旅つくり応援サイト ①ファインドトラベル https://find-travel.jp/ 旅をテーマにした記事の投稿、閲覧が出来る。⇒比良八講や歴史ハイキングなどで 住民としての旧志賀町のミニコースのPRと旅企画の実施。 行き先や好みに合わせて記事を検索し、幅広く情報が集められる。 ②トリプロ http://tripro.me/ 目的地などを入力すると実際にそこを旅した人が投稿した日程と周辺の観光地の 情報が一覧される。 ③ウェブトラベル http://www.webtravel.jp/ 目的地や費用、日数などを入力すると旅行のプロが無料で日程を提案し、 宿泊先の手配もする。 ④旅色コンシェルジェ https://concierge.tabiiro.jp/ 旅の提案と周辺観光地の情報提供、宿泊施設への手配も行う。 ⑤ポケたび グルメに観光スポット、イベント、今スグ予約できる日帰り観光プランなど、全国の旅 のガイドが ある。エリアを選択するか、今いる場所から旅のガイドを探してみる。 旅のしおりに写真を貼り付けると、旅行の後アルバムになる。 SNSに投稿して、友達と思い出を共有できる。 スマホやタブレットで活用できる。 文化庁の日本遺産に認定された「琵琶湖とその水辺景観―祈りと暮らしの水遺産」 で地域振興を図ろうと、『日本遺産「水の文化」ツーリズム推進協議会』がこのほど、 設立された。 「琵琶湖とその水辺景観」は、琵琶湖に「水の浄土」を重ねて多くの寺社が建立され、 今日も人々を惹(ひ)きつけていることが日本遺産として選ばれたもの。 協議会のメンバーは、県、大津市、彦根市、近江八幡市、高島市、東近江市、米原市、 公益社団法人びわこビジターズビューロー、公益社団法人県文化財保護協会で、会長 にはビジターズビューローの佐藤良治会長、副会長には谷口良一県観光交流局長が選出 された。事務局は、県観光交流局に設置された。 今年度の事業として、日本遺産のPRのために、多言語でのホームページや認定 を受けた文化財や施設、見どころなどを解説するパンフレットの作成、多言語対応 観光案内版の設置などを予定している。 なお協議会では国に対し五千九百万円の交付申請を行っている。 ブラタモリ福岡 福岡と博多の違いは、博多が元々あった商人の町、福岡は黒田藩がここに移って きたときに岡山の住んでいた町名を名づけた事から始まる武家の町。 ある橋から分かれる。また、その境目となる石垣も一部残っている。 ここは太閤町割としても有名であり、碁盤のように整然としている。元は砂丘が 海へと延びたまちであり、その砂丘の間を貫いた形になっているのが、 大博通りである。 海へと伸びてきた証となるのが、櫛田神社にある石段であるが、これは海と陸地の 段差をであり、近世にはここから直ぐに港となり、中国や朝鮮との交易が 行われていた。 鎌倉時代に創建された栄西による禅寺の聖福寺は街の一番の高台に建てられたが、 今はむしろ町全体からすればやや低地になっている。数百年の間に、商人の町が 出来、町の地盤が少しづつ上がってくる事で寺の敷地がやや低くなっている ところもある。 そのため、この参道と太閤割りの道は少しズレがある。 また、ここでは弥生時代から奈良、平安、江戸と多くの人が住んで来たこともあり、 何層にもわたり、その時代の遺跡が層ごとに出てくる。 SDGS(持続的な課題解決プログラム) 国連が世界各国で起きている格差や貧困、不平等などを17の分野で夫々連携を とりながら、「誰一人として置き去りにしない」を主テーマとして進めるプログラムが 参加国全員の総意の下で進められる。 今までの国レベルでの様々な格差や課題を国内レベルも含めて解決していく。 これには、先進国も自分たちの国や市民レベルでの意識改革が必要となる。 