2016年10月9日日曜日

日々の記録その1  (野辺、病院から見た情景もあり)

NHKの鶴瓶、家族で乾杯!の放送で、南房総訪問を観た。
房総うちわを作るしっかりものの奥さんとコマ作りの職人さんの
旦那。絶妙の取り合わせ、多分、ここまで来るのには、それなりの時間が
かかったと思うが、素晴らしい。
まだまだ、多くの日本の中に、点在する日本の伝統工芸品を愛し、
創り上げている職人さんがいる。地元の人達とのつながりとその
地方の風土のなかで、楽しく、慎ましく生活する。
今の日本に、求められている姿の様だ。
ご近所には、ガラス工芸の職人さんもおり、何となく、比良地区と重なる。


知のソフトウェアの立花隆より
いくつかの断片的指摘から述べる。
・心がけるベキ事は、自分が何を必要としている、を明確に認識する事。
・人に問う時は、自分が問われている、と認識する事。
・5W1Hは、情報整理と論理構成の基本で有るが、それを総合的組み上げるには
質問者の論理的な創造力が必要となる。
・その1つにコンテを作ると言うやり方も有る。
また、文の流れが見えなくなった時には、徹底的に短文として、それから
あらためて、自分が納得するまで追加して行く事。
・情報は次数が上がる程、精度が落ちて来る。当然、1次元情報を持っている
人との接触が必要である。3次、2次情報者の有効な使い方は、彼らが
持っているより上位の人を聞き出す事。
立花隆が情報のポータブルとして、推奨するのが、
NRIのreserchと言う雑誌。各分野の情報のあり場所がわかるとのこと。

広島の土砂災害
ある専門家の言葉が印象に残った。
昔は、その土地を、いくつかのステージに分別されていたとの事。
もともと、土地は、神との共有に成り立っている。
たとえば、
家の庭ー野良ー野辺ー里山ー奥山ー嶽(タケ)なっていた。
これが、、山村での自然利用の基本となていた。
野良から里山は、傾斜地であるが、奥山、嶽は神に存するものとして、
人間としての利用は考えられなかった。

野良は、平坦な生産場所、
野辺は、傾斜地ながら作物利用の出来る場所、
里山は、利用が可能な樹林地帯であり土砂や水害からの防御的活用、と
考えられていた。昔から言い伝えられ、地域の住民の共有意識で
あったのだ。

それが、経済の原理が働き、その土地を、神との共有ではなく、
単なる資産、スペースと考える様になった。
この考え方は、今の我々には、当然の事と受け取られている。
日本全体がそうなのである。
私達の周辺も、その様な新規開発の場所にあるのだから、とうぜん、
考えなくてはならないのだが、、、、、、?
キチンと意識を持つべき時期が来ているのかもしれない。



9月1日、アサイチを観た。
シニアトラブルと言うテーマであった。
シニアの列への割り込み、親切心から申し入れに対する逆ギレ、携帯電話
での大きな会話などなど。
よくある話ではあったが、気になったのが、年齢に伴う頑固さの増加である。
自身の過去の経験から来るこだわりや肉体的な衰えに対する自己反発である。
60歳からかなりはっきりしてくると言うデータもある様だ。
最近は、ジェロントロジー(老年学)が、結構研究されているとのこと。
参考程度でも、見ておく必要が有る。

そこで、感じたのが、最近の我が奥さんの言動である。この数年前からの態度と
比べると、自由な発想が少なくなり、思い込みが強くなった。
息子達も気づいている様である。
今後、それとなく気にかけて行く必要がある。
特に、来年4月からは、仕事を辞める事も考えて行くと、趣味の充実、付き合いの
拡大、などなど、単なる家の中の事だけで生活をして行くと、今の様な態度では、
ボケと頑固さだけが、強くなり、介護への心配が増える。
特に、藤井の母の病気があの様に酷いものであったし、その娘である事もあり、
かなりの要注意である。


8月28日nhkの15人家族の記録を見た。
衝撃的であった。
今までの自身の行動、考え方を否定された様である。
京都南丹市の子供13人と頑張る夫婦の日常生活の記録であるが、
金銭的には、かなり苦しいと思うのだが、皆さんの顔が活き活き
としている。とくに、夫婦の顔が良い。この親にして、この子ありだ。

我々の世代は、高度成長期と言う流れに中で、豊かさ=お金の多さ?
と言う考えが必然的に出てきた様に思う。
しかし、ここでは、大分違う。
あえて言えば、日本の大家族性が生きていた良き時代がある。
中学校の娘から小学校の娘が、ある意味率先して、家族を世話する。
しかも、下には、8ヶ月の幼児までいる。

母親の言葉が良い。
命の尊さを大切にするため、ここまで子供を創ってしまたった、という言葉。
自身の今までの生活を考えると、その必然性は認めるが、息子3人に汲々としている
現状の姿が、なぜか?哀しくなる思いだ。

多分、この映像をまとめたディレクターは、かなりのポジティブ性の高い人なの
であろう。
幸福とは、何かを、日常生活を撮ることにより、明確に示している。ここでは、
愛情と美徳と言う、考えが似合う様だ。

自身も、いま、第六転換として、次へ進もうとしているが、どうも、浅はかな
自分に気付く。第五転換から第六転換をその延長として、考えて来たが、
全く違う次元のレベルで考えないと、残された時間に対する有意義な結果は
得られない。

まずは、過去の自身の否定がある。
・今までの生活習慣は、自身の能力を徹底活用するための効率性重視
であったが、それを見直す必要がある。
たとえば、起きる時間を5時としても,自分が気持ち良く生活出来るのであれば、
いつの時間でもよいのでは?
・自身の効率性や優位性を考えた場合,自身の規準を中心に進める事が善として、
考えて来た。しかし、まずは、現状への深い理解とそれを素直に反映させる
姿勢、行動の変革が求められる。

当面、考えるべきは、(^-^)/原点回帰への旅(^-^)/に対する上記の自己否定に沿った
見直しである。
・何故、私は歩くのか?歩く行為に対する再度の問い直しが必要である
無目的に、(^-^)/ただただ、歩く(^-^)/事に、終始する。第五転換までにはない、
発想である。
・途中見聞する現状をどう自身の中に取り組むべきなのか?
その街の人々の生活は?nhkの鶴瓶の番組の様な素直な人の姿の見聞、
寂れている商店街、里山などの見聞、触れ合いなど。
これらを第五転換までの自身の行動と同じく、単に通り過ぎる物体?の様に
して行くと、この旅の意味を失い、挫折すると思われる。

これは、潤への対応にも言える。
まずは、潤もまた、原点回帰への悩みを持っている事を認めよう!
そして、何年かかるか?分からないが、それをベースに、自身を
どう変えて行きたいのか?を待つ事とする。
唯一も含め、我々は、それを支援する立場、決して無理強いしない、
で、見守る事とする。結果として、残された唯一、亮に迷惑がかかるかも
しれないが、それは、、家族としてのつながりで、頑張ってもらうしかない。



作家は、五感全部を使う事が必要である。

見えないものを見る。
聞こえない声、音を聴く。
心で触れるものに触れる。
心と眼で味わう。
人の心の匂い、自然の匂いを素直に嗅ぐ。

そして、一番、大事なのが五感にはないが、
心にあるモノ、ありそうなモノ
である。

病院の夜は、静かである。
緊張と希望を交えた静けさである。
無機質な壁と蛍光灯が、周辺の様々な匂いや色を消し去り、
静かな床擦れの音とそれを介する静けさがある。
コトコトと軽妙な音が静かに聞こえてくる。点滴液を運んでいるのだが、希望と勇気
も一緒に運んで来る。
白いカーテンの先から見えてくる僅かな光が廊下を照らし出している。
看護士の白い影が、スーと流れる。また、患者さんからの呼び出しである。



人が、行く。実体はあるのだが、何かあるだけのモノ?
病院は、病気と言うキーワードでつながる非日常の世界でもあり、
患者もいる、見舞いの人もいる。
服装も色とりどりであるが、それを解き放つと人が覆い隠している
姿が垣間見えて来る。
それぞれから聞こえてくる声を聴いていると、その人の過去と
日常の生活が何となく、感じられる。

夫々が夫々の空気を持っている。たとえば、
永く闘病している人の空気は薄く、透明度が高い。
今入院した人の空気は濃密である。
圧倒される濃さがある。
見舞いの人の空気は、何故か?汚れている。
まるで、ウィルスや病原体が、攻めて来ている様な感じもある。

とくに、エレベーターの様な凝縮した空間では、それが、顕著だ。
心にある何がしかの声、不満、妬み、失望、喜び、などが一挙に
その空間に充満する。

雲が様々な色合いを持つ木々に、時には、深く、時には、白く、時には黒い不安な
影を落としながら、流れて行く。
今日も、日差しは雲の兵隊達に阻まれ、その雄姿を見せてくれない。
しかし、既に、
人間世界の営みは始まっている。木々の間に無様に広がる無機質なコンクリート
の道を行く車や玩具の様な緑と橙色の電車が、音も無く通り過ぎて行く。
鳥達が風に逆らいながら、我が家に戻るのであろうか、1羽が力強く、羽ばたいて
南へ飛んで行く。
その下を、やや元気のなさそうな人々が、その糧を求めて、歩き去って行く。
車が数台、
その横を我がもの顏で通り過ぎて行く。どけどけ、人間ども、!!

朝靄の中から比叡の顔が覗いている。遠く比良方面には、やや薄い雲の傘が静かに漂っ
ている。
夏の朝が、足元に広がる。朝日を浴びたビルの下を
行きかう人の足取りはやや重い?月曜日とお盆明けの影が体全体に漂っている様が見え
隠れする。

しかし、街は動いている。夏の暑さと比叡から三井寺まで続く木々の彩り、
強い影を落とし始めた朝日が、夫々に縦糸と横糸を織り成しながら、今の街を作ってい
る
様だ。雲の切れ切れとのんびりと飛びかう鳥達の点描の様な変化を除けば、
昨日と変わらぬ日々が続いている。
多分、これが、69年続いた重みなのであろう。当たり前の情景と当たり前の営みが
これから始まる。

鰯雲が、西へと流れて行く。赤い色とやや青みがかったいく筋が比叡の山にへばりつい
て
いる様だ。明日は、天気なのであろう。鳥達も何か、リズムを持って軽やかに飛んでい
る。
少しづつ明かりが灯り始めている。我が家でも、腹をすかした猫族が、大騒ぎをしてい
る
に違いない。まあ、食べる事に関しては、負けない連中であるのだから。
少しづつ増える明かりに合わす様に、空と周辺の趣きは、暗さを増していく。
やがて、夜の帳が、全てを支配し、人々は、夕食の安らぎと明日へのエネルギー
を得て、眠りに着く。
白い閃光が、コンクリートの隙間を走り抜ける。更に、下には、赤いテールランプ
の花が咲き誇っている。
今日の仕事に疲れ、また、彼女との事で喜びを噛み締め、明日の仕事への緊張感
をそのままの人もいる。
やや黒ずみ始めた浮雲と僅かに残った鰯雲が、それを見つめている。
まさに、戦い終わり日がくれての1日が終わるのであろう。

赤い4つの目が世の世界を睥睨するかの様に、光っている。
黒い闇が周りを覆う中、
俺は、世のため人のためによるも寝ずに頑張ている、かの如くである。
高層マンションが少ない中、
その一際目立つビルの上には、今日もま他、いつも通りの光景が広がる。
既に、比叡の山並みは暗闇の中で、後休息か?静かな寝息さえ聞こえる。
黒はあくまでも黒く、
白い光はあくまでも白く、
赤い光はあくまでも赤く、
都市の夜に彩をさしている。

既に、この窓から見る風景も1ケ月あまり、毎日が、ただ、通し絵のように過ぎて行く
。
今日もまた、近くを死を迎えた人が、白い布に包まれとおり過ぎて行く。
死は静かなものである。
病院で死を見るのは、当たり前と思っていたが、違う様だ。
これは、非日常なのである。

そして、
死を覆う雰囲気は、その重さと空気の濃密さは、大分違う。
それは、生命体として、発散していた人間のエネルギーが
失われ、死のみのエネルギーが支配しておるからかもしれない。

患者にとっては、緊急でここへ来たのだろうから、この様な事を言っては、失礼かも
しれないが、その持つ空気と合わせ、体力の低下に伴う日頃の隠し通しておるもう1つ
の
姿が浮かび出て来ている様だ。

また、入院中の人は、更に、
ただ、静かにベッドで、息のみをしている様な人、
様々な器具を付けて、以下にもここにいるのだ、と誇示している人、今だ迎えにこない
親族に
早く来てと懇願し、怒鳴っている老人、金の依頼をそーとしている人、退院の喜びに溢
れている人、
ただただ己の我を通そうとする老人、やや老醜にちかくなりつつある人?

年と言う仮面はここでは通用しなくなるのであろうか?結構。赤裸々な日常生活では
抑制された姿が更に、、強く垣間見える。
気付かない内に、自身の普通の?姿が出て来ている。
ここには、非日常の人間模様があるが、日常人々のつながりも出ている。

そう言う自分もそのプレイヤの1人でもあるが。


比叡の山に、ドカンと灰色の綿飴の様な雲が居座っている。
蒼い水と黒白の水滴の塊、そして、何十となく見える木々の緑の葉達。
緑色にも、これほどの色があったのか、不思議と感激の昼天である。
これから、やがて、赤紫に覆われ、やがて、1日が次の場面になって行く。
平穏な日々が今日も過ぎて行くのだろうか??

また、死が目の前を通り過ぎて行く。
3度目のことか?
ここでは.死は、当然の行為とは言え、あらためて考えさせられる。
まだ、自死に強い関心を持つ私にとっても、避け得られない行為のはずである。
死の持つ空気は、透明な様ではあるが、生きている人間の持つ空気とは、少し違う。
 生命エネルギーの持つ、所謂、人としてのこだわりが無くなるかもしれない。

比叡が泣いているのか?
どんよりとした幾重にも重なった灰色の絨毯の下で、何か悲しげである。
広島の方で、数10人以の人が、山崩れで、亡くなったとのこと。
先日のここでの死は、ある意味必然性があるとは言え、日常性の
日々が、突然の非日常化する事に、人間は慣れていない。

私の死の場合は、個体1つの非日常化ではあるが、それには、日常性
の高いつながりがある。有りていに言えば、私の存在は、
私だけでは無いのだ!連綿と続く生命保持の仕組みの1つなのだ。

ある方が、その様な趣旨のことを言っておられたのを、突然、
思い出した。

目の前に、老人がいる。
白い髪の下には、何10年の楽しさ?苦しみが、静かに見え隠れしている。
薄い赤いシワのある顔には、絶望感よりも安堵感が漂っているのだが、
シワの見える黄色の作業服を、規則的に動かしている。
私よりも、年は、上か?少し半目の状態で、自身の存在を
確認しておる様にも見えるが、その心うちは,わからない。
友達らしき人が,荷物を1つかかえながら、その影で気付く。
お互いの目が合い、2人は、ノロノロと、立ち上がる。
彼らの日常と生活が見えない糸で手繰り寄せる。
無機質な空気と消え掛かった影だけがそこに残った。

いずれ、私もこの様になるのだろうか?!
人間は、孤独な生物とは言え、
やはり人との繋がりには、、、、、、さて、数10年後は。

夏の朝。
静寂が、ある。
西の空には、薄青い空と深緑の比叡のお山の間に、茜色の真鱈雲が幾重にも、
重なり浮いている。人の営みはまだであろうか?
少し上を見上げれば、朝の光に、やや押され気味な、スズメ達が数羽、
東のこれも、ようやく顔を出したお陽様に向かい飛んで行く。

ここ数日、山の稜線がまず、薄く光り始め、その線が色濃くなる情景を
見ている。やがてその広がりは、周辺の神社、ビルに静かに伝わって行く。
街に拡がっていた人工の光を遮り、朝日のひかりが、それらを駆逐して行く。
そして、
突然、東からその圧倒的な力で、すべての暗闇を払い除け、朝日が顔を出す。
そこには、何の躊躇いもない。ただ一直線に、光は進む。

日が少しづつ翳り始めた。
深緑の山裾を薄煙の様な雲が、まるで、高い波に対して、小舟の様に
すり抜ける様にすり抜けて行く。
小気味良く、チョットカッコをつけながら。
しかし、
すでに、比叡のお山には、厚い雲が、墨汁を流すが如く、覆い被
って来た。琵琶湖にその優雅な佇まいを見せていた高層マンションが
あっという間に、かき消される。一瞬の内に、全てが雨の中、鋭く
牙を剥いた水の集団が、凄まじい水音を建てて、眼前を流れる。

日々の記録2)

昨日、ハーバードの人生を変える授業をあらためてよんだ。
ポジティブ心理の考え方を上手く伝えている。
恥ずかしながら、これが心のサービスにつーながるとは、
思いついていなかった。
ポジティブの具体的な理屈はいらない。
その中でも、
・絶えず、ポジティブなこと
・共感と思いやりの心を持つ
・理解し、理解してもらう
・価値ある行動の意識と実行

少し自分を変えて行きたい人にとっては、自身の行動、想いを
変える示唆として、有効と想う。
ぜひ、これをいくつか実践して行きたい。
残された時間は、僅かであるが、まだまだ、欠点、欠陥の多い自分を
感じる。
今日も、また、息子を怒鳴りつけてしまった。反省、、、、。
もう少し、穏やかに話すべきでは合ったのだが。
最後のよき日を迎えるためには、この幾つかをやるべき。


ーーーーーー
小椋桂の山河を聴く。
よい詩である。
小椋桂も70歳とのこと。
人は皆、老いて行く。
しかし、己の生きた証を残せるのは、幸せである。
彼のキーワードは、
Simple、slow、steadyとのこと。
私の場合は、
ゆっくり、と、着実に、と、楽浪(さざなみ)の中で。
かな!
同じ3Sでも、slow、steady、sazanami。

ーーーー

人は皆 山河に生まれ、抱かれ、挑み、
人は皆 山河を信じ、和み、愛す、

そこに生命をつなぎ、生命を刻む
そして終わりには 山河に還る。

顧みて、恥じることない足跡を山に残しただろうか
永遠の水面の光増す夢を河に浮かべただろうか
愛する人の瞳に愛する人の瞳に
俺の山河は美しいかと。美しいかと。

歳月は 心に積まれ 山と映り
歳月は心に流れ 河を描く

そこに 積まれる時と、流れる時と、
人は誰もが 山河を宿す。

ふと想う、悔いひとつなく悦びの山を 築けたろうか
くしゃくしゃに嬉し泣きするかげりない河を抱けたろうか
愛する人の瞳に愛する人の瞳に
俺の山河は美しいかと。

顧みて、恥じることない 足跡を山に残しただろうか
永遠の 水面の光 増す夢を河に浮かべただろうか
愛する人の瞳に愛する人の瞳に
俺の山河は美しいかと。美しいかと。

ーーーーー
9月25日、家にあった蔵書1000数百冊をブックオフに
引き取ってもらった。過去からの決別でもある。
第六転換へのある意味、第一歩であり、自身へのふんぎりとなる。

また、自身の今後について、自由、勝手気ままさが、得られた事でもある。
狭い世間と関係する人々とのなんらかのお付き合いで、過去60年の
しがらみを意識せず、行動する。中々に難しいが。
自由な、勝手なとは、私の人生で、なんなのだろうか?
単なる無節制、ぐうたら、無計画などなど、しかし、これは、自分の
基本的な性格からすれば、出来ない。
もしかしたら、無意識の中に、まだやれていない何かを感ずるのかも
しれない。
あと3年、残された時間は、僅かである。

4つの目標の3つは、一応の実行をみているが、最重要のネオ湖西人
が、全くの進展なし。
まだ体力的な不足もあり、少しは、許されると思うが、10月初めからは
少しづつでも、ミニプロジェクトへの実施に取り掛かる必要がある。

更に、今世間様とつながっているのは、インターネット経由の仮想
世界、病気もあり、少しは割り引いたとしても、まだまだ、意識改革
の点で、不十分。
新しい人、新しい知恵との出会いをもっと積極的に進める必要がある。

ーーーーーーーーー
今月19日、iPhone6が発売されました。この製品の裏には今までと同じように、
「Designed by Apple in California, Assembled in China」と書かれているのかと思
います。
これは「アップルがカリフォルニアで商品企画して、中国で組み立てた」と
いう意味です。広く知られていますが、アップルは一部を除いて製品や部品
を自社では製造しません。世界中の多様なサプライヤーの強みを組み合わせて、
iPhoneやiPadのような商品を顧客に提供しています。

では、iPhoneは「中国製」なのでしょうか、「アメリカ製」なのでしょうか?
恐らく、どちらでもありません。このペースでグローバル化が進んでいくのであれば、
我々日本人がこだわりぬいて守ってきた「日本製」というような最終組み立て地を
示す称号は、あまり意味を持たない時代になるのかもしれません。

これは、日経ビジネスの本格的なビジネスにおけるグローバル化についての
一説である。
個人的には、これは、ビジネスに限らず、文化の面でも、言える。
地域の中で、生きると言う基本は変わらないが、強く連環して行く
世界、社会は、この志賀にも及ぶはず。
注視が必要でもある。



最近、劣化論と言う言葉が、結構メディアの中に登場している様である。
昔、良く言われた衰退論、縮退論など、イギリスをその好例として、
賑わっていた時期もある様であるが、栄枯盛衰の言葉にも、ある様に、
また、失われた20年とも言われる様に、いずれかには、万物消えゆく
のは、過去の幾多の事例から明らかなはずである。
ここで言われている劣化とは、どうも文化志向的に内向き、内向的な、
特に個人レベルで、起きていることへの危惧からの様である。
ここで、考えておかねばならないのは、劣化論の深刻度ではないか?
生活文化の成熟度が、高まれば、個人レベルでの意識は、内向的に
向かうはず。
国や社会としての明確な目標に対して、個人としての一体感が薄れて
行くのであるから。


nhk朝イチで、兄弟間のトラブルが、結構あるとの特集をやっていた。
36.9パーセントの人が、其の様なトラブルを経験しているとのこと。
我が家の息子3人は如何であろうか?
いまは、あまり聞こえないが、結婚し、人数が増えれば、相互間の
思いと利害が出てくるはず。今は、両親が一応?健在であり、表面的には
一応のまとまりがあるモノの、少し注意していると、その火種は、
燻っている。



人の生きると言うことは?
昔のがお隠居さんという言葉は、すでに、死語。
40年以上働いて、残されたのは、僅か10万円ほど、10万円でも、
多いという考えもあるが。
しかし、
其の様な境遇でも、人は生きることを選ぶ。
よく分からない。
社会の中で、自身が否定された時、自分の身を引くのも、歳を
経て来た老人の智慧なのではないか!!




