2016年10月7日金曜日

日々の記録29(伏見城

にごい
琵琶湖の漁獲量が減少する中、滋賀県内の漁師たちがこれまであまり食べられてこなか
った魚を食べやすく加工したり、飲食店などと協力して食材として活用したりしている
。担い手の減少と高齢化が進む漁業の経営基盤を安定化させるのが狙いだ。(京都新聞)
小骨が多いが、白身の上品な肉質で食味は良好な魚であり[10]、唐揚げなどで食べられ
る他、ヒラメの代用魚とされたこともある。旬は春とされている。
大津市の漁業者7人でつくる大津漁業生産組合は昨年11月、ニゴイのかまぼこを試作
した。ニゴイはコイ科の魚で、 
体長は大きいもので50センチ。小骨が多いことから食用には適さないとされ、県がま
とめる漁獲量の調査対象にもなっていない。 
繁殖が盛んなため、高知県では駆除している漁協もあるほどだ。 

?飼(うかい)広之組合長(55)の定置網「エリ」には年間50~60キロが入るが
、捕っても売れないため逃がしていた。 
ブラックバスの加工品作りに取り組んでいた?飼さんは「すり身なら小骨を気にしなく
てもよいのでは」とかまぼこへの加工を企画。 
塩と砂糖だけを使い、あっさりとした魚本来の味を引き出した。 


円教寺の33の観音像
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/1419/33kannonzo.htm


安土桃山時代と呼ばれる信長と秀吉の時代。秀吉が天下を統一した時、
その正式な居城は伏見城という。伏見の城の周辺は桃の樹が多くあり、桃山時代
はそこから来ていた。知らなかったが、タモリのブラタモリで
その所以を聞くとなるほどと思う。因みに大阪城は秀吉の私的な城であるとのこと。
確かに、伏見は京都大阪、奈良へ通ずる中間の位置にあり、政治的、軍事的にも
絶好の場所なのだ。本丸は現在の天皇陵のあるところだそうだが、周辺には
今は公園となった大きな堀跡があり、周辺の道路はかなり長い直線となっている。
本丸周辺には、多くの大名の屋敷が作られたようで、地名や電話などの柱名には、
福島、長宗我部などの大名の名前が残っている。さらには、奈良との交通の便
を図るため、近くの巨椋池を堤で埋め立てたり、大阪との水運を図るため、
淀川を直線に改修するなどの大きな工事もやっている。なお、太閤堤と呼ばれる
その堤は4キロもあり、高さが5メートルとその大きさは現在の工事でも
大変なものだが、それを実施している。
まさに、伏見を天下の中心とするための様々な工事をやっていた。
しかし、徳川時代となるとその姿は消す。さらに、指月城というのも伏見城
の前に造ったそうだが、2年目の大地震でその姿を消し、幻の城とされている。
しかし、金の鯱や様々な城の遺跡が出てきており、実存したようだ。
なお。羊羹は伏見がその発祥であり、江戸時代から続く駿河屋が今でもある。
これは秀吉が絶品と褒め、全国の大名に推奨したことにあるようだ。


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護岸は鋭くその灰色の壁を海に突き刺していたが、ふとその平板な景観の中に幾つかの
彩りを見た。一輪の昼顔の萎びた淡い紅色がまず目についた。護岸の上の砂地には
夥しい塵芥が海風にさらされていた。コーラのつぶれた空き缶、家庭用の様々な
プラスティックの容器、破れたビニール袋、洗剤の箱、廃棄物と称される沢山の品々が
まるで、すべての生活の滓がここまで雪崩れてきているかのようにそこに留まっていた
。
揺らめく波の狭間に汚れ錆びれた醜い姿で彼の足もとにそのいくつかが寄せていた。
奥の堤の上には乏しい松が、新芽の上に赤いヒトデのような花を開き、その先は、
寂しい小さな四弁の白い花をつらねた大根畑があり、道の左右を
一列の小松が劃していた。そのほかにはただ一面の苺のビニールハウスで
蒲鉾形のビニール覆いの下には、夥しい石垣苺が葉かげにうなだれ、蠅が
葉辺の鋸の葉を伝わっていた。見渡す限り、この不快な曇った白い蒲鉾形が
ひしめいていた。




