http://jidaiya.sakura.tv/area_image/shimada/shimada.htm 島田宿川越遺跡 杉の来た道 著者遠山富太郎は1910年京都生まれ。京大演習林に勤務後、晩年島根大学名誉教授と なった育林学の大家で、論旨は明快そのもの。“日本が独自の木の文化を誇ってきたと いうなら、それは「スギの文化」であったからというべきであろう”。 スギは、日本人の始まりの時に存在し、文化の曙に貢献し、少々の利用伐採には耐え 、後には植栽で資源存続ができる優れた更新特性を持っていた。また、柱や桁など棒状 で使えるだけでなく、割いて板にもとれる稀な樹木であったのである。 本著によると、近世の江戸が世界唯一の百万都市となりえたのはスギの賜物だという 。糞尿が農業生産の下肥として使われたのも、杉桶で回収され、杉板製の高瀬舟で水田 へと運搬する経済行為が成立したからであり、同時に、都市の環境衛生を保持したので あった。“スギの木材が生活の多くの場面で日本人と結びつくことはほんとうに少なく なってしまった”という文末の嘆きは共感度が高い。 出版から30年。環境問題が叫ばれる今、我々との結びつきがどうであるかは言うまで もない。素材として真の価値を持ち、国土の12%に育くまれ収穫期を迎えた杉は今、行 き場を失っている。世界一安い木材と揶揄されるまでに価格が暴落し、森林荒廃を招い ている。この国の気候風土に合う木の代表は、昔も今も杉なのである。そして今、杉と の新たなる結びつきを探る時が訪れているのではないだろうか。本著は、その手掛かり の一つになると思えてならない <登呂 板のはじまり> 日本に自生していた野生の杉は、高さが60メートルにも成長する。 この巨大な杉の木を利用するために板に割るという技術が発達したのではないか。 登呂遺跡のあぜ道をつくる矢板。 樺太と違い、日本に丸太づくりの小屋が発達しなかったのは 樺太に生育する針葉樹はその気候からせいぜい30メートルで 丸太のままの運搬が可能だったことによると思われる。 <小さい板ほど役に立つ> 茅葺きの屋根からコケラ葺きの屋根。 茅材は体積があり輸送が困難。近くに茅場が必要。 江戸の町屋はコケラ葺き。コケラ材の流通の問題。 クレという木材の商品形態。 山の中の立ち木でもないし、建材に製材されてもいない、中間的な商品。 大径木を柾目方向に三角形に割り、中心部分を取り去った台形の断面をしたもの。 徳川時代の始め頃から、松本藩が上高地の木を江戸に運ぶことができたのは クレという中間商品を介した流通が成立していたことと、 クレを薄く割る技術が進歩して、カサばらず運搬しやすい屋根材として運ぶことが出来 たから。 <Honey bucket> 「Honey bucket」というのは、進駐軍の兵士が肥桶を称した言葉。 肥桶は杉の割板で出来ていた。 杉桶の流通に果たした役割とその重要性。 江戸の街が清潔だったのは 街で発生する人糞が郊外の畑地に搬出されるシステムがうまく機能していたから。 西洋の都市にはみられない清潔さの実現。 また、杉の樽が液体物の運搬に活躍、 流通を支えたことにもふれ、杉と日本人の生活の関わりとして紹介している。 <高瀬舟> 日本の船が、大径木からとれる、長尺幅広な材料を前提に作られていること。 西洋の船が、細かい部品を組み合わせて作られていたのとは対照的。 ただし、それ故、日本の海岸付近の大径木は切り尽くされてしまった。 <スギの歴史 日本の文化> 大きな歴史でスギをみる。 4500年?1500年前(RⅢa帯)。日本でスギの時代。 有史時代(RⅢb帯)。生え茂った杉を使い尽くす。全章までの内容。 現存する天然スギ。スギの自生地。 生存競争のある自然状態でスギの多い林が成立する土地は、ヒノキ、ヒメコマツのやせ 尾根と弱湿のブナ林との中間地帯であろう。