台風が過ぎたとはいえ、夏の顔にならない。陽射しもまだそれほど強くはないし、 なんと言っても、この蒸し暑さはなんなのだ。 体の隅々に水が染み渡るように湿気が私の身体を被いつくす。毛穴からは その湿気が逆流するかのように汗が染み出してくる。首筋と額から頬にかけて 一筋、二筋と汗が流れて行く。まるで私のけだるさと憂うつな気分を声なき 声として洗い出しているようだ。 黒い雲が駆けていく。その間を縫うように白い雲を突き抜けるかのように 陽射しが私の顔に届く。白い雲の上にはさらに高層の雲が秋の天空を 思い出させるかのように霞み光る太陽のまわりにゆっくりと一筆を描くか のごとく流れ過ぎ行く。それは蜘蛛なのであろうか、視界の端にうごめく 黒いものがいる。さらには、鼻息荒く動き回る我が家の孫娘、犬のルナ、 が私の傍で寝そべっていたと思うと数秒後には、垣根の横で忙しく吼えまくる。 そんな光景をぼんやりと見ながら私はリクラインの椅子にもたれ、この やるせない気持と体の湿気に身を任せていた。目を閉じれば、全てが 闇になるのではない。闇になるかどうかは心のなせる業なのだろう。 今は、目を開けても暗闇が見えるのみ。人間とは不思議なものだ。 転換点は、古い友人たちと一緒に神戸に出かけた時だった。神戸から京都へと ただ、思い出を探すが如く、飲み歩いた。 あの晩、和邇は久しぶりの午前様となり、ぎこちない手つきで玄関ドアの 鍵穴にキーを差し込み、その友に声をかけ、そのあと靴を履いたまま 階段を上がり、そのまままっすぐに夫婦で使っていた寝室に入っていった。 その副が乱雑におかれた中に、何もかも着たままでベッドに倒れ込み、目を閉じた。 真夜中、自分がどこにいるのか気づいて、小さなパニックの痛みに 襲われたが、やがて痛みは安堵感に変わった。終わった。何が終わったか 正確には分からなかったが、ずしりと重く漠然とした痛みが消えたことだけ ははっきりしていた。羽毛布団を引き上げ、妻の枕にしがみついた。 妻がかってよく使っていた石鹸と妻のにおいがした。暫くして眼が覚めたとき、 かってと同じ軽やかさが温水のように全身に広がっていくのがわかった。 それ以降、和邇はそれまで使っていた書斎から自分の衣類を抱えて運び 出しては、衣装ダンスの妻の衣類が掛かっている側とは反対の端に掛けて 行った。自分に努力目標を課していた。毎日妻がいなくても、一つ新しい事を しようと決めたのだ。それが彼女に対する愛情なのだ、とおもった。 もっと別のやり方をすればよかった、と思うことが妻にはいくつもあった。 朝の光を浴びてベッドに横たわったまま、あくびをして伸びをしながら、 からだを右から左へとそして、両手でマットレスの広さを感じた。四隅の 人の体温の届かないところまで触ってみた。暫くして、その手で自分に触れた。 頬に触れ、喉に触れた。顔から体全体へと輪郭をなぞった。お腹と腰周りの肉の 多さに、そして肌はたるみに、指先はもう若い頃のあの敏感さをなくしている。 結婚して既に40年近く、白く光る天井に影が差し、少しづつ動いているでも ある。時の流れをそのわずかな動きからあらためて感じる。この小さな動きが 積み重なり、肉体の変化として、心の変化として、今の自分がいる。そして 夫と息子がいる。衣装ダンスのドアが僅かに開いていて、夫のシャツの袖が 見えた。胸をえぐられるような、それでいた何か新鮮な痛みが走った。 横にいつものようにナナが来た。その白い和毛を擦り付けてくる。衣装ダンス の扉がわずかに開き、うってつけの仕事が向こうから勝手に姿を見せた。 ツィードのジャケットが目に留まった。胸をどんと叩かれたような気がした。 何かが胸の内側に閉じ込められているような感じだ。そういえば、ずいぶん 長いことそのジャケットを見ないようにしてきた。 それをハンガーから外し、身体の前で広げて夫の胸の高さに上げてみた。 歳月が後景にしりぞき、自分たち夫婦の姿が浮かび上がってきた。 