2016年10月7日金曜日

日々の記録18(明治神宮の森、社会劣化、丁寧な言葉、アンコールワット、アクセン ト辞典、富士山、五箇山、ドナルド・キーン

明治神宮、鎮守の森の百年
明治神宮は明治20年に創建された。同時に鎮守の森としての壮大な計画も
始まった。神宮の森の林苑計画である。本多博士を中心とする3人の学者に
よってその計画が1915年から実施された。彼らの基本は、50年、100年、
150年にこの鎮守の森を育て上げる事であった。70ヘクタールという
皇居に次ぐ広大な荒地を神聖な森に姿を変える事、そしてそれを自然の力
で行うことであった。
当時の写真を見れば、一面の荒地であり、そこに松などの針葉樹の間に広葉樹
や常緑広葉樹を植え、成長の早い広葉樹の広がりによって、百年、150年
には常緑広葉樹の森にするという。そのため、1915年の植樹以降は、
自然に任すと言うのがこの計画の条件であった。その百年に当たる今年、
大々的な昆虫や植物、動物たちの生態調査を実施している。すでに針葉樹は
全体の1割ほどとなり、常緑広葉樹が240本も育ち、広大な森を形成しつつある。
当初10万本を植えた木々は半分ほどの数に減ったが、すでに常緑広葉樹の
新芽が育ち、世代の継承、交代が進んでいる事がわかっている。
人間の手を加えず、自然の力でそのままに育て上げると言う当初の目的は
150年を迎えずとも達成しつつあるのだ。
時は、我々の体が消滅していくと言う厳格な決まりを守るが、この森のように
世代交代を繰り返す事により新しい姿を作り上げていく。
この木々の成長や森は神域として入れないと言う要件などから、日本の固有種
を長く守り育てている。例えば、カントウタンポポやメダカ、絶滅危惧種
になっている多くの昆虫、また様々なコケ類がある。更には、当初は疎林性の
雉やホオジロが多かった森には、コゲラやオオタカなどの森林性の鳥たちが
棲でいる。150年かけずに林は広大な森になったのである。
映像の最後にノンビリと鳥居の下で過ごす狸の姿があった。これが今の
この森の豊かさを現している様でもある。


社会の劣化
最近は、日本の製造業の組織としての劣化を思わせる事件が多いようだ。
5Sなど、品質を高めるためにまじめに現場でのレベルアップを図ってきた製造業を
中心とした意識や活動も利益優先、効率重視、などに追われ本来守るべき
自分たちが作り出すものへの誇りが失われようとしている。東洋ゴム、旭化成建材
のような中堅の企業で起きているのは、偶然ではないだろうし、東芝の決算処理
の不祥事などを見ても、日本全体にその意識と行動の劣化は進んでいるようにも
見える。一昔前までは、日本では経営トップや政治家は大した人はいないが、
現場で働く人のスキルと意識がこれまでの多くの日本の基盤を支えてきた、
と言われていた。しかし、その神話も崩れようとしている。
戦後成長の原動力となった終身雇用の瓦解や非正規社員の増加がその一因と
なっているのであろう。少子化に歯止めがかからない以上、更に世の中は
停滞していくであろうし、働く事への意識も大きく変わっていくであろう。
消えゆく老大国になりつつあるようだ。



丁寧な言葉使い。それは相手を尊重し、心のコミュニケーションを図るもの。
以下の様な言葉がある。
・着映えがする→着ている者と着ている人を上手くほめる。
・出色→出色の出来、などと言う。
・お口汚し→訪問時に手土産を持っていったとき。
・お運び下され→わざわざ来てもらったとき
・有り体→有り体に言えば、など本音で言う場合など。
・衷心より→心よりをもっと深く言う場合


