2016年10月9日日曜日

日々の記録14(自分史

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ノロの動きは速かった。いつも我が家で見せる平和的友好的な猫ではなく、
野良猫としての彼の生き様の一端を見せていた。既に、狩人の顔立ちとなり、
目を鋭く蛇のほうへ向けl低い姿勢から一気に飛び掛る。
彼は左手と右手を交互に蛇の頭を叩いている。猫と言うやつは、左利きも
右利きも区別がないようである。左手で叩くときも右手で叩く時も、蛇の
鎌首をもたげている頭上を正確に打った。蛇は打たれるたびに鎌首を下げていって、
その首を枯れ葉の上に置いた。するとノロは、片手を上げたまま前後左右を
見回した。よその猫か犬の来るのを警戒するためなのだろうか。きょろきょろ
と辺りを見回した。その隙に蛇がさっと彼に向って首を伸ばした。ノロは
慣れているのか、まだきょろきょろしながら、ちょっと手を引くだけでうまく
蛇の牙を避けた。蛇は鎌首を上げて、続けざまにノロの手を襲った。
しかしノロはちょっと手を引っ込めるだけである。蛇の体勢でどこまで頭が
伸びるかノロは正確に知っているに違いない。必要以上には避けない
で、蛇の口とほとんどすれすれの程度まで手を引っ込める。
この闘争は同じやり方で繰り返された。蛇は叩かれる度に首を垂れるが、
逃げようとはしない。彼は相手を叩くが、相手が首を垂れると落ち着き
なさそうに前後左右を見回している。いずれ猫は油断して噛み付かれる
かもしれない。私はそれが気になるので、鳶口を持って蛇の頭を抑えた。
その瞬間、猫が蛇の首に飛びついた。蛇は首のところから皮を鞘に
剥がれほとんど全身、赤身の裸になっていた。これが、一瞬の出来事であった。
私は猫に何の合図もしないで鳶口を使ったが、猫は前もって私と打ち合わせて
いたかのように振舞ったのである。電光石火と言う形容が当たっている。
蛇の剥げた皮は、裏返しの短い筒になって、その母体の赤肌の胴の末に
つながっていた。尻尾の細い先だけが河の筒尻からすこしのぞき、蛇の
舌のように震えていた。猫はそれを嬉しがって仰向けにひっくり返し、
後足で蛇の震える尻尾をからかった。蛇は頭の部分だけ皮を残した
無残な姿に変じ、かなり弱っていたが心底から腹を立てているようであった。
赤肌の鎌首をもたげて猫に噛み付こうとした。猫は遊びふざけている
脚を素早く引っ込めた。蛇は孤立無援ながら急に立ち直って、鎌首を
高く上げて猫の足を覗った。猫は起き上がって、前足で前後左右に蛇の
頭を叩いた。これが正攻法と思われる。もう辺りを見回す事は抜きにして
蛇が鎌首をもたげる力がなくなるまで叩きつけ、蛇の首に噛み付いた。
止めを刺すと言ったところだろう。





「妻の死、それは予想をはるかに超えたことであった。
和邇は、何かが崩れてばらばらになるのを感じた。部屋ががたんと
揺れたような気がした。階段を踏み外した時の気分だった。
手に持った電話機が重くなり、持ちきれなくなった。ゴトンといって、
それは落ちた。どこか遠くで、自分を呼ぶ声が聞こえる。その声から
離れたくて、リビングの大きなテーブルに歩くのだが、たった1メートル
ほど先にある椅子に近づけない。周りが全て暗闇となり、彼を進ませ
まいとする大きな力が立ちはだかっていた。


「男とは、家父長とは、男権とは、我が家には堂々たる玄関から入り、
洋風応接間で客を迎え、妻が静やかにお茶を差し出す。正月には座敷の
床柱を背に坐って家族や部下の挨拶を受け、ふと庭に目をやると池の
向こうに松ノ木が見える、それが昭和の男の居る風景だった。しかし、
今、このような情景を浮かぶものさえほとんど居ない。消えゆく
存在となった。これに代わり家の中でその存在を高めたのは、妻であり、
母であり、女権の空間であった。台所と居間はほぼ一体となり、家族団らんの
場であるはずの居間も夜遅く帰宅する男は、父は付属品の如き存在となる。
多くは母中心の場となっていった。庭も妻や母が好む小さな色とりどりの
草花が中心となり、松などは遠く昔に忘られた存在ともなった。座敷も
思い出されたように一部屋あればよいほうで、多くはフローリングと呼ばれる
板の間の部屋となり、当然床柱の言葉さえ死語に近くなっている。