そのあと、自分のものと彼のものを一着づつペアにした。自分のブラウスの袖口を 彼の青いスーツのポケットに入れた。スカートの裾をズボンの脚に絡めた。 もう1着のドレスを彼の青いカーディガンの腕で包んだ。目には見えない何人もの 夫と私の衣装がそのタンスの中で、外に踏み出すチャンスを待っている。 それを見て彼女の顔に微笑が広がり、やがて彼女はなみだにくれた。それでも、 タンスの中身はそのままにしておいた。 和邇の頭は次第しだいに澄み渡り、身体が溶けた。雨が家々の屋根と 道路を打ち始めた。けれども、その音はやさしく、あくまでも、寛容で、 幼い息子たちを寝かしつけた時の妻の歌声を思い出させた。やがて、 雨音はやんだが、和邇にはむしろそれが寂しかった。いつしか雨音が 彼の一部になっていたかのようだった。いまや彼自身と地上との間に実体 あるものなど何一つ存在しないような気がした。 夜明け前に眼が覚めた。片肘をついて起き上がり、窓辺の隙間から新しい 日が夜の闇を追いやり、地平線にあくまでも淡い夜明けの光がしみこんで 行く様を眺めた。鳥たちがいっせいに歌い始めた。かなたの風景がはじめは ゆっくりと浮かび上がり、やがて、新しい日が自信たっぷりに立ち現れた ときのことだった。空は、灰色の淀んだ光りからクリーム色に、クリーム色 から淡い橙色に、更に、藍色に、そして、透き通った青に変化した。 霧の柔らかな舌が道路を這い、雲の中から丘の頂と人々の家が立ち上がってきた。 西に咲く月は早くもおぼろな影となり、その姿をかき消され始めていた。 キジ虎の言う場所を目指して北上しながら、足取りがいやに軽くなり、歩を進める ごとになんの苦もなく前進できるできるようになった。片足を上げて、次にもう 一方の足を上げる、などと考える必要もなくなった。歩くことは、他の四人を 活かし続ける力が自分には備わっているという確信の延長であり、チャトの肉体も いまやその確信の一部だった。やがて、何も考えなくても丘を登って下ることが でき、日頃の怠惰の身体が歩くに相応しい身体になりつつあるような気がした。 眼に映るもののほうに余計に心を奪われることもあった。そんな時は、周りの変化を 表現するに相応しい言葉を見つけたくて、あれこれと思い巡らせた。主人の使う人間 の言葉であり、仙人猫のいう猫語である場合もあった。それでも、時には、眼に映る 様々な光景がチャトの考えを入り乱らせ、ごちゃごちゃになって訳が分からなく なることがあった。時には、自分のことにも、歩くことにも、周りの景色にも、 全く意識が向かない時間もあった。そんな時には、何も、少なくとも、言葉として 表現ができるようなことは考えていなかった。ただそこに存在するだけ。 肩に太陽を感じ、森の静かな息ぶきを感じ、翼を広げて音もなく大空を舞う カラスアゲハの優美な姿を見守った。自分が自然の一部になっていくような気持 になっていた。仙人猫の言う猫の転生と言うものがこんなものなのか、とも 思った。 東海道五十三次 http://japan-highlightstravel.com/jp/themes/201505/ http://japan-city.com/sina/107/107a90.html →原点回帰のねたになる TDK57 二川が人気 寺社建築に関する勉強をしていると、 「檜皮葺」 だとか 「?葺き」 って出てきますよね。 ※読み方は「ひわだぶき」 と 「こけらぶき」です。 檜皮葺はヒノキの皮を使って葺いていきます。 ?葺きは木材を薄くしたもの、板厚は2~3mmだそうです。 そこでハッと気づきました。 「こけらぶき」の「こけら」って、「カキ」の漢字と同じじゃなかった!! コケラより、カキの方が一画多いのでした! 神社の勉強をしながら日本語の学びもありました。 郷土食をどう伝えるか 中沢弥子ひろこ 郷土食には先人の知恵と技が詰まっている。