タイにある。アンコールワットの遺跡。
クメール人の作った王朝の寺院であるが、密林の中に大きな街を造っていた。
ワットとは寺院のこと。周囲が1.5キロから1.7キロでそれを水の堀が
囲んでいた。
中は、三つの回廊と中央に65メートルほどの中央塔が聳え立つ石造の建物群である。
石の多くは精微な女性を中心としたレリーフが彫られ、役2万個の石が使用された。
石組みのやり方は少しづつずらしながら組み立てて高くしていくという独特の建築
であtまた、中央塔にはメーガと呼ばれる石造が守護神として四隅に設置されている。
9世紀から16世紀まで栄えたが滅亡する。その原因はわかっていない。
寺院は歴代王の住居でもあり、周囲には木造の遺影が立ち並び、2800人から
4000人の人が住んでいたと言う。  
クメール王朝は他の王朝とは違い、この密林の中で26人の王が長く支配していた。
さらに、クメールワット周辺には75から100万人の人が住んでいたという。
その要因は米が年に3から4回とれ、豊かな暮らしをしていた。それは
クメール人の持つ灌漑技術であった。バライと呼ぶ大きなため池を作り、そこへ
山から水を引き、豊富な米を作っていた。更には、その米の交換を基本とした
中国や中東など世界各地との交易を行っていた。交易のためにワットを中心とした
7つの幹線道路の整備まで行っていた。それを示す宿場などの遺跡が
今でも発見されている。2000ほどの建物や遺跡にはクメール文化の影響を
示すものが残っている。また、歴代の王は死ぬと来世に行けると信じ、その支配地域に
多くの寺院を作った。
また、当時3つほどあった周辺国とも共存を図るため、夫々の神を祀りその融合を
図るため、バイヨン寺院にジャノブッダマナータを中心とした様々な神を祀り
平和的な相互関係を作り上げた。
それを強く推進したのが、ジャバルエン7世であった。


駿河竹千筋細工と言う竹細工、芸術的な美しさもある。

いま、話す言葉に変化が起きていると言う。
同じ話し言葉でも、アクセントによって、その言葉の意味は大きく変わる。
江戸時代含め、近世以前は、夫々の土地の訛りはその土地の人間である事、
よそ者との区別の点で、多くの地方では、そのままの形で来た。
しかし、明治時代の国への愛着、一体性を高めるために標準語を推進した。
今までのアクセント辞典は、この基準的なアクセントを守っていくという点で
9万語の標準的なアクセントをNHKなどが中心にまとめてきた。
しかし、鶴岡市のように過去数10年のアクセント調査の結果として、積極的な
地元のアクセントを採用しようとしている。地域の独自性を高めるためである。
全国的には、特に若い人には、なるべく話す事へのエネルギーを使わない傾向から
平板化が進んでいる。しかし、鶴岡市のような自己主張を明確に示すと言う点から
先ほどのアクセント辞典でも、無理な標準的アクセントの押し付けにならないように、
同じ言葉でも、違うアクセントを容認していく方向でまとめ直している。

五箇山(ごかやま)の相倉合掌造り群の訪問映像があった。
南砥市を走る城端鉄道に乗り、庄川にそって、最終駅で降りて五箇山向けのバス
に乗っていく。バス停の直ぐ近くに村上家の合掌つくりがある。
四層の造りで、かなり大きな家である。1階は10数畳の部屋が4つほどある。
この家については司馬遼太郎も街道をゆくで紹介している。
近くには、和紙を作る工房があり、体験も可能である。この辺の和紙は強さが
あり、家の襖などに多く使われている。この地域独特のこきりこ節は1000年以上も
続いており、踊りと管楽器に合わせて踊る歌は結婚や子供の誕生などのハレの時に
詠われるという。近くの民宿(ここも合掌つくりである)で出される料理は、
ゼンマイ、栃持ちてんぷら、岩魚の焼き物、里芋の揚げた物、など山菜つくしで
おいしそうである。