P.168 日本人が鉄器をてにして現れた時、目的が舟木であれ、他の用材であれ、平地のスギが まず狙われ、次々と姿を消して、山中の場合とは違って見落とされることもなく根こそ ぎにされて、平地からは絶滅してしまったのであろう。P.172 蛇足ながら、神社への参拝記念にスギの苗を買ってくるという習慣はずいぶんと古くか らあったようだという紹介があり、スギという木のある種の力を感じさせるエピソード として興味深かった。 現 三朝橋完成(青御影石) 橋を挟み、温泉街が続く三朝橋は昭和9年に作られた青御影石造りの風流あふれる橋で 、三朝大橋の名で親しまれ、三朝温泉のシンボル的な存在です。 三朝橋は、国登録有形文化財に登録されています。 この橋のたもとには三朝温泉名物の「河原風呂」があります。 ◆1947年(昭和22年) ◆1959年(昭和34年) … 天皇陛下のご巡幸 昭和22年11月、山陰語巡航の天皇陛下は三朝温泉にご到着なされ、戦災と敗戦に打ちひ しがれた国民と戦争に倒れた人達の遺族に会って、親しく激励と慰問をし、一日も早く 立ち直る勇気を与えてくださりました。ご宿舎は岩崎旅館の三朝閣でヒノキの丸太を組 んで作った風呂が特にお気にいられたそうです。 また、昭和34年4月大山の植樹祭の際もご入湯なされ、昭和22年11月に続いて2度目のお 泊である。 ◆1961年(昭和36年) … コンクリート製「恋谷橋」完成 別名「ヴァレ・ドゥ・ラムール」という名の恋谷橋。 ときのフランス大使が命名したこの橋は夜のライトアップが美しく歩道には東屋もあり 、カップルや夫婦でロマンティックな時間を過ごすにはぴったり。そしてこの恋谷橋中 央には陶製のカジカガエルがあり、このカジカガエルを優しくなでると恋が実ると言わ れ縁結びのカジカガエルと呼ばれています。 三朝湯の ゆたかなるかな こころさへ この新しく 湧くよ学ばん 与謝野 寛 川波が 雨の裾をば 白くする 三朝の橋を こえてこしかな 与謝野 晶子 三ささ川 きよき流れを われとめて おくのいでゆに 一夜ねにけり 田山 花袋 三朝川の 川瀬をきよみ このゆふべ 旅人われは 足をぞ浸す 斎藤 茂吉 ふと今田、大柳の顔が浮かぶ、彼らのほか、何人かと仕事仲間としての付き合いが 会社を辞めてからも続いていた。高知や高野山、城崎温泉など10年来、年数回ほど 集まっては、旧交を温めてきた。 だが、話題は、お互いの健康と容姿の変化が多くなっていた。 「老眼が進み、情けないのは、食い物の良く見えないことだね。料理は目で味わえとい うけど、 出された料理が細かくてややこしいものだと、なになのかちょっと見分けがつかない時 がある。 最近はね、飯の茶碗をこう持ち上げると、飯粒がぼうとやけてきて、1粒1粒が 見えなくなる。味気ないもんだ。料理は味だけで食べるもんじゃないというのが、 この年になってわかる気がするよ」と今田がいかにも不味そうな顔をしてしゃべるのが 、 面白くも見えたが、他のものも小さくうなずいた。 大柳や小野も大分禿げ上がっていた。 大柳はその薄くなった白髪を少し書き上げる風情で、 「俺も毎日鏡を見るのがしんどくなってきたよ。たまに、気になる白毛の数本を 抜くんだけど、あくる日にはまた白毛になっている。でも、1本の白毛を抜くと、 その隣の黒い毛が23本、すうっと白くなるという風でね。よけい白毛になる自分を、 鏡の中に見据えている時があるよ」。 そしてお互いなんとなく目が頭へといく。 「僕などは絶望だが、君などは有望だ」とお互い慰めあうような言葉をかけあうのだ。 明石の商店街を歩いていた時であった、 街は喧騒に満ちていた。明石焼きの香ばしい匂いが通りに溢れ、横にはそば焼きがこれ も ソース十分な彩を見せている。ここでは、卵焼きと呼ぶ、ふんわりと小さめの玉が 10数個板の上に姿を見せている。