2016年10月7日金曜日

日々の記録24(熱海、若狭、三輪山、小田原城

東海道五十三次の紹介があった。当時は時に茅ヶ崎から辻堂までの松並木が
結構有名だったとか。藤沢宿では江戸からここまで右手に見えていた富士が
北へ方向を変えることもあり、左手に見えたそうで、その石碑もある。
ここでは小田原までであったが、北条の作った小田原城の凄さを改めて知った。
総がかりという考え方で、町全体が城としての機能を持ったという。
それは周囲八十キロにもおよび豊臣秀吉の小田原攻めも中々に苦労したことが
わかる。その免責的な大きさでは大阪城を上回り、中には水道設備も整えてあり、
全国的にもその普及の速さはそれが基盤にあるからであろう。
東海道名所図絵と同じように五十三次の名物番付があるが、小田原は結構
多い。カツオのたたき(当時はかなり鰹が沖合で捕れた)、いかづけ、初鰹
外郎(ういろう)小田原提灯(折り畳み式であり箱根越えに便利)などがある。

ブラタモリ熱海
今でも年間600万人の観光客があり、百数十件の旅館ホテルがある。
江戸時代、徳川家康が愛用したことで他の温泉地とは別格の扱いである。
また、その後の将軍たちも愛用したため、江戸城までご用達品として
届けられてもいた。当時は二十六軒ほどの温泉宿(湯戸)があり、元湯(本湯)
は間欠泉であったため、一時その温泉を貯めておき、なだらかな傾斜を
利用して各宿に配っていたという。
熱海は多賀火山の噴火によるなだらかな傾斜と熱い湯がその後も温泉地として
発展を続けた。また沢庵和尚が熱海の温泉の効用などを歌にして広めたことも
大きい。明治以降は山側にその眺望と温泉の良さを味わうため、御用邸や政財界の
有力者の別荘が多く建てられた。さらには、丹那トンネルの鉄道開通が
関西からの観光客の増加を進め、一時は1000万人の人が訪れた。
このトンネルの開通は十六年もかかったが、それは地下水の湧き出しによる
ためであった。しかし、この湧水が水不足になりつつあった温泉地の
解決となり、さらに発展することになる。




個人的に気になる日本遺産として、福井県(小浜市,若狭町)がある。
テーマは「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群~御食国若狭と鯖街道」
・ストーリーの概要
若狭は,古代から「御食国(みけつくに)」として塩や海産物など豊富な
食材を都に運び、都の食文化を支えてきた地である。
湖西もその交通要路としてその役割が大きい。
大陸からつながる海の道と都へとつながる陸の道が結節する最大の拠点
となった地であり、古代から続く往来の歴史の中で、街道沿いには港、城下町、
宿場町が栄え、また往来によりもたらされた祭礼、芸能、仏教文化が街道沿い
から農漁村にまで広く伝播し独自の発展を遂げた。
近年「鯖街道」と呼ばれるこの街道群沿いには、往時の賑わいを伝える町並み
とともに豊かな自然や受け継がれてきた食や祭礼など様々な文化が今も
息づいている。
湖西のこの地域は小浜や若狭と深いつながりがあり、また多くの渡来人が小浜
などからここを通過して様々な文化や生活の技術を伝えたのであろう。


.三輪山

 天理市から南下すること20分ほどで大神(おおみわ)神社の大鳥居が見えてきた。
丁度九時頃でまだ正面の駐車場に入れた。参道には出店が忙しく用意をしている。人出
はこれから増えるのだろう。
 三輪山は奈良を代表する霊山で多くの作品でその神秘が取り上げられている。山その
ものが大蛇が変化したものとも云われ、長い間禁足地だった。最近は決められたルート
の登山が許されている。今日はもちろん登るつもりである。

