2016年10月7日金曜日

日々の記録25(CCRC、松山と道後、CNF、沼田、福井の名水,別子銅山

fintech
いま、銀行以外の特にIT企業が金融業をはじめつつある。
例えば、ファンドサークルというサイトでは、融資をしたい人、受けたい人の
マッチングビジネスを始めている。従来の銀行では時間的、審査面で
中々融資してもらえなかった人が可能となっている。
その仕掛けは、融資を受けたい人の日常の購買活動をビッグデータとして
収集し、従来銀行マンがややアナログ的な感覚で処理をしていたのをAI
がしているからだ。すでにその実績は1800億円以上とのこと。
銀行もこの動きをみて、銀行としてのこれからのビジネスモデルを模索
している。今後は、ビッグデータの処理手法とセキュリティの確立が
重要な要素となる。

新映像の世紀
20世紀は難民や大量虐殺のじだいであった。
中東でのアメリカやイギリス、などの国々が自分たちの利権のため、
その国の政府を転覆させたり、勝手な戦争を始めて何100万の人を
殺したり、難民とさせた。これはアジアでも同じで、ベトナムでは、
あの戦争で死者6万人、難民50万人を出した。それがいまEUへの
難民流入の元凶ともなっている。
数100万人ともいわれる難民を多くのEU国々は受け入れようとはしない。
ドイツはナチの時代に同じく数100万人の人が国外に逃げた教訓もあり、
100万人ほどの難民を受け入れようとしているが、ナショナリズムの
台頭で雲行きが怪しい。それ以外の国でも、自由な受け入れを拒絶する
動きが大きくなっている。
それに乗じて大衆迎合の政党が拡大しつつある。


今CCRCという生涯活躍の街づくりを進めている行政がある。
これは、アメリカの富裕層向けに介護から様々な施設利用による老後の
豊かな生活をめざした町づくりであったが、日本では、年金生活者を
中心とした街づくりの考えになっている。
基本的にアメリカでの対応と日本での事情の違いを考慮する必要が
あるようだが、失敗の事例では、何度となく失敗をしている箱ものつくり
が主であり、運営会社の倒産とか含め、また失敗のじれいになるのでは、
という流れもある。
そのよい例が高齢者への「地方に住みたいか」のアンケート結果である。
男性の63、女性の71%がわざわざ住み慣れた土地から移る必要があるのか、
の疑問を呈している。
しかし、高齢者だけでは限界があると、若者を呼び込んでお互いの良いところを
活用しようとしている事例もある。福岡や朝倉市では、当初1000人の
予定が200人程度しか集まらず、失敗の事例であったが、若い夫婦向けに
空き家を安く売り、若い人を増やしことで、上手く回り始めた。
北九州では、空き家をきれいに整備し、新しい建物を造らずに高齢者向けの
街づくりをしている。



ブラタモリ松山
松山は四国1の都市であり、51万人の人口がある。
松山城は石手川の横にあり、たびたびその洪水に悩まされてきた。
そのため、堤防の構築と川を深く掘ることで、それを防いだ。
しかし、川底の岩盤は固く当時は手掘りであった。その工事を進めるために
岩一升と米一升の交換によりそれを実施した。
また水運を盛んにするために、瀬戸内海から城の近くまで五キロほどの
堀を造り、中の川という川まで作った。
さらには、三津という港に商人たちを集め、松山市内の武家屋敷と
三津の商人街を結び瀬戸内海の交通の要所として発展させた。
三津には城主が参勤交代に使ったというお茶屋という広い休息所がある。
また、この屋敷や商人の屋敷では、城主も参加した句会などが盛んに行われ、
松山の文化発展をすすめた。
今でも、商人屋敷には、籠置石という城主の籠を置いたという大きな石がある。
なお、この辺は伊予カスリという藍染の着物が特産としてある。
松山は道後温泉が有名。