ドナルド・キーンに学ぶ
彼が求めるのは、「日本人のあるべき姿」。しかし、その特殊性や同士意識の
高さなどが言われ、その姿を把握するのに苦労するキーンである。
川端康成に日本文学の特性は何か?と尋ねたときに,言われたのが、「曖昧さ」
「儚さへの共感」。人間としての弱さを知り、それへの同情を知る国民と言う。
三島由紀夫との親交などを含め、様々な文学者との付き合いの中で、それを
探そうとするが、最後にたどり着いたのが、「日記に見る日本人の姿」であった。
谷崎の疎開先での日記、伊藤整の太平洋戦争日記、更級日記など時代に関係なく
日記から日本人を読み取ろうとしている。また、三島の「金閣寺や宴のあと」
殻は、日本人の心の内を知ろうともしている。それをまとめたのが
「百代の過客」である。更には、谷崎潤一郎こそ、日本文学の最高峰の人と
言って、ノーベル文学賞への推薦もした。
以下の様なことも言っている。
相手に敬意を払うことはできる。能「敦盛」で源氏方の武将、熊谷直実は平氏の
武将を一騎打ちで組み伏せるが、元服間もない自分の息子と変わらぬ若さと知り、
見逃そうとしました。なんと、人間的でしょうか。味方が押し寄せてきたために
熊谷は仕方がなく、敦盛を討ち取ります。その後に出家し、菩提(ぼだい)を
弔うことを選ぶことになります。
熊谷のような心を持たず、ひたすらに敵を殺すことを誇ることは、本当に恐ろしい
ことです。京都には(豊臣秀吉の朝鮮出兵で)切り落とした敵の耳を埋めた「耳塚」
が残っています。これが武士ですか。「源氏物語」に魅了されたのは、そこに日本の
美しさがあふれていたからです。西洋の英雄物語の主人公たちと違い、光源氏は
武勇をもって、女性たちに愛されたわけではありません。彼が活躍した平安朝期には
たったの一人も、死刑になっていません。憲法9条を改正すべきだとの主張が
あります。現行憲法は米国の押しつけであると。しかし、忘れてはいませんか。
この戦後70年間、日本は一人の戦死者も出さなかったではないですか。
それならば男女平等だって、土地改革だって、押しつけではないですか。
改めるべきなのですか。
政府と軍部は都合良く、日本人の美徳である我慢強さを利用しました。作家の高見順
(1907?65年)は昭和20(1945)年の日記で「焼跡で涙ひとつ見せず、
雄々しくけなげに立ち働いている」国民の姿を記しました。彼は敗北であっても、
戦争の終結を望んでいました。戦争指導者は国民に愛情を持っているのだろうかと
疑っていました。何やら、東日本大震災(2011年3月11日)に重なるもの
があるように思えてなりません。あれほどの地震と津波に見舞われながら、
互いに助け合う日本人の姿に世界が感動しました。けれども、国民は理不尽に
忍耐を押し付けられてはいないでしょうか。
杜甫(712?770年)の有名な詩「国破れて山河あり」について、松尾芭蕉
(1644?1694年)は反論しています。山も河も崩れ、埋まることもあるでは
ないか。それでも残るのは人間の言葉である、と。終戦直後の日本文学も言論統制
が解かれ、一つの黄金期を迎えました。谷崎潤一郎、川端康成らに加え、
三島由紀夫、安部公房などの新しい才能が咲き誇ります。

