島根のすさみ 川路聖莫としあきら http://www4.kcn.ne.jp/~hozoin/shimanesusami.htm 佐渡観察の名著としょうかいあり。司馬遼太郎のこの国のかたち、その2 ーーーーーー 我が家のそう遠くない場所に、小枝が四方にその伸びた木と銀杏が2本、 ひっそりと立ている広場がある。 そこは春も終わりごろになると、数十センチほどの草花が生い茂る。 その草叢のなかに、茶色と白の何かが見えた。チャトがいた。 目の前の小枝に見入っていた。その小枝は細く、しなやかで、緑色をしている。 そうした小枝は完全な円になるほど曲がるが、折れはしない。 れんぎょやライラックの茂みから伸びでる、繊細で、誇らしげで、いかにも 希望にあふれた生命が表すのは、このころの変化にすぎなかった。 春になると、そのしなやかさも春の初めのそれとは変わってくる。 こうした新緑のしなやかな小枝が与える痛みは、春の心地よさと合わせ、 チャトには新鮮な痛みでもある。長い小枝にはいらいらすることがあったので、 このころにここに来るのがチャトのここ数年の習わしとなっている。 それはママのブラシの一差しと同じだ、と思ったものだ。いつまでも、チャト にとって春はしなやかな小枝で打たれた時の痛み、幸せ感の記憶で一杯だった。 だから、ここに咲き始める花には喜びはわいてこない。 ある春の土曜日、チャトはこの広場の草の中に体をうずめて、上をゆっくりと流れる雲 を 見ながら、蟻や桃の種子や、死のことや、眼を閉じたらこの世界はどうなるんだろう、 ということを考えていた。チャトは長いこと、草の中に横たわっていたに違いない。 家を出るときには前にあった影が、帰るときには消えてしまっていたからだ。 家には薄気味の悪い静けさが満ちていたが、チャトは家の中に入った。 すると、主人が暗闇の中でぽつねんと座っていた。 「どうしたんや」とチャトが聞いた。 ママもほかの猫たちの姿も見えない。静まり返った部屋には、優しく頬を撫ぜる ような空気の歌が流れていた。 大昔、山口百恵という人が歌った、いい日旅立ち、という歌だ。 「雪解け間近の北の空に向い 過ぎ去りし日々の夢を叫ぶ時 帰らぬ人達熱い胸をよぎる せめて今日から一人きり旅に出る あゝ日本のどこかに 私を待ってる人がいる いい日 旅立ち夕焼けをさがしに 母の背中で聞いた歌を道連れに・・・ 岬のはずれに少年は魚釣り 青いすすきの小径を帰るのか 私は今から想い出を創るため 砂に枯木で書くつもり“さよなら”と あゝ日本のどこかに 私を待ってる人がいる いい日 旅立ち羊雲をさがしに 父が教えてくれた歌を道連れに・・・ あゝ日本のどこかに 私を待ってる人がいる いい日 旅立ち幸せをさがしに 子供の頃に歌った歌を道連れに・・・」 「ちょっと、昔に浸っているんだ」 通り過ぎる車の光が一条、彼の顔を光らせ消えた。その一瞬に目に涙があることを チャトは見逃さなかった。多分、人間の感傷というやつや。 「なぜ、あれが涙を流させるんや、わからへんわ」 「そうね、猫にはない感情だね。でも、少しはあんたもわかるやろ。俺との 付き合いも長いんだから」 「そういわれても、ちょっと難しいわ。なんかに打たれて痛いとき、泣くんなら わかるんやけど」と、一瞬、先ほどのしなやかな小枝が思い起こされる。 多分、チャトの永遠の理解不能な世界なのだろう。 外が騒々しい、しばらくすれば、普段の小うるさい我が家となるのだろう。 経済構造の大きな変貌を受けて、ようやく日本でも平等社会の神話が崩れ、 貧富の差の拡大を問題する意識が芽生えてきたようである。2000年5月号の ちゅうおうこうろんが「中流階級崩壊」という特集を行い、符節を合したように、 同じ月の文芸春秋が「新階級社会ニッポン」と題するレポートを載せている。 文芸春秋の記事は、近年のベンチャービジネスの隆盛に乗って、新しく生まれた 成功者の姿を紹介している。