フローについて http://www.ted.com/talks/mihaly_csikszentmihalyi_on_flow?language=ja ポジティブとは? http://www.ted.com/talks/martin_seligman_on_the_state_of_psychology 滋賀美味しいもの http://shigaquo.jp/ 夕闇が迫っていた。木々の梢が硬質なうねりを見せる空を背に輝きを放ち、 やがて最初の風に打たれて身を震わせた。木の葉と小枝が宙に舞った。 鳥たちが叫びをあげた。彼方で雨の帆がはためき、私と山際の木々との間に 垂れさがった。私は折りたたみの傘の中に縮こまり、雨の最初数滴をしのいだ。 一面薄墨を引いた景色の中で黄色に変色し始めた畑だけが山の裾まで伸びている。 どこにも隠れ場所はない。 慌てて着た防水服を叩き、なん筋もの雨が首筋を下り、伸縮性のある糸を織り込んだ 袖口を駆け上がる。やがて雨粒が胡椒の実のように身体を打ち、水溜りで渦を巻き、 側溝を猛烈な勢いで走始める。 しばらくの間、沈黙の中に妻の言葉だけが響いていた。彼女の発する声は和邇には 届かず、ただ部屋の中に充満し、消えていく。目の前には、怒りに支配された人の 姿がただあるのみである。そして、あらためて人生が一瞬にして変わりうるもので あることに気付かされて胸をつかれた。ごく日常な仕草、普段交わす会話、自分の パートナーの犬の散歩をしたり、いつも靴を履いたりと言うごく日常的なことを していながら、大切なものを失おうとしていることに気づかない、ということ だってありうるのだ。人とは鈍感なものだ。その変化が眼前に現われない限り、 事態の大きさを理解できないのだ。むしろそれは理解する事が怖く、敢えて 見過ごしているのかもしれない。彼は何も言わなかった。 背筋をぐっとのばしたが、口はポカンと開いているし、顔が漂白でもされた 様に蒼白だった。暫くして、やっとその口から出てきたのは、小さくて ずっと遠くから聞こえて来る様な声だった。普段のあのどよめきにも似た声 からは想像の出来ないか細さと頼りなさのこもった声だった。 和邇は、息苦しさを覚えた。脚か胸のどれかひとつでも、あるいは、筋肉の ひとつでも動かしたりすれば、必死となって抑え付けている激情が堰を切って 溢れ出すのではないかと不安だった。足が微かに震えている、気持のどこかで そんな声が聞こえた。 ハナコは賢い猫だ。まだノロと一緒に野良猫生活をしていた時のことがその脳裏 浮かんだ。食べ物を運んでくれたあの老婆の優しさが、そして、横で静かに彼らを 見ていた老人の優しさが蘇った。彼らが遠慮したにもかかわらず、半分は野良猫 としての警戒心の故でもあったが、慰めと休息の場を提供してくれた。 そんな老夫婦の親切を受け入れた時、彼らは新しい何かを学んだ。 受け取ることは与えることと同じ様に贈り物だと言う事を。なぜなら、 受け取ることも与えることも、ともに勇気と謙虚さの両方を必要とするからだ。 前々日の夜、その家の縁の下で寝ていたときに感じた安らぎを思い出した。 そんなことをあれこれと考えながら歩く彼らの眼下では、どこまでも続く 大地がはるかな空と溶け合っていた。その道でさえ、春の生きるものの息吹き、 夏の強い陽射しからの強力なエネルギー、秋の大地の恵み、冬の次の春への希望を 与えてくれた。そこは普段よく通る道ではあったが、今見るそれは優しさと安らぎ を与える場所に見えた。ふいにハナコは気付いた。 ノロのように野良猫として猫の尊厳を守るのも良いが、あのニコニコしながら 2人に食事を出してくれた大きなオッサンと優しそうなおばさんのもとで暮す のも、このことと同じなのだ。彼らもハナコから何かを受け取りたいから食事 を出すという行為で、それを促しているのだ。ハナコはノロと別の道を行く事を 選んだ。ノロは何も言わなかった。それから暫らくして、ハナコのノンビリとした 姿が我が家にあった。 露地と言うのは、不思議な場所だ。 