NHK映像の世紀を見た。 特に感じたのは、ハンガリーのドイツや旧ソ連からの独立のための数百万人の犠牲者や クロアチアとセべりアの民族の確執による数百万人の殺し合い、カンボジアポルポトに よる同規模の惨殺、など数千万に及ぶ人命の喪失、凄いものだ。人は何故これほど 残酷になれるのか、とおもった。また現在の中東からの難民からの問題と同じことが 第1次大戦の中でも、欧州で頻発していたということも、時代は繰り返される。 アイスランドの映像を見た。まさに火山の国だ。 二年に一回は新しい噴火があるという。バンダブルマンガ火山は大地が噴出すように 噴火している。シルフラでは解けた水が大地に吸い込まれるようにみえる。 すでに休止した火山もあり、そこは黄色、緑、赤、黒などの様々な色で包まれている。 両大陸プレートの狭間にあり、氷河もあることから多くの景観を成している。 また、ブルーラグーンは世界最大の露天風呂。 日本の絶景で、気になるところ。 富山は称名渓谷(日本一の落差のある滝)、石川の千枚田、静岡の柿田川の梅花藻、 岐阜の小坂の滝、愛知の香嵐渓谷の紅葉、福井の大野城は霧の城、など ブラタモリ日光 400年が経っている。石の鳥居、重さ60トンほどあり、黒田長政からの寄進。 人々が驚く様々な仕掛けがある。 本殿へ通じる石段の幅が最初の段から少しづつ狭まり遠近的な深さを見せる様に なっている。石畳が矢印の役目を果たし歩く方向をそれとなく示している。 途中の見ざるの建物は質素に出来ているが、対面にある象を模した像のある建物は 豪華絢爛に出来ている。 陽明門は500以上の彫刻がで出来ており、その横には銀の大きな燈籠が 据えられている。 是は伊達政宗の寄進。唐門は白で出来たもんだが、是は中国の名皇帝である瞬帝 を模しており、家康が万民に徳を施す主君である事を暗に示している。 眠り猫は前からと横から見るのではその様相が大分違い、横から見ると今にも 飛び掛る姿勢に見える。是は普段はノンビリと寝ているが、いざとなるとすぐに 行動を起こすと暗示している。 家康の遺言では東照宮は小さなお堂を造れとのことであったが、家光の時代になり、 徳川政権の威光を示すために今のような大きな場所にし、家康を神として 祀った。是は日光山古図にも当初の東照宮の大きさが分かる。 当初の東照宮の付近、御幸町と呼ばれる地域、を全て移住させ、聖域とした。 さらにこの周囲は宿場町として栄え、今の日光の町並みとなっていった。 入相の鐘 まず鎌倉につっと、入相の鐘これなり。 東門にあたりては、五大堂の鐘これなり。諸行無常と響くなり。 南門にあたりては、壽福時鐘これなり。是生滅法と響くなり。 さて、西門は極楽寺、これまた生滅滅已の心。 北門は建長寺、寂滅為楽と響きわたれば、 いずれも鐘の音、聞きすまし、急いで上る心もなく、 さもあらけなき主殿に、そ首をとってつき鐘の、 そ首を取ってつき鐘の、響きに鼻をぞなおりける。 岩波書店『日本古典文学大系 狂言・上』 6月の稲村ガ崎紫陽花 http://www.kamakuratoday.com/suki/iine/1511.html http://www.kamakuratoday.com/suki/iine/1504.html <鎌倉山の入相の鐘の音は、今となっては 誰の夢を醒まそうというのだろうか、誰もいはしない> かつて鎌倉三代の頼朝、頼家、実朝は全国制覇の 夢を抱いたが、今となってはそれは遠い昔のことである。 そのような夢を見る人はもういない。 鉄幹には鎌倉を詠んだ歌が多く、歴史を回顧した詩歌が よくみられる。 