この温泉は三〇〇〇年もの歴史があるという。日本書紀にその記録がある。
また、奈良時代にあったという湯釜が公園に残っている。
ここには湯築城という河野氏の居城があったが、その横には熊野山石手寺
という四国八八か所の五八番札所があり、塔頭が六〇以上もあったという
かなり広い土地を所有していた寺院である。その仁王門は、重要文化財。
温泉は、縄文時代から利用していたことになるが。個々の道後温泉本館
は明治三八年に100万人の人を呼び込むための地域の活性化のために
建てられたという。木造三階建てであり、そのほとんどは寄付によるもの
であり、現在のレベルで20億円ほど。
その寄付者は終身優待券をもらい親子代々、道後温泉には
無料で入浴できる。また、温泉客を呼び込むため、三津浜と松山市街地を
結ぶ鉄道まで建設した。
しかし、道後温泉近くには火山がないが、それでも豊富な湯が出るのは、
岩の裂け目から水が入り、地熱によって暖められ、それが丁度断層となっている
谷から出るということであり、道後温泉は平野と谷の丁度境目にある。

CNFセルロースナノファイバ
そのきわめて小さい素材からあらゆるものに使われ、無限の可能性がある。
元々木材から抽出できるので、日本の資源としては有効である。
これを素材に使って鉄よりも強く軽い板となったり、ゴムに混ぜると
数倍の伸びと強さを発揮する。


ブラタモリ真田
真田信之の居城であった沼田市。
ここは河岸段丘のでできた町として有名。沼田の駅からその市街地に行くには、
約80メートルほどの高さを上る必要があり、そこに東京ドーム30個分ほどの
広い台地があり、そこが沼田の中心地である。沼田城はそのはずれにあり、
まさに80メートルの段丘崖に守られた要害であり、天空の城下町。
しかし、その用水には苦労したようであり、川場用水という城下町に水を
供給する用水を作った。この用水は城下町を網の目のように囲み、
必要な場合は城に優先的に水が流れ込むような仕掛けもある。
また、明治になるとこの断崖が逆に発展の足かせとなり、鉄道が中々
出来なかった。これを解決するために町の住民が中心となり、利根軌道という
渋川と沼田を結ぶ鉄道をつくった。大正9年ころには15万人が利用されたというが
やがて国鉄が伸びてきて今はその一部が家並みの中に残っているのみである。
滋賀県を舞台とした作品
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%8B%E8%B3%80%E7%9C%8C%E3%82%92%E8%88%9E%E5
%8F%B0%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%9F%E4%BD%9C%E5%93%81%E4%B8%80%E8%A6%A7

