2016年10月7日金曜日

日々の記録30(68年60年安保、横浜の発展、阿頼耶識(あらやしき)

1968年は時代の節目、ベトナム戦争のリアルな映像が世界を席巻する中で、
若者たちが自分たちと国家の関係に疑問を強く抱き始めた。
フランスのパリの5月革命、アメリカの学生の反乱、日本での学生運動の活発化、
など世界で若者たちがデモや学校封鎖、一般のストなどが実行された。
それは60年安保、70年安保闘争の延長の意味合いもあったのだろうが、
60年安保では、国民の政府への抵抗であり、60万人を超す人間がそれに参加した。
これにより岸内閣は解散となり、国民の意識も変化し始めた。
しかし、68年の東大での学生運動は強制的な排除となり、挫折し、さらには、
1972年のあさま山荘での連合赤軍の内部闘争での殺人や内ゲバの凄惨さが
テレビで報道され、その無差別な行動が明らかになり、デモや学生運動への嫌悪が
高まった。70年安保も一応の高まりを見せたが、60年ほどの熱意も薄れ、70年
半ばからは、社会的な拒否意識が強くなった。しかしながら、最近またデモや
抗議活動への意識が高まっている。大きな起点は福島原発事故への原発反対運動
であり、2015年からの安部政権による憲法改正への動きに対する反対運動である。
是には、60根、70年安保に十分な結果を得ず挫折した高齢者グループと
原発反対からネットワーク化された若者たちのグループ(たとえばシールズ)
の2つの年代層が大きくかかわってきている。
個人的には、68年の学生運動、70年安保ともに関係なしと決め込み、ただ
目の前の仕事にのみ全力を尽くしていた自分がいる。しかし、個人的にはやはり
政治に絡むのは、好きではない。その思いが最近のシニアグループのこのような
活動への理解が薄い、参加意識もない、などの行動となっている。多分、これからも
そうなのであろう。


ブラタモリより
横浜は現在370万人の人口で、市としては最大、そしてその発展は「ハマ」
という言葉に代表される。江戸時代は神奈川宿として栄えており、舟の中継点
でもあり、金刀比羅神社もあり、1300ほどの店があった。
その賑わいは東海道53次の浮世絵にも描かれている。
しかしアメリカとの通商条約によって、大きく変わっていく。港の開港を
求めたアメリカの要求に沿う形で、当時砂洲のように伸びていた桜木町
近くの埋め立てを実施し、そこを港とした。これは、東海道よりも離れており、
埋め立ての堀と派大岡川によって、長崎の出島のような形にしやすかったからだ。
その石掘りが今も京急の駅の下に残っている。関内という言葉も、
その島に入るための関所があり、その内と外を現している。
以後、外国との付き合いが増えるに従い、この付近は大いに発展する。
しかし、交通の便が悪く、明治5年には、横浜と関内を鉄道で結ぶため、
山を切り崩した大工事を行った。さらには、蒸気機関車に必要な真水の
確保のため、湧水を集めるためのトンネルも作った。今もあるが、人が
十分通れるほどの洞窟がある。さらに横浜全体が発展するためには水の確保
が必要となり、44キロ先の相模川から配水池としての野毛山まで通す
工事も行った。これは逆サイフォン現象を利用し、自然にやや高台にある
配水池まで行く仕掛けもある。


ブラジルの奥地で黄金を求めて生活する「ガリンペイロ」の映像を見た。
底は完全な無法地帯であり、黄金の悪魔と呼ばれる人間が周辺一帯を
仕切っていた。ここで働く人間は犯罪者であろうと、他人の金を盗むことが
ない限りほとんどのことは許される。しかし、大きな金鉱をあてられるのは
10年に一度程度のこと。まさにばくちの世界だ。こんな世界がある、という
一寸驚きのレポートであった。

中山道は69次と東海道よりも多い。京都から江戸まで530キロだ。
個々には、関が原宿、鳥居本宿などがあり、途中には不破の関がある。
関東関西は湖の関より東西を示している。食文化にも違いが出てくる。
円型の餅と四角な餅やうどん、そばの違いなど。