 広大で立派な社の正面に出る。大神神社の社殿は、実は拝殿である。御神体は山その
ものなので、山を拝む為の社ということなのだ。諏訪大社の本宮も同じである。こうい
うところは以外に多い。
 そこからルートを左にとってしばらく歩くと狭井(さい)神社に出る。ここが三輪山
の登山口になる。三輪山の中では弁当を食ったり酒を飲んだりできない。また、写真、
ビデオの撮影も禁止されている。ロッカーに荷物を置いて、入山料を払うとタスキを貸
してくれる。これを首に巻いて、一本100円の御神水と竹の杖だけを持って登るのだ
。
 三輪山は醸し出すフィーリングもルートの勾配も関東の高尾山に似ている。ハイカー
も若者もいればかなり年配の方も多い。登山者の多くが普段山に登りつけていないので
苦労しているところも高尾山とよく似ている。
 所々に岩座があるが、今一つパワーが感じられない。思い込みが先行していて実際の
パワーを感じ取れないのかもしれない。
 一時間ちょっとで山頂に到着。岩座は周囲を柵で仕切られていて中には入れない。岩
そのものは黒い。ここでも強いパワーは感じ取れなかった。後から登ってきた年配の男
性が「なんや、たいしたことないなぁ…、」と大きな声で言った。正に同感。それでも
潜象光を探ろうと目を閉じたのだが、どんどん黒くなってしまうのだ。時々こういう場
所がある。なにか隠されている気がするのだが、どうもよく判らない。ある本に、三輪
山の岩座は破壊されている、と書かれているのだが、確かに山頂の岩座にしては各岩が
小さいように思える。とにかく全体像が掴めないのではっきり判らないのだが、私自身
が期待していた圧倒的なパワーは感じ取れなかった。
 三輪山からはほとんど眺望はなかった。印象に残ったのは、お遍路さんの格好をした
中年の御夫婦が裸足で登っていたことだ。我々よりだいぶ早く来たようで、山頂近くで
擦れ違ったのだが、下山途中で追い着いてしまった。その時は二人ともかなり足が痛い
ようで苦労していた。修行の意味でそうしたのだろうが、普段からやっていないとただ
辛いだけのことだと思う。
 気の抜けた気分で下山すると、狭井神社は凄いことになっていた。登山する人達でご
った返しているのだ。ロッカーから荷物を出すと待ってましたと次の人が取り合ってい
る。「あのー、杖をいただいていいですか?、」沢山あった竹の杖もスッカラカンだっ
た。やっぱりこの山は人気があるんだなぁ……。
 帰り道、久延彦神社に寄ろうと脇道に入ったら、そのまま展望台に出た。ここからは
奈良盆地が一望できる。大和三山が目の前に模型のように奇麗に並んでいる。その向こ
うには金剛山、葛城山、そしてずっと右手に二上山が見える。霊山に囲まれた古代のピ
ラミッドシステムが眼前に広がっている。
 大和三山は今まで二度挑戦したのだがどうしても行けなかった。今回も余裕があれば
回るつもりだったが、なんとなく「縁」がない感じがするのだ。この場所から眺めてい
てフと気付いたことがある。これは直勘だが、大和三山をコントロールしているのは三
輪山のような気がするのだ。今まで大和三山に近付けなかったのは、どうやら元締めで
ある三輪山を通さなかったかららしい。

