士山を描いた 湯船はどこでも定番であった。差し込む夕陽の赤い色の中に浮かぶ湯気が朝露の ように湯船を被い、白いタイルと一体となって穏やかな空間を作っている。 更に、夕食過ぎともなれば多くの親子連れのざわめきが湯船の水音、タイルの上で コトンと鳴る木桶の音、身体を流す湯音、音の全てが協奏しあい、裸の人々に活気と 寛ぎを与える。湯船の仕切り越しに交わされる「お父ちゃん上がるよ、俺上がるぜ」 といった何気ない会話が何気ない日々の幸せを醸し出す。時折、湯船の上を 見上げれば、ガラス越しに白く満ち足りた月や雲間に見え隠れする弦月の光が 白く霞む様に広がり、湯煙の中にも浮き沈む。そして、風呂上りのサイダーのあの 微妙な甘さと咽喉越しに伝わる心地よき開放感、町内の年寄りたちが井戸端会議 ならぬ風呂端会議のざわめきと女風呂から聞こえてくる嬌声と子供のなき声、 これら全てが彼の明日への力となった事もあった。 夏ともなると、風呂屋の前の縁台で湯涼みを兼ねてなにやら人まち顔の若い女性の 頬を紅潮させ、艶やかな肌を見せる彼女に一時の恋を感じる。 眼を閉じれば、1枚1枚、色褪せたモノクロ写真をめくる様に和邇の記憶に現れ、 体の奥底から白く沸き立つ水泡が浮かび上がる。その明るさと軽さが彼をして、 安らぎを得る。どのような悪い気分、落ち込んだ中でも、それが重く沈みこむ気持 に軽さを与えてきた。 今は、スーパー銭湯や源泉風呂と銘打った様々なお風呂が出来ている。しかし、 昭和の終りまであった地域のお付き合いの場としては、その影は薄い。彼もまた、 ここからは気持の晴れ間を得る事はなくなった。ときおり、銭湯に行きたい、痛烈な 感情が湧き上がるときもある。 その大きな松の木を昇るにつれて、前後に松葉重なり、家々の形は影も留めず、 深き翠を一面に、眼界唯限りなき漣(さざなみ)が群れを成す。幹から幹、 枝から枝、一足ずつ上るにつれて、何処より寄することもなく、艶たる波、 白帆をのせて背に近づき、躑躅を浮かべて肩に迫り、さかさまに藤を宿したが、 石の上に、立ち直って、今や正に、目の下に望まれた、これなん日の本の一個所を、 琵琶にくぎった水である。妙なるかな、近江の国。卯月の末の八つ下がり、 月白く、山の薄紅、松の梢に藤をかけ、山は翠の黒髪長く、霞は里に裳もすそ を曳いて、そよそよとある風の調べは、湖の琵琶を奏づるのである。 霜のように輝いて、自分の影の映るのが、あたらしいほどの湖面。湖水はただ茫漠 として、水や空、入り江の島は墨絵のように見える。御堂の棟と思い当たり、 影が差し、月が染みて、羽衣のひだをみるように夜の湖水は静かにある。 全てが静寂の中に息づいていた。あらためて己が存在の小ささを感じる。 朝の空は青一色、そこに櫛で梳いたような雲がたなびき、木立の向こうには 、 いまなお細い月が消え残っている。前夜の雨はすでに消えていた。和邇は また歩けることに安堵した。しかし、彼の頭は思考停止状態に陥っていた。 けれど、広々と視界の開けた自然な中に立ったいま、彼はふたたびある場所 と次の場所との中間地点にあって、頭には、様々な情景がなんの束縛もなく 去来していく。歩きながら、この10年のあいだ考えまいとして必死に抑え つけて来た過去のもろもろを解き放った。おかげで、いま彼の頭の中では 過去だけがけたたましくさえずりながら、独特の騒々しいエネルギーで 駆け巡って行く。夜来よりの雨が小さな宝石の雫を光り輝かせる野辺の道、 この自然が描く一幅の浮世絵の中を、あこがれの目で眺め、自分の素足が 柔らかな草花に沈むところを想像した。