フローについて http://www.ted.com/talks/mihaly_csikszentmihalyi_on_flow?language=ja ポジティブとは? http://www.ted.com/talks/martin_seligman_on_the_state_of_psychology 滋賀美味しいもの http://shigaquo.jp/ 夕闇が迫っていた。木々の梢が硬質なうねりを見せる空を背に輝きを放ち、 やがて最初の風に打たれて身を震わせた。木の葉と小枝が宙に舞った。 鳥たちが叫びをあげた。彼方で雨の帆がはためき、私と山際の木々との間に 垂れさがった。私は折りたたみの傘の中に縮こまり、雨の最初数滴をしのいだ。 一面薄墨を引いた景色の中で黄色に変色し始めた畑だけが山の裾まで伸びている。 どこにも隠れ場所はない。 慌てて着た防水服を叩き、なん筋もの雨が首筋を下り、伸縮性のある糸を織り込んだ 袖口を駆け上がる。やがて雨粒が胡椒の実のように身体を打ち、水溜りで渦を巻き、 側溝を猛烈な勢いで走始める。 しばらくの間、沈黙の中に妻の言葉だけが響いていた。彼女の発する声は和邇には 届かず、ただ部屋の中に充満し、消えていく。目の前には、怒りに支配された人の 姿がただあるのみである。そして、あらためて人生が一瞬にして変わりうるもので あることに気付かされて胸をつかれた。ごく日常な仕草、普段交わす会話、自分の パートナーの犬の散歩をしたり、いつも靴を履いたりと言うごく日常的なことを していながら、大切なものを失おうとしていることに気づかない、ということ だってありうるのだ。人とは鈍感なものだ。その変化が眼前に現われない限り、 事態の大きさを理解できないのだ。むしろそれは理解する事が怖く、敢えて 見過ごしているのかもしれない。彼は何も言わなかった。 背筋をぐっとのばしたが、口はポカンと開いているし、顔が漂白でもされた 様に蒼白だった。暫くして、やっとその口から出てきたのは、小さくて ずっと遠くから聞こえて来る様な声だった。普段のあのどよめきにも似た声 からは想像の出来ないか細さと頼りなさのこもった声だった。 和邇は、息苦しさを覚えた。脚か胸のどれかひとつでも、あるいは、筋肉の ひとつでも動かしたりすれば、必死となって抑え付けている激情が堰を切って 溢れ出すのではないかと不安だった。足が微かに震えている、気持のどこかで そんな声が聞こえた。 ハナコは賢い猫だ。まだノロと一緒に野良猫生活をしていた時のことがその脳裏 浮かんだ。食べ物を運んでくれたあの老婆の優しさが、そして、横で静かに彼らを 見ていた老人の優しさが蘇った。彼らが遠慮したにもかかわらず、半分は野良猫 としての警戒心の故でもあったが、慰めと休息の場を提供してくれた。 そんな老夫婦の親切を受け入れた時、彼らは新しい何かを学んだ。 受け取ることは与えることと同じ様に贈り物だと言う事を。なぜなら、 受け取ることも与えることも、ともに勇気と謙虚さの両方を必要とするからだ。 前々日の夜、その家の縁の下で寝ていたときに感じた安らぎを思い出した。 そんなことをあれこれと考えながら歩く彼らの眼下では、どこまでも続く 大地がはるかな空と溶け合っていた。その道でさえ、春の生きるものの息吹き、 夏の強い陽射しからの強力なエネルギー、秋の大地の恵み、冬の次の春への希望を 与えてくれた。そこは普段よく通る道ではあったが、今見るそれは優しさと安らぎ を与える場所に見えた。ふいにハナコは気付いた。 ノロのように野良猫として猫の尊厳を守るのも良いが、あのニコニコしながら 2人に食事を出してくれた大きなオッサンと優しそうなおばさんのもとで暮す のも、このことと同じなのだ。彼らもハナコから何かを受け取りたいから食事 を出すという行為で、それを促しているのだ。ハナコはノロと別の道を行く事を 選んだ。ノロは何も言わなかった。それから暫らくして、ハナコのノンビリとした 姿が我が家にあった。 露地と言うのは、不思議な場所だ。 通りを一筋入っただけなのに、違う世界がある。通りが時代に沿ってその姿を 変えていくのだが、露地はその流れに逆らい、幾10年もそこに生きた人、生きる 人の痕跡を残していく。春になれば、家から年寄りや御かみさんが梅や少し経てば 桜の賑わいに誘われるように這い出してくる。家の前の縁台や露地の角にある ごみ置き場の横で、あるときは立ち話に花を咲かせ、ある時は時候の挨拶 とともに家に誘われ、時には犬の散歩の途中で子供たちに囲まれる。 昼は子供たちの遊び場として、その声に誘われかのように、家でくすぶっていた 大人たちをも引きずり出す。 少し前までは、露地の多くは舗装もされず、雨ともなれば、ぬかるみと化し、 露地に住まう人々は大いに迷惑をしたものであるが、それが時候の挨拶ともなり 人々のつながりの一つともなっていた。夏には、垣根越しに夕涼みの一刻を 仕事から帰る人のなごみであり、安らぎの場所でもあった。家々の中の団欒の 光りが周囲を照らし、その開放感が暑さに負けそうな人の心の支えともなった。 一番、露地が華やぐのが、秋の夕べである。特に満月とその光の下で迎える 日々は柔らかな適度の涼しさと乾いた空気のすがすがしさがそこにいるだけで 明日への力が湧いて来るのだった。日中の蒼い天空と薄く白く流れる鰯雲は、 更にその透明感を高め、そこに集う人々全てを心地よくしていく。 冬は、その寒さが人々を家に閉じ込めるが、子供たちは元気だ。特に雪の 降った日は、露地中に子供の声が鳴り響く。まるで、そこは白く小さな遊園地。 白く降り注ぐそれが金粉の如く、子供たちに降り注ぎ、笑顔と嬌声を もたらす。 ふと目の前を自分が走り去る。ベーゴマのぶつかる音、やめんこの跳ねる世界 がそこにある。皆の輪の中で、遊ぶ自分がいる。横でニコニコとそれを見守る 母がいる。子供の背丈ほどしかない板塀の向こうからは、洗濯物を干しながら、 これも近所のオバサンたちと高笑いの会話が続く。 白い割烹着のオバサンは頭をうしろにのけぞらせて笑っている。 彼女たちの笑いは、身体の奥底から湧き上がってくるようだ。露地と言う狭い空間で あるが、蒼き空の下で広々とした海を目指し、深い水をたたえ、のびのびと流れて くるたくさんの川の響きのように、子供たちの声を掻き消すかのように。まだ若い 娘のような奥さんはくすくす笑った。ひとつひとつの喘ぐような笑いと甲高い声が、 眼に見えない紐をひっぱる眼に見えない手によって、この露地に満ちてくる ようである。 その中に、屈託なく遊ぶ自分がいた。多分、これは願望だ、と思った。 正直を言うと、ライはその雌猫の顔を、初めにちょっと見たときは、 「ちょっといいな」と思った。が、つくづくと見ているうちに、だんだん 方々にアラが出てきて、美人でもなんでもないと感じ出した。ただ、 足が長く、身体全体がすらりとした、胴のくびれた、尻の大きい、 白く長い尻尾、その白さの目立つ体全体がある種の味わいのある肉付き が、美人であるかの如く猫たちの目を欺くだけで、橙のように円い顔の造作を、 一つ一つ吟味すると何処と言って取り得がない。鼻は高いけれども黒く大きいし、 眼は細く長く目尻が軽薄そうに下がっているし、いやに色の紅い薄い唇が 蓮っ葉らしく大きく切れて、しかも、鳴くと三日月型に大きく裂けるようだし、 悪く言えばこの街にはこのくらいな御面相はいくらでもある。それに、若い くせに雄猫を向こうに回して、威張り散らし頗るつきの強情のように見えて、 あまりいい気持がしなかった。 家もその住む人と同じく様々な顔を持つ。 コンクリートで全てが覆いかぶさられたような無機質な顔の家、白い石塀と 僅かな枯れ木の如き梅ノ木が1つのみの殺風景な庭、その佇まいの単調さから 清潔と言うよりも人の気配のない家の様だ。多分この家の人は冷めた心の 持ち主なのであろう。その隣りは、木々が家を占拠したごとく、家の佇まいよりも 桜、百日紅、樫、花見月、ゴールデンクレストなどの木々が生茂りその下には 五月、ツツジ、雪柳などの小粒の花が足元を多くの色で取り囲んでいる。木々は 自然体で伸びやかに育ち、四季折々の草花がその下で自分たちの命を咲き誇って いる様でもある。ここの主は、ジーパンにTシャツでノンビリと出てくるのでは。 瓦葺の屋根が重々しく周りを睥睨する板壁の和作りの家には老夫婦がひっそりと 住んでいるのかもしれない。紅い瓦に黄色の壁、緑の芝生に合う形で作られた 小さな煉瓦の花壇、そしてそこに芽を出している黄色のチューリップの群れ、 ここは新婚さんがいるのかもしれない。 この小高い丘から街一面が見える。よく見るとこの丘と反対にあるこんもりした姿の 森の間からは、夕陽にそのきらめきを見せる琵琶湖が家々の上に浮かぶような形で 垣間見られた。家々は西から一直線に指す光りを浴びて、紅く燃えているようだ。 黒や茶色の屋根が幾重にも重なり東の彼方に消えていく。蒼い空と屋根の重なりが 少しづつ色を失いつつ、やがて来る暗闇の時に合わせるかのように徐々にその景観を 整えている。主人は、もう17年か、と思った。ここへ移住して来た時の屋根と 連なりの記憶は薄くなっていたが、これほどの連なりになっていたのをあらためて 見た思いであった。そして、夕陽の先を見れば、うす赤く染まった中に比良山が その稜線を黒く引き、いつも見る姿とは違うようにも見えた。数羽の鷹であろうか、 その赤薄い空の中をこちらの森に悠然とした体で、飛んでくる。岡の後ろの森に 数本の高い杉の木があるが、そこが棲家なのかも知れない。よく見れば、その森も 杉を中心にまばらな木々の群れとなり、以前と比べて小さく萎んだ形になっている ような気がした。鬱蒼とした木々の塊りではなく、木々それぞれがその姿をさらした 姿となり、その間を落ち行く陽射しが数状の光りとなってこの丘にも届いていた。 丘には、黄色やピンクの名も知らぬ小さな花々がそれぞれの色の群れをなしており、 数羽の雀がなにやらつまびやかにさざめきながら群れていました。 主人の顔は大きく変わった。冬がその全てを支配し、黒と白の世界になった。 眼は、湖の黒く重たい雲に覆われた灰色の水面の如く悲しさを満たしている。 眉毛は、冬の風に吹き飛ばされた丸裸な木々の黒い小枝ようにたわんでいる。 肌は、比良の山並の冬のわびしげな薄緑色を帯びている。顎は、その直線の 山肌を削り取られた伊吹山無様な冬の稜線だ。高い額は、広々とした湖面で 白い波頭を見せるように思考の流れを乱れさせている。 狼殺しと鷹追いの一人二役をやっているかのように、彼の戸口 から一方を追い払い、窓の下枠から他方を入れまいと、昼夜働く。 自分のブラウスの袖口を彼の青いスーツのポケットに入れた。 スカートの裾をズボンの脚に絡めた。もう1着のドレスを彼の青いカーディガン の腕で包んだ。目には見えない何人ものモーリーんとハロルドが衣装ダンス の中で、外に踏み出すチャンスを待っている。 それを見て彼女の顔に微笑が広がり、やがて彼女はなみだにくれた。それでも、 タンスの中身はそのままにしておいた。 ハロルドは、鏡の中の、おぼろげにしか覚えていない顔と対面した。 皮膚が黒ずんだ襞となって垂れている。その下にある頭骨を包むには、 皮膚が大き過ぎ、余った部分が下がっているという感じだ。 額と頸骨のあたりに切傷が5つ、6つ。髪の毛とひげは思った以上に ぼさぼさ、眉毛と鼻孔からは針金のようにごわごわした長い毛が 飛び出している。もの笑の種とはこの事だ。はみ出しものだ。 手紙を出すために家を出た男の面影はどこを探しても見当たらない。 歴史認識 最近、ゴードン教授らを中心に歴史認識のキチンとした対応への宣言が出された。 彼によれば、日本が出そうとしている阿部首相の戦後70年の声明に対して、 中国、韓国の民族意識の煽るための偏見的な対応に憂いを表している。 確かに過去の歴史問題の対応は難しい事が多い。これをもう少しキチンと 事実認識を基本として対応して欲しいと思う有識者の想いであろう。 これに賛成する人も居るが、阿部首相が出すこの時期を狙うという事は 政治的な思惑があるのでは、という学者も居るようだ。 この点で2つのことも考えなくてはならない。 一つは、最近の意見の異なるものの極端な排除とそれを受け入れないという 風潮である。卑近な霊では、ヘイトスピーチの増加や異なる意見の出版物の 発売停止などの偏った行動の増加である。もう一つは国による歴史の伝え方が 違い、それによって若者が間違った方向に向けられていることへの懸念である。 それは中国、韓国、日本の学生の直接対話でも明らかな様である。 50代第二の人生 企業のリストラの動きは変わらない。業績が良いといっても、昔の勢いを 持っている企業が少ない中、人件費の重みは大きい。 NHKで40代後半、50代の人の第二の人生に向けた自分探しの映像を見た。 この歳になると、過去の栄光、自身の固定観念があり、「じぶんとはなにか?」 にキチンと向き合うのは中々に難しい様だ。 人生塾では、まず「自分史」を書かせ小さい頃、若い頃に熱中した事、楽しんだ事を 見つめ直してもらう。ここまだ新鮮な時代の想いを見て発見し、第二の人生で やりたい事に気付いてもらう。自分の原点を見つける作業が主となる。 ある人は、「やはり私はモノづくりにこだわる」を結論し、ある人は 「人生の出会いを大切にしていきたい」という形で自分を再確認する。 自分の心を問い直すのも良い事だ。 彼が好きな曲がある。馬場信英の「スタートライン」、正に今の自分の心境なのであろ う。 私はこのような局面にならなかったが、自分で自分の道を選んだつもりである。 それがただしかったか、どうかは死での旅に出るまで分からないのであろう。 それも又人生である。 目利きビジネスが盛ん。 インターネットの拡大で、多くのものがクリック1つで手に入るようになった。 しかし、情報の処理よりもその発生の方が圧倒的に多くなり、ある調査では、処理量は 数%と言うデータもある。このような状況をビジネスの一つとして捉えた様々な ビジネスモデルが登場している。 自身の着たい衣服をスタイリストなどのプロに任せるサービスがある。 air closetと言う会社が始めた。自分の好みや着てみたい色などを登録すると、 それにあわした3点ほどの服が届けられる。それもレンタルも可能。 どうしても、自分の思考から抜け着れない人がプロの智慧を借りて新しい自分の 姿を見出す。お互いがwin-winの関係が成り立つわけである。 服装だけではない。食べ物の選別や読みたい本の選択まで、幅広く目利きの力を 活用したビジネスがある。岩田屋と言う本屋が紹介されていた。 また、新製品開発でもこの目利きの力を活用し始めている。 各地域にいる中小企業とのつながりの深いコーディネータ(産業コーディネータ) のネットワーク化を進めている会社がある。リンカーズは地域で活躍している 地域の中小企業支援の専門家を登録して、ある新製品に必要な技術を持っている企業 とのマッチングを図る。過去にも、マッチングの仕組みやシステムが行政を中心に 色々と作られたが、思うような効果は上がっていない。中小企業の持っている 技術を評価し、その専門家を信用すると言った人の要素を考慮してなかったから である。 優秀な目利きの人は、流行への鋭敏なセンスと情報に加えて顧客側の個性の 把握がきちんとできる人である。 最近は、単なる情報提供のビジネスでは満足できない顧客が多くなっている。 マッチングを基本とするビジネスでも、顧客側の個性や想いをきちんと把握し、 それにあわしたお任せとしてのビジネスが出来ていないと中々に難しい。 また、一時はやりかけたシェア、マッチングのビジネスも顧客側が選べる スタイルでないとこれもその拡大は難しくなる。 この点を克服したのが、クラウドワークスであり、街コンなのであろう。 私自身も、その様なマッチングのシステムを作ったが、大きな効果は得られなかった。 一人一人の専門家と中小企業とのつながりを上手くシステムに盛り込めなかった からであろう。実は、この課題は以前からも指摘されて来た事でもある。 今回も今後上手く行くのか、不明であるが、是非大きな成果をあげてもらいたいもの。 琵琶湖特有の食文化を広めようと、安土城考古博物館(滋賀県近江八幡市安土町下豊浦 )などが選考を進めてきた湖魚のブランド「琵琶湖八珍」に、ビワマス、コアユ、ニゴ ロブナなど8種の魚介類が選ばれた。 11月に同館が発表した湖魚料理の人気投票の結果を基に、識者や観光関係者らでつく る、県ミュージアム活性化推進委員会の選定委員が議論を重ねた。ほかにハス、ホンモ ロコ、イサザ、ビワヨシノボリ、スジエビが入った。 選ばれた8種のうち5種が琵琶湖固有種で、料亭から家庭料理まで広く親しまれている 。人気投票で上位だったウナギ、アユ(大アユ)、シジミなどは供給量や独自性などの 観点から外された。 「八珍」を広め、湖魚料理に親しんでもらおうと、同館などは1月から4回「琵琶湖 八珍カルチャー&ツアー」を開く。湖東地域の料理店で、同館の大沼芳幸副館長が湖魚 の生態や漁法を紹介し、八珍料理を味わう。 19日の第1回では愛荘町で酒蔵を見学し、ホンモロコとイサザを舌と耳で学ぶ。参加 費5千円。問い合わせ、申し込みは休暇村近江八幡TEL0748(32)3138。 「鰉」 ヒガイは、漢字で書くと「鰉」と書きます。これは、明治天皇が琵琶湖水系の瀬田川に て獲れたヒガイを食したところ、非常に好まれたことから付けられた物です。 日本に生息するヒガイは3種存在しますが、霞ヶ浦に移入されて現在繁殖している種 は「ビワヒガイ」という種で、最大20cm程に成長する種です。霞ヶ浦には、水産資源と して琵琶湖よりの移入が大正6年に行われ、その後も数度の移入が行われて現在に至っ ています。他水系でのヒガイの分布は、「カワヒガイ」が濃尾平野以西の本州及び九州 北西部に生息し、「ビワヒガイ」「アブラヒガイ」は琵琶湖のみに分布していましたが 移入や湖産鮎の放流に混じりかなりな範囲に分布を広げてきています。 ヒガイ類はタナゴ類と同様に二枚貝に産卵する習性がありますが、タナゴ類が鰓葉腔 に産卵するのに対してヒガイ類は外套腔に産卵します。また、二枚貝がない場合には石 の隙間などにでも産卵します。 ヒガイは白身の魚で、味は非常に淡泊なため天ぷらにして食べるのが一般的です。( 骨は比較的硬めです。) ヒガイを飼うには? ヒガイを飼うのは特に難しい物ではありません。飼い方の概要としてはタナゴの飼育 法に書いているものと同様ですので、そちらをご覧下さい。ここではヒガイ特有の事項 を取り上げます。 ヒガイは通常警戒心が強いため、水槽に入れてから数週間程度は餌を食べないことが あります。しかしそのうちに食べるようになりますので無理に食べさせようとしなくて も大丈夫です。慣れれば他の魚よりもなれなれしいというか図々しいと言うかの状態に なります。また、餌の問題としては元々肉食が強いため(熱帯魚・金魚のフレークや粒 状の餌も食べます)冷凍アカムシや糸ミミズなどを併用します。 産卵期に水槽内に二枚貝を入れておくと雄同士での争奪戦が激しくなるため、水槽に 収容する構成に注意が必要です。雄雌1つがいのみを入れるか繁殖させる予定がない場 合は二枚貝を水槽から出してしまいます。 「いさざ?」(?いさざ)魚偏に「少」がつくが漢字変換が出来ないようだ。 イサザは、琵琶湖固有のハゼの一種。「躍り食い」や「卵とじ」で有名なシロウオの俗 称も「イサザ」と言いますが、まったく別の魚です。昔からなぜか獲れなくなる時期が あることから、漢字も「魚」偏に「少」と書いて「?」(いさざ)と読ませます。佃煮 の他「じゅんじゅん」という鍋で食べられることが多く、白身でありながら濃い味付け に負けない独特の風味があり、湖魚のなかでもファンが多数います。 普段は水深70m前後の深いところにすんでいますが(ちなみに琵琶湖の最も深いとこ ろは約100m)、桜の花が咲く4月頃、湖岸近くの岩礁帯にやってきて、浅瀬で産卵 。オスは孵化するまで卵の世話をします。主な漁場は、琵琶湖でも水深が深い湖北が中 心になっています。 長浜市にある尾上(おのえ)漁港は、竹生島(ちくぶしま)や琵琶湖の最北端に突き出 た葛籠尾(つづらお)半島が間近に迫る風光明媚な港。漁船からのおこぼれを狙うユリ カモメやサギなどが飛び交う中、朝9時前に漁港に伺うと、すでに漁師の松田さんが奥 さまと一緒に今日とれた魚を選別していました。 「ほら、これがイサザやで」 松田さんが差し出した魚は、体長7cmほど。薄茶色で頭と口が大きく、ひょうきんな 顔をしていて、なんだかかわいい! 「腹が白いやろ。普段は湖底に、腹をつけて暮らしてるんや。」 しかも、口やお尻から・・・、ぷくっと浮き袋などが出てます。 「このイサザは深さ70mぐらいのとこで獲ったもんやから、水面に出たとき水圧の変 化で浮き袋が飛びでよるんや」 琵琶湖は、竹生島の南あたりで深くなっていますが、イサザの漁場もそのあたり。漁港 から船で5分ほど走ったところ、葛籠尾半島の先端である葛籠尾崎のすぐ近くにありま す。 イサザ漁は、主に冬季に沖(ちゅう)びき網で行われます。これは、長いロープの先端 に取り付けた網で底を引きずり、イカリで固定した船へ巻き上げるという、底びき網の 一種。湖底から獲られたイサザは、水面に出ると水圧の関係で、お腹を上にした状態で 浮き上がってくるので、それをすばやく網ですくいとるんだとか。 穏やかに見える琵琶湖ですが、強風が吹き荒れることもあり、湖に慣れた漁師さんが遭 難することも。特に冬場、突風にあおられて湖に落ちれば、凍るような水の中では致命 的。それゆえ漁に出る前は、雲のカタチや風向きを見て、悪い風が吹かないかを見極め られるようになることが、一人前の漁師への第一歩です。 「伊吹山のてっぺんに雲が出ると、北西の風が吹く前触れ。漁に出られんから私らは" 貧乏風"とゆうとるけどな(笑)。大津から吹いてくる南西の風もよくないし、春先に 比良山から吹きつける比良八荒(ひらはっこう)も恐ろしい。こんな、急に吹く強風を 私ら漁師は"ハヤテ"と呼んでるんや」 結婚以来ずっと一緒に漁をする奥さまも、何度か「頭の上に波がきて死ぬかと思った」 というほど。そんな琵琶湖の変貌ぶりは、澄んだ湖面からは想像もできません。 田さんのイサザ漁は、朝の6時頃に港を出発。以前は漁場で3回操業したといいますが 、最近はイサザが少なく、今日は2回操業しただけ。「昔は1回で50~60kgは獲 れたもんやが」と松田さんはため息。「今日は12~3kgぐらいかなあ。トロ箱の半 分にもならん」 もともとイサザは、周期的に漁獲量が大きく変動することが知られていますが、多いと きで400tを超えていた漁獲量が、現在は数十tにまで減少したまま回復してきませ ん。一時はまるでとれなかった時期があり、「幻の魚」といわれていたほど。ここ数年 で少し漁獲が盛り返してきましたが、最盛期にはまだまだ及びません。 深いところで操業するイサザの沖びき網漁のロープは、約1000mにおよぶ。漁船は ロープで一杯。 湖北名物、イサザの「じゅんじゅん」 イサザは、大豆と煮た「イサザ豆」や佃煮のほか、湖北地域では、すき焼き風に煮た「 じゅんじゅん」という料理でよく食べられています。松田さんの家では、「ネギと油あ げ、麩を入れ、醤油と砂糖で甘辛く煮る」のだそう。正月の定番料理で、帰省した家族 や親族が楽しみにしている郷里の味なのだとか。 「イサザは、白身の淡泊な味でおいしいですよ。