白川郷
白川郷の生活が描かれている新日本紀行を見た。
過去に白川村は多くの地域で合掌つくりが見られたが、昭和41年ごろから
高度成長時代を経て、より豊かな生活を求めて村を離れていき廃屋となったり、
御羽衣ダムの建設で5つの地区が消え合掌つくりの家々は衰退の一途となった。
更には、合掌造りの維持や葺き替えに多くの費用もかかり、ほとんどの地域で
消えていった。今合掌造りの家はオギマチ地区のみとなった。114棟が
維持管理されている。それは、この村での結いといわれる地域民全員で地区を
守っていこうとするつながりの強さが根底にあるからだ。地区の1/3以上の
人が代表として集まる全域の集会で全てを決めていく。この全体会議で合掌つくり
の維持管理を継続的に行っていくと決め、そのため、この合掌作りを観光資源として
活用していくことも決めた、「売らない、貸さない、壊さない」と言う三原則も
この場で決められたものだ。更には、30年ほどに一度行われる合掌つくり
の葺き変え作業には村人が総出で行い、木と萱で火に弱い家々を守るために当番
で毎日行われる火の用心の見回り、共有地の萱場の萱の借り入れ、火から守る
秋葉神社の祭祀など、地区全員で日常作業や祭、結婚なども行っている。
ほとんどの合掌造りの家は江戸時代から400年以上、様々な雪深い里の暮らしに
対応した工夫を重ねて今日に来ている。一階は60畳ほどの広さがあり,昔は
牛や馬もいた。二階は昭和初期まで盛んであった養蚕のための作業場である。
ここで蚕を飼い、収入を得ていた。二階、三階は茅葺きの屋根を虫や雨風から
守るため、煤だらけである。そのため、1階の大きな囲炉裏が必要となる。
少し前に、利便性を考え石油ヒータにしたが、屋根などに大量に虫が発生し、
慌てて囲炉裏に戻したとも言う。先人の智慧をあらためて感じたと言う。
屋根は傾斜60度ほどの正三角形をしており、これは雪が容易にすべり、雪下ろしの
手間を軽くするために重要である。また家は東西に向って建てられており、
冬は日照時間の短いこの地域の気候に合わせ、なるべく長く陽射しを受けるように
工夫されている。かってドイツの建築家グルーノ・タルトはこの合掌つくりの
建築を見て非常に合理性にとんだ建物と賞賛している。
この地域でハレとなるのは、10月14日前後の秋の例大祭(どぶろく祭)である。
白川八幡宮から神輿がでて、しし役者となる人が奉納の踊りをする。この地区では、
囃子の人としし役者が花形であり、中々に選ばれるのが難しいとのこと。
更には、浄土真宗への信仰が強い地区であり、ホンコ様と呼ばれる親鸞上人
への報恩講の催しを行う(11月27日前後)ことが重要な行事となっている。
ただ、そのために1年ほど前から、春の野菜、山菜などを冷蔵庫に保存し、
様々な精進料理を出すとのこと。その家の奥さんは大変な作業となる。