通りを一筋入っただけなのに、違う世界がある。通りが時代に沿ってその姿を 変えていくのだが、露地はその流れに逆らい、幾10年もそこに生きた人、生きる 人の痕跡を残していく。春になれば、家から年寄りや御かみさんが梅や少し経てば 桜の賑わいに誘われるように這い出してくる。家の前の縁台や露地の角にある ごみ置き場の横で、あるときは立ち話に花を咲かせ、ある時は時候の挨拶 とともに家に誘われ、時には犬の散歩の途中で子供たちに囲まれる。 昼は子供たちの遊び場として、その声に誘われかのように、家でくすぶっていた 大人たちをも引きずり出す。 少し前までは、露地の多くは舗装もされず、雨ともなれば、ぬかるみと化し、 露地に住まう人々は大いに迷惑をしたものであるが、それが時候の挨拶ともなり 人々のつながりの一つともなっていた。夏には、垣根越しに夕涼みの一刻を 仕事から帰る人のなごみであり、安らぎの場所でもあった。家々の中の団欒の 光りが周囲を照らし、その開放感が暑さに負けそうな人の心の支えともなった。 一番、露地が華やぐのが、秋の夕べである。特に満月とその光の下で迎える 日々は柔らかな適度の涼しさと乾いた空気のすがすがしさがそこにいるだけで 明日への力が湧いて来るのだった。日中の蒼い天空と薄く白く流れる鰯雲は、 更にその透明感を高め、そこに集う人々全てを心地よくしていく。 冬は、その寒さが人々を家に閉じ込めるが、子供たちは元気だ。特に雪の 降った日は、露地中に子供の声が鳴り響く。まるで、そこは白く小さな遊園地。 白く降り注ぐそれが金粉の如く、子供たちに降り注ぎ、笑顔と嬌声を もたらす。 ふと目の前を自分が走り去る。ベーゴマのぶつかる音、やめんこの跳ねる世界 がそこにある。皆の輪の中で、遊ぶ自分がいる。横でニコニコとそれを見守る 母がいる。子供の背丈ほどしかない板塀の向こうからは、洗濯物を干しながら、 これも近所のオバサンたちと高笑いの会話が続く。 白い割烹着のオバサンは頭をうしろにのけぞらせて笑っている。 彼女たちの笑いは、身体の奥底から湧き上がってくるようだ。露地と言う狭い空間で あるが、蒼き空の下で広々とした海を目指し、深い水をたたえ、のびのびと流れて くるたくさんの川の響きのように、子供たちの声を掻き消すかのように。まだ若い 娘のような奥さんはくすくす笑った。ひとつひとつの喘ぐような笑いと甲高い声が、 眼に見えない紐をひっぱる眼に見えない手によって、この露地に満ちてくる ようである。 その中に、屈託なく遊ぶ自分がいた。多分、これは願望だ、と思った。 正直を言うと、ライはその雌猫の顔を、初めにちょっと見たときは、 「ちょっといいな」と思った。が、つくづくと見ているうちに、だんだん 方々にアラが出てきて、美人でもなんでもないと感じ出した。ただ、 足が長く、身体全体がすらりとした、胴のくびれた、尻の大きい、 白く長い尻尾、その白さの目立つ体全体がある種の味わいのある肉付き が、美人であるかの如く猫たちの目を欺くだけで、橙のように円い顔の造作を、 一つ一つ吟味すると何処と言って取り得がない。鼻は高いけれども黒く大きいし、 眼は細く長く目尻が軽薄そうに下がっているし、いやに色の紅い薄い唇が 蓮っ葉らしく大きく切れて、しかも、鳴くと三日月型に大きく裂けるようだし、 悪く言えばこの街にはこのくらいな御面相はいくらでもある。それに、若い くせに雄猫を向こうに回して、威張り散らし頗るつきの強情のように見えて、 あまりいい気持がしなかった。 家もその住む人と同じく様々な顔を持つ。 コンクリートで全てが覆いかぶさられたような無機質な顔の家、白い石塀と 僅かな枯れ木の如き梅ノ木が1つのみの殺風景な庭、その佇まいの単調さから 清潔と言うよりも人の気配のない家の様だ。多分この家の人は冷めた心の 持ち主なのであろう。その隣りは、木々が家を占拠したごとく、家の佇まいよりも 桜、百日紅、樫、花見月、ゴールデンクレストなどの木々が生茂りその下には 五月、ツツジ、雪柳などの小粒の花が足元を多くの色で取り囲んでいる。