古文書テキスト ttps://sites.google.com/site/harano2011/mu-ci/kubunshosite http://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/contents/history/kuzushi.html http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/0703kaidoku.htm http://www.pref.hokkaido.lg.jp/sm/mnj/d/jishuupuroguramu.htm 崩し字検索 http://r-jiten.nabunken.go.jp/kensaku.php 永平寺の生活を見た。 道元が創建した曹洞宗の本山であり、禅宗のメッカである。 それぞれの建物は急峻な傾斜を持つ禅宗様式でできている。山門は、最古の建物として 、 枡組という特殊な骨組みで支えられている。しかし、この建物を 守る宮大工は高齢化もあり、70人いたのが、現在は4人となった。 周囲は杉の木立が林立するが、建物に適した五代杉が少なくなり、 その育成が必要となってきている。 道元は、起きてから寝るまで、すべてが修行との考えから日常の行いを 細かく決めてその作法を徹底した。 朝の掃除から食事の作法まで決めており、食事では典座教訓という 者がある。材料はすべて使い切り、米1粒も残さない作法が要求される。 年末4日間は托鉢をすることが決まっており、笠と黒河童に素足に草履 といういでたちで福井やその周辺の托鉢をする。最後は、道元がお世話 になったという多福庵で、全員が読経をあげ、檀家の人たちと語らう。 この寺を支援する梅花講は、正月や二月一五日の涅槃団子作りに協力する。 ブラタモリ 熊本は水の街 阿蘇山の火砕流が多く流れた結果、4層にわたる第1から第4水層まである。 このため、第1帯水層のある水前寺成趣園の池は湧水であふれ、近くの川 では川の横からかなりの量の湧水が湧き出ている。 県内では1000か所以上の湧水があるとされ、さらに第2帯水層は第1よりも かなり古いため、健軍水源と呼ばれる施設では、自噴する井戸がある。 そのような井戸が多くあり、その1つの井戸でさえ、10万人クラスの住民 の水供給が出来るほどとのこと。 熊本城は加藤清正が建てた城であるが、清正は治水事業に大きな力を発揮した。 例えば、城の前を蛇行して流れていた白川を直線に作り替え、内堀の役目を させた。そのため、内堀と白川である外堀の間が平地となり、街として 大きく広がった。さらには、鼻繰りと呼ばれる農業用の水路を作った。 この水路の特徴は鼻繰りという水路に何十もの小さな関を作ることで、 渦をお越し火山灰として流れてくる堆積物を水底に堆積させないような 工夫もした。 67)しらがき物語(水上勉) 信楽街を舞台とする陶工と師匠、その弟子たちをめぐる人間の業を描いている。 「風景から小説が生まれる」と水上は言うが、その書き出しも信楽の地形や 風景の説明から始まる。 「笹ヶ岳の山からのぼった弦月は、ずい分足が早い。月光はしも道から大川に 至る桑畑の上を海のように照らしている。、、一段高くなった山麓の丘に、 三玄院の傘を広げたような甍が光って見えた。」 信楽の飾り気のない良さは、農民の種壷や茶壷として、煮物の入れ物として 生まれた生活の道具が原点である。 人は一生に一度や二度は必ず焼き物に心を奪われる時があるという。 それが、本当であるなら、土に戻って行く人間はつまり、土から生まれ、 土の上で育って行くものだという証でもある。だから、土から生まれる 焼き物は同胞といえるかもしれない。その土に生命を吹き込む技が 陶芸なのであろう。 http://kaidofutaritabi.web.fc2.com/mitisirube.html 東海道道標 『猫踏んじゃった俳句』(村松友視)に猫をテーマした楸邨(しゅうそん)句集がある と紹介されていたので、図書館で借りた。 タイトルは、『猫』。もちろんぜ~んぶ猫。 