湖北の高級ホテルほかの紹介があった。
http://ameblo.jp/bishokudou/entry-11046224039.html

司馬遼太郎のNHK特集を見た。
「この国の形}。彼はその永遠のテーマとして「日本人とは何か」を追ってきた。
キーワードは2つ。「島国」「武士」である。
島国という地勢的な要件がその心を養った、即ち強い好奇心の発露、と考えた。
多くの国は一神狂的な宗教観が主であり、絶対的な志向が強い。しかし、外からの
様々なもの、考えなどに強い思いを持ったことで、信仰の場合でも、根源にある
奈良の三輪山に代表される、太古からの信仰、自然のすべてに神が宿るという
八百万の神の発想があり、神仏習合という日本独特の発想もある。
他の国では、あまり考えられないことである。
一つのことにとらわれず、柔軟な発想で物事を考え、処理していくという多様な、
多元的な価値を認めることでの行動が「日本人は基本的な考えがない国民」という
評価とまでなった。しかし、それは「無思想が思想」という日本人独特の発想
なのである。
その事例はいくつもある。
外国人技術者のてを一切借りずにつくりあげたという鉄精錬のための「反射炉」の
構築であり、室町時代にその後の日本文化の原型となる建物、枯山水などの庭園、
能などの文芸、などである。
更には、明治時代の急速な産業革新にあたっての建築推進の「古市公威」に
代表されるヨーロッパの先進技術を日本の国土の実情にあわして改良と革新を
進め、多くの技術者を育てるという「文明の配電化」と呼ばれる行動である。
このように強い好奇心と絶え間ない改良への意欲が明治という時代で大きく
花を開かせたのだ。
しかし、司馬は「最近の日本人の「無感動体質」について将来への危機感を
持っている。
また、「昭和という国家」をよむのがよい。
2番目の特集のポイントは、「武士」であった。
明治近代化のポイントは「武士の倫理観が大きく貢献したのだ、と彼は言う。
鎌倉時代から本格的に日本の中核として活動し始めた「武士の心根」が
行政メンバー、一般大衆、労働者、活動家の中に活きていた。それは「公の意識」
であり、高い倫理観である。それが学校の整備や鉄道、郵便などの制度の急激な
実現に寄与した。そのルーツは「坂東武士」といわれる土着武士たちが
長年育んできた、その節義であり、「名こそ惜しけれ」という潔しさを基本
とする高い倫理感であった。それは中国や朝鮮に見られたような我欲を満たすための
賄賂や上の者にのみ使えるという卑俗な心根とは大いに違っていた。例えば、
それは能の「鉢の木」にも詠われているし、北条早雲の「早雲寺殿二十一箇条」
に説かれている武士の守るべき規範にも表れている。
領国のために自分を犠牲にしても頑張ろうとする「公の意識」はこのように八百年前の
坂東武士の「名こそ惜しけれ」から脈々と日本人の心に流れている。郵便制度などは
四年で全国レベルの展開を果たしているし、新潟の下級武士であった栗田定之丞は
すさまじい砂の浜辺に八〇キロの防砂林を作り、はじめは己一人で始めたが、
その公の意識に感じ入った多くの人々がそれに協力したという。
坂東武士はもともと、開拓農民であり、律令制の崩壊に伴い、その開拓地を幕府から
もらう形で、その恩義に応えるために忠義を尽くすという主従関係の
先駆けでもあった。これにより武士が権力を拡大させ、武士700年の
世の中になるが、その倫理観は一般民衆も含め今の社会にも受け継がれている、
と司馬さんは言う。特に明治時代は、その機運が強かったのであろう。

しかし、昭和になると軍部の独走を許すような「統帥権」という絶対権限により、
昭和の「公の意識」は個を出さないのが、その意識であるという不可思議な
社会意識化が進んだ。
そのような不可思議な社会にしないためにも、「新たな個」とそれによる
「公の意識」が必要であると、言っている。



別子銅山は、住友によって明治の10年より積極的に開発された。
発掘は当初人手によって行われていたが、住友の家訓である「国家100年のための
計」として、すべてを日本人の手で行うという初代総理長の考えで、フランス人技術者
に基本計画は作らせたものの、その後の、斜面道による鉱石引き上げやつづらによる
牛車道、港への鉄道敷設など、その機械化が進められた。なお、住友は早くから
経営と資本を分離するというやり方で、実際の経営は住友家とは関係のない人物が
総理長として行っていた。また、銅の精錬のために必要なエネルギーとしては周辺の
山の木を使ったため、多くの山は禿山となり、そのための植林も2代目の伊庭によって
行われ、山の緑の多くは元に戻りつつあるし、植林事業は現在でも子会社で実施されて
いる。
さらには、銅精錬に伴う公害問題解決のため、四阪島という無人島にその設備を全部
移設したり、対岸の新居浜港の拡充も行った。島に移設した後も続いた公害を解決
するためにそれぞれに発生するアンモニア他の有毒ガス除去を進め、明治二二年から
昭和一四年までその解決に向けて四〇年ほどをかけた。なお、島には別子銅山と
同じように病院や劇場、銭湯などの娯楽施設や生活施設の建設も行い、従業員の
福利厚生へも力を注いだ。


