2016年10月7日金曜日

日々の記録32(やな漁、風の盆、御柱

江の国の暮らしは、古来より琵琶湖の恵みによって支えられてきた。海岸線をもたない
近江では琵琶湖の豊富な漁業資源は、貴重なタンパク源としてことのほか重要だったの
だ。そのため県内各地には、えり漁、おいさで漁ほか、多彩な漁法が今に伝わっている
。
 そんな伝統漁法のひとつ、高島市安曇川町内を流れる安曇川の河口域では、アユやウ
グイ、アメノウオ(ビワマス)などを獲るためのやな漁が古くから行われてきた。その
歴史的、文化的重要性から「安曇川のやな漁」は、平成18年に水産庁の「未来に残した
い漁業漁村の歴史文化財産百選」に選定されている。
 安曇川のやな漁の起源は千年近く前、一説には千数百年前にまでさかのぼるという。
文献には、平安時代後半の寛治年間以降、安曇川は京都・上賀茂神社(賀茂別雷社)の
「安曇河御厨(みくりや)」となり、アメノウオ(ビワマス)やアユ、コイなどを献上
していたという記録が残っている。「御厨」とは、神様へのお供え物「神饌」(しんせ
ん)を献じる重要な役割を担っていた神領(じんりょう)※1のことで、河口部の北船
木周辺に住む「神人」(じにん)※2の26戸52人だけが漁を許されていたという。その
由緒から、現在でも毎年5月15日に上賀茂神社で執り行われる葵祭りのときには、氷と
塩でしめたアユを干した「干しアユ」が、10月1日の「安曇川献進祭」ではアメノウオ
が奉納されている。
漁が解禁されて初めに獲れだすのは25~30cmほどのウグイ。このころ、ウグイの腹は婚
姻色の鮮やかな赤に染まるので、別名サクラウグイとも呼ばれる。ウグイの最盛期は3
月下旬から4月にかけてで、4月になると12~15cm程度のアユも交じりだす。
 一方、アユの漁獲は5月から7月中旬にかけてがピーク。8月になると川の水量も減り
、漁獲量も極端に落ちるという。アユは最盛期には毎日1トンの漁獲があり、日によっ
ては2トン、3トンも獲れるようなときもあるが、値が崩れないように漁獲量を調節して
いる。しかも、この時季のアユは、生け簀に入れると縄張り意識の発達もあって、すぐ
にケンカして体に傷が付いて売り物にならなくなるので、必要以上に獲っても意味はな
いのだそうだ。獲れたものは朝5

「北船木は限界集落で、高島市で1、2を争うほどの高齢化率になってしまった。60歳
以上が6割を超えているし、集落には若い人がいない。漁師でも専業漁師はたったのひ
とりだけ」と木村さんは言う。実際、現在やな漁に関わっている漁師全員が50代以上と
聞けば、今後のやなの存続について深刻にならざる得ないことも察しがつく。昔は、北
船木集落にある若宮神社で年3回ほどの安曇川の漁に関する年中行事が行われていたそ
うだが、いまは1月17日に一度行事が行われるだけになってしまったという話

やな漁では、アユ、ウグイ、ハス、オイカワ、ミゴイ(ニゴイ)、ウナギ、ビワマスな
ど、さまざまな“顔”がお目見えする。それぞれの魚には、それぞれに合った料理の仕
方がある。地元ではアユを塩茹でして一夜干しにした「干しあゆ」が人気。ウグイは煮
付け、おつくり、ウグイ寿司(熟れ寿司)、ハスは熟れ寿司、塩焼き、煮付けなどが食
べ方としておすすめだそうだ。
「昔は、四つ手網で獲れた子持ちアユを干しアユにしてしょうゆをたらしてよく食べた
よ。子どものころは、むしろに干してあるアユをちょっと失敬して…」と子どものころ
のことを懐かしむ。琵琶湖の魚または魚料理のなかで何が一番ですかとの問いには「や
っぱり、そりゃビワマスやろ。2番目は冬の仔アユ『氷魚』(ひうお)、ニゴロブナの
味噌汁もうまいよ」とニッコリ。


