浮世絵の動物 http://www.forest.impress.co.jp/docs/review/20151125_732209.html 様々な仏像 http://en.photohito.com/user/photo/29476/order/recent/size/small/page/1/ ブラタモリ碓氷峠 碓氷峠は上州と信州の国境であり、分水嶺のあるところ。このためかその境界には 同じ建物に二つの神社がある。江戸時代は、麓の横川から碓氷峠を経由して、 軽井沢の道として中仙道があった。しかし、横川と峠までの高低差が800メートル もあり、かなりの難所。これを克服するための工夫があった。一つは昔の噴火 跡のやや開け平坦な道を通したことがある。また、碓氷峠の関所との間に 坂本宿を新たに作り、途中で旅人が難渋しないようにした。ただ、この坂本宿 は、狭い土地をうまく使ってまちづくりをするため、間口は狭いが奥行きが 300メートルほどもある細長い敷地のつくりとなっている。 更に明治時代にはここに鉄道を通すために、26のトンネルと18の橋を造った。 なかでも、碓氷第三橋梁(通称めがね橋)は煉瓦つくりで下の道路から 30メートル以上もある、橋となっている。当初はこの急勾配の鉄道 (66.7パーミル)を通すため、アプト式という線路の真ん中に滑り止めの ぎざぎざのある方式をとっていた。sssッしかし、これではスピードが 出ないこともあり、明治26年にEF63と言う強力な電気機関車を導入した。 これにより横川、軽井沢間は43分から17分に短縮されたと言う。 熊野古道への想いを撮った映像を見た。 熊野古道には2つあって、今回は伊勢路と言われる、伊勢から熊野速玉大社への 170キロほどの道を行く様々な人の想いをまとめている。 途中には急傾斜の山道があり、2キロほどの徳川時代に作った石畳の道もある。 昔はこの道は伊勢までの唯一の生活道であったが、このような道を良く行き来した ものだ、と思う。野面の石積みなど昔の面影が結構残っている。多分、周辺の 多くの人の世話によるのであろう。 途中の天狗岩や樹齢数百年の杉の木は、行く人々に穢れを払い、多くの人の悩みも 払うのだろう。自然の持つ癒しや景観の素晴らしさが神と言うものを感じさせ、 自身の信仰を意識させる。 また、通り峠から見る1340枚の棚田の景観は素晴らしいが、 夫々の田圃が小さいため、全て人力作業で今も行っている。四季折々の映像が 出てきたが、夫々に素晴らしい景観である。今はその景観が人々を惹き付けているが、 田圃となる土地が少ない人々の永く続く智慧なのであろう。ここに、隠れた 苦労がある事を忘れてはならない。 ツヅラド峠では、峠の麓にいる人が道の整備や旅人の世話をしている。 バスの待ち時間が3時間後とのことで、その家で簡単な昼食をもらっていた。 更に行くと八鬼山峠となる。個々は西国一の難所であり、600メートルの 高低差のある道を行く必要があるのだが、それを元気つけるため、34体の お地蔵様が100メートルごとに置かれている。またその地蔵の顔が夫々あり、 舌を出しているもの、笑っているものなど様々な顔をしている。 最後の峠は三木峠であるが、ここの旧道を2年かけて復活させたご夫婦がいた。 また、その途中には、アサギマダラという韓国や中国からやってくる中継、中休みの ためにフジバカマという花も育てている。今回もその蝶の飛来があった。 この峠を越えると七里浜の海岸が見える。古来より、ここは、浄土とつながる場所と 言われており、お盆の時には、盛大な花火で死んだ人を弔う。これは 街の一大行事であり、周辺からも数万の人がこの浜に来る。 ちょっと面白いのが、徐福と言う中国皇帝の命令で世界を廻っていた人が近くの神社に 訪問していること。大きな楠が目だった。さらに、アニメの聖地として、 波田須の道と言うのがある。 