特に秋から1月頃のものは、骨も柔ら かくておいしい」と奥さま。 ほかに、唐揚げや味噌汁にしても食べるといいます。 「そやけど、今は数も少のうなって、みんな売りもんに回してしまうから、家で食べる ぶんはないわな」と、松田さんも少し寂しそう。 少なくなったイサザですが、冬季に長浜市など漁港近くの道の駅や湖魚専門店では、" 運"がよければ手に入れることができます。冬の琵琶湖の貴重な味覚を召し上がってく ださい。 氷魚(ひうお) 琵琶湖には、冬だけにとれる特産品があります。それが、氷魚(ひうお)。鮎の稚魚で 、大きさは3~6cmくらい。体が氷のように透き通っているため、「氷魚」と呼ばれ ています。 氷魚は、釜揚げにするのが一般的。「しらす」のように熱を加えると白くなり、身はし っとりしていて、舌触りは滑らか。そこはかとなく鮎とわかる繊細な味わいは、琵琶湖 の冬の味覚として愛されています。釜揚げのほかにも、かき揚げや佃煮などでも食され ています。 氷魚が主に水揚げされるのは、12月から3月頃まで。透き通っている氷魚は、やがて ウロコができ、体型も変化し、5月頃には小鮎(コアユ)と呼ばれるようになります。 透き通る体をした氷魚。 朝の和邇漁港では、料理店などの専門業者に交じり、近所の主婦数人が氷魚漁から帰 る船を待ちわびていました。聞けば、自宅で釜揚げにするのだとか。湖近くに住む人だ けの贅沢な楽しみです。 そこへ漁船が待望の帰港。甲板に設けられた水槽の中には透明な氷魚が元気に泳いでい ます。すぐに漁港でハカリにかけられ、次から次へ、キロ単位でまたたくまに引き取ら れていきました。 「3月のいまの時期は例年通りの漁獲量ですが、今年の1月と2月は氷魚は不漁だった んですよ。天候が悪く、船の出る日数が少なかった。といっても、30年くらい前とは 比べ物になりませんがね。あの頃は、それこそ船いっぱいにとれたもんです。」 そう話すのは、水揚げの様子を見ていた志賀町漁業協同組合の組合長、礒田さん。湖西 にある同組合は組合員42名。和邇漁港と北小松漁港を根拠地とし、県下でも有数の氷 魚出荷量を誇ります。 琵琶湖独特の漁法、エリ漁 「琵琶湖の漁には、季節や魚の種類によりさまざまな方法があるんですが、この時期の 氷魚は主にエリ漁です」 エリとは琵琶湖の伝統的な漁法で、定置網の一種。湖岸沿いを車で走っていると、岸か ら沖合に向けて杭が並んでいるのが見られます。これを上空から見ると、矢印のような 形をしています。これが、エリ。湖岸近くに来た魚を矢印の両側に張出した「ツボ」と 呼ばれる部分に誘導し、ツボに仕掛けておいた網を引きあげて捕獲する漁法です。志賀 町漁業協同組合では、丹出川(たんでがわ)から高島市の白鬚(しらひげ)浜あたりま での湖岸22kmの間で15のエリがあるといいます。 「この時期の氷魚の習性は単純でね、夜に岸辺近くにむらがり、夜明けになると沖に出 て行くんです。その時、障害物であるエリにぶつかり、誘導されて網(ツボ)の中へ入 ります」 氷魚漁の船は、水槽のある本船1隻が小舟2隻を伴って朝の6時くらいに港を出発。エ リのツボに着いたら底網を機械であげ、残りの網を小舟に乗った漁師さんが手で繰りな がら引きあげていきます。 エリに使う網はデリケート。長さ30m近くになるものもあり、引きあげるのも、引き あげてからの作業も大変。 エリ漁で使う網を手にする礒田さん。氷魚漁は網目が細かい。 「藻がからみついて、手入れに苦労します。琵琶湖が汚れてきているんでしょうねえ」 と、礒田さんもため息。 「琵琶湖の漁も、琵琶湖の魚も好きで漁師をやっているので、琵琶湖が年々汚れ、在来 の魚が減っていくのは悲しいことです。私ら漁師も、藻の掃除などをやっているのです が、なかなか追いつかない。氷魚も、本当においしいし、しかもこの時期の琵琶湖だけ にしかとれない魚だから、もっとたくさん獲って、多くの人に食べてもらいたいんです が...。」 とはいえ、湖岸沿いの湖魚専門店などでは、冬の季節には氷魚の釜揚げや佃煮を手に入 れることができます。皆さんもみかけたら、この時期の琵琶湖だけが生み出す新鮮な味 をぜひ楽しんでください。 最後に、礒田さんから聞いた、あまり知られていない「ゆで氷魚(ひお)」の作り方を 。塩分を効かせて固めにゆでた氷魚を陰干しで2日間干すのだそう。「ちりめんじゃこ の味の濃いようなものになり、旨い」とのこと。また、生の氷魚をすき焼き風にして食 べてもおいしいそうです。機会があれば、試してみてください
2016年10月9日日曜日
日々の記録11(琵琶湖八珍、人物描写、歴史認識、第二の人生、目利きビジネス、「 ひがい鰉」「いさざ?」ひうお氷魚、平城宮)
日々の記録12(東海道五十三次、郷土食、平城宮、健康ツアー琵琶湖八珍、ローカル 鉄道、古民家再生、平和の要件)
台風が過ぎたとはいえ、夏の顔にならない。陽射しもまだそれほど強くはないし、 なんと言っても、この蒸し暑さはなんなのだ。 体の隅々に水が染み渡るように湿気が私の身体を被いつくす。毛穴からは その湿気が逆流するかのように汗が染み出してくる。首筋と額から頬にかけて 一筋、二筋と汗が流れて行く。まるで私のけだるさと憂うつな気分を声なき 声として洗い出しているようだ。 黒い雲が駆けていく。その間を縫うように白い雲を突き抜けるかのように 陽射しが私の顔に届く。白い雲の上にはさらに高層の雲が秋の天空を 思い出させるかのように霞み光る太陽のまわりにゆっくりと一筆を描くか のごとく流れ過ぎ行く。それは蜘蛛なのであろうか、視界の端にうごめく 黒いものがいる。さらには、鼻息荒く動き回る我が家の孫娘、犬のルナ、 が私の傍で寝そべっていたと思うと数秒後には、垣根の横で忙しく吼えまくる。 そんな光景をぼんやりと見ながら私はリクラインの椅子にもたれ、この やるせない気持と体の湿気に身を任せていた。目を閉じれば、全てが 闇になるのではない。闇になるかどうかは心のなせる業なのだろう。 今は、目を開けても暗闇が見えるのみ。人間とは不思議なものだ。 転換点は、古い友人たちと一緒に神戸に出かけた時だった。神戸から京都へと ただ、思い出を探すが如く、飲み歩いた。 あの晩、和邇は久しぶりの午前様となり、ぎこちない手つきで玄関ドアの 鍵穴にキーを差し込み、その友に声をかけ、そのあと靴を履いたまま 階段を上がり、そのまままっすぐに夫婦で使っていた寝室に入っていった。 その副が乱雑におかれた中に、何もかも着たままでベッドに倒れ込み、目を閉じた。 真夜中、自分がどこにいるのか気づいて、小さなパニックの痛みに 襲われたが、やがて痛みは安堵感に変わった。終わった。何が終わったか 正確には分からなかったが、ずしりと重く漠然とした痛みが消えたことだけ ははっきりしていた。羽毛布団を引き上げ、妻の枕にしがみついた。 妻がかってよく使っていた石鹸と妻のにおいがした。暫くして眼が覚めたとき、 かってと同じ軽やかさが温水のように全身に広がっていくのがわかった。 それ以降、和邇はそれまで使っていた書斎から自分の衣類を抱えて運び 出しては、衣装ダンスの妻の衣類が掛かっている側とは反対の端に掛けて 行った。自分に努力目標を課していた。毎日妻がいなくても、一つ新しい事を しようと決めたのだ。それが彼女に対する愛情なのだ、とおもった。 もっと別のやり方をすればよかった、と思うことが妻にはいくつもあった。 朝の光を浴びてベッドに横たわったまま、あくびをして伸びをしながら、 からだを右から左へとそして、両手でマットレスの広さを感じた。四隅の 人の体温の届かないところまで触ってみた。暫くして、その手で自分に触れた。 頬に触れ、喉に触れた。顔から体全体へと輪郭をなぞった。お腹と腰周りの肉の 多さに、そして肌はたるみに、指先はもう若い頃のあの敏感さをなくしている。 結婚して既に40年近く、白く光る天井に影が差し、少しづつ動いているでも ある。時の流れをそのわずかな動きからあらためて感じる。この小さな動きが 積み重なり、肉体の変化として、心の変化として、今の自分がいる。そして 夫と息子がいる。衣装ダンスのドアが僅かに開いていて、夫のシャツの袖が 見えた。胸をえぐられるような、それでいた何か新鮮な痛みが走った。 横にいつものようにナナが来た。その白い和毛を擦り付けてくる。衣装ダンス の扉がわずかに開き、うってつけの仕事が向こうから勝手に姿を見せた。 ツィードのジャケットが目に留まった。胸をどんと叩かれたような気がした。 何かが胸の内側に閉じ込められているような感じだ。そういえば、ずいぶん 長いことそのジャケットを見ないようにしてきた。 それをハンガーから外し、身体の前で広げて夫の胸の高さに上げてみた。 歳月が後景にしりぞき、自分たち夫婦の姿が浮かび上がってきた。 そのあと、自分のものと彼のものを一着づつペアにした。自分のブラウスの袖口を 彼の青いスーツのポケットに入れた。スカートの裾をズボンの脚に絡めた。 もう1着のドレスを彼の青いカーディガンの腕で包んだ。目には見えない何人もの 夫と私の衣装がそのタンスの中で、外に踏み出すチャンスを待っている。 それを見て彼女の顔に微笑が広がり、やがて彼女はなみだにくれた。それでも、 タンスの中身はそのままにしておいた。 和邇の頭は次第しだいに澄み渡り、身体が溶けた。雨が家々の屋根と 道路を打ち始めた。けれども、その音はやさしく、あくまでも、寛容で、 幼い息子たちを寝かしつけた時の妻の歌声を思い出させた。やがて、 雨音はやんだが、和邇にはむしろそれが寂しかった。いつしか雨音が 彼の一部になっていたかのようだった。いまや彼自身と地上との間に実体 あるものなど何一つ存在しないような気がした。 夜明け前に眼が覚めた。片肘をついて起き上がり、窓辺の隙間から新しい 日が夜の闇を追いやり、地平線にあくまでも淡い夜明けの光がしみこんで 行く様を眺めた。鳥たちがいっせいに歌い始めた。かなたの風景がはじめは ゆっくりと浮かび上がり、やがて、新しい日が自信たっぷりに立ち現れた ときのことだった。空は、灰色の淀んだ光りからクリーム色に、クリーム色 から淡い橙色に、更に、藍色に、そして、透き通った青に変化した。 霧の柔らかな舌が道路を這い、雲の中から丘の頂と人々の家が立ち上がってきた。 西に咲く月は早くもおぼろな影となり、その姿をかき消され始めていた。 キジ虎の言う場所を目指して北上しながら、足取りがいやに軽くなり、歩を進める ごとになんの苦もなく前進できるできるようになった。片足を上げて、次にもう 一方の足を上げる、などと考える必要もなくなった。歩くことは、他の四人を 活かし続ける力が自分には備わっているという確信の延長であり、チャトの肉体も いまやその確信の一部だった。やがて、何も考えなくても丘を登って下ることが でき、日頃の怠惰の身体が歩くに相応しい身体になりつつあるような気がした。 眼に映るもののほうに余計に心を奪われることもあった。そんな時は、周りの変化を 表現するに相応しい言葉を見つけたくて、あれこれと思い巡らせた。主人の使う人間 の言葉であり、仙人猫のいう猫語である場合もあった。それでも、時には、眼に映る 様々な光景がチャトの考えを入り乱らせ、ごちゃごちゃになって訳が分からなく なることがあった。時には、自分のことにも、歩くことにも、周りの景色にも、 全く意識が向かない時間もあった。そんな時には、何も、少なくとも、言葉として 表現ができるようなことは考えていなかった。ただそこに存在するだけ。 肩に太陽を感じ、森の静かな息ぶきを感じ、翼を広げて音もなく大空を舞う カラスアゲハの優美な姿を見守った。自分が自然の一部になっていくような気持 になっていた。仙人猫の言う猫の転生と言うものがこんなものなのか、とも 思った。 東海道五十三次 http://japan-highlightstravel.com/jp/themes/201505/ http://japan-city.com/sina/107/107a90.html →原点回帰のねたになる TDK57 二川が人気 寺社建築に関する勉強をしていると、 「檜皮葺」 だとか 「?葺き」 って出てきますよね。 ※読み方は「ひわだぶき」 と 「こけらぶき」です。 檜皮葺はヒノキの皮を使って葺いていきます。 ?葺きは木材を薄くしたもの、板厚は2~3mmだそうです。 そこでハッと気づきました。 「こけらぶき」の「こけら」って、「カキ」の漢字と同じじゃなかった!! コケラより、カキの方が一画多いのでした! 神社の勉強をしながら日本語の学びもありました。 郷土食をどう伝えるか 中沢弥子ひろこ 郷土食には先人の知恵と技が詰まっている。日本家政学会の食文化研究部会では 日本各地の食文化に触れる機会が多いが、どこでもその土地の気候風土を生かした 食がある。いっとき、何でも冷凍、冷蔵すればいいと言う事で乾燥の技が遠ざけられた 時期もあったが、昔の業を大事にしていまの人の嗜好にあう食材や料理を工夫 することで新しい形になれる。手間ばかりかかって美味しくない郷土色は 淘汰されていく。 郷土食は地域の人の濃密なコミュニケーションが磨き上げて来た側面もある。 昔は行事や農作業などで寄り集まる機会が多く、そこで作り方や食べ方の情報交換が 行われた。地域の年寄りが作る惣菜やおやつはその食経験の深さが違い、大家族の 職の世話をしてきた経験が健康的で美味しいものを作る努力がそこにある。 例えば、長野で見られる寒の利用だ。寒さと風を利用した、凍み大根、切った餅を ワラで結んだ凍り餅、凍り豆腐、などがある。 奈良平城京の話。ブラタモリ 奈良はならしたが語源との話もある。 平城宮は朱雀大路が80メートルほどもある大通り。 碁盤の目のように四角に伸びているが、現在の奈良駅周辺は出っ張った形に なっている。これは地震により隆起した高台に興福寺を、その隆盛を 見せた藤原不比等が一族の権威を示すものとして建立した。ここの 北円堂は当時はここから都が一望できたという。 この地域を外宮とも言っている。 そのため、駅周辺の奈良町や春日大社は傾斜の町並みである。春日大社の 四つの神殿も少しづつ段差をもって、建てられている。また、東向き 商店街やなら町の商店街も京都のような鰻の寝床風の町屋であるが、 家の中も表から裏へと少しづつ傾斜をなしている。 また春日大社は御カサ山をご神体としている山岳信仰を基本とした 神社であり、たとえば参道の1つである剣先道は御かさ山に直接延びている 道であり、特別な行事にしか仕えなかった。 街歩きツアーが今盛んである。 日頃は通っているが、いざとなると知らない露地や建物、旧跡などをゆっくりと 味わう。ポイントはよく紹介される人気スポットは避ける。 地元に根付いたお店、隠れた旧跡、名所などを半日程度でめぐる旅。 例えば、鎌倉などはその様な場所が多く、人気があるとのこと。 京都ほかでもあるのが、銭湯めぐりやマンホールウォッチなど探せば その対象は色々とある様だ。目的を一つに絞り明確にすること、視点を 変えてみることが大事である。 例えば、「山の音」には、鎌倉の神社や旧跡、鎌倉文学館がうまく 描かれていることもあり、その場所を辿るのも1つである。 琵琶湖八珍 http://caddiswing99.seesaa.net/article/419559808.html http://ameblo.jp/bobbin-odamaki/entry-11737261368.html これはびわ湖の魚を、その味覚とともに守ろうと、「鮒鮨」の材料となる「ニゴロブナ 」など8種を選定したのでした。 琵琶湖にいる約80種の魚から、同館や観光関係者らで構成された選考委員会が、琵琶 湖だけにすむ固有種を軸に、県内外の3,300人の人気投票にて選定したという。 その八珍は「ニゴロブナ」「ビワマス」「コアユ」「ハス」「ホンモロコ」「イサザ」 「ビワヨシノボリ」「スジエビ」と、どれも琵琶湖固有種が選定されています。 こうした地域の魚料理を定めたものに、「宍道湖七珍」があり有名です。これは島根県 の宍道湖(しんじこ)の魚料理を選定しています。 ことの始まりは昭和5年(1930)に、島根新聞社の「松井柏軒」が、中国の「西湖十景 」に倣って、「宍道湖十景八珍」を選定したことに始まります。 曲折を経て、昭和33年(1958)にあらためて「宍道湖七珍」が選定されました。その後 幾つかの変更を経て、現在の七珍は「スズキ」「モロゲエビ」「ヨシエビ」「シラウオ 」「コイ」「シジミ」となっています。 全国の専門店で簡単にいただくことができます。わたくしも10年ほど前に、大阪駅の 近くでいただいたことがありました。 琵琶湖八珍の中で、「コアユ」「イサザ」「ビワヨシノボリ」「ハス」「スジエビ」な どは、佃煮(甘露煮)などとして、全国に流通しています。 ところが、「ニゴロブナ」や「ビワマス」に「ホンモロコ」は、滋賀県に住んでいても 滅多に口に入らない高級魚になっています。 「ニゴロブナ」は鮒鮨(ふなずし)に使われますが、近年は産卵場所の減少やブラック バスやブルーギルなど外来魚の食害によって、智行が食べられ漁獲高は激減しています 。 image 鮒鮨はなれずし(現在のお寿司の元)ですから、食べられない人は受けつけにくいと思 います。現に滋賀県に来て求めたものを、米原駅で開けて『腐っている』と捨てられた という、笑えない話があります(なれずしですから腐らしているのです)。 食べ慣れれば、日本酒にこれだけ合う肴はないと思うほど、深みのある味をしています 。残念ながら、贈答用だと30cmほどの子持ちで1万円ほどします。 「ビワマス」は「ヤマメ」の陸封タイプで、海に出ると「サクラマス」になります(厳 密には差がありますが)。 成魚になりますと70cm以上になり、その刺身はトロのようだと言われています。こ れも残念ながら「ニゴロブナ」と同じく。養殖されたものが主流となっています。 「ホンモロコ」は滋賀県というより、京料理に用いられる高級魚になっています。琵琶 湖の貴婦人の名に恥じなく、白焼きは絶品です。 image 最盛期(40年ほど前)には、バケツにいっぱい釣れていたのですが、外来魚の食害の ため最盛期の1/10以下になっています。 滋賀県はすでに、「近江八景」や「琵琶湖八景」などを選定していますから、八珍にな ったと思われるのですが、「セタシジミ」が選ばれていないのが残念です。 image 「ヤマトシジミ」に比べて肉厚で大きく、琵琶湖にしか棲息していません。ところが、 琵琶湖の水質悪化とともに漁獲高は激減して、最盛期の1/120になっているそうで す。とても供給量が確保できなかったのかもしれません。 これら琵琶湖の固有種が観光資源となることにより、環境浄化や養殖の採算性が成立す るようになることを願っています。 琵琶湖ほど多様な価値を内包する湖は、少なくとも日本にはない。古代湖にして太湖 、これだけでも他に無い強烈な個性(湖性)である。さらに、琵琶湖を巡る歴史文化は 、日本の歴史文化の縮図であるといっても過言ではない。 そして、忘れてはいけない湖性に、琵琶湖に棲う魚を対象とした魚食文化の伝統がある 。琵琶湖には1万年にも及ぶ永い漁業の歴史があり、捕られた魚は、その時々の技術に より調理され、食として饗されてきたのだから、豊かな魚食文化が伝えられている事に 、何の不思議はない。しかし、この琵琶湖の魚食文化を国内の内水面(湖や川)と比較 すると、それでも、他地域とは異なる、際立った多様性に気づく。 滋賀県立安土城考古博物館では、2013年夏に、琵琶湖の漁業と食の歴史をテーマ とした特別展「華麗なる漁と美味なる食-魚・人・琵琶湖の過去・現在・未来-」を開 催した。展示に先立つ琵琶湖の魚食文化の分析で、様々な興味深い事象が浮かび上がっ てきた。いずれも琵琶湖の湖性に根差した事象である。 ① 近江の人は淡水魚を生で食べる 一般に淡水魚の生食は、寄生虫のリスクがあり避けられる傾向が強い。しかし、琵琶 湖は違うのである。中、大型の魚は殆ど生食の対象となる。コイの生食は「あらい」と して全国に分布するが、琵琶湖では「あらい」は勿論であるが、普通の「造り」として も賞味される。ゲンゴローブナ、二ゴロブナも「造り」にされる。さらに、産卵期の魚 は「子まぶし」として、茹でた魚卵を文字通りまぶして食べる。小型のフナはジョキと 称して、皮つき骨付きのまま細く刻んで生食する。さらにウグイやハスのような細長い 魚は骨ごと輪切りにして生で饗される。ほかの地域では味わえない琵琶湖の味覚である 。 私は、展示取材、その他の機会に度々湖魚を生食したが、寄生虫の症状はいまだ発症 していない。 ② 野菜とのコラボレーション 琵琶湖では、畑の産物と琵琶湖の産物を併せた料理が多数伝えられている。一番馴染 み深いのは、スジエビと大豆を甘辛く煮き合わせた「エビ豆」であろう。この他に、大 豆と魚を炊き合わせた料理には「イサザ豆」「ウロリ豆」「ヒウオ豆」等が広く食され ている。米どころ近江では、水田の畔に豆を植えることが広く行われていた。「**豆 」は、この豆と、琵琶湖の魚が合わさり生まれた料理なのだろう。この食文化は、琵琶 湖の漁師の多くが農業もおこなう。言い換えれば農民が漁業を行うという伝統に根ざし ている。 同様に、野菜との組み合わせでは、「ジュンジュン」と称される料理が広く食されて いる。「ジュンジュン」とは「すき焼き」のことである。「牛のジュンジュン」は無論 、「カシワのジュンジュン」のような肉類の他に、ウナギ、イサザ、ナマズ、コイ等々 、多くの湖魚がジュンジュンとして饗され、多量の野菜と共に煮込まれる。同じ魚でも 、海の魚にはあまり見られない食文化であろう。 ③ 稚魚・小魚を大量に食べる 海においても、チリメンジャコのように稚魚を集約的に漁獲して、これを加工する食 文化がある。しかしその種類は少ない。 ところが、琵琶湖においては、コアユの仔魚である「ヒウオ」、ビワヨシノボリの仔 魚である「ウロリ」、ハスの稚魚である「ハスゴ」等が盛んに捕られ消費される。その ほか、イサザ、スゴモロコ、コアユのような小型の魚も盛んに漁獲され、利用されてい る。このような小型の魚を集中的に利用する食文化も、琵琶湖の特徴であろう。 ④ 調理への工夫 淡水魚を食べるうえでどうしても気になる点がある。小骨の多さである。これを克服 するため、様々な調理技術が駆使されてきた。 小骨に対応するために多用される技術に「骨切」がある。魚体に小刻みに包丁を入れ 、小骨を断ち食べやすくする技術である。これさえ施せば、ハスなどは淡白な絶品料理 の食材となるし、ニゴイも美味しく食べることができる。 また、醤油と甘味料でゆっくりと煮くことにより、骨まで軟らかくなり、小骨を気に せず食べることができるようになるし、保存性も高まり、家庭の常備菜として重宝され てきた。また、びわこの土産品としても親しまれている。 ⑤ 魚を発酵させる技術 忘れてはいけない調理技術に「ナレズシ」がある。塩漬けした魚を御飯に合わせて乳 酸発酵させた食品で、現在の日本人が愛してやまない「スシ」の原型の食である。そし てその代表がフナズシである。 フナズシの起源は、メコンデルタ地帯にあり、水田の伝播とともに伝わってきたと考 えられている。何故、魚と稲作がセットとして伝播したのか。この謎は琵琶湖岸の水田 開発の様を思い起こすと理解できる。水田の開発は湖岸の低地から始められる。水田は 水深の浅いプールであり、夏には大量のプランクトンが発生する。