木々は 自然体で伸びやかに育ち、四季折々の草花がその下で自分たちの命を咲き誇って いる様でもある。ここの主は、ジーパンにTシャツでノンビリと出てくるのでは。 瓦葺の屋根が重々しく周りを睥睨する板壁の和作りの家には老夫婦がひっそりと 住んでいるのかもしれない。紅い瓦に黄色の壁、緑の芝生に合う形で作られた 小さな煉瓦の花壇、そしてそこに芽を出している黄色のチューリップの群れ、 ここは新婚さんがいるのかもしれない。 この小高い丘から街一面が見える。よく見るとこの丘と反対にあるこんもりした姿の 森の間からは、夕陽にそのきらめきを見せる琵琶湖が家々の上に浮かぶような形で 垣間見られた。家々は西から一直線に指す光りを浴びて、紅く燃えているようだ。 黒や茶色の屋根が幾重にも重なり東の彼方に消えていく。蒼い空と屋根の重なりが 少しづつ色を失いつつ、やがて来る暗闇の時に合わせるかのように徐々にその景観を 整えている。主人は、もう17年か、と思った。ここへ移住して来た時の屋根と 連なりの記憶は薄くなっていたが、これほどの連なりになっていたのをあらためて 見た思いであった。そして、夕陽の先を見れば、うす赤く染まった中に比良山が その稜線を黒く引き、いつも見る姿とは違うようにも見えた。数羽の鷹であろうか、 その赤薄い空の中をこちらの森に悠然とした体で、飛んでくる。岡の後ろの森に 数本の高い杉の木があるが、そこが棲家なのかも知れない。よく見れば、その森も 杉を中心にまばらな木々の群れとなり、以前と比べて小さく萎んだ形になっている ような気がした。鬱蒼とした木々の塊りではなく、木々それぞれがその姿をさらした 姿となり、その間を落ち行く陽射しが数状の光りとなってこの丘にも届いていた。 丘には、黄色やピンクの名も知らぬ小さな花々がそれぞれの色の群れをなしており、 数羽の雀がなにやらつまびやかにさざめきながら群れていました。 主人の顔は大きく変わった。冬がその全てを支配し、黒と白の世界になった。 眼は、湖の黒く重たい雲に覆われた灰色の水面の如く悲しさを満たしている。 眉毛は、冬の風に吹き飛ばされた丸裸な木々の黒い小枝ようにたわんでいる。 肌は、比良の山並の冬のわびしげな薄緑色を帯びている。顎は、その直線の 山肌を削り取られた伊吹山無様な冬の稜線だ。高い額は、広々とした湖面で 白い波頭を見せるように思考の流れを乱れさせている。 狼殺しと鷹追いの一人二役をやっているかのように、彼の戸口 から一方を追い払い、窓の下枠から他方を入れまいと、昼夜働く。 自分のブラウスの袖口を彼の青いスーツのポケットに入れた。 スカートの裾をズボンの脚に絡めた。もう1着のドレスを彼の青いカーディガン の腕で包んだ。目には見えない何人ものモーリーんとハロルドが衣装ダンス の中で、外に踏み出すチャンスを待っている。 それを見て彼女の顔に微笑が広がり、やがて彼女はなみだにくれた。それでも、 タンスの中身はそのままにしておいた。 ハロルドは、鏡の中の、おぼろげにしか覚えていない顔と対面した。 皮膚が黒ずんだ襞となって垂れている。その下にある頭骨を包むには、 皮膚が大き過ぎ、余った部分が下がっているという感じだ。 額と頸骨のあたりに切傷が5つ、6つ。髪の毛とひげは思った以上に ぼさぼさ、眉毛と鼻孔からは針金のようにごわごわした長い毛が 飛び出している。もの笑の種とはこの事だ。はみ出しものだ。 手紙を出すために家を出た男の面影はどこを探しても見当たらない。 歴史認識 最近、ゴードン教授らを中心に歴史認識のキチンとした対応への宣言が出された。 彼によれば、日本が出そうとしている阿部首相の戦後70年の声明に対して、 中国、韓国の民族意識の煽るための偏見的な対応に憂いを表している。 確かに過去の歴史問題の対応は難しい事が多い。これをもう少しキチンと 事実認識を基本として対応して欲しいと思う有識者の想いであろう。 これに賛成する人も居るが、阿部首相が出すこの時期を狙うという事は 政治的な思惑があるのでは、という学者も居るようだ。 この点で2つのことも考えなくてはならない。 