2016年10月9日日曜日

日々の記録13(モノクロ写真家、クラフトビール、バラ園、ブラタモリ仙台、滋賀の 製造業)

和邇には、季節ごとに好きな花がいくつかある。どうして、それと、言われても
明確には答えられない。自分の心の奥底にある何か、がそれを求めているの
かもしれない。
それが歓喜を与えるものだったり、安らぎを与えるものであったり、楽しさが
湧いてくるものかもしれない。多分、他の人も同様の感じを持っているのでは、
と思っている。例えば、妻は紫陽花が大好きであった。特に青の色の映えた
大輪の紫陽花は、何時間見てもいいわ、とよく言っていた。和邇が何故、と
聞いても明確な理由を聞けなかった。何と無くこれを見ていると心が静まる、
と言っていたものだ。近所の太田さんも、庭中に、チューリップを植えて
毎春、その黄色やピンクのお椀の姿に、眼を細めていた。彼も、その色に惚れた
と言うが、それ以上の答えはなかった。和邇の勝手な解釈でも、顔形の整った
いわゆる美人であっても、一般的な綺麗と言う感情は湧くが、その整った
顔や形に自身が歓喜する、楽しくなる、幸福感が増すなどの行為になる、
とは思っていない。自身が意識していない何か、心の琴線と呼ばれるものに
触れることが重要なのだ。さらに、和邇の場合は、昔写真に入れ込んだときから
カラーよりもモノクロの持つ見えざる力に共感していた。カラーは、色に
よって、人の感情を高めるが、それは本当の写真の持つ力ではない。ある意味、
誤魔かし、とさえ考えている、と言うより確信していた。最近、ある高齢の
女性写真家がモノクロによる神社や社などの風景を撮った写真を見た。
素晴らしいと思った。神社や社の持つ不可思議な雰囲気と神と言う形の
見えない何かを何故かその写真は感じさせてくれた。多分、これらをカラー
で見せていたら、単なる風景写真として、人の心を振るわせることには
ならないであろう、和邇は写真の前でそう感じたし、現にその写真家もカラーで
数年、同じ題材を撮っていたが、ほとんど評価されなかったと言う。
色と言う人の心を惑わす所作がなくなった分だけ、見る人も写真の持つ力を
感じ取れるのではないだろうか。
夏は、向日葵と百日紅が和邇の好きな花である。
向日葵の茶褐色のパウンドケーキのよう真ん中の種子の周りに黄色の小さな
花びらが太陽を仰ぎ見る姿は、神々しくも見える。その無限のようなエネルギー
の発散が身体中をドンと突き抜けていく、様だ。そして、百日紅は、この
暑さの中で一服の涼しさと優しさを与えてくれる。やや遠くからでも映えている
そのピンクは、良く見れば、ごく小さなピンクの花が数十となり寄り添って
一つのピンクの華を形作っている。更には、その小さな花一つ一つに黄色の
雌蘂がピンクの花びらに守られかの如く密やかに存在する。この一見華やかだが、
実は密かなるモノ立ちの集まりが和邇に安らぎを与える。
今、チャトと野辺をふらりと、チャトはやや警戒しながら、歩いている。
夏の真ん中とはいえ、朝の夏はその生命力を周辺の木々、鳥たち、花々に
ふりまくように、そのエネルギーを抑えている。空は相変わらず透きとおり、
比良山麓の緑も美しく、そして優しく2人を見守っている。今、右手には
朝日に向って向日葵の一群が空の蒼さと山麓の緑の中で、神々しく立っている。
和邇は、暫らくその光景に心を奪われ、立ち尽くしていた。チャトが下から、
早よう行こうやと例の三角眼を和邇に投げかけている。先ほどは、幾つかの
家の庭でピンク色に覆われた百日紅の花に清清しさを覚えた和邇であった。
今日は大満足、そんな気持が和邇を支配していた。