横をほとばしる水が鞭となって 空気を打ちながら、ときおり陽の光を捉えてきらめき流れて行く。 その流れに合わすかのように、父と母に手を引かれて小学校入学に向った日、 息子の七五三で、家族5人でお宮参りをした日の青いブレザーを着た長男 のなんともいえない晴れがましい顔、白き棺に納められた父の死に顔の静けさ、 脈絡のない記憶が流れる水の光にあわせ浮かんでは消えていく。 そして、今ここにいるのは一人、寄るべきなき老人がいる。 生の輝きから外れたものにとって、この景色は残酷な仕打ちの様でもある。 眼前に広がる青い稲穂の並び、さらに3メートルほどに区切られたその水田 が幾重にも連なって岡の下へと一直線に伸びている。遠くには、駿河湾の 銀色の波頭が数千の煌めきとなってこの棚田の在り様を一段と高めている。 ここを耕してきた人々には、四季折々、朝夕の勤めの中で、当たり前の光景 であるが、今ここの自然風景は、農業、漁業、日々の暮らし、更には様々な 交通など等、社会は変われど、生活は変われど、我々日本人の生活と つながっている「営み」がこの風景の中に溶け込んでいる、和邇は思った。 見ていると、自分自身もこの中に吸い込まれていく、そんな感覚になった。 より生活を楽しく、便利にするという経済優先の社会の中で、開発と言う 美名の下、あらゆる破壊が地球全体、日本各地を覆い尽くそうとして いるのに、この日本の中には、自然の時間に逆らわない空間がまだまだある。 しかも、これらは、「自然と人の営み」が一体化した風土として息づいてきた。 残されたわずかな時間であろうが、和邇は今の比良山と湖の自然がとりあえず 残るあの場所で最後を迎えたいとも思った。 眉高き十一面観音 「一歩、薄暗い堂内にはいって、思わず「まあ」と声を上げる。正面にすらりと立った 美しいお人。それはその前に献じられたばらんの葉をかきわけて、今にもこちらに 歩み寄りそうなゆらめく気配を感じさせた。これは美しいお方に会ったものだ。 まだその眉目を判然と見極めもせぬ先にこみあげてくる印象。それはこんな方が こんな所にいらしたのかという、悲しみにも煮た感動なのである。 電燈に照らし出された面を、近づいてよく仰ぐ。まことに、けざやかな眉を高く あげた美女である。近づく者をおどろいたように見つめている瞳。斜視の 魅力とでもいおうか、右目は真ん中にあるが左は鼻筋に瞳がよっている。 人間的な、肉厚い唇と、ノーブルな鼻の形。はえぎわの髪のゆたけさも、情の濃さ をあらわしている。耳朶に目立って大きなイヤリングがついているのも, 宝冠の飾り紐が、左右に長く垂れなびいているのも、完全に美しい女性を意識させる。 十一面の冠が相当大きく、頂天の菩薩面までいれると二メートル以上はある かもしれない。 漣の芯まで一本造りの木造だが蓮弁は新しくつくられたものとか。冠中央の 阿弥陀仏も後補のものだというが、全身、不思議なほどに滑らかで、痛みが ほとんどみられない。」 富士の姿は変わらない、と思った。会社の仲間と富士五湖まで遊び に行ったとき、 家族連れで河口湖近くの遊園地に出かけたとき、三島の研修所から見上げた時、 様々な人と様々な場所から、見てきた。今も、その歩みは遅いものの、徐々に 富士に近づいてもいる。自分の遠い記憶の中にある姿を1枚1枚とアルバムを めくり出す様に、その姿を思い起こす。頂上に雲をいただき、その顔を隠した富士、 恥ずかしそうに白い帽子を被り、その下からこちらを覗っている様子の富士、 全身白き衣で覆われた白装束の富士、女性と似ているとも思った。あえて言えば、 中年の女性のそれである。