くすぐったいぞ円空仏に子猫の手 恋猫となりしわが猫負けつづけ 猫に名をあたへて我はしぐれをり 猫の恋声まねをれば切なくなる 猫が嗅ぐ寝がへる鼻の春寒を 満月やたたかふ猫はのびあがり などなど、あの楸邨サマが猫目線に下りて来られている。 恋猫の声真似なんぞなさったなんて、とても意外。でも、とても愛ほしひ楸邨サマ。 冷気を感じる人間の器官は、鼻か?耳か?と私は悩んだことがある。そして、猫の鼻っ て、いつも湿っていて冷たい。その鼻と鼻の触れ合ったところに「春寒」と来たら、ん ~納得。 猫過ぎて夜寒の谷の底が見ゆ 死ににゆく猫に真青の薄原 など寂寥の猫の句もあったけれども、ぶち切られる鮟鱇のような、冷静な(冷酷な?) 視線とは、やっぱり違ふ。ぎりぎりまで猫を追い詰めていないと思ふ。 また、『四十番地の猫』という小文も収録されているが、こちらの方が容赦ない観察眼 だと思ふ。 「親の乳を探すときの、生きものの最も切ない声」「私を發ね返すような煌煌たる目付 」 に、むかむか腹を立てておられる。 だが、たとえ容赦ない観察眼とは言えど、猫嫌いの秋櫻子センセ―とは、 じぇんじぇん違うと思ふ。猫という生き物と自分との対峙があるのだ。 どこか心惹かれているのが見える。 他代表作 寒雷やびりりびりりと真夜の玻璃(『寒雷』) 鰯雲人に告ぐべきことならず(同) 蟇(ひきがへる)誰かものいへ声かぎり(『台風眼』) 隠岐やいま木の芽をかこむ怒涛かな(『雪後の天』) 火の奥に牡丹崩るるさまを見つ(『火の記憶』) 雉の眸(め)のかうかうとして売られけり(『野哭』) 鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる(『起伏』) 木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ(同) 現代俳句コラム 百代の過客しんがりに猫の子も加藤楸邨 「百代の過客」は言うまでもなく芭蕉の「おくの細道」の冒頭の「月日は百代の過客 」から得たもの。 そのしんがりに作者の腕に眠る猫の子を配し、自己と生きとし生きるものへの思いを 伝える。やさしさに満ちた作者の眼差しを感じる。 大岡信編の遺句集『望岳』と楸邨門下の和知喜八の句集『父の花火』の季語の使用頻 度を調べて比較し、詩質の違いを指摘したことがあった。 結果は楸邨の作品には虫や小動物を対象にした作品が多く、喜八は柿、石榴、柚子等 の植物季語を多く使用していることが判った。 従って、楸邨は動物質、喜八は植物質の作家と思った。 喜八には「猫」を対象とした作品は皆無だが、楸邨は集中、十数句も残している。 晩年、最も近くにいた動物は「猫」であったのだろう。 猫を膝に置く楸邨を思い描くと、微笑ましい。 楸邨の「猫」の句の中でも、冒頭の句は、時空を越えた秀品と言ってよいのだろう。 詩質の違いはともかく、人間探究派、楸邨・喜八の共通の底流にあるものはヒューマ ニズムであった。 道標 白山神社 「白山権現」文字塔 http://homepage2.nifty.com/hatazoku2/ma_ba83.htm 増林83 道標付き「白山権現」文字塔(『越谷市金石資料集』白山1番) 所在地 大字増林・白山神社そばの県道路傍 石塔型式 頭部山状角型型(北東向き・高さは中) 年号 明和八年(1771)カ [左側面] [ ] 辛 正月吉日 卯 [正面] 増林村 白山大権現 下組 [右側面] 是より内ごんげん道 鎌倉の白山神社の道標 山中の庚申塔は見つかりませんでしたが、気を取り直して近くの白山神社へ。 道しるべ 参道脇に庚申塔群があります。 道しるべ 手前から、 舟形の文字庚申塔で寛文12年の建立です。 頂部に梵字が三つ、キリーク・サク・サでしょうか。 道しるべ 聖観音像を挟んで、寛政4年建立の文字庚申塔です。 ちょっとわかりにくいですが、下に三猿も彫られています。 道しるべ 隣は、文字堅牢地神塔で文政6年の建立。 道しるべ かろうじて「猿田彦大神」の文字が読めますので、これは文字庚申塔。 当日確認できなかったのですが、明治元年の建立だそうです。 それにしては、表面の劣化が激しいですね。 