梅の新しい枝が、直立して長く高く、天を刺し貫こうとする槍のように突っ立つ [佐藤 春夫/田園の憂鬱] より 詳細 微風にのって梅の香りがにおう 紅梅の枝に蕾がほころびかけて、点々と鮮やかな紅の色が散っている 盛りを過ぎた梅の花が、雨に濡れて泣くように見える [田山 花袋/田舎教師] より 詳細 寒さにめげず気品高く咲く梅 しいんとした午(ひる)さがりの弱い陽ざしのなかで、紅梅の花弁が鮮明 塩作りが、揚浜、入浜塩田、塩浜へと発展し、大量に生産できるようになると ともに、使われる器は、土器から、石混じりの粘土へ、そして鉄、石へと変化 していく。これが鉄器に代わるまで人は相当苦労して塩を作っただろうと推測できる。 この近江も、名古屋の知多半島やその周辺で取れた塩が運ばれてきたという話を 別な先生からも聞いたことがある。 近江で生産された優れた鉄が優れた石ノミを生み出し、優れた石工と共に 日本各地に鉄の文化を伝播させていく。その鉄で花崗岩を刻むという石工が生まれ、 鎌倉時代の石工は近江地方に分布するのはこうした経緯があったからである。 なお、湖西は近世から石や石造りで有名であったという。 そして、近江北部などで産出された鉄釜は塩の生産を飛躍的に増加させる。 これにより、若狭湾沿岸には、鉄を使った古い揚浜が分布している。 しかし、鉄鍋では鉄の成分が流れ出るため、白い塩は出来なかった。そのため、 石鍋の製造も盛んになる。 塩の生産は、鉄と言う力を得て、大きな流通の流れを作り出す。 塩を売る人たちの登場であり、更には、瀬戸内海の人たちは、石釜で塩を作る ようになり、ここで生産される塩は、鉄釜からつくられる錆色のついたもの より有利であった。 信濃の塩の道の地図を見ると、鉄道や舗装された道路の無いこの時代でも、 多くの人がこのようにして、生活のため、自分の商売のため、これらの道を 通っていた。多分、このような道が日本各地の様々な物流の元として開拓されていた。 北上山中でとれる鉄を南部牛につけて関東平野にもって行き、東北の人たちは、 鉄と一緒に牛も売り、身軽になって戻っていった、道もそうであったのだろう。 愛知のほうまで分布していた南部牛は、東北の文化含め、基本的生産力の及ぼす 範囲が、実は中部地方西部にまでわたっていたことを示している。 幸せいっぱいの人が持つ共通点とは何か 本当のことを言えば、真の幸せと満足感は、1つしかないわけではありません。 幸せとは遺伝的特徴と、気持ちと、性格と、感情と、人生におけるさまざまな 事情や状況が合わさって最高の時を迎えた状態なのです。大きな声では言えませんが、 幸せに関しては研究者たちもいまだ論争の最中であり、それが何なのかはよく わかっていません。とはいえ、少なくとも幸せが「どんなふうに見えるのか」 は研究からかなり明らかになっています。人によって限界がまちまちとはいえ、 個人的な幸せの限度を最大限に広げるためにできることがあるのです。 具体的には、たっぷり運動をして(内心で目標を定めておくと効果がアップします)、 十分な睡眠をとり、心の知能指数(EQ)を育み、モノではなく経験にお金を費やすこと から始めてみると良いでしょう。何を目標にすれば良いのかわからないなら、 「PERMA」を覚えておいてください。PERMAは、心理学者でポジティブ心理学の提唱者 であるマーティン・セリグマン氏が編み出し、著者『ポジティブ心理学の挑戦 "幸福"から"持続的幸福"へ』の中でも紹介されているもので、健康で満足した状態を 示す、5つの主要要素の頭文字を取っています。 Positive Emotion(ポジティブ感情):心の平和、感謝、満足、喜び、創造性、希望、 好奇心、愛情がここに含まれる。 Engagement(エンゲージメント):興味を引きつけられるがあまり、没頭し、「我を忘 れる」ほど打ち込むこと。 Relationships(関係性):他人と有意義かつ前向きな関係を築いている人は、 そうでない人よりも幸せである。 Meaning(人生の意味や仕事の意義、および目的の追求):意味や意義は、私たち 自身よりも大きな大義のために尽くすことから生まれる。