業種は投資情報や企業コンサルなど、従来の大企業 勤務の枠外にあるものが多い。年収も資産も破格に豊かで、暮らしぶりも 絵にかいたようなアメリカ風である。対照的にかっての中流俸給者の没落が目立ち、 失業、減給に襲われないまでも、能力給の競争に脅かされている。一般に、 所得の不平等度を示すジニ係数は明白に高まり、生活保護世帯も90年代後半に 2倍近くまで増えたという。 中央公論の特集も多くの統計を含んだ論文を集め、昨今の日本では、「結果の平等」 だけでなく、「機会の平等」さえ危うくなったと警鐘を鳴らす。企業では上級管理職 の子が上級職に就く率が高まり、子が親の社会的地位を超える可能性が減っている。 巷では若者が努力の報われなさをかこち、所詮は資産家の子には勝てないと自棄 になっている。教育に金がかかるだけでなく、親の教育への熱意も社会的地位に 比例するから、次世代の富の格差はますます再生産されるはずだというのである。 これが行きつく先には米国社会があるわけだが、ここでは73年から経済が2倍に 拡大し、1人当たりの生産性も7割上がったのに、中位の所得の世帯数は増えず、 賃金は逆に1割近くも低下した。上位5パーセント層と下位20パーセント層の 所得の格差は、68年の6倍弱から98年の8倍強に拡大した。金融資産に いたっては、最上位1パーセントの富裕層が全国民の富の半分を保有しており、 その格差は増すばかりだという。問題なのは、ここでも、有能な若年層の所得が 伸びず、努力が成功をよぶという、「アメリカの夢」陰り始めたことである。 特に注目されるのは、話題のIT革命が不平等の解消には役立たず、むしろ悪化させる 重大な要因と考えられていることである。 情報技術は人間の知的労働を代替して、低賃金の未熟労働者をう買う道を開き、中途半 端な 専門家を無用のものとする。情報技術そのものの専門家も国際競争にさらされて、中程 度の 技術者は途上国の労働力に置き換えられる。一方、独自のアイデアを開発した 少数の成功者は、これまで以上に膨大な報酬を約束される。技術習得の難しさが、 ディジタルデバイド(情報格差)を招く不安とあいまって、IT社会にはより 深刻な階層化が予想されるという。だが、このような問題に触れると、我々が まだ不平等とはなにか、どんな意味でそれが問題なのか、確かな哲学を持ち合わせて いないことに気付くのである。 議論があいまいになるのは、第1に不平等が純粋に客観的な事実ではなく、たぶんに 感覚的な社会通念の問題だからである。現に富の格差は日本より大きいのに、 アメリカで不公平を嘆く声が特に高いとは聞かない。 しかも一論者にによると、過去の日本が平等だったという常識も不正確で、統計上の 錯覚が加わっていたという。さらに現代の日本が過渡期であり、性質の相反する 事態が重なって進行していることが、認識を混乱させる。 、、、、、 本来、人間は単に所得によってではなく、他人の認知によって生きがいを覚える動物で ある。 嫉妬や自己蔑視の原因は、しばしば富の格差よりも何者かとして他人に認められない ことに根差していた。これに対して、二〇世紀の大衆社会は万人を見知らぬ存在に 変え、具体的な相互認知を感じにくい社会を生んだ。隣人の見えにくい社会では 遠い派手な存在が目立つことになり、これが人の目を富裕層や特権階級に 引き付ける結果を招いた。 こう考えれば、今、急がれるのは社会の「視線の転換」であり、他人の注目を 受ける人間の分散であることが分かる。普通の人間が求める認知は名声ではなく、 無限大の世界での認知ではない。むしろ人は自らが価値を認め、敬愛する少数の 相手に認められてこそ幸福を覚える。必要なのはそれを可能にする場を確保 することである。 なぜか今日はすでに日が暮れたというのに、山田さん、沢さん、田中さんが 少し顔を赤らめながらテーブルを囲んでいた。 