水田の開発と共に湖 岸に異変が生じた。産卵のために水田に押し寄せる魚群の出現である。水田に産み落と された卵は孵り、稚児は豊富なプランクトンを食べ成長し、琵琶湖に帰る。稲作と魚の 生態の関係を見たとき、湖岸の農民は想った。「魚が稲魂を運んで来る」と。この時、 稔の米と、魚が合わさり聖なる食が生まれた。「ナレズシ」である。そして、この聖性 故に、神祭りの食として定着し、ここから派生した「スシ」が日本人のソールフードと して愛され続けているのである。 琵琶湖には、かくも素晴らしい湖魚に対する食文化があり、これを支える食材として の魚が生息している。まさに琵琶湖にしかない個性(湖性)である。全国、画一的な食 文化が席捲している中、その土地にしかない、しかも、その土地に行かなければ味わえ ない食べ物など、極めて稀な存在である。琵琶湖の湖性が生み出した、食文化の発信は 、内には、湖の湖と共に生きる誇りを、外には琵琶湖に対するあこがれを醸しだす、ま さに最高のブランディングといえる。 琵琶湖八珍の提案 世界には三大珍味があり、宍道湖には七珍がある。何故、琵琶湖に湖魚を対象とした ブランドがないのか?それなら、博物館の特別展の一環として、ブランドを創出し、提 案をすることはできないかと考え、博物館周辺の団体の方々に諮ったところ「面白い・ やろやないか」と話が進んだ。そして、その前段として、博物館来館者を中心に「どの ような湖魚の料理に関心があるのか」を把握する、湖魚料理人気投票を行った。335 0票もの参加をいただき、その結果を分析したところ、1位は「うな丼」、2位は「ア ユの塩焼き」、3位は「シジミのみそ汁」という、何の変哲もない結果となってしまっ た。そもそも、これらの料理素材は、多くの場合、県外産の素材であり、これをそのま ま琵琶湖のブランドとすることはできない。 検討を重ね、得られた結論は、「琵琶湖らしさを前面に押し出す」であり、必然的に 、琵琶湖の固有種をを中心に、食材としての魚を8種選ぶこととなった。食材で選んだ のは、料理を8種に固定するより、食材で選んだほうが、より、湖魚料理の多彩さを発 信できると考えたからである。 結果、以下の8種の魚達が琵琶湖八珍に選ばれ提案された。ニゴロブナ・本モロコ・イ サザ・ビワマス・ハス・ビワヨシノボリ(ウロリ)・コアユ・スジエビである。 湖魚を食べる大きな意味 琵琶湖には、実に多様な湖魚に対する食文化が生まれ、継承され、現代に 至っている。 しかし、その時と場面毎に湖魚を食べる意味合いは変容してきた。ある時は命の糧とし て、ある時は貢納物として、ある時代は嗜好品として。 未来の湖魚食を考えるとき、湖魚が大きな役割を担っていることに気づく。それは、 「琵琶湖の魚が泳いでいる水は、我々滋賀県民、近畿圏の多くの人たちが飲んでいる水 である」という動かし難い事実である。魚が住めないような水は、いかに科学的の浄化 されようが、私は飲みたくはない。魚が気持ちよく泳ぐ琵琶湖であってほしい。そのよ うな琵琶湖にするために必要なことは、琵琶湖に身を寄せる人達が、琵琶湖に対する当 事者になることである。そして、琵琶湖に対する当事者となる一番簡単な方法は、「琵 琶湖の魚を食べる」ことであると思う。琵琶湖八珍の提案を機会に、一人でも多くの人 たちが琵琶湖の魚を食べ、これが泳ぐ琵琶湖にも思いを馳せて貰いたい。 http://www.atw.ne.jp/~suwa_h/FUKUI/FJYOSYA.html えちぜん鉄道 場所: 福井県あわら市など 【 見 所 】 福井市内と永平寺・勝山・芦原温泉・東尋坊などを結ぶ。主に1両で運行されており、 ローカル線の風情たっぷり。車内では全国でも大変珍しい女性アテンダントがご案内。 なごやかな空気が旅情を誘う。 ポイント: <風光明媚><名所旧跡><乗って楽しい!> <アクセス> 地下鉄四条駅から京都駅のりかえ、JR特急雷鳥号で福井駅下車。 えちぜん鉄道福井駅へ徒歩3分。 福井鉄道に新駅ができたのと、一部駅名が変更になったため、北陸の駅更新のため、福 井鉄道福武線に乗ることに した。18切符を利用して9時18分に福井へ到着、328Mで武生へ行き福井鉄道で 取材しながら福井へ戻る予定 だったが列車がない。328Mはダイヤ改正で福井打ちきりとなっていた。419系の 独壇場だった芦原温泉-武生 間に521系が進出している。金沢-福井間の多くの駅で521系4両分ホームが嵩上 げされ、安全柵が新設されて いた。 急遽予定変更、えちぜん鉄道福井駅でえちぜん鉄道・福井鉄道共通1日乗車券120 0円を購入。三国芦原線電車 で田原町へ、田原町から歩いて裁判所前から仁愛女子高校に駅名が変わった電停へ、撮 影後、越前武生行きモ880 +881に乗る。この日は福井マラソンのため、午前中駅前へは入れないため市役所前 で12分間停車する。田原町 福井鉄道 場所: 福井県鯖江市など 【 見 所 】 武生・福井両市へのアクセスに便利。最新型の低床車が田園風景と都市の路面を走る姿 は必見。レトロな車両も健在で、見所は多い。 ポイント: <風光明媚><個性派車両あり><ファン必見> <アクセス> 地下鉄四条駅から京都駅のりかえ、JR特急雷鳥号で武生駅下車(停車しない列車があ ります)。福井鉄道武生新駅へ徒歩3分。 3階建ての駅舎だが、待合室・改札・窓口はすべて1階にある。営業時間は5時45分 - 23 時05分。トイレは駅舎の外側に独立して入り口がある。同じビルには2011年7月から福 鉄バスチケットセンターが入居している。かつて入っていた福鉄観光社は北府駅近くの 福鉄バス嶺北営業所内に移転した。福井鉄道の駅では唯一、行き先案内の電光掲示板を もつ。また2013年4月26日より福井鉄道の中で唯一発車メロディが流れる駅となった。 それまでは発車前に発車ベルが鳴らされていたが、福井テレビジョン放送(福井テレビ )のマスコットキャラクターである「EarEarちゃん(イヤイヤちゃん)」のダンス曲『 ハッピーEarEar ダンス』をアレンジしたものに変更された。 ホーム 櫛形ホーム(2006年4月2日) 2面の櫛形ホームと3線の発着線を持つ。主には両面ホームの2番線が使用される。夜間 滞泊設定駅でもある。 3番線の更に東側には留置線が、福井方面に向かう線路より東側に洗車機を備えた側線 がある。 岐 阜 県 樽見鉄道 場所: 岐阜県大垣市など 【 見 所 】 美しい自然が残る濃尾平野をさっそうと走る。沿線には豊かな自然を満喫できるスポッ トがいっぱい。車両のラッピングもバラエティに富んでいる。 ポイント: <風光明媚><乗って楽しい!> <アクセス> 地下鉄四条駅から京都駅のりかえ、JR琵琶湖線米原駅で東海道線のりかえ。大垣駅で 樽見鉄道のりばへ。徒歩すぐ。 築50年を超える古民家の存続、再生事業に取り組む一般社団法人「おんなたちの古民家 」は、過疎化、高齢化が進む典型的な中山間地域である山口市阿東に拠点を置き、地域 の活性化にも力を注ぐ。東京・日本橋の高島屋本店で今年2月から販売が始まった桐箱 入りの「田楽米」は、同法人によるプロデュースで誕生。国内の名だたる産地の米と肩 を並べる商品として、“阿東米”のブランディングに成功した。 古民家再生と米づくりの関係とは?「おんなたちの古民家」の代表理事・松浦奈津子氏 の挑戦をたどる。 「やるなら一番に」と設立を決意 松浦氏は1981年、山口県錦町(現岩国市)生まれ。豊かな自然に囲まれた山あいの小さ な町で、高校卒業まで育った。山口県立大学でジャーナリズム論を専攻したことをきっ かけに、卒業後は地域情報紙「サンデー山口」の記者を7年間務めた。 行政、経営者、市民活動に携わる人など、山口をこよなく愛する人たちへの「取材」が 松浦氏の“地元 愛”を確固たるものにし、さらに自身を大きく成長させたという。 松浦氏が生まれ育ち、思い出に刻まれた実家がまさに古民家だった。古い建築物にもと もと興味を持っていた松浦氏は、結婚退職後の2010年12月に「古民家鑑定士」(財団法 人職業技能振興会)の資格を取得。その理由は、「面白そう」という直感的なものだっ た。 当時、山口県内には古民家再生を手掛ける組織は存在せず、「やるなら一番に」と思い 立ち、「おんなたちの古民家」の設立を決意。さらに、資格をどのように使っていくか 模索する中、記者としての経験が活かされた。 平和の要件? http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44269
日々の記録13(モノクロ写真家、クラフトビール、バラ園、ブラタモリ仙台、滋賀の 製造業)
和邇には、季節ごとに好きな花がいくつかある。どうして、それと、言われても 明確には答えられない。自分の心の奥底にある何か、がそれを求めているの かもしれない。 それが歓喜を与えるものだったり、安らぎを与えるものであったり、楽しさが 湧いてくるものかもしれない。多分、他の人も同様の感じを持っているのでは、 と思っている。例えば、妻は紫陽花が大好きであった。特に青の色の映えた 大輪の紫陽花は、何時間見てもいいわ、とよく言っていた。和邇が何故、と 聞いても明確な理由を聞けなかった。何と無くこれを見ていると心が静まる、 と言っていたものだ。近所の太田さんも、庭中に、チューリップを植えて 毎春、その黄色やピンクのお椀の姿に、眼を細めていた。彼も、その色に惚れた と言うが、それ以上の答えはなかった。和邇の勝手な解釈でも、顔形の整った いわゆる美人であっても、一般的な綺麗と言う感情は湧くが、その整った 顔や形に自身が歓喜する、楽しくなる、幸福感が増すなどの行為になる、 とは思っていない。自身が意識していない何か、心の琴線と呼ばれるものに 触れることが重要なのだ。さらに、和邇の場合は、昔写真に入れ込んだときから カラーよりもモノクロの持つ見えざる力に共感していた。カラーは、色に よって、人の感情を高めるが、それは本当の写真の持つ力ではない。ある意味、 誤魔かし、とさえ考えている、と言うより確信していた。最近、ある高齢の 女性写真家がモノクロによる神社や社などの風景を撮った写真を見た。 素晴らしいと思った。神社や社の持つ不可思議な雰囲気と神と言う形の 見えない何かを何故かその写真は感じさせてくれた。多分、これらをカラー で見せていたら、単なる風景写真として、人の心を振るわせることには ならないであろう、和邇は写真の前でそう感じたし、現にその写真家もカラーで 数年、同じ題材を撮っていたが、ほとんど評価されなかったと言う。 色と言う人の心を惑わす所作がなくなった分だけ、見る人も写真の持つ力を 感じ取れるのではないだろうか。 夏は、向日葵と百日紅が和邇の好きな花である。 向日葵の茶褐色のパウンドケーキのよう真ん中の種子の周りに黄色の小さな 花びらが太陽を仰ぎ見る姿は、神々しくも見える。その無限のようなエネルギー の発散が身体中をドンと突き抜けていく、様だ。そして、百日紅は、この 暑さの中で一服の涼しさと優しさを与えてくれる。やや遠くからでも映えている そのピンクは、良く見れば、ごく小さなピンクの花が数十となり寄り添って 一つのピンクの華を形作っている。更には、その小さな花一つ一つに黄色の 雌蘂がピンクの花びらに守られかの如く密やかに存在する。この一見華やかだが、 実は密かなるモノ立ちの集まりが和邇に安らぎを与える。 今、チャトと野辺をふらりと、チャトはやや警戒しながら、歩いている。 夏の真ん中とはいえ、朝の夏はその生命力を周辺の木々、鳥たち、花々に ふりまくように、そのエネルギーを抑えている。空は相変わらず透きとおり、 比良山麓の緑も美しく、そして優しく2人を見守っている。今、右手には 朝日に向って向日葵の一群が空の蒼さと山麓の緑の中で、神々しく立っている。 和邇は、暫らくその光景に心を奪われ、立ち尽くしていた。チャトが下から、 早よう行こうやと例の三角眼を和邇に投げかけている。先ほどは、幾つかの 家の庭でピンク色に覆われた百日紅の花に清清しさを覚えた和邇であった。 今日は大満足、そんな気持が和邇を支配していた。 はるか遠い記憶が浮かぶ。親父と母と私、3人でとったちゃぶ台での朝夕の食事 の風景がそこにある。ちゃぶ台に置かれた晩の食事、それは質素と呼ぶべきほどの モノであったのだろう、に頂きますのお礼をして静かな動きの中で、タンスの上に 置かれたラジオの音に埋もれるように過ごした日々。良くある昭和の食事風景が 何かの記憶として残っているのか、小学校1年生ほどであった私の記憶の一片 なのかは定かではない。両親はともに口数の少ない人であったが、そこには、 不思議な温かさを感じたものである。さらに、時が経て、横浜から京都の隣の 市に移ってきたとき、既に息子も3人となり、朝も晩もがさがさと動き回る 一番下の息子と上二人のおかずの取り合い、妻の夫々をたしなめる声、テレビの 騒々しい音など、静けさと言うものが全くなかったが、庭の先に電燈に照らされ ながらも白と紫の綺麗な色を見せる花しょうぶの群れを見ながらの食事は喧騒と 静けさの混在した不思議な時間でもあった。それは、琵琶湖の近くの今の家に 引っ越して来たときでも同じであった、と思っている。ドンと置かれたテーブル を囲んで青年となった息子たちとやや勢いの衰えた私、介護関係の仕事で頑張っている 妻、横浜、京都と続き、相変わらず心のつながりはあったように思える。 そして、2人ではやや広くもあるダイニングで妻とテーブルを囲む10年ほど 前からの朝夕の静かな日々がある。食事を通して家族の絆を感じ、時には口論 となる日もあったろうが、それも翌日には、既に過去の出来事となって、また 5人の夫々の生活が始まる。家族の幸せの形と呼べる1つであろう。時の移ろいに 合わせ、囲む人と食卓の内容は変わってきたものの、5人が心持ちとしてつながる と言う行為は素晴らしいものだ。途中、私自身が午前様の生活となり、4人との つながりが細くもなった時期があったものの、傲慢な私を上手く扱いながらも 妻の一貫した家族をつなげていくと言う意志と行動が幸せの形を作って来たの かもしれない。夫として、父親として立派といえば、先ず嘘になるが、幸せの形 の中で、この人生を過ごせたのは、有難い、この旅でも何人かの人が自身の幸せ が何かを求めている様でもあったが、それをつかめたのであろうか、和邇はこの 絶え間なく行きかう人々の顔を見ながら、一人違う世界にいるようでもあった。 怒りの中に悲しみを見た。 40年ともに過ごした人生だったが、お互いが何も見ていなかった。 それはホンの些細な口論から始まった。息子の生活態度への非難はいつもの調子で あったはずであったが、今回は少し違った。もともと妻はこの息子に対して負い目を 持っているのだ。彼の眼の不調や精神的な不調が生んだときの自分の対応の 悪さから来ていると思い込んでいる。少し前までは、精神的な余裕で彼の日常生活 への非難は適当に聞き流していたが、歳を経るとともに小さな黒い過去の負い目が 彼女を支配して行った。息子への非難は自分への非難と強く思うが、それを解決する 術はない。このジレンマが彼女をして、更に精神的な崩壊への道を作って行った。 「もう、あなたとは一緒に住めない。あなたのような家族を考えない自分本位な人 とは顔を合わせるのは嫌」。 突然の怒りに私は圧倒された。黒い津波が、紅い高波が私に襲い掛かってくる ような衝撃を受けた。 しかし、思う。あの目に宿る悲しみは何なのだろうか、と。怒りは体全体から 噴出するマグマの如く湧き上がっているが、悲しみをたたえるその目には 静かな、しかしほかを寄せ付けない冷たさが見える。私への失望感、自分への 焦燥、家族が霧散することへの後悔、彼女にとってこの40年、息子を 含めた家族の絆作りが生活の最優先事項でもあったのだから。 彼女の最後の言葉、私への最後通告、そして緊張感のある無言の時間が 2人の横をすり抜けていく。 「今度こそ、本気で別れが来るのかな」。 「妻はまだ怒りの中で浮遊している。これに手を差し伸べれば、手痛いしっぺ返し が来るだろうな」。 白く光る天井を見ながら、そんな考えが体の中を、頭の中を、まわっていた。 ずっしりと重たい静寂が身体を這い上がっていく。 40年間、夫婦の間には様々な口には出来なわだかまりがある。そして、それには 触れないように上っ面をかすめる程度に言葉を交わすことで生きてきた のかもしれない。 和邇は、一瞬自分の目がおかしくなったのか、と思った。いつもは、紺青の水を 静かにたたえている琵琶湖が見えない。朝日を浴びながら、坂をゆっくりと下りつつ この強烈な暑さで、身体も頭もおかしくなったのでは、と思った。春霞ならぬ 夏霞の朝であった。道路には影一つ無く、まるで砂漠が如き様相である。 汗が容赦なく顔に幾筋もの流れをつけていく。2ヶ月ほど前に味わっていた 朝の清清しさは影を潜め、灼熱と化した太陽が中天にどっしりと居座っている。 後ろを振り返れば、比良の緑の稜線が透き通った青さの中に、まるで太い毛筆の 線で引いたように描かれている。 我が家の孫娘のような犬のルナを息子が飼ってから約半年、そのルナを我が家に 連れてくるのが毎朝の日課となった。やや寒さの残った3月から正に百花繚乱の 春の草花を味わいながらの4月から6月、そして時は確実に過ぎ行きて、今は 夏の真っ盛り、連日の猛暑である。 我が家に向うには、この急な坂を上がるしかない。それでも、若いルナは和邇を 先導するかのようにどんどん先に行く。若さの違いであろうか、和邇が衰えたのか、 いずれにしろ、後ろから刺し込むように朝日が2人を押し包んでいる。 ふと、見れば淡いピンクの色を付けた百日紅の木々が和邇を和ましてくれている。 味気ない緑一色の中にその紅の花は、真珠の粒のごとききらめきと優しさを 道行く人に与えているのだ。一段と増した汗の川が顔全体を覆っているが、 ルナの影を見る形で、右の足をだし、そして左の足を出すという単純な行為 に更ける和邇であった。ルナはこの暑さを感じているのか分からないほどに 歩く先々の様々な匂いを感じ取ろうと一生懸命である。公園の横の太田さんが 花に水をやりながらこちらに挨拶を送っている。和邇もルナもそれに応えるが、 暑さがその間を裂くがごとく、会話もなく、一段と増す暑さに我が身を委ねる。 角を曲がった先に長く白く光る道が続いている。この一番先に我が家があるのだが、 まるで数キロもあるように、和邇には見えた。 これが明日も続く、そして明後日も、人生とは終わりのない道、そんな思いで 我が家の扉を開き、元気なママの声を聞く。 薄灰色のとばりが湖面まで垂れ下がり、灰色の水面を覆う形で琵琶湖がいた。 その上には、わずかに残る力を振り絞るが如き姿で朝日がわずかな形を見せている。 既に比良山には、頂上を雪の切れ切れが白く大きく被っている。こちらも薄墨の 背景に浮かぶ山々の山水画の風情をしている。 和邇は坂をゆっくりと、その歩みを確認する仕草で下りて行く。肩に白い粉が かかる。雪であろうと思った。昨日よりもその寒さは一段と厳しくなり、全ての 動作を油の切れた機械の様で、見せている。夏、秋と華麗な姿を見せていた家々 の草花もすでに、茶色に変色し、和邇の気持を一段と寂しくする。坂を下り 左へ曲がれば、ルナの待っている姿がそこにある。今日も、あのぼんぼりのような 黒い尻尾をふって、一段の愛想の良さを見せるのであろう。まだ1年ではないが、 息子が飼ってからその体躯は一段と逞しくなった。一応、我が家の孫娘ではあるが、 日々の行動からは、どうしても男、雄犬としか見えない。やんちゃぶりは一段と 増してきた。散歩に行ってももう妻の力では、抑えきれない。ルナに合わせて 行かないと、彼女も力尽きた様相で戻ってくる。 元々、寒さには強い犬であるから、最近の散歩も元気そのもの、おかげで和邇も 朝の寒さを彼女の元気さで吹っ飛ばしている日々である。今も、先陣をきる 勢いで急な坂を駆け上がっていく。和邇もリードに引き連れられ、その老体を 必死に前に出す。前方から小さな茶色の犬が若い娘さんに連れられて下りて来る。 まるで機械仕掛けのような足の運びに思わず、和邇も苦笑する。 黒のジーパンに赤いセーターの彼女は、ルナの勢いに思わず立ち止まる。 その顔には驚きと可笑しさが混在している。眼は一心にルナの黒い毛並みに白の 線のある、その顔に注がれている。一緒に茶色の犬も恐ろしさと珍しさを同時に たたえた仕草でルナを見る。しかし、その情景もルナの一声で、一瞬に変わる。 茶色の犬も声で応戦するが、どこか弱々しい。彼女も眼に驚きの色を見せつつ 通り過ぎて行く。この犬見かけと違って結構怖そう、とそんな表情が読み取れる。 右手には、更にその灰色を強めた比良山がこちらを見下ろしている。 黒い雲が次第に周辺に積み重なり、白いものがルナの身体にもはっきりと落ちていく。 明日の朝は雪かな、そんな想いが浮かぶ。 やがて、あけた扉の向こうには温かい空気が2人を迎える。 昔、和邇は秋が好きだった。夏の暑さに打ち萎れるのは人間だけではない。 安物のクーラーでは防ぎきれないあの強烈な暑さの流れをまともに受け、 その暑さに気の狂いそうな自分がいた。この身の弱さを年とともに感じてきた。 猫たちも一緒だろう。今年の夏は、チャト、ナナ、ライが1回のクーラーの効いた 部屋で日がな過ごしているのが、目立って来た。元気なのは、ルナとハナコの 若者だけの様である。ハナコの平然とした様とルナの部屋中を駆け回るエネルギー の凄さをママとともに、唖然としてみる日々が続いていた。そして、夏の過ぎ去りに あわせて、秋は、身体も意識もその暑さから逃れ、新しき躍動を見せたからである。 この朝の素晴らしさは何ともいえない。琵琶湖は紺青に輝き、透き通るような先には、 鈴鹿山脈や伊吹の山々が、その曇りなき姿をガラス細工のように見せている。 白い鰯雲が中天高く泳いでいる。どこからか、研ぎ澄ました光輝くような風鈴の 音色が聞こえてくる。その白い響きに、坂を下りつつも、和邇は左右に気を配る。 通り過ぎる家々の庭には、黄色の大輪をつけた菊が、その堂々たる姿を見せている。 既に色づき始めた紅葉の木々が数軒おきにその紅と黄緑、そしてまだ残る深緑 の葉を幾重の重なりとなって庭庭に彩りを添えている。更には、夏は雑草の大群に 覆われていた空き地には見事な穂をつけたススキの一群が、支配を始めている。 ルナもさすがにこの暑さには、やや体力を落としていたのであろう。 私を迎える態度も一段と激しさを増し、玄関の扉を開ける途端に、飛びついてくる。 坂を上がるのも、ただひたすら猪突猛進の如き所作で、和邇もそのリードに 引かれるが如き速さである。我が家へ向う路では、ノンビリと比良の山並や 先ほど見た琵琶湖の透明感のある姿など見ることさえ叶わぬほどだ。 少しづつ赤さを増す比良の山々も何か和邇を笑いながら応援している様でもある。 我が家の着く頃には、まだまだ歩み足りないような顔をして、和邇を見るルナと 息を切らせ、中腰なりながら息を整えようとしている老人の態となった和邇が居た。 更には、自分の到着を知らせるためのルナの一声が最近の日課となっている。 まだ白いものが残る比良山の山並が少しづつ後ろに流れて行く。目の前に広がる 蒼き湖がそれに合わすかのようにこれも少しづつ大きくなっていく。春の霞に 薄いベールを通して見るような沖島や八幡山の対岸の風景もどことなく 暖かさをもって見える。