昨日19日、大阪の和太鼓倶楽部のnhk放送を見た。
全員、20名以上のメンバー参加による和太鼓合奏、1年前からの
記録であったが、途中のリーダーたちの悩み、部員達との
溝の広がり、コミュニケーションの下手な若者が悩む、
人とのつながり方への難しさ、組織として、個々の想いを
1つにすることの難しさ。
会社組織でも、同じであるはずだが、経営者の想いと
リーダーシップで、表に出ない場合があるが、実は、
中から崩壊しつつある場合も多い。
和太鼓倶楽部の場合は、徹底した議論、もっとも初めは、
全くの話し合いにも、ならなかったのだが、回数を
重ねる毎に、初めは参加することさえしなかった部員も、
参加し、人との面と向かった話し合い、自分の想いを積極的に
表に出さないとつながらないことへの気付き。
年齢に関係なく、この行動の大切さを知った。


ポジティブ心理については、セリグマン他の著作で、さらに、
深く学べば、よいが、ここでは、少し意識すべき事のメモを、
幸福の五つの要素を意識したい。
いま、多くの高齢者が、悩んでいることでもある。
・仕事
・人間関係
・お金
・健康
・地域社会への貢献
特に、リタイアした人にとって、仕事、人間関係がほとんどなくなる
ことは、非常に大きい。お金は、年金があり、一応?問題がないと
言えるが、健康、地域社会への貢献は、自身の積極的な行動が
求められる。

ひとは、一日6時間以上、誰かと一緒にいると、幸せになる。
そして、幸せは、その人の人生の選択肢を広げる。
これは、拡張・形成理論として、広く認められている。

毎日3つの良い事、を書き出す。
寝る前に、その日にあった3つの良い事を書き出す手法がある。
・楽しかった事、面白かった事、仕事で上手く行った事、
大笑いした事、などなど。
なお、この3つの書き出しは、寝る前の一日の終わりに行う事が重要である。
(^-^)/ピークエンドの法則。
人は、過去の経験を喜びや悲しみの、ピーク時の印象、とエンディングの
印象だけで、判断し、記憶するという。

悲観主義は、気分だが、楽観主義は、意志である。
・不満には、感謝で対抗する事。
小さな不満などは、取るに足りないものと思う事。
大きな不満には、感謝、が大切である。
不満は、絶えず、人の周辺にある。しかし、健康な身体、支えてくれる
家族、働ける環境など、感謝の連鎖があれば、自身の幸せは、更にアップする。

多くのポジティブ心理が、推奨しているトレーニングを自身の
意識と意志を持って、実施して行く事が重要となる。

幸福度を高めるための3つのトレーニング
・嫌いな人の幸せを願うトレーニング
まずは、家族、次は友人など
・心の中に、透明なボードを置く
手っ取り早くネガティブな気持ちを断ち切る。
・理由もなく、ご機嫌レベル上げるトレーニング
ご機嫌レベルは、自分でコントロール出来る。

基本は、好きなことを夢中で、心から楽しむ、と
人生は、本当に変わる。



昨日のよるは、久し振りの映画鑑賞。NOAHというビデオであった。
所謂、ノアの箱舟の話であるが、人間の悪業を地上から全て抹殺
するために、大洪水を起こすのだが、それを神の啓示として、人間以外
の全ての動物を救うために、NOAHは、醜い石の怪物に変えられた天使
たちと共に、大きな船をつくる。
ここに、すべての生き物と共生を図る仏教と大きな違いを感じる。
キリストは、死によって、新しい世界を創生し、仏陀は、その死によって、
更なる宇宙を創る。涅槃図、そこには、死に対して、悲しむもののいるが、
静かな微笑みをたたえ得て、死に喜びさえ与える仏陀の姿が描かれている。



昨日13日、nhkのおもてなし、特集を見た。
2020年のオリンピックに関連してではあるが、チョット感じた事。
おもてなしと気遣い、親切、は違うと言う言葉が気に入った。
気遣い、親切は、人間的行動の基本であり、文化の違いはあれ、誰でも?
意識している事。おもてなしは、それをベースに、その国なり、地域の
文化や想いをキチンと伝えることにある。能動的な行動の基本である。

また、我々は、感じないが、単一化が進んだ閉鎖的な民族との意識が
参加外国人の方々の意見として出て来たのには、ややビックリ。
内部にいる人間にとって、外部から見る目は、かなり違うのだな!

見える形での料理やサブカルチャー、工芸などは、その多様性が
明確に分かるが、意識や行動の基本は、中々に難しい。
しかし、我々も、その多様性の広さと深さを感じる事が、ある意味、
高齢化縮退しつつある日本を違う形で、発展させるのではないか?




最近の花子とアンを見ていると、日本の狂気を感じる。
そして、世界の狂気の中で、日本も、大きな流れの中で、
にげられなかったのかもしれない。
69年の時は、全てを押し流してきたのであろうか!

健康寿命についての論議がある。
所謂、寿命ではない。本人が、健康だと、思う年齢が幾つか?
とのこと。そもそもは、国の財政が、厳しく、高齢者への介護
含めた財政支出を減らす事から来ている。

男性の健康寿命は、70.5歳とのこと。
そして、この寿命を伸ばす最大の要因は、社会参加をキーワード
とした個々の意識アップのようである。
ただ、男性の場合は、単に集まるような事には、ほとんど関心が
薄い。できれば、最後まで、仕事をしたいという気持が強い。
即ち、自身の役割分担を明確にして、それに、合わせた社会参加の形が
一番、望ましいようである。

私自身の目標である老醜70歳と同じ。
そして、これは、心の持ち方が大きい。この考えは、
ポジティブ心理学の基本と同じであろう。
すでに、高齢者と呼ばれる65歳以上は、3000万人以上となり、
この人々とともに、国は衰退して行くのか?
私の周辺でも、自身これから、どうすべきか?悩んでいる方々が
多い。しかし、何を、どうやれば、が分からないのである。
また、この大きな変化に対して、ビジネスも盛んになりつつある。
特に、
健康作りにポイントを置いた、健康ツアー、と呼ばれる旅行
が人気になりつつある。贅沢三昧の食事ではなく、有名観光場所
を巡るような物見遊山ではなく、自身の身体の健康と心の健康を
満喫してもらうのが、最大のポイントとの事。
----
雲が3つほど、比叡の山に浮かんでいる。
朝のしじまが、ガラス越しでも感じられる。
何時の間にか、、、、、、秋のけはい。
少し先を、うすクリーム色の電車が、ビルに見え隠れしながら、
音もなく、走り去って行く。
多分、まだ眠気の残った人々が、その心地よい揺れの中で、
今日の英気を養っているのかもしれない。
何時の間にか、浮かんでいた雲がピンク色に色づいている。
目の前の高層マンションは、朝陽で、ピンクと白に輝き、
病院の廊下も、無味乾燥な白から、われわれを元気つけようと
するのか、光り輝く橙色に、その光が伸びている。
確実に、朝が訪れ、きょうもまた、平和で、新しい日々が始まる。
遠く比良の山並みも、きょうはスッキリとしたその姿を見せている。

今日もまた、新しい朝を迎える。やや薄い雲たちが、多くの空を
占めているが、比叡の山と遠く比良の山並みが重なる点は、
ややピンク色の空が、顔を出し、その上に、これも1つだけ
白い真綿の様な雲が、ポーンと浮かんでいる。
手前にある高層マンションと白い高いビルの赤い点滅の光も
、そして、その周辺に、ベタリと張り付いた様に広がる多くの
家々は、少し霞んだ空気のなかに、静かな佇まいを見せていた。

朝日の中で、老人が一人、白い病院の廊下に、黒く長い影を
落として、座っている。やや橙色がかった窓辺に向かって
泰然自若のその姿は、何やら神々しい物を感じる。
朝はまだ早い、既に外は、秋の兆しを見せ、夏の暑さは、
片隅に追いやられて行く。その少し寒さを感じる中で、彼は何を思う。
自身の病気の深さに絶望しているのか、退院を迎えはやる気持ち
抑えきれないのか、既に、退院の目処がついた私自身の気持ちを
写しているのか、廊下全体が、光り輝いている様だ。
人の心は、勝手な物だ。眼前の姿や形は、変わらないのに、
心に映る姿形は、まったく別の姿になる。

きょうは、退院の日、天界から下界へ降りて行く日である。
2ヶ月は、長い様でもあり、短くもあった。これからの
残された人生への、行動はこれからとしても、どう進むべきか!
が見えたことは、この日々を過ごさせてくれた天からの恩寵
かもしれない。
すでに、、東の空からは、強烈な陽が輝いている。
比叡とその先の比良の山並みが、明るく輝き、すでに、秋と言う
季節を迎えたことを謳歌している様でもある。

己の人生の振り返りから、今までの過ごして来た時間、それは
それで有益であったのではあるが、を何を学び、何を感じたか?
そして、残された我が時間を想う時、何をすべきか!
結論は、新しい自身の創造と行動である。
そのための目標も決めた。これからは、それらをスーローダウン
させながらも、行動し、実行して行く、今日はその出発の日である。

比良の山並みが薄赤く染まって来た。
2ヶ月ぶりの我が家から見る景色である。これも小さな薄赤い雲が1つ、
ゆっくりと流れて行く。
2階から見える東の空も、茜色の中に、少しづつ陽の光が割り込み、
徐々にその姿を変えつつある。いまは、まだその静寂(しじま)の中に、無音の
ままでいる家々の中では、すでに、今日という日の活動が始まっているのであろう。
数羽の鳥たちが、朝の食事をするためか、陽かりの先にさえずりながら、
飛んで行く。

さすが、肉体的には、足腰の衰えを感じる。2階までの階段を上がるだけで、
ガタガタと膝が泣き、その一歩の上がりは、まるで、数分間続く様だ。
老いを感じる瞬間でもあり、生きていくという決意の時間でもある。
多くの人は、肉体的な衰えを分かっているのだろが、自身が身をもって
感じるその瞬間まで、若き日の、あのハツラツとした姿が、頭の中を
駆け巡っているであろう。私自身もそうである。
家の前を車が静かに、まるで、音を立てる事が、罪であるか、如く、
進んで行く。やがて、この周りも、小さな喧騒と子供達の大きな明るさ
で、包まれて行く。お隣も、高校生の子供を送るのであろうか、ガトごと
とした音と共に、車が静かに、静かに、出て行く。その横を、何時もの
お二人が、朝のウォーキングであろうか、やや頭を前に倒し、静かな
歩調で、下に下って行く。ちょっと寒そうであるが、白い息の中に、
力を込めて。何時の間にか、わが家の猫軍団が、朝の食事を求めて、
こちらを見つめている。10個の眼が、早くご飯をくれ、言わんばかりに。
何時も、朝である。

日々の記録3   (チャトの死、水、格差、イスラム国、月山、琵琶湖、老人漂流、 他力本願)

チャトが死んだ。
2014年10月16日午前3時?12歳?昨晩から、厳しいとは、思っていたが、静かな
永眠と思う。12年前のいやに耳の大きい茶と白の子猫を病院の
駐車場で、拾い上げてからの我が家の一員であった。
気立てが優しく、面倒見が良かった。一番長く生きて欲しい子であったが、
中々に、思うとおりには、いかないものだ。善人は早死にする、、、
数ヶ月前からの腎臓を患い、本人にとっても、辛い日々であったと思う。
既に、朝の光が満ち始めているが、ふと見上げれば、青く澄み切った朝空
の中に、中空の半月の月が、こちらを見下ろしている様である。
寒さの中に、今までのチャトの仕草、行動が走馬灯のように流れる。
時の流れは、早い。我が身も我が家も、高齢化しつつ中で、死への
まずは、第一の対面かもしれない。
また、今日は、伊豆大島の土砂災害から1年経った日でもある。
36人の死んだ方への冥福を祈る。
チャトをもう少し当家で供養したかったが、時間的な問題から
午前中に、火葬にした。
火葬場は、近くの琵琶湖の見える小高い場所にあり、葬儀場の
丁寧な対応で、無事済んだ。
秋の気配が近づく比良山の木々とやや霞みのかかった琵琶湖の
先には、沖島のなだらかな姿と三上山の小ぶりな小富士の姿
がいわし雲の下に見えている。
骨壷にいるチャトも、この景色を見ているのだろうか。
小さくなったその遺骸が小さな骨壷に納まった時には、
チャトと過ごした13年の歳月が駆け抜けていった。
自分の姿もそうなることであろう。

そして、1日経った今日の朝、何事も変わっていない。
チャトの姿は見えないが、目を閉じれば、そこにいる。
外は既に、冬の空気、中天にかかる半月も昨日の朝のままと
変わらない様子。これが平和かもしれないし、何かへの
次への変化への始まりかもしれない。
すでに、外からは、車の走り去る音が聞こえてくる。
日常の変わらない音と風景がそこにある。


ーーーーーーー
10月19日NHKの「不死長都市100年」をみた。
1917年からの記録フィルム(大正6年東京見物と言う題)
をカラー化したものであり、カラーにすることによるリアル感
があり、明治から大正への近代化の流れ、銀座などの風景、
レンガ造りの町並み、関東大震災等の様々な出来事が良く
伝わってきた。
当時の人口は、既に、220万人であり、世界で一番の過密
都市とのこと。
また、日本橋の木造から石造りへの変容、レンガ作りの東京駅や
周辺のビル群などを垣間見ることが出来る。
プライベートな映像でも、女性たちの衣服の変化を見るとその
時代意識が良く分かる。モダンガールから戦時中の地味な着物
姿は、印象的であった。
関東大震災から7年後の日中戦争、そして7年後の戦後終戦直後の
日本は、映像の中でも、不死長の如く、生き変える姿をカラー化
された映像では、その印象がより強い。


ーーーーーーーーーーーー
水への尊敬の念
唐木順三、柳田國男、白洲正子、いずれも、日本の原風景探しの中では、
「水に対する関心、水への尊敬の念は、日本文化の一つの特色を成しているようだ。」
水は、生活条件の1つではあるが、同時に日本では、それが、文化や
芸術の条件でもあった。
山水という言葉が直ちに風景を意味するということは、日本人の自然観、
風景観を物語ってもいるだろう。水墨画、墨絵には水は殆どつきもの
といってよい。
寒山詩の中に以下の一句がある。
「尋究無源水、源窮水不窮」
人は、結果から原因を探り、根本原因まで遡る。
水源は、探求され、解明されたが、水は相変わらず滔滔と湧き出ている。


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地球でも、まだまだ、未開の地域がある様だ。もっとも、そこも
人間という貪欲な種に侵略されつつある様だが。
東アフリカ 大地溝帯。ここは、数千年前に数10km以上に亘り、南北に、
隆起した。これにより、西側は、その湿潤な気候のため、豊かな森林地域
となった。東側は、砂漠地帯となる。それを隔てているのは、5000m
以上ある山脈である。
とくに、アルバタイン地方は、ホットスポットと呼ばれ、多様な種族が生きている。
今回のNHKスペシャルでは、人類猿を扱っていたが、その種族は、人類進化への
手掛かりになるそうだ。
もっとも、人類への進化に近いのが、ボノボと呼ばるチンパンジーに近い類人猿。
平和主義的な生活をしており、ここでは、オスとメスがほぼ同等の営みをしている。
むしろ、メスがオスを上手く制御しているとも言われる。これは、食料が豊富で、
子孫を残す事が主であるため、メスが主体になる。
この他には、チンパンジーとマウンテンゴリラの2種族がいる。
また、チンパンジーは、かなりの攻撃性があり、我々の認識と大分、違う事には、
驚かされた。そして、ボノボとチンパンジーに分化したのは、コンゴ川で、
分断されたからとのこと。
この他、ハイギョと呼ばれる魚であって、肺を持つため、地上でも数年は、
生きられる。など、太古からそのままの姿を持った種がまだまだいる。
地球は、まだまだ知らない事が多い様だ。



ーーーーーーーーーー
イスラム国の脅威と言うのが、言われている。
過去の戦争は国と国の戦いと言う明確な姿があった。しかし、
いまの中東の国で、起こっていることは、大分様相が違う。

イスラム国には、80カ国の国から1万5千人以上の若者が、
兵士として来ている。国のために命を捧げるとか、国と言う概念の
無い戦争でもある。
多くの若者は、自身の存在意義が見えず、空疎感が先行している場合が
多く、その行動を助長しているのかもしれない。
しかし、日本と欧米先進国での意識の違いは大きい。
欧米でも、聖戦(ジハード)をファッションのように考え、
参加する若者も多いようだが、明確な論理を持っている。
逸れは、「自由からの逃走」である。西欧社会が自由であり、特定の
価値規範を強制してくれないことへに飽き足らない者たちが、
イスラム教の絶対的な規範を敢えて選んでいる。
しかし、日本では、漠然とした不自由感に対する安易な解決策として
ジハードに共感して見せようとしている。根本的に違う。
イスラム国の実態は、イラクとシリアの土着勢力の国内闘争であり、
「アサド政権の自国民弾圧は、悪であり、ジハードしなければ
ならない。ジハードに参加することはムスリムの義務」と考えた
信奉者の戦いでもある。
イスラム教に対する更なる理解が必要と思われる。

ーーーーーーー
6年前に、以下の様な一文を書いたフリーター赤木智弘がいる。
「我々が低賃金労働者として社会に放り出されてから、もう10年以上たった。
それなのに社会は我々に何も救いの手を差し出さないどころか、GDPを
押し下げるだの、やる気がないだのと、罵倒を続けている。平和が続けば
このような不平等が一生続くのだ。そうした閉塞状態を打破し、流動性を
生み出してくれるかもしれない何か――。
その可能性のひとつが、戦争である。
識者たちは若者の右傾化を、「大いなるものと結びつきたい欲求」であり、
現実逃避の表れであると結論づける。しかし、私たちが欲しているのは、
そのような非現実的なものではない。私のような経済弱者は、窮状から脱し、
社会的な地位を得て、家族を養い、一人前の人間としての尊厳を得られる
可能性のある社会を求めているのだ。それはとても現実的な、そして人間
として当然の欲求だろう。
そのために、戦争という手段を用いなければならないのは、非常に残念な
ことではあるが、そうした手段を望まなければならないほどに、社会の格差
は大きく、かつ揺るぎないものになっているのだ」

これからは、このような従来の国という概念、国民という自身の存在基盤と
なるべき意識などが、確固とした概念でなくなる。それによって、成り立って来た
民主主義や様々な体制や共通認識が失われる。
新たなる動きとなるか?一時的なものなのか?
世界は、緩やかなものの、着実な変化を起こしている。

当事者も、関係する国のトップも含め、誰も制御する事ができない状態
なのだ。インターネットに代表される様に、人のつながりや情報がより
広く拡散して行く中で、人の行動も大きく変わると同時に、それらの情報が
各国民の貧富や思想の違いを明示する事により、様々な不満を生み出して行く。
それは、更に、流動化と多極化を生み出して行く。
これは、格差が広がって行く日本も、無関係ではなく、やがて、同様の
変化が生ずるはずである。
その意味では、昔ハンチントンの、文明の衝突、があったが、その差異
を検証することも非常に面白い。

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新潟地震で、被害のあった山古志村がようやく、復興への道を付け始めた
と言うレポートをNHKがしていた。
地震から数年経ても、もうダメとの古老たちの無気力に対して、何人かの
地元の中年有志が、「夢を語ろう」のテーマで、学生たちを巻き込み、
地域住民と徹底討議を重ね、その環を広げ、米の収穫から、今では、
地元の古くからのお祭りまで、復活させた。10年の歳月が必要であった。
でも、この地道な活動は、どこでも出来るはずである。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
仏教用語としての他力本願は、巷でよく言われている様な、人任せの
事ではない。
人間が生きて行く中で、己だけで、その生き様を出して来たと言う人がいるが、
それは、万物が生きて行く中での大きな流れの中にいる事を忘れた発想とのこと。
他力(ここでは,阿弥陀如来の力)と言う大きな存在の中で、本願(世間の人々を仏
にする)を成し遂げさせるのが、その真意である。しかし、俗物である私に場合は、

ただ、漫然となく、人生の終着を迎えるのではなく、小久保が存在した(これを仏と
呼び変えても良いが)事を、他力の中で、完結したいのである。
即ち、
他力本願を信条として、来年実行するべき第六の転換から違う姿が出てくることも
期待したい。



ーーーーーーーーーーーーー
その月山は、遥かな庄内平野の北限に、富士に似た山裾を海に曳く鳥海山
と対峙して、右に朝日連峰を覗かせながら金峰山を侍らせ、左に鳥海山へ
と伸びる山々を練瓦させて、臥した牛の背の様に悠揚として空に曳く長い
稜線から、雪崩れる如くその山腹を強く平野へ落としている。
すなわち、月山は月山と呼ばれるゆえんを知ろうとするものには
その本来の姿を見せず、本来の姿を見ようとするものには月山と呼ばれる
ゆえんを語ろうとしないのです。月山が古来、死者の行くあの世の山と
されていたのも、死こそは私たちにとってまさにあるべき唯一のもので
ありながら、そのいかなるものかを覗わせようとせず、ひとたび、
覗えば、語ることを許さぬ、死の企み めいたものを感じさせるため
かもしれません。
ーーーー
あとはただもう山また山で、かえって、どれがどの山ともわからなく
なったようです。しかし、じっと見ていると、いずれの山も鷹匠山へと
寄せ、塞ノ峠へと寄せ、仙人獄へと寄せているのです。
しかも、それらの山々が、ここでもまだそこに山があるかに見える湯殿
へと寄せていて、ひとり月山が悠揚と臥した牛の背に似た稜線を晴れた
空にながながと曳いている。それがその稜線から山腹を雪崩落としている
様をいい、庄内平野の村や町で眺めた月山と少しも変わらないのです。
私はあの肘折のまどかな月山がいよいよまどかになるというのを思い出し
ながら、ふとまたここでも、こうして眺めていたことがあるような気が
してくるのです。してみれば、ここでもかって眺めた月山と少しも変わらぬ
月山であるであるということがわたしをそんな気持ちにさせるのかもしれません。
それにしても、この果てしない山々が、どうして山ふところだというのだろう。
それは、すこしも変わらぬ月山でありながら、この世の証のように対峙していた
あの鳥海山が、もはや、まったく見えぬというより、無きがごとき気すらする
別世界をなしているということかもしれません。

山々はほとんどところどころが濃密な杉林、畑地、草刈り場になっているだけで、
いずれもイタヤクヌギの雑木林に覆われている。私が寺に来た頃頃は、ヒグラシ
の声もし、まだまだ夏の気配があって、それが滴るばかりの緑を見せていました。
しかし、月山はさすがに潅木の茂みになっているのでしょう。そうした緑の中に
ひとり淡淡と苔色を帯びていたのですが、そのながながとした稜線のあたりが
夕映えたようにほの紅く見えるのです。じじつ、月山は夕映えの中でしばしば
そう見えたので、わたしはしばらくそれが月山の紅葉し始めたためだとは
知らずにいたのです。しかも、その紅葉は次第に山々の頂に及んで、
あたり一面紅葉になって来ました。なんの木の葉が紅くなるのか、
黄色くなるのか、また同じ木の葉でも紅くもなり、黄色くもなるのか、
私には分かりませんでしたが、その紅も黄色も驚くほど鮮やかで、
なにかこう、音響を感じさせるばかりではありません。
僅かな日差しの動きや違いに、その音響は微妙に変化して、酔い痴れる
心地にさせるのです。しかし、紅葉はいつとなく潮のように退いて行き、
散り遅れた数葉をまばらに残して、裸になった木々の間から、渓を作る
明るい斜面が遠く近く透けて見えるようになりました。散り敷いた
落ち葉を踏んで行きながら、その一枚を拾うと、蝕まれて繊細な
レース網みのように葉脈だけになった葉にも、まだいくらかの紅や
黄色の部分があって、心地良い残響にも似たものが感じられるので
あります。
ーーーー
いつとも知れず赤いというか、黒いというか、地獄の火の様に渓越し
の雪山の頂が夕焼けて来るのです。
しかも、渓越しの雪山は、夕焼けとともに徐々に遠のき、更に向こうの
雪山の頂を赤黒く燃え立たせるのです。燃え立たせると、まるで、
その火を移すために動いたように、渓越しの雪山は元のところに
戻っているが、雪山とは思えぬほど黒ずんで暗くなっています。
こうして、その夕焼けは雪の山々を動かしては戻しして、彼方へ
彼方へと退いて行き、全ての雪の山々が黒ずんでしまった薄闇
の中に、臥した牛さながらの月山がひとり燃え立っているのです。