信仰であれ、何らかの かたちで人類の役に立とうという信念であれ、人はみな、人生に意義を 見いださなければならない。 Accomplishment/Achievement(何かを成し遂げること):人生において大きな 満足を得るためには、何らかの方法で自らを高めていく努力をしなければならない。 多くの人が各自感じる「幸せ」とはどのようなものでしょう。セリグマン は、以下の3つの基本要素を考えて、定量的な把握をしようとした。 ・喜び⇒楽しい人生 ・夢中になること⇒良い人生 ・意味を見出すこと⇒意味ある人生 例えば、 意味ある人生とは、自分が考える大切なものに、どれだけ自分が貢献できているか を指す。自分が大切だと考えるものに、どれだけ自分が役立てていると感じて いるかが、幸せ度合いを左右する。 幸福感を高めることには、 先ずは、従来の大きな誤解を改めることが肝要である。 「頑張って成功したものにのみ幸せが訪れる」のではない。 「幸せな感情を持ち続けるものに成功が訪れる」のだ。 如何に日常の中で、ポジティブな感情(幸せな感情)を保ち、高めることが 重要であることを再認識する必要がある。 「幸せ」は、以下の3つの要素を満足するもの(セリグマン) ・喜び ・夢中になる ・意味を見出す 即ち自分にとっての幸せとは、 「自分の可能性を追求して努力する時に感じる喜び」となる。 ポジティブ感情が多く幸せである人の人生は充実している。 ポジティブ感情がその認識や行動の幅を広げると、人はより創造的に なるだけで無く、将来も含め、有効な知的資源や社会的な資源、 身体的な資源を生み出して行ける。 自身の「幸せ」を客観的にみるのに、「日常の幸福度テスト」なるものを セリグマンが提示している。これなどを使って自分なりに確認するのも 面白いのでは。 更に、幸福感を持続して行くには、日々の自分が、どの様な感情を持つのかを 理解しておく必要がある。 それには、7つの方法がある。 ①何かを楽しみにする。 1週間先のデートでも、休暇でも、楽しみな予定を考えてみる。 ②意識して人に親切にする。 ある研究者によると、1週間の中で、1日だけ、5つの親切な行為を行うと その人の幸福度は、非常に高まるとの研究もある。 ③ポジティブな感情が生じやすい環境をつくる。 先程のgoogleなどの職場環境の有効性と共に、ネガティブな感情を 起こさせない環境作りも考えるべきである。 ④運動する ⑤お金を使う モノを買う行為では無く、経験を買うという意識に変える。自身の知識や スキルアップへの投資である。 ⑥固有の強みを発揮する 24の性格的な強みからその人が持つ固有の強み上位5つを見つける 総合的な調査方法がある。これにより、自身の強みをキチンと 認識し、行動する。 ⑦瞑想する 5分間の瞑想により、人はより安らかで満ち足りた気分となり、 知覚と共感が高まる。先ほどのマインドフルネスのエクササイズに使われる やり方が参考となる。 社会は変わりつつある、価値も変わる、人とのゆるやかなつながりや安心感など、 貨幣的価値に還元できないものが重要となり、これまでとは異なるライフスタイル、 価値観、仕事、帰属意識が生み出されつつある。都市と農村のフラット化、新たな スタイルの自営業、進化する都市のものづくり、地場産業、地域経営、などの視点 から現在の「ローカル志向」を解き明かすために、地域をベースにして、消費、 産業から個人と社会の方向性について考えた本である。 御朱印 http://intojapanwaraku.com/2161 http://intojapanwaraku.com/2115 積み上げたレンガに瓦をのせた風変わりな塀が路地を分け、木造瓦葺きの伝統建築が軒 を並べる。 深緑のゆるやかな山に囲まれた陶工の町、佐賀県の有田町(ありたちょう)は、 北に港をようする伊万里、南に温泉や茶どころで知られる嬉野(うれしの)、西側に 長崎の佐世保(させぼ)という、佐賀県西端の山あいにあります。 そんな小さな町で、江戸時代の初期に日本初の磁器が生まれ、やがてそれは海を渡り、 東南アジアやヨーロッパで絶賛されたのです。 