小津の映画
「お茶漬けの味」夫婦の味がよく出ている。
また女性の着物姿に拘った。紺地の絞りなど単純な絵柄が女性を引き立たせる
といっている。
是非にも、その脚本で夫婦の会話の参考にしたい。


歌川国芳
三国志の英雄たちを描いて有名となる。刺青の細かさ、色遣いは北斎もかなわない。
風景画も描いたが、広重の東海道53次などの風景画だいぶ違う。
きわめて写実的リアルな絵が特徴である。佃島や霞が関などはその当時の情景が
よくわかる。また従来の考え方にはあまりとらわれずに、西洋画の手法や
当時にはなかった2枚、3枚で1つの構成となる浮世も描いた。
猫好きはとみに有名で死んだ猫の墓や戒名まで作った。
弟子も一番多く、70人ほどもいたようで、分担して作っていたようでもある。
このため、明治から現在までの国芳の一派を作り上げ、伊藤深水や月岡元俊など
茂その門下である。

諏訪大社の御柱の祭事4月2日
7年ごとに行われ、上社本宮、上社前宮、下社春宮、下社秋宮で行われる。
御柱は樹齢200年の樅の木を1か月ほど前に切り出し、各村を通り、8キロを
10時間をかけて、3000人ほどの人が200メートルの藤でできた綱を引いて
木落とし場まで運ぶ。御柱は18メートル、10トンもあり、これに御幣を持った
若者が先導しておこなわれる。この祭事に合わせて諏訪の各地で規模は小さいが各地の
神社の御柱を変える。諏訪には数千ほどのこのような柱がある。氏子は20万人
いるといわれ、諏訪大社の御柱を含めてそれぞれ実行していく。
この神事の発祥時期は不明だが、縄文時代からともいわれる。
当時の巨木信仰の表れである。
諏訪地域は縄文文化がかなり栄えたといわれ、特に森と諏訪湖の水に恵まれた
この地域は農耕の神として崇めるのに適した場所でもあった。
また、黒曜石が多く採れ、それが矢じりや農耕具として様々に使われたため、
大きな勢力を持つことになる。
縄文時代の1大勢力であったのだろう。それもあるのか紀元前10世紀に渡来した
水田稲作の波はここでは受け入れられず、弥生時代へは各地の色々な事情が
あったのであろう。ここでは米よりも森の恵みで生活したのだ。
土着の農耕の神として、御左口神みしゃぐらという名で、崇められ、その土偶も
発掘されている。だが、古事記のある通り、出雲の勢力争いに敗れたタケミナカタ
の神がこの地に来ることで大きく変わった。
最後はタケミナカタが勝利をおさめ、今は諏訪大明神と
して祭祀されている。しかし、ミシャグチも漏神もれやのかみとしてそのまま
残り、その名残が御柱の起源とされている。諏訪大社が御柱を受け入れることは
山の神を里の神が受け入れることになる。このミシャグチの末裔が守矢家として
代々子の御柱の祭事を取り仕切ってきた。守矢は洩神からきているのであろう。



今回の読書会のテーマ本は越中八尾を舞台にした高橋治氏の「風の盆恋歌」だった。
私はこの小説を全く知らなかったが、石川さゆりさんが歌う「風の盆恋歌」はよく知っ
ていた。
私は熱狂的な演歌ファンだからだ。

 風の盆恋歌の一番目の歌詞は次のようになっている。
「蚊帳の中から花を見る 咲いてはかない酔芙蓉
若い日の 美しい 私を抱いてほしかった  忍び逢う恋風の盆」
私は石川さゆりさんが歌うこの歌はなかなか情感があっていいものだと感心して聞いて
きたが、これが高橋治氏の小説「風の盆恋歌」をモチーフにしていたとは全く知らなか
った。