居酒屋風の店の店主で、大阪で仕事を始めたころからの付き合いのある
田中さんにこんな話を聞いたことがある。彼には、当時人気のあった
ハーフの店や高級クラブによく連れて行ってもらった。機械とにらめっこの
世間的には無智だった私の指南役でもあった。バブルの時代は人間の底に
隠れている物を沁みださせる、そんな思いで話を聞いたものだ。
田中さんと付き合いのある老人の話だ。
彼は、ちょっと深酒をしたとき、酔いに任せてしんみりと言った。
「今の時代、金さえあれば、と思う人間が多いけど、金のかからぬ悦楽
にこそ身の毛のよだつような喜びが潜むのを、知っているか。公園で
恋人たちが戯れるのを観るのも中々にいいもんだ。あの身を隠す夜の木立の幹
のぬれた苔の手ざわり、ひざまついた土の落ち葉のしめやかな匂い、
あれは、夜の公園の独特の姿だ。若葉の香りが濃密に漂い。恋人たちは草の
上で乱れている。その森の周囲の道路を流れるヘッドライトの往来、それが
あたかも木々を神社をなす列柱のように見せ、その列柱の影を次から次へと、
寄せては引く波の如く消えてはまた現れる光芒の素早さと、それが芝生や草叢
の上を走るときの一瞬の戦慄、その中に浮かぶ、まくれた下着の白の、
神聖無垢な美しさ。そんな時、その光芒が半眼にあいた女の顔の上をまとも
に照らし出す時がある。一滴の光りの反射が瞳に落ち、半眼ながら、眼を
開いていていることがある。それは私の存在を闇から一気に引き剥がす瞬間
でもあったのか。見えるはずのないものまで見えてしまうという不安の
結果なのか。恋人たちの戦慄と戦慄を等しくし、その鼓動と鼓動を等しくし、
同じ不安を分かち合い、これほどの同一化の果てに、しかも見るだけで
決して見られぬ存在にはならない。わたしらのような隠避たる存在者は、あちこち
の木陰や草叢に蜥蜴のように隠れていた。闇に浮かぶ若い男女の、むつみあう
白い裸の下半身。夜もひときわ濃いあたりに舞う手の優しさ。律動する白い男の尻。
そしてあの1つ1つの吐息のさまは私の悦楽を更に高めた。
でも、やがて思った、廃棄物のような悦楽のみじめさとその不安の一時間
のぞっとする労苦。以後、ついに幸いに誰にも知られずにすんだこの習慣、
その戦慄と、すっぱり縁を切った」という。




生きる
谷川俊太郎


生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみをすること
あなたと手をつなぐこと

生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと

生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ

生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまが過ぎていくこと

生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ





貧乏という名の蔑みと事業失敗を背中に背負い込み毎日をただ食べるためにだけ
過ごす父との苦痛の六年間であった。
中学、高校はただ本と対峙し、好きなものつくりを学校で体験した。頼れる友も、
横浜のような近き隣人もいなかった。今、車窓から見ているこの雪の情景の
ような暗さとわずかの明るさを求めて、ただこの地を抜け出すことが目標と
なった。ただ、この地でのわかったことは以後ずーとわが心の中に
生きていくことになる、「逃げては何も得られない。無常という体感の中で、
自身に向かい合うことで、次の何かを得られる」。
そして1967年、それは果たされた。技術者としての入社と一人、川崎での
生活である。わたしの青春は、ここから始まったのかもしれない。