右手のやや深い森からは鳥たちの朝のさざめきがとき に激しく、時に密かに和邇の耳の届く。この坂も何十年と歩いた道ではあるが、 四季の色合いを感ずるのは、春である。特に、身体の衰えを感じ始めた4,5年前 から和邇は、今まで好きだった秋よりも春に喜びを感じている。 薄暗い空が多くを占め、山と湖をその力で押さえつけるような冬の死に近い風情は、 死が近くなったものにとっては、何の慰めにならないし、寒さの中で縮こまる 自分の姿に情けなささえを覚える日々でもある。そのような季節から雨水、啓蟄 といった二十四節気のいう生命の息ぶきを感じる春は、今の自分にとって、 大きな慰めであり、勇気付けでもあった。足下に眼を落とせば、芝桜の可愛い ピンクがあり、庭にはピンク、黄色、白など様々な色の花たちが一斉に咲き 始めている。名もなき雑草と言われる草たちも冬のややくすんだ緑や茶褐色 から光る緑へとその姿を変えつつある。歩き過ぎる家々の風情も、同じ姿で あるはずだが、その醸し出す空気は緩やかな暖かさで和邇を包み込む。 既に、青味の増した芝生の上にルナはいた。和邇を見ると、出迎えへの喜びを 身体全体で表している。尻尾を絶え間なくふり、前足をこちらに向け、いつもの 片足を上げる仕草で握手を求めて来た。眼を見れば、オッサン早く散歩に 連れてってな、早ようしてな、と言っている。ここで飼われてからまだ1ヶ月ほど だが、すでに10年もいるような態度で、この孫娘はしっかりと和邇を見つめていた。 リードを持てば、脱兎の如く坂を駆け上がろうとする。長いペットショップの 狭い空間で過ごして来た憂さをこれ以上ないような仕草で晴らそうとしているようだ。 しかし、想いとは別に、まだ体力不足なのであろう。和邇を引き回すほどの 力はない。結局、この足の遅い老人の歩調に合わせて、やがてゆったりとした 歩みとなる。それでも、家の前に行く頃は、2人ともが、息切れが大きい。 何しろ、片方は4ヶ月近い闘病生活であったし、片方も3年近い狭い檻の中の 生活であったのだから。そんな二人に既に咲き始めた梅の花がその優しい ピンクの色合いを染め付けている。遠くで、ウグイスの元気な声が聞こえる。 様々な神社の風景をモノクロ写真として撮りつづけて10年の大津市大江在住の 女性がいる。神社の持つ佇まいに魅かれたのが、きっかけで白洲正子のかくれ里 との出会いも大きいという。確かに、モノクロの持つ魅力が生きるのは神社のような 静けさと杜の情景かもしれない。一度は加藤国子さんと話をしてみたいもの。 作者は鄙びた里の鎮守の杜の思いがけない美しさに魅せられて、この8年ほど滋賀県内 の 観光客の訪れることもないような神社を訪ね歩き、撮影してきた。 どこの神社も集落の人の月当番が落ち葉を掻き、下草を刈り、本殿や拝殿の掃除を 怠りなく、清らかに守られていた。 この小さき島国は、歴史始まる以前より台風や地震、それに伴う大雨、洪水、津波や 地滑りなどの天災に遭遇してきた。古事記などに記される神々については研究している 人に任せ、作者は、神社というのは、抗いようもなく再々繰り返される災害への恐れか ら、 安らかに暮らせる日々を願う人々の祈りから始まったのではないかと思っている。 近年もテレビで映し出される未曾有とか想定外と表現されるような阪神の震災、東北の 震災など、近くは御嶽山の噴火の様子に胸がつぶれる思いをした。神戸の震災の折に 目にした風景に、作者は、神はこんなことをしていいのかと胸が震えたが、そう 言いながら、やはり神戸の生田神社は思いのほか早々と再建され、年の初めには、 またの穏やかな1年を神に祈る初詣の人でにぎわっている。 抗いがたい天災に、神頼みではどうにもならないと知りつつ、それでも頼りたい、 頼ってしまう、そんな人々と神々のつながりの長い歴史を思いつつ撮影した作品 である。モノクロ46点。 作者のプロフィール 加藤 國子(カトウ クニコ) 1942年生まれ。退職後、インターネットでホームページを作り、琵琶湖の写真を撮って アップしたのが写真を始めたきっかっけとなる。一眼でという勧めにニコンD80を購入 し、 故安岡孝治氏に2年ほど手ほどきを受ける。また、いくつかの教室やワークショップに も 在籍。現在は気ままに写真を楽しみ、ブログ「にごろぶなの歌」、Facebookに毎日写真 をアップしている。 主な写真展に、2002年「時の過ぎゆくままに」(コンタックスサロン京都)、12年 「近江風土記 祈りの風景」(滋賀県立近代美術館)、13年6月同展(ギャラリー PlaceM) 、 11月同展(ギャラリーら・しい/奈良県當麻)があり、大阪写真月間「写真家150人の一 坪展」、 ギャラリーの企画展などにも参加している。 今、クラフトビールが人気があるという。 いわゆる、地ビールだ。ネーミングや入れ物のデザインがかなりユニークなものが 多い。全国に200社以上あるという。 ビルスナー、アイピーエー、ヴァイツェなどがある 1990年代には、地ビールとして騒がれたが、その後、味や入れ物の安易さで 消えていった。 種類としても、かんきつ類を主体のホワイトビール、黒麦芽の黒ビール、ペールエール など、多種多様である。製造するための設備も数10万円でできるというから、ビール 好きの人間が自分で創るという想いをもって、各地で頑張っている。 これに一役かっているのが、SNSなどによる広範な情報の拡散である。飲んだ時の 感触や好みに対する評価などで、新しい顧客を増やしていく。 福島にあった全国でも有名な個人経営のバラ園が消えた。 岡田勝彦さんが17歳でバラの魅力に取り付かれ71歳の今日まで育てて来た 双葉バラ園である。原発事故で立ち入りが禁止の地域にあったため、今は見る影もなく 荒れ果てている。しかし、震災前の写真では広大な敷地の中にあらゆるバラが 咲き誇っていた。オールドローズなど極めて育てるのが難しいとされる品種の バラもある。しかし、映像に映る薔薇のそのは、ただの藪と化している。 岡田さんにとっては、娘以上の愛着があるのだろう。中々、次の場所での 開園は考えられないようだ。震災の傷跡はまだあちこちにあるのだろう。 多くの人の人生を一瞬のうちに全て無に帰した。これが自分に起きたと 考えると恐ろしい気持になる。 ただ、この園の写真愛好者が写真展などを開き、活動の輪を広げている。外国からも おおいそうだ。一枚の写真が語る薔薇の姿は素晴らしいからであろう。 ブラタモリ仙台 仙台は杜の都と言われているが、これらには伊達政宗の思い入れが強い。 もともと、仙台周辺は河岸段丘という地層からなるため、それを上手く利用した 城つくりが行われていた。さらに、かなり昔に津波によって海岸近くの村は 壊滅的な被害を受けた事を知っていたためか、城は海岸から8kmも離れた 岡の上に構築されている。また、治水のため、幾つもの谷を暗渠などを作りながら 城下町に上流から生活用水として配水していた。その跡は、市の中心街でも 今も生活用水の設備として使われている。これらは四つの谷を渡って来たため 四つ谷用水とも呼ばれている。場所によっては、暗渠が川の上を渡っている ところもあり、網の目のように配水路が整備されていた。城下町はそのような 生活基盤の整備によって発展して来たのだ。 又この配水の沁み込んだ水が井戸水として多く使われている。 現に市の真ん中にある鰻屋は、今も井戸水で鰻を育て、商売をしている。 杜の都と言われる所以は、江戸時代から武家屋敷を中心に色々な木々を育てて いたことが大きい。正宗の時代家康に逆らった事もあり、領地は160万石から 80万石程度の半分となった。しかし、家来の数はそのままにしたため、武家 も自分の屋敷でクリやミカンなどを栽培して生活を成り立たせる必要があった。 このため、木々の多い町となった。中には樹齢千年という木もあり、その歴史 の長さを感じる。 特に、城に近い武家屋敷には、大奥の木々が植えられていた。また、商業の発達を 更に進めるため、正宗は若村城という隠居用の城?を作ったため、街の構成が 元の武家屋敷と商人の町とでは大きく違う佇まいとなっている。 なお、東京編での中に、今も残る江戸城の跡として「常盤橋御門」がある。 現存する史跡としては見る価値がありそう。 第2次産業の比率が最も高いのは滋賀県。 内閣府の県民経済計算によると、2012年度の県内総生産のうち、第2次産業 (鉱業、建設業、製造業の合計)は全体の40.9%を占めて、全国首位とのこと。 全国平均の23.5%を大きく上回っている。2位は38.5%の静岡。1959年 に名神高速道路が出来て、栗東、彦根などのインターチェンジ周辺に電機や自動車の 工場が出来て製造がアップし、日本の中央付近に位置している立地のよさも大きい。
日々の記録14(自分史
現代文を古文に変換 http://catincat.jp/javascript/kogo2_1.html 女性支援のサイト アイデアや具体的な取り組みがわかる https://www.womenwill.com/japan/ ノロの動きは速かった。いつも我が家で見せる平和的友好的な猫ではなく、 野良猫としての彼の生き様の一端を見せていた。既に、狩人の顔立ちとなり、 目を鋭く蛇のほうへ向けl低い姿勢から一気に飛び掛る。 彼は左手と右手を交互に蛇の頭を叩いている。猫と言うやつは、左利きも 右利きも区別がないようである。左手で叩くときも右手で叩く時も、蛇の 鎌首をもたげている頭上を正確に打った。蛇は打たれるたびに鎌首を下げていって、 その首を枯れ葉の上に置いた。するとノロは、片手を上げたまま前後左右を 見回した。よその猫か犬の来るのを警戒するためなのだろうか。きょろきょろ と辺りを見回した。その隙に蛇がさっと彼に向って首を伸ばした。ノロは 慣れているのか、まだきょろきょろしながら、ちょっと手を引くだけでうまく 蛇の牙を避けた。蛇は鎌首を上げて、続けざまにノロの手を襲った。 しかしノロはちょっと手を引っ込めるだけである。蛇の体勢でどこまで頭が 伸びるかノロは正確に知っているに違いない。必要以上には避けない で、蛇の口とほとんどすれすれの程度まで手を引っ込める。 この闘争は同じやり方で繰り返された。蛇は叩かれる度に首を垂れるが、 逃げようとはしない。彼は相手を叩くが、相手が首を垂れると落ち着き なさそうに前後左右を見回している。いずれ猫は油断して噛み付かれる かもしれない。私はそれが気になるので、鳶口を持って蛇の頭を抑えた。 その瞬間、猫が蛇の首に飛びついた。蛇は首のところから皮を鞘に 剥がれほとんど全身、赤身の裸になっていた。これが、一瞬の出来事であった。 私は猫に何の合図もしないで鳶口を使ったが、猫は前もって私と打ち合わせて いたかのように振舞ったのである。電光石火と言う形容が当たっている。 蛇の剥げた皮は、裏返しの短い筒になって、その母体の赤肌の胴の末に つながっていた。尻尾の細い先だけが河の筒尻からすこしのぞき、蛇の 舌のように震えていた。猫はそれを嬉しがって仰向けにひっくり返し、 後足で蛇の震える尻尾をからかった。蛇は頭の部分だけ皮を残した 無残な姿に変じ、かなり弱っていたが心底から腹を立てているようであった。 赤肌の鎌首をもたげて猫に噛み付こうとした。猫は遊びふざけている 脚を素早く引っ込めた。蛇は孤立無援ながら急に立ち直って、鎌首を 高く上げて猫の足を覗った。猫は起き上がって、前足で前後左右に蛇の 頭を叩いた。これが正攻法と思われる。もう辺りを見回す事は抜きにして 蛇が鎌首をもたげる力がなくなるまで叩きつけ、蛇の首に噛み付いた。 止めを刺すと言ったところだろう。 「妻の死、それは予想をはるかに超えたことであった。 和邇は、何かが崩れてばらばらになるのを感じた。部屋ががたんと 揺れたような気がした。階段を踏み外した時の気分だった。 手に持った電話機が重くなり、持ちきれなくなった。ゴトンといって、 それは落ちた。どこか遠くで、自分を呼ぶ声が聞こえる。その声から 離れたくて、リビングの大きなテーブルに歩くのだが、たった1メートル ほど先にある椅子に近づけない。周りが全て暗闇となり、彼を進ませ まいとする大きな力が立ちはだかっていた。 「男とは、家父長とは、男権とは、我が家には堂々たる玄関から入り、 洋風応接間で客を迎え、妻が静やかにお茶を差し出す。正月には座敷の 床柱を背に坐って家族や部下の挨拶を受け、ふと庭に目をやると池の 向こうに松ノ木が見える、それが昭和の男の居る風景だった。しかし、 今、このような情景を浮かぶものさえほとんど居ない。消えゆく 存在となった。これに代わり家の中でその存在を高めたのは、妻であり、 母であり、女権の空間であった。台所と居間はほぼ一体となり、家族団らんの 場であるはずの居間も夜遅く帰宅する男は、父は付属品の如き存在となる。 多くは母中心の場となっていった。庭も妻や母が好む小さな色とりどりの 草花が中心となり、松などは遠く昔に忘られた存在ともなった。座敷も 思い出されたように一部屋あればよいほうで、多くはフローリングと呼ばれる 板の間の部屋となり、当然床柱の言葉さえ死語に近くなっている。 「家を出て6日、家からおよそ60キロ、大分時間がかかっている。幸い ここまでわずかな時間、雨に降られたが、ほとんどは、太陽との根競べ、 ズボンの腰周りはゆるくなり、額と鼻の皮膚が日に焼け赤く染まっている。 腕時計を見たが、その前から時間がわかっていた事に気がついた。 朝と晩、足の指と踵と土踏まずを入念に点検し、皮膚の破れたところや すりむけたところを絆創膏と軟膏で手当てした。経口水は外で飲み、 雨が降った時にはビルの1階や公民館で雨宿りをした。 すでに春から夏への変化の時期、華やかな花びらの群れを見ることは 少なくなり、最初の忘れな草の群生がその陽射しの強さに励まされる様に 白く淡く輝いている。 そして、自分がもう半分ほど忘れてしまった世界のことを考えた。 家の中で、街中で、あるいは、車の中で、人々が日々の営みを 繰り広げる世界。日に三度の食事を取り、夜になったら、眠り、人と人との 付き合いのある世界のことを。日々の終りには、今日1日が安泰であったこと を喜び、そんな人々の中、世間と言うつながりから抜け出せたことにも 満足していた。 「雨がやみ、それと同時に自然界に新たな成長の季節が訪れた。 木々や草花はいっせいに華やかな色彩とかおりをまき散らし、トチノキの 枝は小刻みに震えながら、円錐形の花キャンドルを支えていた。 白いヤマニンジンの花笠が道端をびっしりと覆っている。つるバラが 庭塀を這いあがり、深紅のシャクヤクがテッシュペパーのような花弁 開いている。りんごの木は花びらを振り落としはじめ、その後にビーズ のような小さな実をのぞかせている。 朝の空は青一色、そこに櫛で梳いたような雲がたなびき、木立の向こうには、 いまなお細い月が消え残っている。けれど、広々と視界の開けた自然な中に 戻ったいま、彼はふたたびある場所と別の場所との中間地点にあって、 頭には、様々な情景がなんの束縛もなく去来している。歩きながら、 40年ものあいだの過去のもろもろを解き放った。おかげで、いま彼の 頭の中では過去がけたたましくさえずりながら、独特の騒々しいエネルギー で駆け巡って行く。 「ある日何気なく本棚の隅に打ち残されていた、いまはもう見るものさえいない アルバムに気付いた。こびりついてやや黄色みを帯び始めた写真の数々、それを 愛しいものを見る仕草で1枚づつ触りながら、ページを、1枚1枚、丹念に 見つめた。ほとんどが妻と息子たちののものだが、その間にはさまるようにして 何枚かそうでないものが混ざっていた。彼の膝に抱かれた赤ん坊の長男や次男そして、 籠に入れられた末の息子。赤ん坊を見つめる父親、遠慮がちに、触ってはいけない と自分を戒めているようだ。そして、何枚かの妻との旅先での写真がある。 二人はにこやかにこちらを見て、仲の良い夫婦ぶりである。全てがまだ若い。 ふと、最近はデジタル写真だからパソコンの中か、と思う。でも、それをあらためて 見る気はしない。すべてが過ぎ去ったものだ、そんな衝動が彼を支配していた。 それから数日間、気分は一層落ち込んだ。二階の客用の部屋の床じゅうにアルバムが 転がっていた。それを元に戻すと言う作業に向き合う事が出来なかった。朝早く 洗濯機を回しても、洗いあがったものはそのまま1日中ほったらかしにしていた。 食事は冷凍食品の買い置きのもので済ませた。やかん一杯のお湯を沸かす気に さえなれなかったからだ。彼はいまや単なる独居老人でしかなかった。昔、 彼が一番嫌っていた人間になっていた。 「遠くには、地平線をまたいで木曾の連山と幾つかの山々、平成山、高沢山など が横たわっている。木々の切れた間からは、小さなビルの四角な塊りと工場の 屋根とお寺の甍のぼやけた輪郭が見える。小さくマッチ箱のように見えるのは、 民家と車にちがいない。あそこにはあまりにもたくさんのものがある。そして、 たくさんの人生が、日常の営みが、苦しみと闘いと喜びの営みがある。 だが、人々は、ここから和邇に見られていることを知らない。 和邇は再び、心の奥底から感じた。自分は今このこの目に映るものの 外側にいると同時に内側にもいる、この目に映るものとつながっていると 同時にそういうものを突き抜けようとしている。 自身の足で歩くとは、じつはそういうことなのだ。自分は色々なものの一部 であると同時にその一部ではないということだ。 この旅を成功させるには、そもそも、最初に自分を駆り立てたあの気持ち に忠実であり続けなければならない。妻への感謝と老醜化する自分の最後の 見極めと。他の人なら別の方法をとるだろうが、そんなことはどうでもいい。 事実、自分にはこうするしかないないのだから、あくまでも歩き続けよう。 昭和後期から平成へと生き抜いた一人の人間として、何を持って死への友と 出来るのか。そんな大袈裟な事でもなく、ごく些細な気付きを得られれば、 この70年を生きて来た何かの証を自分として持てれば、道は下りとなった。 「道は白山に源を発する長良川の流れにそうて下り、それがもう1本の渓流、板取川と 合する立花という辺りに来て中州を作りながら、真っ直ぐに下っている。しかし、 関へ行く本道は「道」には違いないが、左へ折れる方は木深い杉林の中に、わずかに それと人の足跡を辿れるくらいな筋がついているだけである。おまけに数日前の降雨 があったり、長良川の水嵩がにわかに増え、崩れかかったりしていて、激流の逆巻く 中に岩が牙をむくが如く、その荒々しさを一段と高めている。 長良川は、川幅も広いが、最後に達するまで、川と川のとの間の道は、何丈と 知れぬ絶壁の削りたった側面を縫うて、あるところでは道が全く欠けてしまって、 迂回路で古びた橋を渡り、崖の横腹を幾曲がりも迂回したりした。そういうわけで その谷間の緑は夏の陽射しの中、素晴らしい眺めであったけれども、足下ばかり 見つめていた私は、おりおりの眼の前を飛び立つ四十雀の羽音に驚かされたくらい で恥ずかしながらその風景を詳述する事は出来ない。昔見た長良川はゆったり とした風情であったと記憶しているが、歩いて見るとその違いに驚きが一段と 増した。昭和初期までは、充分に道路が整備されていたとは言えない。このような 河傍の間道を通って関から名古屋へと歩いていたのかもしれない、とそんな想いが 沸いてきた。しかし、それも僅かなことで、道幅は幾度となくまるで旅人をあざ笑うか の如く変化を見せた。 「夏の朝と夕刻の庭の水遣りがいつしか彼の仕事になっていた。 さして大きくないその庭にも、気をつけてみると梅の木がどんと居座り、その存在を これでもか、と見せている横には、数株の紫陽花が他の木々に挟まれるように ひっそりと立っている。少し外れてはいるが、これもどんと根を生やしたかのような 蜜柑の木が梅ノ木に対抗するが如く天に一直線に伸びている。さらには、いつの間にか ススキの一群が片隅を占拠し、秋になるとあのやや灰色の穂を野太く道路まで 被うように茂っている。さらには、春の遅くに真っ赤な花を咲かせるベゴニアの 木がいる。それに対比するかのように少し奥の塀の近くには、大輪の西洋芙蓉が この赤い世界が消え去ろうとする時分になると咲き始める。さらには、秋から冬には 全くの枯れ木状態であった紫式部の木が立派な枝を四方に伸ばし、その名の 紫の小さな実をつけ始めている。 そんな季節ごとの花の協奏曲を思い浮かべながらも、彼は朝の光をその一つ一つ の水滴が反射しながら降りかかり、そのたびに夫々の花や葉が息を吹き返す様 を見ている。ほとばしる水が鞭となって空気を打ちながら、ときおり朝の陽の光を 捉えてきらめいていた。 ふと、目に付いた切り株に驚きが走る。それは妻が数週間前にばっさりと切った 榊の木であるが、既にそこには新しい命が生まれていた。それはつらつとした 緑の葉をキラキラと光らせていた。確か、それを見たのは1週間ほど前に わずか1つほどの新芽がその切り株から出ていたと思ったが、いま眼の前に あるのは、10本近くに増えた若い小さな枝の群れである。 それは、放物線を描いて光りながら伸びる水のシャワーの先で水と光の中、 圧倒的な若さを見せている。 彼は、水遣りのことも忘れ、暫らくその若い枝の群れに見入っていた。 生命とは凄い、頭の中でそれが何回となく反芻していた。 その感触は、木々や草花だけではない。時たま、水に驚いて飛び出す トカゲの親子や糸トンボの夫婦、烏アゲハの夫婦などなど色づいた木々や 草花の下では、多くの生き物が毎年、生まれ育ち、その姿を見せる。 しかし、それらの姿も秋となり、冬となるにつれてその数は減っていく。 気付けば、黒く垂れ込めた冬の雪を含んだ雲が比良からこの辺り一面を 被い尽くす頃には、全ての生命が見えなくなっている。今、眼前に広がる 紫式部の花も紫色が大きく鮮やかになる秋から知らぬ間に枯れ木に変身する。 そこには、何も残っていない。しかし、翌年には、また見事な紫の世界を 現出する。そのような変転が10年以上も続いているのだ。ただ、和邇も 含めてそのような世界を味わう人が少ないのも、事実である。皆、何かに 追われるように日々を過ごしている。 「道路の脇に、打ち捨てられた様に、新聞の自動販売機がポツネンと立っている。 20年ぐらい前には、よく見かけたものだが、すでに塗装は剥げ落ち、錆びた身体を 無理にも元気よく見せようとする老人の如き風情がある。彼もこの20年風雪に 耐えて、己が使命を全うしてきた、そんな風に和邇には見えた。 ふと昔の新聞記事の紹介の事を思い出した。 ここ数年でも、特にあの事以来、いきがいという言葉さえ自身から消失したように 思えていた。老いること、日々に何かを尽くす相手がいなくなる事がこれほど、 自分の行動を縮退させ、影の如き日々の人になるとは、思えなかった。 その新聞記事は1987年11月のものであった。 「生きがい新旧格差について、20歳代の社員ほど、家族を犠牲にして仕事に打ち 込むことに否定的であり、生きがいを仕事以外に求める人が3分の1を占めている。 日本能率協会が11月24日発表した「生活意識多様化調査」で20歳代と 40歳代の「新・旧対比」がはっきりした」。 それに寄せられた意見・感想として、 「1987年の20歳代というと、2012年では40歳代だと思うが、実感値 として家族を犠牲にして仕事に打ち込む40代が多い印象を受ける。 それは立場によるものもあるかもしれないが、例えば「残業後に会社チーム で飲み会に行く」「会社のゴルフ大会に精を出す」など、生きがいを仕事 に求める人が多いのではないだろうか。 