2016年10月7日金曜日

日々の記録22(流しの新ちゃん、移住1%計画、金毘羅宮)

流しの新ちゃん
東京四谷の荒木町で流しを続けている74歳の新ちゃんの映像を見た。
戦後のどさくさで母と離れ、文字もよく読めない4歳からの孤独の生活。
生きるために独力でギターを学び、日本各地を流して歩いた時代もあったが、
落ち着いたのが、この荒木町界隈とのこと。茶屋も多く、飲み屋も多い
この街で元芸者のなみさんに助けられここまで来た。なみさんも戦争孤児で
同じ境遇がそうさせたのであろう。
彼の今後がどうなるのか、分からない。でも、人のつながりでここまで
生きてきた、新ちゃんもなみさんも同じ事を言っている。考えさせられる言葉だ。


移住者が地域を活性化する。
最近、若い独身の移住者に加え、家族単位で移住をする人が多いとのこと。
田園回帰が広まりつつある。
これは、田舎暮らしがいいというだけではなく、経済的にもメリットがあることが
分かって来たため。例えば、鳥取での試算では7年後には、東京で頑張るよりも、
貯蓄額が多くなるとのこと。子供の養育にいい、新鮮な空気の中で生活できるなどの
数字化が難しいメリットを事例調査などで定量化し、その費用換算をすると、
月4万円以上鳥取の暮らしはよくなるとの試算が出ている。
最近のインターネットの普及により場所を選ばない職種も多くなり、それが後押しも
している。地域でも、就業、起業、継業のいずれも可能となる時代である。
この背景を活かして、島根県大前町では移住1%戦略を開始した。若い人が人口の
1%移住してきてくれれば、将来は人口の増加となり、10年後には高齢化率も
下がるという。
これからは県単位や市単位ではなくコミュニティ単位でその地域の総合戦略を
立てるべきなのであろう。「地域みがき」が多くの移住者を呼び込む力となる。

三島のメモ
楽寿園の湧水とSLを一人で修復させた高校生がいる。また三島からは修善寺
温泉へ行くローカル線がある。
花嫁のれんと言う豪華列車が金沢から和倉温泉まである。


四国の映像から
①金毘羅宮への参詣
昔丸亀城主がその繁栄を更に高めるため、琴平と金毘羅宮の間を直線に延ばし、
琴平街道を作ったとのこと。しかし、海から本宮のある山までの高さもあり、
その本門から本宮口まで786段の石段がある。途中は門前町となっているが、
本門からは一般の店は出店が出来ず、功績のあった5つの店が五人百姓と呼ばれ、
出展を許されている。
②高松城は松が多いことで有名である。当時の城主が作った大名の庭がいまは
栗林公園として一般化されており、中には1000本以上の松が様々な形で
植えられており、そのため、専任の植木(松が主)職人がいる。
また鶴亀松と呼ばれる亀の形の上に鶴がいるように手入れされた松もある。
近くでは、松を中心とする盆栽が盛んであり、盆栽向けの広大な畑まである。
近くの牟礼と言うところには郷屋敷と言うのがあり、様々なうどん料理が
楽しめる。
③宇多津神社の祭礼
宮司がうどん屋を営んでいると言う土地柄であるが、秋の祭礼にはこの町が
総出で色々な神輿を囃子とともに町中を練り歩く。八幡神社に類する神社
として、その格式は高い。


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        ランボーの永遠と言う詩の一節がある。
「また見つかった 何だ 永遠だ 海と行ってしまった太陽だ」
海と行ってしまった太陽だ、今それが眼前に広がっている。
砂浜と一直線をなす水平線にゆらめき紅く燃え立つような円く輝く太陽がその姿を
消そうとしている。その揺らめきは太陽を囲むように流れて行く雲を赤や薄紫、そして
金色に染め上げ、その下に広がる海面を黄金を溶かしたような輝きに変えている。
太陽は、ゆっくりと水面にその赤く燃え上がった姿態をすり寄せていくが、その底辺が
水平線に触れた途端、思いもかけぬ速さで光る海面に吸い込まれた。その日没の一瞬、
天と海と地と太陽が、全てが赤い色に染まり、そして消え去る世界があった。
砂浜には黒き世界が押し寄せ、我が身も消えた。この一瞬をランボーは永遠と
とらえたのだろうか。消えた太陽の後に無数の星がその光りを放ち始めていた。