チャトの鼻が何か香ばしいものを探り当てたように、ピンク色になっている。
彼の鼻は人間の表情に似ている。猫の喜びの表現は声ばかりではない。人間と
同じように顔の表情がストレートに出ればよいのだが、わずかに筋肉が動く程度で
主人は少しわかるが、普通の人間は、ほとんどわからない。しかし、鼻の色の
変化でもわかるようだ、とチャトは言うのだが。
チャトの鼻がピンクに染まるとき、嬉しさでかなり興奮しているのだ。もっとも、
主人と言えども、その興奮がいつ起こるのか、いまだ定かではない。
だが、今日はすぐに分かった。先ほどからママが春の山菜の天ぷらを作っている。
チャトは猫と言え、あぶらものが好物だ。それが家中に充ちているのだから、
堪らない。わざわざ、二階で仕事をしている主人の元へ御注進である。
「今日は、美味しそうな天ぷらですわ。早う降りてきいや」
「お前さんも、好きやな、本当にお前、猫なの」
「別に猫だろうと、人間だろうと、美味しいものには、関係あらへん」
「まあ、仰るとおりですけど」
それは昨日のこと、小松さんが沢山の山菜を採ってきたのだ。春の山菜は、冬の
寒さを凌いできたエネルギーが湧き出てくるのであろう、美味しい。
小松さん曰く、今が山菜の採れ頃だよ。和え物でも、酢の物でも、何でもいいし、
安全を考えれば、てんぷらが一番だけど、少し虫食いのあった方が、虫が
ちゃんと食べられるものとして、食にはいいけど、とご託宣し帰って行った。
虫に毒見か、なるほど、わかったような気持ちで主人は聞いていた。
三丁目にいる和歌の好きな小倉さんから聞くと、万葉の人々は、この山菜を
大いに楽しんだそうだ。
「君がため 春の野に出でて若菜つむ わが衣手に雪は降りつつ」(光孝天皇)。百人
一首にでてくる万葉集の一首です。万葉集に詠まれている菜としてカブ、フユアオイ、
ノビルなど27種がでている。山上億良の「瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば 
まして偲はゆ‥」、「醤酢に 蒜搗き合てて鯛願う 吾にな見えそ水葱の羹」
「春日野に 煙立つ見ゆ乙女らし 春野のうはぎ(よめなのこと)つみて煮らしも」
などの歌がある。また、百人一首にも出てくる「君がため 春の野に出でて若菜つむ
 わが衣手に雪は降りつつ」は、若菜は春の七草のいずれかのことか。
さらに百人一首には「かくとだに えはやいぶきのさしも草(ヨモギのこと)
さしも知らじな 燃ゆる思いを」(藤原実方朝臣)もある。
また、春の若菜を「春の七草」とし、和歌として詠み込まれている。
「せりなずな ごぎょうはこべ ほとけのざ すずなすずしろ これぞ七草」 
わらびも当時から山菜の花形だったのでしょうか、主題として詠われている。
 「岩走る 垂水の上の さわらびの 萌え出ずる春に なりにけるかも」
(志貴皇子)
しかし、ヨメナ、アザミ、ギシギシは雑草として扱われていたり、現在の食材の種類は
万葉時代に比べるとはるかに多いが、野山で採取しているのはワサビ、セリ、フキ
などごくわずかしかないとのこと。
このおいしさを見逃していることは不幸なことなのであろうか、と柄にもなく悩む
主人だが、多分、チャトと一緒で食べ始めたら、遠い過去の思い出になるはず。
因みに、今日の食材は、やや大柄なノカンゾウ、小さく丸くなっているコゴミ、
まさに雪解けとともに表れたゆきのした、たらの芽、みつば、日本すみれ、蕗、せり、
ゼンマイ、よめな、カラスエダマメ、ジュウヤク、ノビル、よもぎ、春菊など数える
のも面倒になるほどの多士済々の面々だ。
もっとも、これらすべての名前を言えるのはこの家には誰もいない。
ママ以外は、ただの食べる人である。



