2016年10月7日金曜日

日々の記録21(ファブラボ、富士山、白川郷、小樽

ファブラボ
https://fabcross.jp/topics/research/20151113_fabspace.html
https://fabcross.jp/eventreport/20151202_fabcrossmeeting_01.html

富士山についてwikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B1%B1-%E4%BF%A1%E4%BB%B0%E
3%81%AE%E5%AF%BE%E8%B1%A1%E3%81%A8%E8%8A%B8%E8%A1%93%E3%81%AE%E6%BA%90%E6%B3%8
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80年代の記事
http://www.trapro.jp/articles/58

銅造十一面観音菩薩立像(国の重要文化財)など8体が白峰村(現白山市)
の林西寺住職(当時)、可性法師の手によって収集され、現在も同寺境内の
「白山本地堂」に安置されている。
真宗大谷派の寺院。無量光山と号し、阿弥陀如来を本尊としています。泰澄が建立した
薬師堂に8世紀、都を逃れた恵美押勝(えみのおしかつ)が隠遁していたという伝承があ
ります。その後、天台宗の無量光院として白山別当を務めていましたが、15世紀、蓮如
に帰依して浄土真宗に転じました。
 本堂に併設される資料館「白山本地堂」には、白山禅定道より下ろされた銅造十一面
観音立像(重要文化財)、「白山五仏」(県文化財)と呼ばれる仏像群が安置
されています。境内裏から望む白山の威容は圧巻です。
白山麓の名刹「白山本地堂」(林西寺)
白山麓は信仰の深いところです。
かっては「加賀は百姓の持てる国」といわれ、その行政の中心が一向衆の拠点尾山御坊
でした。百年近く続いた民衆の統治も織田信長の北陸方面軍によって落とされます。こ
の戦で最後まで必死に抵抗を続けたのは白山麓の鳥越城を拠点とした一向衆たちでもあ
りました。
この名残か、この地域では本願寺派門徒が多く報恩講がいまも盛んに行われています。
信仰の厚さを示すかのようにお寺の造りの立派さにも驚かされます。
ここ白峰の林西寺はその代表格です。寺の敷地内の白山本地堂には明治の廃仏稀釈で壊
される運命にあつた白山の峰々にあつた「下山仏8体」が安置されています。その1体
「銅造十一面観音菩薩立像」は国指定重要文化財で11世紀中期に造られた金銅仏とし
て仏像造りの変遷を知るためにも貴重な1体のようです。この他の7体も県の重文に指
定されいます。
これらの貴重な仏像が残存できたのは、林西寺の当時の住職可性法師が下山仏を集め密
かに安置していた功績によるものです。
寛文8年(1668)以降、越前馬場平泉寺の支配下におかれてきた白山山頂が、明治5年(
1872)に、石川県能美郡(現白山市)に帰属させられたことにより、翌々明治7年(187
4)になって、石川県令内田政風は、白山山頂の神仏分離を強行し、山頂一帯の堂舎に
安置されていた仏像・仏具を廃棄した。さいわい、仏像の破壊をおそれた信仰あつき白
山麓18ヶ村の総代の出願により、山頂から下山させられた仏像は、牛首(白峰)林西寺
と尾添村に預けられることとなり、「白山下山仏」の名で安置され、今日に至っている
。林西寺境内の白山仏堂に伝えられているものは、山上三社や室堂などに奉納されてい
た8体即ち、銅造十一面観音坐像(大御前本地仏、文政7年《1824》在銘)・銅造阿弥陀
如来坐像(奥之院本地仏)・銅造聖観音菩薩坐像(別山本地仏)・銅造地蔵菩薩坐像(
六道辻地蔵堂安置)・木造泰澄坐像(室堂安置)・木造薬師如来坐像(市之瀬薬師堂安
置)・木造如来形坐像・銅造雨宝童子立像である。神仏分離の歴史的事実を今に伝える
、これら下山仏は、貴重な資料であるといえよう。 
昭和60年「石川の文化財」より
本地垂迹説

 本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)というのは、神道と仏教を両立させるために、
奈良時代から始まっていた神仏習合(神仏混交、神と仏を同体と見て一緒に祀る)とい
う信仰行為を、理論付けし、整合性を持たせた一種の合理論で、平安時代に成立しまし
た。その基礎には仏教以前の山岳信仰と修験道などの山岳仏教の結びつきがあったとい
います。