ブラタモリ、富士山
先ずは、富士講の入り口になる浅間神社(せんげん)に行く。富士山参拝者は、
ここで身を清める。それが、湧玉池。この池は富士山からの湧水が一日20万トン
も湧き出る。更には、この水は富士山から20キロほど離れているため、富士山に
降った雨が地下水となり、ここに湧き出るには15年の時が掛かる。この神社は
富士山の溶岩の先端に位置しているため、その証拠もあるが、これほどの伏流水
が出てくる。この神社は2階建てである。一階は富士山をかたどり、二階は
天上界を現しているとのこと。
更には、富士曼陀羅には、禊する人々や登山する人の姿が描かれている。
なぜ、富士山の形が優美なのか、を地質学的に説明している。
溶岩が適度に柔らかくゆっくりと広がり、それがやや固い溶岩流と何層にもわたり、
富士山の地形を作ってきた。また、裂け目状の噴火口がかなりあり、それも
この形を造る一因でもあった。しかし、富士山最大の火口である「宝永火口」
は少し違うようである。
現在の富士山を登る多くの人は日の出を見るのをご来光として楽しんでいるが、
そこに余り信仰心の要素はないであろう。しかし、江戸時代含めて近世は
違っていたようだ。現在とほぼ同じ登山道を登り、最後に頂上の火口に行く。
そこは東京ドームの10個以上もある大きな火口であり、周辺は盛り上がり
小山の形をしている。江戸時代はその小山を八つの如来と菩薩として
崇めていた。火口は大日如来と考え、その周りを7つの薬師や阿弥陀如来と
考え、火口に参拝するのである。気象条件が良い場合は、その火口上に
拝む人の姿の背景に太陽のような輝きができる。これにより人々は来世への
想いを感じる。いわゆる、御来迎なのだった。
なお、富士山の8合目以上は20キロ先にある浅間神社の奥院としてその敷地
になっている。

ウルトラファインバブルの効果
通常の水泡の1/1000ミリと言う大きさが様々な効果を生むという。
水に溶けこむと5倍ほどの濃度の酸素を持つことがその要因のようだ。
魚の成長は早くなり、医療向けとしての活用も始まっている。

桜井市の天一神社の大きな杉はそのご神体として崇められている。
また、この近くには、住宅地の真ん中に古墳がある。
それも石棺も見られる立派なもの。草墓古墳と呼ばれている。

少年時代の懐かしさは特別である。
1962年ごろの月光仮面、兼高薫の世界の旅、ウルトラマン、さらには、
てなもんや三度がさ。今にしてみれば稚拙さの目立つテレビ番組ではあるが、
懐かしさのほうが優る。1970年初めの時間ですよ、は銭湯を舞台にしたもので
中々に楽しい。この他金八先生なんぞは今の教師が見ても充分価値があるのでは。

様々な形でモノ余りの状態である先進国。
これらを必要な時に、必要な人へ提供するシェアサービスが一段と進化している。
世界的には、今話題になっているairbnb?のような余っている部屋を旅行者に貸し出す
サービスがある。更には、服や絵画などのファッショナブルな世界でもそれが
活用され始めている。エアクロゼットという服のレンタルサービスが
人気があるが、それを実際運営しているのが、寺田倉庫と言う富裕層向けの
貸し倉庫サービスをしている会社である。ここがレンタルトという美術品を
中心とした貸し出しサービスを始めている。現在500人以上の画家と5000
点以上の作品を貸し出すことが出来る。また、使われていない場所を時間貸し
するサービスもある。更に、色々な形態のサービスが可能となるのであろう。


BSで浮世絵の放送をしていた。葛飾北斎、安藤広重などあったが、特に広重については
少しもう少し深く知る必要がある。
広重の浮世絵は東海道五十三次に代表される。
浮世絵としては、55枚ある。日本橋と京都は除いて53の宿場を描いた。
先ずこれには、広重流のストリーがあるという。四季の移ろい、朝夕の情景など
を上手く流していく。その一つが蒲原の絵である。ここは、静岡であり、
雪が降ることはほとんどないが、一面銀世界の絵である。また、沼津、岡部、原、
三島、袋井などの情景は一部デフォルメさせているが、これもお客の嗜好を
考えて描いている。向島百花園には、55枚が残されている。
また、広重が五十三次を全て廻ったのかの疑問が出ているが、多分、全ては
廻らずに例えば、東海道名所絵図などを参考に描いたのでは、という説もある。
その一つに石部の宿の絵がほとんどこの絵図と同じ構図である。
いずれにしろ、当時浮世絵は旅のガイドブックや役者のプロマイドのような
ものであった。
北斎の場合は、葛飾区の誓教時に墓があるが、80歳から死ぬ90歳までに
素晴らしい作品を残している。
弘法大師修法図、大鳳、波の素晴らしさを描いた男浪、女浪。
死ぬ直前に描いた富士越龍図など。