脳科学の進化 多くの読者はきっと興味を持つだろうと思うが、もし脳科学を使ったとしたら、 国民の投票行動を予測できるのだろうか? そして、それを操作することは 可能なのだろうか? もしそれができるとしたら、脳科学の知識を十分に得た政治家は、民主主義国家 においても自在に戦争を誘導したり、自国に有利な条件で平和な国際関係を 構築することが可能ということになる。 政治以外の分野では、1957年に、サブリミナル広告が購買行動を左右するとして コカコーラ社が槍玉にあげられたことがあった。ただし、現在はこれがウソで あったことがわかっている。しかし、この事件から49年経った2006年の時点で、 アメリカ人の80%はこのサブリミナル広告に効果があったと信じていたという。 「無意識に思考を操作されてしまうのではないか」という恐怖感が大きいことを 物語る事例と言える。 当時色々な脳に関する本を読んだ。人間の複雑性をあらためて感じたものである。 再度読み直すのも面白いかも。 もちろん、脳科学は、人間のあらゆる行動を興味の対象とする学問だ。そして、 脳科学者たちの一部は、投票行動を予測することも操作することも、理論的には 可能、と考えているふしがある。こうした、政治に関連する人間の行動を、 脳科学で読み解こうという研究分野を総称して、ニューロポリティクス、という。 日本語に訳して、神経政治学、というとティモシー・リアリー(*1)の印象が 強すぎてどうも実用に供さないように聞こえてしまうかもしれないため、英語の 音をそのまま日本語に移植した“ニューロポリティクス”といういい方のほうが いいだろう。 ブラタモリ札幌 明治2年2戸7人から始まった札幌が200万人の大都会となった。 扇情地の端に出来た札幌の町は,伏流水が多く農業に適していた。今でも 札幌の町中で、伏流水を使っている店もある、千秋屋。 しかし、それでは街の発展が難しいと判断した政府は、湿地や泥炭地の 水を抜き、町とするため、新川と言う排水のための川を10キロに渡り作る。 これにより、農地としての利用が可能となり、人口の増加に伴い宅地化 していった。街のはずれに出来たススキの遊郭は、明治4年にすでに 出来ていたが、やがて、そこは街の中央になっていった。 その当時の土塀跡が今も残っている。 また、札幌は碁盤の目の造りと言われているが、実は全てがキチンと 直線にはなっていない。これは、炭鉱が閉鎖となり、都市部に人が 集まるにつれて、周辺の20余りの村を吸収して町全体が大きくなって いったため、その村とのつなぎで直線に交わらない道路もあるのだ。 -------- 誰しもある時ふと、「もし生まれ変わることが出来たら、、」とかなわぬ 思いを抱くことがある。この科学万能のような時代でも、そうだろう。 死からの再生は神話の時代から永遠の人類の想いであった。夜空の月も 欠けては満り、草木はその一粒の種から新たなる生命を生み出すのだから。 人生儀礼にも、よみがえりの願望の中から生まれてきた行事や祭が彼方此方で 見られる。それは自身や家族の絶えることなき願望への現われだ。 満60歳を迎えた者は生まれたときの干支に再びめぐりあうので還暦と言う。 60歳の定年を迎えた人が「第二の人生」の旅立ちと言われるのもそこに 人生のよみがえりの想いがうかがわれる。稲作民俗は毎年一粒の種籾から 芽生える稲によみがえりを感じてきた。人もまた祭りや郷土芸能の中で よみがえるのだ。愛知県のある村では、大神楽を復活させた。その中の 「浄土入りから生まれ清まり」までは、まさに死から生へのよみがえりの 行事である。また、福島の町では、二十歳までの若者が権立と呼ばれる 木の幹を削ったものを担いで山の岩の割れ目に飛び込みそこをくぐり 抜ける、母親の胎内くぐりの儀礼がある。郷土芸能には、それを苦難の すえに祭りの日に成し遂げることで強い成人に生まれ変わる、ような 意味合いがあった。更に、我々は民俗宗教として人生儀礼を人生の中に 取り入れている。結婚式は神社で行い、お寺で仏式の葬式をする人が ほとんどである。また、正月は初詣で始まり、四季それぞれに祭りや様々な 行事がある。