「さて、今週の名水紀行の舞台は福井県。まずご紹介するのは、県南部の若狭町
に流れる瓜割の滝です。
今からおよそ1300年前、最澄大師が開いたと言われる天徳寺。その境内奥に広がる森
の中から湧き出た水が流れ落ちる瓜割の滝の名は、「夏でも浸けておいた瓜が割れるほ
ど冷たい」という故事が由来で、年間を通して水温に変化はなく、およそ11度という清
冽さを誇ります。またこの水は「五穀成熟諸病退散」の霊験があるとされ、人々は古来
よりこの場所を「神聖な水の森」として敬ってきたと言います。
そんな水の森には約1万株のアジサイが植えられており、これからの時期、見ごろを
迎えます。カメラ片手に散策、といきたいところですね。
続いてご案内したいのが、瓜割の滝と同じ若狭町に残る熊川宿。かつて、若狭国で
獲れた魚介類を京の都へ運んだ「鯖街道」随一の賑わいをみせたこの宿場の用水路が、
熊川宿前川として「平成の名水百選」に選定されています。  
近畿一の水質と謳われる北川上流の天増川と河内川から引かれた水は、人馬の飲み水
、生活用水、下流域の農業用水として利用されてきた、まさに命をつなぐ水でした。平
成の世になった今でも、水流を利用して芋の皮をむく「イモ車」が設置されているなど
、人々の生活に欠かせない役割を担っています。
福井名水紀行、最後にご紹介するのは、県北部に位置する大野市の本願清水(ほんが
んしょうず)。扇状地の先端にあたる大野の市街地の窪地には湧き水が数多く湧出し、
地元の人々はこれを「清水」と呼び古くから飲み水や生活用水として利用してきたのだ
そうです。
その中のひとつ、「平成の名水百選」に選定されている本願清水には、国の天然記念
物に指定されている魚・イトヨが生息しています。大野の皆さんはこの清水を「イトヨ
の里」として保全、絶滅の恐れのあるイトヨの保護と水質の維持に日々努めています。
梅雨時に鮮やかな花を咲かせるアジサイを楽しみ、宿場町で古の空気に触れ、天然記
念物のイトヨの生態を学んでみる─。そんな福井を巡る旅に、あなたも出かけてみませ
んか?
 ■ わかさ瓜割の水
瓜割の名水をご自宅で。
瓜割の滝の原水を利用しているそうです。
  ■ 若狭鯖街道熊川宿
鯖街道って?熊川宿って?
こちらのサイトでどうぞ。
  ■ 本願清水イトヨの里
イトヨのすべてが学べるエコミュージアム。
一日でイトヨ博士になれること請け合い!?」

現成公安より
04
自我によってすべてを認識しようとするのが迷いなのだ。もろもろの現象の
なかに自我の在りようを認識するのが覚りである。迷いを迷いとして大悟
するのが覚りえた人々であり、また、己の認識に執着するのが衆生である。
覚りの上にさらに覚りをうる人があり、迷いの中にさらに迷う人がある。
覚りえた人々がまさしく覚りをえた人々である時、その人は自分が覚りえた
人であると認識する事がない、それは身心が覚りに同一化しているからである。
そのようではあるけれども、その人は仏法を知りえた覚者であって、さらに
覚りを求めていく。


ーーーーーーーーー
猫は彼女の脚の間やまわりにからだをすりつけた。一瞬、恐ろしさを忘れて、
彼女はしゃがみ、涙で濡れた手で猫にさわった。猫は、彼女の膝に身をすりよせた。
それは、からだ中が黒い猫で、深みのある絹のような黒色をしており、
先が鼻の方を差している眼は、青みを帯びた緑色だった。光りのせいで、眼が
青い氷のようにきらめいている。ピコーらは猫の頭を撫でた。すると、猫は
喜んで舌の先を震わせながら、咽喉をならした。黒い顔のなかの青い眼が、
彼女の注意を引いた。
彼女が猫の背中を撫でているのを見た。また、猫が首を伸ばして目を細めている
のを見た。この動物が母親の愛撫に応えるとき、そんな表情をするのを何度も
みたことがある。、、、、、
猫の他の足は、平衡を取り戻すためならどんなものでもつかもうと身構えて
こわばり、口は大きく開き、眼は青い恐怖の筋になった。、、、、、
猫はぐるぐる回しの真っ最中に放されたので、物凄い力で窓に投げつけられた。
それから、ずるずるとすべり落ち、ソファのうしろの暖房機の上に落ちた。二、三度
身震いをしただけで、猫は静かになった。毛が焦げるかすかな匂いがしただけだった。
そこに猫は青い眼を閉じ、黒い、無力で、生命のない顔をして横たわっている。