「家を出て6日、家からおよそ60キロ、大分時間がかかっている。幸い
ここまでわずかな時間、雨に降られたが、ほとんどは、太陽との根競べ、
ズボンの腰周りはゆるくなり、額と鼻の皮膚が日に焼け赤く染まっている。
腕時計を見たが、その前から時間がわかっていた事に気がついた。
朝と晩、足の指と踵と土踏まずを入念に点検し、皮膚の破れたところや
すりむけたところを絆創膏と軟膏で手当てした。経口水は外で飲み、
雨が降った時にはビルの1階や公民館で雨宿りをした。
すでに春から夏への変化の時期、華やかな花びらの群れを見ることは
少なくなり、最初の忘れな草の群生がその陽射しの強さに励まされる様に
白く淡く輝いている。
そして、自分がもう半分ほど忘れてしまった世界のことを考えた。
家の中で、街中で、あるいは、車の中で、人々が日々の営みを
繰り広げる世界。日に三度の食事を取り、夜になったら、眠り、人と人との
付き合いのある世界のことを。日々の終りには、今日1日が安泰であったこと
を喜び、そんな人々の中、世間と言うつながりから抜け出せたことにも
満足していた。


「雨がやみ、それと同時に自然界に新たな成長の季節が訪れた。
木々や草花はいっせいに華やかな色彩とかおりをまき散らし、トチノキの
枝は小刻みに震えながら、円錐形の花キャンドルを支えていた。
白いヤマニンジンの花笠が道端をびっしりと覆っている。つるバラが
庭塀を這いあがり、深紅のシャクヤクがテッシュペパーのような花弁
開いている。りんごの木は花びらを振り落としはじめ、その後にビーズ
のような小さな実をのぞかせている。
朝の空は青一色、そこに櫛で梳いたような雲がたなびき、木立の向こうには、
いまなお細い月が消え残っている。けれど、広々と視界の開けた自然な中に
戻ったいま、彼はふたたびある場所と別の場所との中間地点にあって、
頭には、様々な情景がなんの束縛もなく去来している。歩きながら、
40年ものあいだの過去のもろもろを解き放った。おかげで、いま彼の
頭の中では過去がけたたましくさえずりながら、独特の騒々しいエネルギー
で駆け巡って行く。


「ある日何気なく本棚の隅に打ち残されていた、いまはもう見るものさえいない
アルバムに気付いた。こびりついてやや黄色みを帯び始めた写真の数々、それを
愛しいものを見る仕草で1枚づつ触りながら、ページを、1枚1枚、丹念に
見つめた。ほとんどが妻と息子たちののものだが、その間にはさまるようにして
何枚かそうでないものが混ざっていた。彼の膝に抱かれた赤ん坊の長男や次男そして、
籠に入れられた末の息子。赤ん坊を見つめる父親、遠慮がちに、触ってはいけない
と自分を戒めているようだ。そして、何枚かの妻との旅先での写真がある。
二人はにこやかにこちらを見て、仲の良い夫婦ぶりである。全てがまだ若い。
ふと、最近はデジタル写真だからパソコンの中か、と思う。でも、それをあらためて
見る気はしない。すべてが過ぎ去ったものだ、そんな衝動が彼を支配していた。
それから数日間、気分は一層落ち込んだ。二階の客用の部屋の床じゅうにアルバムが
転がっていた。それを元に戻すと言う作業に向き合う事が出来なかった。朝早く
洗濯機を回しても、洗いあがったものはそのまま1日中ほったらかしにしていた。
食事は冷凍食品の買い置きのもので済ませた。やかん一杯のお湯を沸かす気に
さえなれなかったからだ。彼はいまや単なる独居老人でしかなかった。昔、
彼が一番嫌っていた人間になっていた。