はるか遠い記憶が浮かぶ。親父と母と私、3人でとったちゃぶ台での朝夕の食事
の風景がそこにある。ちゃぶ台に置かれた晩の食事、それは質素と呼ぶべきほどの
モノであったのだろう、に頂きますのお礼をして静かな動きの中で、タンスの上に
置かれたラジオの音に埋もれるように過ごした日々。良くある昭和の食事風景が
何かの記憶として残っているのか、小学校1年生ほどであった私の記憶の一片
なのかは定かではない。両親はともに口数の少ない人であったが、そこには、
不思議な温かさを感じたものである。さらに、時が経て、横浜から京都の隣の
市に移ってきたとき、既に息子も3人となり、朝も晩もがさがさと動き回る
一番下の息子と上二人のおかずの取り合い、妻の夫々をたしなめる声、テレビの
騒々しい音など、静けさと言うものが全くなかったが、庭の先に電燈に照らされ
ながらも白と紫の綺麗な色を見せる花しょうぶの群れを見ながらの食事は喧騒と
静けさの混在した不思議な時間でもあった。それは、琵琶湖の近くの今の家に
引っ越して来たときでも同じであった、と思っている。ドンと置かれたテーブル
を囲んで青年となった息子たちとやや勢いの衰えた私、介護関係の仕事で頑張っている
妻、横浜、京都と続き、相変わらず心のつながりはあったように思える。
そして、2人ではやや広くもあるダイニングで妻とテーブルを囲む10年ほど
前からの朝夕の静かな日々がある。食事を通して家族の絆を感じ、時には口論
となる日もあったろうが、それも翌日には、既に過去の出来事となって、また
5人の夫々の生活が始まる。家族の幸せの形と呼べる1つであろう。時の移ろいに
合わせ、囲む人と食卓の内容は変わってきたものの、5人が心持ちとしてつながる
と言う行為は素晴らしいものだ。途中、私自身が午前様の生活となり、4人との
つながりが細くもなった時期があったものの、傲慢な私を上手く扱いながらも
妻の一貫した家族をつなげていくと言う意志と行動が幸せの形を作って来たの
かもしれない。夫として、父親として立派といえば、先ず嘘になるが、幸せの形
の中で、この人生を過ごせたのは、有難い、この旅でも何人かの人が自身の幸せ
が何かを求めている様でもあったが、それをつかめたのであろうか、和邇はこの
絶え間なく行きかう人々の顔を見ながら、一人違う世界にいるようでもあった。


怒りの中に悲しみを見た。
40年ともに過ごした人生だったが、お互いが何も見ていなかった。
それはホンの些細な口論から始まった。息子の生活態度への非難はいつもの調子で
あったはずであったが、今回は少し違った。もともと妻はこの息子に対して負い目を
持っているのだ。彼の眼の不調や精神的な不調が生んだときの自分の対応の
悪さから来ていると思い込んでいる。少し前までは、精神的な余裕で彼の日常生活
への非難は適当に聞き流していたが、歳を経るとともに小さな黒い過去の負い目が
彼女を支配して行った。息子への非難は自分への非難と強く思うが、それを解決する
術はない。このジレンマが彼女をして、更に精神的な崩壊への道を作って行った。
「もう、あなたとは一緒に住めない。あなたのような家族を考えない自分本位な人
とは顔を合わせるのは嫌」。
突然の怒りに私は圧倒された。黒い津波が、紅い高波が私に襲い掛かってくる
ような衝撃を受けた。
しかし、思う。あの目に宿る悲しみは何なのだろうか、と。怒りは体全体から
噴出するマグマの如く湧き上がっているが、悲しみをたたえるその目には
静かな、しかしほかを寄せ付けない冷たさが見える。私への失望感、自分への
焦燥、家族が霧散することへの後悔、彼女にとってこの40年、息子を
含めた家族の絆作りが生活の最優先事項でもあったのだから。
彼女の最後の言葉、私への最後通告、そして緊張感のある無言の時間が
2人の横をすり抜けていく。
「今度こそ、本気で別れが来るのかな」。
「妻はまだ怒りの中で浮遊している。これに手を差し伸べれば、手痛いしっぺ返し
が来るだろうな」。
白く光る天井を見ながら、そんな考えが体の中を、頭の中を、まわっていた。
ずっしりと重たい静寂が身体を這い上がっていく。
40年間、夫婦の間には様々な口には出来なわだかまりがある。そして、それには
触れないように上っ面をかすめる程度に言葉を交わすことで生きてきた
のかもしれない。