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         小田原城の歴史は古く15世紀の大森氏による築城から数えて約500年以
上も存続し
てきた城と言われます。戦国時代では小田原北条氏(以下北条氏)の居城として関東
で覇を唱え、江戸時代を迎えると小田原城は戦国時代の土で構成した城から高石垣や
白壁、瓦を持つ建築物で構成する近世の城として生まれ変わります。ですが、
その領域は現在のJR東海道線よりも東の低地部のみとなり、西の丘陵地は御留山と
して人の出入りが禁じられ、その結果、小田原城は中世戦国時代と近世江戸時代の城
の遺構が残る城となり、500年以上も歴史がある城としては全国でも稀な存在と
なりました。又、江戸時代に関東で天守を認められた城は江戸城と小田原城だけ
であり、明暦3(1657)年、江戸城天守が焼失した後は江戸城天守が再建されず、
廃城を迎えるまで小田原城天守は関東唯一の天守として存続したのです。
話を戦国時代に戻すと、北条氏の築いた城の特徴として障子堀が見られます。障子堀と
は各所に障壁としてわざと掘り残しをつくり、この障壁を堀障子といいます。
堀道として敵兵の進行を妨げる効果があるだけでなく、関東ローム層に形成した障子堀
は雨水の保水能力があり、雨量の多い時期では高地や傾斜地においても堀障子による
小規模のダムが連なる水堀を配することを可能にしたのでしょう。
天正18(1590)年の豊臣秀吉来攻時では本城小田原城を含む城下町全域を堀と
土塁で囲み総勢十数万の秀吉軍に北条氏は対抗します。その規模は全長約9㎞にも
及び、これを小田原城総構(そうがまえ)またの名を大外郭といいます。
秀吉軍は小田原城攻略に苦戦し篭城戦は約100日を数え小田原合戦終結後、小田原城
総構の堅固さを知った秀吉をはじめ参陣した武将たちはこぞって自身の居城に総構を築
き、
(金沢城もそれ)その中では発掘調査で障子堀が検出した城も見られます。この総構は
北条氏が滅んだ後も存続し、江戸時代では府内構(ふないがまえ)と呼ばれ、廃城後
の小田原町の範囲は総構の範囲でした。総構の領域は現在の小田原駅周辺の市街地の
領域も含まれています。つまり小田原の町は町全体がお城なのです。
こうした小田原城の歴史的な位置づけは一般には深く知られておらず惜しまれます。
小田原城の歴史を知ることは小田原のまちの歴史を知ることにつながります。
その中心に聳え立つのは白亜の天守であり、小田原の町の象徴、ランドマークタワー
です。歴史と文化を誇る小田原の町に相応しいのは木造の本物の天守ではない
ではないでしょうか?
ブラタモリでもこの小田原城をやっていた。それから補足すると、総構は尾根部分が
4キロ、海岸に近い湿地部分が5キロほどあり、湿地部分は早川などの3つの川を
利用し、堀や土塁の高さは70メートルにも及ぶところもあったという。
尾根の部分は、障子掘りであり、それが土塁-堀ー土塁といくつかの層になっており、
土塁は滑りやすく作られていたので、ここを攀じ登るのは中々に大変。
また早川は小田原用水の取り入れ口となり、この用水により飲料水に使っていたと
いうから戦国時代からの日本で最古の水道でもある。この配水のための暗渠が町の
あちこちで見られる。徳川家康もこれを参考にして、
玉川用水や神田用水の構築を進めたという。この用水は小田原の石工の技術が
優れていたこともあり、できたともいう。
さらには、この用水の水が海の水と上手く交わり適度のミネラル分を含んだ水により
東海道周辺にはかまぼこ屋が多くできた。