近年取られるアンケートでも20代の仕事離れが進んでいるという話題 がたびたび取り上げられるが、20年後には立派に仕事人間になっていると 思うので、あまり問題視する必要性はないのかもしれない」。 約30年前の社会事情だが、現状はどのように変わっているのだろうか、 すでに社会から一歩も2歩も退いた和邇にとって、その変わりの様を知るのは、 難しくなっていた。ただ、息子たちを見ていると、仕事への取り組みの強さ と考えれば、それが生きがいになっている様でもある。 ただ、和邇があの成長期に感じた生きがいと彼らの思っていることには、大分 の開きがある、遠く山並を黒く流れる雲とその速さに眼を移しつつ、彼は思った。 「和邇は、近くで紙をすいている家があるとのことで、宿の人の案内で出かけた。 丸顔の布袋さんと言っても誰もが納得するその気の良い主人が軽のワゴン車で走らせ、 10分ほど山道を行く。 「お客さんは手漉きの紙にえろう興味がありますんやな」、と私に問い掛けながら 車を運転している。緑一色のトンネルの中を走る様に、茶褐色のごつごつとした山道 をテンポのずれた音を立てながら、進んでいく。やがて美濃の山々が見下ろすように 立ち並ぶ麓の一面白い花に囲まれた中に2階建ての大きな家が見えた。 その前には、何枚もの板の上にすかれたばかりの紙が張り付いている。 「あそこですわ。名古屋から来た職人さんが4年ほど前から奥さんとやってますわ」 「手漉きで薄い上に強い、と言う評判でわざわざ見に来る人もいるそうですわ」 と、ノンビリとした調子で教えてくれた。 宿の主人は、顔なじみらしく断りもせず作業場へと私を案内する。 置くの作業場では、その職人さんが、ちらっとこちらを見たが、一切構わず作業を している。 私と宿の主人は、そっとその横に佇む。まるで影が二ついる様でもある。 枠の中の白い水が、蒸篭のように作ってある簾の底へ紙の形に沈殿すると、彼は それを順繰りに板敷き並べては、やがてまた枠を水の中に漬ける。裏に向いた作業場 の板戸が開いているので、和邇は一藁の野菊のすがれた垣根と彼の一挙一動 を見ながら、見る間に2枚3枚と漉いていく彼の鮮やかな手際を眺めた。 姿は細やかであるが、職人らしくがっちりと堅肥りした、中柄の風情であった。 その頬には鬚が野太く広がり、黒々と光り、張り切って、つやつやしていたけれども、 それよりも、和邇は、白い水に浸っている彼の指に心を惹かれた。黒くしなやかに 伸びた指は俊敏に動き、時折微妙な動きをする。冬の寒さがつのれば、 「ひびあかぎれに指の先ちぎれるよう」になるのであろう。が、寒さにいじめ つけられるであろうその指も、この夏の暑さにも、動じない強さがそのうしろ姿 から滲み出ていた。奥さんがお茶を出したが、彼女も特段我々の訪問を歓迎する でもなく、嫌がるわけでもなく、淡々と漉かれた紙を次の部屋に運び、庭の ほぼ仕上がった紙を入念に観察している。時が淡々と流れ、わずかにそよぐ風 の音が大きく聞こえる。遠くで鳥たちのさえずりがこれも普段より大きく高く こだましていた。「有難う」の一言を残して我々は帰途についた。車でも あの静寂がそのままついてきたように、宿の主人も何もしゃべらず、途中の道 で私を降ろし、軽く会釈をして分かれた。すでに陽射しは道路と家々を強く 照らし、その暑さを一層引き立てている様でもある。 「和邇にとって、和服の女性は憧れであった。学生時代には、その立ち姿に思わず 振り向く事もあった。記憶にある母も、近所のオバサンも皆かすり姿の中に、 不思議な雰囲気を醸し出していた。丸髷に結い、縞模様の絣の上に白い割烹着 は、小さい頃はどこにでも、ある風情であったが、帯の締め方、着物の胸元の あわせに人それぞれの性格が出るのであろうか、帯がやや緩んだ様に巻かれ、 合わせ着の線がキチンとしている人は、顔立ちの意識がなくとも、美人であったように 思えた。浮世絵でも、北斎はじめ多くの絵師が美人画を描いているが、やや 崩れた姿の女性の場合は、専門家の評価は別として、淫らさだけが彼をして 打ち付けるかのように、興味を惹く対象とはならない。 以前に、百年前に取られた写真が何処かのオークションにかけられ、 当時の日本の素晴らしさが再認識されたことがあったが、写真の中の女性は モデルでもなんでもないのだろうが、箒をもち、どこか遠くを見つめるその 立ち姿は一幅の絵画の如く、あらためて若い頃の憧れの和服姿の女性への 敬慕の念を沸き立たせたものである。昔大阪で接待などでクラブへ行くと ママやちいママがよく和服でお客の相手をしていたが、洋装の時とはその 持つ雰囲気の違いに感じ入っていた事も思い出される。今では、良く外国人 が着物姿に憧れ、それを着ている姿に合う機会が多くなったが、なにか しまりのない、温くなったビールの様に、それを美人が着ていようと不美人 に見えるのは、時代は変われど、やはり日本人としての潜在意識が発露を しているからであろう。そして、この旅でも、立ち寄った旅館で和服の 女将が出迎えてくれたところは、不思議と記憶が鮮明に残っている。 山中温泉、浜松、鎌倉いずれの女将の顔がはっきりと浮かんでくるのだった。 しかし、昭和の美しさは、彼女らの着物姿の消滅とともに、消え去っていく。 「20代から50代まで、幾つかの恋、単なる性欲の発露を求めた、をした。 しかし、その女性に自身を焼き付ける、一体を望むような強い想いと行動は、 なかった。少し深く自分を見れば、それは母としての愛を求めていたのかもしれない。 性欲を満たすための男としての行為と母への思慕が自分の中では、上手く 切り分けていられない、そんな自分を良く感じた。 今記憶に残るのは、亡くなった母の遺影を肩から下げ、墓地へ向う自分の歩みと 小学2年生の時、分けもなく母に逢いたくなり、一駅先にあった病院へ歩いていった 時の心細さと白い病室で優しく迎えてくれた母の透き通った顔と指の白さに 驚きをもった自分である。午後の日差しの中にいる母との自分の姿が今でも はっきりと浮かぶ。が不思議に思うことは、そういう風に常に想いが慕ったのは、 母の方であって、父に対してはほとんど何もなかった。その何か分からぬ思いは 息子たちが大きくなるに連れて分かって来た。子供にとって、父親とは少し離れて、 その立ち姿を見る存在なのだ、と言う事を。自分の母を恋うる気持は漠然たる 「女性という未知なる者」に対する憧憬、つまり少年時代の母との愛の不十分な 関係を満たしてくれる人なのでであろう。なぜなら自分の場合には、過去に母で あった人も将来妻となるべき人も、等しく「未知なる人」であって、それが目 にみえぬ因縁の糸で自分に繋がっていることは、どちらも同じなのである。 こういう心理は自分のような境遇でなく、誰にも幾分か潜んでいるだろう。 自分にとって、「未知なる人」は、母の幻を投影したものであり、母への甘えが 女性へは愛と言う形であるのかもしれない。だから自分の小さな胸の中に ある母の姿は、年老いた婦人でなく、若く美しく、全てを抱擁してくれる女である。 そして、死と言う影を背負い、無常と言う事を体現している人でもある。 「鯖江の街を通りながら、和邇は昔、NHKで見た映像を思い出した。 大きな石の塔があり、そこには「忠霊塔」とある。その下で、ひたすら周辺の 五月や紫陽花の花などの刈り取り、雑草の取り除きをしている老人がいる。 緑の広がりの中に、石造りの四角な箱型の台とその上に聳え立つ「忠霊塔」の 3文字が刻まれた石塔、周辺に鳴り響く蝉の声、それ以外はただ、草刈る音が 静かにその刃先のすれあう音ともに、響くのみ。かなり薄くなった白髪頭に 手ぬぐいを巻きつけ、無精ひげの残っている頬を何筋もの汗が白い水跡を 残しながら首を伝わり、褐色の作業服の中に消えていく。中腰の身体は ややつらそうに左右に揺れている。しかし、その眼は力を持ち、ひたすら 眼前の草木に向けられている。 ここには、福井にいた陸軍の戦死者が骨壷として、25000余り祀ってある。 彼は此処の掃除や草木の刈り取りを50年以上ほぼ毎日続けて来たと言う。 その映像を見ながら、この単純作業を50年以上を続けて来たと言うその 意志の強さと何のために、誰のために、という、和邇の判断基準では、無駄と 思われることへの執念に驚かされた。彼を突き動かしている心の底にあるあるもの 何かは、映像では語られなかったが、自分にはとても出来ない、と思った。 そして、今その塔のある街の近くを、自分の原点を確認したいがために、歩んでいる。 これも無駄な行為では、との疑問が絶えず彼をして留まり続けて入る。 「古き時代には、かくれ里、僻地の村々としてその旧き生活習慣や独自の文化を 継承して来たことで、尊敬の念でも見らてはいたが、今や限界集落とかいう 一くくりの中で、身体の片隅に出来た腫瘍の如き扱いを受けている。 日本の過疎地には6.5万の集落があると言われている。限界集落は、65歳 以上が半数を超え、道や村の施設などの管理が困難になる集落をある社会学者が 定義した事に始まる。人口の2割以上を占める昭和1桁の世代の力が大きく、今まで 存続してきた。しかし、その世代も既に80歳を超えて、集落の終焉も見えている。 60年代の林業の衰退、70年代の工場誘致の失敗、土木工事を中心とする80年代 の活気ある町も公共事業の緊縮財政に伴う減少の2000年代となっていく。 産業の発達とともに、老人やその土地の持つ智慧が無意味と思われてきた中では、 その自然の持つ人間を助ける力さえ、無視される時代になってきた。 そのような流れの中、新しい変化が起きつつある、和邇はこの山道を歩きながら、 そのわずかな情報で、最近の社会の動きを考えていた。 テレビや新聞でも、よく目に付く良いになった。 「火や土があって、自然に生きる暮らしを子供たちに教えたかった、と言う若い夫婦 の移住に見られるような価値観の変化である。ある四国の村では、そのような農山村 に新しい生き方を見つけて都市から移住してくる人が3年間で60人を超えた。 便利さの陰で見落としていた農山村の価値に気付く人が増えたのだろう。 農山村には、自然と折り合って暮らす豊かさや集落と言う共同体に生きる幸せ、 がある」と。我が家の近くの比良でも、同じ様な自然への想いを募らせた人々が何十人 となく、住み着いている。昭和の始めまでの密やかな山や里での営みが、平成と なり、その社会の成熟とは別の別の、旧き時代の、生き方を望む人が増えてきている のだろう。高島、朽木、敦賀、武生、と歩き続け、その土地の人と話す中で、自分が 過ごして来た30代、40代の人々の思い、またそれは自身の思いでもあるが、物的な 豊かさを求めた時代とは違う空気を感じていた。この行軍の中で、単に自身の 終りが見えてきたからなのか、ここ数年で起きた家族の形の変化によるものなのか、 自分の意識が周りの変化を素直に受け入れられる様になったからなのか、足と体の 痛みへの恐れを打ち消すかのようにその歩みの一歩ごとに、頭から足へとその漠と した想いがながれ、そしてまた、頭から足へと同じ流れが起きていた。 自分史フォトブック 人生の節目を迎えて今までの写真を1冊の本にまとめる自分史フォトブック が人気とのこと。言葉も添えるが、文章の苦手な人には人気な様だ。 フォトブック作成サービス「ビビプリ」を使う。 60ページほどで1冊1万円ていど、自費出版よりも安い? 以下の様な進め方が良いとのこと。 ①アルバムなどの古い写真を整理する。 ②自分の歩みを年表にして節目ごとに写真を選ぶ ③それぞれに当時の心境を短文で配する ④フォトサービスを利用して、②と③をまとめて本にする。 今回は自分史を作成できる 無料ツールをご紹介いたします。 CHRONICLES http://nt.1step-m.com/link/69l 使い方は簡単。 上のプラスマークをクリックして、 自分の名前や、印象的な イベントを登録するだけ。 出来上がった自分史は>再生ボタンをクリックして、>自分の人生を視覚的に ふり返ることができます。 ここまでの人生のまとめに。 ハチと言う猫 NHKでハチと言う猫の映像を見た。 この猫、白地に黒くまるで眉毛のような八の字がある。更には、背中には 黒のハートマークが白い毛並みにくっきりと浮いている。 茨城の水戸駅の傍の商店街の煙草やさんに「福猫」として毎日いる。 もっとも、ほとんど寝ているようではあるが。猫好きの57歳の女性が ハチを毎日見に来て、ブログに書いているとのこと。以前、猫を飢餓状態 で死なし、家族がバラバラになった事への悔悟の念があるのだそうだ。 死んだ猫を囲んだ幸せだった時の写真をパソコンの前においている。 また、ハチを気に入った古着屋の人がハチ猫グッズなるものを売り出している。 Tシャツやブロマイドなど様々だ。また、このタバコ屋さんは宝くじも 売っているので、縁起の良いハチがいる事のご利益を得ようと、かなり遠くからも 宝くじとハチを見に毎日来る人もいる。高校生の女子たちがスポーツの大会で 優勝できるようにと手を合わしていた。 しかし、ハチの飼い主は商店街で工事などをしている人であった。昼は事務所 で作業があるため、このタバコ屋に預かってもらっているのだそうだ。 帰りは商店街の多くの人に触られたりして、この街の人気者である。 また、このハチ猫が大人しいのだ。和歌山のタマ駅長猫もそうであったが、 人気の出る猫は皆、自分の立場を心得ているようだ。我が家の猫、爪の 垢でも煎じて飲んで欲しいものだ。
2016年10月7日金曜日
日々の記録15(ブラタモリ、老後破産、マイ農家
生産者との直接な関わりを楽しむ マイ農家、マイ漁師と言う言葉がキーワード。 自分の信頼する農家や漁師から直接購入する。 大船渡で漁師をする人がSNSで、捕れたばかりの魚を参加者で味わう事や、 無農薬の米つくりの農家が普段購入してもらっている消費者に稲刈りのお手伝いを お願いし、250人ほどの人が応援に駆けつけた、という話題があった。 地産地消は、いまや知産知消となって来た。これが進むと空き家となった古民家を クラウドファンでリングで500万円以上集め、古民家を寄付者の集まる場所とした。 これにより、都会の参加者と地元の農家との交流もあり、古民家を中心とした コミュニティが作られた。 まだ、小さな活動の様であるが、この考え方はほかでも色々な形で、地域の活性化に つながるのでは。 ブラタモリ出雲大社 江戸時代以前はあまり知られていなかった。 しかし、出雲御師という人たちが全国にその布教を進め、その存在が全国的にも 知られる様になっていった。 さらに、遷宮がこの街の活性化を促した。 また、街の人はこのような行事に合わせて、富くじを売り出し、更に人集めを 行うと同時にわずか、8日の大祭では今の金で28億円もの売り上げを上げた。 更には、明治に鉄道が敷設されると大鳥居の勢留からの参道を大社おおやしろ 駅に近くなるように新しく造った。現在の駅は廃駅となっているが、建物として 残され、250年前から有名な駅舎となった。最盛時には年間で100万人の 参拝者がこの駅を使って、大社もうでをしたとのこと。 出雲大社は天井に7つの雲の絵が描かれており、近くには十九社という茅葺の 建物がある。これは全国から来る神様のための宿とのこと。 ブラタモリ軽井沢 昔は中山道の宿場町として栄えた。碓氷峠を越すためにその休息の地として 多くの旅人が使った。しかし、明治以降、中仙道としての利用が鉄道に変わられると 寂れて行った。しかし、夏の保養地として宣教師たちが使い始め、明治の終りには 100件ほどのユニオンチャーチが建てられた。 軽井沢が拓けた理由の一つにここが火山による火砕流によって出来た平坦な 土地であったから。この土地の広さと夏の保養地としてのよさに眼をつけたのが、 野沢源次郎と言うひと。彼はまず、土地としてのステータスを上げるため、 上流階級の人を積極的に呼び込んだ。さらに、同心円型の都市開発を行い、 日本では見られない景観を作り上げた。道路はすべて、六本辻という中心点に 集まるユニークな造り方になっている。 今の若者は恋愛をしない。したくない。 アンケートなどでも、12000人からのデータでも、恋人はいないが、恋愛を したくない若者が60%もいるという。バブル、平成時代直前では、恋愛は当たり前 の行動であったが、今は違う。生涯未婚率も平成の初めから上がり、今は男性が 20%ほど、女性が10%ほどとなり、いずれも増加傾向は変わらない。 何故、若者は恋愛をしないのであろうか? その理由に挙げられるのが、面倒くさいがトップである。恋愛をする時間があれば、 他の自分にとって有意義のあることに使いたい、相手の事を色々と考えるのが大変、 など昔には考えられなかった事である。 外部的な要因を考えれば、恋愛の情報が多くあらためて自身で体験する必要がない、 価値が多様化してそちらへの行動が優先する、年収が少なく将来が見えない、など 様々である。恋人がいることが常識の時代であった我々の時代から、大きく 変わってきている。 老後破産と言う言葉がある。 今、親と同居している中高年の人は10年前の2%から10,5%になるという。 これには、この世代の収入が100万円以下の人が3割から4割に増えている 現状が大きい。年金だけの暮らしをしている世帯が4割以上ある中で、低収入の 息子や娘が同居する事態となって、共倒れになる可能性が増えている。 また、低収入のため生活保護を受けていた老人が、働けるはずの息子たちが 同居する事で生活保護を停止される。老人が毎月10万円程度で生活していた中で、 生活保護とあわせぎりぎりの生活がこの停止により破綻する。 高齢者が益々増え、昔は親を支える事が普通だった息子たちが低収入や失業が 常態化していくことで、これは多くの家庭で起こる事にもなる。 農事暦七十二候 半夏生はんげしょうは、二十四節気の夏至を3つにわけた 最後の3分の1 (第三候、末候)。 雑節のひとつとして残っている。夏至のほかの候は、初候(第一候)「乃東枯」、 次候(第ニ候)「菖蒲華」である。やはり植物などと関連している。 昔の農事暦では、この頃までに田植を終えるとされていた。 (二十四節気をそれぞれ3つにわけた「七十二候[しちじゅうにこう]」という) https://kinarino.jp/cat6-%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A 4%E3%83%AB/10552-%E5%AD%A3%E7%AF%80%E3%81%AE%E7%A7%BB%E3%82%8D%E3%81%84%E3%82% 92%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%84%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%A7%E3%80%82%E3% 80%8C%E4%B8%83%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%80%99%EF%BC%88%E3%81%97%E3%81%A1%E3%81%98% E3%82%85%E3%81%86%E3%81%AB%E3%81%93%E3%81%86%EF%BC%89%E3%80%8D%E3%82%92%E3%81% 94%E5%AD%98%E7%9F%A5%E3%81%A7%E3%81%99%E3%81%8B%EF%BC%9F?page=4 ----------- 彼は、妻の実家の京都に行くと、必ず銭湯へ行った。ここに来ると不思議な懐 かしさ と安らぎがあるからだ。別に銭湯であれば、京都でも大阪でも横浜でもどこでも 良かった。1年間の単身赴任であった名古屋でも毎日銭湯に通った。 その銭湯も子供時代の記憶から大きく変わってきた。人のつながりがなくなった。 横浜の子供時代には、番台にいた奥さんに良く怒られた。湯船をプール代わり に潜ったり、泳いだものである。木で作られたロッカー、柳の籠と富士山を描いた 湯船はどこでも定番であった。差し込む夕陽の赤い色の中に浮かぶ湯気が朝露の ように湯船を被い、白いタイルと一体となって穏やかな空間を作っている。 更に、夕食過ぎともなれば多くの親子連れのざわめきが湯船の水音、タイルの上で コトンと鳴る木桶の音、身体を流す湯音、音の全てが協奏しあい、裸の人々に活気と 寛ぎを与える。湯船の仕切り越しに交わされる「お父ちゃん上がるよ、俺上がるぜ」 といった何気ない会話が何気ない日々の幸せを醸し出す。時折、湯船の上を 見上げれば、ガラス越しに白く満ち足りた月や雲間に見え隠れする弦月の光が 白く霞む様に広がり、湯煙の中にも浮き沈む。そして、風呂上りのサイダーのあの 微妙な甘さと咽喉越しに伝わる心地よき開放感、町内の年寄りたちが井戸端会議 ならぬ風呂端会議のざわめきと女風呂から聞こえてくる嬌声と子供のなき声、 これら全てが彼の明日への力となった事もあった。 夏ともなると、風呂屋の前の縁台で湯涼みを兼ねてなにやら人まち顔の若い女性の 頬を紅潮させ、艶やかな肌を見せる彼女に一時の恋を感じる。 眼を閉じれば、1枚1枚、色褪せたモノクロ写真をめくる様に和邇の記憶に現れ、 体の奥底から白く沸き立つ水泡が浮かび上がる。その明るさと軽さが彼をして、 安らぎを得る。どのような悪い気分、落ち込んだ中でも、それが重く沈みこむ気持 に軽さを与えてきた。 今は、スーパー銭湯や源泉風呂と銘打った様々なお風呂が出来ている。しかし、 昭和の終りまであった地域のお付き合いの場としては、その影は薄い。彼もまた、 ここからは気持の晴れ間を得る事はなくなった。ときおり、銭湯に行きたい、痛烈な 感情が湧き上がるときもある。 その大きな松の木を昇るにつれて、前後に松葉重なり、家々の形は影も留めず、 深き翠を一面に、眼界唯限りなき漣(さざなみ)が群れを成す。幹から幹、 枝から枝、一足ずつ上るにつれて、何処より寄することもなく、艶たる波、 白帆をのせて背に近づき、躑躅を浮かべて肩に迫り、さかさまに藤を宿したが、 石の上に、立ち直って、今や正に、目の下に望まれた、これなん日の本の一個所を、 琵琶にくぎった水である。妙なるかな、近江の国。卯月の末の八つ下がり、 月白く、山の薄紅、松の梢に藤をかけ、山は翠の黒髪長く、霞は里に裳もすそ を曳いて、そよそよとある風の調べは、湖の琵琶を奏づるのである。 霜のように輝いて、自分の影の映るのが、あたらしいほどの湖面。湖水はただ茫漠 として、水や空、入り江の島は墨絵のように見える。御堂の棟と思い当たり、 影が差し、月が染みて、羽衣のひだをみるように夜の湖水は静かにある。 全てが静寂の中に息づいていた。あらためて己が存在の小ささを感じる。 朝の空は青一色、そこに櫛で梳いたような雲がたなびき、木立の向こうには 、 いまなお細い月が消え残っている。前夜の雨はすでに消えていた。和邇は また歩けることに安堵した。しかし、彼の頭は思考停止状態に陥っていた。 けれど、広々と視界の開けた自然な中に立ったいま、彼はふたたびある場所 と次の場所との中間地点にあって、頭には、様々な情景がなんの束縛もなく 去来していく。歩きながら、この10年のあいだ考えまいとして必死に抑え つけて来た過去のもろもろを解き放った。おかげで、いま彼の頭の中では 過去だけがけたたましくさえずりながら、独特の騒々しいエネルギーで 駆け巡って行く。