道しるべ あとは文字馬頭観音が二基。 嘉永3年と駒型は天保6年と読める気がしますが、ちょっと自信はないです。 道しるべ 道しるべ 拝殿前の階段脇の紫陽花がきれいです。 正面には大きなしめ縄が掛かっていますが、ここに住む守護神の大むかでを表している そうです。 道しるべ 拝殿です。 祭神は菊理姫之命(きくりひめのみこと)で、源頼朝の創建とも云われる今泉の鎮守で す。 道しるべ三宅 記念物(史跡) / 若狭町 / 【構成文化財】鯖街道 (若狭街道)極楽寺近く 三宅の信主(しんしゅ)神社前の路傍にある高さ1m位の自然石に、 すく ちくふ島 右村中 左吉田 文久戌八(1868) と刻まれています。これは横井筆丸の書と伝えられており、以前は若狭街道と吉田を 通って三方(みかた)へと通じる分岐点として交通の要地であったことを物語るもので す。 横井筆丸は、京極氏が若狭藩主から出雲へ転封の後も若狭の郷士として帰農したと伝 えられる横井惣右衛門家の出身で、書画にも秀で和学に長じ俳人としても著名の人とい われています。 五木寛之の百寺巡礼 室生寺女人高野と呼ばれて、女性参拝OK。七百段の鎧阪とよばる坂(その造りは 荒々しく原石の名残をもっている)を上がり、小さく優美な五重の塔を見る。 ここには、一一面観音が安置してある。 梅林寺 福岡にある禅寺。 修行僧が雲水をし、雪の中を歩く黒装束の絵が素晴らしい。 鳥取の三仏寺、山肌に造られた投入堂は標高五百メートルほどのところにあり、 険しい道を行く。千年前平安時代に創建されたという。 六根清浄(五感+心)を念じて上る。 奈良秋篠寺 苔庭が素晴らしい。本堂は寄棟造りで瓦葺が鎌倉時代の面影を残す。 技芸天がいるのは、ここだけ。 奈良明日香村の飛鳥寺 六世紀にできた寺として初めて建立された。 一四世紀には、飛鳥大仏、釈迦如来像、が出来たが、その顔はどこかエジプトの神の 顔に似た独特の表情と鋭さを持っている。 大分羅漢寺 青野洞門として有名。矢部渓谷の急峻な崖をトンネルや道を手作業で作った といわれる。 ここにある五百羅漢は、中国や朝鮮からも僧が訪れたという。 大分筑後川沿いには、岳の湯という三十世帯ほどの集落があるが、すべて 湧き出るお湯で生活を賄っている。お風呂も食物の蒸すのも、共同浴もあり、 あちらこちらから湯気が立ち上るさまは素晴らしい。 少し日田によったところには、杖立温泉というこじんまりした温泉地がある。 昔は、優れた杉の木が多くとれたため、筑後川を使って日田まで運び、 日田は大いに栄えたという。今でもその名残の建物がある。 --------- 彼女たちとは、初めて京都駅で会った。夜行列車の微睡の中で、女性たちと京都を 廻れるという友の話は、彼に静かな高まりを覚えさせていた。浅い眠りの 中でゆらゆらと走る列車のその緩慢な動きは、普段は窮屈な夜行寝台の 狭さを心地よいものに変えたが、早まる心は抑えようがなく、その時間の 長さを恨んだ。 すでにホームは朝の光の中で、動き始めていた。降り立ったホームには すでに多くの人が左右に慌ただしく動き、5月の柔らかな空気がその動きを 見守るように立ち込めている。二人はその寝ぼけた顔を近くの水洗い場で洗い、 身支度を整えた。 まだそのころは、何処にでも、夜行で来た人のためのこのような設備があったが、 六、七年後にはその姿を消した。 しばらくして、二人の女性が現れた。ともに小柄な、一人は細面に鼻筋のとおった ややきつい風情、もう一人はふくよかな頬ににこやかな目鼻立ち、対照的な雰囲気を もっていた。友がどうして彼女らと知り合いなのか、聞いていたが、今は忘却の彼方。 彼にとってはどうでもよかった。 二人の話す関西弁、京言葉に、改めて京都にいることを感じた。 清水寺から高台寺、八坂神社と写真になりそうな場所を適当に案内された。 いつも男一人で黙々と写真を撮るだけの京都散策であったが、女性の華やぐ空気と その会話で、十分な写真が撮れた記憶はない。ふくよかな顔立ちの彼女とは、 写真についてよく話した。ややうつむき加減に話を聞きながら、長い黒髪を左手で 書き上げ、時に見上げる仕草で彼を見るその黒目に思わず目をそらした。 