鎌倉時代にあっては、国家的事業として東大寺はじめ南都の諸寺の再建がなされる一方 、12世紀中ごろから13世紀にかけて、新興の武士や農民たちの求めに応じて、新しい宗 派である浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗の宗祖が活躍した(このう ち、浄土宗の開宗は厳密に言えば、平安時代末期のことであるが、鎌倉仏教ないし「鎌 倉新仏教」に含めて考えられる)。この6宗はいずれも、開祖は比叡山延暦寺など天台 宗に学んだ経験をもち、前4者はいわゆる「旧仏教」のなかから生まれ、後2者は中国か ら新たに輸入された仏教である。「鎌倉新仏教」6宗は教説も成立の事情も異なるが、 「旧仏教」の要求するようなきびしい戒律や学問、寄進を必要とせず(ただし、禅宗は 戒律を重視)、ただ、信仰によって在家(在俗生活)のままで救いにあずかることがで きると説く点で一致していた。 これに対し、「旧仏教」(南都六宗、天台宗および真言宗)側も奈良時代に唐僧鑑真が 日本に伝えた戒律の護持と普及に尽力する一方、社会事業に貢献するなど多方面での刷 新運動を展開した[1]。そして、「新仏教」のみならず「旧仏教」においても重要な役 割を担ったのが、官僧(天皇から得度を許され、国立戒壇において授戒をうけた仏僧) の制約から解き放たれた遁世僧(官僧の世界から離脱して仏道修行に努める仏僧)の存 在であった[1][2]。 ------- 6月の緑が目の届く限りすべてを支配していたが、彼にとっては、荒涼 とした風景が 目の前に広がっている。そのように見えた。 風にざわめく細い羊歯の草叢、硬質な葉をつけ四方に無秩序に伸びた枝のこれもまた 幾重にも曲がった姿態の木々、それらの醜態を覆い隠すかのように垂れ込める灰色の と黒のとばり、流れる雲から二条の細い光がこの地の上を駆けていく。 宗祇が感じた那須野の原か、ふと取り留めのない思いが湧きあがる。 ドナルド・キーンの言葉が思い出される。 「宗祇は彼の人生の大半を旅に過ごしている。旅は主として歌枕を訪ねたいとい 願望からであった。人とのつながりを求めていた連歌への想いが行く先を決めず、 宗祇にとって、歌枕を訪ねることが最優先のことであり、どこにでも出向いた。 荒涼たる那須の荒野を行く時に詠んだ歌がある。 「歎かじよこの世は誰も憂き旅と思ひなす野の露にまかせて」 もう歎くのはやめよう、この世をわたって行くことは、自分ばかりでなく、 誰もみんな憂いつらい旅をしているようなものなのだ。そう思いなおして、 那須野の原におく露のように、はかない運命に身を任せよう」 彼はその場所がやや不明であっても、それは問題ではなかった。 彼は古歌を生み出した土地の雰囲気の中に我が身をおき、その地の持つ 特質を己自身の言葉によって、表現することが重要であったのだ。 西行もしかり、他の詩人がその詩を生み出した源泉に身を置き、新しい 霊感を見出すことによって、己の芸術を更に高めることにあった。 芭蕉も言っている。「許六離別の詞」の中で空海の書より「古人の跡を もとめず、古人の求めたる所をもとめよ」と。 そして、 「都出し霞も風もけふみれば跡無き空の夢に時雨れて」 「行く末の名をばたのまず心をや世々にとどめん白川の関」」 昔の旅人は歌でその気持ちを後世に伝えようとした。しかし、自分にその 技術はない。写真に撮る、と思ったが、何か違う、と感じた。ただ、 目に映る、そのすべてを心に植え付けようと立ちつくすのみであった。 その窓からは、隣の桜や若葉の繁りの深き緑が朝日の中で艶げしく光っている 。 