ーーーーーーーーーーーーー

ハロルドがクィイーにわかれを告げた時、
また、私自身の周辺で、誰かの死を迎えた時、自分は、どうするだろうか??
最近、あらためて考える。その時の自分の姿を。
多分、ただ静かに、その死を受け入れているのみかもしれない。
泣くと言う情景が浮かんで来ない。
私は、冷たい人間なのか?
--------------


坂の上は燃え上がっていた。やや赤みを帯びた橙色が、坂の上を
支配しているように見える。
同じ様に、空もたなびく雲に、その色を投じている。
私は、ゆっくりと坂の勾配に逆らいながら、進む。
そして、思う。歩くのでも、そのスピードによって、見るべき
風景と見られるべき風景が違うことを。
以前であれば、見られていないであろう家々の小さな変化が
今は、はっきりと眼に飛び込んでくる。
庭に咲くコスモスの枯れ具合の違い、既に空き家となった家の
少しひび割れた壁の変化、少し移動した庭の椅子、など。
枝振りの良いススキが、心地良い感触を伝えてくる。
坂の上に登りきると、西の山並には、まだ、先ほどの橙色の
残照が残っている。後ろを振り返れば、琵琶湖の水面が、青黒く
輝き、遠く伊吹の山並までが見える。
カラスが一羽、電柱の上からこちらに向かい、かあー、かあー
と呼びかけてくる。
夕食の美味しそうな匂いが辺り一面を支配している。
少し早い子供たちとの団欒、ここにも、1つの生活がある。
周りを見渡せば、既に、家々の明かりが灯り、道路にその
光を投影している。

ーーーーーー
琵琶湖は大きい。
この浜辺に立って、すでに16年。遠く沖島の更に奥には、伊吹山が
無様な格好を見せている。人間の飽くなき欲望は、元は優雅であったろうに。
いまは、赤茶けた山肌を半分程晒し、遠目のも、その痛々しさが伝わってくる。
眼を左へ転じれば、比良の山並みが、湖畔に立つ自分に覆いかぶさるように
迫ってくる。右には、遠く一本杉のあたりまで、やや灰色が買った砂浜が
ゆったりとした曲線を描きながら、伸びている。誰かの散歩の跡だろうか、
4つの足跡がその曲線に沿って、やや蛇行しながら伸びている。
いまでも、使っているのであろうか、湖に向かって
数個の板が、浮かんでいる。昔からの営みである証左が、そこに見える。
その先には、100m先まで、魚獲りの仕掛けが幾重のも伸び、水平線を
覆っているかの様だ。
春の霞の中で、遠くの見えない情景と夏のその強さを増した透明感のある
空気、心地よい風のに揺れる松と古木の木々、遠く光り輝く雪化粧を
見せる北の山並み。
すでに、この情景を見て20年は経つ。変わらぬ景観である。
変わったのは、私であろう。
衰え行く足腰に合わすが如く、この情景を見にくる回数も減った。
心の感じる強さも減った。慣れと親しみは、紙一重。もっと、この湖の
持つ親しみと癒しの空気感を味わいたい。
昔ここを拠点としていたと言う湖族の和邇一族は、湖の幸とその交易で、
一帯を支配していたと言う。その残照が残る小さな漁港では、今しがた
採ったという魚達が、未だその元気を見せている。

ーーーーーー


あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む

    ☆あしひきの【足引きの・足曳きの】;(後世では「あしびきの」) "山”"峯
(を)" にかかる枕詞。
      ☆山鳥;鳥の名。キジに似る。友を恋う鳥とか。夜は雄雌が峰を隔てて寝
るなどの伝説がある。(季春)
      ☆しだり尾【し垂り尾】;長く垂れ下がっている尾。
      ☆かも;詠嘆を込めた疑問を表す。~なぁ。

     『(雄と雌とが夜峰を隔てて寝ると言われている)山鳥の長く垂れ下がってい
る尾のような、
                  長い長い夜を(今宵も)独りで寝るのかなぁ』

平兼盛 【拾遺集】

     忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人のとふまで

     ☆色;色。顔色。表情。
     ☆物や思ふと;心配事、悩み事でもあるのかと。


     『あなたへの恋心を知られまいと我慢していても、顔に出てしまい、周りの
人に
      "何か悩み事でもあるのか"と、問われてしまうほどです』

中納言朝忠(藤原朝忠) 【拾遺集】

     逢ふ事の 絶えてしなくは 中々に 人をも身をも 恨みざらまし

     ☆絶えて;(下に打ち消しの語"なくは"を伴って)いっこうに。全然。(~
ない)
     ☆中々;なまじっかな様子。中途半端な様子。かえって。むしろ。
     ☆ざらまし;(もし~ならば)~でなかったろう(に)。

     『もし、一度もあなたにお逢いする事もなかったなら、むしろその方が(今
は逢っては
       くれなくなった)あなたの事も、(逢いに行く事のできない)わたしの事
も、恨んだりしな
      かったでしょうに…』




無印の会長の話しを聞いた。
組織継続の難しさを数字を使って説明してたが、表面的な
結果だけではなく、何故、そして、どうするが、よくわかる話しだった。
まじは、企業文化の違いが、その組織そのものを既定する。
無印は、感覚がベースの西友、セゾングループの子会社である。あの
強烈な文化思考の堤さんそのモノの世界。
これでは、SPAのビジネスの世界では対応が難しい。
まずは、
仕組み作り(個人から組織への評価、対応の変更)
見える化(マニュアル化の徹底)
風土作り(文化、価値感覚の変更)
を進めたとの事。
西友文化の、計画9割から実行9割への組織行動の変革。



9月29日鶴べいの家族で、を見た。
比叡山の千日回峰行の阿じゃりが少し出てきた。
90日の不臥を行うとの事。要するに、横になって、
寝てはだめ。寝ずに寝る境地がどんなものか?
分からないが、自身の身体に委ねることがコツのようだ??
なお、千日回峰行は、975日で終わるとの事。
これは、残りの25日は、その後の修練のため、であるが、
死ぬまで続ける25日。
依心(身)より依所が大切との阿じゃりからの言葉。
要は、自身の落ち着く場所をキチンと見つけることが
人生、己にとって、重要との事。
シンプルな毎日!!まだまだ、未熟な自分を感じる。

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9月28日、nhkの老人漂流時代をみる。
明日は我が身との想いで見ていると、根本的な疑問が
出てくる。

なぜ、この人たちは、ここまでして、
生きていく事に執着するのであろうか??
自死が、出来ないと言う人もいたが。

いま一人暮らしの高齢者は、600万人いると事。
高齢者世帯の4割にもなるのは、驚き。
これからは、更に増えるのであろう。段階世代含め、3200万人
以上の高齢者が、いる事には、変わりはないのだから。

問題は、この一人ぐらしの高齢者を支える、3世代型の
家族構成が、2割もなく、崩壊していると言う事が大きい。
昔は、ご隠居さんとして、家族、地域で、それなりの存在感を
持っていたが、地域のつながりの希薄さ、内向的な地域意識、
など、これを支えるための互助意識とつながりもあった。

国の制度も、50年以上の国民制度がそのままであるから、
実態についていけない。
年金が120万円以下の人が600万にの半分もいる。
生活費用は、月に3、4万円と言う老人もいる。
老後破産と言う言葉まで、出来た。

また、別な日には、老人の突然の暴力につても、nhk
アサイチで放映。多くは、昔の栄光(先生と呼ばれたり、
部長と呼ばれたりのむ昔の幻影が強いようである)から
疎外感、抜けきらない自分への苛立ち、相手が理解してくれない
と言う惨めさなどがその背景にあるようである。
自身も、要注意である。

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マイケル・サンデル著『これから「正義」の話をしよう』の
英語原典で読みながら、倫理学・政治哲学における原理的な
諸問題を理解するとともに、共同体論者としてのサンデルの
立場そのものがはらむ問題について考える。合わせて、英語
による哲学的表現を身につけることを目ざす。
基本的には、テキスト講読を中心とした形で進める
。特に、功利主義、リバタリアニズム、市場と倫理、
カント、ロールズ、アリストテレス/共同体論をめぐる章を順次講読して行く。

和辻哲郎の共同体論との関係は?

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風が一陣、庭を流れて行く。
既に、秋の匂いが多く含まれ、心地良さと幾分の寒さが感じられる。
いつの間のか、にわのはずれには、ススキがまだ緑の深さの残る
木々の中から顔を出し始めている。
その風の向こうには、薄く青い空を背景に、真綿の様な雲達が
比良の山に向かって静かに進んで行く。
ちょっと手を伸ばせば、掴めそうな薄雲たち。
少しづつ朝日の中で、ピンクから紅くなり、いつの間のか、消えて行く。

病院では、ある意味、死は当たり前なのかもしれないが、それは、
我々が知ら無いだけで、既に、自身の横にあるモノかもしれない。
今回の御嶽山の噴火による死も、そうであろう。
数分前にとった写真やメールには、、直後の自身の死を予感した人が
いたであろうか?
振り返れば、我が身とチャトも同じかもしれない。
まあ、それが運命として割り切れるのが、我が身の良いところでもあるが。
また、いざとなったら、生に執着する自分がいるかもしれない。

日々の記録4(富の格差。(四国遍路、ピケティの指摘、高齢者のワーキングプア。1 00円ショップ。日本的サービス)

11月6日NHKの四国遍路の特集をみた。
以前にも、ある若い人が四国88箇所を徒歩で、全行程を
走破する姿をとった番組であるが、今回は、四国遍路が弘法大師によって
作られ、真念によって、江戸時代、急速に盛んになったことなどの経過に
ついて紹介があった。
最近の遍路ブームについて、バスやタクシーで回る人も多くなったが、
自身の悩み、不安などを解消できるのか?
遍路独特のおもてなしの心は、地元住民の当たり前の
対応となっているが、今日的には、それが素晴らしいと思われるのは、
何故か、日本人の持つ根元的な考えが変わってきたのか?など、
古きよき時代としての日本人の心にも、アプローチしている。
また、雲の上にあるような雲辺寺、唐岬滝、雪輪の滝 などの紹介もあった。

例えば、雲辺寺の歴史・由来
四国霊場のうち最も高い標高911メートル、四国山脈の山頂近くにある霊場で、「遍路
ころがし」と呼ばれる難所とされた。現在は、麓からロープウエーで山頂駅まで登るこ
とができる。住所は徳島県だが、霊場としては讃岐の打ち始めでいわば「関所寺」。縁
起によると、弘法大師は雲辺寺に3度登っている。最初は延暦8年、大師が16歳のときで
善通寺(第七十五番)の建材を求めてであったが、深遠な霊山に心うたれて堂宇を建立
した。これが雲辺寺の創建とされている。2度目は大同2年(807)、大師34歳のとき、
唐から請来した宝物で秘密灌頂の修法をなされたという。さらに弘仁9年(818・大師45
歳)、嵯峨天皇(在位809?23)の勅を奉じて登り、本尊を彫造して、仏舎利と毘廬遮
那法印(仏法石)を山中に納めて七仏供養をし、霊場と定められた。

霊場は、俗に「四国坊」と呼ばれ、四国の各国から馳せ参じる僧侶たちの学問・修行の
道場となり、「四国高野」と称されて栄えた。貞観年間(859?77)には清和天皇(在
位858?76)の勅願寺にもなっている。鎌倉時代は七堂伽藍も整備されて、境内には12
坊と末寺8ヶ寺を有した古刹として阿波、伊予、讃岐の関所でもあったという。 天正
年間(1573?92)に土佐の豪族・長宗我部元親がこの地の白地城に陣して雲辺寺に参拝
し、裏山から眼下を望み四国制覇を目指したが、当時の住職に諫められた。雲辺寺の歴
史にも消長はあるが、江戸時代になってからは阿波藩主・蜂須賀公の手厚い保護をうけ
た。千古の杉に囲まれ、雲に包まれながら法灯を守っている。

11月8日NHKにて、日本サービスの特番をやっていた。

算数教室のアジア展開で、日本では、14名しか居ない生徒が
例えば、ジャカルタでは、7000名以上の生徒数を開拓
したとのこと。
その特徴は、独特の算数の解き方と1教室5,6名の生徒でしか
やらないという2つが大きいようである。当然、出来ない人には、
先生がその問題を理解するまで付き合う。家にまで行くこと
があるとのこと。

また、松山にあるお茶の老舗が、シンガポールに出店し、「お茶に
ついての薀蓄」を語ることが評判となり、売り上げを伸ばしている。

旅館とホテルはどのように違うのか?これは、星野リゾートの社長が
長年悩んできたテーマであるが、1つの回答らしきものを掴んだとのこと。
欧米系の有名ホテルは、徹底的なマニュアル中心の顧客サービスで、
グローバル的な一律サービスを進めており、それが、顧客サービスの
基本としてきた。しかし、顧客もその好みや嗜好が多様化してきた。
その国独自のサービスやその地域でしか味わえないサービスを
望み始めている。この顧客ニーズの多様化をどのように埋めていくのか?
いま、多くのホテルが直面している課題でもある。

そして、そのキーワードは、「人」かもしれない。ある旅館では、顧客
への対応は、全てその担当となった客室係に任せている。
例えば、顧客の宿泊状態をその係が見て、必要であるならば、食事
の内容から部屋の変更前行う。マニュアルが存在しない。更に、顧客
の状態をより深く知るために、全員での情報共有も行い、夫々の係から
顧客対応のためのアイデアややり方について出してもらう。

星野リゾートの社長がホテルと旅館の大きな違いを
「ホテルの場合は、顧客とスタッフは絶対的な主従関係」が基本であるが、
「旅館の場合は、その関係が対等である」と言っている。
要は、「言われたからやる」のではなく、「この人が満足してもらう」には
どうすればよいのか?を考えるのである。

サービスの基本が「人ありきの現場力」と考えるか、「マニュアルありきの
統一力」の違いとのこと。
更に、「サービスに終わりがない」と言うのも、日本でのサービスの基本と
想われる。先ほどの算数教室、セブンの単品管理などに如実に出ていたが、
「サービスは決められた時間が来たからこれで終わり」と言うものではない。
顧客がサービスを納得し、また次にそのサービスを受けたいと思う様に
なるまで、サービスは続くのである。

更に、コンビ二の何時でも、何でもあるという便利さに惚れ込み、UAEの
皇太子がセブンイレブンの出店をさせた。現在、セブンの場合は、グローバル
な展開で53000店舗があるが、これを「単品管理と現場力」で、「顧客が
満足をするには、どうすればよいのか?」を基本テーマとして展開している。
「単品管理も現場力の改善」も、全ては、顧客満足度を徹底的に高めるために
開発されたのである。




オオムラサキは、蝶の中で、一番大きい蝶である。
その瑠璃色は、素晴らしいが、中々に見ることは難しい。
幼虫時期には、榎で過ごし、成虫のまえには、クヌギで
蜜を吸って生きていく。
その瑠璃色は素晴らしい。正倉院などの宝物に、瑠璃色のものがあるが、
古代人の色に対する感覚や意識は同じもの何かもしれない。

ぶらりと街の中を回る。
少し坂を上がると琵琶湖が曇り空の下、幾つかの波状的な縞模様を
見せながら、やや黒ずんだ水面を見せている。
ゆっくりと歩を進めると、車から見える世界とは、違う世界がある。
既に、緑の小さな手のような葉は、その色を黄色に変えつつある。
その色は、下から少しづつ薄い緑となり、葉の中で、緑から黄色への
変化し、一番上では、黄金色の盛りである。
紅葉と言う時の流れが、彼方此方で、木々の姿を変えつつある。
空き地には、以前からその寂しさを見せつつ、一本の楓がある。
その楓も、紅い衣装を着こなすようになり、一部の葉では、
既に、老いかけている。
更に、近くの小山、家々の庭木には、赤や黄色のパッチ模様が、
見え隠れしている。それらを少しでも、和らげようとするかのように、
菊やススキの白、桜草のピンクが彩りをとっている。


今、産業観光と呼ばれる観光事業がスポットを浴びている。
桐生市の廃墟となった織物工場にカフェやベーカリーのお店を作り
桐生特産の着物を着て、まだ操業している工場建物(地元では三角窓
の工場と読んでいるが)を見学し、食事から喫茶までの全てを
ビジネスとしている。
また、その草分け的な存在であった秋田県の小坂町は昭和初期まで、
銅の掘り出しから精錬までを行っていたが、今は、当時の豪華な建物
を活用したりして、多くの観光客を集めている。
産業観光の基本は、既存の資産、資源をあまり金をかけずにテーマパークを
構築することにある。そして、その資源が持っている「負の資産」を
如何に後世の人々に伝えていくのか?一過性の高い観光資源であると、
次への観光化はどのように仕掛けていくべきか?





それは突然であった。優柔不断な自身への天の配剤かもしれない。
2ヶ月の闘病生活である。人が意識変化でこれほど変わるとは、
思っていなかった。
自分としても、驚きである。過去の60年ほどをそのまま延長した形
で、死を迎えるのも、多くの人が選ぶように、1つかもしれない。

しかし、他力本願という信条の中で、何が本願として、残るのであろうか?
絶えざる社会の変化の中で、自身を見ていくのか、
絶対の自身を信じて、そこに、安住の場所を求めるか、
それでは、真の意味での他力本願ではない。

既に、3ヶ月前に決めた「ノットリ時間」という中での、明確に提示
した4つの大きな目標の実践をはかることがわが使命である。

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最近、クラウドファンディングなるものが、
各プロジェクトに必要な資金を特定の人ではなく、そのプロジェクの想いに
賛同してくれる人にのみにお願いをする。
ここで大切なのは、「如何にファンをつくるのか?」にある。
民放の番組の中で、「鯖を素材とした食べ物屋」に拘るお店の
紹介があった。「美味しい鯖」を提供したいと言う使命がそこにある。
そして、その使命や想いに賛同するファンがいる。
個人的には、クラウドファンでリングについては、十分理解していた
と思っていたが、先ほどの番組から示唆されたことも含め、
少し対応の手法を変える必要があるでは?と思っている。

まずは、ファンディングという手法の話は全くしない方が
良い様である。
まずは、自分の想いや熱いを感じてもらえる人をクチコミや
リアルな付き合いの中で、集めていくことが重要となる。
そのようなコアな人をどれほど集められのか?
多分、このような人は、店の場所、時間にはあまり拘りをみせない。
これからは、本当の顧客指向の高いお店、企業が生き残る。そして、
資金的には、銀行のような査定や指名への理解が低い期間には、
行かなくなる。

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まだ暗い。東の方から少しづつ、まるでモノクロ写真のような
暗さからやがて白い光となってくる。
庭の梅の木から、紫陽花へ、そして名前の忘れた柑橘の木、最後には、
毎年赤い大きな花を咲かせるデゴニアへと、光が流れて行く。
その横には、小さな紫の身をつけた紫式部の木が、この庭では、
唯一の色を放っている。
そろそろ秋から冬になる気配が、その空気の冷たさから感じる。
少し前まで見せていた中空の月の姿は、今はなく、ただ青い空が
全天を照らしている。しかし、その蒼さも、家々の屋根近くでは
白く輝き、少しづつ蒼さを増しながら、天空へとその蒼さを
濃くして行くようだ。
朝のしじまが少しづつ、昼の明るさと喧騒さに紛れ、一枚一枚
写真を剥がすが如き動きで、やがて朝の顔になって行く。

富の不平等化
そして、これが最近のイスラム国への欧米諸国からの若者たちの
参加の一因伴っている。

1)世界的な所得格差への懸念増大がある。
ピュー研究所が2013年に世界39か国を対象に実施した世論調査によると
先進国、途上国に限らず7割以上の人々が、ここ5年間で格差は拡大し、
現在の仕組みは富裕層を優遇していると考えている
(http://www.pewglobal.org/2013/ 05/28/world-worried-about-inequality/)。
英語圏での最近の所得分配の不平等化の進展は良く知られている。

ピケティの本(21世紀の資本主義)は現代の多くの人が関心を寄せる所得分配の問題
に正面
から取り組んだ意欲作だ。この本の主張は次のように要約できる。
第1に、程度の差こそあれ、世界中で所得と富の分配の不平等化が進んで
いる。第2に、その原因は経済成長率と資本の収益率を比較したときに、
後者が前者を上回るところにある。経済全体のパイの大きさが拡大
する分よりも、資本が拡大するので資本の取り分が増えている。
確かに、1914年から1945年にかけて一時的に大戦と大恐慌と税制の変化
で大幅に平等化が進行し、所得分配の不平等化の進展に歯止めがかかった
ことがあった。しかし、最近では資本の収益率が経済成長率を上回る
ことによる所得格差拡大の力――「資本主義の根本矛盾」とピケティ
は呼ぶ――が回復してきており、将来もこのままの事態が続く。
第3に、所得分配の不平等化を是正するために各国政府はグローバル
資産税を課すべきである。その資産税は累進税であり、たとえば
最低年0.1%から始まり、50万ユーロを超えると2%という税率
が考えられる。
マルクスの直面した状況は、産業革命後、まさに所得分配の不平等化
が進展した時代だった。激動のこの時代を要約するのは、
「イングランドの状態問題(The Conditionof England Question)」
という言葉である。これは、文芸評論家トマス・カーライル
(Thomas Carlyle, 1795?1881)が1839年に用いた言葉である。
国の大多数の状態は国そのものの状態を示す。政治家たちはカナダ
問題やらアイルランド問題について語るけれど、本当に語るべきは
イングランドの状態問題である、と(Carlyle 1840, 5)。
1832年の政治改革で財産のある人々まで参政権は拡大したものの、
社会の大多数を占める人々はまだ排除されていた。これは貧困と
格差による彼らの不満と不安を要約する言葉であった。