ごつごつとした肌をその白き衣などで隠し、裾野 に広がる緑の海で、優雅さを見せようとする。まさにそれは北斎の描く遠謀の 富士の世界であり、広重の旅の中の1小節かもしれない。遠目の美しさで多くの人を 魅了してきたのだ。富嶽三十六景「相州仲原」には、遠景の富士の稜線とあわせ、 川岸の道狙神や茅葺屋根と鳥追いの鳴子の三角形が橋を渡る巡礼の一行とともに その風情を調和良く伝えている。また、「駿州大野新田」では、葦が茂る湿地帯 と浮島を手前に正面に見える富士のその時間を超越したような姿と枯れ草を運ぶ 農民を一番手前に置き、日々を営む人間を描くことでうまくその対比を描いている。 北斎が富士に対してどのような気持を持っていたかはわからないが、少しづつ 大きさを増す富士を見ながら、北斎も富士を絵の対象以上に思っていた、 和邇は漠然と、考えていた。 しかし同時に、比良山系、白山連峰、など神としての存在を受けし山々の1つであり、 自然との調和と人が持つ美意識を喚起させる霊峰でもあり、多くの人の信仰の 対象でもあったことも納得できた。自然とのつながりを直感的に感じていた古代の 人々にとっては、寄ってすがるべき何かの存在であり、今その山を見ながら 歩いている自分も、体のうちから沸いてくる不可思議な気持の高まりを 感じていた。富士を撮り続けて数10年の写真家が、時によって、写真を撮る 事を忘れ、ただ至福のときを過ごした事が何回もあった、と述懐している記事を 思いだした。そんな時、富士は、彼にとっては人生の全てであり、神としての 存在なのかもしれない。更には、北斎の「山下白雨」は、山肌が夕陽に赤く染まり、 尾根襞に沿った残雪の白い筋と山裾で光る稲妻を描いているが、これは風景画 と言うより神としての富士の強さを描いたもの、この絵を見るたびに、和邇は 思ったもである。その昔、富士講として、毎年6月になると大勢の人がこの 神の山に押し寄せたというのも、納得できた。原理原則、定量的な自然理解 の現代では、自然を肌で感じるということが難しく、江戸時代の人々、更には もっと古き時代の人にとっての富士は特別な意味があったのだ。そこでは、 仏の教えのようなものよりも、直感的に感じられる本能的な何かに頼っていたのであろ う。 すでに、富士を真近に見て2日、和邇は自身の変化を感じていた が、まだどっぷりとある心と体の重さを減じるまでには、なっていない。 小満と言われる5月後半にこの旅をはじめてから約半月、すでに6月の 初めとなった。 芒種といわれる季節となり、芒(のぎ)を持った植物の種をまくころであり、 「暦便覧」には「芒(のぎ)ある穀類、稼種する時なり」と記されている。 歩くにも一汗が二汗となり、周囲の山や畑、全てに緑の光が満ちあふれ出し、和邇の 身体を被っている。 俗に、「麦秋至」(むぎのときいたる)と言われる、麦の穂が実り始め、収穫するころ を過ぎ始め、季節は初夏となっていた。遠くに見える黄色となった麦にとっては収穫 の「秋」であり、名づけられた季節が「麦秋」だそうだ。すでに、芒種である。 昔の人は上手くこの季節を「蟷螂生」(かまきりしょうず)、「腐草為蛍」 (くされたるくさほたるとなる)、「梅子黄」(うめのみきばむ)と言葉にしている。 いずれにしろ、やがてホタルの幻想的な光が彼の前にも現われてくる。和邇は、 何故、ここにいるの、と言う自問自答とともに、一斉に生茂った庭の木々の中で、 ただひたすらポーチの上で過ごした昨夏の自分の姿を思い起こしていた。あの時の 闇の世界を、いまこの足で破りつつある、それが自分への回答なのだ。 