その下には小さな池があり、その縁のかなりの部分が薄緑の葉におおわれ、 河骨こうほねの黄の花はまだ目につかないが、数本の花菖蒲が紫や白の 花盛りを、その鋭い緑の剣のような葉の叢生から浮き上がらせていた。 出窓の水滴が朝日がその強さをますに従い、一つまた一つと掻き消えていく。 その数滴の水玉の間を縫うように、ゆっくりと室内へ這い上がって来ようとして いる一匹の玉虫にチャトは目をとめた。緑と金に光る楕円形の甲冑に、あざやかな 紫紅の二条を走らせた玉虫は、触覚をゆっくりと動かして、糸鋸のような足を すこしづつ前へ移し、その全身に凝らした煌びやかな光彩を、時間のとめどもない 流れのなかで、その媚態とゆったりとした動きを保っていた。 始めは目はじにあったその小生物は緩やかな時間の流れながらチャトの全意識を とらえるまでに大きくなり、チャトの心はその玉虫の中へ深く入っていった。 虫がこうして燦然たる姿を、ほんの少しづつチャトのほうへ近づけてくる、その全く 意味のない進行は、彼に、容赦なく現実の局面を変えていく時間と言うものを、 どうやって美しく燦然とやりすごすかという問いを投げかけている様でもあった。 こいつを生かすべきか、その鎧もろともはじき飛ばすべきか? この小さいながらも自然の美麗な光彩を放って、しかも重々しく、あらゆる 外界に抗うほどの力を持っているこの虫をどう扱うべきか、チャトは思い 巡らしていた。 そのような時、ほとんど、周囲の木々の茂りも青空も、雲も、朝の光りさえ すべてのものがこの虫をめぐって仕え、世界の中心、世界の核をなしているような 感じを抱いた。 主人がふと足を止めた。その眼の先には艶やかに日に照る柿の木が1本、 枝と言う 枝に橙色の粒を密集させ、それが花とは違い、のこる枯葉がかすかにゆらぐほかは 風の力を寄せ付けないので、青白い空へ撒き散らされた柿の実はそのままのり付け されたようにその白く光る青空へ張り付いていた。すでに全ての葉を落とし 白骨のような枝枝をその空の下に晒した銀杏の木々がその横を柿の木を横目に 見るような姿で、道路のはるか先まで一直線に伸びていた。 チャトは所在なさげに辺りを見回し、また主人を見上げた。 その顔は「早よう行こうや、わて寒いねん」と言っている。 道のべの草紅葉さえ乏しく、右に続く大根畑や竹藪の青さばかりが目立った。 大根畑のひしめく緑の煩瑣な葉は、日を透かした影を重ねていた。 ここはチャトとクロが秋の日暮れ、春の日の光りが増す頃、よく出かけてきた場所 でもあったが、そのクロもすでに他の世界に旅立っていた。 大根畑が切れる頃、茶垣の一連が始まったが、赤い実をつけた美男葛がからまる 垣の上から、幾重にも積み重なった石たちの群れが見られた。そこをすぎると、 道はたちまち暗み、立ち並ぶ老杉のかげへ入った。さしもあまねく照っていた日光も、 地面に張り付いたように広がる笹にこぼれるばかりで、そのうちの一本緑の映えた 笹だけが透き通った水滴にその身を輝やかせていた。 チャトにとっては、漂う冷気が身にしみたが、主人は相も変わらずゆっくりとした 足取りで先へ進んでいく。木々を縫うようにホオジロが数羽飛び交い、ふりかえった チャトの目はじに、二筋の光りの帯が黒々とした地面を照らしていた。 味気なく立つ針葉樹の木々の中に色づいている数本の紅葉は、敢えて艶やかとは 言いかねるが、深く凝った黒ずんだ紅が、何か浄化されきらない気持ちを二人 に与えた。 それがチャトの心に、突然、錐のような不安を刺した。主人はどこに行こう としているのか、と思った。