すなわち、自分たちさえ良ければ、他はどうでも良いと言う自分勝手な行動や発想 の是正が是正が求められる。まだ世界の国の6割以上が貧困化の状態であり、さらには インドやアフリカの一部の国に見られる国全体の経済は良くなったが、格差が広まり、 貧困層が更に多くなっていると言う現実を直視した課題解決が問われる。 だが、国のエゴが優先し、蔓延する中では、中々に困難なプログラムでもある。 国連の強力なイニシアティブが問われる。 ------------ 煌々と光る満月の下、水を切る船端の波の走るのが、黒い鏡面を切り裂き、 白き波の階が、きらきらと月の下へ揺れかかっていく。更に、霜のように 輝いて、沖島や湖岸の淵を揺らし流れて行く。その過ぎ去りし後には湖水はただ 茫漠として、水や空の墨絵となる。和邇浜の松の並木と思い当たり、影が差し、 月が染みて、絹布のひだをみるような静けさを見せる。眼下を一条の光が 左から右へと流れ、家路に急ぐ人を乗せ、遠く白鬚の水面に浮かぶ鳥居を 過ぎ消え去る。ナナといえば、前後に松葉重なり、深き翠に囲まれた松に身を 委ね前足をかけ、かつ後ろ足で支え、幹から幹、枝から枝、一足ずつ上る。 やがて、その頂上付近に立ち止まり、今や正に、目の下に望む光り輝く水面を 見る。2月の寒さの中で、月白く、山の薄灰と松の梢の白き影を見る。 更には、日差しの中にある昨日の情景を思い浮かべ、山の翠の黒髪長く、霞は 里に裳もすそを曳いて、そよそよとある風の調べたる湖の琵琶を奏づる音を聞く。 この雑踏の中で、ふと立ち止まる。さきほど見た大仏の穏やかな顔が浮か んでくる。 多くは薄い緑色に変色した丸みのある顔、半目の眼、やや厚い唇と少し長めに感じる 鼻筋、それらを単に青銅の塊りと言ってしまえば、そうかもしれない。 昭和の頑張れば何かを得られると言う確信に近い思いの中で、この仏像の意味 するモノは何なのだろう。あの横浜の時代に訪れた時も、そして今も、「悉有仏性」 とか「信心正因、称名報恩」を感じることはない。涅槃経の一説にある、「一切衆生 悉有仏性、如来常住、無有変易」、誰でも御仏になれる、と言う。でも、今の彼 にとってどうでも良い事であった。人は何故、死んでなお己の身に思いめぐらすのだ。 生命の死はやがて来るべき避けられない事実であり、松蔭の言うようにその死が若く とも年老いても、それまでに己が何をしたか、を問うべきなのかもしれない。 自分は、何もしてこなかった、突き上げる思いの中で、七十の老いた顔を あらためて見る。白くはげ掛かった髪の毛、弛んだ目尻と薄くなった眉尻、黄色く 濁った眼がうつろにこちらを見ている。頬尻と顎筋は緩やかに曲線をもち、重力に 逆らうにはあまりにも無力な姿を見せている。鬚は辛うじて剃ってはいるが、 下あごの鬚は無造作に伸びきり、無節操な世界となっている。 以前、十一面観音を見たときの心のざわめきは、その美しさに気を取られただけの ことなのか、生活の楽しさ、家族との団欒、仕事への埋没として過ごした30代、 40代、そこに信仰、仏、神の存在はなかった。全てがシンプルに過ぎていった。 人間は勝手だ、と思う。日頃の生活の中で、仏や神の存在を忘れている。 高度成長からバブル、そして平穏な日々の続いた時間、秋の気持ち よい風に吹かれ、春の草花の溢れる中で、人はそれが全て自分の努力の結果と思い 過ごしていく。でも、今の自分はそうではない。そうなった時に突然現れるのが、 仏であり、神という存在だ。 茜さしていく西の空を見ながら、時に頬を触る涼やかな空気の動きを感じ、彼は 吉崎御坊の生き忘れた情景、小松の那谷寺の体験を思いめぐらしていた。ここは、 白山信仰を初めとして、浄土真宗、禅宗など多くの信仰の混在している世界であった。 その中でも、蓮如と言う傑物を得て、「阿弥陀仏後生たすけ給えとたのむ」 信心が極楽往生の直接簡明な信仰のあり方で多くの人を共鳴させ、浄土真宗の国を まで作った。