山田さんは、テレビに流れる何かのデモの報道を見ながら、独白を始めた。 暮れなずむ夕日がマイクを持ち雄たけびのような声を張り上げている老人を 赤く彩り、その白く乱れた髪とともにカメラが大写しにしていた。 その横には、TシャツにSEALDsというマークを付けた学生が静かに立っている。 カメラが少し後ろへと流れれば、そこには赤い鉢巻きや白のヘルメット、 「原発反対」と書かれたプラカードが混在し、揺れている。 テレビでは、当日の模様を伝えていた。 「8月に安保法制化に反対するデモがあった。国会前の抗議行動には、約12万人 もの参加者が集まったという。この集会を企画した中心メンバーは、「SEALDs」 という10代から20代の都内の学生組織である。大学教授などの学者グループや 子育て世代の女性たちも参加しており、ベビーカーを押す主婦たち、杖をついた 年配者も少なくなかった。 若者たちは鐘やドラムを叩き、そのリズムに合わせて「戦争法案いますぐ廃案」 というラップ調のシュプレヒコールをあげる。 ただ、何もかも50年以上前の安保闘争とは様変わりしていた。デモを規制する 警官隊は数名いたが、デモにつきものの機動隊員の姿はなかった。 道路脇の装甲車の中で休んでいる機動隊員たちの姿が、このおとなしいデモを 象徴していた。高齢者世代はデモ=乱闘というイメージがあるが、彼らは整然 と行進し、渋谷で流れ解散となった。 60年安保では、出発するや先頭に立って警官隊と対峙したデモ隊員は必ず逮捕 された。「ワッショイ」の掛け声とともに、警官隊は間髪容れず「逮捕」の命令 を出した。それだけに先頭のデモ隊員の目は血走り、誰もが青ざめて思いつめた 顔をしていた。 ところが、「SEALDs」のメンバーの中にそんな表情をした者は誰もいなかった。 服装もまったく様変わりしていた。60年安保闘争時代は、ほとんど全員が 学生服姿だったが、「SEALDs」のメンバーは、Tシャツなどカジュアルな服装 ばかりだった。女子学生らしい若者が雑談するのが聞こえた」 テレビは静かなるデモを背景に大昔のことも言っていた。 チャトはこれが以前、仙人猫が言っていた「人間の愚行」というものなのか、 と思った。 やがて、 「最近、年寄りと若者が連れ添ってデモをする姿が目に付くようになったね」 沢さんが抑揚のない声で、一言。チャトがそれに反応するかのように耳を立て、 ソファーから立ち上がった。 「でも、あの3.11を契機とした街頭デモのころとは違って、関心は結構冷めたね。 俺たちのころは、5月のメーデーが休日で、結構大きな声で街を練り歩いたもん だけど。いまは、奇異なイベントにも見られているよ、でもね俺の友達にシニア 左翼がいるって聞いたけど、それが初めはよくわからなかったね」 「シニア左翼?」 チャトも主人、その他のご老人、ママまでも、一瞬、その言葉が何かを理解 できなかった。 山田さんが、ちょっと間をおいて、 「シニア左翼って60~90代の、もと全共闘世代や60年安保世代を中心に 「反政権」「反政策」を信条とする人たちよ。 原発稼働に反対し、安保法案に反対し、憲法改正に反対する。反原発と反憲法改正 はまったく別もののはずだが、彼らからすればほぼ同義なのか、つまるところ 安倍総理のする事なす事全てが気に入らない。それで「反安倍」で結束する。 2011年3月11日の東日本大震災以後ににわかに活動が活発になって、周囲に 危機を煽りながら原発をやめさせ、沖縄基地移設を止めさせながら活気付いて きたというけど、安倍政権が誕生してからは俄然張りきる場面が多くなったらしい。 それで安保法案反対を機にSEALDsに代弁者を見つけ、残りの人生をかけて 「反安倍」に命を燃やす。燃やす命をようやく見つけたという風にも見えるけど」 と山田さんが珍しく長舌の場面となった。 さらには、田中さんまでもが、 「今のシニアさんは熱いね。ちょっとまねできないね。