2016年10月7日金曜日

日々の記録17(消える祭、ゲストハウス、過疎地での試み

3/1付の読売新聞奈良版に、こんな記事が載った。見出しは《「天誅踊り」存続ピンチ 
尊皇攘夷 急進派しのび100年 高齢、過疎化 後継者不足に》。

《五條市の旧大塔村天辻地区で、明治維新の先駆けといわれる天誅(てんちゅう)組の遺
徳を偲(しの)び、100年以上にわたって続く「天誅踊り」が存続の危機に立たされて
いる。高齢化や過疎化が進んで後継者不足となり、最盛期に約40人いた舞踊経験者は
4人になった。住民たちは「このままでは、伝統ある踊りが途絶えてしまう」と懸念し
ている》。

《尊皇攘夷の急進派集団だった天誅組は、1863年に大和五條(現五條市)で皇軍の
先陣として決起。五條代官所を襲撃して気勢を上げたが、政変によって幕府軍に追われ
、鷲家口(現東吉野村)で壊滅した。市内には天誅組ゆかりの戦跡が残り、天辻地区で
は、本陣跡が地域のシンボルにもなっている。本陣跡では、毎年夏に盆踊りの恒例行事
として、天下国家のために散った若き志士たちを弔う天誅踊りが披露されてきた》。

伝統のどんと祭消える 仙台・北根妙見神社


どんと祭を開催していた北根妙見神社前の広場

 宮城県内各地で14日、小正月の伝統行事「どんと祭」が開かれるのを前に、仙台市
青葉区北根の北根妙見神社で、祭り開催が取りやめになった。御神火をたいていた広場
が、ことしから使えなくなったためだ。地元住民からは「地域のお祭りがなくなって寂
しい」との声が上がる。氏子は近隣の神社に参拝するよう呼び掛けている。
 北根妙見神社は、藩制時代の1627年に建立。伊達藩が相馬藩から戦利品として持
ち帰った妙見尊像をまつる。道路の拡張工事に伴って約30年前、地元企業によって現
在の場所に移された。
 社務所は町内会の集会所も兼ねる地域の活動拠点だったが昨年3月末、企業と町内会
との無償貸借契約が終了。どんと祭が行われていた約100平方メートルの広場や社務
所の建つ土地を企業側に返還した。拝殿など一部の土地は今後も残る。
 どんと祭には毎年約800人の地元住民が訪れ、甘酒やめざしの瓦焼きが振る舞われ
た。北根地区のほか隣接する双葉ケ丘や黒松からも住民が参拝に訪れたという。
 近くに住む宮城教育大付属小4年の蘇武周君(10)は「どんと祭には家族と一緒に
来ていた。もう来られないのは寂しい」と話す。地元で生まれ育ったという会社員の加
茂敬司さん(39)は「幼いころから続いていた貴重な地域の祭りだったのに…」と惜
しむ。
 氏子の庄子実さん(77)は「移動手段が限られる近隣のお年寄りには不便を強いる
ことになり申し訳ない。神社は変わらず残るので、これからも地域の神社として親しん
でほしい」と説明。正月飾りは泉区の二柱神社などへ焼納するよう立て看板などで案内
している。
 市によると、市内のどんと祭開催場所は2005年が157カ所、10年が148カ
所、ことしは143カ所と減少傾向にあるという。


消えゆく祭り・集落の現実
五穀豊穣、無病息災を願う伝統の祭りに異変が起きている。
香川・坂出市「北条念仏踊」、三重・熊野素「二木島祭」、鳥羽市「火祭り」、岐阜・
高山市「日本一かがり火まつり」、栃木・茂木町「百堂念仏」など開催できない祭りが
増えている。
三重県鳥羽市「火祭り」(国指定重要無形民俗文化財、提供:鳥羽市教育委員会)は4
00年以上続く祭りだが、今は取りやめられている。
石川県能登半島・キリコ祭りを紹介。
能登の300余の集落で受け継がれ、今年文化庁の日本遺産に認定された。
しかし過疎や高齢化で担ぎ手が減少し、現在では“60の集落”でキリコがなくなった
といわれている。
祭りは集落の住民が一堂に集う貴重な機会だったが、祭りがなくなり住民同士のつなが
りが薄れているという。
高知・仁淀川町・椿山地区では600年続いている「椿山太鼓踊り」に他の集落の住民
が地元の人から踊りを習って受け継がれている。
祭りの担い手をインターネットで募集するサイトも登場。
今年4月に開設され全国から担い手を募集している。
8月には北海道・八雲町「根崎神社例大祭」に4人の女子大学生が参加するなど成果が
表れ始めている。
地域伝統芸能活用センター・矢田部暁主任調査員のコメント。
東京・中央区の映像。