メディアの怖さを報じた映像の世界。ウクライナの民族紛争を種に報じていたが、
同じ記者が撮った映像に全く違うナレーションで国民をその国の正当性を
信じさせようとするロシアとウクライナ政府。オデッサで発生したロシア系
住民が40人以上焼死したり、殺された映像だが、妊婦が殺されたという
インターネットの曖昧な情報でロシア国民に偽善情報を流した。これによって、
ウクライナへ義勇軍として参加したロシア人が少なからずいた。このテレビ放送が
インターネット上でさらに曖昧な感情的情報となり、世界各国へ拡散した。
ロシアのテレビ局の人間は映像は真実を現しているというが、彼らは現場の
直接の情報ではなく、インターネット上の情報をそのまま自分たちの都合の良い
形で報道する。またこれをまともうける人間もいる。ウクライナの父親と
息子の事例があった。父はロシア占領地区のテレビを見て、その正当性を
考えず、ウクライナは悪者であると思い込み、ウクライナ側にいる息子とは
絶縁状態である。
映像は世界に溢れている。これをどう伝えるか、良心の問題だというが、
正義もまたその視点により表も裏もある。また、多くの人は見たくない、
聞きたくないテーマは初めから意識的に阻害する。
結局は個人の裁量になるのか、でも多くの人がどれほどの中立的情報を
とることが出来るのだろうか、本質的な課題を提示していた。



阿頼耶識
阿頼耶識(あらやしき、Skt: ?laya-vij??na ??????????)は、大乗仏教
の用語。
サンスクリット ?laya ??? の音写と、vij??na ??????? の意訳「識」と
の合成語。旧訳では「阿羅耶識」、「阿梨耶識(ありやしき)」。また、「蔵識」(藏
識)、「無没識(むもつしき)」とも訳し、「頼耶識」、「頼耶」等と略されることも
ある。
唯識思想により立てられた心の深層部分の名称であり、大乗仏教を支える根本思想であ
る。

眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識の8つの識のうち第8番目
で、人間存在の根本にある識であると考えられている。

?laya の語義は、住居・場所
の意であって、その場に一切諸法を生ずる種子を内蔵していることから「蔵識」とも訳
される。「無没識(むもつしき)」と訳される場合もあるが、これは ?laya の類音語
 alaya に由来する異形語である。法相宗では、心は阿頼耶識までの八識とする。天台
宗では阿摩羅識を加えて九識、真言宗ではさらに乾栗陀耶識を加えて十識とする。

はたらき[編集]
ある人の阿頼耶識は、蔵している種子から対象世界の諸現象<現行(げんぎょう)法>を
生じる。またそうして生じた諸現象は、またその人の阿頼耶識に印象<熏習(くんじゅ
う)>を与えて種子を形成し、刹那に生滅しつつ持続(相続)する。
この識は個人存在の中心として多様な機能を具えているが、その機能に応じて他にもさ
まざまな名称で呼ばれる。諸法の種子を内蔵している点からは「一切種子識」(sarva-
b?jaka-vij??na)、過去の業の果報<異熟(いじゅく)>として生じた点からは「異
熟識」(vip?ka-vij??na)、他の諸識の生ずる基である点からは「根本識」(m?la
-vij??na)、身心の機官を維持する点からは「阿陀那識」(?d?na-vij??na、「
執持識」/「執我識」。天台宗では末那識の別名)と呼ばれる。

法相宗の説[編集]
唯識法相宗は、万有は阿頼耶識より縁起したものであるとしている。それは主として迷
いの世界についていうが、悟りの諸法も阿頼耶識によって成立すると説くので、後世、
阿頼耶識の本質は、清らかな真識であるか、汚れた妄識であるかという論争が生じた。
阿頼耶とは、この翻に蔵となす。 唯識述記 2末

三種の境[編集]
種子(しゅうじ) 一切有漏無漏の現行法を生じる種子。
六根(ろっこん) 眼耳鼻舌身意の六根。俗に言う「六根清浄(ろっこんしょうじょう
)」とは、この眼耳鼻舌身意が清浄になるように唱える言葉。
器界(きかい) 山川草木飲食器具などの一切衆生の依報。
阿頼耶識は、常にこの3種を所縁の境とする。