浮世絵は、絵師、彫師、刷師の三者が上手く組み合わさってできるもの。
そのため、摺師の色使いで、仕上がりが大きく違う場合がある。
例えば、北斎の赤富士は何回も版数を重ねると全く違う赤富士となる。
しかし、いずれも本物である。




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      ミヤコワスレ、この紫の端正な花弁は四方へ伸びやかに広がっている。
昔都を落ちた天皇がその不遇な毎日に、この花を愛でていたという。しかし、
それが広壮たる都の高殿になるわけでなく、春の花の一輪にとどまったままだ。
そうだ、それは確乎たる1個の花であり、それ以上のものではない。
暗示を含まぬ一つの形にとどまっていた。慰めと言う行為のみにその存在が
あるように。だが、それはこのように存在の節度を保つことにより、溢れる
ばかりの強さを放ち、人の願望に相応しいものになっている。
形なく人の心に寄り添い、流れさる願望の前にその対象としての形に身を
潜めて息づいていることは、何と言う欺瞞だろう。その形は心とともに
徐々に希薄となり、破られそうになり、おののき震えていく。
ミヤコワスレ、その美しさ自体が、想いに向って花開いたものなのだから、
今こそは、生の中での意味がかがやく瞬間なのだ。
はかくて私は、花の奥深く突き進み、花粉にまみれ、酩酊に身を沈めた。
私を迎え入れたその花が、それ自身、紫と黄色の豪奢な鎧を着け、
今にもその束縛を離れて飛び立とうとするかのように、はげしく身を
ゆすぶるのを私は感じた。私はほとんど光と、光の下に行われている
この営みとに眩暈を感じた。
だが、生が私に迫ってくる刹那、また茫漠たる物の世界に、ただいわば
残された自分にとどまった。虫たちの飛翔や花の緩やかな動きは、風のそよぎ
と何ら変わりがなかった。この静止した凍った世界ではすべてが同格であり、
あれほど魅惑を放っていた形は死に絶えた、消えた。ミヤコワスレはその形
よってではなく、我々が漠然と呼んでいる春の花という約束によって美しい
にすぎなかった。
生の流動と一瞬みた歓びは消え、時間だけが動いていたのである。



         私には、母に甘えた記憶がほとんどない。何度かの日帰りの旅や渋谷までの
買い物などが切れ切れの記憶として残っているだけである。父との
思い出も、会社の慰労会や横浜へ出かけた記憶が残っているのみだ。
だが、母が入院してから一人で病室を訪ねた時の記憶ははっきりとしていた。
母は、少しやつれた顔で、何でお前がここへ、と言う表情で私を見た。
青白さの目立つ中に、濃い眉毛と薄い唇だけが別の生き物のように赤く
つやつやしていた。やや白いものが見える髪の毛を後ろで緩く結んでいたが、
何本かの後れ毛が首筋に絡まり、顔の疲れを一層ひどくしている様でもあった。
かなり長い時間であろうか、母は何も言わず遠くをぼんやりと見つめていた。
二人の間には遠く看護婦の通る足音だけが割り込むように聞こえるだけだった。
私は突然立ち上がり帰ると言って病室を出た。
ここに来た事を後悔した。その後、母の死に顔を見るまで此処にはこなかった。
要するに私は両親の積極的な愛情に恵まれていたとはいえない、そんな
想いが一人心を支配して来た。
帰り道はすでに薄暗くなっていたが、私のまわりに病室の匂いのみが漂った。
薄暮の道路に電柱の長い影を見、その先に私は一羽の蜻蛉が羽を休めているのを見た。
夕空はその小さな円形の水溜りの上に落ちていた。人のざわめきと
電車の通る音のみが私の身体に刻み込まれた。