 仏教の伝来は538年、あるいは552年ですが、すんなりと日本人が受け入れたわけでは
なく、紆余曲折があったことは良く知られています。仏教が国家の宗教となったのは奈
良時代で、東大寺を建立した聖武天皇の時からでした。これも良く知られています。
 ところが、天皇というのは神道の神様を祀る中心的立場にありますね。それで、やっ
ぱり100%仏教とは行かなかったようです。そのほかの人々も同様だったのでしょう。
なにせ、貴族も豪族も、みな、うちのご先祖様は何とかという神様だと言っていたので
すから。
 そこで、神様と仏様が歩み寄る必要が出てきました。歩み寄ったのは神様の方でした
。その一番手が八幡神だったそうです。八幡神は応神天皇のことだといいます。八幡様
が「私は、元々はインドの神でした」と告白したことで、ほかの神様も右へ習えとなっ
たようです。つまり、神様の立場を「本当は仏教の仏です(本地)が、日本では神道の
神としてやってます(垂迹)」ということにして、両者を共存させたわけです。
 もっともこれは、日本人が自分に都合の良いように理論をでっち上げたということで
もなくて、法華経にその根拠を求めることができるといいます。それに、仏教自体がヒ
ンズー教から沢山の神を入れていましたから、如来、菩薩などが名前を変えて日本の神
様になるということは、あってもよいことと考えていたのではないでしょうか。一方、
神道の側からすれば、元々、教義も無ければ教祖もいない、八百万の神様が坐す(いま
す)だけ、ということでしたから、さほど気にはならなかったのかも知れません。

 本地垂迹説とはこういうことなんですが、これはうまく考えたようにも思えますが、
どこかご都合主義的です。明治初年の神道国教政策により神仏は分離され、本地垂迹説
も消滅しました。(メキラ・シンエモン)


ドナルド・キーン「百代の過客」P257より
美の本質的要素としての、この非永続性は、長い間日本人によって、暗黙の
うちに重視されてきた。開花期が長い梅や、ゆっくりしおれてゆく菊
よりも、早々と散り果てる桜の方が、はるかにこの国で尊ばれるゆえん
である。西洋人は、永遠の気を伝えんがために、神々の寺院を大理石
で建てた。それに反して伊勢神宮の建築の持つ本質的な特色は、その
非永続性にほかならない。


白川郷
白川郷の生活が描かれている新日本紀行を見た。
過去に白川村は多くの地域で合掌つくりが見られたが、昭和41年ごろから
高度成長時代を経て、より豊かな生活を求めて村を離れていき廃屋となったり、
御羽衣ダムの建設で5つの地区が消え合掌つくりの家々は衰退の一途となった。
更には、合掌造りの維持や葺き替えに多くの費用もかかり、ほとんどの地域で
消えていった。今合掌造りの家はオギマチ地区のみとなった。114棟が
維持管理されている。それは、この村での結いといわれる地域民全員で地区を
守っていこうとするつながりの強さが根底にあるからだ。地区の1/3以上の
人が代表として集まる全域の集会で全てを決めていく。この全体会議で合掌つくり
の維持管理を継続的に行っていくと決め、そのため、この合掌作りを観光資源として
活用していくことも決めた、「売らない、貸さない、壊さない」と言う三原則も
この場で決められたものだ。更には、30年ほどに一度行われる合掌つくり
の葺き変え作業には村人が総出で行い、木と萱で火に弱い家々を守るために当番
で毎日行われる火の用心の見回り、共有地の萱場の萱の借り入れ、火から守る
秋葉神社の祭祀など、地区全員で日常作業や祭、結婚なども行っている。
ほとんどの合掌造りの家は江戸時代から400年以上、様々な雪深い里の暮らしに
対応した工夫を重ねて今日に来ている。一階は60畳ほどの広さがあり,昔は
牛や馬もいた。二階は昭和初期まで盛んであった養蚕のための作業場である。
ここで蚕を飼い、収入を得ていた。二階、三階は茅葺きの屋根を虫や雨風から
守るため、煤だらけである。そのため、1階の大きな囲炉裏が必要となる。
少し前に、利便性を考え石油ヒータにしたが、屋根などに大量に虫が発生し、
慌てて囲炉裏に戻したとも言う。先人の智慧をあらためて感じたと言う。
屋根は傾斜60度ほどの正三角形をしており、これは雪が容易にすべり、雪下ろしの
手間を軽くするために重要である。また家は東西に向って建てられており、
冬は日照時間の短いこの地域の気候に合わせ、なるべく長く陽射しを受けるように
工夫されている。かってドイツの建築家グルーノ・タルトはこの合掌つくりの
建築を見て非常に合理性にとんだ建物と賞賛している。
この地域でハレとなるのは、10月14日前後の秋の例大祭(どぶろく祭)である。
白川八幡宮から神輿がでて、しし役者となる人が奉納の踊りをする。この地区では、
囃子の人としし役者が花形であり、中々に選ばれるのが難しいとのこと。
更には、浄土真宗への信仰が強い地区であり、ホンコ様と呼ばれる親鸞上人
への報恩講の催しを行う(11月27日前後)ことが重要な行事となっている。
ただ、そのために1年ほど前から、春の野菜、山菜などを冷蔵庫に保存し、
様々な精進料理を出すとのこと。その家の奥さんは大変な作業となる。