日本家政学会の食文化研究部会では 日本各地の食文化に触れる機会が多いが、どこでもその土地の気候風土を生かした 食がある。いっとき、何でも冷凍、冷蔵すればいいと言う事で乾燥の技が遠ざけられた 時期もあったが、昔の業を大事にしていまの人の嗜好にあう食材や料理を工夫 することで新しい形になれる。手間ばかりかかって美味しくない郷土色は 淘汰されていく。 郷土食は地域の人の濃密なコミュニケーションが磨き上げて来た側面もある。 昔は行事や農作業などで寄り集まる機会が多く、そこで作り方や食べ方の情報交換が 行われた。地域の年寄りが作る惣菜やおやつはその食経験の深さが違い、大家族の 職の世話をしてきた経験が健康的で美味しいものを作る努力がそこにある。 例えば、長野で見られる寒の利用だ。寒さと風を利用した、凍み大根、切った餅を ワラで結んだ凍り餅、凍り豆腐、などがある。 奈良平城京の話。ブラタモリ 奈良はならしたが語源との話もある。 平城宮は朱雀大路が80メートルほどもある大通り。 碁盤の目のように四角に伸びているが、現在の奈良駅周辺は出っ張った形に なっている。これは地震により隆起した高台に興福寺を、その隆盛を 見せた藤原不比等が一族の権威を示すものとして建立した。ここの 北円堂は当時はここから都が一望できたという。 この地域を外宮とも言っている。 そのため、駅周辺の奈良町や春日大社は傾斜の町並みである。春日大社の 四つの神殿も少しづつ段差をもって、建てられている。また、東向き 商店街やなら町の商店街も京都のような鰻の寝床風の町屋であるが、 家の中も表から裏へと少しづつ傾斜をなしている。 また春日大社は御カサ山をご神体としている山岳信仰を基本とした 神社であり、たとえば参道の1つである剣先道は御かさ山に直接延びている 道であり、特別な行事にしか仕えなかった。 街歩きツアーが今盛んである。 日頃は通っているが、いざとなると知らない露地や建物、旧跡などをゆっくりと 味わう。ポイントはよく紹介される人気スポットは避ける。 地元に根付いたお店、隠れた旧跡、名所などを半日程度でめぐる旅。 例えば、鎌倉などはその様な場所が多く、人気があるとのこと。 京都ほかでもあるのが、銭湯めぐりやマンホールウォッチなど探せば その対象は色々とある様だ。目的を一つに絞り明確にすること、視点を 変えてみることが大事である。 例えば、「山の音」には、鎌倉の神社や旧跡、鎌倉文学館がうまく 描かれていることもあり、その場所を辿るのも1つである。 琵琶湖八珍 http://caddiswing99.seesaa.net/article/419559808.html http://ameblo.jp/bobbin-odamaki/entry-11737261368.html これはびわ湖の魚を、その味覚とともに守ろうと、「鮒鮨」の材料となる「ニゴロブナ 」など8種を選定したのでした。 琵琶湖にいる約80種の魚から、同館や観光関係者らで構成された選考委員会が、琵琶 湖だけにすむ固有種を軸に、県内外の3,300人の人気投票にて選定したという。 その八珍は「ニゴロブナ」「ビワマス」「コアユ」「ハス」「ホンモロコ」「イサザ」 「ビワヨシノボリ」「スジエビ」と、どれも琵琶湖固有種が選定されています。 こうした地域の魚料理を定めたものに、「宍道湖七珍」があり有名です。これは島根県 の宍道湖(しんじこ)の魚料理を選定しています。 ことの始まりは昭和5年(1930)に、島根新聞社の「松井柏軒」が、中国の「西湖十景 」に倣って、「宍道湖十景八珍」を選定したことに始まります。 曲折を経て、昭和33年(1958)にあらためて「宍道湖七珍」が選定されました。その後 幾つかの変更を経て、現在の七珍は「スズキ」「モロゲエビ」「ヨシエビ」「シラウオ 」「コイ」「シジミ」となっています。 全国の専門店で簡単にいただくことができます。わたくしも10年ほど前に、大阪駅の 近くでいただいたことがありました。 