芳賀日出男「日本の民俗暮らしと生業」より
「私はかえりみると、写真家としてきわめて狭い道をたどりながら歩いているような気
がする。20世紀の後半になっても変化のおそい習慣がわだかまっている日本人の暮らし
ぶりにひたすら写真の視線をむけてきた。
 そこには人々が毎年くりかえし続けているハレとケの生活のリズムが見える。......
....就学して私は教室の片隅で折口信夫教授の国文学の講義を受けることになった、は
じめのうちは全く事業の内容がわからなかった。
 それでも折口の上方(かみかた)言葉の含みのあるやさしいイントネーションに引き
込まれて授業に出席し、講義に耳をかたむけた。東京弁の歯切れの良さとはまた別の優
雅さがあった。くりかえし語る「依代(よりしろ)」とか「御霊(ごりょう)」という
言葉を聞くうちに、母国の古代からの神秘的な信仰がわかりかけてきた。
 あるとき折口は講義のなかで語った。
 「神は季節の移り目に遠くから訪れ、村人の前に姿をあらわします」と。
本当だろうか。もしそうなら、写真に撮ることができるかもしれない。今にして思えば
、折口の学説の根幹をなす「まれびと」論であった。
 私はそのひと言に目覚める思いがした。」 

国津神事 福井県三方群三方町 (上巻14ページ)
当夜での祝宴を終え、村立ちをする。朝からの振舞酒でみんなうかれて楽しそう。
大事な御幣をかかえ、氏神の境内へと練り込む。


限界集落の現状
NHKで中津江村の一人暮らしを支えるNPOの映像があった。ここは昔は金山もあり
、
一時は8000人以上の人が移り住んできたという。しかし、今は870人ほどが
住み高齢化比率が6割近くとのこと。多くの年寄りはこの生まれ育った家や村から
離れたくないと1人で頑張っている人が多い。その支援をするために「ちょいてご
(ちょっと手伝う)」という考えで支援をしているグループがある。中心メンバーは
大阪で事業をしていたが、体を壊し、ここに移り住んできたと言う40代の男性。
多くの過疎地でよく見られる風景であり、課題であるが、結局は自分たちで
解決するしかない。でも、彼のような人が一人づつその様な村に行けば、また違う
風景になるかもしれない。そんな事を考えさせるレポートであった。