「遠くには、地平線をまたいで木曾の連山と幾つかの山々、平成山、高沢山など
が横たわっている。木々の切れた間からは、小さなビルの四角な塊りと工場の
屋根とお寺の甍のぼやけた輪郭が見える。小さくマッチ箱のように見えるのは、
民家と車にちがいない。あそこにはあまりにもたくさんのものがある。そして、
たくさんの人生が、日常の営みが、苦しみと闘いと喜びの営みがある。
だが、人々は、ここから和邇に見られていることを知らない。
和邇は再び、心の奥底から感じた。自分は今このこの目に映るものの
外側にいると同時に内側にもいる、この目に映るものとつながっていると
同時にそういうものを突き抜けようとしている。
自身の足で歩くとは、じつはそういうことなのだ。自分は色々なものの一部
であると同時にその一部ではないということだ。
この旅を成功させるには、そもそも、最初に自分を駆り立てたあの気持ち
に忠実であり続けなければならない。妻への感謝と老醜化する自分の最後の
見極めと。他の人なら別の方法をとるだろうが、そんなことはどうでもいい。
事実、自分にはこうするしかないないのだから、あくまでも歩き続けよう。
昭和後期から平成へと生き抜いた一人の人間として、何を持って死への友と
出来るのか。そんな大袈裟な事でもなく、ごく些細な気付きを得られれば、
この70年を生きて来た何かの証を自分として持てれば、道は下りとなった。


「道は白山に源を発する長良川の流れにそうて下り、それがもう1本の渓流、板取川と
合する立花という辺りに来て中州を作りながら、真っ直ぐに下っている。しかし、
関へ行く本道は「道」には違いないが、左へ折れる方は木深い杉林の中に、わずかに
それと人の足跡を辿れるくらいな筋がついているだけである。おまけに数日前の降雨
があったり、長良川の水嵩がにわかに増え、崩れかかったりしていて、激流の逆巻く
中に岩が牙をむくが如く、その荒々しさを一段と高めている。
長良川は、川幅も広いが、最後に達するまで、川と川のとの間の道は、何丈と
知れぬ絶壁の削りたった側面を縫うて、あるところでは道が全く欠けてしまって、
迂回路で古びた橋を渡り、崖の横腹を幾曲がりも迂回したりした。そういうわけで
その谷間の緑は夏の陽射しの中、素晴らしい眺めであったけれども、足下ばかり
見つめていた私は、おりおりの眼の前を飛び立つ四十雀の羽音に驚かされたくらい
で恥ずかしながらその風景を詳述する事は出来ない。昔見た長良川はゆったり
とした風情であったと記憶しているが、歩いて見るとその違いに驚きが一段と
増した。昭和初期までは、充分に道路が整備されていたとは言えない。このような
河傍の間道を通って関から名古屋へと歩いていたのかもしれない、とそんな想いが
沸いてきた。しかし、それも僅かなことで、道幅は幾度となくまるで旅人をあざ笑うか
の如く変化を見せた。


「夏の朝と夕刻の庭の水遣りがいつしか彼の仕事になっていた。
さして大きくないその庭にも、気をつけてみると梅の木がどんと居座り、その存在を
これでもか、と見せている横には、数株の紫陽花が他の木々に挟まれるように
ひっそりと立っている。少し外れてはいるが、これもどんと根を生やしたかのような
蜜柑の木が梅ノ木に対抗するが如く天に一直線に伸びている。さらには、いつの間にか
ススキの一群が片隅を占拠し、秋になるとあのやや灰色の穂を野太く道路まで
被うように茂っている。さらには、春の遅くに真っ赤な花を咲かせるベゴニアの
木がいる。それに対比するかのように少し奥の塀の近くには、大輪の西洋芙蓉が
この赤い世界が消え去ろうとする時分になると咲き始める。さらには、秋から冬には
全くの枯れ木状態であった紫式部の木が立派な枝を四方に伸ばし、その名の
紫の小さな実をつけ始めている。
そんな季節ごとの花の協奏曲を思い浮かべながらも、彼は朝の光をその一つ一つ
の水滴が反射しながら降りかかり、そのたびに夫々の花や葉が息を吹き返す様
を見ている。ほとばしる水が鞭となって空気を打ちながら、ときおり朝の陽の光を
捉えてきらめいていた。
ふと、目に付いた切り株に驚きが走る。それは妻が数週間前にばっさりと切った
榊の木であるが、既にそこには新しい命が生まれていた。それはつらつとした
緑の葉をキラキラと光らせていた。確か、それを見たのは1週間ほど前に
わずか1つほどの新芽がその切り株から出ていたと思ったが、いま眼の前に
あるのは、10本近くに増えた若い小さな枝の群れである。
それは、放物線を描いて光りながら伸びる水のシャワーの先で水と光の中、
圧倒的な若さを見せている。
彼は、水遣りのことも忘れ、暫らくその若い枝の群れに見入っていた。
生命とは凄い、頭の中でそれが何回となく反芻していた。
その感触は、木々や草花だけではない。時たま、水に驚いて飛び出す
トカゲの親子や糸トンボの夫婦、烏アゲハの夫婦などなど色づいた木々や
草花の下では、多くの生き物が毎年、生まれ育ち、その姿を見せる。
しかし、それらの姿も秋となり、冬となるにつれてその数は減っていく。
気付けば、黒く垂れ込めた冬の雪を含んだ雲が比良からこの辺り一面を
被い尽くす頃には、全ての生命が見えなくなっている。今、眼前に広がる
紫式部の花も紫色が大きく鮮やかになる秋から知らぬ間に枯れ木に変身する。
そこには、何も残っていない。しかし、翌年には、また見事な紫の世界を
現出する。そのような変転が10年以上も続いているのだ。ただ、和邇も
含めてそのような世界を味わう人が少ないのも、事実である。皆、何かに
追われるように日々を過ごしている。