2)グローバル化と格差
グローバル化が進むと、市場は不均衡になります。そこには3つの
理由があります。
始めに、グローバル市場では、利益は等しく分けられません。
結局、人的資源、資金、企業家精神の保有者が報われます。
こういった市場で利益を得る人には教育が大切であることが
分かっています。特に90年代以降は、教育を受けた人の価値
は世界中で上がってきています。
市場の拡大とネット技術の発達などにより、人材を求めるときに、
人数よりも能力の高さ・スキルの必要が高まっています。
この結果、国内で格差が生まれています。中国とインドは
よい例です。能力のある人材の流出も始まり、国家間でも格差
が広がり始めます。国によってはグローバル化のために、良く
ない方向に向かっていることもあります。マリ、ウガンダ、
ベネズエラなどの国では、石油、コーヒー豆、綿花など一次
産品の輸出に依存しています。経済を貿易に頼っています。
しかし、輸出品の値段が下がっているために、成長につなげられません。
多角化を果たすための投資資金の獲得ができません。
グローバル経済では、教育が大切なので、しっかりとした施設
が必要となります。
グローバル化が不公平をもたらす2つ目の理由は、世界市場が
完全市場から程遠いということです。たとえば、公害を引き起こした
国がその代償を支払わないのは市場の失敗です。
温室効果ガスをたくさん排出するアメリカはその責任を貧しい
国に課しています。タイ、韓国、ロシア、ブラジル、アルゼンチン
での90年代の金融危機は、先進国が政策を間違ったのが問題です。
全ての市場を停滞させるパニックは収まっても、その影響は国内
に残ります。子どもが学校を辞めたり、借金に苦しみ国が機能
しなくなったりします(先進国の公債費はGDP比2-3%ですが、
後進国は10-40%です。そして高金利により投資、雇用を
縮小させ、財政的に教育や健康に投ずる余裕を奪い、失業保険
などのセーフティネットも貧弱になります)。
最後の理由として、世界市場では、貿易、移住、知的財産などは
自然と先進国の力を反映するので、経済格差が広がるのです。
裕福な国の農業補助金と途上国を差別する関税を減らす争いは、
良い例です。ただこれは陰謀ではなく、ヨーロッパ、アメリカ、
日本の国内の政策が、西アフリカの綿花の市場などをまったく
見ていないのです。多国間のルールを作ろうにも実施は困難です。
アメリカなどの市場から排除されないようにと恐れて、持っている
権利を行使することをしない場合も。最近の安い薬を生産する
権利を獲得できたのは良いことですが。
グローバル政治
世界の安全、安定、共存、社会のためにできることは何でしょう。
グローバル市場が、お金のある人につられているが、格差をなくす
ためにも途上国のために、教育の機会を増やしたり、インフラの整備
をしたりしなければなりません。これは、ミレニアム目標にも
定めてあることです。グローバル市場は不完全なので、調整を
はかって、ルールを決めなければなりません。それは、環境
(京都議定書など)を守ったり、世界的な経済危機に備えたり、
正な競争制限をなくしていかなければなりません。
裕福な国の意見だけでなく、多国間での枠組みを作って、貧しい
国でも表に出やすいようにするためにもっと創造的にならなければ
なりません。
ドーハ多国間ラウンドを完了させる必要があるし、新たなグローバル
組織(例えば、国連ベース・移民管理局)を考える必要もあるだろう。
一言で言えば、富と福祉、グローバル経済に対して、力強く、
良い枠組みや組織についての創造的思考が必要です。
しかし、アイディアそういった組織を作るには、私たちは不十分で
弱い政治であるのも確かです。21世紀の目標は、政治組織やルール、
習慣を見直し強くすることです。そこには、それまで解けなかった
ようなグローバル市場の不公平な問題、格差に対処していかなければ
なりません。

3)進む格差
最近の年収300万円以下サラリーマンの割合の推移を表示したものだが、
年度を経るごとにその割合はどんどん増加しています。
2002年には年収300万円以下の割合は34%ほどでしたが、最近では40%を
超えるところまで増加しています。
約4割弱近くの人口が年収300万円以下となっている。
その最も大きな理由は、こういった下流の人たちには格差社会を生き残る
知恵というものが無いために、その無知を利用した会社や政府に搾取され、
どんどん搾取されている。
更に、団塊の世代の人の所得分布を表したものだが、団塊の世代はすでに
高齢であり、年功序列によって比較的高い賃金を得ているはずの世代。
しかし実際は、20%以上の人が年収300万円以下であり、中には年収150万円
以下の ”高齢ワーキングプア” の人も10%います。
日本の高度経済成長期を謳歌し富を蓄えてきたはずの団塊の世代にも、
これほどの貧困層が存在している。
年収300万円以下の人が20%もいる一方で、年収700~1000万円の人たちも
同じぐらいの割合が存在している。
特に年収1000万円以上の人も10%以上いる。本来は年収が高くなるにつれて
その割合も減っていくものですが、この世代はどうやら違う。
年収が低いところと年収が高いところに偏っている。つまり団塊の世代は
他の世代よりも同年代の格差が非常に大きい。これは平成不況による
リストラなどで一気に貧困層に落ちてしまった人と、既得権益を守り
きった人の差が大きいと考えられている。

厚生労働省の平成19年度の 「賃金構造基本統計調査」 による年収200万未
満の労働者を年代別に表したものだが、日本ではる年収200万未満の労働者
をワーキングプアとみなしているので、これはワーキングプアを年代別に
表したものでもある。
ワーキングプアは全ての年代で30%以上を超えており、年収200万未満の
労働者が1,000万人以上いることが分かる。
そして特にワーキングプアが多い年代が、20~24歳の若年層と50歳以上の
中高年。特に40代からはどんどんワーキングプアが増加していき、還暦を
迎えるころにはグンと増えている。高齢になればなるほど所得格差が拡大
していることからも、高齢になるほど低所得である高齢ワーキングプア
が増えている。

100円ショップへの対応

「誤解されやすいですが、100円商店街はただの人集めのイベントではなくて、
店舗にとっての販促事業という位置づけです。既存の商店街の事業とは
まったく次元の異なるものですし、段階を踏んで理解してもらう
必要があります。
もう一つ大切なのは、商店街の皆さんの意識。商店街全盛期の頃に財をなして、
それほど商売気のない店主さんもいますが、何より商店街全体を活気づけて
店舗に収益をもたらす取り組みとして、みんなが前かがみになって
参加してほしいと思います」
自分の店に集客するには、どんな商品が必要か。そのように自ら知恵を
絞ることが地域の意識改革につながっていく。
商店街活性化事業は、補助金とどう紐付けるかといった考え方に陥りがち
だが、「もともと存在していないお金に頼っては、それがなくなったとき
にやっていけなくなる」と、外部資金に頼らない姿勢で運営している。
ひとつひとつの店舗をいかに収益化させるか、そこから逆算して考える
ことが100円商店街成功のひとつの要因となっているのだ。
時代が移り変わる中で、かつてとまったく同じ賑わいを商店街が取り戻す
のは難しいことかもしれない。しかし、たった100円をきっかけに旋風
を巻き起こす100円商店街の存在は、商店街が持つポテンシャルを実証
するにあまりある事例と言えるだろう。

金魚の死
我が家に来て、8年ほどの金魚が死んだ。
特に、前ぶれなく、朝の光の中で、ゆったりと浮かんでいた。
朝日の加減か、水槽の中には、うっすらと虹が出ている様にも
見える。既に、30CMほどに金魚としては、巨大になり
過ぎていた感もあり、「妻とよくまあ、ここまで、、、」
と言っていた矢先でもあった。
この金魚にとっては、小さすぎるであろう水槽での
永らくの生活。我々家族を和ましてくれてもいた。
しかし、その子供らが、まだ、5匹もゆったりとその傍を
泳いでいる。彼?の命は、彼らに引き継がれているのだ。
チャトの死は、その後であるが、いずれも、死んだと直ぐには、
分からないほどの静けさが漂っていた。
数ヶ月前の病院での5回の死を見たときとの差はない。
人間も、金魚も、チャトも、死を迎える時は、同じなのかもしれない。
道元の言う「生も死もその内にあり、それを分けて考えるのは、
人の浅智慧だ」と言う言葉が心で、反芻させられる。
多くの葬式が、儀式としての便法として使われている現状では、
死と生を分けるのは、確かに、おかしな事かもしれない。
まあ、いずれ迎えるわが身でも、死とは、それほど、大袈裟に
考えるべきことでは、ないかもしれない。

日々の記録5(昭和の終わり。武田鉄矢。自分が頑張った頃の歌謡曲。阿久悠。宇沢弘 文。神社の多さ

東京猫紀行と言うブログサイトを見つけた。
写真中心ではあるが、中々に面白い。
http://tokyo-neko-kikou.blogspot.jp/


昭和は終わった。
高倉健の訃報が出ていた。別に、彼自身のファンではないが、昭和の
元気な時代を静かに体現してきた人がまた,1人と消えていくのは、
寂しさの何者でもない。
そんなタイミングの中で、由紀さよりの「昭和歌謡曲」がカバーされた
とのこと。詩と日本人としての共感を大切にした時代。
日本人としての言葉とそれを乗せていく曲の多くは、今の若い世代の
好むものと大分違うかもしれないが、古事記などの日本文化の源流を
辿るという意味では、まだまだ捨てたものではない。


11月21日、アサイチに武田鉄矢が出ていた。
中々に含蓄のある言葉があり、メモした。
まずは、彼の言う「言葉の力」の再認識と漢字の成り立ち。例えば、
有動アナウンサーの有は「月と左手」から出来ている。
人が上の意識を持てば、「天」になる。などなど
また、幾つかの名言集もあった。
「道はいくらでもある。でもな、逃げ出せば、道は1つしかない。
逃げ道という道だ。」
「人生、降りる時にはじめて風景が見られる。そして、降りるとうことの
難しさ。」
「人から学ぼうとする人は、何からでも学べる。人に教えようと
する人は、何も学べない。」

海援隊の「贈る言葉」では、実は、1から3章までは、かなりの時間が
あり、それぞれの詩への想いが違うとの事。
例えば、第1章は武田が彼女にふられた時の思いであった。
第3章は、夫婦喧嘩の話とか。
また、、夫々の章には、ヒットしそうなフレーズを入れた。
例えば、
「優しさなんか 臆病者の言い訳だから」
「だけど私ほどあなたのことを深く愛した奴はいない」

武田の言葉への拘りがよく分かった。


夕暮れの中、向かっている坂からは少し橙がかった色をした空の端が見える。
既に薄墨を流し始めた様を見せる中天には、その薄墨を背景に、
白く光る鰯雲が幾つか流れて行く。その鰯雲の間を縫うように、4本の
白い飛行機雲が琵琶湖の上から橙色の強くなっていく西の空へと伸びていく。
私の立ち止まっているのが、大きな墨絵の世界の1つでもあるようだ。
墨絵の静寂と消え行く中に、明日への期待が高まってくる。
さあ、あと数10歩で、この坂からわが町へ続く道となる。

てすき和紙がユネスコの無形遺産として、登録されたとの事。
石州紙、本美濃紙、細川紙、細川紙は和紙の中でも、最高品と言われている。
こうぞという木からつく上げていく過程とその文化継承が認められた
のであるが、職人の高齢化が進んでいるのも、事実である。
美濃和紙は我が家でも、郡上に行ったときに買ったが、やはり味わいが
ある。古文書など様々な形で使われており、日本文化の継承、その発展には、
欠かせないものでもある。
美濃と言うことから、多治見の紹介を本日のアサイチでしていた。
美濃焼きとして多治見の窯元は焼く40軒以上あるとのこと。
また、タイルとしても、全国シェアの40%を占めている。
ローカルな紹介としては、「ころうどん(香露が短縮化?)」が美味しそうで
あった。鰻もここでは、かなりの人気があり、関西風が主とのこと。


先ごろ、阿久悠の特集を見た。
彼の詩の素晴らしさを感じた。
60年代から80年代、今聞くとその当時の活気ある日々を思い起こす。
心の原点にこのような歌謡曲があるのを強く意識した。
「企みの仕事術」という阿久悠の本がある。是非、一読する必要があるかもしれない。


昭和の歌謡曲、まず、浮かぶ谷村新司の「昴」
   目を閉じて何も見えず
   哀しくて目を開ければ
   荒野に向かう道より
   他に見えるものはなし

目を開けて見れば、やはり目の前に見えるものは、茫洋たる荒野の風景のみ…。

   ああ 砕け散る 宿命の星たちよ
   せめて密やかに この身を照らせよ
   我は行く 蒼白き頬のままで
   我は行く さらば昴よ

人はいかなる星のもとに生まれ育ち、どのような定めのもとで生きていき、
そしていかなる星のもとへと帰っていくのでしょうか。
   呼吸をすれば胸の中
   凩は吠き続ける
   されど我が胸は熱く
   夢を追い続けるなり

原点回帰としては、昭和50年代から平成の初めが自身の頑張った時代であり、
仕事や恋、そして挫折などにかぶさってくる。
この時代の歌謡曲の詩は、自身の想いが詰まっている。
①群青 谷村新司であり、海を見るとその儚さと追想が浮かぶ
②恋人よ 五輪真弓だが、恋と言う淡い人生経験を思い出す

恋人よ-五輪真弓    詞、曲:五輪真弓
かれはち ゆうぐ    く  ひ さむ
枯葉散る夕暮れは 来る日の寒さをものがたり
枯葉凋落的?昏   訴?寒冷日子將要來臨…..
あめ こ           あい       うた
雨に壊れたベンチには  愛をささやく 歌もない
被雨水淋壞了的長? 連可傾訴愛意的歌都沒有
                 わたし
恋人よ そばにいて  こごえる私のそばにいてよ
情人呀 陪伴在我身邊 陪伴在快要凍僵的我的身邊
             わか ばなし
そしてひとこと この別れ話が
然後對我?一句「這分手的話
じょうだん   わら
冗談だよと 笑ってほしい
是玩笑戲言」希望這樣笑著對我?
 
砂利路を駆け足で マラソン人が行き過ぎる
走在碎石子路上 ??的馬拉松選手來往經過
    ぼうきょく       と  わたし さそ
まるで忘却のぞむように 止まる私を 誘っている
猶如遺忘般地眺望著 似乎在邀約駐足的我
こいびと        きせつ
恋人よ さよなら 季節はめぐってくるけど
情人呀 再見 季節(四季)雖週而復始巡環
   ひ ふたり こい なが ぼし
あの日の二人 宵の流れ星
那一天的我倆 就像夜?的流星
ひか   き    むじょう ゆめ
光っては消える 無情の夢よ
發亮後?那間就消失 無情的夢呀
こいびと             わたし
恋人よ そばにいて こごえる私のそばにいてよ
情人呀  陪伴在我身邊 陪伴在快要凍僵的我的身邊
             わか ばなし
そしてひとこと この別れ話が
然後對我?一句「這分手的話
じょうだん   わら
冗談だよと 笑ってほしい
是玩笑戲言」希望這樣笑著對我?
 
③山河  小椋圭だが、省みては今の吾人生にも通ずる。山を歩くごとに思い出す。
④地上の星 中島みゆきであるが、プロジェクトⅩのテーマ曲であり、吾設計者として
の
      思い出がダブル。
⑤天城越え 石川さゆりであるが、男と女の熱き恋。忘れえぬ時を思い出す。
⑥俺たちの旅 小椋桂だが、旅にある自身とのダブル。
⑦今咲き誇る花たち コブクロであるが、春の旅先を連想する。

⑧ここにしか咲かない花  歩いていると思い出す。
何も無い場所だけれど ここにしか咲かない花がある
心にくくりつけた荷物を 静かに降ろせる場所
空の色 映し出した 瑠璃色の海 遥かから聞こえる
あなたの笑い声は よく聴けば 波の音でした
寂しさ隠せずに いるなら 一人になればいい
囁くほどの声で 呼んでいるのは いつも 同じ名前

あの優しかった 場所は今でも 
変らずに 僕を待ってくれて いますか? 
最後まで笑顔で(笑顔で) 何度も振り返り(手を振り)
遠ざかる姿に 唇 噛み締めた

今は こみ上げる 寂寞の思いに
潤んだ世界を 拭ってくれる
指先を 待っている

影が教えてくれるのは そこにある悲しみだけじゃない
うつむく顔を上げて振り返れば
そこにある光に気付くだろう

同じ数の出会いと別れ でも割り切れなくて
余るほどの想い出を いつまでも胸に咲かせながら

雨上がりの道は泥濘るむけれど
今ここに 生きている証を刻むよ
どうか この涙を (この涙を) しおれかけの花に(心に)
喜びの彼方でもう一度咲けるように
願いは海風に 吹かれて大空へ
やがて小さな虹をわたるよ
いつの日か その足で

ここにしか咲かない花 ここにしか吹かない風
ここでしか聴けない歌 ここでしか見えないもの
ここにしか咲かない花 ここしか吹かない風

あの優しかった場所は今でも 変らずに
僕を待ってくれていますか?
ふいに込み上げる(こみ上げる)
寂寞の想いに(想いに)
潤んだ世界を 拭ってくれる
雨上がりの道は泥濘るむけれど
今ここに 生きている証を刻むよ
いつか この涙も(この涙も) 寂寞の想いも(想いも)
忘れ去られそうな時代の傷跡も
燦然と輝く あけもどろの中に 風が運んで 星にかわる
そんな日を 待っている

⑨雨のち晴れるや ゆずであるが、これも日々の行動を自身でどう活かしていくか。
⑩つぐない、時の流れに身を任せ、愛人 いずれもテレサテンであるが、友人が好きだ
った。

ドラフトに懸からなかったが、野球への夢を忘れらない青年たちの映像がNHKで
放送されていた。23歳と26歳、いずれにしろ、人生の転機の年でもある。
彼らの「自分で判断することで、悔いを残さない」人生としたい。
野球を諦め、普通の人生を歩むか、苦労する道を選ぶか、個人個人にとって
重大な岐路なのであろう。ただ、それも更に長い人生の中では、自身の転換期の
1つである。このような経験を積み重ね、人は成長していく。挫折もして行く。
それもまた、人生であろう。
他力本願、常に生きる中で、最善を尽くせば、最後は己の目標とする何か
を得られる。
この2人にそれを期待したい。

2.5等地ビジネスのやり方について、がっちりマンディで放送していた。
場所的に商売としては、圧倒的に不利な地理的条件を、お客向けサービスを
徹底することで、逆にその力とすることは、分かっているようで中々に、
難しい。クチコミの徹底活用(顧客から名刺をもらいお礼のはがきを出すなど)
を主とした対応が光っていた。

50年前のネズミ騒動の映像が出ていた。
愛媛県宇和島に天敵がいないこと、さつまいもなどの豊富な食糧があったことで、
1万匹以上のネズミが大量発生。今では、ネズミの姿が見られなくなったが(もっとも
、
都市では多くなっているとの話もある)、これほどの数は、やはり脅威であろう。
しかし、猫も、100匹程度では勝てるわけがない。急遽、外から5000匹ほどの
猫やイタチ、蛇を大量移入したとの事。お陰で、2年後には、この騒ぎも集束
したとのことであるが、自然環境の調和の重要性を示す一事件である。

五木ひろしがNHKに出ていた。
その中で、「おふくろさんの子守唄」の思い出を語っていた。
多くの人の回想や思い出の中では、中々に親父が語られるのは、少ないように感じる。
作詞の山口洋子さんの存在は大きかったようで、彼は、多くの彼女の曲を歌ってきた。
これも、彼女が詩を大切にするからでは、と思う。
契りは、五木が作詞作曲したものとの事。知らなかったが、これに阿九悠が手を加えた
もの。
阿九悠も、彼の本の中で、書いている。ただこの歌は、映画「大日本帝国」の主題歌と
して
生まれたと言う。いわば、日本国へのラブレターなのである。愛する国と愛する人への
ラブレターとして、はるか未来の国や人への呼びかけとして、書かれている。
そう思うと、波の音、海の光が見えてくるようだ。


和邇文化センターに元気塾について、話を聞いた。
元気塾は平成18年度から開催されている。
そのテーマや講師も様々な分野から来ている。第2回目は小野妹子に関係する
講座が中心となった。小野道風、小野神社周辺の古墳、比良山のまつりなど様々である
。
他にも、「宗教美術から見た湖西の風土」(22年度)「堅田湖族の成立とその末裔」
「街道の魅力」(21年度)「湖都郷土の文化」「身近な里山の自然と文化」(23
年度)「日吉山王祭と周辺の村々」「一日一正」(24年度)「西国観音巡礼
と三井寺」(25年度)など、現在興味があるテーマについても色々と講座がある。


NHKで黄河源流を探る報告をしていた。
その源流は、「星宿海」と呼ばれる。幾つかの小さな湖が集まって湖を形成している
とのことだが、ほとんどの人は見ていない。
先ずは、銀川というところから黄河を遡っていくのだが、黄河を中心にしか
成り立たない農業などの過酷さと合わせ、途中の歴史も辿る。
西夏王国の史跡、へい霊寺、ラプラン寺、などを巡る。チベット仏教とチベット芸術
は日本の仏教と親密性がよく分かる。「タンカ」という曼荼羅に近い宗教画は
営々と継承されている。また、アムネマチン山脈はチベット宗教の神の山と
されている。
ここに巡礼者が五体投地という拝礼法で巡礼する姿は、多分、その昔、日本でも
同様のことがあったのでは、そんな想いがする。
放送を見ながら感じたのは、風土が人を創り、文化を創るという和辻さんの指摘が
なるほどと思われる。広大で平坦な土地が消え行くまで続く世界や切り立った崖と
鋭い矛先のある山々から日本人の大らかさや自然との調和と言う発想は、生まれない
であろう。
オリン湖、ザリン湖の2つの大きな湖を通り、バイエハル山脈を真近に見て、更に
奥に行くと、星宿湖が現われる。多くの沼が横につながるように、絶え間なく水を
分け合い、1つの湖沼を形成している。
晴れた夜の世界は絶景である。静かな水面に夜空の星が映し出され、地上に夜空を
現出させている。世界に、このような場所があるのだ、という感慨とともに、中国
大陸の奥深さに感心するのみ。


ディズニーの「マレフィセント」というビデオを観た。白雪姫の新しい解釈のストリー
であるが、翼を取られた森を支配する魔女が、その復讐のため、生まれた王女に
16歳になったとき、糸車の針に刺されて、永遠の眠りにつくと言う呪いをかけた。
しかし、その王女を愛した魔女は、呪いを解こうとするが、「本当の愛」が
分からないまま、国王に殺されそうになる。
ここでは「真実の愛」とは何か?が1つのテーマのようだが、文明の力で
己の欲望を満たそうとする人間と自然を大切にそれらを受け入れることで
平和な世界を創っている魔女を中心とする世界の葛藤の話とも思える。
これに似たコンセプトでは、「もののけ姫」があるが、これがアニメだけで
しか表現できない日本映画の力不足を感じる。実写とそれを演ずる俳優の
調和は、アニメの世界では無理な話であり、全体のコンセプト創りも、
集団でやるという映画造りの基本が不足しているのだろうか。


阿久悠の「企みの仕事術」を詠んだ。
このヒットメーカーの本を読んでいると、日頃感じている歌の考え方に賛同する点が
かなりあることが分かる。
「僕が作詞家として仕事をしていた60年代の後半から80年代の中盤くらいまでは
歌謡曲の中に時代の空気がしっかりと組み込まれていた。どの歌もその背景には
時代の気配を強烈に発散していた。その時々の社会の出来事や個人の思い出が
連動していて、曲を聴いたとき、この歌が出たときに自分はどこで何をしていたか
瞬時に蘇らせる力があった。
それが今の曲はどうだろう。
流行っている歌の歌詞をじっくり聴いてみる。ところが、歌詞の中に時代が見えてくる
ことはほとんどない。歌を作る作家たちが部屋の中に閉じこもっていて、窓から
外を見ていないのだと僕は思う。外の空気や温度を感じていないのではないかとも
思う。」
全く同感である。しかし、音楽を聴くにしても、ヘッドフォンで一人称の世界
に埋もれ、情報を見るにしても、スマホ、タブレットともに、これも個人の
世界である。時代は変わるもの。