ゲストハウスの急増
外人向けを中心に全国でゲストハウスが増えている。今は600軒以上もあるという。
ゲストハウス紹介のコミュニティサイトもある。東京で開催されたゲストハウス
開業のためのセミナーには多くの、特に若い人が参加していた。
IターンやUターンなど含め都会生活に馴染めなくなった人が多くなっているのであろ
う。
また、外国人も単なる観光地めぐりでは本当の日本の生活が分からないと、
サイトの評価なども見ながら、訪れると言う。例えば、須坂市の茂野町では、
観光向けには何もないのであるが、街の人全員がおもてなしの心で接しており、
それがクチコミ的に広がり、外国人の訪問が多い。
ゲストハウスと言えども、旅館業であり、その関係の資格やノウハウが必要ではあるが
、
地元で世界の人と楽しめることが嬉しいというオーナーがいた。多分、これが
彼らを動かしている動機であり、エネルギーなのだろう。
時間は掛かるが、この志賀の里でもこれをうまくやれるベースはある。
単に観光客を呼び込むことにのみ時間を費やすのではなく、このような地域全体の
つながりで人に来てもらう事を考えるのも重要なのでは。
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    海の匂いと森の呼吸が息づき、土の壁が身を寄せる鎌倉文化と総称される小さ
な
世界である。何10年ぶりかの鎌倉であった。
鎌倉は多くの癒しを与えてくれた場所である。
能、お茶とわずかではあるが、日本文化の香りを嗅がせてもらった場所でもある。
四規(和敬清寂)、七則(茶は服のよきように点て、炭は湯に沸くように置き、
冬は暖に夏は涼しく、花は野の花のように生け、刻限は早めに、降らずとも
雨の用意、相客に心せよ)の言葉も始めて知った。
特に、「寂、すなわち静かでなにものにも乱されることがない不動心を表しています。
客は静かに心を落ち着けて席入りし、床の前に進む。軸を拝見しそこに
書かれた語によって心を静め、香をかぎ花を愛で、釜の松風を聴く。
そして感謝を込めてお茶をいただく。こうした茶の実践を積み
重ねていくことによって自然の中にとけ込み自然を見つめ、自分をも深く見つめる
ことができます。まさに自然と同化することによって寂の心境に至るのです。
心に不動の精神を持っていれば、どんなことにもゆとりを持ってやっていける
という心の大きさが生まれます。そうしたゆとりの中にこそ、茶の道が奥深く
開けてゆくことでしょう」とにこやかに微笑む先生の顔は神々しくも見えた。
ものを新しく創りだす事に自負はあったものの、単なる仕事馬鹿の自分を
あらためて突きつけられたような気もした。白くか細い腕が進めるお茶の
香りとは別に強烈な力で頬を打たれた気分となった。
昔と変わらぬ江の電の横を歩き、極楽寺駅を通り過ぎながら家族で降り立った頃の
紫陽花の花の紫を思い出した。極楽寺坂は坂の両側に土の壁がせまり、壁に沿って
蔦や藤蔓が忍び落ちてくる。その緑の壁を彩るように数輪の百合が白い光を
発していた。静寂の中に彼はいた。これが、鎌倉だと思った。電車のような細長い
建物があり、中からコーヒーのまろやかな匂いとともに人のさざめく音が
微かに聞こえてくる。その出窓から中を見れば、古時計やアンティークな人形
が見えた。やがて観光客相手で賑わう鎌倉駅前の喧騒を避けて丸七商店街で、
消えて行く昭和の香りをかぐ。昔のままの狭い通路にひしめく飲食店や雑貨店は、
橙色の裸電燈に値札の紙が薄明るく照らされて、行きかう人の風で揺り動き、
どこか浮世離れしている雰囲気がある。しかし、この郷愁は、どこからと
立ち止まり行きかう人の波から外れポツネンと思う。
昭和が自分にとって、全てなのだ。あの天皇の崩御のニュースを聞いて大阪に
向った1月の日、それ以前が自分の人生の良き時代のだったのかもしれない。
全てが、自分の考える形で身を結んでいた。
今回も多くの商店街を歩いたり、足の痛みを薄めるために休憩をとったが、通り過ぎる
人の少なさと何か画一的な雰囲気の中で、その印象はほとんどない。
少年時代の駅横の商店街の姿を思い出すようで、何かわからぬが仄々した風情
が伝わってきた。空腹の覚えとともに生しらす丼への強烈な想いがわいてきた。
釜揚げのしらす丼は多いが、生は中々に賞味できない。新鮮なしらすはほんとうに
美味しい。和邇の氷魚の冬の味も良いが、やはり海の持つ味わいは、少し違うようだ。
生姜の絞り汁をきかせて食べるのは最高である。 
鎌倉は砂丘の街でもある。二の鳥居から、鶴岡八幡宮の境内まで続く若狭王子、
若宮大路、に沿った一段高くなった参道が段葛と呼ばれている。石塁を積み上げ
その塁上を歩けるようにしており、かつては、由比が浜まで続いていたと
言われている。源頼朝が、妻である北条政子の安産を祈願して整備されたそうだが、
当時は、ぬかるみの道でそれを避けるために高い舗道のための道を造ったと言う話も
聞く。ここは、春には桜並木が道路沿いに桜並木を作っているが、今は青々と
風にそよぐ若葉の道でもある。
初めての家庭生活となった横浜の港南台に向うが、途中、紫陽花の花が咲き誇る
あじさい参道でも有名な明月院に寄ることにした。門構えも石造りのこぢんまり
としたお寺であった。小さき枯れ野と清明な水光る世界の庭と「明月院やぐら」
といわれる岩をくりぬいて作られた珍しい墓所がさわめく葉音の中で、鎮座している。
茅葺の屋根の開山堂も、冴え渡る翠の輝きを受け、チンマリとした座像のごとき趣き
でこちらをうかがっている。その家の奥に進めば、丸く繰り抜かれた「雪見窓」が、
自然の生業をその中に映し出し、違う世界を作り出している。