「道路の脇に、打ち捨てられた様に、新聞の自動販売機がポツネンと立っている。
20年ぐらい前には、よく見かけたものだが、すでに塗装は剥げ落ち、錆びた身体を
無理にも元気よく見せようとする老人の如き風情がある。彼もこの20年風雪に
耐えて、己が使命を全うしてきた、そんな風に和邇には見えた。
ふと昔の新聞記事の紹介の事を思い出した。
ここ数年でも、特にあの事以来、いきがいという言葉さえ自身から消失したように
思えていた。老いること、日々に何かを尽くす相手がいなくなる事がこれほど、
自分の行動を縮退させ、影の如き日々の人になるとは、思えなかった。
その新聞記事は1987年11月のものであった。
「生きがい新旧格差について、20歳代の社員ほど、家族を犠牲にして仕事に打ち
込むことに否定的であり、生きがいを仕事以外に求める人が3分の1を占めている。
日本能率協会が11月24日発表した「生活意識多様化調査」で20歳代と
40歳代の「新・旧対比」がはっきりした」。
それに寄せられた意見・感想として、
「1987年の20歳代というと、2012年では40歳代だと思うが、実感値
として家族を犠牲にして仕事に打ち込む40代が多い印象を受ける。
それは立場によるものもあるかもしれないが、例えば「残業後に会社チーム
で飲み会に行く」「会社のゴルフ大会に精を出す」など、生きがいを仕事
に求める人が多いのではないだろうか。
近年取られるアンケートでも20代の仕事離れが進んでいるという話題
がたびたび取り上げられるが、20年後には立派に仕事人間になっていると
思うので、あまり問題視する必要性はないのかもしれない」。
約30年前の社会事情だが、現状はどのように変わっているのだろうか、
すでに社会から一歩も2歩も退いた和邇にとって、その変わりの様を知るのは、
難しくなっていた。ただ、息子たちを見ていると、仕事への取り組みの強さ
と考えれば、それが生きがいになっている様でもある。
ただ、和邇があの成長期に感じた生きがいと彼らの思っていることには、大分
の開きがある、遠く山並を黒く流れる雲とその速さに眼を移しつつ、彼は思った。


