2016年10月7日金曜日

日々の記録34(磐梯山、81歳のケアマネ、ソーシャルインパクト投資

https://www.youtube.com/watch?v=ruUDvl_Z2wU
湯煙日本 温泉の旅

京都の豆腐
http://intojapanwaraku.com/3676
やな漁他
http://j100s.com/gyogyougyoson.html
生活の均質化
https://www.youtube.com/watch?v=jbkSRLYSojo
京鱧とアユ料理
http://intojapanwaraku.com/4891

ブラタモリ
磐梯山は表と裏で大分違いがある。
表バンダイは猪苗代湖磐梯の山並みの絶景がある。これを楽しむため、
有栖川卿が天鏡閣を作った。
だが、裏磐梯は20以上の様々な色を持つ湖沼群からなる。これは明治21年に、
小磐梯と呼ばれる山が山体崩壊し、その火砕流の流れがくぼみを作り、その後の
流れ込む水と硫黄などの化学反応で赤やみどり、などの色を作り出した。
特に五色沼は銅江あかの強酸性の沼、弁天、毘沙門、赤沼。母沼。
この噴火では、500人以上の人が犠牲となり、一面荒れ野となった。
しかし、この地の再生のため、杉やアカマツ、10万本以上を植林することで、
今の景観が出来たという。さらには、この地の温泉は海水が混ざっていることもあり、
温泉を煮詰めることで塩が取れたという。会津藩の時代には一日四〇〇トンもの
製造をしていた。

八一歳のヘルパーさん
生涯現役を目指し今も頑張っている。一二年前に夫の死を迎え、自分には何ができる
かの結論であった。小さいころ、両親が早く死んで、色々な人にお世話になった
ことがその原点にある。七三歳で介護ヘルパーの資格を取り、八〇歳でケアマネジャー
となる。
今は、介護する人との会話をきちんとするため、手話も学んだ。
老いを感じ、孤独に生き始める多くの老人とはその気概がちがう。

ソーシャルインパクト投資
社会事業への投資として最近、注目を浴びている。
それを主業務とする投資会社も出てきた。
彼らの特徴は、投資先をその社会貢献度に応じて評価することである。
その資金は、社会企業としての貢献を考えている企業、小口の投資家、篤志家などのよ
うだ。
特に、行政がなかなか踏み切れない事業に対して、先行してその社会事業を始め、
先駆け的に動くことが結構有効である。行政では議会や税金としての使い方としての
妥当性など色々と制約があり、やるとしても数年後となる。それでは事業として
手遅れの場合もある。それを企業の評価と論理で、ダメな場合はその損失も
覚悟のうえで実施できる点が有効である。寄付でないからその実効性は高い。
始めはロンドンのホームレス対策事業で始まったそうだが、今は日本でも、
尼崎や大川市などで少しづつやられるようになった。
民間でも弁当配食など、様々な分野でも始まっている。


ーーーーーー
はじめは、ちぎれ雲が浮かんでいるように見えた。浮かんで、それから風に少し
ばかり、右左と吹かれているようでもあった。
台所の隅の小窓は、丈の高い溝板塀に、人の通れぬほどの近さで接していた。
その曇りガラスを中から見れば、映写室ほの暗いスクリーンのようだった。
板塀に小さな節穴があいているらしい。粗末なスクリーンには、幅3メートル
ほどの小路をおいて北向こうにある生垣の緑が、いつもぼんやりと映っていた。
狭い小路を人が通ると、窓一杯にその姿が像を結ぶ。暗箱と同じ原理だろう。
暗い室内から見ていると、晴れた日はことに鮮やかに、通り過ぎる人が倒立して
見えた。そればかりか、過ぎていく像は、実際に歩いていく向きとは逆の方へ
過ぎていった。通過者が穴にもっとも近づいたとき、逆立ちしたその姿は窓を
あふれるほどにも大きくふくれあがり、過ぎると、特別な光学的現象のように、
あっという間にはかなく消えた。