ブラタモリ小樽
いまは運河や煉瓦造りの倉庫群、石造りの建築で観光客で賑わう小樽であるが、
昭和初めには衰退した地方都市であった。しかし、その小樽も明治、大正にかけては
全国有数の商業都市であった。江戸時代には3000人ほどの漁村であったが、
石炭の使用が高まるにつれて石炭の積出港としての地位が高まり、荷揚げ量は
当時は特産であったニシンなども加え、全国4位にまでもなっていった。
僅か10年ほどで30倍以上の発展である。
これには、石造りの倉庫をほかよりも早く整備し、海岸線を埋め立て平地を
拡大していったというインフラ整備への努力が大きかった。
一時は25の銀行が立ち並び、各地の商人たちがその発展に目をつけて
集まっても来た。
いまでも、その当時金持ちとなった商人の邸宅が街の高台に往時をしのばせる
形で残っている。しかし、その後の石炭需要の減少やにしん漁の衰退、海運ルートの
変更などにより衰退していった。25の銀行も現在は三つの銀行が残るのみである。
現在観光資源として活用されているのが、石造りの倉庫であり、閉鎖された銀行
である。銀行は外観はそのままで、内装を買え、ホテルや別の商業施設になっている。
廃墟となったこれらの建物をきわめて現代的な内装に変えることにより
明治大正の時代郷愁と現代に新しさをミックスさせていることが多くの観光客
を惹き付けている。

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       水を切る船路がきらめく銀盤のしじまを一直線に切り取り、その白き階が
黒天に浮かぶ満月の神々しくも光映える姿をを揺らし、それもやがて白く
光る湖面の中に消えていく。月の光の外れでは、湖水がただ茫漠として
空の黒さの中に沁み込んでいる。沖島、八幡山の織り成す黒き線と面の
造形が白き光の輪の中に浮かぶ。
全てが静寂の中、月光の突き刺すような光に困惑しながらも、大きく
湾曲する白き線と限りなく続く漣、百数十本の松、それに迫る山の端の
なだらかな線が一幅の墨絵のごとき趣きを持って眼前に広がっている。
目を転じれば、月の白き光を受けて、比良の山並は紅と緑の山裾を長く
見せ、湖の琵琶を奏でる調べの中にあった。
今いるここは奥津城なのか、ふとそんな思い浮かぶ。
月はあきらかで、風が木々の梢に吠えていた。梟が鳴き、松の梢の
ざわめきが、僅かに呑んだ酒のせいかほてった彼の耳朶に、死んで言った
ものの声、悲壮な葉叢を風になびかせている木々のざわめきを伝えた。



           ハナコは主人のベッドの上で寝るのが好きだ。
野良猫として我が家に来た時、ハナコとノロを受け入れたのは主人であり、
ライやレトの古株に虐められた時に、助け舟を出すのが主人であったから
かも知れない。もっとも、黒と茶色の斑の様な色合いに白い下腹や足から
受ける印象はか弱さが感じられるが、ぞっこん結構しぶとい女だ。
でも、今見える寝姿は、中々に可愛い、と主人は思っている。前足を
少し縮めるように九の字にまげて、後ろ足には長い尻尾が捲きつけるように
絡んでいる。やや丸める様に横になった斑の背中に白いおなかが上手く
全体の色バランスを取っている。白さが優る顔を斜めに伏せ、時々動かす
耳は背中の斑と同じだ。やや上向きの鼻がこじんまりと伏せた目元に
緩やかにつながっている。他の場所では、ライやレト、たまにはナナの
急襲に備えてどこか緊張感が伴っているが、今は体全体が弛緩し、
安心感が全体をおおっている。その寝息にあわせ、白と斑の一部がゆっくり
と上下している。今、彼女はどんな夢を見ていることか、ノロとの逢瀬か、
満月の下で大勢の猫と戯れる情景か、その顔は穏やかな空気感を
四方に放っている。