           彼がそれを真近で見たのは、20数年前であった。
琵琶湖を渡る大きな橋の横にその雄姿を見せていた。後から知ったのだが、
それの名は、「イーゴス」と言う。建設した地元の資産家が琵琶湖の畔に
この東洋一の観覧車を造ることで、皆に「凄い」と言わせるために名付けた、
と言う話である。晴れていれば、30キロ以上はなれた浜大津からもその姿は
見えた。夏の青く塗りこめたような空に溶け込むように、また冬の黒く重く
垂れ下がる雲の中に重々しく、春の湖面にその丸い姿をゆるりと映し、秋の
青白い天空に浮かぶ満月の光に映える鏡面の水面に静かに佇んでいた。
初めて見たとき、それはゆっくりと円を描き、先端についたゴンドラを
わずかに揺らすように白く光る蒼い空の中で回転していた。
時には、数人の若い人が乗っていることもあった。彼らの眼には、琵琶湖の
広さがどのように見えたのであろうか、地平線のかすかなそして曖昧な線の
光景がこの地上十数メートルの世界から、蟻の如き人の動き、水面を走るヨットの
細い軌跡、連なって走るミニチュアのような車の群れ、となって見えてくるのか。
やがてのその動きは止まり、赤と白で塗られていた鉄柱は錆と色褪せた鉄の
地肌の露出した廃物と化していった。20年前の輝きは失せ、死せる巨人の
如き姿態を見せていた。それもある日、終りを告げることとなる。20個
ほど付いていたゴンドラが1つまた1つと消え始め、円い鉄の腕も少しづつ
形を失っていった。その速度は遅いものの、癌に罹った人間が少しづつ
その生命を細くしていくのと同じ様に、着実に消えていった。ある日、完全に
イーゴスは消えた。その強大な身体を支えていたであろうコンクリートの
塊りがわずかにその存在を示していた。
和邇は、この変化を見ながら、人間も同じだな、と妻と語り合ったものだった。
30年以上前、人々にその存在を強く意識させていた時代、彼の絶頂期であった。
年月とは残酷なものであり、その衰えが見え始め、錆と剥げ落ちた塗料とともに、
地上から消えた。そして、その存在すら人々の記憶からすり落ちていくだろう。
この地にあったという多くの城、今は侵食した森の強さの中に、わずかな石組み
の形跡のみが傷ましさととともにあるのみである。流れゆく時間、自然の
消し去る力と人間の作り出す力との狭間の中で、幾層にもわたる歴史の痕跡は
破壊され、人々は眼前の見えるものにしか興味を見せない。
全てがそうなんだ、彼は一人納得した。