和邇は、一瞬自分の目がおかしくなったのか、と思った。いつもは、紺青の水を
静かにたたえている琵琶湖が見えない。朝日を浴びながら、坂をゆっくりと下りつつ
この強烈な暑さで、身体も頭もおかしくなったのでは、と思った。春霞ならぬ
夏霞の朝であった。道路には影一つ無く、まるで砂漠が如き様相である。
汗が容赦なく顔に幾筋もの流れをつけていく。2ヶ月ほど前に味わっていた
朝の清清しさは影を潜め、灼熱と化した太陽が中天にどっしりと居座っている。
後ろを振り返れば、比良の緑の稜線が透き通った青さの中に、まるで太い毛筆の
線で引いたように描かれている。
我が家の孫娘のような犬のルナを息子が飼ってから約半年、そのルナを我が家に
連れてくるのが毎朝の日課となった。やや寒さの残った3月から正に百花繚乱の
春の草花を味わいながらの4月から6月、そして時は確実に過ぎ行きて、今は
夏の真っ盛り、連日の猛暑である。
我が家に向うには、この急な坂を上がるしかない。それでも、若いルナは和邇を
先導するかのようにどんどん先に行く。若さの違いであろうか、和邇が衰えたのか、
いずれにしろ、後ろから刺し込むように朝日が2人を押し包んでいる。
ふと、見れば淡いピンクの色を付けた百日紅の木々が和邇を和ましてくれている。
味気ない緑一色の中にその紅の花は、真珠の粒のごとききらめきと優しさを
道行く人に与えているのだ。一段と増した汗の川が顔全体を覆っているが、
ルナの影を見る形で、右の足をだし、そして左の足を出すという単純な行為
に更ける和邇であった。ルナはこの暑さを感じているのか分からないほどに
歩く先々の様々な匂いを感じ取ろうと一生懸命である。公園の横の太田さんが
花に水をやりながらこちらに挨拶を送っている。和邇もルナもそれに応えるが、
暑さがその間を裂くがごとく、会話もなく、一段と増す暑さに我が身を委ねる。
角を曲がった先に長く白く光る道が続いている。この一番先に我が家があるのだが、
まるで数キロもあるように、和邇には見えた。
これが明日も続く、そして明後日も、人生とは終わりのない道、そんな思いで
我が家の扉を開き、元気なママの声を聞く。



薄灰色のとばりが湖面まで垂れ下がり、灰色の水面を覆う形で琵琶湖がいた。
その上には、わずかに残る力を振り絞るが如き姿で朝日がわずかな形を見せている。
既に比良山には、頂上を雪の切れ切れが白く大きく被っている。こちらも薄墨の
背景に浮かぶ山々の山水画の風情をしている。
和邇は坂をゆっくりと、その歩みを確認する仕草で下りて行く。肩に白い粉が
かかる。雪であろうと思った。昨日よりもその寒さは一段と厳しくなり、全ての
動作を油の切れた機械の様で、見せている。夏、秋と華麗な姿を見せていた家々
の草花もすでに、茶色に変色し、和邇の気持を一段と寂しくする。坂を下り
左へ曲がれば、ルナの待っている姿がそこにある。今日も、あのぼんぼりのような
黒い尻尾をふって、一段の愛想の良さを見せるのであろう。まだ1年ではないが、
息子が飼ってからその体躯は一段と逞しくなった。一応、我が家の孫娘ではあるが、
日々の行動からは、どうしても男、雄犬としか見えない。やんちゃぶりは一段と
増してきた。散歩に行ってももう妻の力では、抑えきれない。ルナに合わせて
行かないと、彼女も力尽きた様相で戻ってくる。
元々、寒さには強い犬であるから、最近の散歩も元気そのもの、おかげで和邇も
朝の寒さを彼女の元気さで吹っ飛ばしている日々である。今も、先陣をきる
勢いで急な坂を駆け上がっていく。和邇もリードに引き連れられ、その老体を
必死に前に出す。前方から小さな茶色の犬が若い娘さんに連れられて下りて来る。
まるで機械仕掛けのような足の運びに思わず、和邇も苦笑する。
黒のジーパンに赤いセーターの彼女は、ルナの勢いに思わず立ち止まる。
その顔には驚きと可笑しさが混在している。眼は一心にルナの黒い毛並みに白の
線のある、その顔に注がれている。一緒に茶色の犬も恐ろしさと珍しさを同時に
たたえた仕草でルナを見る。しかし、その情景もルナの一声で、一瞬に変わる。
茶色の犬も声で応戦するが、どこか弱々しい。彼女も眼に驚きの色を見せつつ
通り過ぎて行く。この犬見かけと違って結構怖そう、とそんな表情が読み取れる。
右手には、更にその灰色を強めた比良山がこちらを見下ろしている。
黒い雲が次第に周辺に積み重なり、白いものがルナの身体にもはっきりと落ちていく。
明日の朝は雪かな、そんな想いが浮かぶ。
やがて、あけた扉の向こうには温かい空気が2人を迎える。