宇沢弘文に関したNHKの放送があった。
経済学者であるが、現場主義に基づき高度成長期の日本の状況から
「社会共通資本」と言う考えに行き着く。高度成長期から現在の格差社会
といわれる時代を広く見渡している。
一度、その著作を読む必要性があると感じた。この社会共通資本は、最近
ビジネスでも、社会活動でも言われ始めている考え方であるが、それを20年ほど前に
提唱していることは素晴らしい。

fbでこのような本の紹介があった。
「なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか」 最強11神社―八幡・天神・稲荷・伊勢・
出雲・春日・熊野・祗園・諏訪・白山・住吉の信仰系統 
少し調べる必要がある。
また、昨日のBSフジで、全国百選鉄道の旅の放送があったが、四国88箇所巡礼
と合わせた内容であり、結構参考になる。馬路森林鉄道は高知の木々を伐採出荷
するのに使われていたが、輸入材に押され、森林業の衰退と共に、今は、廃線と
なっている。日本各地で同様のことが起こってきたのであろう。88箇所巡りに、
この鉄道の歴史と組み合わせるとまた、違った視点での面白さがあるのではないか。
22番所?が弘法大師の悟りの洞穴がある。
都市化をあまり受けていない四国では、自然との共生の姿がまだ残っているよう
でもある。

朝日新聞の記事に、ビル・エモット氏の記事があった。
日本の現状を述べている。
「企業も国際化が遅れ、世界での存在感を低下させている。トヨタ、ホンダ、
パナソニック、キャノンなどはすべて、1950年代の会社で、90年代世代
ではない。最近の20年間で成長した世界的な企業の多くは、サービス産業だ。
米アップルは、製造業の会社だがデザインの会社でもあり、サービスを提供する
会社でもある。
単なる製造業という意味では、近い将来、中国企業が天下を取るだろう。
だが、よきデザイナーであり、創意工夫に富んだサービスを提供する会社に
なれば、道は開ける。、、、、
日本の強みは、「おもてなし」の精神に代表される丁寧なサービスだ。
それなのに、多くの日本人メンタリティーは70年代、80年代のままで、
製造業にこだわりがちだ。日本経済の約7割はサービス産業。きめ細やかな
サービスが得意という日本の強みを、もっと有効活用すべきだろう。」
人間、成功体験のしがらみは中々に消えないもの。
速くその体現者である老人たちに舞台から去ってもらうことが必要である。

人間の平均寿命が2050年には、100歳を超えると言うNHKのレポートを
見た。最近の研究で、「NMN」という物質が人間の寿命に大きな関わりが
あることが分かってきた。これを使うことで、すい臓の機能劣化を抑え、更に
活性化させることで、生後22ヶ月のマウスが6ヶ月の若さになったと言う。
劣化防止と共に、若返りも可能となる。
この他にも、がん等の悪性種に対して、ピンポイントで消滅させるクスリを
注入できるナノマシンが日本で開発されている。これにより、患者には、負担を
少なくガン撲滅を図れる。
また、3Dプリンターの技術を活用して、従来では製作不可能であった様々な
複雑な臓器が作られるようになってきた。これにより、個人ごとの臓器が製作でき、
交換が可能となる。専門家は、あと15年もあれば、一番複雑な心臓を作ること
も可能と言っている。
ただ、年は経ても、肉体的に若返っていくことには、様々な意見がある。
個人的にも、そんれほど永く生きることにあまり想いはない。
人間、自然なままに生き、そして、もともとの宿命に従うのが、
一番の道ではないだろうか。今でもある老害を更に増やして、人類の発展を
阻害すべきではないだろうか。

NHKで京都の3大プロジェクトと言うのを上げていた。
琵琶湖疎水の構築、新京極通りの建設、豊臣秀吉による「御土居」の建設である。
琵琶湖疎水は当時の京都の年間予算の2倍をかけた運河作りである。琵琶湖から
京都の南禅寺付近まで、運河を作り、輸送の効率化と発電による工業化の推進を
図ったものである。今は蹴上のインクラインがその面影を残している。
新京極も8つあったお寺の参道を上手く結び付けほぼ南北に直線の大通りを造った。
これにより、一大繁華街として、成長していった。
御土居は戦乱の中で、絶えず外敵が市内を荒らしまわっていたのを防ぐために
全長23キロほどの高い壁である。これにより、洛中洛外という街としての明確な
区分が出来、街としての発展の基礎となった。

地元の、地域の企業の夫々が持つ得意な技術を上手く組み合わせて全体としての
ビジネスアップを図る事例が多くなっている。新潟のスノーピークや中川商店が
事例として上がっていた。いずれも、若い経営者が従来の考え方に囚われず、
また、閉鎖的な世界でのビジネスのみに固執することがないことが成功の
ポイントのようである。ただ、多くの中小企業の経営者はそこまで、考え方の
転換、脱皮が出来ていないのも事実である。如何に自社の持つ強みがあるのか、
弱みがあるのか、徹底した討議が必要であり、その上で、実行に移せる企業が
これからの時代に生きていける。

萩の地元めぐりをNHKでやっていた。
以前に、奥さんと行ったが、落ち着いた風情のある町並みであったと記憶している。
土塀の連なりの上に少し顔を出す夏みかんの風情が良いとの地元のボランティアの
方の話。なるほどと思う。又、この夏みかん2年越しで実をつけているとのことで、
縁起が良い。昨年の夏みかんを冬のいま、味わえるのだから、中々に、乙な
ものである。萩は吉田松陰が暮らしたところでもあり、ここでは、松蔭先生として
尊敬されている。小学校でも、松蔭の説く人としての律し方を暗誦している。
これが、この街の精神の基盤となっているのだろう。このような街が、その街の
精神文化を反映して、多くの住民に根付いていけば、日本の未来も明るいもの
になると思うが、実利主義、功利主義にまみれた多くの地域では中々に、
難しいのかもしれない。
ちなみに、先ほどの夏みかんの発祥の地が沖合いの島にある1本の原木であること
は、知らなかった。また、萩で採掘される原石を使った硬質硝子のグラスはm
その緑の色合いと音の素晴らしさは貴重なものであろう。普通の硝子の5倍以上の
硬さがあり、中々割れない。売り方によっては、高級品としての商材として
面白いと思った。

人口減少の影響がはあらゆるところに出てきているようだ。
その1つで、空き家の増加について、NHKで討論をしていた。
現在の空き家の数は、820万戸(13.5%)とのこと。
地域の衰退と高齢者の増加による実家を守れないと言う、要因などのようである。
しかも20年後には、これが32%にまで、拡大する。人口が1.3億人から
8000万人に減少することが大きいようであるが、片方では、年間100万戸の
割合で新築が増えている。新築をする多くの人は、現在ある中古の家では、
不便が多いとのことであるが、特に若い人は新生活を綺麗で利便性の高い
家に憧れるのは、必然の成り行きであろう。しかし、これには自治体の住民
獲得の目先的な施策も大きいようでもある。他からの転入者を多く出来れば
その自治体の納税が多くなるからである。例えば、全国の自治体の地域住民の
予測人数を全て足すと、日本の総人口の2倍から3倍にもなるとの話もある。
バラバラでしかも短絡的な行政志向の結果である。
討論の中でも、年上の人間は、もったいない、という発言と想いがあるようであるが、
若い人はやはり新築への想いは高い。
また、空き家がそのまま放置されるには、今の税制では、更地にすると一挙に
6倍の税金がかかると言う不合理な点があるからでもある。
この問題は個人の意識や家族としての想いが関わるため、参加者の間でも、
議論百家楼乱状態で、多分これと言った結論は出ない。また、自治体のインフラ
補修にかかる費用も今後捻出するのが大きな課題となってくる。
これは、多くの空き家が現出してくると言う、単なる空き家問題ではなく、
むしろ、今後の20年、30年後の都市計画のあり方を基本的に考え直すための
一要因なのである。
国土交通省もこの問題への意識は高いようであるが、その解決策としての考えが
コンパクトシティなるものの施策である。分散して住んでいる人をなるべく
数箇所にまとまるように誘導し、社会インフラの効率的な活用を図ろうとするもの
であるが、まさに、役人の机上計画そのもののような気がする。その家、その土地
への住んでいる人の想いや愛着、地域のつながりなど各個人の姿は、この計画
からは欠落している。

66歳から始めたパン作り
定年退職までは、仕事人間であった人が、ガンでなくなった妻からの一枚の
レシピから色々な新しいつながりを見つけていく。
妻の死後、何も出来なかった彼が、とりあえずやってみようと始めたパン作り
とそれを支えるグループが、ホームレスの人にそのパンを配る。
その触れ合いを通じて、やがて、ホームレスの人たちがパン作りに参加する
ようになる。
妻のレシピの一滴が広く輪を広げ、彼を支えている。
なぜ、妻がそのレシピを彼に渡したか?徐々にその真意を理解し始める。
こんな人生もあるのだ、と言う事をこの映像は語りかけているようだ。

山折哲雄さんが「一人の哲学」というのを言っている。
高度成長時代を経験し、貧乏生活が忘れ去られている。そして、貧乏時代
に息づいていた。「生きる指針」が見えなくなっている。
貧乏暮らしの指針には、3つあるという。
・出前の精神
自ら出かけ、やるべき事はなんでもやる。
・手作りの精神
自分の力で作り出す。
・身銭をきる
仲間作りに不可欠である。

日本人の中には、元々息づいている生活感覚としての貧乏への共感がある。
「貧乏は味わうもの」という名言さえある。
そしてその貧乏暮らしの中で、「1人で生きる哲学」を築いてきた。

JMMの記事の中で、面白い発言を読んだ。
河野:先ほど、日本で貯蓄がなくなっているという話をしましたが、この問題への
回答は消費増税ではないんです。一国全体の貯蓄がなくなっているので、消費増税
をしても、民間の貯蓄が単に政府の赤字が民間に振り替えられるだけだから改善は
しません。処方箋は社会保障の圧縮だけなんです。消費増税をやると物事が解決す
るという考えはリスキーです。

多くの自治体では選挙に行く人の半分が65歳以上になっているので、社会保障を削
減することができなくなっているのですが、自民党の保守派を自認する人の中でも、
増税は言うことができるけれども、社会保障の圧縮を言うことはなかなかできない
状況になっています。高齢者が増えて社会保障が増えるので消費増税をすればいい
というのは、問題の解決にはならない。

日本の限られた貯蓄が、国の借金にしろ増税にしろ、使われた結果、成長を高める
ための資本蓄積がもうできなくなっていることが大きな問題で、政府支出の肥大化
が成長を阻んでいるというのは変わっていないことです。

北野:JMMでもずいぶん、低負担低福祉、中負担中福祉、高負担高福祉、どれを選
びますかという話をしましたが、結局今の日本は低負担中福祉ぐらいですね。これ
からはというと、良くて中負担中福祉、数からいくと低福祉にならざるを得ないん
でしょうね。

山崎:日本社会の調整能力からいうと、インフレが実質的な増税になってバランス
するような感じですか。

河野:ひょっとしてリフレを言っている人は、増税が議会制民主主義のもとでは難
しいから、増税の代わりにインフレタックスをやって財政問題を解決しようとして
いるのでしょうか。

山崎:インフレであり金融抑圧でありという形以外では解決できないでしょうね。

北野:そういう意味ではその議論はまだ何も解決されてないということですよ。日
本が選ぶべき進路について、えんえんとやっているけどまだ解がない。

河野:増税も歳出削減もできないから、我が国はインフレタックスを選ぶというな
ら、そう国民には説明しない、と。

村上:このくらいのサービスを求めるのだったらこのくらいの負担が必要だという
アナウンスメントはメディアからも全然ないんですね。政府が何でもやるべきだと
いうメディアのほうが人気がありますから。

河野:日本は特殊ですよね。他の国では、社会保障の拡充を言う左派が増税を受け
入れているのだけど、日本の場合、リベラル派が社会保障の拡充は言うけれど増税
を否定していますから。それが長年にわたって増税ができなかった一番の理由です。


歌謡曲から観た時代の変化。
以前にも「企みの仕事術」で言ったが、同じ様な論評があったので、書き出してみる。
50年代、歌謡曲が人々の苦しみと悲しみ、そして希望を受け止める器であった
時代の日本では、時代の空気の変化を、多くの日本人は同じ歌謡曲の中に見つけ、
共有していた。さらに、それは、70年代初めから反米と青磁の時代空気の中で、
抽象的な非共同体的な風景を新しいサウンドで見せるJポップとなっていく。
もはや1つの曲に多くの国民がなみだした歌謡曲の時代でもなく、どこにもない場所を
求めたJポップの時代でもない。音楽への嗜好が多様化し、オタクカした時代で
ある現在の実情から時代の変化を感じる必要がある。

々の記録6(ふるさと納税、ピケティ再録、タテ社会の人間関係)

ふるさと納税についてNHKで特集をしていた。
私の考えの浅さが分かった。
ふるさと納税はもともと、地方の自治体の施策に賛同した人が、その自治体に寄付と言
う形
で、納税するものである。その分だけ、今住んでいる自治体から免税もされる。
最近、このふるさと納税が初めの趣旨とは違う形で、結構盛んになっているとのこと。
その要因は、ふるさと納税を納めた人にその納税自治体からその地域の特産品などを
もらえることにあるようである。納税額の5割から8割相当の特産品がもらえる。
いわば、特産品のネット通販の行政版になっている。
納税する人は、その自治体の政策や施策に賛同するという政治参加の行動意識よりも、
全くの消費者行動となっている。
それが、昨年度は130億円にもなるのであれば、問題も発生してくる。
大きいのは、納税者の住んでいる自治体の税収入が、ふるさと納税された分だけ
減ると言うことである。もともと、これは、東京一極集中で、疲弊している地方の
活性化のためが基本趣旨であったのが、趣旨とは異なり、自治体間の競争を
生み出しているのだ。
しかし、この傾向は強まることはあっても、減少することはないのであろう。
自治体も、更に豪華な景品や、サービスでこのふるさと納税を増やそうとしている。
確かに、北海道の東川町などは自治体の税収の倍になるふるさと納税額が
寄付されている。これで、町は、いままで出来なかった育児向けの強化や
街のインフラ造りに使っている。

しかし、当初の趣旨に沿って、街の活性化にこれを活用している自治体もある。
埼玉県の宮代町では、そのホームページに町の施策を分かり易く、丁寧に
載せる事により、製作や施策への賛同を得て、幾つかの事業をふるさと納税で
対応している。納税者は、その景品欲しさではなく、町としての行動に共感
しているのである。今、少しづつながら活況化しつつあるクラウドファンディング
の行政版である。
もう少し、この手法考えるべき時期でもあるようだ。

家族や地域が変わった。
監督の山田洋二さんが最近の社会の変化について、危機感を持っている。
60年代以降の高度成長時代を経て、経済優先の生活は便利、豊かになったが、
家族と言う社会の基本個体が壊れつつある。更に、過疎化や高齢化の進展に
伴う地域でのつながりも少なくなり、崩壊の危機を迎えている。
さらに、恐いのは、インターネットの拡大、スマホの拡大に伴い若い人が
人間そのものへの関心を低くし、社会的なつながりを知らないまま、大人に
なって行く、という現実がある。便利さ、豊かさとの引き換えに、人間と
しての行動規範、思いやりなどの心の豊かさを失いつつある。



ある地方の信用公庫の話
原点回帰でビジネスを見直す
落合氏は大手にできず、小さな組織にしかできないこと、つまり「自分たちの非価格競
争力をどう持つか」を徹底的に考えた。「その答えが原点回帰でした。私たち信用金庫
の設立趣旨は相互扶助であり、利用者保護が目的です。それを徹底的に追求する決断を
し、ビジネスモデルの変革に着手しました」力を入れたのが『お客さま支援センター』
の開設だ。

「相互扶助の金融業として、地域の困った中小企業にお金をちゃんと貸す。貸した相手
が経営不振になると私たちも潰れてしまいますので、お客さまの問題点や課題を解決す
るお客さま支援センターに力を入れる。言ってしまえば当たり前のことを当たり前にや
ったということです」

金融業がコンサル機能を持つという発想は、落合氏が理事長に就任する前から業界全体
で言われていた。しかし、相談業務は利益を産まず、短期的に見るとコストばかりがか
かる非効率な業務。そのため、金融機関の行うコンサルは実効性が極めて低かった。

それでも「大手では非効率となることも、工夫次第では効率に変えられる」と規模の小
ささを逆手に取ってコンサル機能の充実に邁進した。「課題は自社だけで解決しようと
してはいけません。特に中小企業は人不足だから問題がどんどん先送りになってしまう
」。
同金庫の『お客さま支援センター』では、内部だけでなく、東京大学などを含め外部に
1000を超える組織とパートナーシップを結び、外部人材を活用することで、あらゆる課
題解決に対応できる体制を構築した。企業の相談は販路開拓や経営革新、事業承継や再
生計画策定、海外進出など多岐にわたる。「企業からの相談に対しては、相談内容だけ
でなく、どのような経営者や企業に、どのような人材を提供するべきかという判断が重
要。専門家ネットワークだけでなく、専門家の目利きと言ったノウハウが当金庫の強み
になっています」

人事戦略が変革を後押し

続けて変革期に活躍できる人材について、「世の中や社会やお客様が悪いという他責タ
イプではなく、自分が変われば変えられると思う“自責”タイプ。そして、何事も“ポ
ジティブ”に捉える人。そして“プロ意識”が高く“自ら仕事をする”タイプ。さらに
“スピード”や“遊び心”が大切」と語った。同金庫はそれらの人材を揃え、活躍させ
る人事戦略も優れている。優秀な人材を確保するため、一人あたりの人件費は業界内で
も高い。中途採用も40歳以上は前職で年収1000万円以上の人材でないと採用しない方針
もある。

「給料の高い安いは、払っている名目賃金ではなく、実質賃金で見る必要があります。
1000万円払っている職員はそれ以上に利益をもたらしてくれる優秀な人材。しかし450
万円の職員
は自分の給料分も利益を上げていないこともある。能力が高いから給料が高いというの
は、スポーツ選手の年俸と同じです」と、実質賃金を重視する。

また、ボーナス査定も同役職でも250万円以上の差をつけるなど成果を出した人を評価
する制度を徹底している。それ以外にも定年制の見直しや、若手職員を積極登用する立
候補制度など、職員の競争意識を高める人事制度が同金庫の変革を大きく後押しした。
ビジネスモデルの転換という決断、それを後押しする人事戦略の構築にリーダーシップ
を発揮する落合氏。経営者としての成功のキーを次のように語った。

「トップが一つの事象をピンチと見るか、それともチャンスと見るかが大事です。変革
期には何もしない方が、リスクが大きいこともあります。自然界は強いものが生き残る
のではなく、変化したものが生き残っています。強かった恐竜やマンモスは生き残れな
かったが、小鳥は生き残っている。企業も同じです」落合氏の包み隠さず何でも語る姿
勢に、参加者からの質問が積極的に飛び交う会となった。



格差、限界集落などのキーワ-ドで伝えられる様に、社会は変化し不安定な時代を
迎えている。それが、インターネットの拡大、IT技術の急激な進歩により、
多くの人々に新しい対応を迫っているが、その多くは現状に固執し、自分の足元が
変わりつつある事を認めない。3つの壁、意識の壁、知識の壁、行動の壁を乗り越えよ
うと
するものは少ない。
ピケティの本が読まれるのも、少しはその認識があるものが、何故、どうして、の
状況を知りたいための1つかもしれない。

「21世紀の資本論」で伝えたかったことは何ですか?
ピケティ教授:
欧米や日本などでは、暮らしは楽にならないのに、金持ちばかりがいい思いを
していると感じている人が増えています。多くの人が今の資本主義の姿に
疑問を持つようになっているのです。 私は、誰のもとにお金が集まってきたのか、
歴史をさかのぼって明らかにしたいと思ってきました。
所得税制度が作られたのは、フランスなど欧州各国やアメリカでは1900年
前後です。日本ではもう少し早く始まりましたね。相続や資産に関するデータ
については、イギリスやフランスでは18世紀にまでさかのぼることができます。
無味乾燥なデータが、実は、私たちの暮らしそのものを表しています。
Q:
調べた結果、何が分かりましたか?
ピケティ教授:
とりわけヨーロッパや日本では今、20世紀初頭のころと同じくらいにまで格差
が広がっています。格差のレベルは、100年前の第1次世界大戦より以前
の水準まで逆戻りしています。
Q:
資本主義が問題なのですか?
ピケティ教授:
資本主義を否定しているわけではありません。格差そのものが問題だと言うつもり
もありません。経済成長のためには、ある程度の格差は必要です。
ただ、限度があります。格差が行きすぎると、共同体が維持できず、社会が成り
立たなくなるおそれがあるのです。どの段階から行きすぎた格差かは、決まった
数式があるわけではありません。
だからこそ過去のデータを掘り起こして検証するしかないのです。

■水はしたたり落ちなかった
富裕層と一般の人の間には、はじめは大きな格差があっても、経済成長による
賃金の上昇などを通じて、上から下に水がしたたり落ちるように富が広がり、
格差は徐々に縮小していくと言われてきました。
しかし、ピケティ教授は、20か国以上のデータを分析した結果、日本を
含めたすべての国で、そうではなかったと指摘。例外は、皮肉にも2つの
世界大戦の時期で、このころだけは格差は縮小したとピケティ教授は言います。
■なぜ格差は広がったのか。
富を手に入れる方法を単純化すると、
▽一般の人のように、働いて賃金やボーナスを受け取る方法と、
▽資産家のように、金融資産の利子や株式の配当などを受け取る方法があります。
ピケティ教授は、富裕層の資産が増えるスピードが一般の人の賃金などが増える
スピードを上回っていることが問題の根源だと強調。つまり、働いて稼ぐよりも
相続や結婚などを通じてお金を受け取るほうが手っ取り早いというのです。
そして、
▽資産を持つ者がさらに資産を蓄積していく傾向がある、
▽格差は世襲を通じて拡大すると結論づけました。
分厚い経済専門書がいったいなぜここまで幅広く受け入れられたのか。ピケティ教授
は大きな背景として、次のように述べています。
今、世界では、排外的な動きや極右の動きが広がっています。この裏には、
格差問題を簡単に解決できず、それにみなが気づいていることがあります。
国内で平和的に解決できないと、国どうしの緊張、世界レベルの紛争に
つながってしまいます。
こうした不安に加えて、私は、富裕層の側にも、このまま格差が拡大して
分厚い中間層がなくなると、ビジネスが成り立たなくなるという警戒感
があることも背景にあると思います。これは、アメリカの企業経営者や
政府関係者と話していて、特に感じることです。

具体的に見ていきましょう。米国の上位10%の所得階層が国全体の所得に
占める割合を見ると、1910年には約50%でした。その比率は次第に減少し、
第二次世界大戦後は30%程度にまで下がります。ところが2010年には、
再び50%ほどへと大きく上昇しています。
富の不平等についてはどうでしょうか。1910年には、上位10%の富裕層が
国全体の富の80%を占めていました。大戦後にその比率は60%程度にまで
減少しますが、2010年には再び上昇して70%近くになっています。
こうした不平等拡大の背景には、資本対所得比の上昇があります。これは、
国内総生産(GDP)に対して国民全体が持っている資本蓄積(総資産)の割合です。
1910年には、資本対所得比は約700%の高い水準でした。それが戦後、戦災
による設備や家屋、インフラの損耗などもあり、200%程度にまで下がります。
それが2010年には500~600%へと増加しているのです。