その中を、6人の老人が魚屋の鯛の姿焼に見とれ、 店頭でははねた形の鯛やその横にはほどよく焼き上げ焼き穴子が 姿よろしく並んでいる。明石焼きの店を覗き込み、だれを買おうかと悩み、散散と うろついている。和邇は彼らの白くなった頭、やや腰を落とすような歩きを見ながら、 俺も含めて歳を食ったな、と思った。 10数年前の中年の勢いはすでにない。中の1人が、何かにつまずきよろめいた。 ほかの人の手助けで少し顔を赤らめながらありがとうの仕草、こんなはずではなかった 、 という風情だ。潮風がふと止まり、夕凪の中に佇む。その横を三々五々、おばさんや 観光客らしい人、子供が通り過ぎていく。店の切れ間から夕日が周囲を赤く染め、 長い影を通りに落としている。 彼らともあと何年このような付き合いができるのだろう、ふと彼の心を過ぎった。 ーーーーーーーー http://www.hitozato-kyoboku.com/gifuken.htm 関市の杉の巨木 坊地集落の南、津保川左岸に沿って走る細い道の脇に立っている。 スギとしては背も低く、巨木としての幹囲もまだ序の口だが、顔つきは歴戦の雄のそ れである。 小さな塚の上に生を受け、その表面を幾本にも分かれた根が覆っている。立ち上がっ た幹はずんぐり太く、小兵で猪首の野武士を連想させる。 根からいくらも離れない高さから、もう横枝が出ている。自然に折れたか、それとも 人の手で切られたか、失われたものも多く、付け根部分が鎧から突き出た棘のように残 っている。 なかなか印象的なスギである。 今後、大きさを伴ってくるのが楽しみである 武芸八幡神社の、500mもありそうな長い参道途中に立つ大杉。 参道と並行して自動車道もあるが、これは関係者専用。一般参詣者は走行不可(徒歩 通行可)。進入禁止の手前に設けられた駐車場に車を置き、ゆっくり歩き始める。この 季節は、暑くもなく、寒くもなく、気持ちよく歩ける。 入口にある石造りの太鼓橋から300mほども歩いただろうか。左脇に大杉が待って いた。すらっとして、いかにもスギらしい姿の大杉である。 逆に言えば、どこといって特徴のないスギであるが、地域の人々の誇りなのだろう。 予想外に大きい樹名板がそれを物語っているように思われた。 帰りは自動車道の方を歩いた。道の外側には人工林が続く。木々はまだ若いけれども 、よく手入れされた美しい森だった。 口神路(くちかんじ)の白山神社の本殿横に、異形のヒノキが立っている。地上2m あたりまでは1本の幹が立ち上がっているが、そこから多数の幹に分かれている。遠い 昔、まだ若い頃に主幹が損傷を受け、このような姿になったものだろうか? 名は六本 ヒノキだが、枯れかけたものも含めて数えれば、幹は9本ある。 石垣の縁に半ば腰を掛け、半身を乗り出したような姿だ。背後に回って撮ってみたの が上の写真である。「西遊記」で、掌で踊らされているのも知らず、慢心した孫悟空が 、ひと飛びで10万8千里を進む「きん(「角」扁に「力」と書く)斗雲」に乗って辿 り着いたところに立ちふさがった、お釈迦様の手を連想した。 葉の少ない老ヒノキとは対照的に、若い草木は春の活動を始めようとしていた。石垣 に連なる斜面にはカタクリの花が咲き誇っていた。 白川郷荻町合掌集落から国道156号を北に7km、芦倉バス停のそばにかかる狭い橋 を渡ると、対岸が芦倉集落。庄川を渡る際に正面に見える森が八幡神社である。 天然記念物の大杉は社殿の左前方(社殿に向かって右手前)に立っている。あまり滑 らかとは言えない幹の輪郭の曲線が、大杉の生きた長い年月を感じさせる。多分、御神 木として大切に見守られてきたのだろうが、どう見ても無骨で野性的な顔つきである。 自己主張が強いからこそ長生きしたのさ、とでも言いたそうだ。 拝殿と本殿の間にも大杉が1本あって、こちらは器量よしだ。