心[編集]
心に積集、集起の2つの義があって、阿頼耶識は諸法の種子を集め、諸法を生起するの
で、心という。
あるいは心と名づく。種々の法によって、種子を薫習し、積集する所なるが故に。 唯
識論3
梵で質多という。これ心と名づくなり。即ち積集の義はこれ心の義。集起の義はこれ心
の義なり。能集してもって多くの種子生ずる故に。この識を説いてもって心と為す。唯
識述記3末

阿頼耶識と文学[編集]
三島由紀夫の絶筆となる『豊饒の海』(第三巻『暁の寺』)において主人公が一旦傾倒
した思想であるが、その後インドのガンガー川畔の巨大な火葬の町ベナレス(ワーラー
ナシー)のガートでの火葬風景を見て、途方もないニヒリズムに襲われる場面が描かれ
ている。これは三島自身の実際のインド体験から発されたもので、その光景は「近代的
自我」に執着し、その孤独に耐えることによってのみ数多くの作品を創出してきた三島
にとってこの唯識思想を微塵もなく打ち砕く巨大で徒労な現前するニヒリズムの現実体
験として映ったようである。
『暁の寺』には、ベナレスでの火葬の光景がありありと描かれている。
三島にとってこの「究極の光景」は彼が営々として築き上げてきた美学をいともたやす
く、一瞬にして微塵もなく破壊したのである。

唯識(ゆいしき、skt:???????????????? Vij?apti-m?trat?)と
は、個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、八種類の識によって成り立
っているという大乗仏教の見解の一つである(瑜伽行唯識学派)。ここで、八種類の識
とは、五種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識を指す。よ
って、これら八種の識は総体として、ある個人の広範な表象、認識行為を内含し、あら
ゆる意識状態やそれらと相互に影響を与え合うその個人の無意識の領域をも内含する。
あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な
存在であり客観的な存在ではない。それら諸存在は無常であり、時には生滅を繰り返し
て最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在は「空」であり、実体の
ないものである(諸法空相)。このように、唯識は大乗仏教の空 (仏教)の思想を基礎
に置いている。また、唯識と西洋哲学でいう唯心論とは、基本的にも、最終的にも区別
されるべきである(後述)。