           まだ京都城陽に住んでいたころ、奈良の友達から霊山の三輪山へ誘われた
こと
があった。霊山というその響きに何か違う世界を想像し、車で出かけた。
大神(おおみわ)神社の大鳥居を通り、広大で立派な社殿で拝した。
周囲約16キロほどの三輪山は、西側の御本社の背後にあたる大宮谷を含む以前の
禁足地のまわりに九十九谷の山すそを広げていた。少し登ると、右方の下草の茂に
任せた赤松の幹は、午後の日を受けてその赤さを一層に輝かしていた。
禁足地であった地は、木々も、羊歯や笹叢も、これらに万遍なく織り込まれた日光も、
すべてが心なしか尊く清らかに見えた。
しかし、自分の足が踏みしめているこの御山自体が、神、あるいは神の御座だと感じる
ことは、素直に受け入れるほどの感情ではなかった。歳は4,5歳上である友人の
その俊足に驚きながらも汗を払う間もなく従っていく人間にとって、午後になって
ますます暑さを加えた日差しが憎く思ったが、やがて渓流の傍らの道の涼やかさに
一幅の幸せを感じた。日は避けられたが、道はいよいよ険しくなった。
榊の多い山で、町で見る榊よりもはるかに葉のひろい若木が、そこかしこで黒ずんだ
緑の影に多くの白い花をつけていた。上流へいくほど瀬は早くなり、快いその水音の
響きが一段と高くなり、一陣の滝が現れた。そのあたりは滝を巡って、森がもっとも
鬱蒼としてるところだそうだが、森のいたるところに光がこもっているので、
あたかも光の帯の中にいるようである。頂へ登る道は、ここから先が難所
なのであった。
一応道として整備はされているものの、岩や松の根を頼りに道とは言えない道や
赤銅色の崖を伝い、少し平坦な道が続くかと思えば、また更に、午後の日に黒々と
照らし出された崖が現れた。友人は先へ先へと行くが、彼は息が迫り、汗もしとどに
なるにつれて、こうした苦行のうちにやがて近づく神秘が用意されているのを感じた。
時折木々の間を縫うように鳥たちがわたり、直径一メートルあまりの赤松や黒松が、
静かに群立っている谷も見えた。蔦や蔓草にからまれて朽ちかけた松が、残らず
煉瓦色の葉に変わっているのも見た。あるいは赤く露地を見せた崖の半ばに立った
一本杉に、入山の信者が何らかの神性を感じて、注連縄を張り巡らし、供え物を
してあるのも見た。その杉の幹の片面は苔のために青銅色をしていた。御山の頂
に近づくにつれて、一本一草が、たちどころに神性を与えられ、自然に神に化身
するかのように見えた。たとえば、高い椎木の樹冠が、風にあわせ一斉にその
浅黄の花を散らしてくるようなときには、人のいない深山の木の間を縫ってくる
花の飛来は、二人に驚きと荘厳さを与えた。
沖津磐座は崖路の上に突然現れた。
難破した巨船の残骸ような、不定形の、あるいは尖り、あるいは裂けた巨石の
群れが張り巡らした注連縄の中に鎮座していた。太古からこの何かあるべき姿
に反した石の群れが、並みの事物の秩序のうちには決して組み込まれない形で、
怖ろしいような純潔さと乱雑さを併せ持ち、生きてきたのである。
石は石と組打ち、組み打ったまま倒れて裂けていた。別の石は、平たんすぎる
斜面を広々とさしのべていた。すべてが神の静かな御座というよりは、戦いの
あと、それよりも信じがたいような恐怖のあとを思わせ、神が一度座られたあとでは、
地上の事物はこんな風に変貌するのではないかと思われた。
日は、石の肌に一重の衣のごとき苔を無残に照らし出し、さすがにここまで来ると
風が活きて、あたりの森はさわやかに騒いでいた。
磐座のすぐ上方にある高宮神社の小詞の簡素なつつましさが、磐座の荒々しい畏怖を
なだめた。合掌造りの屋根の小さな、しかしすこぶる鋭角に見える鰹木は、蒼い松に
囲まれて、いさぎよく結んで立てた鉢巻のようにその力強さを見せていた。
久々のこういう脚の行使が、それを何とか果たしたという満足が、和邇の心を
解き放って、あたりの松風の音にこもる明るいさわやかな神性のうちに、日ごろの俗世
そのものの行為を排したという満足感に浸るような心境にさせた。
轟々たる青風の合間に、静けさが点滴のように滴ってきて、虻の飛びすぎる羽音が
耳だったりする。杉の幾多の槍の穂先に刺された輝かしい空。動く雲。日光の濃淡
を透かした葉桜の葉叢。彼はわれにもあらず幸福な面持ちになった。
そして、神という意識が初めて彼の心の片隅に芽生えた。