昔、和邇は秋が好きだった。夏の暑さに打ち萎れるのは人間だけではない。
安物のクーラーでは防ぎきれないあの強烈な暑さの流れをまともに受け、
その暑さに気の狂いそうな自分がいた。この身の弱さを年とともに感じてきた。
猫たちも一緒だろう。今年の夏は、チャト、ナナ、ライが1回のクーラーの効いた
部屋で日がな過ごしているのが、目立って来た。元気なのは、ルナとハナコの
若者だけの様である。ハナコの平然とした様とルナの部屋中を駆け回るエネルギー
の凄さをママとともに、唖然としてみる日々が続いていた。そして、夏の過ぎ去りに
あわせて、秋は、身体も意識もその暑さから逃れ、新しき躍動を見せたからである。
この朝の素晴らしさは何ともいえない。琵琶湖は紺青に輝き、透き通るような先には、
鈴鹿山脈や伊吹の山々が、その曇りなき姿をガラス細工のように見せている。
白い鰯雲が中天高く泳いでいる。どこからか、研ぎ澄ました光輝くような風鈴の
音色が聞こえてくる。その白い響きに、坂を下りつつも、和邇は左右に気を配る。
通り過ぎる家々の庭には、黄色の大輪をつけた菊が、その堂々たる姿を見せている。
既に色づき始めた紅葉の木々が数軒おきにその紅と黄緑、そしてまだ残る深緑
の葉を幾重の重なりとなって庭庭に彩りを添えている。更には、夏は雑草の大群に
覆われていた空き地には見事な穂をつけたススキの一群が、支配を始めている。
ルナもさすがにこの暑さには、やや体力を落としていたのであろう。
私を迎える態度も一段と激しさを増し、玄関の扉を開ける途端に、飛びついてくる。
坂を上がるのも、ただひたすら猪突猛進の如き所作で、和邇もそのリードに
引かれるが如き速さである。我が家へ向う路では、ノンビリと比良の山並や
先ほど見た琵琶湖の透明感のある姿など見ることさえ叶わぬほどだ。
少しづつ赤さを増す比良の山々も何か和邇を笑いながら応援している様でもある。
我が家の着く頃には、まだまだ歩み足りないような顔をして、和邇を見るルナと
息を切らせ、中腰なりながら息を整えようとしている老人の態となった和邇が居た。
更には、自分の到着を知らせるためのルナの一声が最近の日課となっている。