       空をべったりと覆う白くて分厚い雲が浜松の街を押しひしぎ、全てのエ
ネルギー
を吸い取ろうとしているように見える。カフェや屋台が舗道にあふれだし、
人々は肌着1つになって飲んだり買い物をしたりしている。だが、強烈に迫り寄った
この年の暑さで彼らの肌は真っ赤に染まっている。和邇はジャッケットを脱いで腕に
かけて置いたが、シャツの袖で頻繁に汗を拭わねばならなかった。
草花の綿毛がそよ吹く風さえない空気の中に浮いていた。わずかな日陰を見つけ、
先日からの足先の痛さを少しでも軽くしようとシューズを脱いで腰掛けていると、
60代ほどの男が近づいてきた。手には、黄麦色の泡がはじけているビール
を持っている。
「やけに暑いですな、まだ6月だと言うのに」。
「はあ、」その後の言葉が出なかった。この瞬間、見えない壁でも立っていて
欲しいと思った。
「最近、旧の東海道を歩こうかな、て閑を見ながら歩いているですけど、大変ですわ」
男は、こちらの思いとは関係なく、ただ、喋り続けている。
「おたくは、どちらからです、その足、大丈夫ですか」、結構世話好きなようだ、
和邇はそう思った。ゆったりとした白髪に白いあごひげ、どこかヤギに似た
風貌であるが、顔は紅く光り額には数筋の汗がきらめいている。黄色のTシャツに
茶色のジーパンを上手く着こなしているが、和邇よりも年上のようだ。
「滋賀から東京まで歩いているんですけど」ようやく和邇は相手の質問に答えた。
男の顔に黒い影が左から右へと流れて行く。それにあわすかのように、白髪がなびく。
「ほー」、男は太陽を見ながら、ビールを一気に飲み干し、「頑張って」と一言。
あっけないほどの終わりかただ。男が立ち去った後のまだその熱気が残るかのような
舗道を見る和邇、人生はこんなものかな、ふと取り留めない想いが体の中から
わいてきた。