 この小説はかつて学生時代に愛し合った男女が30年の歳月を経て越中八尾の風の盆
で1年間に3日間だけ再び愛し合う小説である。
作者の高橋氏は旧制四高(現在の金沢大学)出身で、金沢や富山の地理を知り抜いてお
り、特に越中八尾の風の盆には何回も通って見物しているようだ。
風の盆の踊りの詳細な説明を読むと、どんなに高橋氏が風の盆を愛しているかわかるが
、残念ながら私にはその詳細な説明をイメージすることはできなかった。
また八尾の街並みの名前や場所の説明も何度も記載されるのだがこちらも頭で地図を描
くことはできなかった。


「風の盆恋歌」  高 橋 治  作

 この作者高橋治氏(参考)と作曲家なかにし礼 氏(参考)は懇意の間柄で、そんな
関係からか、石川さゆりさんの演歌「風

の盆恋歌」があるようです。作中のおさん茂兵衛の物語も石川さゆりさん(参考)  (
参照)の歌になっています。

 丹念に丹念に水を聞くところから始まる。八尾は坂の町。人生が流れゆくように、水
もとどまることなく流れ下っていく。冒

頭に登場する七十過ぎの脇役とめさんは、十代の頃、恋心を胸に仕舞い込み、水と盆の
踊りに流してきた人。

 都築克亮とえり子は五十半ば。学生時代にはそれとはなく分かっていたお互いの気持
ち。ふとしたことから、毎年風の盆

には、隠れ家で三日間を過ごします。恰も風の盆の踊りが、内に秘めた思いをなおさら
に三夜の伏し目がちな踊りで表現す

るように。

 九月初めの越中おわらの風の盆(参考)は、 地方の胡弓・三味線・太鼓・歌い手、
そして踊り手が朝まで町を歩くとい

う。 まるでタンポポの綿毛がそよ風(参照)に漂うような、秘やかにゆったりと哀調
を帯びた演奏と歌と踊り。 阿波踊りとは

対照的で、気持が入れば入るほど、内へうちへと収斂していくかのように感じます。静
かな雰囲気で観ることができれば、夢

幻の世界に違いないでしょう。

  不倫を描きながら罪悪感を感じさせないのは、水、坂道、とめ婆さん、咲けば一日
で散るという酔芙蓉、五十半ばという

年齢。そしてなんといっても、多くの人の心を揺さぶるであろう「風の盆」という語感
や舞台設定でしょう。

 

では、「越中おわら」の歌詞の一部をご紹介しましょう。

   (唄われようー わしや囃す)

   八尾よいとこ おわらの本場

   (きたさのさー どっこいさのさーさ)

   二百十日を  おわら 出て踊る

   長囃子 「見送りましょかよ峠の茶屋まで    人目がなければ  あなたの
部屋まで」

  

   (唄われようー わしや囃す) 

   富山あたりか  あの燈火は

   (きたさのさー どっこいさのさーさ)

   飛んでゆきたや   おわら 灯とり虫

  長囃子 「浮いたか 瓢箪かるそに流るる   行先あ知らねど  あの身になり
たや」


島崎藤村、桃の雫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000158/files/4854_31470.html
松尾芭蕉や旅についての記述あり


ブラタモリ伊勢神宮
式年遷宮は1300年ごろから20年に一度行われるが、そのためには1万本の
檜が必要であり、本殿、拝殿を作るのに必要なパーツは8万個以上に及ぶという。
大きな棟床柱は水運で行うため、五十鈴川があり、光背には檜を育てる広大な森が必要
であった。
さらには、河岸段丘の上に建てられ水害にも強く、伊勢の地はこのような要件で決めら
れた。
また、建物は神明造りといって、壁板で屋根を支え、経年変化による隙間の発生や
外注などの侵入を防ぐ特殊な造りである。
内宮と外宮から構成されるが、内宮は宇治の街、外宮は山田の街として発展する。
しかし、山田の街は宇治の街の8倍ほどもあり、昔から発展してきた。
今でも年間800万人の観光客があるが、江戸時代から伊勢講として多くの人
を集めたが、それには御師おんしと呼ばれる
旅のコンシェルジェのような人々が活躍したからである。御師は伊勢のことを印した
札を各地で配り、伊勢暦や即製きざみ汁のような伊勢土産などを渡して、その人気を
あおった。それをおかげ祭などと称した。
また江戸時代は河崎という港に旅人を向かい入れたりしたので、神宮と港の間には
古市という遊郭まで発達した。現在は近鉄が山田まで乗り入れているが、宇治まで
延伸するための準備もしていた。
さらに地域の活性化と物流拠点の強みを活かし、山田ハガキなる兌換の地域紙幣も発行
していた。
日本で最初の地域通貨である。これは7年に一度回収し、信用度を確保していた。
実は1号線の初めは東京から伊勢までであった。