有田に磁器づくりが根付く発端は、豊臣秀吉の朝鮮出兵。大陸や半島のやきものの技術 を、 朝鮮から陶工たちを連れて帰国するという形で輸入しました。そのうちのひとり、李参 平 (りさんぺい)という朝鮮陶工が掘り当てた良質の磁石(こせき、磁器の素材、陶石と もいう) が有田の泉山(いずみやま)。李参平がここに窯(かま)開いたのが元和(げんな) 2年(1616年)のこと。これが日本で初めて磁器が焼かれた年とされ、有田は国産磁器 発祥の地となりました。 もともとこの辺りでは陶器の生産が行われていたこともあり、磁器づくりは有田に定着 していきますが、1630年代になると佐賀藩はここを磁器の町と定め、統制を強化します 。 陶器の窯元は他地域に移し、磁器の陶工を家族ごと有田東部の谷間に住まわせ、外部と の行き来を厳しく管理。技術や陶工の流出を防いだのです。 その磁器陶工を集めた内山(うちやま)地区の高台には、李参平を祀る『陶山(すえや ま) 神社』と李氏の碑が。石段を登ってみると、町が一望できる絶景ポイントです。 山々に囲まれた盆地をびっしり埋めているのは、瓦屋根と箱型の建物。表通りには木造 2階建て の窯元の店舗や商社、住宅が並び、その裏に工場が控えるという統一された町並みが、 美しい景観をつくっているのです。広告看板がいっさいないというのも、この山あいの 景色をのどかなものにとどめている一因です。 原油安が多くの国の経済を破綻させようとしている。 サウジは年で10兆円ほどの赤字、ベネズエラは国の存続さえ怪しいという。 現在の先物価格は1バレル26ドル台、これが60ドル前後でないと 採算が取れないという。 世界経済の低迷があるが、その実需に合わせた行動がとられていない。 OPECは減産の動きがシェールガスの増産やイラン、ロシアの増産で 奪われると思っている。 アメリカはシェールガスの増産を進めてきたが、これも50から60ドルでないと 赤字採算となり、すでに中規模の会社含め40社以上が倒産した。 ブラタモリの首里城 首里城は第2次大戦でほとんど破壊され、今の城は1989年からの復元作業 のおかげである。 首里城はもともと130メートルほどの高台の町であり、琉球石灰岩という 泥岩の上にある。ここは那覇港がよく見え、その出入りが監視できたとされる。 しかし、このような高台でも湧水が豊富に出る。これは雨が石灰岩を通り、泥岩の 上にたまるため豊富な地下水として、この周辺に水を提供できた。 城のすぐ横には、御嶽うたきと呼ばれる神聖な池があり、年中きれいな水を 湧き出させている。首里城周辺にも多くの地下水の拠る井戸や湧水があり、 これが泡盛として昔から醸造されてきた。しかし、戦争で全滅し、今は70年 者が一番古いことになる。 ーーーーーーーー 彼は妻の眠る顔を見た。病院から雪に浄められて静かに戻ってきた遺体は、 慌ただしく片づけられた居間に横たえられた。彼女の希望は家族だけの 見送りであった。 「二人とも、家族葬にしよう」これがだいぶ前から二人の間で交わされていた。 まだ柩に入っていなかったから、眠っているとしか見えなかった。 白布を除くと、妻の仰向いて目を閉じた顔が現れる。 ここにある肉体はうつせみだ。すでに彼女の魂は琵琶湖の夜のとばりに消えて 行ったのだ。妻の顔はいつの時のそれよりもおだやかでゆったりとしていた。 「痛くなかったですか。苦しくなかったですか」 「いま、虚しくないですか。それとも安らっていますか」。 「冷たくて透明世界よ。真っ青な黄泉路のよう」 「その路を行けば、声が聞けますか」 彼は耳を傾け、彼女との語らいをしようとしたが、生きているときと同じように 一方的な会話の流れとなった。しかし、あの皮肉や悪態を二度と聞けないのがたまらな かった。 「俺より長く生きるはずだったのに」 死者の顔が微かに笑ったように見えた。横の庭に降る雪の光景が現実離れして現れ、そ こには チャトとグンの墓が半白の雪の埋もれていた。 この静けさの中に立つと昔、司馬遼太郎が日本人の心の原点は坂東武士の 「名こそ惜しけれ」にあるといった、言葉が思い出された。