「資本対所得比が上昇しているということは、蓄積された資本が投資などでうまく
回れば、資本所得(企業収益、配当、賃貸料、利息、資産売却益など)が
増えるということを意味します。つまり、富を持つ者はそれだけ大きな所得
を得て、ます資本収益率と経済成長率の乖離を指摘
ピケティは資本対所得比の上昇についてさらに経済理論的に深掘りして、
資本主義の基本特性として、資本収益率(r)と経済成長率(g)の乖離を実証的
に明らかにしています。資本収益率とは、投下した資本がどれだけの利益を
上げているかを示します。経済成長率はGDPがどれだけ増えているかです。
歴史的に見ると、戦後の一時期を除いて、資本収益率は経済成長率を上回って
いるというのがピケティの注目すべき指摘です。つまり、「r>g」という不等式
が基本的に成り立つということです。

gの増加は中間層や貧困層を含めた国民全体を潤しますが、rの増加は富裕層
に恩恵が集中します。gよりもrが大きい期間が長くなればなるほど、貧富の
格差は広がり、富が集中化していく。これがベルエポックと「第2のベル
エポック」における格差拡大の真相ということになります。
その意味で、rとgが逆転した1914~70年の約60年は画期的でした。戦後の
人口増加や雇用増に直結する技術革新によりgが上昇したことで、不平等
が是正されていきました。とりわけ第2次世界大戦後の30年間は「栄光の30年」
だったと言えま目に見えない形で「世襲の復活」が進行
では、どうして1980年代に「栄光の30年」は終わりを迎え、現在は再び
資本収益率(r)が経済成長率(g)を上回るようになったのでしょうか。
その一因として、ピケティはロボットやITの活用を挙げています。
ロボットやITの発達により人間は仕事を奪われ、賃金も増えず、消費も
増えないため、GDP成長(g)も抑えられていきます。一方で資本はロボット
やITによって労働コストなどを抑制し、資本収益率(r)を回復しているのです。」



そのうえでピケティは、世襲の復活について警鐘を鳴らしています。
「第2のベルエポック」で大きな資産を築いた富裕層がその資産を子孫に
継承することで、100年ぶりに世襲による階級が復活しつつある。
しかもそれは、巧妙かつ目に見えない形で進行しているといいます。

■低成長、人口減少の日本
ピケティ教授は、日本についても語っています。低成長、人口減少が続くと、
格差が拡大しやすくなると警鐘を鳴らしました。
日本は見事に逆戻りしています。1950年から1980年にかけて目覚
ましい経済成長を遂げましたが、今の成長率は低く、人口は減少しています。
成長率が低い国は、経済全体のパイが拡大しないため、相続で得た資産が
大きな意味を持ちます。単純に言うと、昔のように子どもが10人いれば、
資産は10人で分けるので、1人当たりにするとさほど大きな額になりません。
しかし、1人っ子の場合、富をそのまま相続することになります。
一方、資産相続とは縁がなく、働くことで収入を得て生活する一般の人たちは、
賃金が上がりづらいことから富を手にすることがいっそう難しくなっています。
その結果、格差が拡大しやすいのです。

■では、どうする?
それでは、いったいどう対応すればよいのか。
この論争で賛否が激しく分かれているのが「解決策」です。ピケティ教授は、
富裕層に対する課税強化を訴えています。
格差を縮小するには、累進課税が重要で、富裕層に対する所得税、相続税の
引き上げが欠かせません。国境を越えて資金が簡単に動かせる今、課税逃れを
防ぐために、国際的に協調してお金の流れを明らかにするなど、透明性のある
金融システムを作ることが必要です。
これには、世界中の富裕層などから猛烈な反発が起きました。稼いでも
その多くを税金として納めるとなると、新しいアイデアやビジネスを生み出す
意欲がそがれて、経済全体が停滞してしまう、というのです。
富裕層の富の拡大を抑えるのではなく、最低賃金を引き上げたり教育の機会を
充実させたりして、一般の人の収入を底上げするべきだという意見も出ています。

■広がる論争
この格差の問題、最近、国際会議でも大きなテーマになっています。また、
この夏以降、アメリカの大手金融機関や格付け会社が相次いで「行きすぎた格差
がアメリカ経済を弱くする」などと指摘。資本主義をいわば象徴する組織
の報告書に、正直驚きました。
世界の議論は、格差のあるなしではなく、「格差は拡大している」というのを
前提にして、いかに是正していくかという、新しい段階に入ったと私自身は
感じています。日本を含めた各国で、どう議論が深まっていくのか、
注目して見ていきたいと思います。


たて社会の人間関係は大分昔に読んだが、なるほどと思っただけで終わっていた。
中根さんの本は結構読んだと思っているが、古い本含めほとんどの本を捨てたので、
記憶が曖昧。
著者は、
日本では会社や大学のような所属機関や村のような一定の地域と言う場が重視されると
指摘している。会社など自分が所属する集団への帰属意識の強い日本社会の特性を
鮮やかに切り取っている。しかし、これは和辻さんなどが家、そしてその村を生活の
基本として既に分析している。
日本人は、自分を位置づける時、家、村、会社といった枠を重んじ、その中では、
たての人間関係が重要視される。ここ最近の社会の動きでは、少しその関係は弱く
なった様であるが、まだまだ序列と言う意識は高いようである。しかし、2008年を
ピークに人口が減少しつつある中、地域の相互扶助が困難となっており、場を
持たない人はドンドン孤立していくことになる。このため、自治体、村、地域は
横の連携を強めることの意識改革と行動が迫られてくる。特に、伝統行事が人手
不足の関係から廃れていることは、地域活性化にも大きな負の要因となる。
実態として残る縦社会を既に進化しつつあるネットワークを中心とした横のつながりを
加味することで、この課題を超えることが必要な時期でもある。

ピケティの言葉
格差問題について議論を巻き起こしたことを、どう感じている?

日本をはじめ世界中でこの本が歓迎されたのは、一般の市民が経済の知識にもっと親し
みたいというニーズがあったからだと思います。
経済学は大げさなものではありません。
本の中で、資本と所得の歴史を明らかにすることで、経済学者だけに任せておけない重
要な問題があることを指摘しました。
私が予測した資本主義の未来について、誰かが異議を唱えても全くかまいません。
本を書いた一番の目的は、読者が所得、富、資本などといった問題を考えられるように
なってほしいからです。
これまでの格差問題で主に焦点が当てられてきたのは、労働者の賃金でした。
OECD=経済協力開発機構の報告でも、その待遇改善が格差を縮める解決策とされて
きました。

一方、ピケティ教授が注目したのは労働者の賃金ではなく、株や不動産、預金などの資
本でした。
この資本が格差拡大の大きな原因ではないかと考えたのです。
まず、資本はどれくらいあるのか。
調査によると、世界中の労働者や企業が1年間に生み出した富に対して、資本の量はそ
の4倍以上蓄えられていたことが分かったのです。
ではこの資本を一体誰が手にしているのか。
アメリカの場合、トップ10%の層が全体の70%の資本を保有しています。
それに続く40%の中間層が25%。
残り僅か5%を50%の人たちが持っていることが明らかになりました。
一握りの人が資本を独占的に保有していることが、現代の格差を生み出しているとして
います。

ところが、これまで経済学者の定説では、こうした格差は最初広がっていても、経済成
長をすればその差は縮まると考えられてきました。
ノーベル賞を受賞したアメリカの経済学者が、20世紀前半のデータをもとに明らかに
しました。
実際に格差が縮小する現象は、先進各国で見られました。

ところが、ピケティ教授が範囲を広げて調べると、予想外の事実が見えてきました。
差は縮まるどころか、常に開いていたのです。
格差が一時的に縮小していたのは、戦争で資本が破壊されたり、戦費調達のため所得税
や相続税が引き上げられたことなどが原因だとしています。
21世紀には、少子化で遺産が分割されないまま受け継がれることで資本を持つ階層が
固定化、格差が一層開く「世襲資本主義」の時代になるとしています

●アメリカではこの30年、成長した分の7割余りが上位10%の人たちの手に渡った
?


偏り過ぎですよね。
経済の成長が極めて好調だったら正当だったかもしれません。
年間成長率が10%だとしたらその人たちが見返りとして富の7割を得てもいいでしょ
う、それでも偏り過ぎですけど。
問題は、この期間のアメリカ経済の成長が、歴史に照らすと比較的平凡だったというこ
とです。
1人当たりのGDPの年間成長率は、平均でおよそ1.5%にすぎません。
これで富の7割が上位10%の手に渡れば、残りの国民にとっては大損ですよね。

●本で“格差は潜在的には、それは現代の民主社会にとって基本となる能力主義的な価
値観や社会正義の原理とは相いれない水準に達しかねない”と記しているが、このまま
だと危機が生じると感じている?

格差それ自体は妥当な水準であれば問題ありません。
イノベーション、成長のためにはある程度は必要です。
しかし、問題は極端な格差です。
あまりに大きすぎると、やがて社会の流動性を失わせ、経済成長にとって有益ではあり
ません。
さらに民主主義を脅かします。
政治的な発言力や影響力において、極端な不公平さを招きます。
例えば、政治運動への献金やメディアを通して過度な権力を手にした場合、それは潜在
的な脅威になると思います。
●保護主義やナショナリズムが台頭してくることを懸念している?

はい、これは大きな脅威です。
ナショナリズムの台頭は、格差が引き起こすとてもネガティブな政治問題です。
日本やヨーロッパは極端な格差の状態にはありません。
しかしこの数十年で拡大しており、これからも拡大する可能性があります。
今のうちに対処したいのです。

●成長によって誰もが豊かになるという、経済のいわゆるトリクルダウン効果について
どう見る?

※トリクルダウン
高所得層や大企業の経済活動を活性化させることで、富が低所得層に向かって流れ落ち
、社会全体の利益につながるとの考え。


市場任せでは、すべての問題を解決できません。
私は市場も競争も支持していますが、万能ではないのです。
私たちは市場のトリクルダウン効果に期待し過ぎるところがあります。
それは、うまくいくこともいかないこともあります。
競争を促す力が格差をなくす方向に働くこともあれば、その逆に働くこともあります。
自然に任せておけば釣り合いが取れると考えるのは誤りです。

●市場メカニズムの万能性は信じていない?

私たちには、資本主義や市場の力をコントロールする民主的な制度が必要です。
そして利益が資本と労働のどちらか一方だけに偏らないようにしなければなりません。
(つまり、資本・資産の拡大と格差の広がりをコントロールできなくなってきた?)
世界経済の成長のスピードに比べても最も豊かな富裕層の割合が異常な速さで増え続け
ています。
こんなことは、もちろん長続きしません。
これからどうなってしまうのか誰にも分かりません。
この、私たちが分からないこと自体が問題なのです。
まず何が起きているのかを知る必要があります。
金融の透明性を高め、国境を越えて、資本に関する情報を共有するのです。
そうすれば、たとえ何が起きていても対処することができるのです。

●本の中で、世界のGDPの10%近くの富が行方不明だという研究者の報告を引用し
ているが、多くの資産が世界のどこかに隠されていて、だからこそ透明性が重要だと考
えている?

そのとおりです。
タックスヘイブンこそが極端な格差を生む大きな要因です。
これは民主主義に対する挑戦です。
金融の透明性を高め、国境を越える資本の情報を自動的に共有できるような仕組みが必
要です。
もしタックスヘイブンを放置したまま貿易自由化を続け、多国籍企業に最小限の課税も
せずにいたら、グローバル化は自分たちのためにならないと考える人が増えるでしょう
。

ですから、透明性を高めるためのあらゆる手段を取る必要があるのです。

動画を見る
“不平等”にどう向き合う ピケティ教授の提言
ピケティ教授が、このままでは格差はより深刻化すると警告する資本主義の未来。
資本を持つ人とそうでない人との格差をこれ以上広げないために、ある対策を提唱して
います。


それは、資本に対する課税です。
しかし政府が課税しようとしても、資本の所有者は税金の安いほかの国に移動させ、逃
れる可能性もあります。
そこで、こうしたグローバルに移動する資本に対して、各国が共同して課税できる仕組
みを作るべきだとしています。



この意見に対し経済学者やメディアの中から、経済成長を妨げるうえ、実現不可能だと
して反発の声が上がっています。
しかし今、世界では資本に対して課税を行う仕組みが検討され始めています。

資本に対するグローバルな累進課税、あまりに理想的すぎるのでは?


すぐに完璧なグローバル政府が出来て、対処してくれるなどとは思っていません。
しっかりと理想を掲げ、少しずつできることを考える必要があります。
私の理想は、各国政府が税制度を改善して国際的な透明性の向上など協力を進め、同じ
方向に進んでいくことなのです。
国際的な協力が得られないからといって、何もせずにいていいわけではありません。
国際的な協力を求めつつも、自分の国で今できることをやるべきです。
できることはたくさんあります。
税の国際的な引き下げ競争のせいで何もできないというのは、大げさどころか大間違い
です。

●本の中で、100年前には所得税も反対されていたことを引き合いに出しているが?

格差と課税の歴史は驚きに満ちていて、100年前、所得税は決して実現しないといわ
れていましたが、今では当たり前です。
そしてつい最近も、日本で相続税の累進制が引き上げられました。
これは富に対する税金です。
何しろ日本は、ヨーロッパの多くの国々と同様、ある問題に直面しています。
人口の減少により、アメリカ以上に過去に蓄積された富の相続が社会に与える影響がま
すます大きくなっていくはずです。
日本では所得の格差はアメリカほど大きな問題になっていないと思いますが、過去に蓄
積された富と相続された資産の増加は、アメリカより多いのです。

それゆえ、日本社会において相続された資産が、今後10年でさらに重要になるかもし
れません。
これに対処するために所得や収入が伸び悩む一方、富が膨張している時代においては中
間層と低所得層の所得税率を少し下げたほうがいいかもしれません。

●焦点は、格差が正当であるかそうでないかということ?

そのとおりです。
(それが民主主義にとっても最も重要?)
格差は、公共の利益の範囲内であれば正当化されます。
正当化されるなら格差は認められます。
でも困ったことに、すべての格差が正当化できるわけではないのです。
だから格差が行き過ぎず、正当化される範囲内であることを検証する組織や政策の必要
性を忘れてはいけないのです。

●何があなたを突き動かしている?

私は民主的な議論ができるよう情報を提供し、社会をよくしたいのです。
もちろん、本一冊では小さな一歩にすぎません。
それでも1人でも多くの人に、自分で考える市民になり、政府に圧力をかけ、この社会
と経済に主体的に参加してほしいのです。
結局、この世界を作るのは私たち1人1人なのです。
こんな重要なことを一部の専門家に委ねてはいけないのです

本の締めくくりより
“市民たちは、お金やその計測、それを取り巻く事実とその歴史に真剣な興味を抱くべ
きだと思うのだ。
お金を大量に持つ人々は、必ず自分の利益をしっかり守ろうとする。
数字との取り組みを拒絶したところで、それが最も恵まれない人の利益にかなうことな
ど、まずあり得ないのだ。”

すべての人がこうした問題を直視するべきです。
経済学は何も分からない、私には複雑すぎる、自分の意見なんてない。
いいえ、誰でも意見はあります。
誰でも意見を持つべきです。
そしてそれは、問題を理解したうえでの意見でなければなりません。
(お金を大量に持つ人々は、必ず自分の利益をしっかり守ろうとする?)
ええ、それは人間の本性です。
つまり多くのお金を持っている人は、中には気前のいい人もいるかもしれませんが、経
済ゲームに勝利したことが公共の利益にもかなっているというふりをして、格差が正当
だと主張するのです。
彼らが常に間違っているとは言いません、誠実なときもあるでしょう。
でも常に正しいわけではない。
だから彼らの主張をよく調べて、その言い分が正しいのか間違っているのか見極めるこ
とが重要なのです。
(常にみんなでチェックをしていく?)
そうです。

日本であれ、欧米であれ、先進国は1970年以降経済的な不平等は拡大している。
ピケティ教授は、特に人口減少が続く日本では、低い成長率や資産の相続によって、今
後、富の集中、格差拡大が加速するおそれがあり、相続の恩恵にあずかれない若者が自
分で働いた所得だけでは家を持つことが困難になると警告しています。
経済的不平等のしわ寄せを大きく受ける若者に対するさまざまな施策や、男女共に働き
やすい環境を整備して少子化問題に取り組むことこそが、日本では経済的な不平等の拡
大を防ぐためにも極めて重要だという、ピケティ教授の指摘が強い印象を残しました。

日々の記録7(西加奈子、白川静、百名山走破、減少の恐さ、中国事情変化、 ingress 、ジビエ料理、蓬莱橋、1979年)

朝から茜色の朝陽が小さな雲と一緒に見えていた。
比良の山は白い雪帽子が頂上の稜線と空の間に残っているが、少し前の黒々とした
木々のまといとは違う姿を見せている。薄ぼんやりと薄いベールを被ったような
山並がこれもやや薄れた蒼さの見える空とそれを取り巻く春の陽光の中に悄然と
立っている。今年初めて見せるその姿は、それだけで春の訪れを告げている様
でもある。
少し視線をずらせば、いつも見えるはずの湖の蒼さも対岸にある山並もその
ベールの中に消えている。存在するはずのものがそこに見えないと言う感触は、
自分の存在さえ否定されているようでなにか不思議な思いに駆られた。
しかし、この身体にまとわりつく心地よき温かさと柔らかな日差しは間違いなく
春が我が身にもにじり寄ってきている事を感じさせ、家の前を行きかうお年寄り
の顔にも冬の間見られた固く黒ずんだ陰りが柔らかく赤みを帯びたそれに変って
いた。皆が新しい光の中で、生きていた。

雲が全てを覆い隠していた。
比良山の頂のいまだ残る雪もまったくその雲の中に隠れ、わずかに杉の木立ちが
山の瀬戸際を切れ切れの底から顔を出している。湖も一番手前の砂浜をわずかに
見せる程度で立ち尽くす雲の群れの中に隠されていた。


居酒屋のグローバル化
日本独特の居酒屋が世界に広がっている。
元々、江戸時代より酒屋が始めた一杯飲み屋が源流である居酒屋も、そのメニュー
の多さ、安さ、美味しさから大手チェーン店を中心に伸びてきた。
それが小泉さんとブシュ大統領の非公式な付き合いで使われた事から世界的にも
IZAKAYAの名前で広まってきた。
国内では、家庭、会社、そして第三の場所としてノミニケーションを通じた
憩い、癒しのための空間として活用されている。
しかし、外国における居酒屋のコンセプトは少し違うようだ。
外国の場合は、一緒に行くのはほとんど友達が中心であり、会社の同僚や上司と
いくという日本の場合と大きく違う。さらに、外国では美味しくて安い料理を
静かに味わうのが基本であり、日本の様に馬鹿騒ぎをして上司や会社の不満
や愚痴を言う事はない。日本の家、会社がその人間にとっての一体化した
ものである日本の文化土壌と個人主義の確立した欧米などとの違いがそこ
にあるようだ。


岡山県真庭市勝山に暖簾街道と言うのがある。
この地域は昔は、町を流れる旭川を使って地域の特産品を瀬戸内海側に届けたり、
水運業が盛んであった。しかし、鉄道の発達により今はその面影はない。
19年前に地域の若者が町を活性化する目的で、暖簾を多くの家でかけようと
活動を始めた。いまは、700メートルある街道の家々には夫々想いを
こめた暖簾がかかっている。鬼、トマト、川の風景など様々な色合いと
模様が町全体に風情を見せている。


武田鉄也の漢字紹介のテレビを見た。
自身の人生分岐点で、それに相応しい漢字1字をその漢字の意味から
解きほぐすものである。
親、戯、懐、可、初、歌の6つであったが、中々に興味ある内容である。
この解釈は「白川静」と言う学者が古代文字をその成り立ちや背景から
解釈したものである。
人生の振り返りでそこに漢字1字を当ててみるというのも面白い発想である。
例えば、歌の場合は、可が左に二つあり、これは神への供え物を現し、しかも2つもあ
る。
右の欠は人が神へ強く祈る様を表しているとの事。この2つの組み合わせから、
歌は「神への願いを強く迫る事」の意味となる。

今、人気のある作家の西加奈子をアサイチで見た。
猫描写の1つとして「きりこについて」を読んだ時にはそれほどとは
思わなかったが、今日のテレビでの話からその文章の鋭い書き方に感心した。
一つ1つの動作について書き込んだ文章は、特に人の足元や顔つきの変化など
日頃の観察の凄さとそれを表現する言葉の選び方が凄い。
彼女が反芻するというと言う「トニーモリスンの青い眼が欲しい」がその微妙な
表現の原点との事。一度、読む必要があるかも。
基本的には、情景の詳細な記述も必要であるが、人の起こす小さな動きをキチンと
捉え、それを出来ればストレートに表現できるスキルが必要である。


金沢スポット
すしタクシーが面白そう。近江市場に旬なさかな。
新幹線のお弁当が美味しそうである。その日に捕れた魚の刺身弁当


googleマップ直線距離
http://japonyol.net/editor/distancia.html

タイムラプスって、結構使えるかも。
http://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/1410/15/news057.html


人口減少の恐さ
ピークとなった2008年から人口は、2020年には、ほとんどの都道府県の人口が
減少し、秋田などは27%の減少を示す。このままでは、2050年には、国土の
61%が無居住地域となる。また、少子化は高齢者の比率を高め、2025年度には、
年金、医療、介護などの社会保障寄付費が150兆円近くに増加する。
その最大の原因は、団塊の世代が病気や認知症、要介護状態になる75歳以上に
なることだ。国内総生産に占める給付費のが7%とか8%となり、経済成長率を
大きく上回る事になる。また、1980年代に人口の増加に合わせて、多くの
公共施設が建設されたが、これらも耐用年数を迎えても、人口減少に伴う
税収の落ち込みにより、補修、維持することも困難となる。
日本はまさに、滅び去る老国となるのだ。

ドナルド・キーンは言う。
日本の文化は世界の勝者となった。
その起源は、室町時代の足利義政の美的趣味から始まっている。
日本人は、過去の歴史や慣習を簡単に手放してしまった。戦後の風景を今では
ほとんど思い出されないであろう。
しかし、古典のみからは得られない日本の姿を現代の視点で見る事を教えてもらった。
グローバル化が進む中、日本文化は世界に何を貢献できるのだろうか。
高齢化、機械化が進み、膨大な余暇を手にした人類の未来には、日本の第2芸術が
役立つと考える。
素人が参加できる第2芸術が日本では非常に豊かに育まれている。格式のある
家元制度から地域の集まりまで、多種多様な組織が共存し、老若男女が研鑽を
積みあう。
それが日本の美意識を支えている。
能、文楽、歌舞伎のファンが増え、茶道、華道、書道など、日本人の向上心の源
である「道」は、世界へ広がる。