夜来よりの雨が小さな宝石の雫を光り輝かせる野辺の道、 この自然が描く一幅の浮世絵の中を、あこがれの目で眺め、自分の素足が 柔らかな草花に沈むところを想像した。横をほとばしる水が鞭となって 空気を打ちながら、ときおり陽の光を捉えてきらめき流れて行く。 その流れに合わすかのように、父と母に手を引かれて小学校入学に向った日、 息子の七五三で、家族5人でお宮参りをした日の青いブレザーを着た長男 のなんともいえない晴れがましい顔、白き棺に納められた父の死に顔の静けさ、 脈絡のない記憶が流れる水の光にあわせ浮かんでは消えていく。 そして、今ここにいるのは一人、寄るべきなき老人がいる。 生の輝きから外れたものにとって、この景色は残酷な仕打ちの様でもある。 眼前に広がる青い稲穂の並び、さらに3メートルほどに区切られたその水田 が幾重にも連なって岡の下へと一直線に伸びている。遠くには、駿河湾の 銀色の波頭が数千の煌めきとなってこの棚田の在り様を一段と高めている。 ここを耕してきた人々には、四季折々、朝夕の勤めの中で、当たり前の光景 であるが、今ここの自然風景は、農業、漁業、日々の暮らし、更には様々な 交通など等、社会は変われど、生活は変われど、我々日本人の生活と つながっている「営み」がこの風景の中に溶け込んでいる、和邇は思った。 見ていると、自分自身もこの中に吸い込まれていく、そんな感覚になった。 より生活を楽しく、便利にするという経済優先の社会の中で、開発と言う 美名の下、あらゆる破壊が地球全体、日本各地を覆い尽くそうとして いるのに、この日本の中には、自然の時間に逆らわない空間がまだまだある。 しかも、これらは、「自然と人の営み」が一体化した風土として息づいてきた。 残されたわずかな時間であろうが、和邇は今の比良山と湖の自然がとりあえず 残るあの場所で最後を迎えたいとも思った。 眉高き十一面観音 「一歩、薄暗い堂内にはいって、思わず「まあ」と声を上げる。正面にすらりと立った 美しいお人。それはその前に献じられたばらんの葉をかきわけて、今にもこちらに 歩み寄りそうなゆらめく気配を感じさせた。これは美しいお方に会ったものだ。 まだその眉目を判然と見極めもせぬ先にこみあげてくる印象。それはこんな方が こんな所にいらしたのかという、悲しみにも煮た感動なのである。 電燈に照らし出された面を、近づいてよく仰ぐ。まことに、けざやかな眉を高く あげた美女である。近づく者をおどろいたように見つめている瞳。斜視の 魅力とでもいおうか、右目は真ん中にあるが左は鼻筋に瞳がよっている。 人間的な、肉厚い唇と、ノーブルな鼻の形。はえぎわの髪のゆたけさも、情の濃さ をあらわしている。耳朶に目立って大きなイヤリングがついているのも, 宝冠の飾り紐が、左右に長く垂れなびいているのも、完全に美しい女性を意識させる。 十一面の冠が相当大きく、頂天の菩薩面までいれると二メートル以上はある かもしれない。 漣の芯まで一本造りの木造だが蓮弁は新しくつくられたものとか。冠中央の 阿弥陀仏も後補のものだというが、全身、不思議なほどに滑らかで、痛みが ほとんどみられない。」 富士の姿は変わらない、と思った。会社の仲間と富士五湖まで遊び に行ったとき、 家族連れで河口湖近くの遊園地に出かけたとき、三島の研修所から見上げた時、 様々な人と様々な場所から、見てきた。今も、その歩みは遅いものの、徐々に 富士に近づいてもいる。自分の遠い記憶の中にある姿を1枚1枚とアルバムを めくり出す様に、その姿を思い起こす。頂上に雲をいただき、その顔を隠した富士、 恥ずかしそうに白い帽子を被り、その下からこちらを覗っている様子の富士、 全身白き衣で覆われた白装束の富士、女性と似ているとも思った。あえて言えば、 中年の女性のそれである。ごつごつとした肌をその白き衣などで隠し、裾野 に広がる緑の海で、優雅さを見せようとする。まさにそれは北斎の描く遠謀の 富士の世界であり、広重の旅の中の1小節かもしれない。遠目の美しさで多くの人を 魅了してきたのだ。富嶽三十六景「相州仲原」には、遠景の富士の稜線とあわせ、 川岸の道狙神や茅葺屋根と鳥追いの鳴子の三角形が橋を渡る巡礼の一行とともに その風情を調和良く伝えている。また、「駿州大野新田」では、葦が茂る湿地帯 と浮島を手前に正面に見える富士のその時間を超越したような姿と枯れ草を運ぶ 農民を一番手前に置き、日々を営む人間を描くことでうまくその対比を描いている。 北斎が富士に対してどのような気持を持っていたかはわからないが、少しづつ 大きさを増す富士を見ながら、北斎も富士を絵の対象以上に思っていた、 和邇は漠然と、考えていた。 しかし同時に、比良山系、白山連峰、など神としての存在を受けし山々の1つであり、 自然との調和と人が持つ美意識を喚起させる霊峰でもあり、多くの人の信仰の 対象でもあったことも納得できた。自然とのつながりを直感的に感じていた古代の 人々にとっては、寄ってすがるべき何かの存在であり、今その山を見ながら 歩いている自分も、体のうちから沸いてくる不可思議な気持の高まりを 感じていた。富士を撮り続けて数10年の写真家が、時によって、写真を撮る 事を忘れ、ただ至福のときを過ごした事が何回もあった、と述懐している記事を 思いだした。そんな時、富士は、彼にとっては人生の全てであり、神としての 存在なのかもしれない。更には、北斎の「山下白雨」は、山肌が夕陽に赤く染まり、 尾根襞に沿った残雪の白い筋と山裾で光る稲妻を描いているが、これは風景画 と言うより神としての富士の強さを描いたもの、この絵を見るたびに、和邇は 思ったもである。その昔、富士講として、毎年6月になると大勢の人がこの 神の山に押し寄せたというのも、納得できた。原理原則、定量的な自然理解 の現代では、自然を肌で感じるということが難しく、江戸時代の人々、更には もっと古き時代の人にとっての富士は特別な意味があったのだ。そこでは、 仏の教えのようなものよりも、直感的に感じられる本能的な何かに頼っていたのであろ う。 すでに、富士を真近に見て2日、和邇は自身の変化を感じていた が、まだどっぷりとある心と体の重さを減じるまでには、なっていない。 小満と言われる5月後半にこの旅をはじめてから約半月、すでに6月の 初めとなった。 芒種といわれる季節となり、芒(のぎ)を持った植物の種をまくころであり、 「暦便覧」には「芒(のぎ)ある穀類、稼種する時なり」と記されている。 歩くにも一汗が二汗となり、周囲の山や畑、全てに緑の光が満ちあふれ出し、和邇の 身体を被っている。 俗に、「麦秋至」(むぎのときいたる)と言われる、麦の穂が実り始め、収穫するころ を過ぎ始め、季節は初夏となっていた。遠くに見える黄色となった麦にとっては収穫 の「秋」であり、名づけられた季節が「麦秋」だそうだ。すでに、芒種である。 昔の人は上手くこの季節を「蟷螂生」(かまきりしょうず)、「腐草為蛍」 (くされたるくさほたるとなる)、「梅子黄」(うめのみきばむ)と言葉にしている。 いずれにしろ、やがてホタルの幻想的な光が彼の前にも現われてくる。和邇は、 何故、ここにいるの、と言う自問自答とともに、一斉に生茂った庭の木々の中で、 ただひたすらポーチの上で過ごした昨夏の自分の姿を思い起こしていた。あの時の 闇の世界を、いまこの足で破りつつある、それが自分への回答なのだ。 4人の女性に囲まれながら、和邇は、各人の表情をそれとなく観察した。 正面にいる人をはじめに見たとき、若いな、と思ったが、その表情はどこか 年輪の跡が出ていた。皺が多いわけではないが、肌のつや、目尻のたるみが じわりと見えてきた。多分、若さを感じたのは、着ている服の色使いが、 他の人よりも、明るく髪の毛の黒さからきたものと理解した。むしろ、 彼女の横で和邇にも色々と説明をしてくれるリーダーらしき女性のほうが 若さを感じた。背恰好がきやしやで、顎筋のすらりとした、やや痩せ気味の 体がその印象を少し年かさに見たのかもしれない。鼻がやや高く、重々しい まぶたの裏に冴えた大きな眼球のくるくると回転する様に見えて、 生え揃った睫毛の蔭から瞳が、細く光っている。顔には少し皺が見られるものの、 その話し振りと仕草からは、何かに打ち込んでいると言うエネルギー が感じられた。他の二人は、どこでもいるオバサンと言う風情で、やや 緩んだ身体に合わすかのように緩めのシャツとスカートでそれを隠していた。 少し蒸し暑い部屋の暗がりに、馴染むかのように二人は地味な色合いの 服で、その雰囲気を更に助長させていた。しかし、和邇が眼を閉じると、 彼女らの声や息使い、そして熱気が攻め寄せてくる。このようなエネルギー はどこから来るのか、頭の中で幾度となく反芻した。 今でも昼間には、世話をしている雌犬のルナの事を思い起こした。たえず、 動き回るあの仕草や行動が今は懐かしく感じられた。 古くは、和辻哲郎氏の指摘した家の考え方の西洋との違いがあり、明治以降 徐々に 浸透した西洋文明なるものの影響と戦後の急激な経済発展に伴い、日本の文化も 大きく変化していきた様に思う。以前読んだ、日本の古きよき時代に憧れて、 過疎の村に住み着いたある英国人の指摘が浮かんでくる。 今の西洋人の服装、家の造りなどは、ヨーロッパの中で幾多の変遷や自然との 調和の中で、自然に発展してきたのであり、「現代の生活と昔の生活」の間には、 余り矛盾を感じぜずに生活が出来る。しかし、現代の日本、中国含め東洋全体 としても、服装、家の造り、習慣などは、その伝統文化とは関係ないものである。 例えば、京都や他の古い町並みを見て優雅、綺麗などとの気持は持つものの、 自分たちの現在の生活とは関係がないことをわかっている。そのため、各地は 観光と言う形での存続でしか生きられないような状態にもなっている。このため、 それ以外の都市や田舎の町は、生活と経済優先のたて看板、くもの巣状の電線、 コンクリートの無機質な建物に溢れかえり、伝統的な生活様式は影を潜め、 忘れ去られた存在となっている。この旅の中で、和邇はあらためてその情景を 思いめぐらす。敦賀から郡上八幡までの神社仏閣の数々、又その途中に点在した 古民家への想い、さらには、旧東海道の昔の家並み、宿場跡と併走する形の 今の幹線道路とその無秩序な町並み、コンクリートジャングル状態の町全体の持つ 無機質な世界はまさに自分で見てきた事実でもある。 確かその外国人も更に言っていた。 「30年前に来た時でも、既に日本の自然破壊は目立っていたにもかかわらず、 民間からの抵抗や不満はほとんどなく、更に急ピッチで破壊は進み、いま、 日本は世界でも一番醜い国の一つになっている。彼の友人が来ると失望 する。どこまで行けば立て看板とくもの巣電線、コンクリートが見えなく なるのか、とも言われる。多くの街には無数の電柱が立ち並び、人の頭の上は 電線の網地獄となり、日本の街のごみごみ感を一層募らせている。とにかく 信じられないほどの無神経さで、自然の美しさを破壊している」。 更に彼は言っている。 「このような状態を日本人が気付いていないということが一番信じられないし、 そのような環境にありながら、日本の自然は美しいと言っている、その観念は どこから来るのであろうか」。 歩くという事はそういうことなのか、ふと思う和邇である。3年前に病気して、 歩く速度が今までの半分ほどになった時に感じた感覚そのものであった。同じ 湖とその周辺の景色、普段歩いていた町並み、道々の光景がすべて今までとは違う 世界に見えたのを思い出した。自分の見る世界がある速さの中では、大きく変わる。 ましてや、人が違えば、同じ情景もまた違う。今まで歩んできた道を 車で走ったとすれば、又違う感情が芽生えるかもしれないが、この旅で感じた ことが素直な今の世界なのだ。そして、あらためてここ十数年の琵琶湖の 自然の残る世界での生き様に我ながら感謝の気持がわいてくる。まだわずかでは あるが、残る自然とその調和の中で過ごせた事への感謝である。特に、 横浜、東京へと近づくにつれてその想いは強くなっていった。 当たり前と思う世界が、実はその文化とは違う文化で育ったことにより、当たり前 ではなくなる。至極当然のことなのかもしれないが、今の日本人で、それを わかる人は何ほどもいるのであろうか。 関の街は和邇に不意打ちを食らわせた。彼の中にいつのまにか出来上がっ ていた ゆったりした体内リズムが、この都会の凶暴なまでの激しさを目のあたりして、 いまや崩壊の危機に晒されていた。ここに来るまでは、山々の間を流れる渓流であり、 せせらぎと緑一色の世界、更には、どこまでも開けた大地と空とが与えてくれる 安心感、すべてが人としてのあるべきところにあるという安心感に寄り添って 来られた。 自分自身がたんなる和邇と言う一人の人間ではなく、もっと大きな何者かの一部だと 思っていられた。なのに、あまりにも視界が限られ、喧騒と忙しさのこの街では、 何が起きてもおかしくないし、その何かが何であっても、それに対応する心構えが 出来ていなかった。足の下に、たとえ痕跡でもいいから土がないものかと探して みても、眼に入るのはアスファルトばかりだ。何もかもが彼に警告を発していた。 行きかう車も。ビルも。携帯電話でわめきながら先を急ぐ人も。そんな顔のひとつ ひとつにほほえみかけてみたが、彼の存在さえ無視され、影の如く扱われた。 歩く事、それだけで疲労困憊する有様だった。 あまりにも多くの見知らぬ人々の顔を意識の中に取り込むというのは、ひどく疲れる ことだった。ここまでの自然の中で、それに寄り添うように生きている人々には、 明確な形があったが、ここでは、全てが幻惑の世界の様でもあった。 二本の足で、たったひとり土の上を歩いていたときにははっきり分かっていたものが、 人の数も、通りの数も、正面がガラス張りのお店の数も、何もかもが多いこの街 では、何がなんだかわからなくなった。しかし、横浜、東京へ近づけば、 その世界は益々、今の和邇の思考をはるかに超えることになる。 そう思うと、一歩の歩みが急激に遅くなったように感じられた。突然、見えない 足かせがはめられた気分であった。 ずしりと重い静寂が身体を這い上がった。しばらくそれに逆らってみたが、 やがてたまらず目をつむった。木陰を這うように流れる風の音が一段と高まった。 太陽の光りが、まぶたを透かして赤く輝き、鳥たちのさえずりと通り過ぎる車の音 が溶け合ってひとつになった。どこからか甘酸っぱい匂いが彼の鼻をくすぐる。 音と匂いが彼の中に、そして同時に遠く彼方にあった。 「世間の人は歩くなんて単純極まりない事と思うんでしょうね」 と、しばらくしてやっと女性は口を開いた。「片足をもう一方の足の前に置く だけのことだと。だけど、わたしなんて、本能的なことと思われてることをする のがどれほど難しいか、いまだに驚かずにいられない。特にうちのおばあちゃんを 見ているとつくづく感じるわ」女性は舌で下唇をしめらせてから、他人ごとの様に 呟いた。「たべることでも、そう」と、ずいぶんたってからポツリと言った。 「それも難しい事のひとつね。食べる事にどうしようもなくつらい思いをする人 もいるし、しゃべることもそう。そういうのもみんな、普段は忘れているけどね。 ことと次第によってはむずかしいことなの」そういって、女性は、庭を見つめた。 その庭の先の縁側には、一人の老婆が静かに座っていた。和邇は、初めて彼女が 居る事を知った。何か見てはいけないものを見たような後ろめたさを感じた。 そして、また眼を閉じ、音と匂いの世界に戻った。身体は相変わらず重たい。 けれど、心は少し軽くなったような気になった。そして、ゆっくりと身体を 起こし、女性に軽く会釈をして、一歩を踏み出した。 健一はボートの中へ仰向けに寝そべった。空の肌質きじはいつの間にか夕陽 の ほとぼりを冷まして磨いた銅鉄色に冴えかかっていた。表面に削り出しのような 軽く捲く紅色の薄雲が一面に散っていて、空の肌質がすっかり刀色に冴え返る 時分を合図のようにして、それらの雲はかえって雲母色に冴え返ってきた。健一は ふと首をもたげてみると、まん丸の月が大津市の上に出ていた。それに対して 大津市の町の灯りの列はどす赤く、その腰を屏風のように背後の南へと拡がる じぐざぐの屏嶺へいれいは墨色へ幼稚な皺を険立たしている。」 安土に野に広がり、湖周は深い葦原で行行子と句の上で呼ばれる 葦きりが、さしひきする潮波のさまで囀り合う初夏には水辺一面 目の覚める鮮明さで、まっ黄く、ひつじぐさ科の河骨が息吹をあげる。 水面四、五寸抜き出たその一輪花の群れを、かき分けるようにして 野菜舟が櫓べそを軋らせて通う。、、、冬は鴨が舞い降り、青葦は 乾いて野晒しの骨の擦れ合う佇しみの中にも飛沫をはねて鯉の躍る 音がする。深々と納まり、ひそやかに呼吸する水郷であった。」 水を切る船端の波の走るのが、銀を落とすと、白い瑠璃の階きざはしが、 星を鏤めてきらきらと月の下へ揺れかかって、神女の、月宮殿に朝する 姿がありありと拝まれると申します。」「霜のように輝いて、自分の影の 映るのが、あたらしいほど甲板。湖水はただ渺茫として、水や空、南無竹生島 は墨絵のよう。御堂の棟と思い当たり、影が差し、月が染みて、羽衣のひだを みるような、、、」と夜の湖水を表現している。 「前後に松葉重なって、宿の形は影も留めず、深き翠みどりを一面に、眼界 唯限りなき漣さざなみなり。この処によずるまで、手を縋り、かつ足を支えた、 幹から幹、枝から枝、一足ずつ上るにつれて、何処より寄することもなく、 れん艶たる波、白帆をのせて背に近づき、躑躅を浮かべて肩に迫り、倒さかさまに 藤を宿したが、石の上に、立ち直って、今や正に、目の下に望まれた、これなん 日の本の一個所を、琵琶にくぎった水である。 妙なるかな、近江の国。卯月の末の八つ下がり、月白く、山の薄紅、松の梢に 藤をかけ、山は翠の黒髪長く、霞は里に裳もすそを曳いて、そよそよとある風の 調べは、湖の琵琶を奏づるのである。」 |
日々の記録16(旅つくり、水の文化
旅つくり応援サイト ①ファインドトラベル https://find-travel.jp/ 旅をテーマにした記事の投稿、閲覧が出来る。⇒比良八講や歴史ハイキングなどで 住民としての旧志賀町のミニコースのPRと旅企画の実施。 行き先や好みに合わせて記事を検索し、幅広く情報が集められる。 ②トリプロ http://tripro.me/ 目的地などを入力すると実際にそこを旅した人が投稿した日程と周辺の観光地の 情報が一覧される。 ③ウェブトラベル http://www.webtravel.jp/ 目的地や費用、日数などを入力すると旅行のプロが無料で日程を提案し、 宿泊先の手配もする。 ④旅色コンシェルジェ https://concierge.tabiiro.jp/ 旅の提案と周辺観光地の情報提供、宿泊施設への手配も行う。 ⑤ポケたび グルメに観光スポット、イベント、今スグ予約できる日帰り観光プランなど、全国の旅 のガイドが ある。エリアを選択するか、今いる場所から旅のガイドを探してみる。 旅のしおりに写真を貼り付けると、旅行の後アルバムになる。 SNSに投稿して、友達と思い出を共有できる。 スマホやタブレットで活用できる。 文化庁の日本遺産に認定された「琵琶湖とその水辺景観―祈りと暮らしの水遺産」 で地域振興を図ろうと、『日本遺産「水の文化」ツーリズム推進協議会』がこのほど、 設立された。 「琵琶湖とその水辺景観」は、琵琶湖に「水の浄土」を重ねて多くの寺社が建立され、 今日も人々を惹(ひ)きつけていることが日本遺産として選ばれたもの。 協議会のメンバーは、県、大津市、彦根市、近江八幡市、高島市、東近江市、米原市、 公益社団法人びわこビジターズビューロー、公益社団法人県文化財保護協会で、会長 にはビジターズビューローの佐藤良治会長、副会長には谷口良一県観光交流局長が選出 された。事務局は、県観光交流局に設置された。 今年度の事業として、日本遺産のPRのために、多言語でのホームページや認定 を受けた文化財や施設、見どころなどを解説するパンフレットの作成、多言語対応 観光案内版の設置などを予定している。 なお協議会では国に対し五千九百万円の交付申請を行っている。 ブラタモリ福岡 福岡と博多の違いは、博多が元々あった商人の町、福岡は黒田藩がここに移って きたときに岡山の住んでいた町名を名づけた事から始まる武家の町。 ある橋から分かれる。また、その境目となる石垣も一部残っている。 ここは太閤町割としても有名であり、碁盤のように整然としている。元は砂丘が 海へと延びたまちであり、その砂丘の間を貫いた形になっているのが、 大博通りである。 海へと伸びてきた証となるのが、櫛田神社にある石段であるが、これは海と陸地の 段差をであり、近世にはここから直ぐに港となり、中国や朝鮮との交易が 行われていた。 鎌倉時代に創建された栄西による禅寺の聖福寺は街の一番の高台に建てられたが、 今はむしろ町全体からすればやや低地になっている。数百年の間に、商人の町が 出来、町の地盤が少しづつ上がってくる事で寺の敷地がやや低くなっている ところもある。 そのため、この参道と太閤割りの道は少しズレがある。 また、ここでは弥生時代から奈良、平安、江戸と多くの人が住んで来たこともあり、 何層にもわたり、その時代の遺跡が層ごとに出てくる。 SDGS(持続的な課題解決プログラム) 国連が世界各国で起きている格差や貧困、不平等などを17の分野で夫々連携を とりながら、「誰一人として置き去りにしない」を主テーマとして進めるプログラムが 参加国全員の総意の下で進められる。 今までの国レベルでの様々な格差や課題を国内レベルも含めて解決していく。 これには、先進国も自分たちの国や市民レベルでの意識改革が必要となる。 すなわち、自分たちさえ良ければ、他はどうでも良いと言う自分勝手な行動や発想 の是正が是正が求められる。まだ世界の国の6割以上が貧困化の状態であり、さらには インドやアフリカの一部の国に見られる国全体の経済は良くなったが、格差が広まり、 貧困層が更に多くなっていると言う現実を直視した課題解決が問われる。 だが、国のエゴが優先し、蔓延する中では、中々に困難なプログラムでもある。 国連の強力なイニシアティブが問われる。 ------------ 煌々と光る満月の下、水を切る船端の波の走るのが、黒い鏡面を切り裂き、 白き波の階が、きらきらと月の下へ揺れかかっていく。更に、霜のように 輝いて、沖島や湖岸の淵を揺らし流れて行く。その過ぎ去りし後には湖水はただ 茫漠として、水や空の墨絵となる。和邇浜の松の並木と思い当たり、影が差し、 月が染みて、絹布のひだをみるような静けさを見せる。眼下を一条の光が 左から右へと流れ、家路に急ぐ人を乗せ、遠く白鬚の水面に浮かぶ鳥居を 過ぎ消え去る。ナナといえば、前後に松葉重なり、深き翠に囲まれた松に身を 委ね前足をかけ、かつ後ろ足で支え、幹から幹、枝から枝、一足ずつ上る。 やがて、その頂上付近に立ち止まり、今や正に、目の下に望む光り輝く水面を 見る。2月の寒さの中で、月白く、山の薄灰と松の梢の白き影を見る。 更には、日差しの中にある昨日の情景を思い浮かべ、山の翠の黒髪長く、霞は 里に裳もすそを曳いて、そよそよとある風の調べたる湖の琵琶を奏づる音を聞く。 この雑踏の中で、ふと立ち止まる。さきほど見た大仏の穏やかな顔が浮か んでくる。 多くは薄い緑色に変色した丸みのある顔、半目の眼、やや厚い唇と少し長めに感じる 鼻筋、それらを単に青銅の塊りと言ってしまえば、そうかもしれない。 