神官と地域の世話人たちが、静かな仕草で樽と缶を運び出した。神官の白衣、
その黒い冠、その黒い紗の色立ちに、木桶に差し込まれた花々が、冠より高く
そびえてそのゆらぐさま、沖天の光に映える色が美しい。
そして、もっとも高く捧げられた一茎の百合が、青い空の中で一条の線となり、
薄く伸びる天空を切り裂いていた。
笛が漲り、鼓がときめいている。黒ずんだ石垣の前におかれた百合は、たちまち
に紅潮する。神官は、うずくまって百合の茎を分けて酒を杓で汲み、白木の瓶子
へいしを捧げてきてこの酒を受けては、三殿の各々に献ずるさまが、楽の音と
ともに神の宴の賑々しさを更に高めている。それは、御扉の闇のうちに、おぼろげに
立ち上る神の想いを偲ばせた。その間、拝殿では、四人の巫女役の娘たちが伝承の
舞をはじめている。
いずれも美しい乙女で、頭に杉の葉を巻き、黒髪を金の水引で紅白の髪に束ね、浅い
朱色の袴に、銀の稲の葉の紋様の白い紗すずしの衣の裾を引き、襟元は紅白六重ね
に合わせている。
巫女たちは、直立し、ひらけ、はじける百合の花々のかげから立ち現われ、手に手に
百合の花束を握っている。奏楽の流れに合わせ、巫女たちは四角に相対して踊り
始めたが、高く掲げた百合の花は微妙に揺れ始め、踊りが進むにつれて、百合は
気高く立てられ、横ざまにあしらわれ、集い又、離れて、沖天をよぎるその白い
線は一段と鋭くなって、一種の鋭利な刃のように見えるのだった。
やがて鋭く風を切るうちに百合は徐々にしなだれて、楽も舞も実に和やかで優雅に
流れているのに、あたかも巫女の手なある百合だけが残酷に弄ばれているように
見えた。巫女の踊りに合わせてさざ波のような人の声、動きの様々な音が消え去り、
彼女らの動きが高潮に向かうにつれて、静かな水面が訪れていた。
和邇はその静寂な群とは少し離れた場所で、その高まりと合わせ、それを見ていた。


彼は凍ったように青白い美しい顔をしていた。心は冷たく、愛もなく、涙もなかった。
しかし眺めることの幸福は知っていた。天ぶの目がそれを教えた。何も創りださないで
ただじっと眺めて、目がこれ以上鮮明になりえず、認識がこれ以上透徹しないという
堺の、見えざる水平線は、見える水平線よりも彼方にあった。しかも目に見え、
認識される範囲には、さまざまな存在が姿を現す。海、船、雲、半島、稲妻、太陽、
月、そして無数の星も。存在と目が出会うことが、すなわち存在と存在が出会うことが
見るということであるなら、それはただ存在同士の合わせ鏡のようなものでは
あるまいか。そうではない。見ることは存在を乗り越え、鳥のように、見ることが
翼になって誰も見たことのない領域まで透を連れて行くはずだ。そこでは美さえも、
引きずり朽され使い古された裳裾のように、ぼろぼろになってしまうはずだ。
永久に船の出現しない海、決して存在に犯されぬ海というものがあるはずだ。
見て見て見ぬく明晰さの極限に、何も現れないことの確実な領域、そこはまた
確実に濃藍で、物象も認識もともどもに、酢酸に浸された酸化銅のように溶解して、
もはや見ることが認識の足枷を脱して、それ自体で透明になる領域がきっと
あるはずだ。