琵琶湖八珍の中で、「コアユ」「イサザ」「ビワヨシノボリ」「ハス」「スジエビ」な どは、佃煮(甘露煮)などとして、全国に流通しています。 ところが、「ニゴロブナ」や「ビワマス」に「ホンモロコ」は、滋賀県に住んでいても 滅多に口に入らない高級魚になっています。 「ニゴロブナ」は鮒鮨(ふなずし)に使われますが、近年は産卵場所の減少やブラック バスやブルーギルなど外来魚の食害によって、智行が食べられ漁獲高は激減しています 。 image 鮒鮨はなれずし(現在のお寿司の元)ですから、食べられない人は受けつけにくいと思 います。現に滋賀県に来て求めたものを、米原駅で開けて『腐っている』と捨てられた という、笑えない話があります(なれずしですから腐らしているのです)。 食べ慣れれば、日本酒にこれだけ合う肴はないと思うほど、深みのある味をしています 。残念ながら、贈答用だと30cmほどの子持ちで1万円ほどします。 「ビワマス」は「ヤマメ」の陸封タイプで、海に出ると「サクラマス」になります(厳 密には差がありますが)。 成魚になりますと70cm以上になり、その刺身はトロのようだと言われています。こ れも残念ながら「ニゴロブナ」と同じく。養殖されたものが主流となっています。 「ホンモロコ」は滋賀県というより、京料理に用いられる高級魚になっています。琵琶 湖の貴婦人の名に恥じなく、白焼きは絶品です。 image 最盛期(40年ほど前)には、バケツにいっぱい釣れていたのですが、外来魚の食害の ため最盛期の1/10以下になっています。 滋賀県はすでに、「近江八景」や「琵琶湖八景」などを選定していますから、八珍にな ったと思われるのですが、「セタシジミ」が選ばれていないのが残念です。 image 「ヤマトシジミ」に比べて肉厚で大きく、琵琶湖にしか棲息していません。ところが、 琵琶湖の水質悪化とともに漁獲高は激減して、最盛期の1/120になっているそうで す。とても供給量が確保できなかったのかもしれません。 これら琵琶湖の固有種が観光資源となることにより、環境浄化や養殖の採算性が成立す るようになることを願っています。 琵琶湖ほど多様な価値を内包する湖は、少なくとも日本にはない。古代湖にして太湖 、これだけでも他に無い強烈な個性(湖性)である。さらに、琵琶湖を巡る歴史文化は 、日本の歴史文化の縮図であるといっても過言ではない。 そして、忘れてはいけない湖性に、琵琶湖に棲う魚を対象とした魚食文化の伝統がある 。琵琶湖には1万年にも及ぶ永い漁業の歴史があり、捕られた魚は、その時々の技術に より調理され、食として饗されてきたのだから、豊かな魚食文化が伝えられている事に 、何の不思議はない。しかし、この琵琶湖の魚食文化を国内の内水面(湖や川)と比較 すると、それでも、他地域とは異なる、際立った多様性に気づく。 滋賀県立安土城考古博物館では、2013年夏に、琵琶湖の漁業と食の歴史をテーマ とした特別展「華麗なる漁と美味なる食-魚・人・琵琶湖の過去・現在・未来-」を開 催した。展示に先立つ琵琶湖の魚食文化の分析で、様々な興味深い事象が浮かび上がっ てきた。いずれも琵琶湖の湖性に根差した事象である。 ① 近江の人は淡水魚を生で食べる 一般に淡水魚の生食は、寄生虫のリスクがあり避けられる傾向が強い。しかし、琵琶 湖は違うのである。中、大型の魚は殆ど生食の対象となる。コイの生食は「あらい」と して全国に分布するが、琵琶湖では「あらい」は勿論であるが、普通の「造り」として も賞味される。ゲンゴローブナ、二ゴロブナも「造り」にされる。さらに、産卵期の魚 は「子まぶし」として、茹でた魚卵を文字通りまぶして食べる。小型のフナはジョキと 称して、皮つき骨付きのまま細く刻んで生食する。さらにウグイやハスのような細長い 魚は骨ごと輪切りにして生で饗される。ほかの地域では味わえない琵琶湖の味覚である 。 