「和邇は、近くで紙をすいている家があるとのことで、宿の人の案内で出かけた。
丸顔の布袋さんと言っても誰もが納得するその気の良い主人が軽のワゴン車で走らせ、
10分ほど山道を行く。
「お客さんは手漉きの紙にえろう興味がありますんやな」、と私に問い掛けながら
車を運転している。緑一色のトンネルの中を走る様に、茶褐色のごつごつとした山道
をテンポのずれた音を立てながら、進んでいく。やがて美濃の山々が見下ろすように
立ち並ぶ麓の一面白い花に囲まれた中に2階建ての大きな家が見えた。
その前には、何枚もの板の上にすかれたばかりの紙が張り付いている。
「あそこですわ。名古屋から来た職人さんが4年ほど前から奥さんとやってますわ」
「手漉きで薄い上に強い、と言う評判でわざわざ見に来る人もいるそうですわ」
と、ノンビリとした調子で教えてくれた。
宿の主人は、顔なじみらしく断りもせず作業場へと私を案内する。
置くの作業場では、その職人さんが、ちらっとこちらを見たが、一切構わず作業を
している。
私と宿の主人は、そっとその横に佇む。まるで影が二ついる様でもある。
枠の中の白い水が、蒸篭のように作ってある簾の底へ紙の形に沈殿すると、彼は
それを順繰りに板敷き並べては、やがてまた枠を水の中に漬ける。裏に向いた作業場
の板戸が開いているので、和邇は一藁の野菊のすがれた垣根と彼の一挙一動
を見ながら、見る間に2枚3枚と漉いていく彼の鮮やかな手際を眺めた。
姿は細やかであるが、職人らしくがっちりと堅肥りした、中柄の風情であった。
その頬には鬚が野太く広がり、黒々と光り、張り切って、つやつやしていたけれども、
それよりも、和邇は、白い水に浸っている彼の指に心を惹かれた。黒くしなやかに
伸びた指は俊敏に動き、時折微妙な動きをする。冬の寒さがつのれば、
「ひびあかぎれに指の先ちぎれるよう」になるのであろう。が、寒さにいじめ
つけられるであろうその指も、この夏の暑さにも、動じない強さがそのうしろ姿
から滲み出ていた。奥さんがお茶を出したが、彼女も特段我々の訪問を歓迎する
でもなく、嫌がるわけでもなく、淡々と漉かれた紙を次の部屋に運び、庭の
ほぼ仕上がった紙を入念に観察している。時が淡々と流れ、わずかにそよぐ風
の音が大きく聞こえる。遠くで鳥たちのさえずりがこれも普段より大きく高く
こだましていた。「有難う」の一言を残して我々は帰途についた。車でも
あの静寂がそのままついてきたように、宿の主人も何もしゃべらず、途中の道
で私を降ろし、軽く会釈をして分かれた。すでに陽射しは道路と家々を強く
照らし、その暑さを一層引き立てている様でもある。





「和邇にとって、和服の女性は憧れであった。学生時代には、その立ち姿に思わず
振り向く事もあった。記憶にある母も、近所のオバサンも皆かすり姿の中に、
不思議な雰囲気を醸し出していた。丸髷に結い、縞模様の絣の上に白い割烹着
は、小さい頃はどこにでも、ある風情であったが、帯の締め方、着物の胸元の
あわせに人それぞれの性格が出るのであろうか、帯がやや緩んだ様に巻かれ、
合わせ着の線がキチンとしている人は、顔立ちの意識がなくとも、美人であったように
思えた。浮世絵でも、北斎はじめ多くの絵師が美人画を描いているが、やや
崩れた姿の女性の場合は、専門家の評価は別として、淫らさだけが彼をして
打ち付けるかのように、興味を惹く対象とはならない。
以前に、百年前に取られた写真が何処かのオークションにかけられ、
当時の日本の素晴らしさが再認識されたことがあったが、写真の中の女性は
モデルでもなんでもないのだろうが、箒をもち、どこか遠くを見つめるその
立ち姿は一幅の絵画の如く、あらためて若い頃の憧れの和服姿の女性への
敬慕の念を沸き立たせたものである。昔大阪で接待などでクラブへ行くと
ママやちいママがよく和服でお客の相手をしていたが、洋装の時とはその
持つ雰囲気の違いに感じ入っていた事も思い出される。今では、良く外国人
が着物姿に憧れ、それを着ている姿に合う機会が多くなったが、なにか
しまりのない、温くなったビールの様に、それを美人が着ていようと不美人
に見えるのは、時代は変われど、やはり日本人としての潜在意識が発露を
しているからであろう。そして、この旅でも、立ち寄った旅館で和服の
女将が出迎えてくれたところは、不思議と記憶が鮮明に残っている。
山中温泉、浜松、鎌倉いずれの女将の顔がはっきりと浮かんでくるのだった。
しかし、昭和の美しさは、彼女らの着物姿の消滅とともに、消え去っていく。