俺がそうだ、同じく老人と呼ばれる連中全てがそうだ、真近に迫ったそのときに
思いをはせる。


    7月も半ばに梅雨があけるころ、庭は紫陽花の薄紫で彩られ、まだ枯れ色の
残る紫式部の姿と対照的な光景を示し、そこに朝日が強く射しこんでいた。
その光りの帯の間を縫うようにして、1匹のカラスアゲハのしっとりとした
黒の姿態が現れた。毎年この頃になると何処からともなく現れる。
黒いベルベットの落ち着きのある翅に紅色の珠がその優雅さを一層引き立てている。
ゆらりと空中を飛翔し、こちらに向かってくるが、そこには警戒心が微塵も
感じられない。この小さな庭で永年その命を紡ぎ、次へと伝えて来た、
我が世界である。少し短めの触手とやや灰色みを帯びた眼が、それを告げている。
更に、この庭にはもう一対の永住者がいた。透き通る身体に少し水色の映える
翅を持った糸蜻蛉である。彼らもこの時期になるとこの庭の中で飛び回っている。
ただ、カラスアゲハとは違うのは、彼らは夫婦でともに、行動していることだ。
一匹の糸蜻蛉が姿を見せれば、必ずその近くをもう一匹が、そのか弱そうな身体
とは思えない力強さで、張り巡らされた蜘蛛の糸を巧に避けながら、小さいながらも
住み慣れた我が世界を謳歌していた。今、この椅子からは見えないが、夏草の
草叢の中で翅を休めているのかもしれない。すでにこの庭を駆け巡っていた猫たちも
いない。ここの住民たちが皆消えたとしても、また来年の夏にはその命を蘇らせ、
同じ情景が見られるのであろう。彼らは、九月の声が聞こえる頃、見えなくなる。
そして、彼らの消えた庭にはグンとチャト他3人の猫族の墓が四季の草花彩りに
あわせ静かに鎮座している。以前は、翅のある同居者たちの消えてゆくのを、
妻とともにしばらくは惜しんだものだった。
その同じ彼らが、この夏の光とともに再び蘇って来た気がした。
するとその消失と蘇生とのあいだに、取り返せなく消えていった者たちのことが、
かえってありありと思い返された。
カラスアゲハは、彼の眼の前をゆっくりと飛翔し、小さく旋回を見せたかと
思うと、近くのすでに枯れかかっているランの葉先に止まった。
ゆっくりとそのベルベットの翅を上下に揺らしながら彼に対峙するような
形で静かにその小さな二個の複眼と触手の顔を向けた。
まるで知己の友を迎えたような喜びとともに息を凝らした。短いようで、
長い時間だった。人気の絶えようとする、周囲の目からも奇妙なほど
隔絶されている庭の中央で、少し手を伸ばせば、掴まるような距離の中に
2枚の翅を載せていた。わずかな身じろぎが伝わって彼はゆっくりと
舞い上がり、すでに花を落とした梅ノ木のほうに飛んで行った。
後には、再び静かな時間が始まった。