それは和辻さんの 著作の中にも、述べられていた。 大場と北条市の武士の忠義に関しての口論の紹介で、 「しかるに北条はこれを反駁していった。 欲は身を失うと言えり。まさなき大場が詞哉。 一旦の恩に耽りて重代の主を捨てんとや。 弓矢取身は言ば一つもたやすからず。 生ても死ても名こそ惜けれ。 この北条の言葉に、敵も味方も「道理」を認めて、一度にどっと笑ったという。 討論は大場の負けになったのである。もとよりこの描写は作者の責任に属する ものであって、歴史的な真偽は保障の限りでないが、しかし少なくとも 作者にとっては、恩を領地の給与と同視することは、単なる「欲」に 過ぎなかった。当時の武士たちの常識は、かかる考え方を恥ずべきものとした。 重代の主君は、領地の給与という如き「一旦の恩」を超えて献身を要求しうる 権威なのである。そうなると、主君の恩はその実質を離れても存続する ものになる。主従関係は領地関係を離れても存続しうる。恩賞は主君の 家人に対する「情」の表現であって、家人の献身的奉仕に対する代償なのではない。 恩賞を与えることのできなくなった主君でも、家人を「たのむ」という信頼の 態度においてその情を持ち続けた。この情に対応するのが家人の献身の情 であった。だから献身の情は「欲」を離れている。主君のための自己放擲が、 それ自身において貴いと感ぜられたのである。 以上の如くわれわれは、「武士の習」の核心が無我の実現にあることを 主張する。無我の実現であったからこそ、武士たちは、そこに「永代の面目」 という如き深い価値観を持つことが出来たのである。 武士たちはみづからの生活の中からこの自覚に達したのであった。 武士の習の中核が無我の実現に存するとすれば、武士に期待される行為の 仕方が一般に自己放擲の精神によって貫かれていることは当然であろう。 この精神に仏教との結びつきによって一層強められたと思われる。 「武士というものは僧などの仏の戒を守るなる如くに有るが本にて有べき也」 という頼朝の言葉は、端的にこの事態を言い表している。、、、、、 してみれば武士たちは、その主君に忠実でありさえすれば他の所行はいかに 乱暴でもよい、というわけではなかった。自己放擲の覚悟が常住坐臥に現れて いなくてはならなかった。武士の行為の仕方として、武勇、信義、礼節、 廉恥、質素、などが重んじられて来たのは、その故であろう。、、、 武士の習は、武士階級が政権を握るにしたがって、法的にも表現せられている。 御成敗式目あるいは貞永式目がそれである。 もっともこの式目は、武士の主従関係そのものを法的に表現したものではない。 主従関係はもともと情誼社会的な関係として成立したものであって、法律的 関係ではなかった。式目は第一に、幕府がその家人を統制し、武士の間の 秩序を保つために、最小限度の違法行為とその刑罰を規定しているのであって、 家人の行為の仕方を全般的に規定しているのではない。第二にそれは「御成敗」 の式目という名が示しているように、裁判の規準を与えた法典である。 制定の目的は裁判の公平を期するにあった」。 「名こそ惜しけれ」、昭和の時代まではまだ生きていた心根であろう。 しかし、この旅を通じて、様々な人との出会いで、平成のこの時でも、まだ 生きている、そんな思いが暗みゆく中で感じられた。 彼は、暗闇の中、一人浜辺に立っていた。 深夜の浜には人影ひとつなかったが、浜に寄せられた船が砂に落としている 黒い影は、あたりが眩いだけに頼もしく思われた。船の上は月を浴びて、 船板も白骨のような白さを保ち幾筋かの網痕を残している。そこへ手を さしのべると、手が月光に透くかのようだ。海風の涼しさに、気付けば横に 若い女性がいた。顔は判然としない。二人はすぐに船蔭で肌を合わせた。 彼女の服の輝くばかりの白さがその暗闇の中にうごめいている。 女は、すこしも早くその白を脱ぎ捨てて闇に身を任したい望んでいるようでもある。 誰も見ていないはずなのに、海に千々に乱れる月影は幾百の目のようだった。 彼は黒天にかかる雲を眺め、その雲の端に危なげにまたたいている星を眺めた。 俺は交わっていると、遠い意識の中で思った。