           朝7時前に家を出て、夜中に帰る日常に疑問は待たなかったが、ふと自身
が
浮遊するとき、今の自分は何を、そしてこれからどうなる、という想いが
浮かんだ。そんな時何気なく手に取った本を今でも忘れらない。「柔らかな
個人主義の誕生」であった。
この本は、1984年に刊行され、60年代と70年代についての分析が中心であるが、著者
の「消費」の定義の仕方など、現在でも十分に通用する内容ではあるが、個人的には
組織の中で一途に仕事に打ち込んでいた自分にとってのこれからの社会への個人の
関わりの変化を感じさせる内容であった。池田内閣の所得倍増計画の下で高度経済成長
を目指していた60年代の日本社会が、その目的を遂げた後、どのように変化していった
のか。70年代に突入して増加し始めた余暇の時間が、それまで集団の中における一定の
役割によって分断されていた個人の時間を再統一する道を開いた。
つまり、学生時代は勉学を、就職してからは勤労を、という決められた役割分担の時間
が減少したことにより、余暇を通じて本来の自分自身の生活を取り戻す可能性が
開けたということである。
こうした余暇の増加、購買の欲望の増加とモノの消耗の非効率化の結果、個人は大衆
の動向を気にかけるようになる。以前は明確な目的を持って行動できた
(と思っていたが)人間は、70年代において行動の拠り所を失う不安を感じ始める。
こうして、人は、自分の行動において他人からの評価に沿うための一定のしなやかさを
持ち、しかも自分が他人とは違った存在だと主張するための有機的な一貫性を持つこと
が必要とされる。それを「柔らかい個人主義の誕生」と考える。
今読み返しても、その言葉をなぞっても、決してその古さを失っていない。
まずは、
・けだし、個人とは、けっして荒野に孤独を守る存在でもなく、強く自己の同一性に固
執するものでもなくて、むしろ、多様な他人に触れながら、多様化していく自己を統一
する能力だといへよう。
・皮肉なことに、日本は60年代に最大限国力を拡大し、まさにそのことゆえに、70年代
にはいると国家として華麗に動く余地を失ふことになった。そして、そのことの最大の
意味は、国家が国民にとって面白い存在ではなくなり、日々の生活に刺激をあたへ、個
人の人生を励ましてくれる劇的な存在ではなくなった、といふことであった。
・いはば、前産業化時代の社会において、大多数の人間が「誰でもない人(ノーボディ
ー)」であったとすれば、産業化時代の民主社会においては、それがひとしなみに尊重
され、しかし、ひとしなみにしか扱はれない「誰でもよい人(エニボディー)」に変っ
た、といへるだらう。(中略)これにたいして、いまや多くの人々が自分を「誰かであ
る人(サムボディー)」として主張し、それがまた現実に応へられる場所を備へた社会
がうまれつつある、といへる。
・確実なことは、、、ひとびとは「誰かである人」として生きるために、広い社会の
もっと多元的な場所を求め始める、といふことであらう。それは、しばしば文化サーヴ
ィスが商品として売買される場所でもあらうし、また、個人が相互にサーヴィスを提供
しあふ、一種のサロンやヴォランティア活動の集団でもあるだらう。当然ながら、多数
の人間がなま身のサーヴィスを求めるとすれば、その提供者もまた多数が必要とされる
ことになるのであって、結局、今後の社会にはさまざまなかたちの相互サーヴィス、あ
るいは、サーヴィスの交換のシステムが開発されねばなるまい。
・もし、このやうな場所が人生のなかでより重い意味を持ち、現実にひとびとがそれに
より深くかかはることになるとすれば、期待されることは、一般に人間関係における表
現といふものの価値が見なほされる、といふことである。すなはち、人間の自己とは与
へられた実体的な存在ではなく、それが積極的に繊細に表現されたときに初めて存在す
る、といふ考へ方が社会の常識となるにほかならない。そしてまた、さういふ常識に立
って、多くのひとびとが表現のための訓練を身につければ、それはおそらく、従来の家
庭や職場への帰属関係をも変化させることであらう。
・ここれで、われわれが予兆を見つつある変化は、ひと言でいへば、より柔らかで、小
規模な単位からなる組織の台頭であり、いひかへれば、抽象的な組織のシステムよりも
、個人の顔の見える人間関係が重視される社会の到来である。そして、将来、より多く
の人々がこの柔らかな集団に帰属し、具体的な隣人の顔を見ながら生き始めた時、われ
われは初めて、産業か時代の社会とは歴然と違ふ社会に住むことにならう。

なんとなく社会が大きく変わる、絶えずそれが心の襞に堆積し、自身の身が少しづつ
何かに蝕まれていくような感触を持った。
その現実が、この30数年前に語られた言葉が、インターネットの深化に伴い、現在
起きている。老いの中にもそれが具体的な形で迫っていた。

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