私は、展示取材、その他の機会に度々湖魚を生食したが、寄生虫の症状はいまだ発症 していない。 ② 野菜とのコラボレーション 琵琶湖では、畑の産物と琵琶湖の産物を併せた料理が多数伝えられている。一番馴染 み深いのは、スジエビと大豆を甘辛く煮き合わせた「エビ豆」であろう。この他に、大 豆と魚を炊き合わせた料理には「イサザ豆」「ウロリ豆」「ヒウオ豆」等が広く食され ている。米どころ近江では、水田の畔に豆を植えることが広く行われていた。「**豆 」は、この豆と、琵琶湖の魚が合わさり生まれた料理なのだろう。この食文化は、琵琶 湖の漁師の多くが農業もおこなう。言い換えれば農民が漁業を行うという伝統に根ざし ている。 同様に、野菜との組み合わせでは、「ジュンジュン」と称される料理が広く食されて いる。「ジュンジュン」とは「すき焼き」のことである。「牛のジュンジュン」は無論 、「カシワのジュンジュン」のような肉類の他に、ウナギ、イサザ、ナマズ、コイ等々 、多くの湖魚がジュンジュンとして饗され、多量の野菜と共に煮込まれる。同じ魚でも 、海の魚にはあまり見られない食文化であろう。 ③ 稚魚・小魚を大量に食べる 海においても、チリメンジャコのように稚魚を集約的に漁獲して、これを加工する食 文化がある。しかしその種類は少ない。 ところが、琵琶湖においては、コアユの仔魚である「ヒウオ」、ビワヨシノボリの仔 魚である「ウロリ」、ハスの稚魚である「ハスゴ」等が盛んに捕られ消費される。その ほか、イサザ、スゴモロコ、コアユのような小型の魚も盛んに漁獲され、利用されてい る。このような小型の魚を集中的に利用する食文化も、琵琶湖の特徴であろう。 ④ 調理への工夫 淡水魚を食べるうえでどうしても気になる点がある。小骨の多さである。これを克服 するため、様々な調理技術が駆使されてきた。 小骨に対応するために多用される技術に「骨切」がある。魚体に小刻みに包丁を入れ 、小骨を断ち食べやすくする技術である。これさえ施せば、ハスなどは淡白な絶品料理 の食材となるし、ニゴイも美味しく食べることができる。 また、醤油と甘味料でゆっくりと煮くことにより、骨まで軟らかくなり、小骨を気に せず食べることができるようになるし、保存性も高まり、家庭の常備菜として重宝され てきた。また、びわこの土産品としても親しまれている。 ⑤ 魚を発酵させる技術 忘れてはいけない調理技術に「ナレズシ」がある。塩漬けした魚を御飯に合わせて乳 酸発酵させた食品で、現在の日本人が愛してやまない「スシ」の原型の食である。そし てその代表がフナズシである。 フナズシの起源は、メコンデルタ地帯にあり、水田の伝播とともに伝わってきたと考 えられている。何故、魚と稲作がセットとして伝播したのか。この謎は琵琶湖岸の水田 開発の様を思い起こすと理解できる。水田の開発は湖岸の低地から始められる。水田は 水深の浅いプールであり、夏には大量のプランクトンが発生する。水田の開発と共に湖 岸に異変が生じた。産卵のために水田に押し寄せる魚群の出現である。水田に産み落と された卵は孵り、稚児は豊富なプランクトンを食べ成長し、琵琶湖に帰る。稲作と魚の 生態の関係を見たとき、湖岸の農民は想った。「魚が稲魂を運んで来る」と。この時、 稔の米と、魚が合わさり聖なる食が生まれた。「ナレズシ」である。そして、この聖性 故に、神祭りの食として定着し、ここから派生した「スシ」が日本人のソールフードと して愛され続けているのである。 琵琶湖には、かくも素晴らしい湖魚に対する食文化があり、これを支える食材として の魚が生息している。まさに琵琶湖にしかない個性(湖性)である。全国、画一的な食 文化が席捲している中、その土地にしかない、しかも、その土地に行かなければ味わえ ない食べ物など、極めて稀な存在である。琵琶湖の湖性が生み出した、食文化の発信は 、内には、湖の湖と共に生きる誇りを、外には琵琶湖に対するあこがれを醸しだす、ま さに最高のブランディングといえる。 