            ナナがまだ子猫の時、塀の上に初めて上がった。昼の暑さがまだ暗闇に
潜むかのような夜であった。もう夜中だったが窓は開け放たれ、黄色い
大きな月が空に君臨し、辺りはその明るさに戸惑っていた。昼間、人が
通る家々の道や路地もはっきり見え、屋根の瓦も1枚づつその姿を暗き
その周辺に晒していた。だが、どこの家でも人はもう寝静まっており、
外を歩いている者はいない。ほんとうを言えば、ナナも家の中に入って、
主人やママが寝ている部屋でノンビリと体を投げ出して寝ている時間。
夜中に起きていても、誰も相手になってくれないし、所在なく、ナナも
眠るのが習慣となっていた。ナナの家には鼠もいないので、夜も遊ぶ相手が
いない。もっとも、先輩のトトのお姉さんに言わせると、鼠は遊び相手
ではなく、狩りという戦いの相手だそうだが。とにかく、こんなに遅く
まで外に出ているのは、生まれてはじめてのことなのだ。
「いやに静かだな」と、ナナはうすい耳をたてて、やや茶褐色のその目を
四方に配りながら、塀の上でじっとしていた。
「なにも聞こえやしない。木の葉も黙っている。風も黙っている」
そのくせ、あたりは月の光で白く光るかのような情景を見せていた。
それもナナが知る昼間の世界とは違い、同じ明るさでも、影の方は
いつもより真っ暗で、よく見えないから暗闇の黒さが襲い掛かるかの
ようにナナの小さな心に迫ってきた。
見上げれば、屋根はどこも明るいのに、庭の梅ノ木、桜の木は暗き姿を
一層強め、いつもより太く見え、木影が更にその黒さを増している。
なにかが隠れナナを狙っているようにもと思われた。
何か隠れていはしまいかと、その黒々とした所を見つめていたが、なにも
出てこないのに安心して、静かに目をつむり、茶褐色の柔らかな毛に覆われた
胸をしずめて、前足におしつけながら、トトがよくやるように、浅い眠り
をはじめた。その眠りの中でふと思った。
「そうだ。こんな誰もいない夜に、外に出てみよう」
眼を開けてみると、空の月はいよいよ明るさを増している。ナナに外に
来ないか、と誘っているように見えた。抜ける空の白さの中に大きく光る月は
更に明るさを増し、周囲の家々の屋根や木々の群れ、ナナのいる塀までもが
ナナを迎えるが如く白く優しい情景を見せている。この家に来てからいつも
心の片隅にひっそりと住みついてきた家の通りとその先にある何かへの、
未知なるものへの憧れが一挙に頭をもたげていた。彼女の心は希望から
義務となって、その体を動かし始めていた。
この日からナナの流浪の日々が始まった。ほぼ1ヶ月、訳も分からず歩き
回る日々が続いた。その間、主人やママや息子たちは彼女を探して大騒ぎ
をしていたが、無駄な努力となり、最後には彼女の死さえ予想した。


      少し斜めから朝の光が、隣の家の屋根の黒く三角に切り割かれた影を我が家の
テラスに落としていた。眼の前の梅には数枚の葉がゆるく揺れながら張り付くように
残っている。一枚が力尽きたように枝から離れ、主人の足元に落ちた。ことり
と言う音が聞こえるほどの静けさが漂っている。リクラインの椅子に座り、彼は
その葉の落ちる姿を眼で追い続けた。膝には、冬肥えであろうか、大分
重たくなったルナがその顎を主人の腕に乗せ、眼を閉じている。黒い毛が体の
殆どを覆い、鼻筋と首の周辺の白さを際だたせている。ふわりと軽めの
雲が足早に左から右へと流れ行き、一定のリズムを取るように光が庭を照らし、その
濃淡に強弱を付け、さらに数秒経つと平板な少し暗さの伴う世界を作り出す。
すでに立冬を過ぎ、寒さが一段と増しているが、ルナの暖かさが小さな流れと
なって、ひざからお腹へ、さらには、体全体へのじわりと伝わってくる。
その僅かの暖かさを味わうかのように主人はルナに眼を落とし、次第のそれを庭の
先へと持っていく。枯れ草の中には、薄の灰色の穂波が三つほど頭を出し、
常緑の榊の枝に寄りかかる仕草で小さなキャンバスの絵の姿を保っている。
よく見れば、隣の部屋には、チャトがルナの様子をうかがうかのようにじっと
こちらを見ていた。その茶と白の配色が微妙な形を成している体がやや細く感じる
のは、この季節の移ろいだけではなさそうである。
冷え冷えとした部屋は寂としている。雪白の障子は霧のような光りを透かし
彼の茶と白の毛並みを静かに浮き立たせている。そのとき主人は、決して手の届く
というほどの近さではないが、遠からぬところ、廊下の片隅か一間を隔てた部屋か
と思われる辺りで、トトの哀愁を帯びた声を聞いた。たしかにこの冬寒の空気を
伝わる忍び泣きに違いないと思われた。彼女が死んですでに七、八年余り、強いて
抑えた嗚咽の伝わるより早く、弦が断たれたように、嗚咽の絶たれた余韻が
ほの暗く伝わってきた。
この家には、多くの猫たちの想いが張り付いた様に残っている、ルナの息遣い
とともにそんな想いにかられた。
先ほどまでゆるやに上がっていたコーヒーの煙は僅かな暖かさを残し消え
かかっていた。小さな漆赤の茶碗の縁に、呑み跡のそれが紫がかって春泥のように
はみ出しているのが徐々に乾いていた。