その根底には、自然にも神が宿り、死後も霊魂となり、 先祖の守護を行うと信じ、それらのための儀式を営む。正月には神棚を 整え、盆には盆だなをこしらえ、先祖の霊を招き、送り火や燈籠流しで 先祖を再び送り返す。祭りを行うときには、聖なる場所を清め、五穀、餅、 神酒、塩、野菜、魚などで、神の降臨を待つ。祭主の祝詞により神は 祭りの挨拶を受け、願いを聞く。そして神は人々に生きるエネルギーを 与える。それは神と人の共存であり、芸能としても受け継がれる。 我々の生活はケの日常が続くと、活力が失せ、怠惰になる。非日常のハレ の機会の祭日に神と交歓し、活力を得て、日常生活に戻るのである。 和邇は、4年前の病気以来、民俗学なるものに興味を持った。ここに 言う神との交歓を今少しづつながら味わっているのだ。 福井の海の見える景観から山並が、とくに白山の見えるこの道を歩いていると その想いが強くなっていくのを感じる。それは自身の暗き世界に埋没した 怠惰な生活の逃げ道としての生まれ変わりの願望もあろうが、この鬱蒼 たる自然の森や林、清涼な川の流れなどの自然の織り成す力が人工的な力 を押し返す壁となり、自身の体に未だ巣食っている暗闇にささやかでも 明るさをもたらしているからだ、まだ続く坂道に己の体力の無さを呪い ながらも、こう思った。 彼は、11月の自身の誕生日を迎えると、よく思ったものだ。 親父が死んだのは、11月25日、母親が病院で息を引き取ったのが、 同じ29日、さらにあの人が死んだのが20日、突然の電話とそれ以降の 自分を決めた日でもあった。 更に言えば、好きだった三島由紀夫が割腹自殺をしたのが奇しくも同じ 25日、同時に自死という言葉は、高校二年生の時の友人のことが、 今でもその話を聞いた時のやるせない気持が蘇って来る。彼は優秀であった。 その伸びやかな姿からは微塵も死と言うものを感じさせなかった。 何故と何日も自分に問うた。結論が出ないまま、心のどこかにその影を 残しながらも今に至っている。 11月は生命の誕生とその死が交叉していた。 だが、死の方が多く悲しみの費えることのない月となっていった。 起こった出来事というものは、それを記憶の谷間に埋めていけば、何らの 手を加えることなくも、小さな砂粒から大きな岩となり、いくつかの同じ 大きさから岩礁となって心に硬い壁を作り出していく。そこで流れた時間は ひたすらその硬さを強め、絶対不落の城塞を作り上げる。 あの人と三島の死はその与えた衝撃の大きさは違えども、三島の死は、まだ 社会人としての洗礼を受けたばかりの若き自分にとっては、忘れられない事件 であった。「金閣寺」「豊饒の海」その文章のきらびやかさと人間を奥底から あぶり出すような筆致は、この人は天才だ、と思ったものだ。それは夕刻の テレビや新聞のニュースで知った。鉢巻をし、日本刀を片手に演説する姿は 今でも、明瞭に思い出す。神々しいとさえ思った。国を憂うという檄文の中身 は忘れたが、その後に見た記事は微かながら記憶の内にある。 「(中曽根康弘氏・当時の防衛庁長官のインタビュー) あの事件が起きた後 同調するような世論や動きがあるかっていうと ほとんどなかったですね。むしろ反発するものが非常に強かった。 三島という名声をあげた小説家がああいうことにやったについては 三島の最期を惜しむと そういう方が強くて三島よくやったぞという 声はほとんどなかった。私は日本が非常に健全になってきてると そう思いました。自衛隊がどういう態度をとっても、三島は自決する つもりだったに違いありません。 市ヶ谷の事件は、壮大な「死」の演出でした。」 確かに、三島の想いは空回りで終わったような気がする。 しかし、自身が自身の生きる時間を決める、神に許された行為を自死として まっとうする、その心が明るく栄えあるものなのか黒き帳の中より出でたものか、 和邇には分からない。しかし、その思いを具体的な形で皆の前で晒したのだ。 それから40年以上、彼の心には「自死」と言う言葉が静かに、奥深く存在 してきた。