一つは、最近の意見の異なるものの極端な排除とそれを受け入れないという 風潮である。卑近な霊では、ヘイトスピーチの増加や異なる意見の出版物の 発売停止などの偏った行動の増加である。もう一つは国による歴史の伝え方が 違い、それによって若者が間違った方向に向けられていることへの懸念である。 それは中国、韓国、日本の学生の直接対話でも明らかな様である。 50代第二の人生 企業のリストラの動きは変わらない。業績が良いといっても、昔の勢いを 持っている企業が少ない中、人件費の重みは大きい。 NHKで40代後半、50代の人の第二の人生に向けた自分探しの映像を見た。 この歳になると、過去の栄光、自身の固定観念があり、「じぶんとはなにか?」 にキチンと向き合うのは中々に難しい様だ。 人生塾では、まず「自分史」を書かせ小さい頃、若い頃に熱中した事、楽しんだ事を 見つめ直してもらう。ここまだ新鮮な時代の想いを見て発見し、第二の人生で やりたい事に気付いてもらう。自分の原点を見つける作業が主となる。 ある人は、「やはり私はモノづくりにこだわる」を結論し、ある人は 「人生の出会いを大切にしていきたい」という形で自分を再確認する。 自分の心を問い直すのも良い事だ。 彼が好きな曲がある。馬場信英の「スタートライン」、正に今の自分の心境なのであろ う。 私はこのような局面にならなかったが、自分で自分の道を選んだつもりである。 それがただしかったか、どうかは死での旅に出るまで分からないのであろう。 それも又人生である。 目利きビジネスが盛ん。 インターネットの拡大で、多くのものがクリック1つで手に入るようになった。 しかし、情報の処理よりもその発生の方が圧倒的に多くなり、ある調査では、処理量は 数%と言うデータもある。このような状況をビジネスの一つとして捉えた様々な ビジネスモデルが登場している。 自身の着たい衣服をスタイリストなどのプロに任せるサービスがある。 air closetと言う会社が始めた。自分の好みや着てみたい色などを登録すると、 それにあわした3点ほどの服が届けられる。それもレンタルも可能。 どうしても、自分の思考から抜け着れない人がプロの智慧を借りて新しい自分の 姿を見出す。お互いがwin-winの関係が成り立つわけである。 服装だけではない。食べ物の選別や読みたい本の選択まで、幅広く目利きの力を 活用したビジネスがある。岩田屋と言う本屋が紹介されていた。 また、新製品開発でもこの目利きの力を活用し始めている。 各地域にいる中小企業とのつながりの深いコーディネータ(産業コーディネータ) のネットワーク化を進めている会社がある。リンカーズは地域で活躍している 地域の中小企業支援の専門家を登録して、ある新製品に必要な技術を持っている企業 とのマッチングを図る。過去にも、マッチングの仕組みやシステムが行政を中心に 色々と作られたが、思うような効果は上がっていない。中小企業の持っている 技術を評価し、その専門家を信用すると言った人の要素を考慮してなかったから である。 優秀な目利きの人は、流行への鋭敏なセンスと情報に加えて顧客側の個性の 把握がきちんとできる人である。 最近は、単なる情報提供のビジネスでは満足できない顧客が多くなっている。 マッチングを基本とするビジネスでも、顧客側の個性や想いをきちんと把握し、 それにあわしたお任せとしてのビジネスが出来ていないと中々に難しい。 また、一時はやりかけたシェア、マッチングのビジネスも顧客側が選べる スタイルでないとこれもその拡大は難しくなる。 この点を克服したのが、クラウドワークスであり、街コンなのであろう。 私自身も、その様なマッチングのシステムを作ったが、大きな効果は得られなかった。 一人一人の専門家と中小企業とのつながりを上手くシステムに盛り込めなかった からであろう。実は、この課題は以前からも指摘されて来た事でもある。 今回も今後上手く行くのか、不明であるが、是非大きな成果をあげてもらいたいもの。 