まだ当時は多く走っていた市電の中で、彼女と時たま目を合わす時のほのかな 甘い感情と彼女のはにかむような微笑みは、日ごろの図面と数字に追われる日々 とは大きく違うものであった。 京都には、二日ほどいた。友には、彼女と付き合うと宣言し、別れの日に 手紙のやり取りを約束した。 年末に京都に行ったこともある。朝降り立ち京都タワーを見上げていた時の 足もとから押し寄せるその寒さに京都の底冷えを痛感したこともあった。 やがて淡い感情が激動の気持ちとして抑えられなくなり、結婚を申し入れた。 付き合い始めてから一年後だった。 その道標は、映えた緑の叢の中からこちらを垣間見るようにひそやかにあった。 「熊川、、、」と読めるが、あとは欠けた石の中に埋没している。道なりに行くと 木造りの「熊川宿」とあった。道路を左にそれると、小山を光背に一本道が その山の麓まで続くかごとく江戸時代の宿場があった。やはり電柱の蜘蛛の巣の 世界がないのは、すがすがしい。まずは、そんな思いに駆られた。 この宿場は、室町時代に沼田氏が山城を築いた地にあり、天正十七年(1589年) に小浜城主浅野長政が近江と若狭を結ぶ鯖街道(若狭街道)の宿場町として 整備され、近江との国境近くであり、小浜と今津のほぼ中間点に位置し、 江戸時代を通して鯖街道随一の宿場町として繁栄したらしい。 しかし、近代以降は鉄道の開通やモータリゼーションの影響で旧街道は衰退し、 近年の戸数はピークである江戸時代中期の約半分になった。そのため当地域は 再開発されることなく古い町並みが残り、1996年に重要伝統的建造物群保存地区 として選定されたという。昔は多くの旅人が通ったであろう街道の横には前川という 川が流れ、さざめく音とともに川床には緑の草花が揺らめいている。 その流れに沿って瓦葺き、真壁造または塗籠造の古き時代を呼び起こす建物が、 目の前にある。鯖街道熊川宿資料館宿場館といわれる洋風建築でしばし街の流れを 眺める。熊川番所の人形たちがちんまりと座り、かわいらしい。 この旅を始めてまだわずかであるが、行きかう観光客ののんびりとした風情と にこやかな顔と緩やかな会話に、まだ馴染まぬ自分を感じていた。背を流れる 汗がまだ抱える自身の重しを流れ去ってくれれば、と思っていた。日に照りかえる 街道にこの建物の影が黒く一直線に横たわり、それが他の人との隔絶を 果たしているようでもある。 和邇は先を急ごうと立ち上がった。 久しぶりの汐の匂いと潮見の混じった風を感じた。 春だというが、今見る日本海は、わが心のように碧く重くその水面を見せていた。 黒く重たそうな水面が彼の足もとに押し寄せ、その波は砕け、水の澱のような あぶくを背後にすべらせつつ、深緑の塊だったものが、いっせいに白い不安な 乱れを内蔵しつつ、その白き背をさらに伸び上げ、ふくれあがらせてくる。 淡い春の匂いを消すか如く海がそこここで暴れている。 のび上がったものの、すでにその下では細かく砕けている低い波が力なく引いていく。 まだその力を残す波の腹は、一瞬に、悲鳴のような、めちゃくちゃな白い泡の かたまりをおびただしい気泡のようにあらわし、鋭く滑らかな、しかも亀裂 だらけの醒めきった硝子の壁になる。それが水の割れ目をみせ、頂点に達する とともに、その前縁が一斉に美しく梳かれて前へ垂れ下がり続ける。 さらにそれが垂れ下がると、整然と並んだ青黒いうなじとなり、こまかく梳かれた 白い筋となって、やがて蒼黒い海面へと消えていく。 そこには、敗色の泡の広がりと退去が繰り返される。足元の苔の深緑に覆われた 岸辺には、近くの同じ灰色の砂の上を、小さな虫が列をなして、その砂利の間を 退いていく白い泡沫とともに、一斉に波の間断にあわせ動き回る。 彼の眼先にある一枚の青い石板のような海水が、波打ち際へきて砕けるとき、 何という繊細な変身を見せることだろう。千々にみだれる細かい波頭と、こまごまと 分かれる白い飛沫は、苦し紛れにかくも多くの糸を吐く蚕のような姿を あらわしている。それは己の心だ、和邇は思った。 浜はさびしく、泳ぐひともなく、二三の釣り人を見るだけだ。