信仰が、力であり心の寄るべならば、今まで自分たちを動かしてきた 思いも信仰なのであろうか、ふとそんな考えにも及んだ。薬師如来、そして 十一面観音などその仏像に接した時、己の心に寄り添う気持が浮かばなかったのは、 不遜と言えるのか、生きることへの何かを得られる事はあったのか。旅の途中で 連れ添った太田さん、黒田さん、又滋賀での生活でも信じる心根についての 話をした記憶はない。俺の信仰は何だ、あの事件以来、更に深まった自身の 無常観のあり様と心の乱れを納むる何か、探しは更に高まっていった。ただ、 それはいまだ己が眼の前には現れない。那谷寺、白山神社、三島大社、いくつか 訪れた寺や神社に彼はその何かを見つけられるのでは、という淡い期待が あったが、それはいつも失望に終わった。全てが幾百年の時代の堆積と 壊れ行く物理的な弱さを見せるのみであった。ある時は、時雨れる中で、 ある時は陽のさんざめく光の中で、また強烈な風の吹きぬける中に、自分はいた。 日本には、古くから山岳を神霊、祖霊の住む世界とする観念がある。白山信仰、 などは、その代表的なものであろうか。水や稲作を支配する霊は山に籠り、 生を受けるのも、死んでいくのも、山であった。超自然的な神霊が籠る霊山 と認識された「七高山」の1つである比良山にも、比良山岳信仰が盛んであった。 北比良のダンダ坊遺跡、高島鵜川の長法寺遺跡、大物の歓喜時遺跡、栗原の 大教寺野遺跡などがある。しかし、そこはただの林であり、荒れた畑であった。 仏教の浸透が深まるに連れて、天台宗の本山系、真言系の当山系などのように、 宗教集団を形成していったが、悩める人のどれほどを救ったのか、今の自分には 見当がつかない。ましてや、生活の中に染み込んだ信仰と言う行為は、流れ行く 旅の人間にはわからない。この白山周辺でも、歴史の中に多くの信仰の形 や行為も埋もれて行ったのではないか。長く続いた祭礼や儀式も人々の思いの 変化で変質し、形のみ残しているが、担ぎ手がいなくなったと言う理由だけで多くの 祭が消え始めているのも事実であろう。残った者は、観光と言うイベント、 客寄せと言う行為がまた、仏や神と言われるものの姿を消し去ろうともしている。 出口のない想いが和邇の心に現れては、消えていく。それは、彼の横を過ぎる 人と同じであった。果てしなく歩いたようにも思えた。 いつしか彼は、人々のささやかな営みとそうした営みに付随する孤独さこそが 自分の胸を打ち、優しい気持ちにさせてくれる事を感じ始めていた。 ある意味彼にとってそれが神や仏の恩寵であり、この世は、生きることに何かを 求める人々で成り立っている。そして、ある人の人生が平凡に見えるとしたら それは、その人が長いことそん思いの中で生きてきたからに過ぎない。 今や和邇は、人は皆同じであり、同時に唯一無二の存在であるという事実、 そしてそれこそが人間である事のジレンマだという事実をうけいれはじめていた。 そして、その事実の受け入れを助けるのが、信仰ではないのか、差し出した 右足の先にそんな考えがあった。 雑踏と人息れのなか、茫然と立っている自分がいた。周りは同じ年頃の女の 子、 白いシャツに長めのスカート、まだ清楚と呼ぶ言葉が生きている。多くの女性が 髪は肩まで少し短めに切っている。しかし、その外見と違い、頬を紅潮させ、 舞台に向ううしろ姿、横顔からは、熱き想いと見えないがその強い視線を感じる。 横の彼も際限なく伸びる毛の中に顔が埋まっているような姿であるが、発する熱は 同じであった。黒目のズボンと少し縒れた黒いシャツは、誰も一様な恰好で、 普段七三分けで折り目のあるYシャツの姿しか見当たらない世界からは少し違うが、 相通ずる心のひだの触れ合いがあった。