チビは腰を落としてじっとそれを目で追う。やがて全身を低い姿勢に緊張させると
四肢をそろえてわずかに後方に身を退き、ばねをため込む様に丸く収縮する。
そこから、猛烈な勢いで地を蹴るや、白い小さな玉に敢然と飛びかかる。そうして、
両の前脚のあいだの宙にいつか玉を数往復させるほど打ち合わせながら、
こちらの脚の間を走り抜ける。
てんでんの性格は、こんな超絶技巧の途中にも、突然としてあらわれた。ピンポン玉
を見捨て、身を鋭角に翻したかと思うと、次の瞬間には置き石の影に潜むヒキガエル
の頭に小さな掌を載せている。と、また次の瞬間には反対へ飛んで、片方の前脚から
突っ込むように草叢に滑り込み、白いおなかを見せたまま、小さくひくつきながら
こちらを見ている。かと思うと、もう遊び相手には見向きもせずに、物干し竿に揺れる
下着の袖口を垂直とびでつかんでから、母屋の庭へと木戸を抜けていったりする。


二組の夫婦は、永い付き合いにも一度も見せなかった裸の顔をさらしていた。
とはいうものの、夫人同士は顔をそむけ合って、自分の良人のほうばかりを
盗み見ている。男同士が相対しているのだが、伯爵のほうはうつむきがちで、
卓布へかけている手も雛の手のように白く小さいのに、侯爵はその裏にしっかり
した精力の裏打ちを欠いているとじゃいいながら、怒った癇筋が眉間に逆立った
大ベシ見の面を思わせる逞しい赤ら顔である。夫人たちの目にも、とても伯爵
のほうに勝ち目が有りそうには思われない。
事実、はじめ怒鳴り散らしていたのは侯爵のほうだったが、怒鳴っているうちに、
さすがに侯爵は、何から何まで強い立場の自分が威丈高になっている間の悪さ
を感じていた。目の間にいる相手ほど、衰えた弱小な敵はいなかった。顔色も
悪く、黄ばんだ象牙を掘り込んだような、薄い稜角の整った顔立ちが、悲しみ
とも困惑るかぬものを浮かべて黙り込んでいる。伏目がちな目は、深い二重瞼が、
1そうその目の陥没と寂寥を際立たせ、侯爵は今更ながらそれを女の眼だと思った。
伯爵の、だるそうな、不本意げな、身を斜交いに椅子に掛けた風情には、侯爵の
血統のどこにも見当たらぬ、あの古いなよやかな優雅が、もっとも傷つけられた
姿でありあり透かして見られた。それは何か、汚れ果てた白い羽の鳥の亡骸の
ようだった。鳴き声は良かったかもしれないが、肉も美味ではなく,所詮
食べられない鳥の。



「湖はとぎすましたような晴れた冬空を沈め、森閑と横たわっている。
そこからのぞむ比叡の山脈は湖の西に南から北に走りながらくっきりと
空をかかげ、圧倒的に、力強く、生命力にみちあふれていた。
日本仏教の根本道場と呼ぶにふさわしい威厳と神聖さを感じさせた。
琵琶湖と比叡は混然と一体化して、それを切り離す事の出来ない完璧な
1つづきの風景を形成している。俊子の目にはそのとき、山脈があくまで
雄雄しく、湖がかぎりなくおおらかにふるまっているように見えた。」
その合間に日本の文化や西行、一遍などの出家者の恋の話し、外国の風景、
や名画の話など、豊かな話題が散りばめられている。
男と秘密に旅をした堅田の町も思い出される。
「旧い家並みの家々は、どの家もどっしりと地に根を生やしたような落ち着きで
肩を並べていた。生まれてくる前に、通った事のあるような所だと、俊子は
感じていた。」
また、雪の降る日、浮御堂に立った後、隣りの料亭で鴨鍋を突付く、月が出ている。
その光景を、
「湖に薄く舞い落ちる雪が月光に染められ、金粉をまいているように湖水の面に
映っていた。湖面も月光に染められ金波がひろがる上に雪が休みなく降り続いている。
それは不思議なこの世ならぬ幻想的な光景だった。」
「人が寝とんなはる時間、夜通し車走らせて好いとる女ごの許ば通いなはる。
そぎゃんして、病気になって死にはってもよかと覚悟しとらすっと」と。
なおも責める尼僧に、「そぎゃんこと解決できるなら、だあれもなあんも
苦しむことなか。そぎゃんこと悪かことわかとって、とめられんばってん、
死ぬほどきつか思いすっと」