右手の岩陰につり船 が一艘緩やかな上下運動を繰り返し、波にその身を任せていた。 久しぶりの日本海は、まだ覚めやらぬかのようにその深き碧さを残していた。 冬の黒き深い水面とはその姿を変えつつあるが、白光を放つ剃刀の刃のように滑り、 わが心の暗闇を切り裂くほどの力はない。 この百姓窯のことを聞くと、大昔何気なく読んだ「しらがき物語」を 思い出す。信楽街を舞台とする陶工と師匠、その弟子たちをめぐる人間 の業を描いているが、「風景から小説が生まれる」と水上は言い、 その書き出しも信楽の地形や風景の説明から始まる。 「笹ヶ岳の山からのぼった弦月は、ずい分足が早い。月光はしも道から大川に 至る桑畑の上を海のように照らしている。、、一段高くなった山麓の丘に、 三玄院の傘を広げたような甍が光って見えた。」 信楽の飾り気のない良さは、農民の種壷や茶壷として、煮物の入れ物として 生まれた生活の道具が原点である。この地もそのようだ。 さらには、「人は一生に一度や二度は必ず焼き物に心を奪われる時がある」 という。それが、本当であるなら、土に戻って行く人間はつまり、土から生まれ、 土の上で育って行くものだという証でもある。だから、土から生まれる 焼き物は同胞といえるかもしれない。その土に生命を吹き込む技が 陶芸なのであろう。陶器をやっていると、時にこのことを思い出すことがあった。 そして、私も有田であの焼き物に目を奪われた。 だが、不器用な私の造り出したものは、分厚く不均等な形のものが大半であった。 もっとも、それらに白い釉薬をかけ、上手くその白さを出せれば、志野の焼ものに なるかもしれない。白肌の中に褐色の模様がにじみ出ているその素朴で飾り気 のない、田舎娘のおぼこさを持ち、しかもやや厚い手ごたえは私の好きな 焼き物の一つでもある。 正法眼蔵より そして、 「生より死にうつると心うるは、これあやまり也。生は、ひと時のくらいにて、 すでにさきあり、のちあり。」 生と死は、分けて考えてはいけない。その事実を事実として徹底的に受け入れること。 先ほどの道元が詠んだ歌の境地でもある。 生きていると言うことは、死と比べて生きているといことではない。そこには、 絶対的な今しかない。 死を迎える心とは、 「生きたらばただこれ生、滅来たらばこれ滅にむかいてつかうべし。 いとうことなかれ、ねがことなかれ」 我々は、既に、生と死の中にいる。それであれば、いまさら、死や死後の成仏を願う こともない。生の中にいて、生以外のものを願うことはできないし、死の中にいて 死以外のこともありえない。 元々、生きている日々は、最後の死へ近づく日々でもある。 「健康、健康と騒ぎ立てる」が、要するに、生きていることが本人にとって、一番 悪いのかもしれない。 達するべき己の境地とは、 「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえに投げ入れて、仏のかたより おこなわれて、これにしたがいもていくとき、ちからももいれず、こころもついや さずして、生死をはなれ、仏となる。」 これは、正法眼蔵の、「生死の巻」にある、最大の真髄を言っている。 全部の自分を捨ててしまう時、本当の真相が露わになり、それが、人間を向こうから 明らかにしてくれる。だから、力んでしまうことはない。そのまま生死を離れ、 仏となることが出来る。大事なのは、ただわが身、その心をも、放ちそして 忘れること。 生死を分ける戦争のような狂気がない現在、この、「生死の巻」をキチンと理解 することの出来る人は少ない。私自身も言葉としての認識しか出来ない。 しかし、戦争時、これを真剣に、わが身で処した人々は、少なくないはずである。 昨年のような大きな病気になっても、わが身では、まだまだ、不十分。 健康な人が生死を意識しないのを、少し意識するようになったぐらいかもしれない。 正法眼蔵の、「生死の巻」 「この生死は、すなはち仏の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、 すなはち仏の御いのちをうしなはんとする也。 これにとどまりて生死に著すれば、これも仏の御いのちをうしなふなり。 …いとふことなく、したふことなき、このときはじめて仏のこころにいる。 ただし、心を以てはかることなかれ、ことばを以ていふことなかれ。 ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、 仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをも いれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。」 好きな銭湯に出かけたときによく思い出すのが、南こうせつの「神田川」だ。 20代半ばであったろう、あの歌詞はまさに昭和の時代を思い出させる。 「あなたはもう忘れたかしら 赤い手拭いマフラーにして 二人で行った横丁の風呂屋 一緒に出ようねって言ったのに いつも私が待たされた 洗い髪が芯まで冷えて 小さな石鹸カタカタ鳴った あなたは私の体を抱いて 冷たいねって言ったのよ 若かったあの頃 何も恐くなかった ただあなたのやさしさが 恐かった あなたはもう捨てたのかしら 二十四色のクレパス買って あなたが描いた私の似顔絵 うまく描いてねって言ったのに いつもちっとも似てないの 窓の下には神田川 三畳一間の小さな下宿 あなたは私の指先見つめ 悲しいかいって訊いたのよ」。 20代半ばは、ひたすらものづくりに幸せを感じていた。このような甘い 想いに浸ったことはなかった。 近代俳人の一人に加藤楸邨(しゅうそん)という人がいる。 彼には猫を題材の句が多い。彼自身は猫が好きではないというが、 その俳句は中々に猫の視点からのものであろう。 代表的なのが、 百代の過客しんがりに猫の子も 「百代の過客」は言うまでもなく芭蕉の「おくの細道」の冒頭の「月日は百代の 過客」から得たもの。そのしんがりに作者の腕に眠る猫の子を配し、自分 と生きとし生きるものへの思いを伝えている。そこに、やさしさに満ちた 作者の眼差しがある。 例えば、彼の句をわが猫たちに当てはめると、チャトには「満月やたたかふ猫はのびあ がり 」、 ライは「恋猫となりしわが猫負けつづけ」、ナナには「猫が嗅ぐ寝がへる鼻の春寒を」 、猫の 鼻って、いつも湿っていて冷たいが、その鼻と鼻の触れ合ったところに「春寒」と来た らん。 そしてレトは「猫過ぎて夜寒の谷の底が見ゆ」でやや寂寞感が漂う。最後に、 ハナコには「猫に名をあたへて我はしぐれをり」となろうか。 他にも、「くすぐったいぞ円空仏に子猫の手」「猫の恋声まねをれば切なくなる」 「死ににゆく猫に真青の薄原」など考えさせられる猫の句もあった。 最後の句は、チャトに捧げるのもよいようだが。 一枚の青い石板のような海水が、波打ち際へきて小さく砕けるとき、 その繊細な変身を見せる。千々にみだれる細かい波頭と、こまごまと分かれる 白い飛沫は、苦し紛れにかくも夥しい糸を吐く、蚕のような姿をあらわしている。 浜はさびしく、歩くひともなく、二三の釣り人を見るだけだ。平板な水面に横糸を 通すような縞が幾重にも重なりながら右から左へと薄く広がっている。 苔むした岸の石垣に、波が砕けるとき、水の澱のようなあぶくを背後に すべらせつつ、今までの深緑の累積だったものが、いっせいに変貌して、 白い不安な乱れに充ち、足元へと膨れ上がってくる。のび上がってくる波頭、 すでに裾の方ではや砕けている低い波が見られる一方、高い波の腹は、一瞬、 四方へと乱れる白い泡の斑とおびただしい気泡をつけた白き壁になる。 一方では、泡の広がりと退去、薄黒い砂の上を船虫のように列をなして、一斉に 海へと馳せかえっていくたくさんの小さな泡沫が見られる。 今、海は、一つの陶酔もなく、完全に醒めきった時間の中に寝そべっている。一片の 船さえいない。海は張りつめた薄い皮膚のごとく眼前ある。 何もない、ただ水音と無造作に置かれた石と松林まで伸びる白き砂の群れがあるのみ。 彼はそこにたたずむ。遠くには、薄く伸びる真綿のような雲が海面に覆いかぶさらり、 右から左へとゆっくりとした歩調で進んでいた。 ハコベ、タンポポがそれぞれの彩で咲いている小川を渡ろうとしたとき コンクリートで造られた小さな橋のたもとにその道標があった。 