少し先にある舞台からは緩やかなテンポで、 ギターを弾き、話しかけるような口調の歌が聞こえてくる。「高石友也オンステージ」 と言う垂れ幕が申し訳なさそうに風に揺られていた。揺れ動く人波、淡い照明の中で、 ギターを弾き語る青年、弦月の光がそれらを撫ぜるように上手から下手へと流れる 音にあわせさざ波が寄せるが如く過ぎていく。飾り気のない舞台、どこにでもある 学園祭的な雰囲気の中、静かに揺れる人の波、しかし、その目には新しい自由と言う 世界の中で、自分を見出そうとする輝きがあった。未来と言う希望が彼らの前に 広がっていた。周辺で聞き入る女性たちも、薄化粧と色合いの少ない服装ながら、 体全体から発せられる熱が、和邇の肌にも直接染み込んでくる。彼は熱いと思った。 フォークソング、懐かしい響きであり、数10年の熱さが体のそこからじわりと あがってくるのを感じた。心にも判然としない熱さがわきあがる。 測定器や半田に囲まれた歌にはあまり縁のない生活ではあったが、 「帰って来たヨッパライ」「山谷ブルース」「六文銭」と幾つかの曲だけは 聴いていた。工場に出かけ、設計を夜までして帰るだけの生活の中で、ベトナム 反戦など世の中は少し騒がしかったが、工場と寮の間を往復する毎日。 しかし、モノを少しづつ形作っていく面白さは格別であった。その様な日々でも、 世間とのつながりの一つがこのようなフォークのコンサートに出かけること であった。日常の何気ない生活、ちょっとした苦労の世界、日本語で それを語られると不思議と身体に入ってくる。回りの熱さも、彼をして 普段の自分にはない、自分を感じられた。限られた空間であり、いわば、 世間知らずの自分にとっての世間の生らしい姿を味わえる時でもあった。 狭い空間の中で、それでも自分の行く先には何か希望がある、そんな勝手な 思いだけが日々の自分を動かしていた。その呼吸の隙間を埋めるものの一つが フォークであり、写真であった。そんな日々が5,6年続いた。そして、 家庭と言う新たなる世界に身をおく事になる。 見える花しょうぶの白と紫が夜光灯の光の中で、揺れ ている。 春の温かさに誘われて、それは妖艶な光の世界のような気がした。後ろの 部屋では、また子供たちがおもちゃの取り合いで騒いでいる。 既に、関西に来て1年経った。妻の親戚が近くに新築の家が建ったが、 買い手がつかない、こちらに来るのであれば、直ぐにでも入居できる、 と言う話が妻からされた。横浜のアパートを引き払う直前に、そちらに 移る事を決めた。京都市内から30分ほど、大阪の事務所までは1時間少し の場所である。5里の里と言われ、京都から奈良へ通ずる街道の宿場町 として栄えたそうだが、今は四方を畑と田圃に囲まれたいわゆる新興住宅地、 ここから新しい自分が始まったのかもしれない。設計の技術者として、日夜設計図と 様々な機械に囲まれた日々から、人を相手とする営業の世界への転身でもあった。 「お前は営業なんて無理だ」と上司や役員から散々言われたが、何とか過ごしてきた 1年でもあった。ビル街と生駒を遠くに見、緑の世界で週末を過ごす日々が 続いていた。世の中は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という本に 見られるように日本の高度成長の素晴らしさを讃え、一日本人としての誇りを くすぐられる日々でもあった。更には、プラザ合意という中での円高による 日本の危機もテレビや新聞で色々と報じられていたが、私の心には「頑張れば もっと生活が良くなる、子供たちを幸せに出来る」と言った明るい気持が 先行していた。給料の増加が毎年あり、妻の顔も心なしか晴れやかな表情であった。 当時は「幸せとはなにか?」と言う理屈はいらなかった。毎日の生活がエレベーター で上がるがごとく、下がる事の心配がなかった、今にして不可思議な時代でも あったのだ。