昭和の頑張れば何かを得られると言う確信に近い思いの中で、この仏像の意味 するモノは何なのだろう。あの横浜の時代に訪れた時も、そして今も、「悉有仏性」 とか「信心正因、称名報恩」を感じることはない。涅槃経の一説にある、「一切衆生 悉有仏性、如来常住、無有変易」、誰でも御仏になれる、と言う。でも、今の彼 にとってどうでも良い事であった。人は何故、死んでなお己の身に思いめぐらすのだ。 生命の死はやがて来るべき避けられない事実であり、松蔭の言うようにその死が若く とも年老いても、それまでに己が何をしたか、を問うべきなのかもしれない。 自分は、何もしてこなかった、突き上げる思いの中で、七十の老いた顔を あらためて見る。白くはげ掛かった髪の毛、弛んだ目尻と薄くなった眉尻、黄色く 濁った眼がうつろにこちらを見ている。頬尻と顎筋は緩やかに曲線をもち、重力に 逆らうにはあまりにも無力な姿を見せている。鬚は辛うじて剃ってはいるが、 下あごの鬚は無造作に伸びきり、無節操な世界となっている。 以前、十一面観音を見たときの心のざわめきは、その美しさに気を取られただけの ことなのか、生活の楽しさ、家族との団欒、仕事への埋没として過ごした30代、 40代、そこに信仰、仏、神の存在はなかった。全てがシンプルに過ぎていった。 人間は勝手だ、と思う。日頃の生活の中で、仏や神の存在を忘れている。 高度成長からバブル、そして平穏な日々の続いた時間、秋の気持ち よい風に吹かれ、春の草花の溢れる中で、人はそれが全て自分の努力の結果と思い 過ごしていく。でも、今の自分はそうではない。そうなった時に突然現れるのが、 仏であり、神という存在だ。 茜さしていく西の空を見ながら、時に頬を触る涼やかな空気の動きを感じ、彼は 吉崎御坊の生き忘れた情景、小松の那谷寺の体験を思いめぐらしていた。ここは、 白山信仰を初めとして、浄土真宗、禅宗など多くの信仰の混在している世界であった。 その中でも、蓮如と言う傑物を得て、「阿弥陀仏後生たすけ給えとたのむ」 信心が極楽往生の直接簡明な信仰のあり方で多くの人を共鳴させ、浄土真宗の国を まで作った。信仰が、力であり心の寄るべならば、今まで自分たちを動かしてきた 思いも信仰なのであろうか、ふとそんな考えにも及んだ。薬師如来、そして 十一面観音などその仏像に接した時、己の心に寄り添う気持が浮かばなかったのは、 不遜と言えるのか、生きることへの何かを得られる事はあったのか。旅の途中で 連れ添った太田さん、黒田さん、又滋賀での生活でも信じる心根についての 話をした記憶はない。俺の信仰は何だ、あの事件以来、更に深まった自身の 無常観のあり様と心の乱れを納むる何か、探しは更に高まっていった。ただ、 それはいまだ己が眼の前には現れない。那谷寺、白山神社、三島大社、いくつか 訪れた寺や神社に彼はその何かを見つけられるのでは、という淡い期待が あったが、それはいつも失望に終わった。全てが幾百年の時代の堆積と 壊れ行く物理的な弱さを見せるのみであった。ある時は、時雨れる中で、 ある時は陽のさんざめく光の中で、また強烈な風の吹きぬける中に、自分はいた。 日本には、古くから山岳を神霊、祖霊の住む世界とする観念がある。白山信仰、 などは、その代表的なものであろうか。水や稲作を支配する霊は山に籠り、 生を受けるのも、死んでいくのも、山であった。超自然的な神霊が籠る霊山 と認識された「七高山」の1つである比良山にも、比良山岳信仰が盛んであった。 北比良のダンダ坊遺跡、高島鵜川の長法寺遺跡、大物の歓喜時遺跡、栗原の 大教寺野遺跡などがある。しかし、そこはただの林であり、荒れた畑であった。 仏教の浸透が深まるに連れて、天台宗の本山系、真言系の当山系などのように、 宗教集団を形成していったが、悩める人のどれほどを救ったのか、今の自分には 見当がつかない。ましてや、生活の中に染み込んだ信仰と言う行為は、流れ行く 旅の人間にはわからない。この白山周辺でも、歴史の中に多くの信仰の形 や行為も埋もれて行ったのではないか。長く続いた祭礼や儀式も人々の思いの 変化で変質し、形のみ残しているが、担ぎ手がいなくなったと言う理由だけで多くの 祭が消え始めているのも事実であろう。残った者は、観光と言うイベント、 客寄せと言う行為がまた、仏や神と言われるものの姿を消し去ろうともしている。 出口のない想いが和邇の心に現れては、消えていく。それは、彼の横を過ぎる 人と同じであった。果てしなく歩いたようにも思えた。 いつしか彼は、人々のささやかな営みとそうした営みに付随する孤独さこそが 自分の胸を打ち、優しい気持ちにさせてくれる事を感じ始めていた。 ある意味彼にとってそれが神や仏の恩寵であり、この世は、生きることに何かを 求める人々で成り立っている。そして、ある人の人生が平凡に見えるとしたら それは、その人が長いことそん思いの中で生きてきたからに過ぎない。 今や和邇は、人は皆同じであり、同時に唯一無二の存在であるという事実、 そしてそれこそが人間である事のジレンマだという事実をうけいれはじめていた。 そして、その事実の受け入れを助けるのが、信仰ではないのか、差し出した 右足の先にそんな考えがあった。 雑踏と人息れのなか、茫然と立っている自分がいた。周りは同じ年頃の女の 子、 白いシャツに長めのスカート、まだ清楚と呼ぶ言葉が生きている。多くの女性が 髪は肩まで少し短めに切っている。しかし、その外見と違い、頬を紅潮させ、 舞台に向ううしろ姿、横顔からは、熱き想いと見えないがその強い視線を感じる。 横の彼も際限なく伸びる毛の中に顔が埋まっているような姿であるが、発する熱は 同じであった。黒目のズボンと少し縒れた黒いシャツは、誰も一様な恰好で、 普段七三分けで折り目のあるYシャツの姿しか見当たらない世界からは少し違うが、 相通ずる心のひだの触れ合いがあった。少し先にある舞台からは緩やかなテンポで、 ギターを弾き、話しかけるような口調の歌が聞こえてくる。「高石友也オンステージ」 と言う垂れ幕が申し訳なさそうに風に揺られていた。揺れ動く人波、淡い照明の中で、 ギターを弾き語る青年、弦月の光がそれらを撫ぜるように上手から下手へと流れる 音にあわせさざ波が寄せるが如く過ぎていく。飾り気のない舞台、どこにでもある 学園祭的な雰囲気の中、静かに揺れる人の波、しかし、その目には新しい自由と言う 世界の中で、自分を見出そうとする輝きがあった。未来と言う希望が彼らの前に 広がっていた。周辺で聞き入る女性たちも、薄化粧と色合いの少ない服装ながら、 体全体から発せられる熱が、和邇の肌にも直接染み込んでくる。彼は熱いと思った。 フォークソング、懐かしい響きであり、数10年の熱さが体のそこからじわりと あがってくるのを感じた。心にも判然としない熱さがわきあがる。 測定器や半田に囲まれた歌にはあまり縁のない生活ではあったが、 「帰って来たヨッパライ」「山谷ブルース」「六文銭」と幾つかの曲だけは 聴いていた。工場に出かけ、設計を夜までして帰るだけの生活の中で、ベトナム 反戦など世の中は少し騒がしかったが、工場と寮の間を往復する毎日。 しかし、モノを少しづつ形作っていく面白さは格別であった。その様な日々でも、 世間とのつながりの一つがこのようなフォークのコンサートに出かけること であった。日常の何気ない生活、ちょっとした苦労の世界、日本語で それを語られると不思議と身体に入ってくる。回りの熱さも、彼をして 普段の自分にはない、自分を感じられた。限られた空間であり、いわば、 世間知らずの自分にとっての世間の生らしい姿を味わえる時でもあった。 狭い空間の中で、それでも自分の行く先には何か希望がある、そんな勝手な 思いだけが日々の自分を動かしていた。その呼吸の隙間を埋めるものの一つが フォークであり、写真であった。そんな日々が5,6年続いた。そして、 家庭と言う新たなる世界に身をおく事になる。 見える花しょうぶの白と紫が夜光灯の光の中で、揺れ ている。 春の温かさに誘われて、それは妖艶な光の世界のような気がした。後ろの 部屋では、また子供たちがおもちゃの取り合いで騒いでいる。 既に、関西に来て1年経った。妻の親戚が近くに新築の家が建ったが、 買い手がつかない、こちらに来るのであれば、直ぐにでも入居できる、 と言う話が妻からされた。横浜のアパートを引き払う直前に、そちらに 移る事を決めた。京都市内から30分ほど、大阪の事務所までは1時間少し の場所である。5里の里と言われ、京都から奈良へ通ずる街道の宿場町 として栄えたそうだが、今は四方を畑と田圃に囲まれたいわゆる新興住宅地、 ここから新しい自分が始まったのかもしれない。設計の技術者として、日夜設計図と 様々な機械に囲まれた日々から、人を相手とする営業の世界への転身でもあった。 「お前は営業なんて無理だ」と上司や役員から散々言われたが、何とか過ごしてきた 1年でもあった。ビル街と生駒を遠くに見、緑の世界で週末を過ごす日々が 続いていた。世の中は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という本に 見られるように日本の高度成長の素晴らしさを讃え、一日本人としての誇りを くすぐられる日々でもあった。更には、プラザ合意という中での円高による 日本の危機もテレビや新聞で色々と報じられていたが、私の心には「頑張れば もっと生活が良くなる、子供たちを幸せに出来る」と言った明るい気持が 先行していた。給料の増加が毎年あり、妻の顔も心なしか晴れやかな表情であった。 当時は「幸せとはなにか?」と言う理屈はいらなかった。毎日の生活がエレベーター で上がるがごとく、下がる事の心配がなかった、今にして不可思議な時代でも あったのだ。宇宙戦艦ヤマトに長男と楽しみ、機動戦士ガンダムやドラゴンボール に息子たちと悦に入り、何度となくプラモデルを作った時代でもあった。 これが、家庭の幸せでもあった。仕事は多忙を極めたが、息子たちと明日の 楽しみを分かち合う日々でもあった。 仕事は、「変化がビジネスを生む」、まさにそんな時代になって行った。 規制緩和、電電公社などの民営化、更には新幹線の整備で東北から九州まで伸び、 関西国際空港の建設開始、などあちらこちらから槌音が響き、大阪にいる自分にも その音が聞こえてくるようであった。この頃から田舎の道も土からアスファルトへ 変身した。四国へ行くにも瀬戸大橋を使いよく高松まで出かけた。また、ふるさと 創生とかいう大盤振る舞いがあり、地方の支店でも商売をもっとやれ、と本社から 檄が出たものである。さらには、ベルリンの壁が市民の手で壊されていく映像は、 多くの人に驚きを与えたのではないだろうか、皆が今までと違う新しい世界を 感じ始めていた。食事の時にその映像を見ていた長男が、みんなが壊している、 といった言葉は今でも耳の奥に残っている。この時代でも既にイジメはあった。 「葬式ごっこ」を再三受けていた中学生がトイレで首吊り自殺をした。しかし、 それは一つのエピソードとして社会から抹殺された。さらに、似た様なことが 長男にも起きた。毎日がどんちゃん騒ぎの中で、30代そして責任ある40代と 時代の流れに乗っているだけでも楽しさがあった。だが、この騒ぎから離れ、 この祭はいつまで続くの、冷めた感情が徐々に芽生えていった。豊かさの 影に社会の荒廃が見え隠れしていた。中学生に教師が殴られ、脅かされるという 事件が大々的に報道されていた。しかし、和邇にとってそれは他人事であった。 職場の雰囲気も少しづつ変化を始めていた。周りには、女性スタッフが増え、 ただ仕事だけに埋没する事に疑問を持つものが増えて行った。部下の何人か、 会社の同僚にも自分探しに会社を離れるものもいた。関西に来て以来、一緒に 仕事をしてきた若い部下も、故郷の高知へ帰るといって姿を消した。 その後、何回かの年賀状はもらったものの、今彼は高知の空の下でどのような 生き方をしているのであろう、ふと脳裏に浮かぶ彼の晴れやかな顔、一度は 見てみたいものだ。 「おいしいことに理由はない。好きなモノは好きだ」、そんな言葉が新聞を 賑わしていた。「新人類」という言葉がなんとなく受け入れられる雰囲気で もあった。帰りの一杯に付き合わない、職場の旅行にも行かない、マイペースな とらえどころのない若いやつら、ベテランからはどうしたものか、酒の席の 話題の一つとなった。新聞記事の中にも、「戦争も学生運動もなく、何かに 胸を熱くしたり、それで深く傷ついたりした事がない世代。だからいつも 手探りで臆病で、そのくせイイカッコシイでもある。同じブランドの着て安心 する反面、着こなしの違いを強調する」など、毎日飲み屋でその日の憂さを 晴らしているオッサンの世界にまとわりつき、横構えの態度で接する若い連中。 和邇や妻が郷愁を感じるフォークソング南こうせつ「神田川」のつつましい 質素な世界は既にない。 俺は単純だったな、ふと和邇は思う。関西での仕事は、川崎の上司らが心配 したのが、全くの思い過ごしであった。新しいビジネスモデルを考え、会社を 作ったり、システムを構築したり、ただひたすら売り上げを上げることに 邁進していた。それが幸せであった、この数年の自らの自堕落な生活の中にも、 体の底からわき上がる軽きそして甘酸っぱさを含んだ想いでもあった。3年前 病院から帰ると直ぐに、書棚にうず高く積まれていた1500冊ほどの本を ブックオフに売り渡した。今までの自分と決別したい、と思った。 しかし、それが古き思い出を面倒だと思いきり棄て去って来た過去の自分の あり様と気づいた。それが今までの自分の生き方であった。 眼の先にあるのは家族5人との楽しい団欒であり、新しい会社や事業を始めた ときの喜び、そこに過去は何もない。あるのは、遠く先にあるべき豊かな 生活であった。しかし、今は埃と蜘蛛の糸しかない本棚から過去の自分の有り様 がまざまざと浮かんだ。捨て去って行った先人の智慧、本に残した強い想い、 智慧に触発された時の自分の心、それは変色した紙面の中に潜んでいた、ずっと 和邇の手がそれに届く時まで。 さらには、まだ残っているわずかの本たち、「脱工業社会の到来」「第三の波」、 「ネクストソサエティ」など、すでに掠れて読めないほどの背表紙のいくつか、 が自分の出番を待つかのようにこちらに顔を向けている。 今、手にしている「1991年12月28日の新聞記事」、わずかに残っていた 本の中から出てきた。まるで、この時機にあわせたように。 「満足を共有できない社会 それぞれが、豊かさをいささか持て余しながら、 自分だけの小さな世界で、そのはけ口を求めている。若者は独特の省略言葉で、 大人をけむに捲き、世界十大ニュースの上位に女優のヌード写真集を選んだりする。 、、、、価値観の多様化、といえば聞こえはいいが、それはある意味で、連帯感 や潤いに欠けた未成熟社会の姿でもある。戦後復興から高度成長期、国民は 「豊かさの実現」という共通の目標に向け、貧しいながらも充実感を共有した。 だが、今やゆとり志向、生活大国への道は遠く、当面共有できる目標は 見当たらない。」 和邇自身、40代半ばの仕事に埋没していた時期である。新しい事業の仕掛けや お客の接待での午前様帰り、朝の四時までバーで飲み明かし、家に戻って6時には また家を出る、あのときの姿が眼の前に映し出される。しかし、ふと我に帰る一瞬、 自分のいる場所がわからない事があった。 「宴の裏に悪魔が住んでいた バブルは金銭感覚だけでなく、社会全体の倫理観 を荒廃させ、ルール無視のやり得の風潮を、拡大再生産した。、、、、、、 富士、東海など大手都市銀行を舞台にした不正融資の総額は、ゆうに一兆円を 超す。産業を支え、堅実一筋だた銀行に何が起きたのか。橋本富士銀行頭取は 国会の参考人聴取で「背景には収益至上主義の経営方針があり、現場が業績偏重 に傾斜しすぎていた」と頭を下げた。」 今も、テレビや新聞から聞こえてくる企業の不祥事は30年近く経とうと変わりない。 俺も含めて人は学習しないな、天井の薄汚れた姿を見ながらふと呟く。そして、 妻との亀裂を生じた不倫騒ぎも、彼の心をふと過ぎっていく。何回かの逢瀬で あったが、肉体だけのつながりはその破局も早い。夕闇の中で遠くを見据え、 その姿を見ようとするが、白いプロジェクター幕には何も映し出されない、そんな 自分がいる。無秩序に伸びた頭毛と鬚は既に白くちじれ、赤黒く盛り上がったまぶた の下にはうつろな眼が鏡を通してこちらに向いている。口は締まりなく半開きとなり、 うすく涎のあとが見える。全てが幻想の人生だった。 「豊かな社会の底が見えた 景気拡大は、五十七ヶ月のいざよい景気を上回った。 だが、それが後退局面にあることは、経済企画庁も認めている。企業倒産は 十一月末で約一万件、裁判所への個人破産の申し立ても、一億六千万枚を超えた カード社会を背景に激増した。今年の世相を見ると「豊かさの底が見えた」との 印象が強い。勤労者世帯の平均貯蓄高が、初めて一千万円を超えたが、マイホームは なお高嶺の花だ。人手不足もますます深刻化、過労死も話題となった。」 この時期、和邇は浮かれていた。今まで仕掛けた様々な事業が売り上げとして大きな 数字を生み出していた。「俺は優秀だ。一つのグループで二百億円以上の売り上げが 上げられるか、俺しかいない」。 眼を閉じれば、この1枚の黄ばんだ新聞記事から華やかだった頃の姿が、想いが、 体の奥底から沸き起こってくる。眼を開きたくない、心の底からそう思った。 恐る恐る眼を開ければ、そこは全てが無秩序で、テーブルの上には食べ残しの ラーメン、足下には悪臭が漂う服の山、キチンには積み上げられた皿や鍋の 山、全てが現実の世界として存在していた。 右を見れば、遠く微かに鈴鹿の山並がどこか頼りなげに薄く延びている。 さらに眼を左へと緩やかに転じていく。三上山の形のよい山姿が静かな湖面の 先に浮かび上がる。その横には八幡山と沖島が深い緑の衣に包まれるように 横たわっている。更にその横奥には、御嶽山を初めとする木曾の山並が 薄く横長に伏せており、その前にはその削られた山肌が痛々しい伊吹の 山が悄然と立っている。全てが琵琶湖の蒼さを照らし出すように薄明るさの 中にあった。よく見る光景だ、和邇は思った。だが、一転空に眼を向ければ、 秋にしか見られない素晴らしい舞台があった。遥か上には、櫛を引いたような 雲が幾筋もその軽やかな形を見せている。その下には、繭がその固い形を ほぐすような雲がふわりと浮き伊吹の上からゆっくりと比良の山に向って流れ来る。 さらに、しっかりとした二本の飛行機雲を切り取る様に、その下をやや黒味 のある雲がこれも比良に向かい素早い流れで和邇に向うように流れ来るのであった。 ここから見える空は平板としてその奥深さを知る事は出来ない。しかし、 いくつもの雲の流れがその空の深さを示すようにお互いを遮ることなく流れ すぎていく。久しぶりに見る、感じる空の景観であった。 今更ながらと和邇は思う。ある心理学の評価で5,6年前に自身の強みを 見たことがある。将来の見通し、希望・楽観主義・未来に対する前向きな姿勢 と精神性・目的意識・信念のの3つであった。これは、以前にやった自身の評価 と概ね一緒であった。ある調査会社が長年に渡って実施してきた調査によると、 仕事を最も効果的に行うのは、自分の強みと行動を理解した人たちは、仕事や家庭 生活で日々求められていることをやりこなす戦略的な能力に優れているという。 自分にどのような知識やスキルがあるかを確かめることによって、基本的な能力は わかるが、自分の本来の資質「自分だけの特長的な資質」は、上位5つとのこと だった。 「最上志向とは、優秀であること、平均ではなく、平均以下の何かを平均より少し 上に引き上げるには大変努力する。収集心は、あなたは知りたがり屋であり、あなた は物を収集する。あなたが収集するのは情報、言葉、事実、書籍、引用文等 あらゆるもの。更に、内省は、あなたは考えることが好きであり、あなたは頭脳 活動を好む。あなたは脳を刺激し、縦横無尽に頭を働かせることが好き。 そして、目標志向がある。これは、「私はどこに向かっているのか?」とあなたは 自問し、毎日、この質問を繰り返す。最後には、戦略性があり、戦略性という資質 によって、あなたはいろいろなものが乱雑にある中から、最終の目的に合った最善 の道筋を発見することに長けている」だそうだ。 でも、これが何だと言うのだ。乱雑に何もかもが置かれ、台所は混乱の極みとなり、 わが猫たちはそのひもじさに和邇に向い、鳴き訴えることで過ごしてきたが、やがて この男に頼る事は出来ないと外で食べ物を漁る道を選んだ。日が昇り、やがて赤く 染まる部屋の中で、ただ座るのみの生活、まさに座して死を待つ状況である。そんな 俺に、何が5つの強みだ、そんな事を考え過ごしたのが遠い昔の自分にあった、という こと自体が今の和邇にとって、不思議でもあった。あの事件以来、彼は死んでいた。
日々の記録17(消える祭、ゲストハウス、過疎地での試み