横須賀
今では、アメリカと日本の海軍基地ではあるが、ペリーが来航したときは、1寒村であ
った。
ただここの地理的条件が東京湾の入り口であり、深い入り江となっており、大昔
川であった頃の深さが東京湾の入り口が広いとはいえ、大きな船はこの横須賀の前を
航行しなければならないという。このため、多くの国の船の停泊地となり、
明治にはドックまで作る必要があった。今は大型船の6号ドック含め6基のドックがあ
る。
これを作ったのはフランス人であり、地震対策や長期に耐える造りのため、山を削り、
安山岩というとても硬い石を使用して作った。


昭和の味
http://intojapanwaraku.com/4461

北鎌倉のいなりずし
『光泉』のいなりずしでした
 小津監督の好物は、北鎌倉にもありました。
「小津先生の印象は、大きくてこわいおじさんでした」と笑うのは、JR北鎌倉駅前『
光泉(こうせん)』店主の高井洋子さん。女学生のころの思い出だそう。
 『光泉』のいなりずしは、甘みが控えめな油揚げと、まろやかな酸味の酢飯の組み合
わせが品のよい印象。小津作品によく出演した俳優・笠智衆(りゅうちしゅう)も、こ
このいなりずしが好物でした。
「もともと、小津先生のお母様がお好きで、先生がお求めくださるようになりました」
(高井さん)
――森と昌子ちやん くる 光泉から稲荷すしをとつて麦酒をのむ――『全日記 小津
安二郎』(フィルムアート社より)
 小津の日記のように、いなりずしでビールを飲めば、昭和がよみがえってくるに違い
ありません。



Facebookは
「人生の幸福度を下げる」 米研究結果

フォーブスジャパンのこの記事を
読んだ方も多いと思います。

記事によると
============================
『1日中SNSを利用していると答えた人は、
 うつ病になるリスクが1.7倍だった』

『SNS上で友人らの投稿を目にすることで、
 自分以外の人たちは幸せで充実した人生を送っているという
 歪んだ認識と、うらやむ気持ちが生じる」と指摘している。
 SNS上で傍観者でいると、自分は時間を無駄にしていると
 感じるようになる。その結果、うつ病になる』
============================
とのこと。

「自分以外の人たちは幸せで充実した人生を
 送っているという歪んだ認識」
これその通りだと思います。


「歪んだ認識」
ここの事です。

基本、Facebookなど公にするものは、
私も含め皆さんもいい内容しか書きませんね。
これをわからず歪んだ認識で鬱になるなんて
もったいない。
 
もちろん、人によっては
苦難の状況から立ち上がろうとしていることや
逆境に立ち向かっていることを書くケースもありますが、

クレジットカードの支払いや家賃を滞納していることや
何だか自分だけ仲間はずれの感覚を持っていること
恋愛や夫婦関係が悪化していること
社内にムカつく人間がいること、
実は、やる気が出ない日があることなど、、、
ま、こういうのはあまり書かないですね。
 
大抵は、
一番のお気に入りの笑顔の写真を掲載し、
充実した日々を綴ります。
 
このフォーブスの記事にあるように
自分が人生でうまく行っていない時に友人の充実した生活など
こればかり見ていると、人によっては歪んだ認識になるのも
よくわかります。
しかし、問題や課題が全くない人など
経験上、1人もそのような方に出会ったことがありません。