                横浜港の景観は大きく変わっていた。まだ赤レンガの建物が広い岸壁
に大きな影を
落とし、緑深き点描があちこちに散見されたが、スマートに伸びたビルの群れと
海をまたぐかのように白いアーチがその無機質さを一層高めていた。しかし、
港の持つ喧騒と塩を帯びた熱気は一足飛びに30年ほど前に彼を引き戻した。
一息吐くたびに、何かが彼の心から掻き出され、港全体のおそろしくひろい鏡面から
はきだす溜息のようなものに触れ、たえまない鉄の響きエンジン音、人の叫喚に
耳をふさがれると、圧迫と解放、過去と現在を同時に味わい、張りのある空虚に
充たされた。丸く大きく広がった藍色の水平線は、海景と人の動きを併せ持った
碧い額縁のようだ。沖に一瞬、一箇所だけ、白い翼のように白波が躍り上がって
消えた。あれには何の意味があるのだろうか。忘れし過去への誘いか、今を
生きる自分への侮蔑か、いずれにしろ彼はそこにいた。
潮は少しづつ満ち、波もやや高まり、陸が知らぬ間にその姿をせばめつつある。
日が雲におおわれたので、海の色はやや険しい暗い緑になった。そのなかに、
左から右へながながと伸びた白い筋がある。巨大な中啓のような形をしている。
そこだけ平面が捩じれているように見え、捩じれていない中央に近い部分は、中啓の
黒骨の黒っぽさ以て、濃緑の平面に紛れ入っている。
日が再びあきらかになった。海は再び白光を滑らかに宿して、風の命じるままに
無数の海驢の背のような波影を、左へ左へと動かしている。尽きることのない
その水の群れの大移動が、何ほども陸に溢れるわけではなく、雲は鰯雲になって、
空の半ばを覆っている。日はその雲の上方に、静かに白く拡散し続けていた。
幼い子供たちと岸壁や白く輝くタイル張りの路面で僅かの家族というつながりに
興じていた、その時はどうであったのだろう、一瞬その思いに捕らわれる。