3/1付の読売新聞奈良版に、こんな記事が載った。見出しは《「天誅踊り」存続ピンチ 尊皇攘夷 急進派しのび100年 高齢、過疎化 後継者不足に》。 《五條市の旧大塔村天辻地区で、明治維新の先駆けといわれる天誅(てんちゅう)組の遺 徳を偲(しの)び、100年以上にわたって続く「天誅踊り」が存続の危機に立たされて いる。高齢化や過疎化が進んで後継者不足となり、最盛期に約40人いた舞踊経験者は 4人になった。住民たちは「このままでは、伝統ある踊りが途絶えてしまう」と懸念し ている》。 《尊皇攘夷の急進派集団だった天誅組は、1863年に大和五條(現五條市)で皇軍の 先陣として決起。五條代官所を襲撃して気勢を上げたが、政変によって幕府軍に追われ 、鷲家口(現東吉野村)で壊滅した。市内には天誅組ゆかりの戦跡が残り、天辻地区で は、本陣跡が地域のシンボルにもなっている。本陣跡では、毎年夏に盆踊りの恒例行事 として、天下国家のために散った若き志士たちを弔う天誅踊りが披露されてきた》。 伝統のどんと祭消える 仙台・北根妙見神社 どんと祭を開催していた北根妙見神社前の広場 宮城県内各地で14日、小正月の伝統行事「どんと祭」が開かれるのを前に、仙台市 青葉区北根の北根妙見神社で、祭り開催が取りやめになった。御神火をたいていた広場 が、ことしから使えなくなったためだ。地元住民からは「地域のお祭りがなくなって寂 しい」との声が上がる。氏子は近隣の神社に参拝するよう呼び掛けている。 北根妙見神社は、藩制時代の1627年に建立。伊達藩が相馬藩から戦利品として持 ち帰った妙見尊像をまつる。道路の拡張工事に伴って約30年前、地元企業によって現 在の場所に移された。 社務所は町内会の集会所も兼ねる地域の活動拠点だったが昨年3月末、企業と町内会 との無償貸借契約が終了。どんと祭が行われていた約100平方メートルの広場や社務 所の建つ土地を企業側に返還した。拝殿など一部の土地は今後も残る。 どんと祭には毎年約800人の地元住民が訪れ、甘酒やめざしの瓦焼きが振る舞われ た。北根地区のほか隣接する双葉ケ丘や黒松からも住民が参拝に訪れたという。 近くに住む宮城教育大付属小4年の蘇武周君(10)は「どんと祭には家族と一緒に 来ていた。もう来られないのは寂しい」と話す。地元で生まれ育ったという会社員の加 茂敬司さん(39)は「幼いころから続いていた貴重な地域の祭りだったのに…」と惜 しむ。 氏子の庄子実さん(77)は「移動手段が限られる近隣のお年寄りには不便を強いる ことになり申し訳ない。神社は変わらず残るので、これからも地域の神社として親しん でほしい」と説明。正月飾りは泉区の二柱神社などへ焼納するよう立て看板などで案内 している。 市によると、市内のどんと祭開催場所は2005年が157カ所、10年が148カ 所、ことしは143カ所と減少傾向にあるという。 消えゆく祭り・集落の現実 五穀豊穣、無病息災を願う伝統の祭りに異変が起きている。 香川・坂出市「北条念仏踊」、三重・熊野素「二木島祭」、鳥羽市「火祭り」、岐阜・ 高山市「日本一かがり火まつり」、栃木・茂木町「百堂念仏」など開催できない祭りが 増えている。 三重県鳥羽市「火祭り」(国指定重要無形民俗文化財、提供:鳥羽市教育委員会)は4 00年以上続く祭りだが、今は取りやめられている。 石川県能登半島・キリコ祭りを紹介。 能登の300余の集落で受け継がれ、今年文化庁の日本遺産に認定された。 しかし過疎や高齢化で担ぎ手が減少し、現在では“60の集落”でキリコがなくなった といわれている。 祭りは集落の住民が一堂に集う貴重な機会だったが、祭りがなくなり住民同士のつなが りが薄れているという。 高知・仁淀川町・椿山地区では600年続いている「椿山太鼓踊り」に他の集落の住民 が地元の人から踊りを習って受け継がれている。 祭りの担い手をインターネットで募集するサイトも登場。 今年4月に開設され全国から担い手を募集している。 8月には北海道・八雲町「根崎神社例大祭」に4人の女子大学生が参加するなど成果が 表れ始めている。 地域伝統芸能活用センター・矢田部暁主任調査員のコメント。 東京・中央区の映像。 芳賀日出男「日本の民俗暮らしと生業」より 「私はかえりみると、写真家としてきわめて狭い道をたどりながら歩いているような気 がする。20世紀の後半になっても変化のおそい習慣がわだかまっている日本人の暮らし ぶりにひたすら写真の視線をむけてきた。 そこには人々が毎年くりかえし続けているハレとケの生活のリズムが見える。...... ....就学して私は教室の片隅で折口信夫教授の国文学の講義を受けることになった、は じめのうちは全く事業の内容がわからなかった。 それでも折口の上方(かみかた)言葉の含みのあるやさしいイントネーションに引き 込まれて授業に出席し、講義に耳をかたむけた。東京弁の歯切れの良さとはまた別の優 雅さがあった。くりかえし語る「依代(よりしろ)」とか「御霊(ごりょう)」という 言葉を聞くうちに、母国の古代からの神秘的な信仰がわかりかけてきた。 あるとき折口は講義のなかで語った。 「神は季節の移り目に遠くから訪れ、村人の前に姿をあらわします」と。 本当だろうか。もしそうなら、写真に撮ることができるかもしれない。今にして思えば 、折口の学説の根幹をなす「まれびと」論であった。 私はそのひと言に目覚める思いがした。」 国津神事 福井県三方群三方町 (上巻14ページ) 当夜での祝宴を終え、村立ちをする。朝からの振舞酒でみんなうかれて楽しそう。 大事な御幣をかかえ、氏神の境内へと練り込む。 限界集落の現状 NHKで中津江村の一人暮らしを支えるNPOの映像があった。ここは昔は金山もあり 、 一時は8000人以上の人が移り住んできたという。しかし、今は870人ほどが 住み高齢化比率が6割近くとのこと。多くの年寄りはこの生まれ育った家や村から 離れたくないと1人で頑張っている人が多い。その支援をするために「ちょいてご (ちょっと手伝う)」という考えで支援をしているグループがある。中心メンバーは 大阪で事業をしていたが、体を壊し、ここに移り住んできたと言う40代の男性。 多くの過疎地でよく見られる風景であり、課題であるが、結局は自分たちで 解決するしかない。でも、彼のような人が一人づつその様な村に行けば、また違う 風景になるかもしれない。そんな事を考えさせるレポートであった。 ゲストハウスの急増 外人向けを中心に全国でゲストハウスが増えている。今は600軒以上もあるという。 ゲストハウス紹介のコミュニティサイトもある。東京で開催されたゲストハウス 開業のためのセミナーには多くの、特に若い人が参加していた。 IターンやUターンなど含め都会生活に馴染めなくなった人が多くなっているのであろ う。 また、外国人も単なる観光地めぐりでは本当の日本の生活が分からないと、 サイトの評価なども見ながら、訪れると言う。例えば、須坂市の茂野町では、 観光向けには何もないのであるが、街の人全員がおもてなしの心で接しており、 それがクチコミ的に広がり、外国人の訪問が多い。 ゲストハウスと言えども、旅館業であり、その関係の資格やノウハウが必要ではあるが 、 地元で世界の人と楽しめることが嬉しいというオーナーがいた。多分、これが 彼らを動かしている動機であり、エネルギーなのだろう。 時間は掛かるが、この志賀の里でもこれをうまくやれるベースはある。 単に観光客を呼び込むことにのみ時間を費やすのではなく、このような地域全体の つながりで人に来てもらう事を考えるのも重要なのでは。 ---------------- 海の匂いと森の呼吸が息づき、土の壁が身を寄せる鎌倉文化と総称される小さ な 世界である。何10年ぶりかの鎌倉であった。 鎌倉は多くの癒しを与えてくれた場所である。 能、お茶とわずかではあるが、日本文化の香りを嗅がせてもらった場所でもある。 四規(和敬清寂)、七則(茶は服のよきように点て、炭は湯に沸くように置き、 冬は暖に夏は涼しく、花は野の花のように生け、刻限は早めに、降らずとも 雨の用意、相客に心せよ)の言葉も始めて知った。 特に、「寂、すなわち静かでなにものにも乱されることがない不動心を表しています。 客は静かに心を落ち着けて席入りし、床の前に進む。軸を拝見しそこに 書かれた語によって心を静め、香をかぎ花を愛で、釜の松風を聴く。 そして感謝を込めてお茶をいただく。こうした茶の実践を積み 重ねていくことによって自然の中にとけ込み自然を見つめ、自分をも深く見つめる ことができます。まさに自然と同化することによって寂の心境に至るのです。 心に不動の精神を持っていれば、どんなことにもゆとりを持ってやっていける という心の大きさが生まれます。そうしたゆとりの中にこそ、茶の道が奥深く 開けてゆくことでしょう」とにこやかに微笑む先生の顔は神々しくも見えた。 ものを新しく創りだす事に自負はあったものの、単なる仕事馬鹿の自分を あらためて突きつけられたような気もした。白くか細い腕が進めるお茶の 香りとは別に強烈な力で頬を打たれた気分となった。 昔と変わらぬ江の電の横を歩き、極楽寺駅を通り過ぎながら家族で降り立った頃の 紫陽花の花の紫を思い出した。極楽寺坂は坂の両側に土の壁がせまり、壁に沿って 蔦や藤蔓が忍び落ちてくる。その緑の壁を彩るように数輪の百合が白い光を 発していた。静寂の中に彼はいた。これが、鎌倉だと思った。電車のような細長い 建物があり、中からコーヒーのまろやかな匂いとともに人のさざめく音が 微かに聞こえてくる。その出窓から中を見れば、古時計やアンティークな人形 が見えた。やがて観光客相手で賑わう鎌倉駅前の喧騒を避けて丸七商店街で、 消えて行く昭和の香りをかぐ。昔のままの狭い通路にひしめく飲食店や雑貨店は、 橙色の裸電燈に値札の紙が薄明るく照らされて、行きかう人の風で揺り動き、 どこか浮世離れしている雰囲気がある。しかし、この郷愁は、どこからと 立ち止まり行きかう人の波から外れポツネンと思う。 昭和が自分にとって、全てなのだ。あの天皇の崩御のニュースを聞いて大阪に 向った1月の日、それ以前が自分の人生の良き時代のだったのかもしれない。 全てが、自分の考える形で身を結んでいた。 今回も多くの商店街を歩いたり、足の痛みを薄めるために休憩をとったが、通り過ぎる 人の少なさと何か画一的な雰囲気の中で、その印象はほとんどない。 少年時代の駅横の商店街の姿を思い出すようで、何かわからぬが仄々した風情 が伝わってきた。空腹の覚えとともに生しらす丼への強烈な想いがわいてきた。 釜揚げのしらす丼は多いが、生は中々に賞味できない。新鮮なしらすはほんとうに 美味しい。和邇の氷魚の冬の味も良いが、やはり海の持つ味わいは、少し違うようだ。 生姜の絞り汁をきかせて食べるのは最高である。 鎌倉は砂丘の街でもある。二の鳥居から、鶴岡八幡宮の境内まで続く若狭王子、 若宮大路、に沿った一段高くなった参道が段葛と呼ばれている。石塁を積み上げ その塁上を歩けるようにしており、かつては、由比が浜まで続いていたと 言われている。源頼朝が、妻である北条政子の安産を祈願して整備されたそうだが、 当時は、ぬかるみの道でそれを避けるために高い舗道のための道を造ったと言う話も 聞く。ここは、春には桜並木が道路沿いに桜並木を作っているが、今は青々と 風にそよぐ若葉の道でもある。 初めての家庭生活となった横浜の港南台に向うが、途中、紫陽花の花が咲き誇る あじさい参道でも有名な明月院に寄ることにした。門構えも石造りのこぢんまり としたお寺であった。小さき枯れ野と清明な水光る世界の庭と「明月院やぐら」 といわれる岩をくりぬいて作られた珍しい墓所がさわめく葉音の中で、鎮座している。 茅葺の屋根の開山堂も、冴え渡る翠の輝きを受け、チンマリとした座像のごとき趣き でこちらをうかがっている。その家の奥に進めば、丸く繰り抜かれた「雪見窓」が、 自然の生業をその中に映し出し、違う世界を作り出している。 空をべったりと覆う白くて分厚い雲が浜松の街を押しひしぎ、全てのエ ネルギー を吸い取ろうとしているように見える。カフェや屋台が舗道にあふれだし、 人々は肌着1つになって飲んだり買い物をしたりしている。だが、強烈に迫り寄った この年の暑さで彼らの肌は真っ赤に染まっている。和邇はジャッケットを脱いで腕に かけて置いたが、シャツの袖で頻繁に汗を拭わねばならなかった。 草花の綿毛がそよ吹く風さえない空気の中に浮いていた。わずかな日陰を見つけ、 先日からの足先の痛さを少しでも軽くしようとシューズを脱いで腰掛けていると、 60代ほどの男が近づいてきた。手には、黄麦色の泡がはじけているビール を持っている。 「やけに暑いですな、まだ6月だと言うのに」。 「はあ、」その後の言葉が出なかった。この瞬間、見えない壁でも立っていて 欲しいと思った。 「最近、旧の東海道を歩こうかな、て閑を見ながら歩いているですけど、大変ですわ」 男は、こちらの思いとは関係なく、ただ、喋り続けている。 「おたくは、どちらからです、その足、大丈夫ですか」、結構世話好きなようだ、 和邇はそう思った。ゆったりとした白髪に白いあごひげ、どこかヤギに似た 風貌であるが、顔は紅く光り額には数筋の汗がきらめいている。黄色のTシャツに 茶色のジーパンを上手く着こなしているが、和邇よりも年上のようだ。 「滋賀から東京まで歩いているんですけど」ようやく和邇は相手の質問に答えた。 男の顔に黒い影が左から右へと流れて行く。それにあわすかのように、白髪がなびく。 「ほー」、男は太陽を見ながら、ビールを一気に飲み干し、「頑張って」と一言。 あっけないほどの終わりかただ。男が立ち去った後のまだその熱気が残るかのような 舗道を見る和邇、人生はこんなものかな、ふと取り留めない想いが体の中から わいてきた。 白山が青く澄み通る先に静かに横たわっている。檜のそま山がまっすぐ延び る道の 周りを取り囲む様に続いている。少し先から聞きなれた祭囃子の音がゆるりと 流れてきた。芳賀日出男さんと言う村の生活をファインダー越しに見てきた写真家がい る。そのモノクロの写真からは、多くの人の喜びが垣間見られたモノで、和邇が好きな 写真家の1人でもあった。 彼は言う、「私はかえりみると、写真家としてきわめて狭い道をたどりながら歩いて いるような気がする。20世紀の後半になっても変化のおそい習慣がわだかまっている 日本人の暮らしぶりにひたすら写真の視線をむけてきた。そこには人々が毎年 くりかえし続けているハレとケの生活のリズムが見える」。さらには、「あるとき 折口は講義のなかで語った。「神は季節の移り目に遠くから訪れ、村人の前に姿 をあらわします」と。本当だろうか。もしそうなら、写真に撮ることができる かもしれない。今にして思えば、折口の学説の根幹をなす「まれびと」論であった。 私はそのひと言に目覚める思いがした。」。 しかしながら、そんな彼の思いも遠く消しされようとしている。まだ仕事で美浜など に来ていた頃、顔見知りとなった宿の人から面白い祭があるから見に行ったら、と 言われた。国津神事は、三方町の村で古くから行われていた。当夜での祝宴を終えると 村立ちをする。朝からの振舞酒でみんなうかれて楽しそうであった。さらに、 大事な御幣をかかえ、氏神の境内へと練り込むのである。今でもそれは続いて いると言う。柳田國男や宮本常一、芳賀日出男の言葉からは、昭和の初めまで 神、仏の存在を信じる人が少なくなかった事を感じさせる。モノクロで残る各地の 神への祈りや踊り狂う多くの写真は、神、仏の存在を固く信じている人々が いた事をみせている。さらには、芳賀の撮った地方の様々な光景は、今の日本では 余り感じられない自然との調和を信じる人の、身なりは粗末だがそれを苦にしない、 生きることへの強い意志と仄々と立ち上る温かさを見ることが出来る。 村の婚礼の宴にお祝いの焼き魚を右手にもち、左手には縄で縛った豆腐を持って 出かけようとする父親と子供たちのどこか楽しさが伝わる写真、田植えが終り農家 では神棚に三把の稲を供え家族揃ってささやかな祝宴をする「さなぶり」と言う 情景の写真、また、村の祭りに集う人々の晴れやかな顔、狐の面をつけた稲穂祭り、 皆の心が一つになる行事であった。和邇もその最後の見届け人かもしれない、ふと 思う。しかし、多くの「五穀豊穣、無病息災を願う伝統の祭り」は危機状態にある と聞いた。メディアでは、「香川・坂出市「北条念仏踊」、三重・熊野素 「二木島祭」、鳥羽市「火祭り」、岐阜・高山市「日本一かがり火まつり」、 栃木・茂木町「百堂念仏」など開催できない祭りが増えている。三重県鳥羽市 「火祭り」は400年以上続く祭りだが、今は取りやめられている。 また、石川県能登半島キリコ祭りでも能登の300余の集落で受け継がれ、今年 文化庁の日本遺産に認定されたが、過疎や高齢化で担ぎ手が減少し、現在では “60の集落”でキリコがなくなったといわれている。祭りは集落の住民が一堂 に集う貴重な機会だったが、祭りがなくなり住民同士のつながりが薄れているという。 しかし、高知・仁淀川町・椿山地区では600年続いている「椿山太鼓踊り」 に他の集落の住民が地元の人から踊りを習って受け継ごうとする動きもある」が 盛んに喧伝されている。祭は、自分のふるさとの思い出であり、自身の原点 のような気がする。故郷とはいえないが、和邇も母の田舎であった山形の山寺 近くの祭に祖母に連れられその人の多さと人々が放つ熱気が今も体の中に ある、そんな想いが強い。眼を閉じれば、暗闇に揺らめくかがり火と単調な リズムながらこの身を浮かすかのように奏でられる太鼓の音、どこで焼くのか とうもろこしを焼く甘酸っぱい香り、そして私の手をとる祖母の細いが しっかりした腕が何十もの画となって見えてくる。同時に、空に紅く染まる 布の広がりを見せる赤とんぼの群れにただ見上げるだけの私がいる。 それは、遠い記憶から切なさを伴いながら現れた。家の近くの天皇神社の祭礼の 日であった。すでに、春から夏への季節の移ろいが始まり、大きく育った草花が それぞれの花や大きな葉を気の向くまま広げていた。 この頃、彼方此方で春の祭りが行われる。田には水が満ち、稲の子供たちが一列 となって希望の歩みを始めるようだ。今日は近くの神社の春の祭りである。 昨日から我が家にも風に乗って祭囃子の練習の音が聞こえてきた。 ゆるゆるとした尺のテンポと小気味よさを伴った太鼓の連打する音がこれを聞く 人々にもなにか心地よさを与えてくれる。 そして全く雲が一片足りとも見えない蒼い空とともに祭りの日となった。 普段わずかな人影だけが残されている境内には8基ほどの神輿がきらびやかに 鎮座している。その少し先にある鳥居から3,4百メートルの道の両脇には 色々なテントが軒を並べている。焼きとうもろこし、揚げカツ、今川焼き、 たこ焼きなど様々な匂いが集まった人々の織り成す雑多な音とともに一つの 塊りとなってそれぞれの身体に降り注いでいく。やがて祭りが最高潮となると ハッピを着た若者たちが駆け足で神社に向って一斉に押し寄せてくる。 周りの人もそれに合わすかのようにゆるりと横へ流れる。 駆け抜ける若者の顔は汗と照りかえる日差しの中で紅く染め上がり、陽に 照らされた身体からは幾筋もの流れとなって汗が落ちていく。 神社と通り一杯になった人々からはどよめきと歓声が蒼い空に突き抜けていく。 揚げたソーセージを口にした子どもたち、Tシャツに祭りのロゴをつけた若者、 携帯で写真を撮る女性、皆が一斉に顔を左から右へと流していく。 その後には、縞模様の裃に白足袋の年寄りたちがゆるリゆるりと歩を進める。 いずれもその皺の多い顔に汗が光り、白髪がその歩みに合わし小刻みに揺れている。 神社の奥では、白地に大宮、今宮などの染付けたハッピ姿の若者がまだ駆け抜けた 興奮が冷めやらぬのか、白い帯となって神輿の周りを取り巻いている。 私の横には妻がざわめきの中にいた。何の屈託もなく、晴れやかな顔の人たちと 同じ様に、晴れやかな姿を見せていた。 そんな想いを頭にかすめながら、和邇の足は、その音のほうに向っていった。 和邇は、横浜から栃木、川崎、横浜、京都、滋賀といわゆる流浪の人 でもあった。 今いるこの地でも、自分は風の人、とたえず思わされてきた。営々と続いて来た その地の文化、人のつながりの奥深いところにある襞には今でも触れられてはいない。 特に病気以降、地元の人とのつながりを深めようとしてきたが、たかが数年で それが出来るわけではない。悔恨に似た掴みきれない何かがいつも彼の心の 襞のどこかに住みついていた。そして、それが腎臓を少しづつ腐食して行った あの病気と同じ様に次第にその黒い襞を広げている様でもあった。そして、それが あの4年前の事件で彼の心と身体を更に深く蝕んだ。 小さな雲の塊があたりにいくつもの陰を落としながら走りすぎていく。 かなたの小さな峰峰に指す光はすすけてようで霞んだ緑が続いている。その中に、 小さく仕切られた畔道が、幾十にもなって重なり合いながら地平線を形作っている。 そして、その夫々にはこの地を守り耕してきた人々の想いがあるはず。彼の知らない、 だから、想像するしかないたくさんのものを思い描いた。道路、畑、森、小さな山並 そして、何代となくそこに足をおろした多くの人間たち。 昭和初めまでは、まだ多くのハレやケの日々を過ごしていた。稲は自分たちの命を つなぐものとして、多くの儀礼を作り出した。正月の仕事始めの日に、農家の主人は 田に出て、鍬先を数度田に入れて耕すマネをする。田の神に農耕の姿をお目にかけ、 豊作を祈るのである。「鍬入れ、春田打ち、農立て」などといわれていた。 田に種籾を播いた日には、「種まき祝いや水口祭り」をする。さらに、田の神を 招く田植え祭り、稲が穂を出し始める7月上旬には、害虫の発生がないように 「虫送り」をし、「雨乞い」「風祭り」、豊作感謝をあらわす「穂掛け祭り、新穂花」 、「神嘗祭」と自然への感謝と一体感を高めていく。今聞こえる祭囃子の音も、 その感謝の1つなのであろう。芳賀日出男の「日本の民俗」の様々な写真を見るたび わき起こる心の揺れは、その姿が日本各地で消えつつあるとはいえ、和邇には たえず感じられる衝動に近いものであった。芳賀は言う、「神は祭りの場に降臨 してくる。祭主の祝詞により神は祭りの挨拶を受け、願いを聞く。そして神は 人々に生きるエネルギーを与える。それは神と人との共食であり、芸能である。 我々の生活はケの日常が続くと、活力が失せ、怠惰になる。非日常のハレの機会 の祭日に神と交歓し、活力を得て、日常生活に戻るのである。」と。 共食も交歓も、得られない日々であった。いま旅する彼の想いも同じ様を見せ、 その地での深い仕草を理解できずに過ごしてきた70年の日々と重なり合いながら、 彼の歩みを一層重くしている。心地よい祭り太鼓のリズムとは裏腹に次第に その流れから外れていく自分を強く感じていた。 我が家のベランダには、リクラインの椅子がある。肘掛のところのニスは 剥げ、 やや疲れきった風貌であるが、我が家の全員が愛する椅子でもある。四季を 感じつつ、二十四節気の音を聞きながらこの10年ほどを過ごしてきた。 そこに座ると二階のベランダと張り出した梅ノ木やさくらんぼの木々から蒼く 澄む空と櫛をすいたような軽やかな雲たち、時には厚く黒々とした雲、飛び交う 小鳥たちが一片の額の絵の様に広がり、そこに集う人を優しく包み込み、休息 と自然の優しさを与えてきた。その揺らすたびに鳴るギコギコという音とともに。 眼前の白い壁が薄く光り始め、橙色を帯び、徐々にその明るさを増し、やがて 純白の光となって周囲を照らし出す。その白さと対比する様に、和邇のいる椅子 からは、薄青色の布をかけたかのように空の蒼さが天上に広がっている。その蒼さを 切り取るように四、五枚の枯れ葉が足下に落ちてきた。ふと、1年前、病院で 見た雲清の変化を思い出す。ガラス窓の向こうで繰り広げられる光と雲の 協奏は、茜色から金色に変わり、やがて澄んだ青色へと見る世界を変えていった。 静寂の中に広がる街の朝の顔がそこにあった。活気に満ちた世界を繰り広げる前の 静けさが街を覆っていた。今、この椅子からみる情景もそれに似た空気を 醸し出している。静けさの中にある一抹の希望。希望と言う言葉からは、 以前のような心の躍動はないものの、心は不思議と満たされている。 頭の上では、ひつじやうろこ状の雲たちが広がり始め、やがてその下を灰色の 雄牛の如き雲が二つほど左から右へと流れ去っていく。 俺もあと何年かな、そんな想いが彼の心を過ぎる。 春の梅ノ木を横目で見ながら冬の寒さから開放された喜びを感じつつ甘い香りに 包まれている主人の姿が多く見られ、猫たちは温かさがその陽射しとともに高まる 昼からは先ずハナコが寝そべり、そこへレトがハナコを追い出しに現れる。 その取り合いは、春から秋へと続く。ライはこの2人にお構いなく好きなときに 現れ、先住の猫たちを追い出し悠然とそこに納まる。ただ、夏は夕暮れ時にしか その椅子にはだれも現れない。時が進み、空の蒼さと流れる風、さらに近くの 金木犀の甘い香りが庭を支配し始めると、主人とハナコ、レトの取り合いが 始まる。もっとも、最近のハナコは夜遊びが慣れたのか、夜抜け出し、朝 主人が雨戸を明けるとノンビリと椅子の上で御睡眠している。冬、雪の中で 端然とその冷たい空気に抗うかのように椅子は一人そこにいるときが多くなる。 やがて来る春の木々の音とそれに群れるほととぎすなどの鳥たちの合奏の日々 を待ち続けている。しかし、彼のあるべき姿も後数年であろう。無生物である 彼にも寿命はある。彼のそこにいる価値もやがて失われる。主人やチャトが そうであるように忽然と消え、人々、猫たちの記憶からも消えて行く。
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