「20代から50代まで、幾つかの恋、単なる性欲の発露を求めた、をした。
しかし、その女性に自身を焼き付ける、一体を望むような強い想いと行動は、
なかった。少し深く自分を見れば、それは母としての愛を求めていたのかもしれない。
性欲を満たすための男としての行為と母への思慕が自分の中では、上手く
切り分けていられない、そんな自分を良く感じた。
今記憶に残るのは、亡くなった母の遺影を肩から下げ、墓地へ向う自分の歩みと
小学2年生の時、分けもなく母に逢いたくなり、一駅先にあった病院へ歩いていった
時の心細さと白い病室で優しく迎えてくれた母の透き通った顔と指の白さに
驚きをもった自分である。午後の日差しの中にいる母との自分の姿が今でも
はっきりと浮かぶ。が不思議に思うことは、そういう風に常に想いが慕ったのは、
母の方であって、父に対してはほとんど何もなかった。その何か分からぬ思いは
息子たちが大きくなるに連れて分かって来た。子供にとって、父親とは少し離れて、
その立ち姿を見る存在なのだ、と言う事を。自分の母を恋うる気持は漠然たる
「女性という未知なる者」に対する憧憬、つまり少年時代の母との愛の不十分な
関係を満たしてくれる人なのでであろう。なぜなら自分の場合には、過去に母で
あった人も将来妻となるべき人も、等しく「未知なる人」であって、それが目
にみえぬ因縁の糸で自分に繋がっていることは、どちらも同じなのである。
こういう心理は自分のような境遇でなく、誰にも幾分か潜んでいるだろう。
自分にとって、「未知なる人」は、母の幻を投影したものであり、母への甘えが
女性へは愛と言う形であるのかもしれない。だから自分の小さな胸の中に
ある母の姿は、年老いた婦人でなく、若く美しく、全てを抱擁してくれる女である。
そして、死と言う影を背負い、無常と言う事を体現している人でもある。



「鯖江の街を通りながら、和邇は昔、NHKで見た映像を思い出した。
大きな石の塔があり、そこには「忠霊塔」とある。その下で、ひたすら周辺の
五月や紫陽花の花などの刈り取り、雑草の取り除きをしている老人がいる。
緑の広がりの中に、石造りの四角な箱型の台とその上に聳え立つ「忠霊塔」の
3文字が刻まれた石塔、周辺に鳴り響く蝉の声、それ以外はただ、草刈る音が
静かにその刃先のすれあう音ともに、響くのみ。かなり薄くなった白髪頭に
手ぬぐいを巻きつけ、無精ひげの残っている頬を何筋もの汗が白い水跡を
残しながら首を伝わり、褐色の作業服の中に消えていく。中腰の身体は
ややつらそうに左右に揺れている。しかし、その眼は力を持ち、ひたすら
眼前の草木に向けられている。
ここには、福井にいた陸軍の戦死者が骨壷として、25000余り祀ってある。
彼は此処の掃除や草木の刈り取りを50年以上ほぼ毎日続けて来たと言う。
その映像を見ながら、この単純作業を50年以上を続けて来たと言うその
意志の強さと何のために、誰のために、という、和邇の判断基準では、無駄と
思われることへの執念に驚かされた。彼を突き動かしている心の底にあるあるもの
何かは、映像では語られなかったが、自分にはとても出来ない、と思った。
そして、今その塔のある街の近くを、自分の原点を確認したいがために、歩んでいる。
これも無駄な行為では、との疑問が絶えず彼をして留まり続けて入る。