琵琶湖特有の食文化を広めようと、安土城考古博物館(滋賀県近江八幡市安土町下豊浦 )などが選考を進めてきた湖魚のブランド「琵琶湖八珍」に、ビワマス、コアユ、ニゴ ロブナなど8種の魚介類が選ばれた。 11月に同館が発表した湖魚料理の人気投票の結果を基に、識者や観光関係者らでつく る、県ミュージアム活性化推進委員会の選定委員が議論を重ねた。ほかにハス、ホンモ ロコ、イサザ、ビワヨシノボリ、スジエビが入った。 選ばれた8種のうち5種が琵琶湖固有種で、料亭から家庭料理まで広く親しまれている 。人気投票で上位だったウナギ、アユ(大アユ)、シジミなどは供給量や独自性などの 観点から外された。 「八珍」を広め、湖魚料理に親しんでもらおうと、同館などは1月から4回「琵琶湖 八珍カルチャー&ツアー」を開く。湖東地域の料理店で、同館の大沼芳幸副館長が湖魚 の生態や漁法を紹介し、八珍料理を味わう。 19日の第1回では愛荘町で酒蔵を見学し、ホンモロコとイサザを舌と耳で学ぶ。参加 費5千円。問い合わせ、申し込みは休暇村近江八幡TEL0748(32)3138。 「鰉」 ヒガイは、漢字で書くと「鰉」と書きます。これは、明治天皇が琵琶湖水系の瀬田川に て獲れたヒガイを食したところ、非常に好まれたことから付けられた物です。 日本に生息するヒガイは3種存在しますが、霞ヶ浦に移入されて現在繁殖している種 は「ビワヒガイ」という種で、最大20cm程に成長する種です。霞ヶ浦には、水産資源と して琵琶湖よりの移入が大正6年に行われ、その後も数度の移入が行われて現在に至っ ています。他水系でのヒガイの分布は、「カワヒガイ」が濃尾平野以西の本州及び九州 北西部に生息し、「ビワヒガイ」「アブラヒガイ」は琵琶湖のみに分布していましたが 移入や湖産鮎の放流に混じりかなりな範囲に分布を広げてきています。 ヒガイ類はタナゴ類と同様に二枚貝に産卵する習性がありますが、タナゴ類が鰓葉腔 に産卵するのに対してヒガイ類は外套腔に産卵します。また、二枚貝がない場合には石 の隙間などにでも産卵します。 ヒガイは白身の魚で、味は非常に淡泊なため天ぷらにして食べるのが一般的です。( 骨は比較的硬めです。) ヒガイを飼うには? ヒガイを飼うのは特に難しい物ではありません。飼い方の概要としてはタナゴの飼育 法に書いているものと同様ですので、そちらをご覧下さい。ここではヒガイ特有の事項 を取り上げます。 ヒガイは通常警戒心が強いため、水槽に入れてから数週間程度は餌を食べないことが あります。しかしそのうちに食べるようになりますので無理に食べさせようとしなくて も大丈夫です。慣れれば他の魚よりもなれなれしいというか図々しいと言うかの状態に なります。また、餌の問題としては元々肉食が強いため(熱帯魚・金魚のフレークや粒 状の餌も食べます)冷凍アカムシや糸ミミズなどを併用します。 産卵期に水槽内に二枚貝を入れておくと雄同士での争奪戦が激しくなるため、水槽に 収容する構成に注意が必要です。雄雌1つがいのみを入れるか繁殖させる予定がない場 合は二枚貝を水槽から出してしまいます。 「いさざ?」(?いさざ)魚偏に「少」がつくが漢字変換が出来ないようだ。 イサザは、琵琶湖固有のハゼの一種。「躍り食い」や「卵とじ」で有名なシロウオの俗 称も「イサザ」と言いますが、まったく別の魚です。昔からなぜか獲れなくなる時期が あることから、漢字も「魚」偏に「少」と書いて「?」(いさざ)と読ませます。佃煮 の他「じゅんじゅん」という鍋で食べられることが多く、白身でありながら濃い味付け に負けない独特の風味があり、湖魚のなかでもファンが多数います。 普段は水深70m前後の深いところにすんでいますが(ちなみに琵琶湖の最も深いとこ ろは約100m)、桜の花が咲く4月頃、湖岸近くの岩礁帯にやってきて、浅瀬で産卵 。オスは孵化するまで卵の世話をします。主な漁場は、琵琶湖でも水深が深い湖北が中 心になっています。 長浜市にある尾上(おのえ)漁港は、竹生島(ちくぶしま)や琵琶湖の最北端に突き出 た葛籠尾(つづらお)半島が間近に迫る風光明媚な港。