誰もがたいてい何らかの問題や課題を抱えながら
生きていています。

人間関係、健康、親子・親戚関係、金銭、
仕事の成功・失敗、意欲が出る・出ない。などなど

まあ、見事と言っていいのかどうか、、、
みんな何かを必ずと言っていいほど抱えています。

成功してそうに見える人ほど
驚くほど大きいものを抱えていたりしますね。
 

素敵ないいこともあれば、
成長させるためなのか、苦戦することも起こる。
これが人生というものなのでしょう。
 
歪んだ認識で「自分だけがダメなんじゃないか」
こんな風に思う必要なんて1つもないですね。
 
 

以上 ここまで
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
人の投稿が気になるのが人間。

そして、あえてこういう書き方をしますが
みんな誰かに気にしてもらおうと
特に素敵ないい記事、いい写真載せてますから、
気になって当然です。

そこから刺激を受けて
プラスになるなら、それでok。
マイナスになってしまうようなら、
それが全てではないと思って間違いありません。

二十四節気、挨拶文も
http://cazag.com/sekki

--------------

主人が和邇港の近くの漁師さんから「にごい」をもらった。もらったというより
突然手に入れたのだ。
その朝チャトとまだ朝焼けのする坂を下り、対岸からゆらりと立ち上るその橙色の
日を浴びて、湖岸の道をのんびりと歩いていた時、石積みとコンクリートに囲まれた湊
に数艘の船が軽やかなエンジンの音ともに滑り込んできた。
その船から主人の名を呼ぶ漁師さんがいて、今が旬だよと10匹
ほど籠の中からくれたものである。体長六十センチほどもあり、朝の光の中で、
体をくねらせその鱗色を四方にはなっていた。「にごい」初めて聞く名前だったが、
これは大きい、そんな思いが先に立った。考えてみれば、主人もママも魚を
さばくのは苦手である。でも、すでににごいは主人の持つビニール袋の中で
ちゃんと食べろよとにらんでいる風情だ。しかもその鯉よりも顔つきが鋭く、口の先が
やや鋭利な趣の風情は彼の食欲を誘った。
にごいはほとんど名前が知られていないこともあり、漁師たちもその扱いに苦労して
いるが、小骨が多いものの、白身の上品な肉質で食味は中々なもの、刺身としても
唐揚げなどでも食べられる他、ヒラメの代用魚とされたこともある。
正にこの季節の旬な湖魚、卵をもった初夏のものが、とりわけ美味とされている。
主人とママ、内臓を抜き、白身に吸い付くように隠れている小骨を丹念に取り、
そのさばきに苦労したものの、白身の刺身の淡白な、そして歯ごたえのある肉厚に
なぜこれが厄介魚なの、の想いを持ったものだ。さらにてんぷらとしても
歯ごたえのある感触は二人を喜ばせた。
そして、まだ残るのを猫たちに食べさせようとしたが、誰も振り向くものはいない。
「お前ら、本当に猫か」主人は怒りを込めていったものだ。
だが、ジュニアは違った。
ジュニアはそのまるごとの姿を見るや、いきなり興奮が極まった。ドライフードや
缶詰をもらうときとは、すっかり様子が変わっている。だが、ママはいつものように
声を掛けながら、手に取ったその白身を指で一毟りをして、傍らに来ているジュニア
の口許に差し出した。ジュニアは背中を丸め総毛立っていた。尻尾は狸のそれの
ように膨張しきっている。またたく間に平らげてしまうと、その味覚のせいか
舌触りや咽喉越しのせいか、重ねて別種の興奮が来たようである。
妻がもうひと毟りむしりした。ジュニアが一瞬の所作で食べた。それから少し間を
置いて、もうひと毟りした。ジュニアがまた一瞬のうちに平らげてしまうと、口中で
赤い舌が炎のように裏返るのが、向き合った主人から見えた。
さらにもうひと毟りするまでの間を、ジュニアはこらえきれなかった。まどろっこしい
というのか、全身いっぱいでじりじりとしてみせ、目は夜叉のように切れ長となり、
その細面の顔がさらに鋭さを増した。勝手口にかけていた前脚には、みるみるその鋭い
爪があらわになった。狩猟に動いたジュニアの牙がその白身を遠ざけようとした
ママの掌に深々と食い込んでいた。四つの血跡が紅くにじみ出た。
ママの叫び声にジュニアは自分の仕出かしたことの大きさを理解したのか、さっと
身を引き、塀に駆け上がった。ママの怒りに満ちたまなざしを避けるかのように、
目を伏せ、隣へと立ち戻った。それからしばらくジュニアの顔を見ることはなかった。
チャトが一言、主人に言ったものだ。
「若気のいたりや、ママにうまくいっておいてな」、と。
なるほどチャトは人格者だ、変な感心を誘った。