滋賀県がロケーションジャパンの対象に選ばれた。
交通アクセスが良く、昔ながらの里山風景や歴史的建造物が多くあるのが評価された。
るろう剣心での彦根城周辺や近江八幡の堀、日野城跡、日吉大社などが使われた。
詳細は、滋賀ロケーションオフィスのホームサイトに、湖岸や神社仏閣、廃墟などの
内訳で載っている。
http://www.shiga-location.jp/
これに、志賀の観光事業を組合すのも、1つかもしれない。


総移動距離7800キロ、累積標高差10万メートル!200日間かけて日本百名山に
“人力のみ、一筆書き”でチャレンジする壮大な旅。
深田久弥「日本百名山」が出版されてから五十年。
日本百名山すべての頂を登り、その間、一切交通機関を使わず、自分の脚とカヤック
だけでつなぐ、途方もない挑戦の記録が放映された。
「日本百名山完全人力一筆書き踏破」
挑むのは、日本を代表するプロアドベンチャーレーサー
田中陽希。
4月1日屋久島・宮之浦岳からスタートし、北海道・利尻島の利尻岳まで総移
動距離7800km、累積標高10万mを、およそ200日間で踏破した。
目的が明確であり、ハロルドフライの旅とは大分違うが、例えば途中次の山へ行く
ために、480KMも徒歩で行くのだから、その点の苦しさは同じであろう。
歩きながら寝てしまうというその過酷さ、身体が完全に消耗し、39度の熱に
悩まされ、5日間の点滴を含む休養を取らざるを得なかったことや筋肉痛が酷く、
三日ほど歩けなくなったこともある。最後の試練は利尻島までをカヤックで行く
のだが、時化のため、12時間以上を海上で悪戦苦闘する様は、とても真似できない。
2000メートル級の山を百座達成するだけでもとても想像を絶することであるが、
平地ではそれ以上の苦しみがあったようである。
彼が途中で、歩くことはいいことと言うのを聞き、我が身にも力を与えた。

スタートは、世界遺産・屋久島の宮之浦岳から。山桜が咲き始め、屋久杉の巨樹
も新緑に萌える屋久島を、南から北へと縦断する。
旅の最初の難関は、屋久島から九州までの大隅海峡約90㎞をシーカヤック
で渡ることだ。
速い潮の流れで知られる危険地域。手にマメを作りながらも2日かけて渡りきる。
九州本土に到着すると円錐形の開門岳を登り、薩摩湾沿いを北上。霧島山を登り、
祖母山、そして、九州を代表する火の山・阿蘇山、久住山を登頂する。
関門トンネルを渡り本州へ。ここから日本海沿いに500kmのロードをひたすら歩き続け
る陽希。
そして中国地方唯一の百名山で信仰の山としても知られる大山を登る。
さらにここから150km南下し瀬戸内海へ。しまなみ海道を渡って四国に上陸。
四国の誇る2つの霊山・石鎚山と剣山を登る。ここまでスタートから1か月。旅はまだ
まだこれからだ。
次は、紀伊半島から北上し、北陸の山々を巡り、南アルプスまでの日本百名山13座に
挑む旅。四国・鳴門海峡から紀伊半島へカヤックで渡った陽希は、世界遺産・
大峯奥駈道のある奈良・大峰山へ。さらに日本有数の多雨地帯として知られる
大台ケ原山を目指すが、そこでは意外な人との出会いが・・・。続いて、
向かったのは北陸。
天気の崩れを心配した陽希は、一日のうちで踏破を目指すが、想像以上の雪と
強風でペースが上がらない。
白山から南下し、いよいよ南アルプスへ。だが旅を始めて2ヶ月、疲労も
ピークを迎え、さらに今年の南アルプスは残雪が多いと聞き、不安を隠せない陽希。
聖岳、赤石岳、荒川岳そして日本第二の高峰・北岳と3000M峰が次々連なる
深い山塊を、アイゼンとピッケルを使いながら、安全なルートを見つけながら
進まねばならない。
一歩一歩注意深く進み、頂きへと登った陽希を待っていたのは、圧倒的なアルプス
の眺望だった・・・。
日本第二の高峰・北岳を後に、残る南アルプスの鳳凰三山、甲斐駒ケ岳、仙丈ヶ岳
へ向かった田中。しかしこの時、関東甲信越は梅雨に入る。降り続く雨と足元の残雪
とに悩まされながらの登山となった。
続いて、駒ヶ根から空木岳、木曽駒ヶ岳の中央アルプスを登り、さらに独立峰・
木曽御嶽山を踏破すると、いよいよ百名山のうち十五峰が並ぶ、北アルプスへ。
その全てが3000M級という「日本の屋根」だ。
上高地から、穂高岳、常念岳、槍ヶ岳と憧れの高峰を次々と踏破。続いて笠ヶ岳、
鷲羽岳、水晶岳などの北アルプスの核心部へと向かい、さらに黒部五郎岳、
薬師岳、立山は大展望が楽しめるパノラマルートを楽しんだ。
しかし最大の難関がこの先にあった。北アルプスで最も難しいといわれる“雪と
岩の殿堂”劔岳。雪の残るこの時期は、現地ガイドも脚を踏み入れないほど
危険度が増す。
さらにその先にある、標高差2000mある黒部渓谷。まだ雪深いの6月の黒部の深い谷を
どうやって越えるのか。そして最後にそびえる、後立山連峰の稜線にも「八峰
キレット」と「不帰劔」と呼ばれる2つの難所が待ち構えていた。
数々の難関を抜け、白馬岳まで歩ききった田中の目には、一筋の涙が。1ヶ月
に及ぶ辛く長い日本アルプス大縦断の旅を歩ききった安堵の涙だった。
すでに、甲信越・関東地方の百名山33座を巡った。
日本アルプスを無事踏破した田中は、梅雨の湿気と暑さに悩まされながらも、
雨飾山・妙高山・高妻山など上信越の山々を巡り、50座目の折り返しとなる浅間山
に登頂。さらに7月として過去最大の台風が接近する中、八ヶ岳連峰のスピード登山
を敢行する。台風通過後、奥秩父の瑞牆山、金峰山などを経て「奥秩父の異端児」
と呼ばれる両神山では連続する鎖場に挑戦。さらに、日本一の山・富士山では0号目か
らの
登山に挑むが、ここで左肩を脱臼するアクシデントが。
富士山を下山後、首都圏に突入した田中を待っていたのは、大勢のファンたち。天城山
、
丹沢山、そして筑波山へと至る道中でも山頂でも、毎日応援を受け続け、田中は
戸惑いを感じ始める。そんな中、田中は群馬みなかみ町で体調を崩しダウン。
旅始まって以来の発熱で、5日の足止めを余儀なくされてしまう。だがその間、改めて
「旅を通じて地域の山々の魅力を伝えたい」という初心に立ち返った田中。
苗場山、平ヶ岳、至仏山など、関東残りの山々を登るうちに、少しずつ体調も戻り、
自然体で、山と人々との出会いとを楽しむ姿があった。
東北から北海道の山々23座を巡り、ゴールとなる利尻島利尻岳へと到達する。
尾瀬を出発した田中は、会津駒ケ岳、磐梯山、安達太良山を経て、福島と山形の
県境にある吾妻山へ。東北の山々は数は少ないが、大きな山塊が続き登りがいのある
山ばかりだ。飯豊山、蔵王山、朝日岳、さらに北上し、出羽三山の月山、鳥海山
へと登る。
岩手県に入ると、遠野の早池峰山、岩手山、秋の気配を感じながら八幡平を歩き、
八甲田山、そして、本州最北の百名山、岩木山を登る。
竜飛岬から津軽海峡をカヤックで渡ると、北海道はすでに秋から冬へ。高山では雪も
降り始め、時間との勝負が始まる。
帆尻岳から十勝岳、大雪山、トムラウシの2000m峰を雪が降る前にクリアできるの
か。さらに阿寒岳、斜里岳、羅臼岳を登れば99座。ここから稚内まで400kmの道のり
だ。
利尻島までのカヤックが最後の難関となる。果たして田中は、最後の利尻山まで、
210日以内で無事たどり着く事が出来るのか。

現代においては書籍というより「国内100座の名峰」として広く認知されている。
深田自身の経験から品格、歴史、個性を兼ね備え、かつ標高1500m以上の山から選定さ
れた。
今や山を登る者の間ではひとつのブランドとなり、幅広い年齢層の登山者を山に駆り
立てる1つの要因ともなっている。
【考 察】 日本百名山の功罪について考える
お気に入り詳細を見る
100名山の全踏破を目標にする登山者やスピードを競う人も現れ、多様な関わり方
があることが分かる。人気の高まりから登山道も整備され、ビギナーでも親しみ
やすい山が多い。
日本百名山 (新潮文庫)深田久弥
2014年で発刊50年を迎える「日本百名山」は刊行当時、登山界からはほとんど関心を
向けられなかったが、文学界からは高い評価を受けた。当時の山の雑誌の関心は
登山技術や登山記録に偏っており、山の品格、歴史、個性を2000字に込めて描き、
山の世界を深めた深田の仕事に対し適切な評価をするだけの力を持ち合わせていなかっ
たと言われる。山の本というだけでなく文学的にも優れた名著!

ingressの活用
このingressは、単なるゲームではないと思う。また、ゲームに限定してしまうのは、
もったいない。今考えている地域の観光事業の活性化の1つとして、極めて有効である
。
地域の史跡を登録し、それを順次適当に巡ってもらいながら、スタンプラリー的に
その地域を楽しんでもらう。地域の飲食店にも参加してもらう事で、その地域の
食の楽しみも味わってもらう。
Googleの「Ingress」というゲームに、いよいよiOS版が登場しました! これまでは
Android版のみで、Facebookで友人が楽しそうに遊んでいるのを眺めては、iOS版の
リリースはいつかいつかと心待ちにしていました。ついにリリースです!
「Ingress」とは?
内容はブルーとグリーンに分かれて戦う陣取り合戦のようなもので、現実世界の地図
を利用しますので、陣地をキープするために自分が移動しないとならない訳です。
移動手段はなんでも良いのですが、せっかくなのでダイエットも兼ねて徒歩で‥‥
と思ったら、初日から10km以上を歩くことになってしまいました!
「Ingress」初心者に向けて
開始2日目で何を偉そうに、と言われてしまいそうですが、関西と関東の先輩プレイヤ
ー
から指南頂き、なんとか「Ingress」がどういうゲームなのか朧げながらも像が見えて
きました。英語のゲームということもあって、プレイしているけどどうしていいか
分からない、という人もいると思うので、そういう人向けに、この2日間で教えて
貰った知識、ノウハウなどをまとめておきたいと思います。


百日紅(ひゃくじつこう)と言う北斎の娘のお栄を描いた映画が出来た。
北斎を知る参考になるのでは?
因みに、百日紅は別名サルスベリ。
百日紅(サルスベリ)の花言葉とは?
百日紅の花言葉には
 一体どのような言葉が使われているのかというと、
 以下の言葉が使われているのです。
 百日紅の花言葉一覧
 ・雄弁(ゆうべん)
 ・愛敬(あいけい)
 ・不用意
 ・潔白
 ・あなたを信じる
 ・活動
 ・世話好き
 これらの言葉が
ちなみにこの言葉のうち
 「雄弁(ゆうべん)」には、人の心を動かすように力強くしゃべる事
 という意味を持っており、
  「愛敬(あいけい)」には、人から愛され敬われること
 という意味を持っております。
  こうして百日紅の花言葉を見るととっても良い言葉が使われています。
  ちなみに百日紅はなぜ「サルスベリ」と呼ばれているのかと言いますと、
  百日紅の樹皮(じゅひ)が柔らかくて木登りが得意な猿ですら
 滑って木に登ることができないからというのが由来となっています。
 
伝統的な手すき和紙は、昨年11月に、石州半紙(島根)、本美濃紙(岐阜)、
細川紙(埼玉)の3つがユネスコの無形文化遺産となった。伝統工芸を
継続させるという点では、喜ばしいことであるが、生産者の減少、原材料、用具
等の生産基盤の衰退により厳しい状況となっている。
需要の減少が大きく、後継者がいない。職人としての生活が出来ないことが
大きな要因である。和紙は世界的にその修復に使われており、その特性は素晴らしい。
しかし、絶対量が少ないことが大きいようだ。


中国の社会が変わってきているとのこと。
それが、あきらに出ているのが、旅行ブームと買い物ブームであろう。
中国人の訪日旅行や買い物ブームが空前の盛り上がりを見せていることはお聞き呼び
のことと思う。その直接的なきっかけは円安で日本の商品やサービスが一気に割安にな
ったことだが、これはいわば外部的な環境の話である。今回、中国の人々の日本に対す
る関心が急激に高まっている背景には、こうした外部要因に加え、中国人、中国社会の
「心の持ち方」の変化という内部的な要因がある。実はこちらのほうが本質的な話と言
えるかもしれない。今回はこの話をしたい。
新しい消費者の出現
1月下旬、ある著名な中国の経済ジャーナリストが発表した文章が、あっと言う間に
全国に拡散、国営テレビや中国共産党機関紙までがその現象を取り上げるという一種の
社会現象にまでなった。「日本に行って温水便座を買う」と題するその文章は、中国で
は最も著名な経済ジャーナリストの一人、呉暁波氏が書いたものだ。日本のメディアで
も一部、伝えられたのでご覧になった方もあるかもしれない。 
「洗浄便座作れる日本を見習え」 中国の共産党機関紙、日本ほめる異例のコラム(
産経ニュース2015年2月9日) 
仕事上の会議のために沖縄を訪れた筆者(呉氏)は、そこで大量の電気炊飯器を購入
する中国人旅行客の一群に遭遇する。1人で6個も買っている人がいる。話には聞いてい
たが、日本の炊飯器はそこまで魅力的なのか。筆者は帰国後、広東省に講演に出かけた
際、中国最大の電気炊飯器メーカーの技術者にわざわざ会い、聞いてみた。 
 「日本の電気釜は本当にそんなにすごいのか」 
 「材料に大きな技術革新がある。米粒が輝いていて、ベタつかず、本当に素晴らしい
  。サンプルを買ってきて研究している」 
 「それでもできないのか」 
 「いまのところ方法がない」 


ジビエ料理の人気が高まっているとのこと。
猪や鹿などの鳥獣の年間被害額は199億円にもなる。
かならずしも、鳥獣を殺傷する事がよいとは、思えないが、例えば、鹿の場合は、
年間50万頭の割合で増えているとのこと。これでは、人間世界への影響も大きい。
この解決策の1つとして、毎年捕獲、殺傷する鳥獣を「ジビエ料理」として
広く活用していこうというのが、特に自治体の思いである。滋賀でも、以前から
鹿肉を加工しレストランなどに提供している地域活動グループもいる。
全国的には、「伝統肉協会」と言うのがある。
また、エゾシカの増加で悩む北海道の町では、エゾシカ食肉組合を作って、体系的に
鹿の捕獲を推進しているところもある。鹿肉などの流通には、3つの問題があり、
その解決を図りながら、鹿を一定以上増やさず、市場に供給している。
安定供給のためには、大型の捕獲の仕掛けを14箇所に造り、毎月500頭以上の
鹿を捕獲している。また、安全性については、独自の衛生基準ガイドラインを設定
して、加工の段階で獣医がその肉の状態を確認しながら、製造をしている。
単に猟師がしとめるだけででは、殺してから加工するまで2時間以内に処理をする、
腸を撃つ事で地が全身に廻るなど、衛生的にも問題があるようで、安定的な供給と
同時にその肉の品質管理も重要となる。
また、価格設定も3ランクに肉のレベルを設定する事で従来は猟師と加工業者の
対面的な決め方をより標準的な形にしている。


世界一長い木造の橋
蓬?橋(ほうらいばし)は、静岡県島田市の大井川に架けられた木造橋(歩行者と自転
車
の専用橋)である。全長は897.422m(巾2.7m)。法律上は農道に分類され、島田市役所
農林課の所掌である。
明治12年(1879年)1月13日 - 完成。
牧之原台地の開拓農民らの出資により建てられたため、関係者以外からは通行料金
をとったことから、現在も賃取橋(有料)である。
昭和40年(1965年) - 橋脚がコンクリートパイル化される。
平成9年(1997年)12月30日 - ギネスブックに「世界一の長さを誇る木造歩道橋」
として認定。

人の歩く距離
女性タレントが1週間、東海道を歩いた記録。
http://www.tbs.co.jp/g-muscle/corner2/1weak/040526/main.html
最大で1日に62.7キロも歩いてます。平均でも40キロを超えています。
7日で名古屋まで行っているので、8日目には三条大橋でしょう。

江戸時代の旅行者は1日に十里歩いたと言われ、12?15日かけたと言われています
(物見遊山入り)。
先を急がない旅だと1日5?6里(20?24キロ)くらいです。
十里は40キロです。距離は上に出したタレントと同じくらいですが、条件が違います
。
宿場は夜間になると木戸が閉まりますから、早めに到着して日の出とともに出発するた
め、1日の移動時間が12時間ありません。タレントは15時間は歩いています。
江戸時代の人が現代の道を、現代人と同じ装備(特に靴)で歩いたら、もっと歩けるで
しょう。
逆に、現代人が当時の道を歩いたら、装備に関係無くもっと遅くなると思います。

個人的な例ですが、江戸時代に使われていた細い街道(=山の尾根道)を歩いたら、
25キロで嫌になりました。
普段から歩いている方で、アスファルトの平地なら15キロ(2時間ほど)くらいなん
ともありません。
それが6時間で25キロのありさまでした(笑)
江戸時代の東海道は、メインストリートといっても急な登り下りが結構混ざっていまし
たので、私の場合、江戸時代の東海道を1日40キロは無理だと感じています

アメリカ軍の爆撃
終戦近くの日本への爆撃の凄さを知った。すでに防空能力を失った日本への爆撃は
東京、大阪などの主要都市中心と思っていたが、日本各地にかなりの数で行われていた
。
特に日本の全面降伏を意図した日本への上陸作戦の推進のために南九州地域への
爆撃はひどかった様である。その爪あとは今でも残っている。軍関係の施設への爆撃は
当然であるが、小学校や一般民家への銃撃やロケット弾による攻撃も行われた。
その記録がアメリカの戦闘機に取り付けられたガンカメラが入念に撮っている。
それらの攻撃記録が日本にはほとんど残っていないと言うのが、なんとも腹ただしい
が、このガンカメラの記録から攻撃された街や地域の特定をしているグループが
あるということも驚きでもある。消え去りつつある戦後70年の時の中で、
これも1つの使命なのかも知れない。

50代男の嫌われ方

個人的にも日常の中で1番イラっとするのはR50のスーツ組。あ、勿論全員じゃありませ
ん。そういう局面に遭遇した時、該当者を見ると大抵がスーツ姿の「オジサン」ってこ
とで。
 
電車の席は当然のように1.5人分のスペースを取り、新聞もしくはiPadやスマホを肘を
張った状態で閲覧。足を拡げて腿が隣の席の人に当たっても気にしない。人の足を踏ん
で謝らないのもこの世代。スーパーでは2列並びか1列並びか確認もせず列の真ん中に陣
取り、注意をされると怒鳴り出す。飛行機内ではCAさん相手に小さいことで文句をつけ
る。あー、電車や飛行機の遅延で駅員さんや空港スタッフに唾を飛ばして怒っているの
もコノ世代がダントツ。仕方ないじゃん、その人に詰め寄ったって電車や飛行機は動か
ないよ。

「オバサン」たちの迷惑行為も良く語られますが、「オジサン」と「オバサン」の迷惑
行動って、基本的に違うんですよね。つまりオジサンはその行為が迷惑と自覚した上で
「俺はOK」ってモードでやっていて(確信犯、ってヤツです)、オバサンは無意識、も
しくは集団パワーにより迷惑行為に及んでいるワケです。
 
だから、注意を受けた時のオバサンのリアクションは「あらー、ごめんなさいねぇ」「
え、そうなの? 知らなかったわ」「やだー、怒られちゃった」が大半で、強く逆ギレ
するのは少数派。
 
コレがオジサンになると、先程挙げた例や、件の指定席問題のヒトのように「何でこの
俺様がお前ごときにダメ出しされなきゃいけないんだよ!」と、大抵の場合逆ギレ方向
に向かい、より事態が大きくなってしまう。だったら最初から常識外の行動なんて取ら
なきゃいいのに。
 
……と、ココまで書いてふと気づきました。
 
新幹線の指定席についてバカッターな書き込みを全世界に発信した前述の先生、炎上後
もご自身の言動に関して特に何のフォローもせず(むしろたまにリプライしてくる人を
やり込めて遊んでる)、TLに自著の話などを織り込んでくるところを見ると、自らの“
炎上”に乗っかっちゃった感もあったりなかったり。この一件で彼のフォロワー数は8
倍の5ケタに膨れ上がってるし……さらに良く見るとアカウント……「ジャイアン」じ
ゃん!