私の目測で、目通りは 7mを超える巨木だが、なぜかこちらの方は1991年の環境庁リストから洩れ落ちて いる。 御母衣湖(みぼろこ)の脇を通って、国道156号を北に向かう。と、御母衣ダムから 5kmほどで、平瀬中・小学校が右手に見える。学校の先を右折して庄川を渡る。あと は道なりに1.5kmほど北上すると、右手に浄楽寺というお寺があり、その先の左手 の低地にトチノキが見える。 ちょっと見に寺とトチノキに関係はなさそうだが、トチノキはこのお寺の木なのであ る。 その昔、浄土真宗隆盛の基礎を築いた蓮如上人(1415~99)が当地を訪れた際、この 木の根元に腰を下ろして休息を取った。つまりトチノキが立つ場所は蓮如上人の霊跡な のである。のち故事を偲んで、ここに道場が建立された。それが今日の浄楽寺である。 そんな話が伝えられている。 旧環境庁が1991年に刊行した「日本の巨樹・巨木林」には、元気が良くない旨の 記述がある。トチノキに出会う前は心配していたが、杞憂だった。たしかに大枝をいく つか失い、そのあとが空洞になっていたりするが、決して樹勢は悪くない。 まだまだ大きくなりそうな気配である。 松尾芭蕉 笈の小文の冒頭の句 百骸九竅(ひゃくがいきゅうけい)の中に物有り、かりに名付けて風羅坊(ふうらぼう)と いふ。誠にうすものの風に破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好むこと久 し。終(つい)に生涯のはかりごととなす。 柿田川湧水群ガイドについて 当サイトは静岡県の駿東郡清水町にある柿田川(かきたがわ)公園を紹介しているサイ トです。 柿田川といえば狩野川水系の一級河川である清流として有名です。柿田川は この柿田川公園の『わき間』から始まっています。柿田川は名水百選にも選ばれる全長 約1.2kmの清流です。 多くの自然を保っている柿田川公園は地域住民の憩い・癒しの場 所として、また観光地として親しまれています。自然がいっぱいなので評判も、とても 良い公園です。 国道1号の隣にありアクセスも良く、無料の駐車場もありますので安 心して公園をご利用いただけます。 柿田川について 柿田川は柿田川公園の「わき間」から湧き出る湧き水に源を発し清水町役場付近で狩野 川に合流する清流です。 水温は一年を通して約15度前後で安定しています。またミシ マバイカモなどが有名です。 柿田川湧水郡は名水百選にも選ばれる名水で、湧水量は 日に70万トンから100万トン程度で東洋一を誇っています。 モネの池 http://find-travel.jp/article/28699 岐阜県関市といえば、鎌倉時代から日本刀の鍛冶で有名だ。関鍛冶とも言われており、 数々の名刀を生むと同時に、松尾芭蕉の弟子にして “風狂の俳人” または “俳諧の 狂者” ともいわれた広瀬惟然(ひろせいねん)を生んだ地としても有名である。 そんな関市に、これまた有名な池がある。有名なのに、名前は無い。だが、その美しさ から、皆からは「モネの池」と呼ばれているという。一体なぜ “モネ” なのか? 雪 降る山道をローギアで走る道すがら、通りかかったので行ってみた。 ・立ち位置や角度によって見え方が変わる モネの池は、岐阜県関市は板取にある「根道神社」の鳥居の横にある。最初は何が美し いのかサッパリわからなかった。水面が反射して、池の中がよく見えなかったからだ。 だがしかし。池のまわりを少し歩いて、橋の正面に立ってみると──!! 驚くべき透明度。その中を、気持ちよさそうに鯉がスイスイと泳いでいる。なんという 美しさ。まるで絵だ! 動く絵だ!! そうか、モネというのは……印象派のクロード・ モネ!! モネの「睡蓮(スイレン)」シリーズに似ているから “モネの池” なのか! ちなみに撮影したのは、まさに今日(2016年2月10日)。