東急東横線の綱島駅周辺は、その昔温泉街だったことが知られている。温泉が盛んだっ
たのは1955(昭和30)年ころだったともいわれている。
そのころ、綱島駅周辺には80軒近くの温泉旅館があったともいわれ、多くの芸者が肩を
ならべて歩き、現在とは違う風情を見せていた。
土手から駅方面に向かう「パデュ通り」は石畳が整備され、たくさんの彫刻がある。
パデュ通り
こんな彫刻がたくさんある
綱島には8つも商店会があって、春秋のフリマ、夏のサマーフェスティバル、綱島公園
の桜祭りなど年中賑わっている。そこで商店会の多くが集まっている西口を散策。
全国に先駆けて数多くの防犯カメラを設置。安全な町、綱島を謳う
お地蔵さんが綺麗に守られている町は優しい町
変な店みっけ。なんで綱島で「海の家」やねん
「海の家・居酒屋」の店員は、やっぱ海パンなのかな? などとくだらないコトを考え
ながら歩いていると、赤い和傘を発見。
隠れ家 甘味風月堂と書いてある。店は細い路地の奥にあるようだ
路地の突き当たりを曲がると店があった

六本木、飯倉にあった店が起源の風月堂。こちらに移ってきて和菓子屋をやっていたが
、一度閉めて、甘味処として復活。
おすすめの「抹茶白玉ぜんざい」650円
白玉は注文を受けてから練って作る。なめらかな舌触りともっちりと柔らかい絶妙な食
感。
最高級の京都宇治抹茶「瑞峰」の濃厚で爽やかな風味とそれを引き立てる香り高く旨味
のしっかりしたアズキ。
通りの傘が閉じている時は準備中で、開いていれば営業中。季節に合わせて毎日メニュ
ーが変わるランチ(1000円)もあるが、すぐに売り切れてしまうとのこと。
上質な材料を機械を使わず手作りするという、こだわりの薯蕷饅頭(じょうよまんじゅ
う)は150円。
 
手で練るという羊かんはお土産に
最後に
綱島公園には古墳もある。5世紀後半のもの。
綱島古墳。案内が無ければただの山にしか見えないが…
農耕文明黎明期には、川の氾濫は肥沃な土壌を与えてくれる自然の恵みでもあった。氾
濫の多かった鶴見川流域は古くから栄えた場所だったのだろう。
江戸時代は天領(幕府の直轄地)として栄え、池谷氏の尽力により桃の名産地となり、
大正時代には温泉が湧き温泉街なる。
現在では桃も、温泉もわずかに片鱗を残すのみだが、今度は住宅街として発展し、商店
会が8つもある暮らしやすい街に変貌を遂げた。
綱島は時代とともにその顔を大きく変えてきた街だった。




足元から建物へと黒い小さな列が続いていた。蟻たちは乾いた土の上を一直線に
少しゆらめくような形で彼の目の前を横切る様に右から左へと見事な行進ぶりだ。
黒く光る顎の牙で自分たちと同じくらいの大きさの灰色の塊を加え、小さな触角
を絶えず前後左右に動かしながらしずしずと進んでいく。その黒い鎧の体は
8本ほどの脚で支えられ、日の光に一段とその精悍さを放っている。ふと彼は、
思う、この蟻たちの喜びはどこにあるのだろう、彼らの日常はどのように始まり、
夜のとばりによって、どのように終わるのであろう。そのいじらしいほどの
真剣な姿は彼に小さな感動を与えた。昔の自分もこれと似ていたのではないか、
言い知れぬ感情がわき上がる。その間にも、蟻たちは建物の横に灰色の小さな隆起を
見せている彼らの巣へとそれぞれの塊を持っていく。それは彼の関西の仕事ぶり
を思わせるような情景にも見えた。ただ目標に向かって邁進する自分がいた。
巣の中から排出物をその隆起へと持ち出すもの、100メートル離れた草むらから
食料となるべきものを運び込むもの。それぞれが決められた役割の中で、日々を
過ごしていくのであろう。そして、役目に応じられなくなったものは、その巣から
排斥され死を迎える。俺も同じだったのかもしれない。中天から浴びせられる
日を背に感じながら目の前を行き過ぎる蟻たちを見ながらそんな夢想がわいてきた。
その列の横に数匹の蟻が監督するかのような風情で動いていた。
「お前は誰の上司?、監督者?でもお前も運ぶ人になるかもしれないな」
その声に応じたのか、列の横にいた1匹の蟻がこちらに向いてあの頑強な牙を
向けたように見えた。