道は舗装から砂利道へそして、山道へと変わり、樹々の影が覆い始めると、
まるで来世はここだ、と宣言している様にも思える。進むにつれ、まるで
来世の自分を見せるかのように暗い杉の森が目の前に広がり、その深さを
少しづつ深めていく。歩を更に進めれば、杉の木立ちが天空の蒼さを被い
隠すように続き、見下ろすように立ち並んでいた。細い山道がつづら折りに
伸び、薄暗がりに消えていく。光明の如き薄い光がその先で揺れ、樹々の吐き出す
息が二人の吐く息と同調し、相互に響きあいながら一つのリズムを作りあげていく。
わずかな空気の流れが二人の頬をかすめていくが、聞こえるのは山道を
踏みしめ歩く自分たちの足音と踏みしだかれる落ち葉の音だ。
静寂が周囲を押し包み、はらりと何かの葉が足下に落ちてきた。
さわりと、その音さえ聞こえて来た。差し込む光りをさえぎり、いくつかの影が
通り抜けていく。ヤマガラかホオジロか定かではない。
朽ちかけた標識と小さなお地蔵が互いに寄り添うような形で目の前にあった。
上りの勾配がきつくなり、山道を歩く音に合わすかのように二人の息づかい
が高まり、別な人がいるかのように聞こえ始まる。その息遣いを縫うかのように
水音が漏れてきた。それはわずかに流れる風音の中に、踏み敷く落ち葉の中に、
さえずる鳥たちの啼き声の中に、消えてはまた現れた。
「野に山に仏の教えはみつるれども仏の教えと聞く人ぞなし」
ふと、こんな歌が浮かんだ。数年前に読んだ「正法眼蔵の渓声山色」の
読み下しの中で見た歌だ。
「途絶えることなく流れ続ける谷川の音、刻々と移りゆく、雄大な山の景色
渓谷も山も説法を惜しまず語り続けている、という。
それは今の自分だ。ただ一歩の歩みに辛苦し、心身の痛みに心の折れそうな
自分がいる。
「けいせいすなわちこれこうちょうぜつ
さんしきあにしょうじょうしんにあらざらんや
やらいはちまんしせんのげ
たじついかんかひとにこじせん」
そんな読誦が聞こえたように思えた。
「渓谷の流れ続ける音は仏の説法であり、山の姿は仏の清浄身そのものである。
昨夜来、大自然が八万四千の偈言われる数限りない教えを説示し続けているを悟り、
後日、人にどのように伝えることができようか」、そのような意味であったか。
今はそのような高みの言葉は彼には無用であった。
これを、ありがたくも受け入れる心の余地も、下地も消えていた。砂地が水を
瞬く間にその存在を消すかのように、心の砂地には何もなかった。ただあるのは、
右足の一歩を前に出し、左足の一歩をそれに続けるという極めて明確な行動
だけであった。
これが妻との二人の歩く語らいの中であれば、全く違う形をとったかもしれないが。
横にいる太田さんにそれを期待するのは酷というものだ。

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