ーーーーーーー
夜明け時、青白い月がしらじら明けの光の中で、いましも太陽にひれ伏そうと
している。チャトとハナコは朝霧の中を歩いていた。ピンク色の羽のような
スゲとオオバコの濡れた穂先が、二人の足をひんやりなぶった。草の茎に
露のしずくが宝石となってぶら下がり、刀身状の草の葉のあいだには、ふんわり
したパフのような蜘蛛の巣がかかっている。登る朝日が空の低いところで
まばゆく光り、前方にあるものの形がぼやけて霧の中に溶け込んでいくようだ。
チャトは道端の、自分たちの足が踏んでできた平らな跡を指さした。
「あれがわしとあんたや」、、、、
ふたりはこの辺では珍しいポプラの根元に腰を下ろし、風を受けてかさこそと鳴る
葉擦れの音に聞き入った。
「震える木といわれているんや、ポプラは」とチャトは言った。
「すぐに見つけられるんよ。震え方がすごくて、遠くからだと細かな光に包まれている
みたいに見えるんや」
つい最近、主人といった場所のことや仙人猫のいう大昔のことも話した。藁葺き屋根の
家に住む老婆もいれば、何頭かの牛を飼っていた夫婦の話もした。
ピンクの小さな花が一面に咲き乱れ、数頭の牛がのんびりと草を編んでいる、
どこか遠い昔の記憶が二人の中に浮かんでは消えた。
昔この山端に住んでいた猫が一日に十キロ近く歩いて湧き水を飲みに行った、という
話も出た。
仙人猫の話では、
「その猫言うには、猫は大地が無料で与えてくれるものを受け取らなければいけへん、
とね。それは神への感謝の行為やというんや。それ以来、わしも泉を見ると必ず足を
止めて水を飲むことにしているんや」
もっとも、チャトは相変わらず、主人のおいてくれる水しか飲まない。
「ライはんがよく外で水を飲んではるけど、その話を聞いたから」
「まあ、あいつはすぐに感化されるやさかい。そうかもしれへんな」
昨夜、チャトが急にお日さんが出たらちょっと散歩するわ、とハナコに言った。
その話を聞いて、ハナコも一緒に行くことにした。チャトと一緒に歩くのは、
初めてだったが、その訳は知らなかった。
その重そうな体を持ち上げて、チャトは再び歩き始めた。その長く揺らめく影が
ハナコの顔にかかり、彼の黒く見える丸い体が少しづつ遠くへと進んでいく。
今年の五月は晴れの日が少なく、暗い空の下で、日増しに春が薄れ、夏が兆し
ている。街中では見られぬ門構えばかりが立派な庄屋屋敷の、質素なつくり
手入れのとどかぬひろい庭の横を通ると。椿もすでに花が落ちて、その黒い
固い葉叢から新芽がせり出し、柘榴も、神経質な棘立ったこまかい枝葉の
尖端にほの赤い眼を突き出しているのに二人は気づいた。新芽はみな直立し、
そのために庭全体が、爪先たって背伸びしているように見える。
やがて朝日に千地と輝く湖面が見え、数隻の船が影絵のようにその光の
しじまの中に浮きたっていた。
チャトの向かう先はゴローのところだった。この季節、漁を終えた漁船からこぼれた
魚を狙って、ゴローはよく街下の漁港に現れる。一陣の風がチャトとハナコを
かすめながら、魚の匂いを届けていた。
港に着いた船からは映える朝日の中、銀色に輝き空中に飛び交う小魚が舞い落ちる
青葉のごとき不規則な動きを見せている。さらには、体長六十センチほどの
魚が網籠のなかに悠然と収まっている。尾ひれをわずかながら動かしているものの、
観念の体で、朝日にその鱗をきらめかしている。斜めに差し込む日の光の中、
漁師たちがその赤ら顔に数条の汗を見せながら、忙しく立ち働いている。彼らの
影が長く伸び切り、チャトたちのいる防波堤の近くまで来ていた。
その様子を二人はじっと見ていた。二つの猫の彫像が置かれているかの如く、日差し
がその強さを増す中でも動かなかった。
チャトはゴローの出現を期待していた。既に家猫化した二人にとって、目の前の魚
が自分たちの大事な食糧であることさえ、忘れたのかもしれない。
「ゴローさんていう人きいひんね」ハナコの一言で、チャトは立ち上がり、我が家に
向かって歩き出した。
すでに中天に達した太陽が、二人に小さな影を作るだけで、何も起こらなかった。
「偶然と言うものはないのだ。人間も猫も必然という中に生きているだけか」
そんな考えが浮かんだが、すぐに消えた。そんな哲学的発想にチャトは似合わない。






本多は、もう百年もたてば、われわれは否応なしに一つの時代思潮の中へ
組み込まれ、遠眺めされた、当時自らもっとも軽んじたものと一緒くたに
されて、そういうものとわずかな共通点だけで概括される、と主張した
覚えがある。、又、歴史と人間の意志との関わり合いの皮肉は、意志を
持ったものがことごとく挫折して、「歴史に関与するものは、ただ一つ、
輝かしい、永遠不変の、美しい粒子のような無意志の作用」だけに
終わるところにある、と熱を込めて論じた記憶がある。、、、、
時の流れは、崇高なものを、なしくずしに、滑稽なものに変えていく。
何が蝕まれるのだろう。もしそれが外側から蝕まれていくのだとすれば、
もともと崇高は外側をおおい、滑稽が内奥の核をなしていたのだろうか。
あるいは、崇高がすべてであって、ただ外側に滑稽の塵が降り積もったに
過ぎないのだろうか。







重苦しい謎になって澱んでいたものが、この瞬間、見事に解けて涼しくなったような
心地がした。魂の白昼が戻ってきた。能舞台はすぐ手の届かんばかりの近くに、
決して触れえない来世のように輝いていた。1つの幻が呈示され、ホンダはそれに感動
した。