小浜へと所在なく進んでいく中での小さな出来事であった。 やや摩耗が進んでいるものの「巡礼みち」と読める。それはかって読んだ 本の中にあった。小さな驚きが彼に昔の記憶を甦えらせた。 「今津町保坂は近江と若狭を結ぶ九里半街道と京都と若狭を結ぶ 若狭街道の分岐点にあたる交通の要所であった。道標に刻まれている 行き先とその内容から見て、近江の道標を代表する一つであろう。 紀年銘が安永四年(1775)と比較的古い部類に入る道標には、 行き先を明確に示し、その史料的価値は高い。特に「巡礼みち」と 刻まれているのが注目される。 西国三十三所観音霊場第二十九番札所舞鶴市の松尾寺を詣でた巡礼たちは、 この道を通り次の札所竹生島宝厳寺を目指したのである。巡礼たちは九里半 街道を今津港あるいはその途中から木津港へ出た。それ故に巡礼みちの 名称が付けられたのであろう。近江には、六か所の西国三三所観音霊場があるが、 道標に巡礼みちと刻まれているのはこれを含めてあと二基だけである。 そのうえ道標には、道標の所在地「保坂村」と刻まれ、当時どこを通っている か不安な旅人にとっての、やさしい心遣いが現れている。 若狭街道は、小浜、能川、保坂、朽木、葛川坊村、途中、大原から京都へ入った」 とあった。今彼は、その鯖街道と呼ばれる道を小浜へと向かおうとしている。 道標は地図がまだ十分な精度を持っていない江戸時代では、旅人への 重要な案内者であった。 和邇の近くにも同様の参拝者への案内としての道標があった。 地元の八幡神社への小道を歩くと、三叉路のちょうど真ん中に頭上がやや欠けた 石の道標が出迎える。地元の古老の話では、 「古来白鬚神社への信仰は厚く、京都から遙か遠い神社まで数多くの 都人たちも参拝したという。その人たちを導くための道標が、街道の 随所に立てられたが、現在その存在が確認されているのは、七箇所 ほど(すべて大津市)。建てられた年代は天保七年で、どの道標も表に 「白鬚神社大明神」とその下に距離(土に埋まって見えないものが多い)、 左側面に「京都寿永講」の銘、右側面に建てられた「天保七年」が刻まれている。 二百数十年の歳月を経て、すでに散逸してしまったものもあろうが、 ここに残されている道標は、すべて地元の方の温かい真心によって今日まで 受け継がれてきたものだ」という。 昨日も北小松にその歩を進めているとき、その最後の道標が八幡神社の 参道の手前、和邇を見送るようなしぐさで佇んでいた。 歩くということは、こんな発見ももたらす。 人生と同じように旅でも人を誘う何かが必要なのだ。 車で行き交う昨今の人、その当然としての身体の速度は、その人の人生までも 変化させていくのでは、そんな思いが彼の心に浮かぶ。 彼が退院して近くを歩いた時の緩やかな時間の運びは彼にそれまでとは違う情景を 見せたが、行き慣れた情景でさえ彼に新たな世界を見せたのだ。 その違いに驚きをもった時のことを思い出させる。日々の中でも、何かを失っている、 そんな思いが彼を支配していた。改めてこの旅の面白さも味わえるかもしれない。 まだ慣れない足の運びを、その地面に落ちる影の運びを、流れ落ちる汗を背に 感じながらうつうつと考えた。 山道と舗装された道路の交差するところに山伏角形の姿をした道標が竹藪の 切れるところに建っていた。やや小ぶりの石塔には、正面に「増林村白山大権現」、 右には「是より内ごんげん道」とある。白山神社への案内であろう。 紅い南天がその横から白い石塔に映えるかのように小さな顔を出している。 白山への道は多くある。そして白山神社と称する神社も同じようにこの地方に 点在している。その道案内として、多くの道標もまたこのような姿で、参礼者 を迎えたのであろう。1つの石の塊ではであるが、これには多くの人の想いと 願いがつながっている、この俺もその人たちの1人だ。立ち止まるでもなく、 和邇はその道標を通り過ぎた。
2016年10月7日金曜日
日々の記録27(百寺巡礼
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