宇宙戦艦ヤマトに長男と楽しみ、機動戦士ガンダムやドラゴンボール に息子たちと悦に入り、何度となくプラモデルを作った時代でもあった。 これが、家庭の幸せでもあった。仕事は多忙を極めたが、息子たちと明日の 楽しみを分かち合う日々でもあった。 仕事は、「変化がビジネスを生む」、まさにそんな時代になって行った。 規制緩和、電電公社などの民営化、更には新幹線の整備で東北から九州まで伸び、 関西国際空港の建設開始、などあちらこちらから槌音が響き、大阪にいる自分にも その音が聞こえてくるようであった。この頃から田舎の道も土からアスファルトへ 変身した。四国へ行くにも瀬戸大橋を使いよく高松まで出かけた。また、ふるさと 創生とかいう大盤振る舞いがあり、地方の支店でも商売をもっとやれ、と本社から 檄が出たものである。さらには、ベルリンの壁が市民の手で壊されていく映像は、 多くの人に驚きを与えたのではないだろうか、皆が今までと違う新しい世界を 感じ始めていた。食事の時にその映像を見ていた長男が、みんなが壊している、 といった言葉は今でも耳の奥に残っている。この時代でも既にイジメはあった。 「葬式ごっこ」を再三受けていた中学生がトイレで首吊り自殺をした。しかし、 それは一つのエピソードとして社会から抹殺された。さらに、似た様なことが 長男にも起きた。毎日がどんちゃん騒ぎの中で、30代そして責任ある40代と 時代の流れに乗っているだけでも楽しさがあった。だが、この騒ぎから離れ、 この祭はいつまで続くの、冷めた感情が徐々に芽生えていった。豊かさの 影に社会の荒廃が見え隠れしていた。中学生に教師が殴られ、脅かされるという 事件が大々的に報道されていた。しかし、和邇にとってそれは他人事であった。 職場の雰囲気も少しづつ変化を始めていた。周りには、女性スタッフが増え、 ただ仕事だけに埋没する事に疑問を持つものが増えて行った。部下の何人か、 会社の同僚にも自分探しに会社を離れるものもいた。関西に来て以来、一緒に 仕事をしてきた若い部下も、故郷の高知へ帰るといって姿を消した。 その後、何回かの年賀状はもらったものの、今彼は高知の空の下でどのような 生き方をしているのであろう、ふと脳裏に浮かぶ彼の晴れやかな顔、一度は 見てみたいものだ。 「おいしいことに理由はない。好きなモノは好きだ」、そんな言葉が新聞を 賑わしていた。「新人類」という言葉がなんとなく受け入れられる雰囲気で もあった。帰りの一杯に付き合わない、職場の旅行にも行かない、マイペースな とらえどころのない若いやつら、ベテランからはどうしたものか、酒の席の 話題の一つとなった。新聞記事の中にも、「戦争も学生運動もなく、何かに 胸を熱くしたり、それで深く傷ついたりした事がない世代。だからいつも 手探りで臆病で、そのくせイイカッコシイでもある。同じブランドの着て安心 する反面、着こなしの違いを強調する」など、毎日飲み屋でその日の憂さを 晴らしているオッサンの世界にまとわりつき、横構えの態度で接する若い連中。 和邇や妻が郷愁を感じるフォークソング南こうせつ「神田川」のつつましい 質素な世界は既にない。 俺は単純だったな、ふと和邇は思う。関西での仕事は、川崎の上司らが心配 したのが、全くの思い過ごしであった。新しいビジネスモデルを考え、会社を 作ったり、システムを構築したり、ただひたすら売り上げを上げることに 邁進していた。それが幸せであった、この数年の自らの自堕落な生活の中にも、 体の底からわき上がる軽きそして甘酸っぱさを含んだ想いでもあった。3年前 病院から帰ると直ぐに、書棚にうず高く積まれていた1500冊ほどの本を ブックオフに売り渡した。今までの自分と決別したい、と思った。 