「古き時代には、かくれ里、僻地の村々としてその旧き生活習慣や独自の文化を
継承して来たことで、尊敬の念でも見らてはいたが、今や限界集落とかいう
一くくりの中で、身体の片隅に出来た腫瘍の如き扱いを受けている。
日本の過疎地には6.5万の集落があると言われている。限界集落は、65歳
以上が半数を超え、道や村の施設などの管理が困難になる集落をある社会学者が
定義した事に始まる。人口の2割以上を占める昭和1桁の世代の力が大きく、今まで
存続してきた。しかし、その世代も既に80歳を超えて、集落の終焉も見えている。
60年代の林業の衰退、70年代の工場誘致の失敗、土木工事を中心とする80年代
の活気ある町も公共事業の緊縮財政に伴う減少の2000年代となっていく。
産業の発達とともに、老人やその土地の持つ智慧が無意味と思われてきた中では、
その自然の持つ人間を助ける力さえ、無視される時代になってきた。
そのような流れの中、新しい変化が起きつつある、和邇はこの山道を歩きながら、
そのわずかな情報で、最近の社会の動きを考えていた。
テレビや新聞でも、よく目に付く良いになった。
「火や土があって、自然に生きる暮らしを子供たちに教えたかった、と言う若い夫婦
の移住に見られるような価値観の変化である。ある四国の村では、そのような農山村
に新しい生き方を見つけて都市から移住してくる人が3年間で60人を超えた。
便利さの陰で見落としていた農山村の価値に気付く人が増えたのだろう。
農山村には、自然と折り合って暮らす豊かさや集落と言う共同体に生きる幸せ、
がある」と。我が家の近くの比良でも、同じ様な自然への想いを募らせた人々が何十人
となく、住み着いている。昭和の始めまでの密やかな山や里での営みが、平成と
なり、その社会の成熟とは別の別の、旧き時代の、生き方を望む人が増えてきている
のだろう。高島、朽木、敦賀、武生、と歩き続け、その土地の人と話す中で、自分が
過ごして来た30代、40代の人々の思い、またそれは自身の思いでもあるが、物的な
豊かさを求めた時代とは違う空気を感じていた。この行軍の中で、単に自身の
終りが見えてきたからなのか、ここ数年で起きた家族の形の変化によるものなのか、
自分の意識が周りの変化を素直に受け入れられる様になったからなのか、足と体の
痛みへの恐れを打ち消すかのようにその歩みの一歩ごとに、頭から足へとその漠と
した想いがながれ、そしてまた、頭から足へと同じ流れが起きていた。


自分史フォトブック
人生の節目を迎えて今までの写真を1冊の本にまとめる自分史フォトブック
が人気とのこと。言葉も添えるが、文章の苦手な人には人気な様だ。
フォトブック作成サービス「ビビプリ」を使う。
60ページほどで1冊1万円ていど、自費出版よりも安い?
以下の様な進め方が良いとのこと。
①アルバムなどの古い写真を整理する。
②自分の歩みを年表にして節目ごとに写真を選ぶ
③それぞれに当時の心境を短文で配する
④フォトサービスを利用して、②と③をまとめて本にする。

今回は自分史を作成できる
無料ツールをご紹介いたします。
CHRONICLES
http://nt.1step-m.com/link/69l
使い方は簡単。
上のプラスマークをクリックして、
自分の名前や、印象的な
イベントを登録するだけ。
出来上がった自分史は>再生ボタンをクリックして、>自分の人生を視覚的に
ふり返ることができます。
ここまでの人生のまとめに。




ハチと言う猫
NHKでハチと言う猫の映像を見た。
この猫、白地に黒くまるで眉毛のような八の字がある。更には、背中には
黒のハートマークが白い毛並みにくっきりと浮いている。
茨城の水戸駅の傍の商店街の煙草やさんに「福猫」として毎日いる。
もっとも、ほとんど寝ているようではあるが。猫好きの57歳の女性が
ハチを毎日見に来て、ブログに書いているとのこと。以前、猫を飢餓状態
で死なし、家族がバラバラになった事への悔悟の念があるのだそうだ。
死んだ猫を囲んだ幸せだった時の写真をパソコンの前においている。
また、ハチを気に入った古着屋の人がハチ猫グッズなるものを売り出している。
Tシャツやブロマイドなど様々だ。また、このタバコ屋さんは宝くじも
売っているので、縁起の良いハチがいる事のご利益を得ようと、かなり遠くからも
宝くじとハチを見に毎日来る人もいる。高校生の女子たちがスポーツの大会で
優勝できるようにと手を合わしていた。
しかし、ハチの飼い主は商店街で工事などをしている人であった。昼は事務所
で作業があるため、このタバコ屋に預かってもらっているのだそうだ。
帰りは商店街の多くの人に触られたりして、この街の人気者である。
また、このハチ猫が大人しいのだ。和歌山のタマ駅長猫もそうであったが、
人気の出る猫は皆、自分の立場を心得ているようだ。我が家の猫、爪の
垢でも煎じて飲んで欲しいものだ。

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