          彼女は、突然に現れた。ノンビリとゆく4人連れのオバサンの声を聞きなが
ら、
松の梢を透かしながら足下に落ちる陽射しに気を取られていた時であった。
「お一人ですか」「はあ」「東海道でもこの辺はのんびりと歩けていいですね」
紺色の帽子にショートカットの髪がわずかに首筋まで伸びている。白のシャツに
茶褐色のジーンズが足下を引き締め、するりとした立ち姿である。
細く伸びた眉毛にやや大きめの瞳が和邇をしっかりと捉えていた。その強さに
おもわず目を逸らす。やや赤みを帯びた頬に一筋の汗がするりと流れた。
こちらの同意は関係ないとばかりに、その歩調を和邇に合わしてきた。
小柄な体に元気が有り余っている、そんな風情である。
「どちらから来たんですか」「滋賀から」「へえ、歩いてですか」
やや疑問を含んだ調子で驚きの一声である。
「私は東海道を歩くのが好きで、時々こうして一人で歩くんです。でも、結構
一人で東海道を歩いている人って多いんですよ」。
「そんな人と話をするのも結構楽しみの一つかな」。
和邇は、以前、東海道ネットワークと言う東海道を歩く会がある事を
思い出していた。少し非日常性を味わい、江戸時代に気持を返し、自身の癒し
を感じる。
「何故、歩くの」ぽつりと言葉が出た。
少し遠くを見るような仕草をして、それがふと誰かに似ている、白い歯を
見せて言った。
「少し前に広重の東海道五十三次の浮世絵を展示会で見たんです。そのとき、
江戸時代の風景って結構自分になごむものだな、って思ったんで、それなら、
自分の足で感じようと思い立ったのが始まり。」
以上終り、そんな感じであった。月に一、二回、仕事の合間を見て歩く、
そんなのを二年続けている、彼女は朗らかに言った。
松の並びはまだ続き、千々に乱れる梢の影が歩く先の石畳に揺れている。
いつしか和邇の歩く調子は彼女に同期し、足の痛み、体の重みも感じられ
なくなっていた。しかも、心は40年以上前の京都にいた。先ほどの誰かに
似た感じは妻のそれであった。京都で知り合って、夜行列車で通った
あの日々が、石畳を中を二人で歩いたこと、大徳寺の木々の中をぶらりと
逍遥したこと、名物の団子を食べあったこと、心に一つ一つの連鎖をなし、
真新しい映像となって眼前に広がっていた。前を行く彼女に細身の体や
帽子の縁に見え隠れするうなじの白さ、横顔から見るその面影が彼を
40年前に回帰させていた。先ほどまで前後してこの並木を歩いていた人たち
は消え、並行して走りすぎる車の騒音は静まり、横を歩く彼女の声さえも
消えた。光りそよぐ松並木に彼はただ一人、存在していた。
「この東海道には東海道人種とでも名付くべき面白い人間が沢山いるんですよ」
岡本かな子の「東海道五十三次」がふと思い浮かぶ。
更に、「如何にも街道という感じのする古木の松並木が続く。それが尽きる
とぱっと明るくなって、丸い丘が幾つも在る間の開けた田畑の中の道を俥は速力
を出した。小さい流れに板橋の架かっている橋のたもとの右側に茶店風の藁屋の
前で俥は梶棒を卸ろした。「はい。丸子へ参りました」
なるほど障子しょうじに名物とろろ汁、と書いてある。」。
とろろ汁の粘り気のあるしかも咽喉越しをゆっくりと落ちていくあの感覚が頭
の中で交錯する。
かな子とご主人の語らい、幻想の妻、横を健やかな調子で歩く彼女、それらが一つ
の塊りとなって、思いもかけず郷愁を誘い出してきた。

「それは多分、四月も末か、五月に入ったとしたら、まだいくらも経たない時分と記憶
する。 静岡辺は暖かいからというので私は薄着の綿入れで写生帳とコートは手に
持っていた。そこら辺りにやしおの花が鮮あざやかに咲き、丸味のある丘には一面
茶の木が鶯餅を並べたように萌黄の新芽で装われ、大気の中にまでほのぼのとした
匂いを漂わしていた。
私たちは奥座敷といっても奈良漬色の畳にがたがた障子の嵌はまっている部屋で永い間
とろろ汁が出来るのを待たされた。少し細目に開けた障子の隙間から畑を越して平凡な
裏山が覗かれる。老鶯ろうおうが鳴く。丸子の宿の名物とろろ汁の店といってももうそ
れを食べる人は少ないので、店はただの腰掛け飯屋になっているらしく耕地測量の一行
らしい器械を携たずさえた三四名と、表に馬を繋いだ馬子とが、消し残しの朝の電燈の
下で高笑いを混えながら食事をしている。
主人は私に退屈させまいとして懐ふところから東海道分間図絵を出して頁を
へぐって説明して呉れたりした。地図と鳥瞰図の合の子のようなもので、
平面的に書き込んである里程や距離を胸に入れながら、自分の立つ位置から右に
左に見ゆる見当のまま、山や神社仏閣や城が、およそその見ゆる形に側面の略図
を描いてある。勿論、改良美濃紙の復刻本であったが、原図の菱川師宣のあの
暢艶で素雅な趣はちらりちらり味えた。しかし、自然の実感というものは
全くなかった。
「昔の人間は必要から直接に発明したから、こんな便利で面白いものが出来たんです
ね。つまり観念的な理窟に義理立てしなかったから――今でもこういうものを作ったら
便利だと思うんだが」
はじめ、かなり私への心遣いで話しかけているつもりでも、いつの間にか自分独り
だけで古典思慕に入り込んだ独言になっている。好古家の学者に有り勝ちなこの癖
を始終私は父に見ているのであまり怪しまなかったけれども、二人で始めての旅で、
殊にこういう場所で待たされつつあるときの相手の態度としては、寂しいものが
あった。私は気を紛まぎらす為めに障子を少し開けひろげた。午前の陽は流石に
眩しく美しかった。老婢が「とろろ汁が出来ました」と運んで来た。別に変った
作り方でもなかったが、炊立ての麦飯の香ばしい湯気に神仙の土のような匂いの
する自然薯は落ち付いたおいしさがあった。私は香りを消さぬように薬味の青海苔
を撒らずに椀わんを重ねた。主人は給仕をする老婢に「皆川老人は」「ふじのや連は」
「歯磨き屋は」「彦七は」と妙なことを訊き出した。老婢はそれに対して、消息を
知っているのもあるし知らないのもあった。話の様子では、この街道を通りつけの
諸職業の旅人であるらしかった。主人が「作楽井さくらいさんは」と訊くと
「あら、いま、さきがた、この前を通って行かれました。あなた等も峠へ
かかられるなら、どこかでお逢いになりましょう」と答えた。主人は「峠へかかる
にはかかるが、廻り道をするから――なに、それに別に会い度たいというわけでも
ないし」と話を打ち切った。私たちが店を出るときに、主人は私に「この東海道には
東海道人種とでも名付くべき面白い人間が沢山たくさんいるんですよ」
と説明を補足した。細道の左右に叢々たる竹藪が多くなってやがて、二つの小峯が
目近く聳びえ出した。天柱山に吐月峰というのだと主人が説明した。」