            人は過去を切り捨て、来るべき次の時間に幸せと言う曖昧な喜びを期待す
る。
しかし、時に自分の過ごした場所やそれを思い出すようなことに出会うと、
体の大分奥底にあった淀みのような塊りが水に浮かぶかのように水面に
顔を出す。今の和邇がそうかもしれない。
横を通り過ぎる十代や二十代の若者が何か楽しそうな話やゲームをしている。
何かに熱中したという思いはないが、まだテレビが良く見られた時代、夕食の
ちゃぶ台越しに見入った月光仮面、兼高薫の世界の旅、ウルトラマン、さらには、
てなもんや三度がさ。今にしてみれば稚拙さの目立つテレビ番組ではあるが、
懐かしさが心に仄々とした温かさを持ち込んでくる。さらには、1970年初め
の頃の「時間ですよ」は銭湯を舞台にしたもので中々に楽しかった。
相変わらず足先の痛さはあるものの、心なしか足の重しが解放されたように
リズムが出てきた。二十代の頃には、今から考えれば、下らんと思うが、
漫画は見ない、テレビは見ない、車は乗らない、煙草は吸わない、この四つは
死ぬまで守るなどと言い放ち、結局は煙草の件だけが残った事を思い出す。
漫画なんぞは結局三十代後半まで、少年サンデー、マガジンを良く見たものだ。
全くの笑止千万のこと。中天の陽射しの下で影も笑っている。
思わず苦笑いが出る。時間は、そのときの苦しさ、口惜しさ、更には喜びまでも
そのときの感情を消し去り、新たに懐かしさと言う感情を持ち込んでくる。
私にとって、それはふと横にいる女性に触れられたような甘さを含むことが多い。
この薄汚れたような老人がニヤニヤしながら歩く様はさぞかし不審なことなの
であろう、怪訝な顔をして横を通り過ぎる人たち。
人と車のさざめきの中、彼は七十年代の時間に身を置いていた。


       六十代は複雑な存在だ。「終わった人」と烙印を押される一方で、本人は失っ
た
何かを取り戻したいと言う焦りに似たものがある。」と。
この緩やかな歩みにあわすかのようにこんな文章が突然思い出された。
すでに周りにも「終わった人」がたむろしている。そして、多くはその環境に
身を任せ、何かを取り戻したいと気持さえどこか片隅に置き忘れたように
毎日を過ごしている。ここ数年の自分もそうであった。
10日ほど前までは。
何かを期待していたわけではないが、家を出て、琵琶湖の蒼さに触れたとき、
失ったものを取り戻すせるのでは、と思った。
申し分ない5月の日だった。空気は柔らかくて甘く、空は高くて鮮烈な蒼さだった。
庭の椅子から見ていた梅ノ木や紫陽花の青葉、周りの木立ちも生垣からは春の
匂いは感じられたが、いまこうして外の世界を自分の足で歩いてみると、
目の向かうところすべて、畑も、庭も、野原も、木立ちも、生垣も、すべてに
新しい命がはじけている。
頭上では、着生植物の若葉が木の枝にしがみついて天蓋をかたちづくっている。
目の覚めるような黄色の雲はレンギョウの花。地をはっているのは、紫ナズナ。
柳の若芽が銀色の噴水となって震えている。この春最初のジャガイモの芽が大地を
割って顔を出し、グズベリーとスグリの繁みは早くも小さな蕾をつけて、
妻がその昔よくつけていたイヤリングを思い出す。溢れんばかりの新しい命がそこに
あった。しかし、まだ彼の心はその情景を受け入れるには不十分であった。
枯野に水が沁み、新しい芽を出すには、もう少し時間が必要であった。