     白山が青く澄み通る先に静かに横たわっている。檜のそま山がまっすぐ延び
る道の
周りを取り囲む様に続いている。少し先から聞きなれた祭囃子の音がゆるりと
流れてきた。芳賀日出男さんと言う村の生活をファインダー越しに見てきた写真家がい
る。そのモノクロの写真からは、多くの人の喜びが垣間見られたモノで、和邇が好きな
写真家の1人でもあった。
彼は言う、「私はかえりみると、写真家としてきわめて狭い道をたどりながら歩いて
いるような気がする。20世紀の後半になっても変化のおそい習慣がわだかまっている
日本人の暮らしぶりにひたすら写真の視線をむけてきた。そこには人々が毎年
くりかえし続けているハレとケの生活のリズムが見える」。さらには、「あるとき
折口は講義のなかで語った。「神は季節の移り目に遠くから訪れ、村人の前に姿
をあらわします」と。本当だろうか。もしそうなら、写真に撮ることができる
かもしれない。今にして思えば、折口の学説の根幹をなす「まれびと」論であった。
私はそのひと言に目覚める思いがした。」。
しかしながら、そんな彼の思いも遠く消しされようとしている。まだ仕事で美浜など
に来ていた頃、顔見知りとなった宿の人から面白い祭があるから見に行ったら、と
言われた。国津神事は、三方町の村で古くから行われていた。当夜での祝宴を終えると
村立ちをする。朝からの振舞酒でみんなうかれて楽しそうであった。さらに、
大事な御幣をかかえ、氏神の境内へと練り込むのである。今でもそれは続いて
いると言う。柳田國男や宮本常一、芳賀日出男の言葉からは、昭和の初めまで
神、仏の存在を信じる人が少なくなかった事を感じさせる。モノクロで残る各地の
神への祈りや踊り狂う多くの写真は、神、仏の存在を固く信じている人々が
いた事をみせている。さらには、芳賀の撮った地方の様々な光景は、今の日本では
余り感じられない自然との調和を信じる人の、身なりは粗末だがそれを苦にしない、
生きることへの強い意志と仄々と立ち上る温かさを見ることが出来る。
村の婚礼の宴にお祝いの焼き魚を右手にもち、左手には縄で縛った豆腐を持って
出かけようとする父親と子供たちのどこか楽しさが伝わる写真、田植えが終り農家
では神棚に三把の稲を供え家族揃ってささやかな祝宴をする「さなぶり」と言う
情景の写真、また、村の祭りに集う人々の晴れやかな顔、狐の面をつけた稲穂祭り、
皆の心が一つになる行事であった。和邇もその最後の見届け人かもしれない、ふと
思う。しかし、多くの「五穀豊穣、無病息災を願う伝統の祭り」は危機状態にある
と聞いた。メディアでは、「香川・坂出市「北条念仏踊」、三重・熊野素
「二木島祭」、鳥羽市「火祭り」、岐阜・高山市「日本一かがり火まつり」、
栃木・茂木町「百堂念仏」など開催できない祭りが増えている。三重県鳥羽市
「火祭り」は400年以上続く祭りだが、今は取りやめられている。
また、石川県能登半島キリコ祭りでも能登の300余の集落で受け継がれ、今年
文化庁の日本遺産に認定されたが、過疎や高齢化で担ぎ手が減少し、現在では
“60の集落”でキリコがなくなったといわれている。祭りは集落の住民が一堂
に集う貴重な機会だったが、祭りがなくなり住民同士のつながりが薄れているという。
しかし、高知・仁淀川町・椿山地区では600年続いている「椿山太鼓踊り」
に他の集落の住民が地元の人から踊りを習って受け継ごうとする動きもある」が
盛んに喧伝されている。祭は、自分のふるさとの思い出であり、自身の原点
のような気がする。故郷とはいえないが、和邇も母の田舎であった山形の山寺
近くの祭に祖母に連れられその人の多さと人々が放つ熱気が今も体の中に
ある、そんな想いが強い。眼を閉じれば、暗闇に揺らめくかがり火と単調な
リズムながらこの身を浮かすかのように奏でられる太鼓の音、どこで焼くのか
とうもろこしを焼く甘酸っぱい香り、そして私の手をとる祖母の細いが
しっかりした腕が何十もの画となって見えてくる。同時に、空に紅く染まる
布の広がりを見せる赤とんぼの群れにただ見上げるだけの私がいる。
それは、遠い記憶から切なさを伴いながら現れた。家の近くの天皇神社の祭礼の
日であった。すでに、春から夏への季節の移ろいが始まり、大きく育った草花が
それぞれの花や大きな葉を気の向くまま広げていた。
この頃、彼方此方で春の祭りが行われる。田には水が満ち、稲の子供たちが一列
となって希望の歩みを始めるようだ。今日は近くの神社の春の祭りである。
昨日から我が家にも風に乗って祭囃子の練習の音が聞こえてきた。
ゆるゆるとした尺のテンポと小気味よさを伴った太鼓の連打する音がこれを聞く
人々にもなにか心地よさを与えてくれる。
そして全く雲が一片足りとも見えない蒼い空とともに祭りの日となった。
普段わずかな人影だけが残されている境内には8基ほどの神輿がきらびやかに
鎮座している。その少し先にある鳥居から3,4百メートルの道の両脇には
色々なテントが軒を並べている。焼きとうもろこし、揚げカツ、今川焼き、
たこ焼きなど様々な匂いが集まった人々の織り成す雑多な音とともに一つの
塊りとなってそれぞれの身体に降り注いでいく。やがて祭りが最高潮となると
ハッピを着た若者たちが駆け足で神社に向って一斉に押し寄せてくる。
周りの人もそれに合わすかのようにゆるりと横へ流れる。
駆け抜ける若者の顔は汗と照りかえる日差しの中で紅く染め上がり、陽に
照らされた身体からは幾筋もの流れとなって汗が落ちていく。
神社と通り一杯になった人々からはどよめきと歓声が蒼い空に突き抜けていく。
揚げたソーセージを口にした子どもたち、Tシャツに祭りのロゴをつけた若者、
携帯で写真を撮る女性、皆が一斉に顔を左から右へと流していく。
その後には、縞模様の裃に白足袋の年寄りたちがゆるリゆるりと歩を進める。
いずれもその皺の多い顔に汗が光り、白髪がその歩みに合わし小刻みに揺れている。
神社の奥では、白地に大宮、今宮などの染付けたハッピ姿の若者がまだ駆け抜けた
興奮が冷めやらぬのか、白い帯となって神輿の周りを取り巻いている。
私の横には妻がざわめきの中にいた。何の屈託もなく、晴れやかな顔の人たちと
同じ様に、晴れやかな姿を見せていた。
そんな想いを頭にかすめながら、和邇の足は、その音のほうに向っていった。