中天に陽あるというのに、薄暗い通りに揺らめくように数人の人の影がある。
和邇にとって、何度かの体験があった情景であった。この旅でも、幾つかの
街、商店街を通りすぎてきたが、あらためて小さな町の衰退の一端を感じたと
思っていた。旅するものにとって、一目見た店並み、それがシャーターが閉まり、
人の動きも少なく、「侘しい」という言葉ですべてが言い尽くされてしまう。
ただそれだけだ。
だが、この旅でもう1つの考えが次第に彼の心を占め始めていた。
本当の街の顔は、少し違うのかもしれない。しがみつくように開いている店、
そして、これらの店は、そこに住む人々にとっては、見えない絆の場所
なのではないか。
あの三島で見た喫茶店は、彼にとっては単なるコーヒーを求めた場所であり、
何所でもよかったのかもしれないが、そこにいた常連と呼ばれる人々にとって、
その日の活力を得られるところであろう。この店もそんな場所なのかもしれない。
彼は、しばし、外に佇み、その様子をうかがった。ゆったりと新聞を読む中年の男、
店主と談笑する二人連れ、口の動きの激しさを増していく四人のおばさんたち、
カウンターの仄明るい電燈の横で、にこやかに相手をしながら、たえず動いている
店主のやや白さの目立ち始めたオールバックの髪。
路地の静けさが一層際立つ。ふと、自分にはこのような情景がなかった、あらためて、
思い、七十年の日常を繰り返し呼び起こそうとした。顧みれば、そのような身近なもの
との緩やかな付き合いの人はいなかった。また、あえてそれを求めなかった。
会社での付き合いでもそうであった。同じ職場の人間同士の付き合いが深く
求められたが、その閉じた狭き付き合いは嫌いだった。むしろ、お客との付き合い
の方がはるかに多く、彼らと旅行もしたり、のみ付き合いもした。それは、ビジネス
という打算的なものというより、彼らの持つ違う世界、その肌触りの違いを大切
にしたかったからだ。
それは付き合いというより、何か違うものを得たいという欲求がそうさせた。
また、街の顔の違いに気が付いたのは、大阪で仕事を始めてからだ。
夜の居酒屋はとくにその隠れた顔をその場限りのひとにとって、中々にみせない。
人とのつながりは店の古い、新しいの趣は関係ない、裏の顔を熟知している人は、
その何かに期待を持ち、人生をも変える場合があることを知っている。
彼もそれを知ったのは、大阪へ来たときその思いを一層強くした。
飲み屋が多くある処は、昼の茫漠とした情景は夕刻より全く消え去り、店の提灯、
ネオンサイン、暖簾の顔が見え始めると生き生きと生気が甦り、昼と全く違う顔
を見せる。夕日に映える水打ちの通り、立ち昇る煙と芳しいにおいの渦、
人はそこに何かを期待するかのように、まるで蟻が巣に食べ物を運ぶが如き
風情で集まり来るのだ。彼もその一人であり、ここで技術バカであった自分の
狭さを痛感させられもした。