紅葉のうしろのかぼそい檜や杉は空をおおうに足らず、 木々の間になおひろやかな空の光を受けた紅葉は、さしのべた枝枝を朝焼け の雲のように棚引かせていた。枝の下からふりあおぐ空は、黒ずんだ繊細な もみじ葉が、次か次へと葉端を接して、あたかも蜘蛛糸のレースを透かして 仰ぐ空のようだった。主人とチャトは静かに仰ぎ見ていた。しかし、その想いは それぞれに違った形を成して心の中で反芻されていた。主人はそろそろ向かえる 自分の死に様を、チャトは次に自分の生きる世界の事を。 ナナは毎晩妻の寝床に抱かれて寝た。寝るときは枕をするのが好きらしいので 妻が小さなタオルを枕代わりに置いてやった。ずっとその枕で寝ていたが、この頃に なってから枕ではなく、妻の腕に抱かれて寝るくせになった。 あとから考えると、年とともに段々妻にすりついていたがる様になったらしい。 そうしておとなしく寝ていれば良いが、自分が寝るだけ寝て目を覚ますと、一人で 起きているのは淋しいのだろう。夜中でも、夜明け前でもお構いなく、いろんな 事をして寝ている家内を起こす。人の顔のそばに自分の顔をくつつけてあのしからびた 声で鳴いたり、濡れた冷たい鼻の先を頬に擦り付けたり、それでも起きないと妻の髪を 引いたり、障子の紙を破いたり、箪笥棚の上に置いてあるコケシ、茶碗、小鹿人形 をひっくり返したり、あらん限りのいたづらをする。妻がいくら叱っても 怒っても利き目はない。ナナの目的は、自分独りで起きているのはいやだから、 人が寝ているのが気に入らないのだから、寝ている妻を起こすことにある。 だから妻が根負けしてそこにおきればおとなしくなる。起きたのを見届けて それで気がすむと今度は寝床に入り込み、らくらくとくつろいだ恰好に なって、妻の横で悠然と寝込んでしまう。 我が儘で自分勝手で、なんとも始末が悪い。しかしそうやって、何と言うこと無く 人にまつわり付いていようとする猫の気持が可愛いくない事はない。特に 妻は文句は言うものの結構決行愉しそうである。 東海道を上り、とりあえず向かうのは鎌倉だ、その想いは岐阜から東海 へ踏み入れた時 から心に一つの塊りとして場所を占めていた。それは、青春最後と結婚の初めの頃の 思い出が、その形は時とともに薄くなりやがて茫漠とした影としてしか残って いないものもあったが、垣間見られるはずであり、心をくすぐる甘さに期待を 持ったからだ。 幾つかの旅日記にも、京都から鎌倉への旅を書いたものがあるそうだ。 ドナルド・キーンも言っている「鎌倉時代に書かれた旅日記には、ある特別な焦点が 与えられている。即ち鎌倉幕府の存在である。長い間京都こそ日本の中心だと考え、 それを当然としていた京都の人々は彼らが耳にする鎌倉についてのもろもろの 風評に、いたく興味をそそられていた。そしてその新しい都を我が目で確かめたい という好奇心から、鎌倉へ旅をするものが少なくなかったのである。 そのほかにもまた、源氏の心酔者で、源家興隆にゆかりの深い場所を見たいと 思うもの、なおまた幕府の法廷に訴え事を持ち込むため、わざわざ長旅をいとわぬ ものもあった。京都、鎌倉間の旅を扱った日記の中で、私のお気に入りは「海道記」 である。「十六夜日記」の方が有名だし、海道記よりもよく書けている日記も ほかにあるのだが、私はこれをとる。浜名湖岸にある橋本の宿の描写がある。 「釣魚つうぎょの火(釣り人の灯)の影は、波の底に入りて魚の肝をこがし (魚を驚かし)夜舟やしゅうの棹の歌は、枕の上に音づれて客の寝覚にともなう」」 彼のの場合、これらのどれにも当てはまらなかったが、日夜設計図と測定器の狭間 の中で、過ごした若い日々の心の糧となったのは間違いなかった。 