しかし、それが古き思い出を面倒だと思いきり棄て去って来た過去の自分の あり様と気づいた。それが今までの自分の生き方であった。 眼の先にあるのは家族5人との楽しい団欒であり、新しい会社や事業を始めた ときの喜び、そこに過去は何もない。あるのは、遠く先にあるべき豊かな 生活であった。しかし、今は埃と蜘蛛の糸しかない本棚から過去の自分の有り様 がまざまざと浮かんだ。捨て去って行った先人の智慧、本に残した強い想い、 智慧に触発された時の自分の心、それは変色した紙面の中に潜んでいた、ずっと 和邇の手がそれに届く時まで。 さらには、まだ残っているわずかの本たち、「脱工業社会の到来」「第三の波」、 「ネクストソサエティ」など、すでに掠れて読めないほどの背表紙のいくつか、 が自分の出番を待つかのようにこちらに顔を向けている。 今、手にしている「1991年12月28日の新聞記事」、わずかに残っていた 本の中から出てきた。まるで、この時機にあわせたように。 「満足を共有できない社会 それぞれが、豊かさをいささか持て余しながら、 自分だけの小さな世界で、そのはけ口を求めている。若者は独特の省略言葉で、 大人をけむに捲き、世界十大ニュースの上位に女優のヌード写真集を選んだりする。 、、、、価値観の多様化、といえば聞こえはいいが、それはある意味で、連帯感 や潤いに欠けた未成熟社会の姿でもある。戦後復興から高度成長期、国民は 「豊かさの実現」という共通の目標に向け、貧しいながらも充実感を共有した。 だが、今やゆとり志向、生活大国への道は遠く、当面共有できる目標は 見当たらない。」 和邇自身、40代半ばの仕事に埋没していた時期である。新しい事業の仕掛けや お客の接待での午前様帰り、朝の四時までバーで飲み明かし、家に戻って6時には また家を出る、あのときの姿が眼の前に映し出される。しかし、ふと我に帰る一瞬、 自分のいる場所がわからない事があった。 「宴の裏に悪魔が住んでいた バブルは金銭感覚だけでなく、社会全体の倫理観 を荒廃させ、ルール無視のやり得の風潮を、拡大再生産した。、、、、、、 富士、東海など大手都市銀行を舞台にした不正融資の総額は、ゆうに一兆円を 超す。産業を支え、堅実一筋だた銀行に何が起きたのか。橋本富士銀行頭取は 国会の参考人聴取で「背景には収益至上主義の経営方針があり、現場が業績偏重 に傾斜しすぎていた」と頭を下げた。」 今も、テレビや新聞から聞こえてくる企業の不祥事は30年近く経とうと変わりない。 俺も含めて人は学習しないな、天井の薄汚れた姿を見ながらふと呟く。そして、 妻との亀裂を生じた不倫騒ぎも、彼の心をふと過ぎっていく。何回かの逢瀬で あったが、肉体だけのつながりはその破局も早い。夕闇の中で遠くを見据え、 その姿を見ようとするが、白いプロジェクター幕には何も映し出されない、そんな 自分がいる。無秩序に伸びた頭毛と鬚は既に白くちじれ、赤黒く盛り上がったまぶた の下にはうつろな眼が鏡を通してこちらに向いている。口は締まりなく半開きとなり、 うすく涎のあとが見える。全てが幻想の人生だった。 「豊かな社会の底が見えた 景気拡大は、五十七ヶ月のいざよい景気を上回った。 だが、それが後退局面にあることは、経済企画庁も認めている。企業倒産は 十一月末で約一万件、裁判所への個人破産の申し立ても、一億六千万枚を超えた カード社会を背景に激増した。今年の世相を見ると「豊かさの底が見えた」との 印象が強い。勤労者世帯の平均貯蓄高が、初めて一千万円を超えたが、マイホームは なお高嶺の花だ。人手不足もますます深刻化、過労死も話題となった。」 この時期、和邇は浮かれていた。今まで仕掛けた様々な事業が売り上げとして大きな 数字を生み出していた。「俺は優秀だ。一つのグループで二百億円以上の売り上げが 上げられるか、俺しかいない」。 