しかし、彼は松尾芭蕉や柳田国男の生きた時代の変化にも熟知していた。
2000年の初めから世界的な広がりと深さを示し始めたインターネット
は彼らの生きた時代とは大きく違う環境と社会変化を作り出した。
ある人は言う。
「世界は今急速に均質化しています。20世紀には旅で全く異なる他者、全く異なる
社会に出会うことが可能でした。けれでも21世紀は世界中のほとんどの人が
皆同じような服をまとい、同じような音楽を聴き、同じようなファストフード
を食べる、そういう光景が現れると思います。、、、、
人はそれをコピーだらけの旅だと批判するかもしれません。しかしそれは偶然や出会い
がないことは意味しません。観光もツーリストの行動によってそれぞれが全く異なる
顔を見せるからです。世界中が均質になったからこそ、その均質さを利用して
あちこち行って、様々な人と出会い「憐みのネットワーク」を張り巡らせるべきだと
思います」。
この2ヶ月以上の旅では、その兆しはやや大きな街では感じられるようになった。
彼が無機質と感じた情景がそれなのであろう。だが、彼はそれをよしとは思わない。
江戸時代、徳川幕府が各藩をその体制下に置いていたが、地域ごとの様々な文化や
慣生活習、地域社会の成り立ちは大きく違い、それが明治時代の活力の基であった
という説もある。互いの多様性を認めることは社会進化の大きな力なのでは
ないのだろうか。そこに人としての生きる喜びもある。「百代の過客」からにじみ出る
夫々の紀行者の喜びはそのまま、これからも保ってもらいたいもの。
何処に行っても同じような人間がいて、嗜好や行動も違わない社会を思うだけでも
気持ちの良いものではない。



改元紀行(大田南畝なんぽ)
彼は古くは更級日記から最新の名所図会にいたるまで、東海道に関する文献と言う
文献を手当たり次第に読み、旅に備えたという。道中名所に来ると必ず脚を留め、
其の地についての説明を傾聴している。
また、目に留まったあらゆる石碑の碑文、額の文字を、几帳面に書き取っている。
北条五代の墓石を探す。「苔蒸したけれど文字鮮明に見ゆ。後に経営いとなみ
建てしものなるべし。斉の七十余城にも劣らざりし勢いを思うに、涙も禁とどまらず」
また、詩的な描写も多い。
此処は相模伊豆の国境にして、二本の杉立てり。右は焼けたる山の如く、左は深き
谷かと危うく、踏み所の石あらじ。古木老杉木末を交えて物凄く、衣の袖も冷ややかに
打ち湿りたるに雨さえ降り出ぬ。大枯木小枯木など言う辺りより、輿の戸さし籠りて
蹲り居るに、輿かく者も石に躓き、息杖立てて漸うに下り行く。
そして日記のそここに、自伝的情報の断片を散りばめている。
今日は弥生三日なれば、故郷には孫娘の許に囲居して、桃の酒酌み交わすらしと思うに
我が初度の日にさえあれば従者に銀銭取らせて祝ひぬ。また、京都に着いた後には、
「八坂の塔の高きを見るにも、彼の浄蔵貴所の行法を試し事まで思い出される。
この辺りの人家に土の人形をひさぐ。古郷の孫の玩びにもならんかと、
一個求めて懐にしつ」。



Googleが予測できない言葉を手に入れろ!
 東浩紀の新著である『弱いつながり 検索ワードを探す旅』。現代日本におけるイン
ターネット論でありながら旅行記でもあり、著者の思想が平易な言葉で引用・解説され
ながら、一種の自己啓発的な様相も帯びる自在性がある。ざっくりと言えば以下のよう
に読み取った。

インターネットを使いこなすほどに再帰的な最適化によって階級が固定化される
最適化から外れるためには「システムの外側にあるキーワード」が必要となる
そして「もっと知りたい」という欲望を「キーワード」に結びつける
そのためには旅にでたり、複数のコミュニティを渡り歩いて偶然性を積極的に取り入れ
るべき
再帰的な最適化と階級の固定化
 特にインターネット上においては自身にとって居心地の良いコミュニケーションや情
報収集のための調整がしやすいという側面がある。RSSやSNSにはお気に入りの人ばかり
を登録してあるし、GoogleやAmazonはこれまで行動履歴からレコメンドしてくるし、不
愉快な人や言葉はスパブロミュートして視界に入らないように出来る。ネットはむしろ
「閉じこもる」ための道具になってしまった。