二人は、しばらく見合った状態で対峙していた。
すでにその色を増した叢の緑の中で、わずかにそよぐ風を感じていた。
陽は高く中天にあり、足元には黒い小さな影が、これも静かに横たわっている。
チャトは、相手の黒にやや白みを帯びた艶やかな毛色をそして、その細身と
薄く開いた眼を見ながら、体格的に勝る自分の勝利を感じていた。
相手は耳を下げることもなく、服従的な空気も出さず、じっとチャトを見ている。
小さな唸りとともに、微かな笑いを感じた。もっとも、猫が笑うのか、という
人間的な発想はここでは無視しているが。
「なんや、こいつ何考えてるねん」
場違いな思いが彼の頭をかすめたが、その刹那、相手の身体が消えた。
消えたというのは、チャトの個人的な想いであったが、相手は、チャトが気を抜いた
一瞬をして、横に跳んだ。
チャトは横からの痛烈な痛みを感じた。相手の前脚が彼の横腹に鋭く切り込んでいた。
かなり重いであろう彼の身体が横に飛ばされた。体勢を整える暇もなく、右耳に
相手の爪が容赦なく立っていた。かろうじて、チャトも左前足を相手の顔に
あてたが、それほどの効果はなかったのであろう、ほぼ同時に相手の前脚が彼の
顔面をとらえていた。猫はまず大きな声を出して相手を威嚇し、その時点で
その強さを推し量り、強い相手と分かれば、耳を下げて降参の意思表示を
する。しかし、チャトは相手の強さを見誤ったのだ。外見では推し量れない
強さが相手にはあった。チャトもここで、負けてはと、後ろ足で相手の腹に蹴りを
入れた。しかし、その足は虚しく宙を切った。すでに相手はチャトの前で
次の攻撃の体勢にあった。仕方なく、チャトは身を野原に沈めたまま、
次の攻撃を待ち構えた。草息入れが彼の鼻を覆うように立ち込めているのが、
感じられたが、すでに戦闘意識は、その草花が放つに微かな匂いの中で、
薄れていた。相手も、チャトが草の中に沈んだまま、じっとこちらを見ている
ことにたじろいだのか、先ほどの体勢のまま、チャトにその青みを帯びた
目を向けている。


「古き時代には、かくれ里、僻地の村々としてその旧き生活習慣や独自の文化を
継承して来たことで、尊敬の念でも見らてはいたが、今や限界集落とかいう
一くくりの中で、身体の片隅に出来た腫瘍の如き扱いを受けている。
日本の過疎地には6.5万の集落があると言われている。限界集落は、65歳
以上が半数を超え、道や村の施設などの管理が困難になる集落をある社会学者が
定義した事に始まる。人口の2割以上を占める昭和1桁の世代の力が大きく、今まで
存続してきた。しかし、その世代も既に80歳を超えて、集落の終焉も見えている。
60年代の林業の衰退、70年代の工場誘致の失敗、土木工事を中心とする80年代
の活気ある町も公共事業の緊縮財政に伴う減少の2000年代となっていく。
産業の発達とともに、老人やその土地の持つ智慧が無意味と思われてきた中では、
その自然の持つ人間を助ける力さえ、無視される時代になってきた。
そのような流れの中、新しい変化が起きつつある、和邇はこの山道を歩きながら、
そのわずかな情報で、最近の社会の動きを考えていた。
テレビや新聞でも、よく目に付く良いになった。
「火や土があって、自然に生きる暮らしを子供たちに教えたかった、と言う若い夫婦
の移住に見られるような価値観の変化である。ある四国の村では、そのような農山村
に新しい生き方を見つけて都市から移住してくる人が3年間で60人を超えた。
便利さの陰で見落としていた農山村の価値に気付く人が増えたのだろう。
農山村には、自然と折り合って暮らす豊かさや集落と言う共同体に生きる幸せ、
がある」と。我が家の近くの比良でも、同じ様な自然への想いを募らせた人々が何十人
となく、住み着いている。昭和の始めまでの密やかな山や里での営みが、平成と
なり、その社会の成熟とは別の別の、旧き時代の、生き方を望む人が増えてきている
のだろう。高島、朽木、敦賀、武生、と歩き続け、その土地の人と話す中で、自分が
過ごして来た30代、40代の人々の思い、またそれは自身の思いでもあるが、物的な
豊かさを求めた時代とは違う空気を感じていた。この行軍の中で、単に自身の
終りが見えてきたからなのか、ここ数年で起きた家族の形の変化によるものなのか、
自分の意識が周りの変化を素直に受け入れられる様になったからなのか、足と体の
痛みへの恐れを打ち消すかのようにその歩みの一歩ごとに、頭から足へとその漠と
した想いがながれ、そしてまた、頭から足へと同じ流れが起きていた。