彼の小さな固い乳首が、女の乳首に 触れて、なぶりあい、ついには自分の乳首が、その豊満な乳房の中へ押し つぶされるのを感じた。 それには唇の触れ合いよりももっと愛しい、何か自分が養っている小動物の 戯れの触れ合いのような、一歩退いた意識があった。肉体の紡ぎ合い、 肉体の端で起こっているその思いもかけない感覚は、目を閉じている彼に、 雲の外れにかかっている星のきらめきを思いださせた。そこからあの深い 海底に引き込まれるような喜びまでは、一気だった。 2人はただひたすら闇に溶け入ろうとしている。 しかし、その闇は突然消え、彼らは強烈な日差しの中にその裸体を晒していた。 先ほどまでの船は消え、岩山の影すらなく、白く続く砂浜のみが彼らを 受け止めている。 そして、一陣の熱情が彼を吹き抜けていく。 ふと、先ほどの船はどうした、そんな思いが浮かび、船が陸にあることは 現実ではなく、そのかなり老いた大ぶりの船が、砂の上を音もなく滑り出して、 海へ逃れた。俺を置き忘れた、そんな危惧を抱いた。自分が海にならなくては ならない。重い充溢のなかで海になった。女は消えていた。 波一つ立たないその汀から急速に深まる海底は見えず、黒く澱んで、 煌めく金箔が剥がれて散らばったような月影の散光のように見える 永遠の夜の海になった。 朝目覚めたとき、彼は、久しぶりに自身の体に生気があることを感じた。 金比羅神社への道 すでに人家は途絶え、先ほどまで後ろに光り輝いていた湖の姿も消えた。 道は舗装から砂利道へと突然変わり、まるで俗世と来世はここだ、と宣言 している様でもある。まるで来世の自分を見せるかのように暗い杉の森が 目の前に広がっていく。歩を更に進めれば、杉の木立ちが天空の蒼さを被い 隠すように続き、見下ろすように立ち並んでいた。細い砂利道が真っ直ぐに 伸び、薄暗がりに消えていく。光明の如き薄い光がその先で揺れている。 わずかな空気の流れが私の頬をかすめていくが、聞こえるのは砂利道を 踏みしめ歩く我々の足音のみ、静寂が周囲を押し包んでいた。 はらりと何かの葉が足下に落ちてきた。さわりと、その音さえ聞こえて来た。 やがて二つに道がわかれ、苔の薄緑に覆われた石碑には、「金比羅神社」とある。 上りの勾配がきつくなり、砂利道を歩く音に合わすかのように夫々の息づかい が聞こえ始まる。 今から200年ほど前に農家の老婦が柴刈をしていると金毘羅さんの御神符が ひらりと落ちてきてこの地に祀って欲しいとのお告げがあり、村人はこの景勝の 場所に祀った。 道が切り取られたような崖の間を抜け、右手の山へと続いている。 歩けるように整備された細い道が山の端に沿って、上に向って伸びている。 ちょっときついな、と心なしか不安を覚える。上っては下り、下りを暫らく 感じると直ぐに上る。そんなことが暫らく続くが、案内人は黙々と 歩き続ける。小さな水の流れを渡り、また小さなきざはしとなっている山道を 上がる。膝とその周りの肉がそろそろ悲鳴をあげ始まった時、突然、 森が切れ、視界が広がる。 そこは縦横二百メートルほどの広さを持ち森の重さがすっぽり抜けた ように蒼い空の下に小さな草花を咲かせていた。 勾配のきつい山肌に石垣が組まれ、小さな神社が下からも見られた。 金比羅神社が湖を見下ろすかのように鎮座している。 江戸時代、湊も活気があり、漁師や船頭が海の守り神として信仰し、 毎月の例祭に加え、百年祭、百五十年祭も行われていた。大祭の日には猿の 飾りをつるした大きな幟が立てられた。三月の大祭には、地元の人が お神酒や御餅をもって参詣したという。今はひっそりとその影を強く光る 石の中に落としている。気が付けば、彼の立っている木の枝にはすでに その形も判然としなくなった猿の人形がわずかに流れる空気の中に ゆるりと動いた。神社は思いのほか大きくそこからは碧く澄んだ湖の 佇まいがよく見える。色づき始めた木々の画枠の中に沖島や遠くかすむ 三上山の円錐の形が光に映える水面の後背にして具象的な1つの風景画 をなしている。風が一陣、ほおを撫ぜ過ぎ去っていく。 鷲か鷹か判然としないが、蒼き天空を2羽の鳥が旋回している。 