琵琶湖八珍の提案 世界には三大珍味があり、宍道湖には七珍がある。何故、琵琶湖に湖魚を対象とした ブランドがないのか?それなら、博物館の特別展の一環として、ブランドを創出し、提 案をすることはできないかと考え、博物館周辺の団体の方々に諮ったところ「面白い・ やろやないか」と話が進んだ。そして、その前段として、博物館来館者を中心に「どの ような湖魚の料理に関心があるのか」を把握する、湖魚料理人気投票を行った。335 0票もの参加をいただき、その結果を分析したところ、1位は「うな丼」、2位は「ア ユの塩焼き」、3位は「シジミのみそ汁」という、何の変哲もない結果となってしまっ た。そもそも、これらの料理素材は、多くの場合、県外産の素材であり、これをそのま ま琵琶湖のブランドとすることはできない。 検討を重ね、得られた結論は、「琵琶湖らしさを前面に押し出す」であり、必然的に 、琵琶湖の固有種をを中心に、食材としての魚を8種選ぶこととなった。食材で選んだ のは、料理を8種に固定するより、食材で選んだほうが、より、湖魚料理の多彩さを発 信できると考えたからである。 結果、以下の8種の魚達が琵琶湖八珍に選ばれ提案された。ニゴロブナ・本モロコ・イ サザ・ビワマス・ハス・ビワヨシノボリ(ウロリ)・コアユ・スジエビである。 湖魚を食べる大きな意味 琵琶湖には、実に多様な湖魚に対する食文化が生まれ、継承され、現代に 至っている。 しかし、その時と場面毎に湖魚を食べる意味合いは変容してきた。ある時は命の糧とし て、ある時は貢納物として、ある時代は嗜好品として。 未来の湖魚食を考えるとき、湖魚が大きな役割を担っていることに気づく。それは、 「琵琶湖の魚が泳いでいる水は、我々滋賀県民、近畿圏の多くの人たちが飲んでいる水 である」という動かし難い事実である。魚が住めないような水は、いかに科学的の浄化 されようが、私は飲みたくはない。魚が気持ちよく泳ぐ琵琶湖であってほしい。そのよ うな琵琶湖にするために必要なことは、琵琶湖に身を寄せる人達が、琵琶湖に対する当 事者になることである。そして、琵琶湖に対する当事者となる一番簡単な方法は、「琵 琶湖の魚を食べる」ことであると思う。琵琶湖八珍の提案を機会に、一人でも多くの人 たちが琵琶湖の魚を食べ、これが泳ぐ琵琶湖にも思いを馳せて貰いたい。 http://www.atw.ne.jp/~suwa_h/FUKUI/FJYOSYA.html えちぜん鉄道 場所: 福井県あわら市など 【 見 所 】 福井市内と永平寺・勝山・芦原温泉・東尋坊などを結ぶ。主に1両で運行されており、 ローカル線の風情たっぷり。車内では全国でも大変珍しい女性アテンダントがご案内。 なごやかな空気が旅情を誘う。 ポイント: <風光明媚><名所旧跡><乗って楽しい!> <アクセス> 地下鉄四条駅から京都駅のりかえ、JR特急雷鳥号で福井駅下車。 えちぜん鉄道福井駅へ徒歩3分。 福井鉄道に新駅ができたのと、一部駅名が変更になったため、北陸の駅更新のため、福 井鉄道福武線に乗ることに した。18切符を利用して9時18分に福井へ到着、328Mで武生へ行き福井鉄道で 取材しながら福井へ戻る予定 だったが列車がない。328Mはダイヤ改正で福井打ちきりとなっていた。419系の 独壇場だった芦原温泉-武生 間に521系が進出している。金沢-福井間の多くの駅で521系4両分ホームが嵩上 げされ、安全柵が新設されて いた。 急遽予定変更、えちぜん鉄道福井駅でえちぜん鉄道・福井鉄道共通1日乗車券120 0円を購入。三国芦原線電車 で田原町へ、田原町から歩いて裁判所前から仁愛女子高校に駅名が変わった電停へ、撮 影後、越前武生行きモ880 +881に乗る。この日は福井マラソンのため、午前中駅前へは入れないため市役所前 で12分間停車する。