        すでに人家は途絶え、先ほどまで後ろに光り輝いていた湖の姿も消えた。
道は舗装から砂利道へと突然変わり、まるで俗世と来世はここだ、と宣言
している様でもある。まるで来世の自分を見せるかのように暗い杉の森が
目の前に広がっていく。歩を更に進めれば、杉の木立ちが天空の蒼さを被い
隠すように続き、見下ろすように立ち並んでいた。細い砂利道が真っ直ぐに
伸び、薄暗がりに消えていく。光明の如き薄い光がその先で揺れている。
わずかな空気の流れが私の頬をかすめていくが、聞こえるのは砂利道を
踏みしめ歩く我々の足音のみ、静寂が周囲を押し包んでいた。
はらりと何かの葉が足下に落ちてきた。さわりと、その音さえ聞こえて来た。
やがて二つに道がわかれ、標識には、「崇福寺跡五百メートル」とある。
上りの勾配がきつくなり、砂利道を歩く音に合わすかのように夫々の息づかいが
聞こえ始まる。千年以上前に建てられたという天皇勅命の寺と言うが、
今まで歩いてきた風景の中には一片の証も見られなかった。
道が切り取られたような崖の間を抜け、右手の山へと続いている。歩けるように
整備された細い道が山の端に沿って、上に向って伸びている。
ちょっときついな、と心なしか不安を覚える。上っては下り、下りを暫らく
感じると直ぐに上る。そんなことが暫らく続くが、案内人は黙々と
歩き続ける。小さな水の流れを渡り、また小さなきざはしとなっている山道を
上がる。膝とその周りの肉がそろそろ悲鳴をあげ始まった時、突然、
森が切れ、視界が広がる。
皆がここか、と互いに声を出し合う。そこは縦横二百メートルほどの広さを持ち
森の重さがすっぽり抜けたように蒼い空の下に小さな草花を咲かせていた。
鷲か鷹か判然としないが、蒼き天空を2羽の鳥が旋回している。
彼らから見たら、我々はどう見えているのだろう、とふと思う。
彼らから見れば、単なる広場と思われる場所に10数人ほどの人間が
うごめいている。更には、遠く彼らの親たちは数百人の人間が天に念仏を
唱えながら日々暮らす姿を見てきたのであろう。滑稽なりと思ったか。
やや大きめの平たい石が十個前後その草原の中に3列に並んで置いてある。
寺の柱の基礎と案内人は説明していた。更にこの場所から谷を隔てて北と南に
同様の寺院跡が二つあると言う。
苦行は更に続いた。先ずは、先ほどと同じ様な道を南に上っては下り、更に上る。
南の草原も先ほどと同じ様に数10個の平たい石が見えるのみ。小さなせせらぎを
渡り、同じ様な山道を踏み外さないように慎重に上り、また下り、上る。
和邇は、今日はこれで何回上がったり下がったりしたのか、そんな考えを
巡らしながら眼の前にある細い道を上がっていく。最後の一踏みを終えると
眼の先には大きな石碑が桜の木に囲まれるように建っていた。「崇福寺跡」と
掘り込まれた石が色づき始めた山の端を後背にして、鎮座している。
ここが本堂だという。石碑の前10数メートル先の石組のところで、案内人が
ここに釈迦のお骨が納められていた、と説明している。でも眼前にあるのは、
四つの石と中央の小ぶりな石のみ、本堂をイメージしようとするが、思うような
姿は思い浮かべない。陽はすでに中天から外れ、徐々に秋の寒さを周囲に
撒き散らし始めている。背中に滲み出している汗が徐々に消えていく。
過去の栄華に想いをはせるには、余りにも小さすぎる広さだ、そんな事を
和邇は思う。すでに心は家路へと急いでいた。

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