       「若狭に十一面観音が多いことも、水の信仰と無関係ではあるまい。
複雑な海岸線に取り囲まれ、海の幸、山の幸に恵まれたこのうるわしい
背面そともの国は、まことに観音様にはふさわしい霊地と言える。
中でも羽賀寺の十一面観音は、優れた彫刻で、それやこれやで取材に
行くのが楽しみであった。、、、」
高島の山並をあえぐような思いで歩き続け、遠敷川の流れが緩やかになる頃、
白洲正子の十一面観音巡礼の一節を思い出した。聖林寺、渡岸寺で見た
十一面観音の放つ優しさと優美さが暗闇から立ち上るかのように彼の記憶の
中に小さな絵の連鎖となり、時には輝く十一の仏面が、時には薄き眼を大きく
見開き、彼に迫り来る。その一瞬の出来事に足を停め、降り注ぐ陽の中、
何かを恐れるような仕草で周囲をうかがう。だが、山の端、つづらに延びる
山道、黒き豊かな畝の田畑、そしてささやかな水をさえずりを見せて流れ下る
畦道の小川、全ては彼の心とは正反対の風景が広がっているだけであった。
まずは、羽賀寺へ、十一面観音の何かに期待する茫漠とした想いが否応無く
疲れて痛む足を向わせたようである。
北川の堤防を若狭湾に向かい歩いていくと、「羽賀」と言う道標があり、さらに
進むと杉の木立ちが斑模様の日陰を作る参道が続き、石の階の先に羽賀寺が
顔を見せている。私を手招きしている様でもあり、ゆっくりと進んだ。
入母屋造りの檜皮葺きの本堂が大木の杉の木々を後背に悠然と立っていた。
この寺は元正天皇の霊亀2年(716)、行基の草創であるが、村上天皇
や後花園天皇、後陽成天皇など多くの天皇の庇護があったという。
室町時代の面影が感じられる建物である。厨司が開いて、すらりとした
十一面観音が、ろうそくの織り成す火影のもとに浮かび上がった。
そのきらびやかさに思わず眼が行った。切れ長の大きな眼、ふっくらとした優しさ
の頬と気品の高い唇、頭上の仏面も含め女性のやわらかさが伝わってくる。
十一面の頭上仏はこの全体の醸し出す空気の中では、むしろ控えめ戴いている
感じが強い。また、渡岸寺のイメージが強いのか思ったより華奢なお姿であるが、
残っている金色と紅色の彩色の鮮やかさ、天衣の緩やかな流れの先にある
細く伸びた指は美しさ、元正天皇の御影とされたのも、何と無く分かる。
全体に若々しい観音様である。全身から漂う幼いふくらみ、その指、その掌の
清潔で細微な皺、頬に差し込む蝋燭の火影の漆黒と金箔の綾、その鬱したほど長い睫、
小さな額にきらめく池水の波紋の反映に、ひたと静まる空気感がある。
時代は平安初期、檜の一本造りで、このような仏像が、若狭にあった、自分の
不勉強さに思わず目をつむる。
好きな人と並んで話した時に覚えたあの心の弾みと甘酸っぱさを思い出す。
小浜をもう少し歩こう、ここからは青と緑のつながりしか見えないが、
北川をへだてて、南には多田ヶ岳が聳えており、遠敷川はその山裾を流れており、
西側の谷には、多田寺と言う古刹があり、ここにも十一面観音が祀ってある。
さらには、北川をはさんで、羽賀寺、多田寺、国分寺、若狭姫、若狭彦とその
神宮寺、などが、殆ど一線上に並んでいる、水の癒しへの関心からもそう思った。
多田ヶ岳を源流とする水の信仰と関係も深いのだろう。
お堂を出ると光が身を包み、緑の山の端が四方から参道に迫ってきて、その先に大門の
黒ずんだ屋根が小さな影を石畳に落としていた。暫し佇む自分がいる。玉響に輝く
大気の中で、この数年の情けない姿がフラッシュバックのように浮かんで消える。
その姿を断ち切りたく一歩その足を前へ出した。
一人、白髪がまぶしい女性がお堂を見上げていた。黄色のTシャツに少し紅色の
かかったジーパン姿に思わず眼が行った。大きな一眼レフのカメラを少し重そうに
持っている。眼鏡越しに柔和な眼差しがこちらに向き、軽い会釈、こちらも
慌ててお辞儀をする。白髪、ジーパン、カメラその全てが私には不釣合いな
光景であった。
「写真がお好きなんですか」
「下手の横好きですの」
にこりと笑った口元は薄く明るいルージュが見えた。
豊かな白い毛を後ろで結んでいる。
多分、自分よりもかなり年上だな、と思った。
だが、どうみても年季の入った立ち姿である。
「私も大昔に写真をやってまして、その頃はモノクロで色々と撮っていました」
「そうですね、モノクロはいいですね。味わいがあります。私も主人が死んで趣味で
始めたんですけど、お寺とか神社の森や林、建物を撮っているんですが、カラーでは
何か違う気がして少し前からモノクロだけで撮っていますの」
彼女は話しながらも、周囲の空気を感じ取ろうとしている。
生きる強さがある、光に浮かぶ杉木立の中に歩み始めた彼女の姿、また一つ自分の
情けなさを思い知らされた。