彼らから見たら、我々はどう見えているのだろう、とふと思う。 彼らから見れば、単なる石垣と広場と思われる場所に数人ほどの人間が うごめいている。更には、遠く彼らの親たちは数百人の人間が天に念仏を 唱えながら日々暮らす姿を見てきたのであろう。滑稽なりと思ったか。 苦行は更に続いた。先ずは、先ほどと同じ様な道を南に上っては下り、更に上る。 小さなせせらぎを渡り、同じ様な山道を踏み外さないように慎重に上り、 また下り、上る。和邇は、今日はこれで何回上がったり下がったりしたのか、 そんな考えを巡らしながら眼の前にある細い道を上がっていく。 最後の一踏みを終えると眼の先には大きな池が桜の木に囲まれ、色づき 始めた山の端を後背にして、鎮座している。 池辺の大きな杉の強い緑の影が水面に伸びている。風一つなくて、 水すましの描く波紋ばかりの青黄いろい沼の一角に、枯れた松が 横倒しになって、橋のように懸っているのが見え、その朽木を癒すかのように 二筋の水が黒く繁った羊歯の間から滴り落ちていた。その朽木の周辺から 円い円を描きさざなみがこまやかに光っている。そのさざなみが、映った空 の鈍い青を掻き乱している。朽木は万目の緑の中に、全身赤錆いろに 変わりながら、立っていた頃の姿をそのままにとどめて横たわっている。 疑いようもなく松であり続けているかのように、そこにいた。 彼は、草草のきれた合間からさらに数歩池に近づいた。池の対岸の青さびた 檜林が、こちら側へも広がって来ていて、さらにその影が多くしていた。 どこかから緩やかな調子で水音が聞こえてくる。 羊歯を濡らすかのように幾すじもの水糸が、光に反射するように池辺へと 落ちている。 陽はすでに中天から外れ、徐々に秋の寒さを周囲に撒き散らし始めている。 背中に滲み出している汗が徐々に消えていく。 和邇は思う。すでに心は家路へと急いでいた。 水に育まれた、栗原水分神社と棚田 艶やかに日に照る柿は、一つ一つの小枝にみのり、いくつかのそれに 漆のような影を宿していた。ある一枝には、その赤い粒が密集して、 それが花とちがって、夥しく空へ撒き散ったかの柿の実は、そのまま 堅固に張り付かくように端然とした静けさを保った空へ嵌め込まれていた。 野辺の草葉はその碧さを失い、大根畑やそれを囲むかのような竹藪の青さ ばかりが目立った。大根畑のひしめく緑の葉は、日を透かした影を重ねていた。 やがて左側に沼を隔てる石垣の一連が始まったが、赤い実をつけた葛がからまる 垣の上から、小さな泉の澱みが見られた。ここをすぎると、道はたちまち暗み、 立ち並ぶ老杉のかげへ入った。さしも広く照っていた日光も、下草の笹に こぼれるばかりで、そのうちの一本秀でた笹だけが輝いていた。 秋の冷気が体に寄せてきた。 身の丈ほどの石垣に色づいている数本の紅葉が、敢えて艶やかとは言いかねるが、 周りのややかすれた木々の黒ずんだ木肌と合わせ、彼にはひどく印象に残る 朱色のように見えた。 紅葉のうしろのかぼそい松や杉は空をおおうに足らず、木の間になおひろやかな 空の背光を受けた紅葉は、さしのべた枝の群れを朝焼けの雲のように たなびかせていた。 枝の下からふりあおぐ空は、黒ずんだ繊細なもみじ葉が、次か次へと葉端を接して、 あたかもレースを透かして仰ぐ空のようだった。 左へ折れて、小さなせせらぎを横目で見ながらゆっくりと登る。幾段にも続く道 がつづら折りのように上へ上へと延びていた。川面には枯草がその縁を伝うように 両脇を薄茶色で彩っている。小さな堰堤がその流れを遮るように青草が縞模様に 映える壁となっていた。そこから丘陵への道がひっそりと姿を現した。 その丘陵の端には、一本の蜜柑の木が寒々した空に身をゆだね、立っている。 春に来たときは、その枝枝に白い蕾をつけ周辺の緑の若草に映えて天に 伸びきっていた。 今は冬の寒さに耐えるため、厚い木肌に覆われたその気の横に立つと、遠く 琵琶湖の白く光る姿が見えた。何十にも続く小さく区切られた田圃が琵琶湖に向かって 駆け下りている。すでに今年の役割を終えた水田は黒々とした地肌を見せ、 中天の光りの中で来る冬の寒さに備えるかのように身を固くしている。 