まるで、深い森の湖の底に堆積された死骸のように、そしてそれが 湖面に現れることを期待する自分もいた。 彼が関西に転勤を望んだとき、「何故俺は技術者の目指したんだ?」と思った ことが ある。既に15年ほどをその生業で生きてきた人間が思うことではないはずだが、 電子工学と言う当時としては訳のわからぬ分野を選び、幾つかの製品を開発し、 ここまで来たのに。思えば、小学生の時、誕生祝として買って貰ったブリキの ロボットがその原点なのかもしれない。それは、30センチほどの銀色に 塗られた胴体に赤い眼、黒い帽子をつけた頭があり、太い足を畳みの上に しっかりとつけて立っていた。暫らくは枕元に置いて眺めるだけであったが、 ある時頭の上に細い棒があり、それを何気なく引っ張るとそのロボットは 我が意を得たとばかりに二本の足を前後に動かし動き始めた。 衝撃であった。人形が動いた。 なぜ、こいつは動くのか、その疑問と衝撃がたえず心のどこかに棲みつき、 こんなものを自分で創りたい、それが薄暗い工場の中で一人黙々と様々な部品を 組み立て、決して小綺麗とはいえない作業服に身を包み、結果の出ない日々に 悶々と悩み、だが思うような結果が出たときのまるで天にでも昇る高揚感に 満たされた時、それを糧に十数年続いた。 いまでも、ものづくりの思いは心の片隅で生きている様でもある。 しかし、それもこの転勤を機に心の表面からは消えた。人生とはそんなものだ、 無機質と呼べる世界から人を知る世界へ、そしてそれが自身の性分に合っている ことも知る。この旅を始めるにしても、過去の様々な経験、体験の中でも 人は不可思議なもの、その思いはその後の自分の一つとなった。 それは、深き暗き底が無いような空間から湧き上がるようにして彼の記憶の 扉を開けてきた。そのときは、悩みがあったというわけでもない。日夜仕事に 没頭し、心の表面は張り詰めた膜のように僅かな緩みも無い、そんな想いが強かった。 しかし、妻との何気ない奈良の散策で訪れた聖林寺で出会った十一面観音、 薄暗い堂内での出会いの衝撃はその後も、自身の心にしっかりと焼き付いていた。 慌てて、書棚にあった和辻哲郎の「古寺巡礼」を見れば、そこに彼が受けた 感動が記述されていた。 「切れの長い、半ば閉じた眼、厚ぼったい瞼、ふくよかな唇、鋭くない鼻、 全てわれわれが見慣れた形相の理想化であって、異国人らしいあともなければ、 また超人を現す特殊な相好があるわけでもない。しかもそこには、神々しい威厳と 人間のものならぬ美しさが現されている。薄く開かれた瞼の間からのぞくのは、 人のこころと運命を見通す観自在のまなこである。、、、、、、 この顔を受けて立つ豊かな肉体も、観音らしい気高さを欠かない。、、、 四肢のしなやかさは、柔らかい衣の皺にも腕や手の円さにも十分現されていながら、 しかも、その底に強靭な意思のひらめきを持っている。 殊に、この重々しかるべき五体は、重力の法則を超越するかのようにいかにも 軽やかな、浮現せる如き趣を見せている。 これらのことがすべて気高さの印象の素因なのである。」 その後、機会があれば、十一面観音像を見に行った。古代、自然の様々な姿を神 として自身の生活の糧の一つとしてきた人々がこのような仏像に出会ったときの 驚きは幾ばくのものであったろうか、その衝撃は、自分もそのような状態だったか、 すでに遠く霞のような記憶の彼方にはあるが、十一面観音像に出会う度に心が なぞられるような気がする。井上靖が「星と祭」の最後に描いている。 「湖北の御三尊に続いて、ああ、次々に、尊いお姿がお立ち下さいます。ああ、 次々にお立ちくださいます。有り難いことでございます。もったいないことで ございます。このようなことがあってもいいものでしょうか。鶏足寺野観音様が 石道寺の観音様が、渡岸寺の観音様が、充満寺の観音様が、赤後寺の観音様が、 知善院の観音様が、、、、」ここで、大三浦は言葉を切った。瞑目している顔は、 月光の加減で盲しいているように見えた。 彼は、ここまで心酔出来ないと思った。