4人の女性に囲まれながら、和邇は、各人の表情をそれとなく観察した。 正面にいる人をはじめに見たとき、若いな、と思ったが、その表情はどこか 年輪の跡が出ていた。皺が多いわけではないが、肌のつや、目尻のたるみが じわりと見えてきた。多分、若さを感じたのは、着ている服の色使いが、 他の人よりも、明るく髪の毛の黒さからきたものと理解した。むしろ、 彼女の横で和邇にも色々と説明をしてくれるリーダーらしき女性のほうが 若さを感じた。背恰好がきやしやで、顎筋のすらりとした、やや痩せ気味の 体がその印象を少し年かさに見たのかもしれない。鼻がやや高く、重々しい まぶたの裏に冴えた大きな眼球のくるくると回転する様に見えて、 生え揃った睫毛の蔭から瞳が、細く光っている。顔には少し皺が見られるものの、 その話し振りと仕草からは、何かに打ち込んでいると言うエネルギー が感じられた。他の二人は、どこでもいるオバサンと言う風情で、やや 緩んだ身体に合わすかのように緩めのシャツとスカートでそれを隠していた。 少し蒸し暑い部屋の暗がりに、馴染むかのように二人は地味な色合いの 服で、その雰囲気を更に助長させていた。しかし、和邇が眼を閉じると、 彼女らの声や息使い、そして熱気が攻め寄せてくる。このようなエネルギー はどこから来るのか、頭の中で幾度となく反芻した。 今でも昼間には、世話をしている雌犬のルナの事を思い起こした。たえず、 動き回るあの仕草や行動が今は懐かしく感じられた。 古くは、和辻哲郎氏の指摘した家の考え方の西洋との違いがあり、明治以降 徐々に 浸透した西洋文明なるものの影響と戦後の急激な経済発展に伴い、日本の文化も 大きく変化していきた様に思う。以前読んだ、日本の古きよき時代に憧れて、 過疎の村に住み着いたある英国人の指摘が浮かんでくる。 今の西洋人の服装、家の造りなどは、ヨーロッパの中で幾多の変遷や自然との 調和の中で、自然に発展してきたのであり、「現代の生活と昔の生活」の間には、 余り矛盾を感じぜずに生活が出来る。しかし、現代の日本、中国含め東洋全体 としても、服装、家の造り、習慣などは、その伝統文化とは関係ないものである。 例えば、京都や他の古い町並みを見て優雅、綺麗などとの気持は持つものの、 自分たちの現在の生活とは関係がないことをわかっている。そのため、各地は 観光と言う形での存続でしか生きられないような状態にもなっている。このため、 それ以外の都市や田舎の町は、生活と経済優先のたて看板、くもの巣状の電線、 コンクリートの無機質な建物に溢れかえり、伝統的な生活様式は影を潜め、 忘れ去られた存在となっている。この旅の中で、和邇はあらためてその情景を 思いめぐらす。敦賀から郡上八幡までの神社仏閣の数々、又その途中に点在した 古民家への想い、さらには、旧東海道の昔の家並み、宿場跡と併走する形の 今の幹線道路とその無秩序な町並み、コンクリートジャングル状態の町全体の持つ 無機質な世界はまさに自分で見てきた事実でもある。 確かその外国人も更に言っていた。 「30年前に来た時でも、既に日本の自然破壊は目立っていたにもかかわらず、 民間からの抵抗や不満はほとんどなく、更に急ピッチで破壊は進み、いま、 日本は世界でも一番醜い国の一つになっている。彼の友人が来ると失望 する。どこまで行けば立て看板とくもの巣電線、コンクリートが見えなく なるのか、とも言われる。多くの街には無数の電柱が立ち並び、人の頭の上は 電線の網地獄となり、日本の街のごみごみ感を一層募らせている。とにかく 信じられないほどの無神経さで、自然の美しさを破壊している」。 