01
仲冬の第一句を示す。
瑳ささたり牙牙たり老梅樹、
忽ち開花す一花両花
三四五花無数花。
清誇るべからず、香誇るべからず。
散じては春の容を作なして草木を吹く、
なつ僧個々頂門禿かぶろなり。
まくさちに変怪する狂風暴雨、乃至大地に交みちみてる雪漫々たり。
老梅樹、はなはだ無端なり、寒凍摩もさとして鼻孔酢し。

老梅樹は角立ち屈曲し、
一花二花と花を開く、
さらに三花四花五花と、いや無数の花を開く。
その清らかさを誇ることなく、
その香りを誇ることもない。
繚乱とした老梅樹の姿は、
春の息吹を草木に吹きかけ、
禅僧たちの禿げ頭にも春風をそよがせる。
突として春風はにわかに狂風暴雨と変わり、
大地に滔々と降って雪漫々となる。
老梅樹の活動は、まことに思いがけないものだ、
凍った鼻に清らかな香りが甘酸っぱい。

、、、変転する老梅樹の容姿によって古仏の本質が見事に言い表されている。



近江舞子は白く長い砂浜と幾重にも重なるように伸びている松林に静かな時間を重ねて
いたね。冬の間は、この砂の白さも侘しさが増すのであるが、比良山系の山に雪が消え
るこの頃になると一挙に明るさを取り戻すようだ。山々もここから見ると蓬莱山、武奈
岳などが何層にも重なり合い和邇から見える景観よりも変化に富んだ顔を見せる。その
幾層もの連なりには微かな雪化粧が残っているものの、すでに木々の緑がそのほとんど
を支配し始めていたんや。
途中で、子供たちの声とともに和太鼓の激しい響きが聞こえてきた。
その響きにあわせてやや凹凸のある道を進んでいくと、左手に紅白の幕が風に
揺られるように手招きしている。そして、松林の切れたその光を帯びた先に護摩法要の
ための杉の枝を積み上げた小山が見えた。小山といっても2メートルのほどの高さのも
のであるが、周囲をしめ縄で仕切られ、祭壇が置かれているのを見ると、比良八講の四
字がたなびく旗とともに目の前に大きく浮かんでくる。護摩壇の先には、蒼い湖が広が
り沖島の黒い姿が見えている。陽射しはこれら全てに容赦なく注ぎ込まれ、更なるエネ
ルギーを与えているようにも感じられた。
やがて、法螺貝とそれに先導された僧や行者が念仏を唱える音、人のざわつきの音、道
を踏みしめるなどの様々な音とともに横を緩やかな風とともに通り過ぎていった。そし
て、それに連なる祈祷を受ける人々の一団が思い思いの歩みで現われる。背筋をキチン
と伸ばしただ一直線に護摩法要の祭壇を見ている老人、数人で談笑しながら歩む中年の
女性たち、孫と手を携えている老婆、各人各様の想いが明るく差し込む木洩れ陽の中で
踊っているようだ。
俺も隠れながらその集団についていった。
そこには、信仰の重さは感じられないけど、明るさがあったわ。
法螺貝が止み一つの静寂が訪れ、次へと続き僧や修験者の読経が始まり、
やがてあじゃりの祈祷となる。あじゃりの読経する声は1つのリズムとなり、
護摩法要の祭壇を包み込み、その声が一段と高まり、水との共生をあらためて
想いの中に沸き立たせていく。その声が参列する人の上を流れ、蒼い空の下でやや霞を
増した比良の山並に吸い込まれていく頃、護摩木を湛えた杉の小山に火がかけられいく
んや。
杉の小山から吐き出される煙はその強さと濃さを増しながら青き天空へと消えて行くが
、その煙が徐々に渦を巻き、龍が大空を駆け上がるが如き姿となっていく。下から燃え
上がる炎と渦を巻き上げながら舞う煙が一体となって龍の姿を現し、ゴーと言う音とも
に比良山に向かっていく。ここに護摩法要は最高潮となり、周りを取り巻く人々も跪き
般若心経を唱え始める。俺は無信仰だから横で様子を見ていただけど、人間も結構いい
ことするな、と想ったわ。

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