ある意味、日本文化の無形の一端を自分なりに身体に沁み込ませたのが、鎌倉 でもあった。 昔読み取った本を思わずに手にし、そのときの感情が一皮剥くようにするりと 新しい感情として晒される、そんな期待を持った。 それは2年前の冬至の日に近い頃であった。主人とチャトは愛用の四輪駆動の 車で、木戸から小松へと小雪降る中を進んでいた、かなたに霞む比良の山並 は車の進みとともにその様相を少しづつ変えていく。和邇の港近くではやや霞む 山の端が緩やかな曲線を描き里に下りてくるが、車の進みとともにその荒れた 山肌を見せながら覆い被さるように迫って来た。迫り又離れる、それが一定の 律動を持ち、時には湖のさえずるような波音に調和していた。その間にも、 田畑の間をひたすら行く平坦な野道にかかっていた、稲架はぎの残る刈田にも、 家々の庭の枯れた柿の枝にも、またその間の目に滲む緑を敷いた冬菜畑にも、 湖の薄茶色を帯びた刈れ葦や蒲の穂にも、粉雪は音もなく降っていたが、積もるほど ではなかった。そして、車の窓ガラスにかかる雪は、目に見えるほどの水滴も 結ばないで消えた。空が水のように白んでくると思うと、そこから希薄な日が さしてきた。雪はその陽射しの中で、ますます軽く、灰のように舞っている。 いたるところに、枯れた芒のぎが微風にそよいでいた。薄日を受けてそのしなだれた 穂の和毛にこげが弱く光った。湖の先にある対岸の山々は霞んでいたが、その 空の遠くに数箇所澄んだ青があって、数条の光りの線が投げかかり遠山の頂きの 雪を白くに輝かせていた。そこには静寂のみが漂っていた。車の軽やかなエンジン音 と重い瞼とがその景色を歪ませ、攪拌しているかもしれないけれど、チャトにとって、 久しぶりの主人との二人きりの時間であった。身体のつらさと三毛の死を思う悲しみ の不形な日々を送って来た彼は、こんな静けさには久しく出会わなかった気がした。 しかもそこには人の影は1つもなかった。車は徐々に速度を落としていた。 また少し空がひらけて、薄日の中に雪はまだ舞っていたが、道の傍らの藪の中で雲雀 らしいさえずりが聞こえた。水滴が点々と残る窓ガラスを隔てて、松並木に混じる桜の 冬木には青苔が生え、藪に混じる白梅の1本が華をつけているのが見えた。 やがて車はある寺の前で停まった。主人が下りてと言っている。目を驚かすものは 何もないはずなのに、車から綿を踏むような覚束ない足を地へ踏み出して、その弱った 身体を支え見回すと、すべてが異様にはかなく澄み切って毎日見慣れた景色が、今日 初めてのような、気味の悪いほど新鮮な姿で立ち現れた。けだるさと身体の中から 沸き起こる鈍痛がチャトの内と外から重い鉄槌のような響きで、痛めつけている。 道端の羊歯、藪柑子の赤い実、風にさやぐ松の葉末、幹は青く照りながら葉は 黄ばんだ竹林、地表に広がる無数の芒、その雑念とした空間を斑に拡がる水溜りの 薄茶の道が、ゆくての杉木立ちの闇へ紛れ入っていた。この静けさのうちの、隅々まで 澄み切った世界が金無垢の仏像とともに彼を待っている。 この寺は何人かの天皇の庇護があったという。本殿はそれほど大きくないが、 室町時代の面影が感じられる建物であった。寒々としたお堂の中、主人とその足下 を不思議そうに回るチャト、厨司が開いて、すらりとした十一面観音が、ろうそくの 織り成す火影のもとに浮かび上がった。そのきらびやかさに思わず眼が行った。 