国会前の集会では警察隊 に飛びこみ、警察車両をひっくり返そうと揺らし始め、それを「なにやってるん ですか!」と学生に注意されるシニアがいる。かつては機動隊に火炎瓶を投げ、角棒 を振り回していた俺たち同世代も、孫のような若者にたしなめられては従う ほかないよね。結局さ、内ゲバで仲間を殺され、死の意味を生涯探してもいた 連中もいたけど、今の若い人は、自分たちの世代がしたように内ゲバで殺し合い なんて絶対しないだろう、そんな時代よ。平和だね」 主人も思う。 あのあさま山荘の事件を仕事に埋没し、テレビで第3者の趣き で見ていたころを思い出す。60年安保はモノクロのテレビで小学生ながら、 その凄まじい数と警察隊とのやりあいは子供ながら感じ入っていた。 しかし、70年安保も含め、いずれも部外者であった。 たぶん、60代後半から70代の彼らにとって、革命は暴力を伴うと信じる元活動家 シニアもいるようだから、SEALDsの礼儀正しすぎるのであろう。 だが、国家の犬であるデモを取り締まる警察官もまた礼儀正しい。「大丈夫ですか?」 「お怪我はありませんか?」と転んだシニアに声をかける若い警察官に、かつての 学生闘志たちは一瞬、たじろぐのではないだろうか、と。 チャトはそんな主人の想いを感じてか、ソファーからこの年寄りたちの動きを じっと見ていた。ほかの猫はわれ関せずとばかり、すでに消えていた。 でも、人間というものがなぜそんなに昔にこだわるのか、分からなかった。 猫族は仙人猫を除けばそれほど長く記憶を持ち続けることはできない。 彼の結論は「要するに人間は身分不相応に記憶が与えられたから」となった。 テレビの熱気がこの年寄りたちに何かを与えたのであろうか、話は彼らの飲む ビールの泡のごとく飛散し、たばこの紫煙が天井を揺らすかのように四方へと 拡散を始めていた。 なにせ、いずれもが60歳後半から70の声を聞くご老人たちだ。彼らの 青春時代そのものだったのだろう。 確かにチャトの結論のように古き記憶がなくなれば、もう少し心安らかな日々が 送れるのでは、主人は密かに思ったものだ。 沢さんの唐突な発言、 そういえば、俺んちに来るしんぶん赤旗でも言っていたよ。 「警察を見ると殴ってやりたくなる。こんな日がくるとは思ってもみなかった」 という元日大全共闘メンバーは感激する。国会突入は学生時代からの夢でもある。 対する警察は「高齢者が怪我をしないよう」と気遣いながら警備する。 そんな中、SEALDsが叫び、踊りと声を合わせる。それを太鼓をたたいて従うシニア。 なかなか楽しそうなシーンである。60年安保の定かではない記憶では、国会前の 放水車と催涙弾と火炎瓶の応戦が蘇りそうだが、至極静かな闘争である。 中国の軍事的挑発にはなんら行動をしないのに、応じる対応を政府が示せば過敏に、さ らに過激に反応するシニア左翼。戦争反対なら仕掛けてきそうな国全てがターゲットに なるはずだが、最も穏健な自国のみをターゲットにする。どこか論理の見えない活動 でもある、って。 山田さんが遠くを見る眼付きで、 「1968年は時代の節目、最近、こんな思いが沸き返ることがあるね。 俺も若かったけど。ベトナム戦争のリアルな映像が世界中を駆け巡り、若者たちが 自分たちと国家の関係に疑問を強く抱き始めた時代だった。 フランスのパリの5月革命、アメリカの学生の反乱、日本での学生運動の活発化、 など世界で若者たちがデモや学校封鎖をしていたよ。 それは60年安保、70年安保闘争の延長の意味合いもあったのだろうけど、 60年安保では、国民の政府への抵抗であり、全国的には460万人を超す人がそれに 参加したらしいね。 これで、岸内閣は解散となり、国民の意識も変化し始めたしね。 でもね、68年の東大での学生運動は強制的な排除となり、挫折し、さらには、 1972年のあさま山荘での連合赤軍の内部闘争での殺人や内ゲバの凄惨さが テレビで報道され、その無差別な行動が明らかになり、デモや学生運動への嫌悪が 高まった感がある。