漁船からのおこぼれを狙うユリ カモメやサギなどが飛び交う中、朝9時前に漁港に伺うと、すでに漁師の松田さんが奥 さまと一緒に今日とれた魚を選別していました。 「ほら、これがイサザやで」 松田さんが差し出した魚は、体長7cmほど。薄茶色で頭と口が大きく、ひょうきんな 顔をしていて、なんだかかわいい! 「腹が白いやろ。普段は湖底に、腹をつけて暮らしてるんや。」 しかも、口やお尻から・・・、ぷくっと浮き袋などが出てます。 「このイサザは深さ70mぐらいのとこで獲ったもんやから、水面に出たとき水圧の変 化で浮き袋が飛びでよるんや」 琵琶湖は、竹生島の南あたりで深くなっていますが、イサザの漁場もそのあたり。漁港 から船で5分ほど走ったところ、葛籠尾半島の先端である葛籠尾崎のすぐ近くにありま す。 イサザ漁は、主に冬季に沖(ちゅう)びき網で行われます。これは、長いロープの先端 に取り付けた網で底を引きずり、イカリで固定した船へ巻き上げるという、底びき網の 一種。湖底から獲られたイサザは、水面に出ると水圧の関係で、お腹を上にした状態で 浮き上がってくるので、それをすばやく網ですくいとるんだとか。 穏やかに見える琵琶湖ですが、強風が吹き荒れることもあり、湖に慣れた漁師さんが遭 難することも。特に冬場、突風にあおられて湖に落ちれば、凍るような水の中では致命 的。それゆえ漁に出る前は、雲のカタチや風向きを見て、悪い風が吹かないかを見極め られるようになることが、一人前の漁師への第一歩です。 「伊吹山のてっぺんに雲が出ると、北西の風が吹く前触れ。漁に出られんから私らは" 貧乏風"とゆうとるけどな(笑)。大津から吹いてくる南西の風もよくないし、春先に 比良山から吹きつける比良八荒(ひらはっこう)も恐ろしい。こんな、急に吹く強風を 私ら漁師は"ハヤテ"と呼んでるんや」 結婚以来ずっと一緒に漁をする奥さまも、何度か「頭の上に波がきて死ぬかと思った」 というほど。そんな琵琶湖の変貌ぶりは、澄んだ湖面からは想像もできません。 田さんのイサザ漁は、朝の6時頃に港を出発。以前は漁場で3回操業したといいますが 、最近はイサザが少なく、今日は2回操業しただけ。「昔は1回で50~60kgは獲 れたもんやが」と松田さんはため息。「今日は12~3kgぐらいかなあ。トロ箱の半 分にもならん」 もともとイサザは、周期的に漁獲量が大きく変動することが知られていますが、多いと きで400tを超えていた漁獲量が、現在は数十tにまで減少したまま回復してきませ ん。一時はまるでとれなかった時期があり、「幻の魚」といわれていたほど。ここ数年 で少し漁獲が盛り返してきましたが、最盛期にはまだまだ及びません。 深いところで操業するイサザの沖びき網漁のロープは、約1000mにおよぶ。漁船は ロープで一杯。 湖北名物、イサザの「じゅんじゅん」 イサザは、大豆と煮た「イサザ豆」や佃煮のほか、湖北地域では、すき焼き風に煮た「 じゅんじゅん」という料理でよく食べられています。松田さんの家では、「ネギと油あ げ、麩を入れ、醤油と砂糖で甘辛く煮る」のだそう。正月の定番料理で、帰省した家族 や親族が楽しみにしている郷里の味なのだとか。 「イサザは、白身の淡泊な味でおいしいですよ。特に秋から1月頃のものは、骨も柔ら かくておいしい」と奥さま。 ほかに、唐揚げや味噌汁にしても食べるといいます。 「そやけど、今は数も少のうなって、みんな売りもんに回してしまうから、家で食べる ぶんはないわな」と、松田さんも少し寂しそう。 少なくなったイサザですが、冬季に長浜市など漁港近くの道の駅や湖魚専門店では、" 運"がよければ手に入れることができます。冬の琵琶湖の貴重な味覚を召し上がってく ださい。 氷魚(ひうお) 琵琶湖には、冬だけにとれる特産品があります。それが、氷魚(ひうお)。鮎の稚魚で 、大きさは3~6cmくらい。体が氷のように透き通っているため、「氷魚」と呼ばれ ています。 氷魚は、釜揚げにするのが一般的。