しかし、彼の眼には一か月ほど前の金色に光る稲穂のさざめきの光景が見えていた。 何十年、何百年とこの地で住いしてきた人々の変わらぬ世界でもあった。 丘を下り、幾重にも重なるように立ち並ぶ栗原の集落を抜けると、その小高い 場所に水分(みくまり)神社があった。古老の話では、 「御祭神は、天水分神アメノミクマリノカミという。 当社は康元元年の創祀と伝えられ、元八大龍王社と称して、和邇荘全域の祈雨場 であった。応永三十五年畑庄司藤原友章が栗原村を領した際采地の内より若干の 神地を寄進した。元禄五年社殿改造の記録がある。尚和邇荘全体の祈雨場であった のが、後に和邇荘を三つに分けて、三交代で祭典を行い、更に後世栗原村のみの 氏神となって現在に及んでいる。また当社には古くから村座として十人衆があり、 その下に一年神主が居て祭典、宮司が司る。この為古神事が名称もそのままに 残っている。その主なものは、神事始祭(一月十日)日仰祭(三月六日) 菖蒲祭(六月五日)権現祭(七月二十日)八朔祭(九月一日)等があり、 御田植え祭が6月10日にある。八朔祭には若衆による武者行列があったが、 今はやっていない」という。 広く長い参道の中間点あたりの勧請木に青竹を渡し勧請縄が掛けられている。 何本有るのかもわからない程多くの子縄が垂れ下がりそれぞれに御幣と シキミの小枝がつけられている。ちょっと不可思議な光景でもある。 しかし、雨乞い、田植え祭りなど水に育まれた集落である。 なお、栗原には道路を挟んだ対面にもう一つ棚田がある。それは昔、何気なく 竹藪の流れに身を任せるかのように分け入った先に突然現れた。道を 一気に駆け下り、さざめく小川のほとりから上を見上げた時のあの風景は 中々に忘れ難い。丘に張り付き隠れるように幾重にも水路が走り、それが 細長く仕切られた水田に小さな水の流れを起こしていた。さらにその先には、 緑深く敷き詰めた比良の山端がその丘を懐に抱くように、迫っていた。 心が癒される一刻の鎮まりと絵画のごとき風景がそこにあった。 何処までも続くような平坦な広野、見渡す限りの広さだ。その中を一定のリズムを 保ちながら電車は北へと向かっている。硬い四人すわりの椅子がその揺れに合わせて 背中から腰へと微妙な圧迫感を与えている。 今彼は、東北線の電車の中だ。この風景は何処まで続くの、隣の男が誰に言うでもなく つぶやいた。仕事で時折この電車でお客と栃木にある工場へ向かったことを思い出す。 また、彼にとって、この地は父に連れられて三年間過ごした場所でもあった。 関西の人間にとって、一時間乗っても、山並みがまったく現れない景色は想像できない のだ。 遠くに霞むように筑波の山が見え隠れするが、それがそのままの大きさで眼前に 見えている。冬のこの関東の平野は寂しい。稲架はぎの残る刈田にも、桑畑の枯れた 桑の枝にも、またその間の目に滲む緑を敷いた冬菜畑にも、沼の赤みを帯びた刈れ葦や 蒲の穂にも、粉雪は音もなく降っていたが、積もるほどではなかった。 そして、車窓にかかる雪は、目に見えるほどの水滴も結ばないで消えた。 空が水のように白んでくると思うと、そこから希薄な日がさしてきた。 雪はその日ざしの中で、ますます軽く、灰のように漂った。 いたるところに、枯れた芒が微風にそよいでいた。弱日を受けてそのしなだれた 穂の和毛にこげが弱く光った。野の果ての防風林は霞んでいたが、却って空の遠くに 一箇所澄んだ青があって、そこに空の池が出来ていた。 それは実にしんとした情景だった。電車の動揺と重い瞼とが、その景色を歪ませ、 攪拌しているかもしれないけれど、彼は、こんな鋭敏な光景は久しぶりのような気がし た。 しかもそこには人の影は1つもなかった。また少し空が拓けて、薄日の中に雪が 舞っていたが、田んぼのあぜ道の傍らの藪の中から数羽の雀が飛び立った。 古びた駅舎の横にある松並木に混じる桜の冬木には青苔が生え、藪に混じる白梅の 一本が花をつけていた。
2016年10月7日金曜日
日々の記録26(幸せの共通点、原油安
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