        (白山本地堂の十一面観音)
          お堂の中に入る。思わず頬が緩むのを感じた。金色の壁と新しさが残る襖や
障子に
いつもの陰影ある観音像のお姿とはだいぶ違う。ろうそくの織り成す火影の揺らめき、
直線に差し込む陽の光の中に浮揚する小さな塵と香のたおやかな粒子たち、それらが
一つの連続したつながりの中で作り出していく世界であるはずであった。しかし、
眼の前の情景は彼の想いとは大きな差異をみせ、そこにあった。
正面には展示会のような趣きで須弥壇があり、下山仏七体が横一線に並んでいた。
自ずと目は中央の十一面観音坐像に向けられる。きらびやかな姿である。金色に輝く
光背に包まれるかのように坐っておられる。両脇の阿弥陀如来坐像、聖観音坐像
よりも一段高い形であるためか少し威圧を受ける。硬く真一文字に結んだ唇と
伏目がちな眼差し、柔らかさよりも強さがにじみ出てくる、体全体からもそのような
空気が伝わる。頭上の十一の仏面よりも額の飾りに気が行く。しかし、中尊である
この像の前に再び仰ぎ見れば、七体の仏像の力がそこに集まるかのように我が身に
降りかかる。硬く結ばれた唇が開かれ、今までの己を恥と感ぜよ、そんな言葉が
聞こえてくるようだ。残照のごとく残る鍍金が連鎖の如き光となって我が目に
宿り、曇りきった目に一条の光を通そうとしている、彼はやや苦痛を伴う膝に
意識が行くのを思いながらもじっと観音像と対峙していた。やがてその呪縛から
解かれた如く大きな息とともに、目を左へと動かし銅造りの十一面観音の静かな
立姿を見る。すんなりと言う言葉がよく似合い、そんな雰囲気を醸し出しているが、
70センチほどの高さのためか、他の仏像の中に埋もれている、そんな考えが
一瞬浮かび、そして直ぐに消えた。頂上の仏面が目立つが少し硬い頬、やや薄い唇、
すっと伸びた鼻、厳しさのこもるお顔である。右手は緩やかに手を下へと伸ばし、
細くしなやかな指が何かを差している。よく見かけるような腰の括れはなく、
衣は静かに下に落ちている。造られた時は金色であったという、目を閉じ、それを
心の中に描いてみる。数段大きくなったその像が迫ってくるようだ。
また一つ心の傷が癒えた、そんな気持でお堂を出た。

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