まだ白いものが残る比良山の山並が少しづつ後ろに流れて行く。目の前に広がる
蒼き湖がそれに合わすかのようにこれも少しづつ大きくなっていく。春の霞に
薄いベールを通して見るような沖島や八幡山の対岸の風景もどことなく
暖かさをもって見える。右手のやや深い森からは鳥たちの朝のさざめきがとき
に激しく、時に密かに和邇の耳の届く。この坂も何十年と歩いた道ではあるが、
四季の色合いを感ずるのは、春である。特に、身体の衰えを感じ始めた4,5年前
から和邇は、今まで好きだった秋よりも春に喜びを感じている。
薄暗い空が多くを占め、山と湖をその力で押さえつけるような冬の死に近い風情は、
死が近くなったものにとっては、何の慰めにならないし、寒さの中で縮こまる
自分の姿に情けなささえを覚える日々でもある。そのような季節から雨水、啓蟄
といった二十四節気のいう生命の息ぶきを感じる春は、今の自分にとって、
大きな慰めであり、勇気付けでもあった。足下に眼を落とせば、芝桜の可愛い
ピンクがあり、庭にはピンク、黄色、白など様々な色の花たちが一斉に咲き
始めている。名もなき雑草と言われる草たちも冬のややくすんだ緑や茶褐色
から光る緑へとその姿を変えつつある。歩き過ぎる家々の風情も、同じ姿で
あるはずだが、その醸し出す空気は緩やかな暖かさで和邇を包み込む。
既に、青味の増した芝生の上にルナはいた。和邇を見ると、出迎えへの喜びを
身体全体で表している。尻尾を絶え間なくふり、前足をこちらに向け、いつもの
片足を上げる仕草で握手を求めて来た。眼を見れば、オッサン早く散歩に
連れてってな、早ようしてな、と言っている。ここで飼われてからまだ1ヶ月ほど
だが、すでに10年もいるような態度で、この孫娘はしっかりと和邇を見つめていた。
リードを持てば、脱兎の如く坂を駆け上がろうとする。長いペットショップの
狭い空間で過ごして来た憂さをこれ以上ないような仕草で晴らそうとしているようだ。
しかし、想いとは別に、まだ体力不足なのであろう。和邇を引き回すほどの
力はない。結局、この足の遅い老人の歩調に合わせて、やがてゆったりとした
歩みとなる。それでも、家の前に行く頃は、2人ともが、息切れが大きい。
何しろ、片方は4ヶ月近い闘病生活であったし、片方も3年近い狭い檻の中の
生活であったのだから。そんな二人に既に咲き始めた梅の花がその優しい
ピンクの色合いを染め付けている。遠くで、ウグイスの元気な声が聞こえる。


様々な神社の風景をモノクロ写真として撮りつづけて10年の大津市大江在住の
女性がいる。神社の持つ佇まいに魅かれたのが、きっかけで白洲正子のかくれ里
との出会いも大きいという。確かに、モノクロの持つ魅力が生きるのは神社のような
静けさと杜の情景かもしれない。一度は加藤国子さんと話をしてみたいもの。
作者は鄙びた里の鎮守の杜の思いがけない美しさに魅せられて、この8年ほど滋賀県内
の
観光客の訪れることもないような神社を訪ね歩き、撮影してきた。
どこの神社も集落の人の月当番が落ち葉を掻き、下草を刈り、本殿や拝殿の掃除を
怠りなく、清らかに守られていた。
この小さき島国は、歴史始まる以前より台風や地震、それに伴う大雨、洪水、津波や
地滑りなどの天災に遭遇してきた。古事記などに記される神々については研究している
人に任せ、作者は、神社というのは、抗いようもなく再々繰り返される災害への恐れか
ら、
安らかに暮らせる日々を願う人々の祈りから始まったのではないかと思っている。
近年もテレビで映し出される未曾有とか想定外と表現されるような阪神の震災、東北の
震災など、近くは御嶽山の噴火の様子に胸がつぶれる思いをした。神戸の震災の折に
目にした風景に、作者は、神はこんなことをしていいのかと胸が震えたが、そう
言いながら、やはり神戸の生田神社は思いのほか早々と再建され、年の初めには、
またの穏やかな1年を神に祈る初詣の人でにぎわっている。
抗いがたい天災に、神頼みではどうにもならないと知りつつ、それでも頼りたい、
頼ってしまう、そんな人々と神々のつながりの長い歴史を思いつつ撮影した作品
である。モノクロ46点。
作者のプロフィール
加藤 國子(カトウ クニコ)
1942年生まれ。退職後、インターネットでホームページを作り、琵琶湖の写真を撮って
アップしたのが写真を始めたきっかっけとなる。一眼でという勧めにニコンD80を購入
し、
故安岡孝治氏に2年ほど手ほどきを受ける。また、いくつかの教室やワークショップに
も
在籍。現在は気ままに写真を楽しみ、ブログ「にごろぶなの歌」、Facebookに毎日写真
をアップしている。
主な写真展に、2002年「時の過ぎゆくままに」(コンタックスサロン京都)、12年
「近江風土記 祈りの風景」(滋賀県立近代美術館)、13年6月同展(ギャラリー PlaceM)
、
11月同展(ギャラリーら・しい/奈良県當麻)があり、大阪写真月間「写真家150人の一
坪展」、
ギャラリーの企画展などにも参加している。