        五月の晴れた空の下で、この山あいでも春が薄れ、夏が兆していた。
本堂の裏手にあたる質素なつくりの部屋であったが、手入れのとどかぬひろい庭
を眺めていると、桜もすでに花が落ちて、その黒い固い葉叢から新芽がせり出し、
柘榴も、神経質な棘立ったこまかい枝葉の尖端にほの赤い眼を突き出しているのに
気づいた。新芽はみな直立し、そのために庭全体が、爪先たって背伸びしている
ようであり、その隙間を埋めるように緑の増した苔の帯がさらに庭のしつらえを
繁み豊かに見せていた。
通された部屋は寂としている。雪白の障子は霧のような光りを透かしている。
やがて衣擦れの音が緩やかなテンポでその静寂をさくように聞こえ、老師が
現れた。
すでに九十歳にはなろうかと思われたが、薄茶色の衣服にその小柄な身を
包んだ姿は雪白の障子の明るさの中で静かに端座されているようであった。
老いが衰えの方向ではなく、浄化の方向へ一途に走って、つややかな肌が
静かに照るようで、白い眉毛の下の目の黒さには十分なる光がたたえられ、
内にかがやくようなものがあって、全体に、みごとな石像のような老いが
結品していた。
半透明でありながら冷たく、硬質でありながら円やかな空気がその小さな体から、
ゆるりと部屋に溶け出している。もちろんその皺は深く刻まれていたが、その一筋
一筋が、洗い出したように清らかである。
自分にはなれない、素直に納得した。老師は十一面観音について、本をめくり
子供に聞かせるかのような所作で、語ってくれた。
「十一面観音信仰は古い時代からのもので、日本でも八世紀初めの頃からこの
観音像は盛んに造られはじめていた。ここのご本尊様も八世紀半ばのものと
言われている。この頃から十一面観音信仰はその時代の人々の生活のなかに根を
張り出している。この観音信仰の典拠になっているものは、仏説十一面観世音神呪経
とか十一面神呪経とか言われるものであって、この経典にはこの観音を信仰する者に
もたらせられる利益の数々が挙げられている。
それによると現世においては病気から免れるし、財宝には恵まれるし、火難、水難は
もちろんのこと、人の恨みも避けることができる。まだ利益はたくさんある。
来世では地獄に堕ちることはなく、永遠の生命を保てる無量寿国荷生まれることが
出来る。
また、こうした利益を並べ立てている経典は、十一面観音像がどのようなもので
なければならぬかという容儀上の規定も記している。まず十一面観音たるには、
頭上に三つの菩薩面、三つの賑面、三つの菩薩狗牙出面、一つの大笑面、一つの仏面、
全部で十一面を戴かねばならぬことを説いている。静まり返っている面もあれば、
憤怒の形相もの凄い面もある。また悪を折伏して大笑いしている面もある。
いずれにしても、これらの十一面は、人間の災厄に対して、観音が色々な形に
おいて、測り知るべからざる大きい救いの力を発揮する事を表現しているもの
でしょうな」。
と、老師は、不如帰の声に魅かれたのか、庭を見る仕草をした。二人は、
夏の姿に整えつつある庭を見定めた。
「十一面観音信仰が庶民の中に大きく根を張って行ったのは、経典が挙げている数々の
利益によるものであろうが、しかし、そうした利益とは別に、その信仰が今日
まで長く続きえたのは、頭上に十一面を戴いているその力強い姿ではないか。
利益に与ろうと、与るまいと、人々は十一面観音を尊信し、その前に額ずかず
にはいられなかった。そういう魅力を、例外なく十一面観音像は持っておられるし、
宗教心と芸術精神が一緒になって生み出した不思議なものかもしれん。美しいものだと
言われれば美しいと思い、尊いものだといわれれば、なるほど尊いものだと思う
ほか仕方のないもの」。
和邇が初めて十一面観音に出会った時の、あの美しいと思った感覚がするりと
心に宿った。だが、小浜で出会った観音像を見たときの気持ちと大分違う、それが
老師の言われる言葉で心にしみた。
「十一面観音の持つ姿態の美しさを単に美しいと言うだけでなく、他のもので理解
しようと言う気持が生まれるように思う。そうでなかったら頭上の十一の仏面が
異様なものとしてでなく、力強く、美しく、見えるのは、自分がおそらく
救われなければならぬ人間として、十一面観音の前に立っていたからなのでしょう」。
ここで初めて老師は口元に静かな笑みを見せた。それはすぐに気付くものほどの
ものではなく、しかし、和邇にとっては、心をくすぐるしぐさであった。
そして、心が少し軽くなった、そんな思いが浮かんだ。


       カバーに黒い染みのついたままのソファ、乱雑にものが置かれたテーブル、中
途半
端に開いた厨子、すべてが無秩序なままであった。
こうしたひとつひとつの家具には、何の思い出もなかった。確かに、大切に
心にしまいこんでおくような、また思い出すような思いでは、全然ない。しかし時折、
一つのものが感情的な反応を呼び起こすことはある。ある家具の状態を思い出すと、
胃酸がのど元に酸っぱい刺激を増し、首のうしろにじわりと汗が吹き出てくるような
ことがあった。たとえば、ソファだ。その色合いとすわり心地の良さを感じ、高価な
物であったが、無理して買った。しかし、半年もたたずに色褪せ、座るたびに不快な
音を出し始めた。ソファの持つ安寧と豊かさの実感は微塵もなくなった。
そしてそのわびしさが悪臭を放ち、すべてのものに滲みこんでしまう。
その悪臭のおかげで、今は猫の排泄もそのままの不快な置物となっている。
ちょうど歯痛が、ひとりでずきずき痛むだけでは足りないで、痛みをからだのほかの
部分まで広げないではいないように、呼吸が困難となり、視野がせばまり、神経までが
不安定になる、うらめしい家具は人をいらだたせる不快感を生み、それが家中に
のさばって、更なる混乱を広げていく。