切れ長の大きな眼、ふっくらとした優しさの頬と気品の高い唇、頭上の仏面も含め 女性のやわらかさが伝わってくる。十一面の頭上仏はこの全体の醸し出す空気の 中では、むしろ控えめ戴いている感じが強い。思ったより華奢なお姿であるが、 残っている金色と紅色の彩色の鮮やかさ、天衣の緩やかな流れの先にある細く伸びた 指は美しさ、天皇の御影とされたのも、何と無く分かる。主人は火影が揺らめく中で、 そんな想いに捉われていた。 チャトは身体を沈め、ゆっくりと像の近くに這い寄った。 多くの人は猫が仏像なぞを分かるまい、と言う。しかし、チャトはこの頭に多くの仏面 を戴いた像に少なからず興味を持った。全体に若々しい観音様である。全身から漂う 幼いふくらみ、その指、その掌の清潔で細微な皺、頬に差し込む蝋燭の火影の漆黒と 金箔の綾、その鬱したほど長い睫、小さな額にきらめく池水の波紋の反映に、 ひたと静まる空気感がある。人はその持っている知識とやらで、純粋に仏像の 持つ姿を見切れていない。チャトはそう思った。そして彼女の声を聞いた。 「お前の死も主人の死もほどなく訪れる。その僅かの間であろうが、二人で この世界を味わいなさい」と。見上げれば観音の頬がかすかに緩んだように見えた。 彼にとって広重の五十三次の原宿風景は、そのまま以前の会社の沼津工場の 思いを引き起こす。画の一番上の赤の一文字引きが示す朝焼けの富士とその 右に描かれた宝永山、愛鷹山のでこぼこした風情、白く延びていく山の端と その下に広がる野辺ののどかさ、更には画の中央で煙草を一服ふかしながら 後方の富士を仰ぎ見る母と娘、挟み箱を天秤棒にかけて従う供の者、 野辺に降立つ番の鶴、それぞれが静かに織り成す情景は昭和最後の時代 であっても、その面影が残り、仄々とした気持を与えたものである。 時代変化の激しさを追いかけ、自信を持って仕事をこなしていたわが身に 薄衣の柔らかさと暖かさを与えし情景であった。また、そのギャップの大きさに 驚いている自分もいた。 俺の人生もそんなものか、ぺらぺらとめくる正法眼蔵随聞記の一文にそれ があっ た。 「学道の人、身心を放下して一向に仏法に入るべし。古人曰く、百尺竿頭かんとう 如何進歩と」 この出典は、「百尺竿頭かんとうすべからくこれ歩を進むべし、十方世界これ全身」 から来ている。とにかく高い竿さおの先端に立っていて、そこからさらに宙空に一歩 踏む出せと言っている。ただ、その竿は断崖絶壁に突き出しており、人生とは そのようにバランスを取りながら竿の上を行くものだ、やっとここまで来たと言う想い があるものの、もう先は行き詰まりだという状況となったとき、「すべからくこれ歩 を進むべし」一歩を踏み切れと言っているのだ。そこで、踏み出したらどうなるか、 落ちて行く自分も感じない、身も心も脱け落ちたような自分が無になってしまう。 そうなった時、十方世界、つまり全宇宙が逆に自分の身と一致する。あるいは、 自分が全宇宙にまで広がっていく、と言っている。 踏み切れない自分、想像するだけで竿の先の一歩にいけない自分、この雑然とした 暗闇の中に座している自分。 ジュニアは、人間には素気ないくせに、東隣の家から石塀を乗り越え、この庭 に入って くると、身も心も一変したように芝生の小さな世界と石が無造作に敷かれた中で、 その隅々に鼻を突き入れ、目を凝らし、前脚を差し入れ、ときには躍りかかり、 埒をなくしたように全速力で駆け巡っていた。それは春が来て草が芽吹き、梅ノ木に 蕾が何百となく揃い始め、夏草が彼の背丈ほどに伸び、秋の薄の穂先が揺れ始めても 続いた。時には、深夜にも未明にもつづき、ライと鉢合わせしてライが逃げ帰る様まで 示していた。