初めての家庭生活となった横浜の港南台に向う。
谷の街の趣はこの北鎌倉周辺はまだ残っている。周りを囲むように生い茂る若葉の
繁みはその色を濃くし、時折、紫陽花の紫やピンクの花がその緑の谷間に顔を出す。
ふと気が付けば、紫陽花の花が咲き誇るあじさいの道が藁葺きのこじんまりした
門構えと続くお寺に出会った。明月院とある、山道も門構えもこぢんまりとした
お寺であった。
小さき枯れ野と清明な水光る世界の庭と「明月院やぐら」といわれる岩をくりぬいて
作られた珍しい墓所がさわめく葉音の中で、鎮座している。茅葺の屋根の開山堂
も、冴え渡る翠の輝きを受け、チンマリとした座像のごとき趣きでこちらをうかがって
いる。その家の奥に進めば、丸く繰り抜かれた「雪見窓」が、自然の生業をその中に映
し出し、違う世界を作り出している。雪白の障子越しに緩やかな光が一条の影を
ややかすれた畳の上に落としていた。窓辺の欅の若葉の繁りは深くなっていた。
小さな池もまた、その淵ちかいかなりの部分が薄緑の葉におおわれ、河骨の
黄の花が数輪咲いている。池にひそやかに咲く花菖蒲が紫や白の花盛りを、その鋭い
緑の剣のような葉の叢生から浮き上がらせていた。
その池辺に静かにたたずむ二つの影があった。二つの枯れ木が寄り添うように老夫婦の
姿がそこにあった。白いシャツに紺色の帽子をかぶり、右手には金縁のある杖を足元へ
直線的に落としている。そばには、同齢の夫人がやや体を前かがみにするように
池を見ていた。彼は、二人の周囲の木々の茂りも、青空も、雲も、茅葺の屋根も、
すべてのものがこの二人を見守るように、世界の中心をなしているような感じを
抱いた。そこには、幾多の苦労を乗り越え、その生き方に達観し、その絆を保って
きたという静かな強さがあった。彼は、思わず声をかけた。
「この近くにお住まいですか」
夫人がその言葉にゆったりと答える仕草で、こちらに向き直った。
「はい、この裏に住んでいます」
「お宅様は」
「京都の方から来たのですが、昔はよくこの辺を歩いていました」
「そうですか、でもこの辺も大分に変わりましたね」
誰に聞かせるという風情でもなく、池の方に視線を向けながら、わずかな微笑みを
含ませている。老人は、相変わらず、大地にしっかり根付いた老木のごとき趣で
二人の話を聞いているようでもある。
「以前は、朝の散歩でも一人で静かに歩けたものですよ。でも、今はいかん。
観光客が多くてゆっくりと歩くことも出来ん」
老人が突然、やや甲高い声で二人の会話に入ってきた。木々がざわつき、なんの
鳥であろうか、青空に飛び去った。
二人は、戦前からこの近くに住み、変わりゆく北鎌倉の情景を見てきたという。
老人が言うには、川端康成の「山の音」の描く世界であったとも言った。
それは、「山の音に死の予感をし、若い息子の嫁に一縷の恋心を抱くという
老人のくすんだ心境を描き、妻、息子、娘など日本の家の微妙な空気と悲しさ」
を描いている。この小説と昔の鎌倉の情景との接点がどこにあるのか、直には
理解できなかった和邇ではあったが、今はしっかりとした夫婦という枠の中で、
過ごす二人も、ここに至るまでは、それなりの苦悩があったのでは、と変な
勘ぐりも生じた。だが、この夫婦は幸せなのであろう。それは夫人が老人を
それとなく労わる仕草でもわかった。俺もこうなりたかったものだ、思いだけが
彼の心を過ぎていく。
やがて、二人はその場を辞していった。やや足が不自由な老人に寄り添い、支えるかの
ように夫人がつき従っていく。帰りしなに見せた夫人のやや細面の顔に浮かんだ
微笑みを彼は、しばらく反芻していた。
俺たちもあのような夫婦に慣れたのだろうか、と。
また戻る静寂、その中で、窓框にとまっていたが、ゆっくりと室内へ這い上がって
来ようとしている一疋の玉虫に気が付いた。緑と金に光る楕円の甲冑に、
あざやかな紫紅の二条を走らせた玉虫は、触覚をゆるゆると動かして、糸鋸のような
肢をすこしづつ前へ移し、その全身に凝らした沈静な光彩を、時間のとめどもない
流れのうちに、滑稽なほど重々しく保っていた。
俺自身の感情の鎧はどうだろうか、ふと考えた。この甲虫の鎧ほどに、自然の美麗な
光彩を放って、しかも重々しく、あらゆる外界に抗うほどの力があったのだろうか。
俺は無常という言葉でごまかし、ただ流されてここまで来た、
それが彼の結論であった。

モーリーンがとらえたハロルドの目は、無防備で剥き出しであった。
ハロルドがモーリーンの目を捉えた。これまでの歳月がバラバラと
崩れて消えていった。モーリーんの目には、遠い昔の奔放な若者が
とりつかれたように踊って、彼女の全身の血管を愛の混沌で満たした
若者がよみがえった。

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