70年安保も一応の高まりを見せたけど、60年ほどの熱意 も薄れ、70年半ばからは、俺もそうだけど、社会的な拒否意識が強くなって、 ここしばらくはあのようなすさまじい人の光景を見ることはなかった。 だけど、最近またデモや抗議活動への意識が高まっているのか、 大きな起点は福島原発事故への原発反対運動であり、2015年からの安部政権による 憲法改正への動きに対する反対運動であるしね。 テレビでは、これにはシニアの参加がかなりあって、元活動家以外のシニアの人も 多いと言っていた」、ぼそぼそとその話は終わった。 誰の頭にも、 「あいつらの思いはどこにあるのだろう」 そんな空気が部屋を充満している。 主人がふと思い出したように言い出した。 「それは「終わった人」という定年を迎えた男の話を書いたものだけど、その本 へのコメントが中々、心に刺さったね」という。 「60代は複雑な存在だ。「終わった人」と烙印を押される一方で、本人は失ったもの を取り戻したいと思う「空腹の世代」でもある。著者はその男たちの心理をすべて 見通したかのように、完膚なきまでに白日のもとに晒す」 また、こんなコメントもある。 「まだ60代の若さで、“毎日が大型連休”の中で、社会から必要とされなくなった 自分を感じながら、旅行や趣味に生き甲斐を見出すのは、これは地獄かもしれない。 でも外に向かっては『第二の人生が自由で楽しみ』と言ってしまうんですね。 見栄で。今回はそんな男を主人公にして、『定年って生前葬だな』とつぶやく日々を 描いています」 自分を終わった人と自虐する割に年寄りを暇なジジババと見下して、同化する事も できない世代。その過程は違えどゴールしてしまえばみんな同じなのか、と思う半面、 いや俺は違うと思い込もうとするが、ブランド、看板を剥がされた現実は辛い物 がある。 「まさにちょっと前の俺たちだ。痛烈なボデーブローやな」 山田さんが納得の顔をすれば、ほかの人もうなずいている。 部屋は一瞬の静寂、だがこの部屋にいる人の頭には、半世紀以上前のおぼろげな シーンが古きトーキー映画のような細切れの形で浮遊しているのであろう。 翌日、チャトは仙人猫にこのことを話した。 仙人猫は、少し考えてから言ったものだ。 「人間は猫以上に「誇りや恥、満足さ」を思うことが多いやけど、それはその人間が 過去をどう記憶したかで決まるんと違うんか。記憶のほかに情報となるものは ないんやし、記憶の長さよりもその内容や。楽しかったことだけを記憶しておけば、 毎日はさらに楽しくなるんやし、空腹のときや虐められた時のことしか頭にないと ちょっと悲惨な人生やな。猫は満腹に食べたときとか美人猫に出会ったときの うれしい時間しか覚えようとせんからな、そこが人間と違うところや」 チャトは得心した。さらに猫がよく寝るのもそのためだ、と勝手に思った。 この話を主人にすると、へえと言って、「仙人猫ってすごいね」。 チャトは猫族全部が褒められたようで、大いにうれしかった。 死人を運ぶネコ 出典 死人を運ぶネコ 静岡県の民話 <福娘童話集 きょうの日本民話> むかしむかし、駿河の国(すがるのくに→静岡県)に、善住寺(ぜんじゅうじ)という小さ な寺がありました。寺には和尚(おしょう)さんと小僧(こぞう)さんのほかに、年老いた 一匹のネコしかいません。お参りに来る人もめったにいないため、和尚さんと小僧さん はひまさえあればネコをかわいがっていました。 ある時、信州(しんしゅう→長野県)の知り合いから法事(ほうじ)の手伝いに来てくれ と頼まれたので、和尚さんは小僧さんを連れて出かけることにしました。 「ネコよ、しっかり留守番(るすばん)を頼んだぞ」 和尚さんはネコが食べ物に困らないよう、たくさんのエサを用意してやりました。