強いて言えば、彼の記憶に立ち上るのは、 聖林寺と渡岸寺の十一面観音像であった。多分、彼は意識していないが、この仏像の 発する母なる優しさと大地に毅然と立つかのような父の強さがこの二つに執着 している心根なのかもしれない。 蘇鉄と万灯籠の中庭を囲むようにして寛いでいる旅人と隣の部屋の飯盛り女の 化粧 をしている姿が描かれている。一風呂浴びた男が廊下をノンビリと歩き、部屋には 按摩と夕食を運んできた仲居、煙草を吸い寝転がっている男、階段には二階から 降りてくる客の足が見える。多分、今でも余り変わらない旅の寛ぎの一刻の情景 がある。東海道五十三次赤坂の光景がそこにあった。広重の浮世絵の世界は、 当時の香りを今も見るものにそよ風のごとく送ってくる。 岐阜から岡崎に出たあたりから出来れば浮世絵の場所に行ければ、と思い始めていた。 五十三次の浮世絵はいわば、当時の旅のガイドブック。今昔の妙をどこかで 味わえるのでは、そんな考えがわいてきた。家を出たときの気持は、微妙な変化を 見せ始め、足の痛さは相変わらずであったが、心の重さとその苦痛ははるかに 軽くなっていた。 さらに、この絵のように旅の持つ、日常とは違う自分、今と言う一瞬から過去の 薄黒い記憶の表層を剥ぎ取るような力に期待を持ち始めていた。 ただ、それは、春の蒼き空が瞬く間に雲に覆われ、薄い光の下でこの変化に怨嗟 を送った日の想いと同じ様になるかもしれない。 その一歩を、現在も商売をしていると言う「大橋屋」、それはこの浮世絵の宿だ そうだが、で過ごすことにした。幸い泊まれると言うことだ。 広大な原野に小さな松が無数に見え、緩やかな丘陵に松が二本ほど悄然 と立っている。 薄き青さを保った霧にその多くは隠され、カラスの声が聞こえそうな荒涼たる情景 である。左隅の茶屋には「名物かしわ餅」と書かれた看板、旅人が一人、それを 所望して要る様でもある。 画の中央近くには三味線を担いだ三人のゴゼがお互いを庇うように茶屋の方に 向っている。 そろそろ浜名湖に近くなり、その景観は変わるのであろうが、荒涼とした風景と うら寂しい人生を心に秘めたゴザたちの織り成す情景とそこから発せられる哀歓に 心惹かれる、広重五十三次の二川の光景である。当時はこの辺りは鬱蒼たる原野が 続いていたとも言われ、東海道名所図会には、小松が多く生える景勝の地として 紹介されていると言う。今、眼の前には緑一面の畑が遠くまで続いている、 広重がいまこの地の情景を見たら、その変貌の激しさに吃驚するであろう。 この絵の面影は何処にも残っていない。かしわ餅といえば、葛飾北斎も「五十三 の内白須賀」にかしわ餅の店の絵を描いている。艶かしい感じの女性と半裸に なった男が餅をこねている様子が面白い。 和邇は、まだ残る体の痛みと足のそれを感じながらも、浮世絵の情景を思い 起こしていた。実は、彼には、この地には、三つの思いがあった。 「中原屋、和田屋というかしわ餅の店、本陣跡、湖西と言う名前の地」だった。 最も、こちらは「こさい」と呼ぶらしいが、同じ湖西、しかも大きな湖を構えている。 いずれにしろ、百年以上時を隔てても、人の生業は変わらずに続いている。 浮世絵からは、その時代の匂いがそこはかとなく湧いて来る。 疲れた足を橋の欄干にかけ、彼は見ていた。やはり広いな、と思う。 遠くに薄く霞む山並が川岸を直線に延びる木々の上に顔を出している。橋の両岸は コンクリートの河岸で整備され、味気の無い姿ではあった。 浅く延びた河岸から多くの人が左の岸に向かい渡っている。肩車で渡される三人 の武士が先頭で、大名行列の一行であろうか、平蓮台に乗った武士が荷物とともに川を 渡っている。次の人足たちが荷物を天秤棒に振り分ける手配をし、その周辺には 武士たちが思い思いの姿で、立って待つもの、座っているもの、順番を待っている。 この集団の後ろには徒歩や駕籠で来た庶民が彼らの渡るのを待っている。 広い川幅の壮大な川越えの様子が俯瞰的に描かれている広重の東海道五十三次之内 島田の絵を思い出す。 