ジュニアにとって、そこは森の様であっただろう。一人でも逍遥にして いると、ある瞬間場所のすべてに感応したというように全身に風を起こし、むやみ に疾走してから立ち木の高いところへと上り詰めて、さらにどこかへ逃れでようと するように中空に身を曝し、打ち震える、そんな動きの全過程をみることがあった。 ライやレトはただその様をガラス戸超しに見守るのみであった。ただ、彼もさすが ルナには勝てないと思ったのか、ルナが我が家で疾風のごとく飛び回っているときは 姿を現さなかった。 防犯のために点している玄関の常夜燈と門塀の淡い光りのほかは、月の光がようやく、 物の文目をつけさせている中にも、仄暗い庭の中で、小さな黒い玉が跳ねて、 硬質の音を立てた。それを追う小さな生き物も、月光を浴びて、白い珠のように なった。昼は昼で、ハナコとともに、彼は梅の花びらを背につけたりしながら、 ハナアブを叩き、トカゲを追い、精気と混沌の兆しをはじめた庭で遊び続けた。 ジュニアが電撃的な動きで梅の木に登るのを、見ながら、その鋭さにさすがの ハナコも見守るばかり、主人の膝に乗ったまま、眼だけがその動きを追っていた。 登りきった梅の木の梢で、風はあらゆる変化を鋭くうかがいながら次の瞬間に対して 身構えている姿は、天からも地からも離れて、あらぬ隙間へ突き出ようとする 姿である。猫は飼い主にだけ心を許す、だから一番可憐な姿は、飼い主の前に だけ曝すものだ、と聞いた。すでに年老いた猫しかいなくなった我が家では、 ジュニアの一番甘えきった姿というものを見せてもらっていないはずだった。 ところが、そのためにかえって、ジュニアは飼い主さえ知らない、媚びることの ない無垢と言う、野生の姿を示してくれている。チビから受ける神秘的な 感じの由来は、簡単に暴いてしまえばそんなことではないか、と思ったものだ。 思えば、チャトもライ、レト、ハナコもナナを除き、半年は過ぎた頃、 我が家の住人となった。そのためか、ジュニアほどの無垢な行動を見たこと がない。主人は庭で遊ぶジュニアを見ながら、ふとそんな想いにつかれた。 その夜、彼はひどく鮮明な夢を見た。 それは冬至の日に近い頃であった。彼とチャト、5人いる猫の世話役、は 愛用の四輪駆動の車で、木戸から小松へと小雪降る中を進んでいた、かなたに 霞む比良の山並は車の進みとともにその様相を少しづつ変えていく。 和邇の港近くではやや霞む山の端が緩やかな曲線を描き里に下りてくるが、 車の進みとともにその荒れた山肌を見せながら覆い被さるように迫って来た。 迫り又離れる、それが一定の律動を持ち、時には湖のさえずるような波音に 調和していた。その間にも、田畑の間をひたすら行く平坦な野道にかかっていた、 稲架はぎの残る刈田にも、家々の庭の枯れた柿の枝にも、またその間の目に滲む緑 を敷いた冬菜畑にも、湖の薄茶色を帯びた刈れ葦や蒲の穂にも、粉雪は音もなく 降っていたが、積もるほどではなかった。そして、車の窓ガラスにかかる雪は、 目に見えるほどの水滴も結ばないで消えた。空が水のように白んでくると思うと、 そこから希薄な日がさしてきた。雪はその陽射しの中で、ますます軽く、灰のように 舞っている。いたるところに、枯れた芒のぎが微風にそよいでいた。薄日を受けて そのしなだれた穂の和毛にこげが弱く光った。湖の先にある対岸の山々は霞んで いたが、その空の遠くに数箇所澄んだ青があって、数条の光りの線が投げかかり遠く 山の頂きの雪を白くに輝かせていた。そこには静寂のみが漂っていた。 