沖の霞が遠い船の姿を幽玄に見せる。それでも沖は昨日よりも澄み、伊豆半島の
山々の稜線も辿られる。5月の海はなめらかである。日は強く、雲は微か
空は青い。きわめて低い波も、岸辺では砕ける。砕ける寸前のあの鶯色の
波の腹の色には、あらゆる海藻が持っているいやらしさと似たいやらしさ
がある。5月のうみのふくらみは、しかしたえずいらいらと光の点描を
移しており、繊細な突起に満たされている。3羽の鳥が空の高みを、ずっと
近づきあったかと思うと、また不規則に隔たって飛んでいく。
その接近と離隔には、なにがしかの神秘がある。相手の羽風を感じるほどに
近づきながら、また、その一羽だけついと遠ざかるときの青い距離は、
何を意味するのか。三羽の鳥がそうするように、我々の心の中に時たま
現われる似たような三つの理念も。
午後二時、日は薄い雲の繭に身を隠した。白く光る蚕のように。
丸く大きく広がった濃藍の水平線は、海景にぴっちりはめた蒼黒い鋼の
箍だ。沖に一瞬、一か所だけ、白い翼のように白波が躍り上がって消えた。
あれには何の意味があるのだろう。崇高な気まぐれでなければ、きわめて
重要な合図でなければならないもの。そのどちらでもないということが
ありうることだろうか。潮は少しづつ満ち、波もやや高まり、陸は巧妙
きわまる浸透によって侵されていく。日が雲におおわれたので、海の色は
やや険しい暗い緑になった。その中に、東から西へながながと伸びた
白い筋がある。巨大な中啓のような形をしている。そこでけ、平面が
捻じれている様に見え、捻じれていないかなめに近い部分は、中啓の
黒骨の黒っぽさを以て、濃緑の平面に紛れ入っている。日がふたたび
明らかになった。海は再び白光を滑らかに宿して、南西の風の命ずる
ままに、無数の海驢の背のような波形を、東北へ東北へと移している。
尽きることのないその水の群れの大移動が、何ほども陸に溢れるわけ
ではなく、氾濫は遠い遠い月の力でしっかり制御されている。
雲は鰯雲になって、空の半ばを覆うた。日はその雲の上方に、静かに
破裂している。



東洋の夫人は、姿態の美、骨格の美において西洋に劣るけれども、皮膚の美しさ、
肌理の細やかさにおいては彼らに優っているといわれる。これは私の浅い経験
でもそう思われるのみならず、多くの通人の一致した意見であり、西洋人
でも同感するものが少なくないが、私は実はもう一歩進めて、手触りの快感
においても東洋の女が西洋に優っているといいたい。西洋の婦人の肉体は
色艶といい、釣り合いといい、遠く眺めるときは甚だ魅惑的であるけれど、
近く寄ると、肌理が粗く、産毛がぼうぼうと生えていたりして、案外お座が
覚めることがある。それに、見たところでは、四肢がすっきりしているから
いかにも日本人の喜ぶ固太りのように思えるのだが、実際に手足を掴んでみると、
肉付きが非常に柔らかで、ぶくぶくしていて、手ごたえがなく、ぎゅうっと
引き締まった、充実した感じが来ない。
つまり男の側からいうと、西洋の婦人は抱擁するよりも、より多く見るに適した
ものであり、東洋の婦人はその反対であるといえる。特に、日本人の肌は
西洋人のそれに比べれば、はるかにデリケートであって、色は白いとは言えないが、
その浅黄色を帯びたのがかえって深みを増し、含蓄を添える。これは畢竟、
源氏物語の古から徳川時代に至るまでの習慣として、日本の男子は婦人の
全身の姿を明るみでまざまざと眺める機会を与えられたことがなく、いつも
行燈ほのぐらき閨のうちに、ほんの一部ばかりを手触りで愛撫したことから、
自然に発達した結果であると考えられる。

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