更に彼は言っている。 「このような状態を日本人が気付いていないということが一番信じられないし、 そのような環境にありながら、日本の自然は美しいと言っている、その観念は どこから来るのであろうか」。 歩くという事はそういうことなのか、ふと思う和邇である。3年前に病気して、 歩く速度が今までの半分ほどになった時に感じた感覚そのものであった。同じ 湖とその周辺の景色、普段歩いていた町並み、道々の光景がすべて今までとは違う 世界に見えたのを思い出した。自分の見る世界がある速さの中では、大きく変わる。 ましてや、人が違えば、同じ情景もまた違う。今まで歩んできた道を 車で走ったとすれば、又違う感情が芽生えるかもしれないが、この旅で感じた ことが素直な今の世界なのだ。そして、あらためてここ十数年の琵琶湖の 自然の残る世界での生き様に我ながら感謝の気持がわいてくる。まだわずかでは あるが、残る自然とその調和の中で過ごせた事への感謝である。特に、 横浜、東京へと近づくにつれてその想いは強くなっていった。 当たり前と思う世界が、実はその文化とは違う文化で育ったことにより、当たり前 ではなくなる。至極当然のことなのかもしれないが、今の日本人で、それを わかる人は何ほどもいるのであろうか。 関の街は和邇に不意打ちを食らわせた。彼の中にいつのまにか出来上がっ ていた ゆったりした体内リズムが、この都会の凶暴なまでの激しさを目のあたりして、 いまや崩壊の危機に晒されていた。ここに来るまでは、山々の間を流れる渓流であり、 せせらぎと緑一色の世界、更には、どこまでも開けた大地と空とが与えてくれる 安心感、すべてが人としてのあるべきところにあるという安心感に寄り添って 来られた。 自分自身がたんなる和邇と言う一人の人間ではなく、もっと大きな何者かの一部だと 思っていられた。なのに、あまりにも視界が限られ、喧騒と忙しさのこの街では、 何が起きてもおかしくないし、その何かが何であっても、それに対応する心構えが 出来ていなかった。足の下に、たとえ痕跡でもいいから土がないものかと探して みても、眼に入るのはアスファルトばかりだ。何もかもが彼に警告を発していた。 行きかう車も。ビルも。携帯電話でわめきながら先を急ぐ人も。そんな顔のひとつ ひとつにほほえみかけてみたが、彼の存在さえ無視され、影の如く扱われた。 歩く事、それだけで疲労困憊する有様だった。 あまりにも多くの見知らぬ人々の顔を意識の中に取り込むというのは、ひどく疲れる ことだった。ここまでの自然の中で、それに寄り添うように生きている人々には、 明確な形があったが、ここでは、全てが幻惑の世界の様でもあった。 二本の足で、たったひとり土の上を歩いていたときにははっきり分かっていたものが、 人の数も、通りの数も、正面がガラス張りのお店の数も、何もかもが多いこの街 では、何がなんだかわからなくなった。しかし、横浜、東京へ近づけば、 その世界は益々、今の和邇の思考をはるかに超えることになる。 そう思うと、一歩の歩みが急激に遅くなったように感じられた。突然、見えない 足かせがはめられた気分であった。 ずしりと重い静寂が身体を這い上がった。しばらくそれに逆らってみたが、 やがてたまらず目をつむった。木陰を這うように流れる風の音が一段と高まった。 太陽の光りが、まぶたを透かして赤く輝き、鳥たちのさえずりと通り過ぎる車の音 が溶け合ってひとつになった。どこからか甘酸っぱい匂いが彼の鼻をくすぐる。 音と匂いが彼の中に、そして同時に遠く彼方にあった。 「世間の人は歩くなんて単純極まりない事と思うんでしょうね」 と、しばらくしてやっと女性は口を開いた。