車の軽やかなエンジン音と重い瞼とがその景色を歪ませ、攪拌しているかもしれない けれど、チャトにとって、久しぶりの主人との二人きりの時間であった。 身体のつらさと三毛の死を思う悲しみの不形な日々を送って来た彼は、こんな静けさに は久しく出会わなかった気がした。しかもそこには人の影は1つもなかった。 車は徐々に速度を落としていた。また少し空がひらけて、薄日の中に雪はまだ舞ってい たが、 道の傍らの藪の中で雲雀らしいさえずりが聞こえた。水滴が点々と残る窓ガラスを隔て て、 松並木に混じる桜の冬木には青苔が生え、藪に混じる白梅の1本が華をつけているのが 見えた。 やがて車はある寺の前で停まった。主人が下りてと言っている。目を驚かすものは 何もないはずなのに、車から綿を踏むような覚束ない足を地へ踏み出して、その弱った 身体を支え見回すと、すべてが異様にはかなく澄み切って毎日見慣れた景色が、今日 初めてのような、気味の悪いほど新鮮な姿で立ち現れた。けだるさと身体の中から 沸き起こる鈍痛がチャトの内と外から重い鉄槌のような響きで、痛めつけている。 道端の羊歯、南天の赤い実、風にさやぐ松の葉末、幹は青く照りながら葉は 黄ばんだ竹林、地表に広がる無数の芒、その雑念とした空間を斑に拡がる水溜りの 薄茶の道が、ゆくての杉木立ちの闇へ紛れ入っていた。この静けさのうちの、隅々まで 澄み切った世界が金無垢の仏像とともに彼らを待っている。 この寺は何人かの天皇の庇護があったという。本殿はそれほど大きくないが、 室町時代の面影が感じられる建物であった。寒々としたお堂の中、主人とその足下 を不思議そうに回るチャト、厨司が開いて、すらりとした十一面観音が、ろうそくの 織り成す火影のもとに浮かび上がった。そのきらびやかさに思わず眼が行った。 切れ長の大きな眼、ふっくらとした優しさの頬と気品の高い唇、頭上の仏面も含め 女性のやわらかさが伝わってくる。十一面の頭上仏はこの全体の醸し出す空気の 中では、むしろ控えめ戴いている感じが強い。思ったより華奢なお姿であるが、 残っている金色と紅色の彩色の鮮やかさ、天衣の緩やかな流れの先にある細く伸びた 指は美しさ、天皇の御影とされたのも、何と無く分かる。主人は火影が揺らめく中で、 そんな想いに捉われていた。 チャトは身体を沈め、ゆっくりと像の近くに這い寄った。 多くの人は猫が仏像なぞを分かるまい、と言う。しかし、チャトはこの頭に多くの仏面 を戴いた像に少なからず興味を持った。全体に若々しい観音様である。全身から漂う 幼いふくらみ、その指、その掌の清潔で細微な皺、頬に差し込む蝋燭の火影の漆黒と 金箔の綾、その鬱したほど長い睫、小さな額にきらめく池水の波紋の反映に、 ひたと静まる空気感がある。人はその持っている知識とやらで、純粋に仏像の 持つ姿を見切れていない。チャトはそう思った。そして彼女の声を聞いた。 「お前の死も主人の死もほどなく訪れる。その僅かの間であろうが、二人で この世界を味わいなさい」と。見上げれば観音の頬がかすかに緩んだように見えた。 観音の優しい眼差しとチャトのにこやかな顔が、静かに寄せる波音のように彼の からだをゆったりと包んでいた。まだ残る黒くとげのある何かが溶け出し流れ去るのを 感じた。朝のしじまと柔らかな明るさに、半身を起こせば、昨夜までの体の重さが 消えている、そんな思いがしていた。 |
2016年10月7日金曜日
日々の記録23(映像の世紀、アイスランド、ブラタモリ)
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