田原町 福井鉄道 場所: 福井県鯖江市など 【 見 所 】 武生・福井両市へのアクセスに便利。最新型の低床車が田園風景と都市の路面を走る姿 は必見。レトロな車両も健在で、見所は多い。 ポイント: <風光明媚><個性派車両あり><ファン必見> <アクセス> 地下鉄四条駅から京都駅のりかえ、JR特急雷鳥号で武生駅下車(停車しない列車があ ります)。福井鉄道武生新駅へ徒歩3分。 3階建ての駅舎だが、待合室・改札・窓口はすべて1階にある。営業時間は5時45分 - 23 時05分。トイレは駅舎の外側に独立して入り口がある。同じビルには2011年7月から福 鉄バスチケットセンターが入居している。かつて入っていた福鉄観光社は北府駅近くの 福鉄バス嶺北営業所内に移転した。福井鉄道の駅では唯一、行き先案内の電光掲示板を もつ。また2013年4月26日より福井鉄道の中で唯一発車メロディが流れる駅となった。 それまでは発車前に発車ベルが鳴らされていたが、福井テレビジョン放送(福井テレビ )のマスコットキャラクターである「EarEarちゃん(イヤイヤちゃん)」のダンス曲『 ハッピーEarEar ダンス』をアレンジしたものに変更された。 ホーム 櫛形ホーム(2006年4月2日) 2面の櫛形ホームと3線の発着線を持つ。主には両面ホームの2番線が使用される。夜間 滞泊設定駅でもある。 3番線の更に東側には留置線が、福井方面に向かう線路より東側に洗車機を備えた側線 がある。 岐 阜 県 樽見鉄道 場所: 岐阜県大垣市など 【 見 所 】 美しい自然が残る濃尾平野をさっそうと走る。沿線には豊かな自然を満喫できるスポッ トがいっぱい。車両のラッピングもバラエティに富んでいる。 ポイント: <風光明媚><乗って楽しい!> <アクセス> 地下鉄四条駅から京都駅のりかえ、JR琵琶湖線米原駅で東海道線のりかえ。大垣駅で 樽見鉄道のりばへ。徒歩すぐ。 築50年を超える古民家の存続、再生事業に取り組む一般社団法人「おんなたちの古民家 」は、過疎化、高齢化が進む典型的な中山間地域である山口市阿東に拠点を置き、地域 の活性化にも力を注ぐ。東京・日本橋の高島屋本店で今年2月から販売が始まった桐箱 入りの「田楽米」は、同法人によるプロデュースで誕生。国内の名だたる産地の米と肩 を並べる商品として、“阿東米”のブランディングに成功した。 古民家再生と米づくりの関係とは?「おんなたちの古民家」の代表理事・松浦奈津子氏 の挑戦をたどる。 「やるなら一番に」と設立を決意 松浦氏は1981年、山口県錦町(現岩国市)生まれ。豊かな自然に囲まれた山あいの小さ な町で、高校卒業まで育った。山口県立大学でジャーナリズム論を専攻したことをきっ かけに、卒業後は地域情報紙「サンデー山口」の記者を7年間務めた。 行政、経営者、市民活動に携わる人など、山口をこよなく愛する人たちへの「取材」が 松浦氏の“地元 愛”を確固たるものにし、さらに自身を大きく成長させたという。 松浦氏が生まれ育ち、思い出に刻まれた実家がまさに古民家だった。古い建築物にもと もと興味を持っていた松浦氏は、結婚退職後の2010年12月に「古民家鑑定士」(財団法 人職業技能振興会)の資格を取得。その理由は、「面白そう」という直感的なものだっ た。 当時、山口県内には古民家再生を手掛ける組織は存在せず、「やるなら一番に」と思い 立ち、「おんなたちの古民家」の設立を決意。さらに、資格をどのように使っていくか 模索する中、記者としての経験が活かされた。 平和の要件? http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44269
2016年10月9日日曜日
日々の記録12(東海道五十三次、郷土食、平城宮、健康ツアー琵琶湖八珍、ローカル 鉄道、古民家再生、平和の要件)
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