         1989年、それは和邇にとっても忘れられない年であった。昭和天皇の崩
御
が報じられ、即日家を飛び出した。あるシステムの年号表示を昭和から平成に
全面的に変えるために関係メンバーを招集し、その作業を進めた。ほぼ2日の
作業であったが、昭和という自分の誕生と日々の暮らしの中で自信と負い目の
激しかった時代が終わった、立ち働くメンバーの動きを見ながらも、短い感傷に
落ちた。貧乏という言葉に翻弄された学校時代、自分の力を信じ次へのステップを
強引に進めた二十代、家庭という新しい生活、関西という全く知らない土地での
模索の日々、一瞬すべての人が消え、大きな会議室に影の如く座る自分がいた。
カーテンを刺すかのように力強かった日差しはあっという間に赤みを帯びた
夕刻の様相をなしていた。
すでに40歳に入り、仕事は順調であったが、家庭含めて個人的な生活には夏の夕立
雲が湧きあがるようにその黒い影が急速に自分を覆っていた。しかし、そんな個人
の思惑とはかけ離れたところで、世界は激変と言える時代を迎えていた。
中国天安門の前で多くの人が民主化を求めたデモを行っていたが、強制排除の中で
多くの人が死に、東ヨーロッパの多くの国で民主化を求める行動が激しくなり、
ソビエト連邦は崩壊し、東西冷戦という形が崩れていった。
テレビから流れ出る様々な画面が否応もなく彼の目に映っていた。
ベルリンの壁によじ登り歓喜する人々の映像は、この目に焼き付いている。
しかし、朝6時に起き、満員電車に揺られながら、1時間半をかけて大阪の事務所に
行く毎日は変わらず、荒れ狂う風雨の中でも強固な家に守られ、静かな生活を送るか
の平穏な日々でもあった。それはわが身が招いたことでもあったが、この年以降、彼は
仕事の失敗、家庭不和、不倫問題、その怒涛に巻き込まれた。
時代は移り、平成生まれが遂に成人となる記念すべき2010年の「成人の日」、
「昭和」世代から「平成」世代へと日本の担い手が交代するその始まりでもある。
新成人が生まれたこの年は、バブル経済最後の絶頂の時期でもあった、自身の
仕事とその才に溺れ、我が物顔で歩いた当時がむなしい記憶を呼び起こす。
政界などへの未公開株ばらまきで、「政治とカネ」が問題となったリクルート事件が
起きたときでもあり、皆が何かに酔っていた。その後はどうであろうか、
経済は疲弊し政治は混乱し先進国中一人日本だけがGDPを下げ続け、世界の中の日本
の存在感はますます希薄になり、その影は格差、非正規社員の急増、高齢者破産、など
を生み出してきた。
グローバルという言葉、インターネットという世界が空しさをもって、
わが身に降りかかるようだ。
ある本で読んだ言葉が思い起こされる。世界がこれらによってフラットな社会になる
と、その基本は、「共産党宣言」の文面になっていく。民主主義が謳歌される
この時代であるのに。
「昔ながらの古めかしい固定観念や意見を拠り所にしている一定不変の凍り
ついた関係は一掃され、新たに形作られる物もすべて固まる前に時代遅れになる。
固体は溶けて消滅し、神聖は汚され、人間はついに、人生や他者との関係の実相
を、理性的な五感で受け止めざるを得なくなる。、、、、、そうした産業を駆逐
した新しい産業の導入が、全ての文明国の死活を左右する。、、、、、、、
どの国もブルジョアの生産方式に合わさざるを得ない。一言で言うなら、
ブルジョアは、世界を自分の姿そのままに作り変える」と。

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