天候は雪で、空の色は白かっ た。そんな空模様、しかも iPhoneで撮影したのに この美しさ。きっとポカポカ陽気の 春ならば、それこそ睡蓮も咲き乱れ、水面に青空が映り込み、鯉たちもルンルン気分で ス?イスイ。より一層、綺麗に見えることだろう。そう、モネの睡蓮のように。 名前を持たないこの池があるのが、ここ根道神社。神社自体は観光地というわけではな いのですが、一度見たら忘れられないほどの美しい池は、ネットを中心に話題となって います。 クロード・モネの名画「睡蓮」は自宅の庭にある池をモチーフに描かれています。岐阜 県関市は根道神社にある名もなき貯水池は、睡蓮のモチーフになった池と似ていること から「モネの池」と呼ばれており睡蓮好き、モネ好きの人が良く訪れる観光名所となっ ている様です。この「モネの池」、透明度が高く、睡蓮や錦鯉で彩られたその貯水池は 言葉で表現するのがはばかられるほど美しいんですが、モネの絵画に似ているか?と聞 かれると実はそうでもありません。関市観光協会の方々には申し訳ありませんが、どち らかというと 関市の貯水池は綺麗で睡蓮が浮かんでいる⇒この池に名前を付けて観光名所化できない かな?⇒睡蓮と言えばモネじゃね?⇒じゃー「モネの池」で。 という安易な流れでそう呼ばれることになったんじゃないかと邪推しています。 とはいえ素晴らしい景観であることには変わりなく、碧錦鯉なんかもいて幻想的なその 池をまじまじと見ていると「ここ本当に日本なの?」と異国、違うな異世界に迷い込ん だ様な錯覚に陥ります。lこれは一度は観る価値あり!というわけでモネの池の場所、 行き方について紹介しようと思った次第です。 モネの池がある根道神社への行き方は? モネの池と呼ばれる貯水池は関市にある根道神社(ねみちじんじゃ)の敷地内にありま す。根道神社へのアクセス方法がわかればモネの池への行き方も分かるとまぁこんな感 じです。 ブラタモリ会津 会津城は会津盆地の南東に建てられている。ここは構造盆地といって東西がせりあがっ ている ので、湯川の扇状地が形成され、コメ造りに最適であった。そのために東西には そのまま流れるが、南北に水を流れ込むようにする必要があった。このため、 城下町の水路はクランク型に作られ、北へと生活用水が流れる工夫がされている。 しかし、人口の増加に伴って、湯川の水だけでは不足するようになり、 31キロ離れた猪苗代湖から水を引き込むプロジェクトが実施された。 完全に完成するまでには70年ほどかかったという。約300メートルの高低差を 利用して、今でも使われている。途中には山を削った切通しを作り、それも土質が 火砕流であり、水が当たるとぼろぼろと崩れていく点を考慮して、なるべく 直線的なルートを開拓した。この地域がコメ作りとして盛んになったのは、インフラ 整備だけでなく、1700に及ぶ会津歌農書なるものを作り、あまり農業知識 がなくとも誰でも作物に従事出来るような工夫もした。 きゅうりは植えてから61日目に実がなるなど また城の近くには「サザエ堂」が作られているが、これは上りと下りが別々であり、 その途中に33か所の本尊が祀られていた。領内でお金を落とす工夫の1つであった。 介護殺人、多くなっているようだ。 NHK之映像は明日は我が身の思いもあり、考えさせられた。 殺してくれと再三頼まれて実行した70歳の夫、認知症の母を殺した50代の弟、彼は 兄に頼まれて母の面倒を見ていたが、排便を大量に出し訳も分からず戸惑う母を 見るに見かねて殺した。懲役8年であったが、手伝いを頼んだ兄にも深い心の傷が残っ た。 デイサービスに頼んでいたが、妻のなきわめく態度に殺してしまった80歳の夫、 その2年前までは仲の良い夫婦として過ごしていたとのこと。 どれも明日は我が身の事件のような気がする。 このような事件の多くは介護が始まって1年以内に起こることが多いそうだ。 