        和邇は、横浜から栃木、川崎、横浜、京都、滋賀といわゆる流浪の人
でもあった。
今いるこの地でも、自分は風の人、とたえず思わされてきた。営々と続いて来た
その地の文化、人のつながりの奥深いところにある襞には今でも触れられてはいない。
特に病気以降、地元の人とのつながりを深めようとしてきたが、たかが数年で
それが出来るわけではない。悔恨に似た掴みきれない何かがいつも彼の心の
襞のどこかに住みついていた。そして、それが腎臓を少しづつ腐食して行った
あの病気と同じ様に次第にその黒い襞を広げている様でもあった。そして、それが
あの4年前の事件で彼の心と身体を更に深く蝕んだ。
小さな雲の塊があたりにいくつもの陰を落としながら走りすぎていく。
かなたの小さな峰峰に指す光はすすけてようで霞んだ緑が続いている。その中に、
小さく仕切られた畔道が、幾十にもなって重なり合いながら地平線を形作っている。
そして、その夫々にはこの地を守り耕してきた人々の想いがあるはず。彼の知らない、
だから、想像するしかないたくさんのものを思い描いた。道路、畑、森、小さな山並
そして、何代となくそこに足をおろした多くの人間たち。
昭和初めまでは、まだ多くのハレやケの日々を過ごしていた。稲は自分たちの命を
つなぐものとして、多くの儀礼を作り出した。正月の仕事始めの日に、農家の主人は
田に出て、鍬先を数度田に入れて耕すマネをする。田の神に農耕の姿をお目にかけ、
豊作を祈るのである。「鍬入れ、春田打ち、農立て」などといわれていた。
田に種籾を播いた日には、「種まき祝いや水口祭り」をする。さらに、田の神を
招く田植え祭り、稲が穂を出し始める7月上旬には、害虫の発生がないように
「虫送り」をし、「雨乞い」「風祭り」、豊作感謝をあらわす「穂掛け祭り、新穂花」
、「神嘗祭」と自然への感謝と一体感を高めていく。今聞こえる祭囃子の音も、
その感謝の1つなのであろう。芳賀日出男の「日本の民俗」の様々な写真を見るたび
わき起こる心の揺れは、その姿が日本各地で消えつつあるとはいえ、和邇には
たえず感じられる衝動に近いものであった。芳賀は言う、「神は祭りの場に降臨
してくる。祭主の祝詞により神は祭りの挨拶を受け、願いを聞く。そして神は
人々に生きるエネルギーを与える。それは神と人との共食であり、芸能である。
我々の生活はケの日常が続くと、活力が失せ、怠惰になる。非日常のハレの機会
の祭日に神と交歓し、活力を得て、日常生活に戻るのである。」と。
共食も交歓も、得られない日々であった。いま旅する彼の想いも同じ様を見せ、
その地での深い仕草を理解できずに過ごしてきた70年の日々と重なり合いながら、
彼の歩みを一層重くしている。心地よい祭り太鼓のリズムとは裏腹に次第に
その流れから外れていく自分を強く感じていた。