しばし、茫然と梢を通す木洩れ日の中、ただ木偶の坊の如く立つ私、「どうしたん
ですか」その声に、引き戻された。若い彼女が手招きしている。眩い光の中で妻の
面影が再び見えた。



         くすぶったような本棚の一角から何気なく取り出した「ネクストソサエティ
」
の本、そこからはらりと落ちた。
すでに色褪せた新聞記事の切り取りだった。1991年12月28日の朝日新聞
の社説が書いてある。
力なくそれを拾い上げ、見るともなしにその黄色に変色した文字たちを目が追った。

「富士銀行の不正融資7000億円、証券の損失補てん総額2164億円、竹井博友元
地産会長の個人脱税34億円、倒産企業の負債総額7兆918億円。
バブルの宴のあとだ。ケタ違いの数字に、社会の金銭感覚もすっかりマヒさせられて
しまった。この秋、七五三の子供のためにホテルで開く、結婚式ばりの豪華披露宴が、
静かなブームだった。競馬の有馬記念では五百億円余りの札束が舞った。かってない
物質的豊かさを手にした日本だが、社会基盤の未成熟から、本物の快適さや充実感
を与えてくれるものは、案外少ない。
ー満足感を共有できない社会ー
それぞれが、豊かさをいささか持て余しながら、自分だけの小さな世界で、そのはけ口
を求めている。若者は独特の省略言葉で、大人をケムにまき、世界の10大ニュースの
上位に女優のヌード写真集を選んだりする。世の中わかりにくい政治家の永田町語、
証券業界の兜町語なども横行した。
価値観の多様化、といえば聞こえはいいが、それはある意味で、連帯感や潤いに欠けた
未成熟社会の姿でもある。戦後復興から高度成長期、国民は「豊かさの実現」という
共通の目標に向け、貧しいながらも充実感を共有した。だが、いまやゆとり志向、
生活大国への道は遠く、当面共有できる目標は見当たらない。
今年は、こうした目的喪失社会の中で不公正や格差、バブル現象など、戦後社会
のマイナス面が突出した。本紙読者が選んだ「日本10大ニュース」は、その
屈折した世相を色濃く映し出した。、、、、
今年の世相を見ると「豊かさの底が見えた」との印象が強い。勤労者世帯の平均
貯蓄額が、初めて一千万円を超えたが、マイホームはなお高嶺の花だ。人手不足
もますます深刻化、過労死も問題となった。、、、、
真珠湾50周年の今年、政治や経済、社会など全ての面で、制度疲労が表面化して
きた。戦後の日本経済を支えて来た収益至上主義と企業中心社会は、その典型と
言えるのではなかろうか。何を残し、何を改革するのか。変革期に最も必要なものは
志しである。」
こんな時代を生きてきたのか、嘆息ともつかぬ言葉が自然と出た。三十代から
四十代半ば、このような人生最後を迎えることなど思いもよらず、自分の人生に
自信と生きることの楽しさを謳歌していた時代である。しかし、今の自分は。
「無常」という言葉が体の彼方此方に飛び交い、散らかしきった部屋とガラス戸に
映る無精鬚と水気を失った皮膚に包まれた顔からは、一片の明るさも発せられて
いない。