26パーセントにもなる。 介護を初めて今までの生活と之ギャップに戸惑うそうだ。 また、これら事件の場合でも、其の75パーセントはデイサービスを受けているそうで 、 事件解決には中々に難しい問題があるようだ。 これらには、本人が死を希望しても、周りの人間が活かしつづけるというジレンマもあ る。 本人の希望が他人の思いで勝手にゆがめられる。それを悔いている人の映像も あったが、彼女のエゴで生きながらせられた本人はどのような思いで死を 迎えたのであろうか、理解できない。 -------- 天ぷらの王者といえば、芝海老か穴子か? 否、庶民的な「かき揚げ」こそが天ぷら料 理の醍醐味としたのは作家の小島政二郎。とりわけ、浅草の老舗天ぷら店『中清(なか せい)』の名物である、大きなかき揚げが好みだったようです。 鯉が泳ぐ池の周りに数寄屋造りの離れが並ぶ『中清』。創業明治3(1870)年より変 わらぬ佇まいの離れは、この店の天ぷらを愛した永井荷風、久保田万太郎や池波正太郎 といった、作家たちの笑い声がいまでも聞こえてきそうな華やぎに満ちています。 「あすこへ来て、喜々として食を楽しんでいる人々の姿を見る度に、私は仕合せを感じ ずにいられない。」(『天下一品―食いしん坊の記録―』河出文庫)と小島政二郎が記 したように、「雷神揚げ」と呼ばれる大きなかき揚げも、気の置けない人と一緒に楽し みたくなるひと皿です。 上の写真/仏文学者の辰野隆(たつのゆたか)が「雷神揚げ」と名づけた大きなかき揚 げ。芝海老と青柳の貝柱がふんだんに入り、胡麻油の香りに包まれた風味豊かな逸品で す。 玉ノ井 http://tokyodeep.info/post_620/ 永井荷風の「?東綺譚」、滝田ゆうの「寺島町奇譚」など関連作品は枚挙にいとまがな い。 「生は来にあらず、生は去にあらず、生は現にあらず、生は成にあらざるなり。しか あれども、生は全機現なり、死は全機現なり。 しるべし、自己に無量の法あるなかに、生あり、死あるなり。」 生は、いずこかより来たれるものでなく、いずこかへ去るゆくものでもない。同時 に、生はなにかが現われたものではなく、なにかが成ったものでもない。 そうであるけれども、生はすべての働きが現成したものであり、死もすべての働き が現成したものである。 知るべきである。自己のうちに無限の法があるのであり、この真理の中に生も死も あるのである。 「このゆえに、生はわが生ぜしめるなり、われをば生のわれならしめるなり。」 これが、全機というものだ。 さらに、 「生といふは、たとへば、人のふねにのれるときのごとし。 このふねは、 われ帆をつかひ、われかじをとれり。 われさををさすといへども、 ふねわれをのせて、ふねのほかにわれなし。 われふねにのりて、このふねをもふねならしむ。」 ここで、「ふね」とは、生のことです。「われ」はわれですが、ひとまず、われとは この肉体をもって今の世に生をうけている自分の核となる認識主体というように仮定 して読んでみる。 ふねを棹さすごとく、自分の意思でこの生を生きていると思えるけれども、ふねが自 分をのせているように生そのもののなかに自分は依拠している。 一方、私の認識において、この生があり、この世界が存在しているとも言うことがで きる。私が、舟にのっているから、舟は舟として働いているのである。 この機微を参究すると、天も水も岸もすべて舟の時節となる。すなわち、全世界は生 のうちにある。 「このゆえに、生はわが生ぜしめるなり、われをば生のわれならしめるなり。」 これが、全機というものだということ。
2016年10月7日金曜日
日々の記録33(杉の来た道、三朝温泉、モネの池、介護殺人、会津
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