「片足をもう一方の足の前に置く だけのことだと。だけど、わたしなんて、本能的なことと思われてることをする のがどれほど難しいか、いまだに驚かずにいられない。特にうちのおばあちゃんを 見ているとつくづく感じるわ」女性は舌で下唇をしめらせてから、他人ごとの様に 呟いた。「たべることでも、そう」と、ずいぶんたってからポツリと言った。 「それも難しい事のひとつね。食べる事にどうしようもなくつらい思いをする人 もいるし、しゃべることもそう。そういうのもみんな、普段は忘れているけどね。 ことと次第によってはむずかしいことなの」そういって、女性は、庭を見つめた。 その庭の先の縁側には、一人の老婆が静かに座っていた。和邇は、初めて彼女が 居る事を知った。何か見てはいけないものを見たような後ろめたさを感じた。 そして、また眼を閉じ、音と匂いの世界に戻った。身体は相変わらず重たい。 けれど、心は少し軽くなったような気になった。そして、ゆっくりと身体を 起こし、女性に軽く会釈をして、一歩を踏み出した。 健一はボートの中へ仰向けに寝そべった。空の肌質きじはいつの間にか夕陽 の ほとぼりを冷まして磨いた銅鉄色に冴えかかっていた。表面に削り出しのような 軽く捲く紅色の薄雲が一面に散っていて、空の肌質がすっかり刀色に冴え返る 時分を合図のようにして、それらの雲はかえって雲母色に冴え返ってきた。健一は ふと首をもたげてみると、まん丸の月が大津市の上に出ていた。それに対して 大津市の町の灯りの列はどす赤く、その腰を屏風のように背後の南へと拡がる じぐざぐの屏嶺へいれいは墨色へ幼稚な皺を険立たしている。」 安土に野に広がり、湖周は深い葦原で行行子と句の上で呼ばれる 葦きりが、さしひきする潮波のさまで囀り合う初夏には水辺一面 目の覚める鮮明さで、まっ黄く、ひつじぐさ科の河骨が息吹をあげる。 水面四、五寸抜き出たその一輪花の群れを、かき分けるようにして 野菜舟が櫓べそを軋らせて通う。、、、冬は鴨が舞い降り、青葦は 乾いて野晒しの骨の擦れ合う佇しみの中にも飛沫をはねて鯉の躍る 音がする。深々と納まり、ひそやかに呼吸する水郷であった。」 水を切る船端の波の走るのが、銀を落とすと、白い瑠璃の階きざはしが、 星を鏤めてきらきらと月の下へ揺れかかって、神女の、月宮殿に朝する 姿がありありと拝まれると申します。」「霜のように輝いて、自分の影の 映るのが、あたらしいほど甲板。湖水はただ渺茫として、水や空、南無竹生島 は墨絵のよう。御堂の棟と思い当たり、影が差し、月が染みて、羽衣のひだを みるような、、、」と夜の湖水を表現している。 「前後に松葉重なって、宿の形は影も留めず、深き翠みどりを一面に、眼界 唯限りなき漣さざなみなり。この処によずるまで、手を縋り、かつ足を支えた、 幹から幹、枝から枝、一足ずつ上るにつれて、何処より寄することもなく、 れん艶たる波、白帆をのせて背に近づき、躑躅を浮かべて肩に迫り、倒さかさまに 藤を宿したが、石の上に、立ち直って、今や正に、目の下に望まれた、これなん 日の本の一個所を、琵琶にくぎった水である。 妙なるかな、近江の国。卯月の末の八つ下がり、月白く、山の薄紅、松の梢に 藤をかけ、山は翠の黒髪長く、霞は里に裳もすそを曳いて、そよそよとある風の 調べは、湖の琵琶を奏づるのである。」 |
2016年10月7日金曜日
日々の記録15(ブラタモリ、老後破産、マイ農家
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