      その坂道は一直線に青き壁のごとき空へと伸びていた。
沁み一つない青き白さを持つ朝空が彼の前面に立ち、それを下に辿れば、
伊吹や八幡の山並が緩やかな線を描き、朝霧に包まれ一幅の山水の形を成している。
湖面と対岸がお互いその線を溶かし込み、山水の山々はこれも青く光る湖面と
一体となって彼の眼前に広がる。
この情景を感じるとき、彼は生きている、その実感を味わう。すでに20年、
この坂を下る時、四季折々の色合いの違いはあるものの、彼の心は静かになる。
春のやや鈍さの残る青き湖面、夏の深い緑の木々と湖、灰色の山水的な中に
紅さの映える秋の朝、冬の灰色がその強さを増す対岸の山並、僅かな違いを見せる
この情景が、彼の心の黒く沈んだ時、やや薄灰で悩みで霞んだ時、いずれの時にも、
癒してくれた。



            東海道に道をとり始めてからたえず眼の中に僅かな姿を見せていた。木々
が鳥たち
とともにさざめくような朝の空気の中、薄い雲の間に申し訳なさそうに見せるときも、
夕暮れの赤き地平の中にも、その三角型のしかし優美な姿はあった。
まるで北斎の富嶽三十六景と百景の絵が底に現出している様でもある。
そんな思いの中、富士は少しづつ川面のきらめきを受けながらその歩を一歩進めるごと
に大きくなっていく。横浜や川崎で過ごした若い頃の思い出は単なる風景の一つとして
の存在であったものが、今は少し違う気がする。それは江戸時代、富士講として神への
信仰を富士へ登ることで体現しようとした人々の心持に近いかもしれない。
また、北斎が描いた富嶽三十六景の絵の思いに近いかもしれない。更に、滋賀を出る
ときの心の重さから開放されつつある自分を感じ、その軽みの心が彼らの想いの一端を
感じたいと富士への道を取らせたのかも知れない。すでに通ってきた白山の信仰は
浄土真宗などの仏教の世界との融合をとり如来、観音像など具体的な形を取ってきた。
そして私自身も十一面観音を中心にその像から己の心根を写し取ってきた。
それはそれでよい。だが、自然の持つ何かからも受け取りたい、そんな想いがこの歩
を早めている、先ほどからそれが頭から足へと何度となく行きつ戻りつ、振り子の
ように我が身を進めていた。江戸時代の富士講の人々は現在のような頂上からのご来光
を拝むために富士山に登ったのではない、と言う話がある。頂上を霊域と考え、
火口の中に浮かぶ自分の姿に来世への自分を見出していたらしい。神と考える富士
の胎内に取り込まれる自分を感じる、まさに自然信仰の原点がそこにある。
北斎の描く富士もその心根には自然崇拝の想いがあったのでは、と思う。彼は熱心な
妙見信仰者と言われている。妙見信仰とは、「妙見菩薩。北極星あるいは北斗七星
を神格化した菩薩、国土を擁護し災害を減じ、人の福寿をます」と言われている。
彼の描く富士の絵姿は様々であるが、眼前の富士は「凱風快晴」「快晴の不二」
の世界のようだ。
富嶽三十六景、百景、ともに風景としての憧れよりもさらに奥深い何かを感じる。
だが、今の自分では頂上に行くのは、無理難題な話、まあ少しでも富士の霊域
に近づき、何かが感じられれば、少しながら大きくなった茶褐色の岩肌とその山の端
を流れる雲に優しげにこちらを見ている様でもある富士の姿に、想いが浮かぶ。
富士は軽やかであった。白山や福井、岐阜の山々を重い影を背負い歩いていた時の
気持の違いなのであろうか。体の持つ軽やかさの違いなのであろうか。それは
自分の心根の変化もあるのか、あの黒い心の闇は徐々に霞となり、まだ心の片隅に
ごく小さな滞留物となってはいるが、4、5年前の生きることにまだ余韻があった
自分の姿がすこしながら感じられていた。
素朴で自然なもの、従つて簡潔な鮮明なもの、それを一挙に自分の心に取り込み、
そのまま自分の心に植えつけ、それが持つ輝きをもらう。眼前の富士の姿が新しい意味
をもつて心の襞に溶け込んでくる。北斎もそう思ったのでは、歩く影と路傍の草花が
消えてはまた現れる調べにあわせ、自分と北斎の思いを反芻していた。
歩く先にふと見えた可憐な花、月見草である。
太宰治の「富嶽百景」の有名な一節を思い出す。
「老婆も何かしら、私に安心してゐたところがあつたのだらう、ぼんやりひとこと、
「おや、月見草。」
さう言つて、細い指でもつて、路傍の一箇所をゆびさした。さつと、バスは
過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、
花弁もあざやかに消えず残つた。三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、
みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、
けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた。富士には、月見草
がよく似合ふ。」
そのように見れば、そうかな、自然と頬の緩むのを感じながらも、この一節
を反芻しながら更に富士は大きくなったように私には見えた。
いつしか頂上付近に白い真綿が取り付いたように数条の雲がかかり始めていた。