あの絵からは、旅の楽しさが垣間見られた。川人足たちの駄弁る様子、川の揺れに 驚き嬌声を上げる女たち、侍然として輿に乗る男たち、それを待つ庶民、旅するもの の一瞬の姿がそこに現れている。遠くに富士を見ながら、滔滔と流れる川面も ゆったりと進む自分もいる。 橋が出来、この絵の様子は見られないが、時代を経ても、川面に映える 陽の揺らめき、その上を飛び去る鳥の一団、それはこの浮世絵の 世界とは変わっていない。一筋の汗が額を伝わり、頬を撫ぜていく。 目を閉じれば、再び広重の世界に戻れた。又、あの川を渡るものたちの声が 聞こえる様でもある。身体で体感できる旅、すでに滋賀を離れて20日あまり、 脚で歩くことの当たり前さを少し分かり始めていた。 店には、客が二人、旅人であろうか、とろろ汁を肴に一杯やっている様で もある。 店の奥の巻き藁に串刺しの川魚があり、旅人はこれで旅の疲れを食事と酒で 癒すのでもあろう。子供を背中におった女が何かを差し出し、その表情からの どかさが伝わってくる。思わず頬の緩むのを禁じえない。 店の前には、「名物とろろ汁」と書かれた立て看板があり、店の右の障子には 「御茶漬け」「酒さかな」、軒先の看板には「御ちやつけ」。東海道五十三次 丸子の情景を描いた広重の浮世絵、モノクロのトーンで描かれた藁葺きの店や家 と後景の山にそれらの人物が浮き出たように上手く配置されている。 庭先には梅が花を咲かせ、藁屋根には番の鳥が止まり、春ののどかさが伝わってくる。 さらに左には、蓑と菅笠を棒に差して肩にかけ、ゆるりとした趣で歩いていく 農夫の姿がある。春の少し生ぬるい風が吹き抜けて行くようだ。 松尾芭蕉も「梅若葉 丸子の宿の とろろ汁」と言う句を詠んでいる。 自然薯は早春に採れるそうだが、店の横にある梅にも、白き蕾が咲こうとしている 様でもある。甘き梅の香りが彼を通り過ぎた、そんな感じがした。 彼は、この絵を大分前に五十三次の中で見つけていた。そして、今でも 「丁子屋」として、とろろ汁を出している事を知った。とろろ汁のあの独特の 舌触りがはっきりと口の中に浮かんできた。 浮世絵の世界を感じながらの旅、岐阜までの心の変容を更に強めている様でもあった。 心に明るさが灯り始めていた。 階段を下り、革張りの扉を開けると数人の男が静かに座っていた。 その横には、テーブルが4つほど緩やかな曲線を見せて薄暗がりの中に浮かんでいた。 派手に着飾った女性が四、五人であろうか、すでに顔を赤らめた客を相手に 嬌声を上げている。黒田さんはここの顔なじみの様で、カウンターにいた男に 眼を流しテーブルの一番奥に進んだ。和服姿のママがにこやかな笑みを浮かべ 我々の所に来た。黒髪をゆったりの結い上げ、細面の顔に後れ毛が数本揺れている。 やや高めの鼻筋と眉尻の上がりが彼女の性分を現している様でもある。 薄く紅をさした唇に思わず眼が行く。仄かな明かりの中でゆったりと動く やや薄めの唇とその微妙な紅色に見とれていた。 「新地は初めて?」「少し前に大阪に来たもので」「どちらから」「東京」 「ゆっくりして下さいね」、甘みのある香りを残してママは離れて行った。 和邇は、関西に来て初めて北新地に足を踏み入れた。 それから十数年、享楽と時には苦痛の始まりであった。 東京の時は、銀座の老舗クラブのオーナーにどういう訳か気に入られ、少しは徘徊 したが、大阪は少し雰囲気が違うな、と感じた。ありていに言えば、どうも銀座 の空気は馴染めなかった。どこか冷たさが後ろに隠れそれが何かの拍子に出てくる ことがある。初めてとは言え、ここは、自分の波長に合っている、と思った。 女の子たちは、伸びやかに喋り、呑み、適当に客の相手をする。 仕事が順調に伸びる中、毎日の如く新地をうろついた。ママが一人で切り盛りする 店から高級な装飾で飾られた高級クラブに行った。そこでは、酒と他愛も無い話と カラオケで無駄と思われる時間を多いに過ごした。男と女の駆け引きも味わった。 客の愚痴も聞いた。女の子の相談にも応じた。