今、クラフトビールが人気があるという。
いわゆる、地ビールだ。ネーミングや入れ物のデザインがかなりユニークなものが
多い。全国に200社以上あるという。
ビルスナー、アイピーエー、ヴァイツェなどがある
1990年代には、地ビールとして騒がれたが、その後、味や入れ物の安易さで
消えていった。
種類としても、かんきつ類を主体のホワイトビール、黒麦芽の黒ビール、ペールエール
など、多種多様である。製造するための設備も数10万円でできるというから、ビール
好きの人間が自分で創るという想いをもって、各地で頑張っている。
これに一役かっているのが、SNSなどによる広範な情報の拡散である。飲んだ時の
感触や好みに対する評価などで、新しい顧客を増やしていく。


福島にあった全国でも有名な個人経営のバラ園が消えた。
岡田勝彦さんが17歳でバラの魅力に取り付かれ71歳の今日まで育てて来た
双葉バラ園である。原発事故で立ち入りが禁止の地域にあったため、今は見る影もなく
荒れ果てている。しかし、震災前の写真では広大な敷地の中にあらゆるバラが
咲き誇っていた。オールドローズなど極めて育てるのが難しいとされる品種の
バラもある。しかし、映像に映る薔薇のそのは、ただの藪と化している。
岡田さんにとっては、娘以上の愛着があるのだろう。中々、次の場所での
開園は考えられないようだ。震災の傷跡はまだあちこちにあるのだろう。
多くの人の人生を一瞬のうちに全て無に帰した。これが自分に起きたと
考えると恐ろしい気持になる。
ただ、この園の写真愛好者が写真展などを開き、活動の輪を広げている。外国からも
おおいそうだ。一枚の写真が語る薔薇の姿は素晴らしいからであろう。

ブラタモリ仙台
仙台は杜の都と言われているが、これらには伊達政宗の思い入れが強い。
もともと、仙台周辺は河岸段丘という地層からなるため、それを上手く利用した
城つくりが行われていた。さらに、かなり昔に津波によって海岸近くの村は
壊滅的な被害を受けた事を知っていたためか、城は海岸から8kmも離れた
岡の上に構築されている。また、治水のため、幾つもの谷を暗渠などを作りながら
城下町に上流から生活用水として配水していた。その跡は、市の中心街でも
今も生活用水の設備として使われている。これらは四つの谷を渡って来たため
四つ谷用水とも呼ばれている。場所によっては、暗渠が川の上を渡っている
ところもあり、網の目のように配水路が整備されていた。城下町はそのような
生活基盤の整備によって発展して来たのだ。
又この配水の沁み込んだ水が井戸水として多く使われている。
現に市の真ん中にある鰻屋は、今も井戸水で鰻を育て、商売をしている。
杜の都と言われる所以は、江戸時代から武家屋敷を中心に色々な木々を育てて
いたことが大きい。正宗の時代家康に逆らった事もあり、領地は160万石から
80万石程度の半分となった。しかし、家来の数はそのままにしたため、武家
も自分の屋敷でクリやミカンなどを栽培して生活を成り立たせる必要があった。
このため、木々の多い町となった。中には樹齢千年という木もあり、その歴史
の長さを感じる。
特に、城に近い武家屋敷には、大奥の木々が植えられていた。また、商業の発達を
更に進めるため、正宗は若村城という隠居用の城?を作ったため、街の構成が
元の武家屋敷と商人の町とでは大きく違う佇まいとなっている。

なお、東京編での中に、今も残る江戸城の跡として「常盤橋御門」がある。
現存する史跡としては見る価値がありそう。


第2次産業の比率が最も高いのは滋賀県。
内閣府の県民経済計算によると、2012年度の県内総生産のうち、第2次産業
(鉱業、建設業、製造業の合計)は全体の40.9%を占めて、全国首位とのこと。
全国平均の23.5%を大きく上回っている。2位は38.5%の静岡。1959年
に名神高速道路が出来て、栗東、彦根などのインターチェンジ周辺に電機や自動車の
工場が出来て製造がアップし、日本の中央付近に位置している立地のよさも大きい。

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