        何時かは分からないが、ふと浅い眠りの中で明日の天気は、という言葉が浮か
んだ。
部屋のカーテンをそつとあけて硝子窓越しに富士を見る。月明かりが夜を
支配していた。
富士が青白く光り、その裾野を大きく広げ、その神々しさを一面に発していた。
私は、ああ、富士が見える、星が大きい。あしたは、お天気だな、とそれだけが、
混沌とした意識の中で、自然と口から発せられた。そうして、そっとカーテン
をしめて、そのまま布団に戻る。あしたは天気だ、判然とせぬ想いが頭の中を
めぐり、同時に、寝不足でしんどいな、と苦笑いともつかぬ頬の動きを感じながら、
深い闇に落ちていく。



         空の何処かから囁くような声がした。
「お前には家族がいない。友もいない。なにも残っていない。生きることの必然性が
ない。抜け殻の自分を早く知れ」
その声を聞くと同時に、疲れきった体が崩れ始め溶けはじめる。肉体が腕の先や肩
から腐れてはじめ、みるみる骨が露わになり、白く半透明の液体となって流れ出し、
その骨さえ柔らかく溶けはじめる。意識はしっかりと両足で大地を踏みしめている
けれど、そんな努力はなにもならない。黒き闇に充たされた空が、怖ろしい音を
立てて裂け、必然の神がその裂け目から顔をのぞかし、にやりと笑う。
彼はその必然の神の顔を避け、忌まわしい過去の亡霊をかき消そうとする。
輝かしいだが古き存続の美しきものを見ようとするが、何も見えない。
心に映ろうとさえしない。一つの悪しき想い、それがつながりとなり、色褪せた
フィルムのように切れ切れになりそうながらならず、心の中に擦り切れた映像と
なって流れすぎていく。
自分の存在は何処にあったのだろう、その想いだけが幾重にも重なり足下に
積み重なっていく。時間の流れの中で、その解を求めようとした70年の歳月のみ
が何層にもわたる悔悟の念を増すのみのようだ。

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