ある時から、虚飾と本音の入り 混じった世界、昼間の世界では味わえない面白さがあると気づいた。 ママや女の子にも色々な人間がいる、男がいないと駄目な子、自分の目標の ために働いている子、生活のために仕事と割り切っている子、子育てのために 働くママ、金が全てと考えるママ、人生明暗の舞台が夕闇が寄せるとともに 明るく照らし出される店に設えられる。夕闇の中で、「おはよう」と挨拶 が始まるとその舞台は開かれる。 当時は、一晩で三、四の店をはしごし、タクシーで日付けが変わってから帰る のが当たり前の生活であった。家族との日々が益々少なくなっていった。 緑の穂波が足下から川の手前まで幾重にも重なり、一直線に伸びてい た。 何百という小さな田が丘の裾野に張り付くように彼の眼の及ぶ範囲に広く 横たわり、それを守護するかのように杉のそま山が立ち並ぶ。遠く霞んでいるのは、 駿河湾なのであろうか、海か雲の片割れの様であり、判然としない。 「塩の道」の一節がふと浮かんでくる。まだ宮本常一が見た世界が残っているようだ。 「「雑草が茂るということが、日本の文化というものを決定していたのではない と思っています。」という指摘がある。その一つが鍬の種類が多様である事 からわかる。牛や馬を使わずに鍬で田圃の稲の刈り入れや雑草をとっていた。 多くの田圃が極めて小さくそれを丹念に耕し作物を収穫していく。 その地道さと自然への愛着が生活文化の基本となっている。いま山の背に 張り付くように開拓整備された、いわゆる棚田がその象徴かもしれない」と。 写真家や自然の美しさに喜びを感じる人は、この風景を見てここにいること への感謝に満ちるだろうが、今の彼は、少し違った。 この幾重の田圃を営々と耕し、冬の寒さや夏の暑さという四季の移ろいに合わせ 家族を養い、次の世代へ命のつなぎをしてきたと言う土の人としての強さに感じ 入っていた。翻ってみれば、風の人として腰の定まらぬ日々でこの歳まで生きてきた という悔悟の念に似たものが体の奥底から沸きあがってくる。妻と息子の顔が瞬然と 浮かびまた心の底に押し入れられた。 折角、この数年の暗き沈んだ時間を忘れていたのに、と彼は思った。 数メートル先にある石地蔵が所在なさげにこちらを見ている。 この七十年を通じて、彼は色々な物に対する執着心が少なかった。富や美しいもの ばかりではなくて、人や家族への思いもそうであった。死んだ母の顔はすでに 忘却の彼方にあり、わずか10年ほど前に死んだ親父の顔さえ思い出すの に苦労する。一時のめり込んだ写真も5台ほどの写真機はどこかの片隅に 忘れ去られ、これも熱中したクラシックの音盤もすでに跡形も無く消えていた。 また、よく買い集めた陶器の数々、備前焼、有田焼きなども我が家のどこかで 存在しているのだろうか。物への執着は、その平板な心が許さなかった。 人への愛情もそうだった。熱烈な恋と言うのが彼にはわからない。 何人かの女性との交わりも数回続くと終りなった。 それはまるで人間や物とのつながりが自分の隠れている姿を晒し出すことへの 怖れだったのかもしれない。人の笑顔の裏に出てくる拒絶し、差別しようとする 心の醜さを垣間見、幻滅する自分への失望感でもあった。言葉の端に出てくる 優越感、目尻のわずかな動きから感じられる失望感、手や体の発する動きから 見える拒絶する心、彼は、それが素直に見えていた。それは、小さい頃の 環境や父の見せた姿に対する人々の反応を真近に見てきたからであろう。 さらには、彼の生きてきた高度成長の時代がそれを許してきたと 言えるかもしれない。仕事と言う隠れ蓑に隠れ、目の前のことに自分の 力を尽くし、道端にごみを棄てるかのように過去を捨てて来た。 家族を幸せにするという強い思いはあったものの、今にして思えば、 それは独善としての自分の思いだった、と緑一色の世界であらためて心の 反芻を重ねてみた。
2016年10月7日金曜日
日々の記録20(熊野古道、脳科学
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