「しらす」のように熱を加えると白くなり、身はし っとりしていて、舌触りは滑らか。そこはかとなく鮎とわかる繊細な味わいは、琵琶湖 の冬の味覚として愛されています。釜揚げのほかにも、かき揚げや佃煮などでも食され ています。 氷魚が主に水揚げされるのは、12月から3月頃まで。透き通っている氷魚は、やがて ウロコができ、体型も変化し、5月頃には小鮎(コアユ)と呼ばれるようになります。 透き通る体をした氷魚。 朝の和邇漁港では、料理店などの専門業者に交じり、近所の主婦数人が氷魚漁から帰 る船を待ちわびていました。聞けば、自宅で釜揚げにするのだとか。湖近くに住む人だ けの贅沢な楽しみです。 そこへ漁船が待望の帰港。甲板に設けられた水槽の中には透明な氷魚が元気に泳いでい ます。すぐに漁港でハカリにかけられ、次から次へ、キロ単位でまたたくまに引き取ら れていきました。 「3月のいまの時期は例年通りの漁獲量ですが、今年の1月と2月は氷魚は不漁だった んですよ。天候が悪く、船の出る日数が少なかった。といっても、30年くらい前とは 比べ物になりませんがね。あの頃は、それこそ船いっぱいにとれたもんです。」 そう話すのは、水揚げの様子を見ていた志賀町漁業協同組合の組合長、礒田さん。湖西 にある同組合は組合員42名。和邇漁港と北小松漁港を根拠地とし、県下でも有数の氷 魚出荷量を誇ります。 琵琶湖独特の漁法、エリ漁 「琵琶湖の漁には、季節や魚の種類によりさまざまな方法があるんですが、この時期の 氷魚は主にエリ漁です」 エリとは琵琶湖の伝統的な漁法で、定置網の一種。湖岸沿いを車で走っていると、岸か ら沖合に向けて杭が並んでいるのが見られます。これを上空から見ると、矢印のような 形をしています。これが、エリ。湖岸近くに来た魚を矢印の両側に張出した「ツボ」と 呼ばれる部分に誘導し、ツボに仕掛けておいた網を引きあげて捕獲する漁法です。志賀 町漁業協同組合では、丹出川(たんでがわ)から高島市の白鬚(しらひげ)浜あたりま での湖岸22kmの間で15のエリがあるといいます。 「この時期の氷魚の習性は単純でね、夜に岸辺近くにむらがり、夜明けになると沖に出 て行くんです。その時、障害物であるエリにぶつかり、誘導されて網(ツボ)の中へ入 ります」 氷魚漁の船は、水槽のある本船1隻が小舟2隻を伴って朝の6時くらいに港を出発。エ リのツボに着いたら底網を機械であげ、残りの網を小舟に乗った漁師さんが手で繰りな がら引きあげていきます。 エリに使う網はデリケート。長さ30m近くになるものもあり、引きあげるのも、引き あげてからの作業も大変。 エリ漁で使う網を手にする礒田さん。氷魚漁は網目が細かい。 「藻がからみついて、手入れに苦労します。琵琶湖が汚れてきているんでしょうねえ」 と、礒田さんもため息。 「琵琶湖の漁も、琵琶湖の魚も好きで漁師をやっているので、琵琶湖が年々汚れ、在来 の魚が減っていくのは悲しいことです。私ら漁師も、藻の掃除などをやっているのです が、なかなか追いつかない。氷魚も、本当においしいし、しかもこの時期の琵琶湖だけ にしかとれない魚だから、もっとたくさん獲って、多くの人に食べてもらいたいんです が...。」 とはいえ、湖岸沿いの湖魚専門店などでは、冬の季節には氷魚の釜揚げや佃煮を手に入 れることができます。皆さんもみかけたら、この時期の琵琶湖だけが生み出す新鮮な味 をぜひ楽しんでください。 最後に、礒田さんから聞いた、あまり知られていない「ゆで氷魚(ひお)」の作り方を 。塩分を効かせて固めにゆでた氷魚を陰干しで2日間干すのだそう。「ちりめんじゃこ の味の濃いようなものになり、旨い」とのこと。また、生の氷魚をすき焼き風にして食 べてもおいしいそうです。機会があれば、試してみてください
2016年10月9日日曜日
日々の記録11(琵琶湖八珍、人物描写、歴史認識、第二の人生、目利きビジネス、「 ひがい鰉」「いさざ?」ひうお氷魚、平城宮)
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