信州 に出かけた二人が峠(とうげ)の茶屋でひと休みしていると、下の方からスルスルと火車 (かしゃ→死んだ人をじごくへ運ぶ乗り物)が登ってくるのが見えました。 和尚さんと小僧さんがビックリして中をのぞくと、火車にはやせたおじいさんが乗っ ています。 (あの年寄りが何をしたかは知らんが、地獄送りとはあんまりじゃ) 気の毒に思った和尚さんが思わず手を合わせてお経をつぶやくと、何と火車が空の途 中で止まったではありませんか。 (まさか、自分のお経にこんな力があったとは) 和尚さんは、茶屋の主人にたずねました。 「今日、この村で葬式(そうしき)のある家はありませんかな?」 「よくご存じで。実はこの峠の下の屋敷で、おじいさんの葬式があります」 「やはり」 和尚さんは、火車を指さしました。その指先を見た主人は、目を丸くしておどろきま した。 「あ、あれは?!」 「あれはな、死人を地獄へ運ぶ火車というものだ」 「なるほど、話には聞いていましたが」 主人はこの和尚さんを、えらいお坊さんに違いないと思いました。 「ところで、あのおじいさんは地獄に送られるような人だったのですか?」 「そうですなあ。あのおじいさん、若い頃はさんざん悪い事をしたそうですから。でも 年をとってからは、仏のおじいさんと言われるぐらいでして。わたしも色々と、お世話 になりました。お坊さま、何とか極楽(ごくらく→天国)へ送ってやるわけにはいきませ んかね」 「うむ、これも何かのえん。ご主人、すまないがあのおじいさんの家に案内してもらえ んかな」 「あ、はい。」 主人は和尚さんと小僧さんを連れて、峠の下のおじいさんの屋敷へ行きました。和尚 さんが門の中へ入って行くと庭のまんなかに棺おけが置いてあり、村のお坊さんがお経 をあげていました。お経が終わるのを待ってから、和尚さんが言いました。 「残念ながら、その棺おけに死人はおりませんぞ」 お経をあげていたお坊さんが、むっとして和尚さんをふり返りました。 「なにを言うか。ゆうべ、まちがいなく入れたのだ」 家の人たちも、腹を立てて、 「どこのお坊さんか知りませんが、変な言いがかりをつけないでください!」 と、言います。ですが和尚さんは、首を軽く横に振ると、 「うたがう気持ちはわかるが、とにかく中を確かめてみなさい」 と、言うので、家の人たちが念のために棺おけのふたをとってみたら、中は空っぽでし た。 「ど、どうして?」 村のお坊さんも家の人たちも、そして集まっていた村人たちもビックリです。 「ここは、わしにまかせておきなさい」 和尚さんは進み出ると、ゆっくりとお経をとなえはじめました。すると空の上からゆ っくり火車が下りてきて、おじいさんの死体を棺おけにもどすとふたたび空へのぼって いったのです。あまりの不思議さに、だれ一人声を出すものはいませんでした。和尚さ んが、静かに言いました。 「これで大丈夫。もう、地獄へ送られる事もあるまい」 家の人たちはすっかり喜んで、和尚さんにたくさんのお礼をしました。和尚さんと小 僧さんはおじいさんをねんごろにほうむると、知り合いの家へと旅立っていきました。 さて、茶屋の主人からも話を聞いた村人たちは、いよいよ感心して、 「いったい、どこの和尚さまだろう?」 と、調べて、駿河(するが)の国の善住寺(ぜんじゅうじ)の和尚さんということがわかっ たのです。さあ、それ以来、善住寺にはお葬式を頼みに来る人が多くなり、おかげで寺 は栄えていきました。 ところであの火車ですが、あれは和尚さんのかわいがっていたネコが恩返しのために、 火車をあやつっていたという事です。 映画館、それは彼にとっても昭和の時代を感じる一つであった。 横浜でも住んでいた綱島の駅まえの通りを少し鶴見川寄りに行ったところに 白いモルタルに派手な看板のかかった映画館へよく行ったものだ。 小学生高学年ごろから中学生へと時は少しづつ彼の前を緩やかなテンポで 過ぎていく、その中の一つに絶えず映画を見たいという欲望があった。 