      我が家のベランダには、リクラインの椅子がある。肘掛のところのニスは
剥げ、
やや疲れきった風貌であるが、我が家の全員が愛する椅子でもある。四季を
感じつつ、二十四節気の音を聞きながらこの10年ほどを過ごしてきた。
そこに座ると二階のベランダと張り出した梅ノ木やさくらんぼの木々から蒼く
澄む空と櫛をすいたような軽やかな雲たち、時には厚く黒々とした雲、飛び交う
小鳥たちが一片の額の絵の様に広がり、そこに集う人を優しく包み込み、休息
と自然の優しさを与えてきた。その揺らすたびに鳴るギコギコという音とともに。
眼前の白い壁が薄く光り始め、橙色を帯び、徐々にその明るさを増し、やがて
純白の光となって周囲を照らし出す。その白さと対比する様に、和邇のいる椅子
からは、薄青色の布をかけたかのように空の蒼さが天上に広がっている。その蒼さを
切り取るように四、五枚の枯れ葉が足下に落ちてきた。ふと、1年前、病院で
見た雲清の変化を思い出す。ガラス窓の向こうで繰り広げられる光と雲の
協奏は、茜色から金色に変わり、やがて澄んだ青色へと見る世界を変えていった。
静寂の中に広がる街の朝の顔がそこにあった。活気に満ちた世界を繰り広げる前の
静けさが街を覆っていた。今、この椅子からみる情景もそれに似た空気を
醸し出している。静けさの中にある一抹の希望。希望と言う言葉からは、
以前のような心の躍動はないものの、心は不思議と満たされている。
頭の上では、ひつじやうろこ状の雲たちが広がり始め、やがてその下を灰色の
雄牛の如き雲が二つほど左から右へと流れ去っていく。
俺もあと何年かな、そんな想いが彼の心を過ぎる。
春の梅ノ木を横目で見ながら冬の寒さから開放された喜びを感じつつ甘い香りに
包まれている主人の姿が多く見られ、猫たちは温かさがその陽射しとともに高まる
昼からは先ずハナコが寝そべり、そこへレトがハナコを追い出しに現れる。
その取り合いは、春から秋へと続く。ライはこの2人にお構いなく好きなときに
現れ、先住の猫たちを追い出し悠然とそこに納まる。ただ、夏は夕暮れ時にしか
その椅子にはだれも現れない。時が進み、空の蒼さと流れる風、さらに近くの
金木犀の甘い香りが庭を支配し始めると、主人とハナコ、レトの取り合いが
始まる。もっとも、最近のハナコは夜遊びが慣れたのか、夜抜け出し、朝
主人が雨戸を明けるとノンビリと椅子の上で御睡眠している。冬、雪の中で
端然とその冷たい空気に抗うかのように椅子は一人そこにいるときが多くなる。
やがて来る春の木々の音とそれに群れるほととぎすなどの鳥たちの合奏の日々
を待ち続けている。しかし、彼のあるべき姿も後数年であろう。無生物である
彼にも寿命はある。彼のそこにいる価値もやがて失われる。主人やチャトが
そうであるように忽然と消え、人々、猫たちの記憶からも消えて行く。

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