眼を閉じれば、この1枚の黄ばんだ新聞記事から華やかだった頃の姿が、想いが、 体の奥底から沸き起こってくる。眼を開きたくない、心の底からそう思った。 恐る恐る眼を開ければ、そこは全てが無秩序で、テーブルの上には食べ残しの ラーメン、足下には悪臭が漂う服の山、キチンには積み上げられた皿や鍋の 山、全てが現実の世界として存在していた。 右を見れば、遠く微かに鈴鹿の山並がどこか頼りなげに薄く延びている。 さらに眼を左へと緩やかに転じていく。三上山の形のよい山姿が静かな湖面の 先に浮かび上がる。その横には八幡山と沖島が深い緑の衣に包まれるように 横たわっている。更にその横奥には、御嶽山を初めとする木曾の山並が 薄く横長に伏せており、その前にはその削られた山肌が痛々しい伊吹の 山が悄然と立っている。全てが琵琶湖の蒼さを照らし出すように薄明るさの 中にあった。よく見る光景だ、和邇は思った。だが、一転空に眼を向ければ、 秋にしか見られない素晴らしい舞台があった。遥か上には、櫛を引いたような 雲が幾筋もその軽やかな形を見せている。その下には、繭がその固い形を ほぐすような雲がふわりと浮き伊吹の上からゆっくりと比良の山に向って流れ来る。 さらに、しっかりとした二本の飛行機雲を切り取る様に、その下をやや黒味 のある雲がこれも比良に向かい素早い流れで和邇に向うように流れ来るのであった。 ここから見える空は平板としてその奥深さを知る事は出来ない。しかし、 いくつもの雲の流れがその空の深さを示すようにお互いを遮ることなく流れ すぎていく。久しぶりに見る、感じる空の景観であった。 今更ながらと和邇は思う。ある心理学の評価で5,6年前に自身の強みを 見たことがある。将来の見通し、希望・楽観主義・未来に対する前向きな姿勢 と精神性・目的意識・信念のの3つであった。これは、以前にやった自身の評価 と概ね一緒であった。ある調査会社が長年に渡って実施してきた調査によると、 仕事を最も効果的に行うのは、自分の強みと行動を理解した人たちは、仕事や家庭 生活で日々求められていることをやりこなす戦略的な能力に優れているという。 自分にどのような知識やスキルがあるかを確かめることによって、基本的な能力は わかるが、自分の本来の資質「自分だけの特長的な資質」は、上位5つとのこと だった。 「最上志向とは、優秀であること、平均ではなく、平均以下の何かを平均より少し 上に引き上げるには大変努力する。収集心は、あなたは知りたがり屋であり、あなた は物を収集する。あなたが収集するのは情報、言葉、事実、書籍、引用文等 あらゆるもの。更に、内省は、あなたは考えることが好きであり、あなたは頭脳 活動を好む。あなたは脳を刺激し、縦横無尽に頭を働かせることが好き。 そして、目標志向がある。これは、「私はどこに向かっているのか?」とあなたは 自問し、毎日、この質問を繰り返す。最後には、戦略性があり、戦略性という資質 によって、あなたはいろいろなものが乱雑にある中から、最終の目的に合った最善 の道筋を発見することに長けている」だそうだ。 でも、これが何だと言うのだ。乱雑に何もかもが置かれ、台所は混乱の極みとなり、 わが猫たちはそのひもじさに和邇に向い、鳴き訴えることで過ごしてきたが、やがて この男に頼る事は出来ないと外で食べ物を漁る道を選んだ。日が昇り、やがて赤く 染まる部屋の中で、ただ座るのみの生活、まさに座して死を待つ状況である。そんな 俺に、何が5つの強みだ、そんな事を考え過ごしたのが遠い昔の自分にあった、という こと自体が今の和邇にとって、不思議でもあった。あの事件以来、彼は死んでいた。
2016年10月7日金曜日
日々の記録16(旅つくり、水の文化
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