山崎正和氏は、その辺のことをうまく書いていた。 「昭和30年代は、映画という文化的な娯楽が日本で黄金期を迎えた時代であった。 昭和33年、1958年には映画人口は11億2700万人に達して、国民1人が 年に平均12回も映画を見ていたことになるという。乳幼児から老人まで、 1人残らず月に一度は映画館の軒をくぐった勘定である。映画館の数も全国で 7000館を超え、特に東京では豪華なホールがきびすを接して新築された。築地の 松竹セントラル劇場、歌舞伎町の新宿コマ劇場、渋谷のパンテオンが開館したのが、 いずれも昭和31年のことだった。そのころ10代であった川本三郎少年は、この 黄金期を文字通り満喫した。中学から高校時代まで、自宅に近い阿佐ヶ谷オデオン座 に通い詰め、ときに懐が豊かだと盛り場のロードショー劇場へ足をのばした。 松竹セントラルや新宿コマ劇場の入場料が150円で、ちょうどおとなの散髪代と おなじであった。見る作品は圧倒的にハリウッド映画、おりしもこの映画王国 が全盛を誇っていたころである。長じて川本さんは文筆の道に進み、文芸評論でも 賞に輝いたが、おびただしい映画評論を著した。「ロードショーが150円だった頃、 思い出のアメリカ映画」という粋な評論は、そういう川本さんが心の故郷を語った 近著である。 主題としてとりあげられた映画だけでも50本を超え、文中に触れられた作品は 数えきれない。この人の本をいつ読んでも驚かされることだが、事実についての記憶が 人間離れしている。スターはもちろん、監督、製作者、撮影者、脚本家、脇役 たちが気の利いた逸話とともに紹介され、思い出の名場面が短く鮮やかに再現される。 川本さんは少年時代から映画プログラムを隗集していて、それがこの記憶の下支え として役立ったと書いている。ビデオもない時代だったからと川本さんは事もなげに 言うのだが、私はこれを読んで微かに胸が熱くなった。記録の機械がなかったために、 これほど手数をかけて人に記憶され、思い出の中で暖められた映画は、今よりも 幸せではなかったかと思ったのである。 「真昼の決闘」「シェーン」「情事の終わり」「エデンの東」「戦場にかける橋」 「若き獅子たち」「12人の怒れる男」など、アメリカ映画の良い観客でなかった 私にも懐かしい作品が並んでいる。こうして振り返ってみると、ハリウッドの 最盛期は実に多彩であって、むしろ地味で心にしみる佳作が少なくなかったこと を思い出す。特にうれしかったのは、テレス・ラティンガンの戯曲「セパレート テーブルズ」を原作に、デヴィド・ニーバンとデボラ・カーを配した「旅路」 が取り上げられていたことである。冬の海辺のホテルの食堂を舞台に、わび住い する男女のさまざまな孤独、小さな悲劇と人情の通いを描いた繊細な秀作であった。 ホテルの女主人公を演じた女優の風格が印象的で、私に今も忘れられない感動を 残しているが、それが英国の名優ウェンディ・ヒラーであったことも、川本さんの 博識によって教えてもらった。、、、、、、 粋な評論と書いたが、実はこの本は秘められた文明批評に溢れていて、昭和30年代 がどんな時代であったか、それに比べて現代が何を失ったかを肩肘張らずに 教えてくれる。 私なりにいいかえれば、あの時代はまず日本近代の教養主義、知的な西洋受容の 最後の高揚の時期だったようである。、、、、、」 彼はこの映画の隆盛を近代化の一つの姿ととらえているが、当時の和邇にとって、 単に楽しい一時であった。今でも、「真昼の決闘」「シェーン」「情事の終わり」 「エデンの東」「戦場にかける橋」などの題名のビデオを手に取るとき、ふと 懐かしい情景が浮かぶのを感じる。それは、幸せと明日への輝きをいつも伴って いた。
2016年10月7日金曜日
日々の記録31
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