1979年は新しい時代への入り口
1979年を振り返ってみると、1月には米中の国交が樹立、2月にはホメイニーが亡
命先のフランスからイランに帰国、4月にイスラム共和国の樹立が宣言された。言うま
でもなくイスラム教はその後の世界に大きな影響を及ぼしている。5月には、イギリス
でサッチャーが首相に就任、新自由主義的経済政策を推進した。6月にはヨハネ・パウ
ロ二世が祖国ポーランドを訪問。この訪問は東欧の人々に大きな影響を与え、非暴力の
抵抗運動はやがて共産主義体制の崩壊をもたらす。11月にはテヘランでアメリカ大使
館占拠事件が起こった。12月にはアフガニスタンでソ連の軍事介入によるクーデター
が勃発した。中国ではこの年、鄧小平が経済改革に着手し、7月には経済特区が設置さ
れた。中国はいまや経済大国と呼ばれるまでに発展している。つまり1979年は、社
会主義の終焉、市場経済の台頭、宗教の政治化が始まった年だった、、、

日々の記録8(無常観、限界集落、比良八講、西本さん近江文学、群青の湖、比良のし ゃくなげ、桂米朝)

ingress実践をする。
http://dekiru.net/article/5052/index.shtml

日本遺産
滋賀県は提案した7件から「琵琶湖とその水辺景観-祈りと暮らしの水遺産」
が認定を受けた。湧き水を家に引き込む「川端(かばた)」など水と生活が
調和した景観や、いかだ乗りを川の魔物から守るシコブチ信仰などの宗教、
ふなずしに代表される食など「水の文化」の深さをアピールした。
文化庁が、日本版の世界遺産として今年度から始めた「日本遺産」に
びわ湖の水と人々が織りなす文化が認定されました。
「日本遺産」は、海外からの観光客の増加につなげようと、文化庁が、
国内に点在する有形・無形の文化財をまとめて日本版の世界遺産として
認定する今年度からの制度です。
今回は全国から18件が選ばれ、滋賀県からは、びわ湖の水と人々が織りなす文化
を集めた、「琵琶湖とその水辺景観ー祈りと暮らしの水遺産」が認定されました。
びわ湖に面する県内6つの市にある、▽国宝に指定された寺院や、▽国の重要文化
的景観に選定された近江八幡市の水郷などが含まれています。
このうち▽大津市の延暦寺は、比叡山から臨むびわ湖を最澄が理想郷とたたえて
建立したとされています。
▽竹を編んで作った仕掛けでアユを取るびわ湖の伝統漁法「ヤナ漁」は、
高島市の安曇川で平安時代からの歴史があるとされています。
三日月知事は「滋賀県では、びわ湖を中心として『水の文化』が人々の暮らしの
中に脈々と育まれてきた。貴重な資源を次世代に引き継ぎ滋賀の魅力を国内外
に発信したい」というコメントを出しました。
福井県 ◎福井県
(小浜市,若狭町) 海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群 
~御食国(みけつくに)若狭と鯖街道~


日本の過疎地には6.5万の集落がある。限界集落は、65歳以上が半数を超え、
道や村の施設などの管理が困難になる集落を社会学者の大野晃氏が定義した事
に始まる。人口の2割以上を占める昭和1桁の世代の力が大きく、今まで
存続してきた。しかし、その世代も既に80歳を超えて、集落の終焉も見えている。
60年代の林業の衰退、70年代の工場誘致の失敗、土木工事を中心とする80年代
の活気ある町も公共事業の緊縮財政に伴う減少の2000年代となっていく。
そのような流れの中、新しい変化が起きつつある。「火や土があって、自然に生きる
暮らしを子供たちに教えたかった」と言う若い夫婦の移住に見られるような価値観の
変化である。ある四国の村では、そのような農山村に新しい生き方を見つけて都市から
移住してくる人が3年間で60人を超えた。便利さの陰で見落としていた農山村の
価値に気付く人が増えたのだろう。
農山村には、「自然と折り合って暮らす豊かさや集落と言う共同体に生きる幸せ」があ
る。
また、林業再生や木質バイオマス発電や有機農業の試みなど新しい生業が生まれつつあ
る。

「祇園精舎の鐘の声」で始まる軍記物語『平家物語』、西行の「桜の下にて春死なん 
その如月の望月の頃」に代表される散りゆく桜と人生の儚さ、吉田兼好の随筆
『徒然草』、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」で始まる
鴨長明の『方丈記』など、仏教的無常観を抜きに日本の中世文学を語ることは
できない。
単に「花」と言えばサクラのことであり、今なお日本人が桜を愛してやまないのは、
そこに常なき様、すなわち無常を感じるからとされる。「永遠なるもの」を追求し、
そこに美を感じ取る西洋人の姿勢に対し、日本人の多くは移ろいゆくものにこそ美
を感じる傾向を根強く持っているとされる。「無常」「無常観」は、中世以来長い間
培ってきた日本人の美意識の特徴の一つと言ってよかろう。
この「無常」を説明するのに、「刹那無常」(念念無常)と「相続無常」の二つの説明
の仕方がある。刹那無常とは、現象は一刹那一瞬に生滅すると言う姿を指し、相続無常
とは、人が死んだり、草木が枯れたり、水が蒸発したりするような生滅の過程の姿
を見る場合を指して言うと、説明されている。この無常については、「諸行無常」
として三法印・四法印の筆頭に上げられて、仏教の根本的な考え方である
とされている。
なお大乗仏教では、世間の衆生が「常」であると見るのを、まず否定し「無常」である
としてから、仏や涅槃こそ真実の「常住」であると説いた。これを常楽我浄と言うが、
これについては大乗の大般涅槃経に詳しい。
インドの仏教は、「すべてのものは無常である」と観ずる無常観を説きます。
この無常観は、人間が苦を脱却するための哲理としての無常観です。
どんな風に哲理なのかと言いますと、「無常」の「常」とは、「常にそのまま」という
ことで、それに「無」がつきますと、「常にそのままで無い」となりますので
「変化する」ということです。
何が変化するかといいますと、「すべてのものが」です。ですから私たちのこの体も
変化します。すなわち、刻一刻老化し、最後に死んでしまいます。このように観ずる
ことが無常観です。
ところが私たちは、若くありたい、死にたくないと思っています。そうすると、刻一刻
老化し最後に死ぬという「事実」と、私たちの「思い」とは食い違いを起こします。
そこに「苦」というものが起こる要因があるわけです。
この場合の「苦」の意味は、その原語である”dukkha”から「思い通りにならない
こと」という意味だとされています。
その苦を脱却するためには、「事実」と「思い」との間に食い違いを起こさない
ことです。
ところが、「事実」の方は変えようがありませんから、私たちの「思い」の方を換えて
「事実」に合わせるしかありません。
すなわち「刻一刻年を取り、やがては死ぬのだ」という思いに換えるのです。
そうすると「事実」との食い違いがありませんから、「苦」というものは起こらず、
心は平安となるというわけです。勿論その場合、自己の「思い」を換える程の
厳しい無常観が求められることになりましょう。
日本人は、仏教の説くこの「無常観」に大きな影響を受けたとされています。
人の命のはかなさ、世の中の頼りなさを歌った『万葉集』、無常を想う遁世生活
を述べた『方丈記』、「諸行無常」の言葉で始まる『平家物語』、更には〈能〉
の中にも無常観を表そうとしたものが多いと言われています。
しかしながら、これらは単に、人間や世間のはかなさ、頼りなさを情緒的、
詠嘆的に表現しようとした日本的美意識としての「無常感」であり、インドの仏教が
主張する、苦を脱却するための「無常観」とはかなり趣が異なります。
文学の世界だからというのではなく、日本では仏教の世界においても主体的な
苦の克服としての「無常観」は影が薄いように思われます。
漢字の「諦」の字は「真相をはっきりさせる」という意味ですが、日本語では
「あきらめる」という意味に変わります。この変化は、「観」から「感」への変化
と何か関係がありそうに思っています。

「群青の湖、芝木好子」
つづら折の湖畔をまわりきって、視界が変わり、広々とした湖の浦が現われた時、
岸辺に打ち寄せられたように小さな部落があった。風光の清らかな、寂とした、
流離の里である。

琵琶湖の秘した湖は、一枚の鏡のように冷たく澄んでいる。紺青というには
青く、瑠璃色というには濃く冴えて、群青とよぶのだろうか。太陽の反射が
湖面を走る一瞬に、青が彩りを変えるのを彼女は見た。

「群青の湖」に書かれた研ぎ澄まされた文章を抜粋してみた。 

「冬が来て、東京に雪の降る日が続くと、瑞子は琵琶湖の雪景色を思った。北の湖にし
んしんと雪が降るとあたりは白い紗幕に蔽われてゆき、群青の湖のみは白いあられをの
みもみながら、昏い湖底へ沈めていく。雪が止み、陽が射すと、雪でふちどられた湖は
蘇っていよいよあおく冴えかえる。・・・中略・・・瑞子は湖の永遠に触れて、片鱗で
もいい一枚の布にとどめたいと思うようになった」

「初秋の気配であった。湖水も空も縹色(はなだ)で小舟もない、鏡のような湖・・・
・」
「湖は深海よりも透明で、藍が幾重にも層を成して底から色が立つ・・・・」
「奥琵琶湖の秘した湖は、一枚の鏡のように冷たく澄んでいる。紺青(こんじょう)と
いうには青く、瑠璃色というには濃く冴えて、群青とよぶのだろうか」

最後に、
「いま 私に見えているのは、湖の生命と浄化の雪と枯葦の明るい茶なの。清らかな鎮
魂の布が織れたら、私の過去から開放され自由になれそうな気がするの。そうしたらこ
の次は、あなたをおどろかすような魅惑的な真っ赤な蘇芳(すおう)や、妖しく匂う紫
や、老いた女の情炎のような鼠茶や、いろんな色を糸に乗せて、思い切り織ってゆきた
い」と結んでいる。

滋賀県の地名として大津、近江八幡、大原、朽木、安曇川、そして菅浦が登場
してくる。
特に、菅浦に関する場面は、3回ほど出てくる。作家芝木好子にとっては、最も気に
入ったところであったのであろう。

 菅浦については次のように紹介している。
 岬へと進むほどに深山幽谷の眺めになって、町で見る湖とは趣が違う。つづら折りの
湖畔をまわりきって、視界が変わり、広々とした湖の浦が現われた時、その岸辺に打寄
せられたように小さな集落があった。
 風光の清らかな、寂とした、流離の里である。入り江に沿って漁船が舫っているが、
人の姿はない。閉ざされた集落だが、どこからか侵入者を監視する眼を感じる。
 
 里の入口に湖に面して神社があり、石の鳥居が立っていて、鬱蒼とした木立の山を背
に、奥深く参道が伸びている。鳥居の脇に古びた要塞門があって、由緒ありげな隠れ里
を思わせる。雪の残る山は深く敬虔な雰囲気を持ち、浮世の外に取り残された流謫(り
ゅうたく)の哀しみが漂って、心が惹かれた。
石段を登っていると森閑として、左右の繁みの下から狐狸でも現われそうだが、振り向
くと琵琶湖がみえる。参道は長い傾斜道で、しばらく登ると急な石段の上に白木の神社
が現われた。
履物を脱ぐこと、と立て札がある。

この作品は、昭和35年当時の話であるが、今も言葉通りの情景が伝わってくる。
やはり、ここは流離の里であった。

詩集北国「比良のしゃくなげ、井上靖」
むかし写真画報と言う雑誌で、比良のしゃくなげの写真を見たことがある。
そこははるか眼下に鏡のような湖面の一部が望まれる北比良山系の頂で、
あの香り高く白い高山植物の群落が、その急峻な斜面を美しくおおっていた。
その写真を見たとき、私はいつか自分が、人の世の生活の疲労と悲しみを
リュックいっぱいに詰め、まなかいに立つ比良の稜線を仰ぎながら、
湖畔の小さな軽便鉄道にゆられ、この美しい山嶺の一角に辿りつく日が
あるであろう事を、ひそかに心に期して疑わなかった。絶望と孤独の日、
必ずや自分はこの山に登るであろうと。
それから恐らく10年になるだろうが、私はいまだに比良のしゃくなげを
知らない。忘れていたわけではない。年々歳々、その高い峯の白い花を瞼に
描く機会は私に多くなっている。ただあの比良の峯の頂き、香り高い花の群落
のもとで、星に顔を向けて眠る己が眠りを想うと、その時の自分の姿の
持つ、幸とか不幸とかに無縁な、ひたすらなる悲しみのようなものに触れると、
なぜか、下界のいかなる絶望も、いかなる孤独も、なお猥雑なくだらなぬものに
思えてくるのであった。

現代人が進める開発と言う行為の中には、自然への畏敬の念が欠落していることが
多く、自然は一つづつ生命を終えていってしまう。比良にしかない清々しい魅力を
先人たちから私たちがもらったように、次代へも伝えてあげたい。

小説「比良のシャクナゲ」より
ここの主人が琵琶湖を賞するには、三井寺、粟津、石山、その他にも名だたる琵琶湖望
見の地は十指に余る。しかしこと比良を望むにおいては、湖畔広しと雖も、堅田に勝る
地はなく、特にここ霊峰館の北西の座敷に比肩し得るところはあるまいと自慢し、比良
の山容が一番神々しく見えるところから、この宿を霊峰館と名附けたのだと説明したこ
とがあったが、まことにこの座敷から眺める比良は美しい。

わしは家を出てタクシーをとめた時、殆ど無意識に堅田と行先を告げたのだが、わし
の採ったとっさの処置は狂っていなかった。わしはまさしく琵琶湖を、比良の山を見た
かったのだ。堅田の霊峰館の座敷の縁側に立って、琵琶湖の静かな水の面と、その向う
の比良の山を心ゆくまで独りで眺めたかったのだ。
 
堅田の浮御堂に辿り着いた時は夕方で、その日一日時折思い出したように舞っていた
白いものが、その頃から本調子になって間断なく濃い密度で空間を埋め始めた。わしは
長いこと浮御堂の廻廊の軒下に立ちつくしていた。湖上の視界は全くきかなかった。こ
ごえた手でずだ袋の中から取り出した財布の紐をほどいてみると、五円紙幣が一枚出て
来た。それを握りしめながら浮御堂を出ると、わしは湖岸に立っている一軒の、構えは
大きいが、どこか宿場の旅宿めいた感じの旅館の広い土間にはいって行った。そこがこ
の霊峰館だった。

「花と匂い 伊藤整」
文中で比良山さんの説明がある。
比良山と申しますのは、一つの山ではございません。比叡山の来たにつらなって、
琵琶湖の西岸に聳える武奈ヶ岳、釈迦岳、蓬莱山、打身山、権現山などを含む山地を
包括して比良山と申します。語源はアイヌ語のピラであるらしく、これは絶壁の
あるところ、または扇形にひろがった土地と言う意味だそうでございます。 


「幻住庵紀、松尾芭蕉」
石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ。そのかみ国分寺の名を伝ふ
なるべし。ふもとに細き流れを渡りて、翠微に登ること三曲(さんきょく)
二百歩にして、八幡宮たたせたまふ。神体は彌陀(みだ)の尊像とかや。
唯一の家には甚だ忌むなることを、両部(りょうぶ)光をやはらげ、利益
(りやく)の塵を同じうしたまふも、また尊し。日ごろは人の詣でざりければ、
いとど神さび、もの静かなるかたはらに、住み捨てし草の戸あり。
蓬根笹(ねざさ)軒をかこみ、屋根もり壁おちて、狐狸(こり)ふしどを
得たり。幻住庵といふ。あるじの僧なにがしは、勇士菅沼氏曲水子の伯父
になんはべりしを、今は八年(やとせ)ばかり昔になりて、まさに幻住
老人の名をのみ残せり。

五木寛之『蓮如』?われ深き淵より
井上靖『星と祭』
井伏鱒二『安土セミナリオ』
沢田ふじ子『比良の水底』
泉鏡花『瓔珞品』
永井路子『一豊の妻』
杉本苑子『埋み火』
水上勉『湖笛』
川端康成『虹いくたび』
立原正秋『雪の朝』〔ほか〕


今日は3月26日比良八講の日である。
近江舞子は白く長い砂浜と幾重にも重なるように伸びている松林に静かな時間を
重ねていた。冬の間は、この砂の白さも侘しさが増すのであるが、比良山系の
山に雪が消えるこの頃になると一挙に明るさを取り戻す。山々もここから見ると
蓬莱山、武奈ヶ岳、打身山などが何層にも重なり合い和邇から見える景観よりも
変化に富んだ顔を見せる。その幾層もの連なりには微かな雪化粧が残っている
ものの、すでに木々の緑がそのほとんどを支配し始めていた。
子供たちの声とともに和太鼓の激しい響きが聞こえてくる。その響きにあわせて
やや凹凸のある道を進んでいくと、左手に紅白の幕が風に揺られるように手招き
している。そして、松林の切れたその光を帯びた先に護摩法要のための杉の枝を
積み上げた小山が見える。小山といっても2メートルのほどの高さのものであるが、
周囲をしめ縄で仕切られ、祭壇が置かれているのを見ると、比良八講の四字が
たなびく旗とともに目の前に大きく浮かんでくる。護摩壇の先には、蒼い湖が
広がり沖島の黒い姿が見えている。陽射しはこれら全てに容赦なく注ぎ込まれ、
更なるエネルギーを与えているようにも感じられる。やがて、法螺貝とそれに
先導された僧や行者が念仏を唱える音、人のざわつきの音、道を踏みしめるなど
の様々な音とともに横を緩やかな風とともに通り過ぎていく。
そして、それに連なる祈祷を受ける人々の一団が思い思いの歩みで現われる。
背筋をキチンと伸ばしただ一直線に護摩法要の祭壇を見ている老人、数人で
談笑しながら歩む中年の女性たち、孫と手を携えている老婆、各人各様の想い
が明るく差し込む木洩れ陽の中で踊っているようだ。
そこには、信仰の重さは感じられない。
法螺貝が止み一つの静寂が訪れ、次へと続き僧や修験者の読経が始まり、
やがてあじゃりの祈祷となる。あじゃりの読経する声は1つのリズムとなり、
護摩法要の祭壇を包み込み、その声が一段と高まり、水との共生をあらためて
想いの中に沸き立たせていく。その声が参列する人の上を流れ、蒼い空の下でやや
霞を増した比良の山並に吸い込まれていく頃、護摩木を湛えた杉の小山に火
がかけられいく。
杉の小山から吐き出される煙はその強さと濃さを増しながら青き天空へと消えて
行くが、その煙が徐々に渦を巻き、龍がとぐろを巻くが如き姿となっていく。
下から燃え上がる炎と渦を巻き上げながら舞う煙が一体となって龍の姿を現し、
ゴーと言う音ともに比良山に向かっていく。ここに護摩法要は最高潮となり、
周りを取り巻く人々も跪き般若心経を唱え始める。
そして、この日から1週間ほどして、周辺の木々はピンクの色模様となっている。
比良山、その頂上にある雪もあとわずかの残り日を残すような風情であり、その
姿を写す舞子の内湖も比良の晴れ姿を映し、桜模様をなしている。
法要の効力であろうか、いまだ比良おろしは来ていない。


西本梛枝(にしもと なぎえ)の話を旅くらぶで聞いた。
詩集や旅の案内書、滋賀銀行発行季刊誌『湖』連載の「近江の文学風景」をまとめた
『鳰の浮巣』(サンライズ印刷出版部)『湖の風回廊』(東方出版)ほかで、「近江」
と関わりのある文学作品をきっかけにして、作家や作品をひもとき、 近江の魅力
ある風景、風土を再認識している。

カイツブリは人相(鳥相)の悪い鳥だ。その愛想のない面構えが好きだ。
雪のせいだろうか、いつもなかなか近づいてくれないやつが、近くまでやってきた。
さて、カイツブリというと頭に浮かんでくるのが芭蕉の句。
五月雨に鳰の浮巣を見にゆかん 松尾芭蕉
芭蕉の俳句の中でこの作品が優れているかどうかは別として、雨の中、鳰(にお…カイ
ツブリのこと)
の巣を見に行こうという芭蕉の気持ちに私の心は惹かれる。そんな意味で好きな俳句の
一つである。

http://www.shiga-bunshin.or.jp/rekisikairou/index.html
レイカディア講座
http://lacadia-clg.com/lacadia-clg-kusatsu-34-40-chiiki/senntsku/1206senntaku/
210802gakusyuumatome.html


春の趣きがあちらこちらから聞こえてくる。
残念ながら、今日は曇り、午後からはかなりの風が吹くとの予想だが、
今はその気配なし。
琵琶湖が灰色になった湖面を見せているが、更にその先には白い色紙の如き朝空の中に
灰色と黒、そしてグラデーションのかかった薄墨色の山々が何層にも重なり
合っている。
モノトーンの世界がこの坂の上から見る琵琶湖全体を覆っているようだ。
しかし、数ヶ月前の冬の情景とは違い、寂しさよりも静けさだけが目立つ。
春は人の心も落ち着かせるようだ。


桂米朝の話を聞いた。
上方落語の再生者である。戦後間もなく戦争や漫才などの人気に押され、上方落語
はその落語家が数人まで落ちて、消滅寸前であったという。そのような状態の中で、
米朝は入門する。
元々、上方落語は口承、伝承が基本であり、書いた資料はほとんどなかったとのこと。
それを現存の落語家や落語の好きな人から聞き取たり、江戸時代の古文書を調べたり、
様々な手づるを活用して180ほどの演目を復活させた。
更に、それらに時流のネタを加えたりもした。
はてな茶碗、、、、などがある。生涯5300回もの高座をした。
本人は、落語こそ「もっとも洗練された芸術」と言うほどに愛していた。
その著作である「落語と私」では、大きな事をするのではなく一日一日を
キチンとやって行くことが大切と言っている。
彼の芸風はその顔や仕草で何人もの登場人物を見事に演じ切る事にある。
また、彼の信条は「直ぐにチャネルを変えるような時代、落語の持つ言葉の
流れから徐々にその面白さを感じてもらえるように落語家は努力するが、
お客もそのように育てることにあった。

世界は殺人の嵐が吹いている。
イスラム国の残虐な行為が当たり前と受け取られる様なってほぼ1年。
イスラム教の教えとはいうが、単に殺しあう事に自分たちの存在を
認めさせようとしている。チュニジアの150人近い学生の無差別殺人や
ボゴハラムによる200人以上の少女の誘拐など、社会はそのときは
一時的に騒ぐが、それも時間が過ぎると忘れ去ったように次の事件へと
流れて行く。世界が傍観者化し、直接の被害者のみがその渦の中で、
自分の受けた傷を癒さざるを得ない状況である。

今、起きている海の異変
北海道の海は、これまでサケ、ホッケにホタテなどの豊かな漁場となってきました。
ところが、4年ほど前から、これまであまり見られなかったブリやマンボウ、
シイラといった魚が大量に押し寄せています。
この魚、もともとは本州から南でよく見られる魚です。
その一方で、北海道のなじみの魚介類の水揚げが減り始めています。
こうした海の異変は北海道の各地に広がっています。
サケの網にブリが大量にかかるようになり、日によってはサケよりも多いことがある。
3年前までは年間1トンほどだったブリの水揚げが、今年(2014年)はすでに
400トンを超えています。
沖縄などでよく見られる魚・シイラの群れです。
2年半ほど繰り返し北海道の海を潜ってきた私も出会うのは初めてでした。
さらにマンボウです。
マンボウは、北海道ではこれまで、時折迷いこんでくる程度でしたが、今年は、
網によっては毎日のように入り込むといいます。
天然のホタテの漁場も潜ってみることにしました。
すると、これまであまり見られなかったヒトデが急増していました。
北海道の北西部の礼文島(れぶんとう)。
コンブで有名なこちらの海。
沖合に進んでいくと、コンブを覆いつくすように別の海草がびっしりと生い茂って
いました。
これまで九州や中国地方などに多く見られていた「ヨレモク」と呼ばれる背の
高い海草です。
北海道全体の統計で、「ホッケ」の漁獲量が15年前の4分の1以下に減っている。
4年前から、春先の水温が、平年よりも2度ほど低くなっている。
夏から秋にかけての水温が最大で4度も上がっているのです。
魚にはそれぞれ生息に適した水温があるため水温が変化すると、
生息域が大きく変わってくる。

魚が取れない・日本の海に何が?
札幌市中央卸売市場で特に高騰しているのがホッケ。
いま全国のホッケ漁師たちが直面しているのが歴史的な不漁。
収入も減っている。
漁師・小西正之は「死活問題」とコメント。
資源量の推移(出典・水産総合研究センター)によると、アジやサバなど食卓
になじみの深い魚の資源量も軒並み減少。
その原因としてあげられているのが、温暖化による海水温の変化や魚の取りすぎ。
欧米諸国に比べると日本には漁獲量を制限する規制が少なく。
早いもの勝ちの漁獲競争に歯止めがかけられていない。
国による制限があるものの、上限は実際の漁獲量を上回り、サイズ規制もない。
漁師・西宮大和は最新の魚群探知機を導入。
見つけたのは成長前の小さなサバの群れ。
養殖魚のエサなどにしかならないが、網を入れた。
自分が獲らなくても、ほかの船にとられてしまう。
規制がない現状では、収入のためにやむを得ないという。
現実的に漁獲量も減り、サイズが小さくなっていることから、値段も
さがって経営が苦しい。
そうなると後を継がせられない。
結果として高齢化が進んでいるのが現状。
国による規制の効果はほとんどない。
漁業経営が厳しいことを考えて、頑張っても取りきれない漁獲量が
設定されているので、実際に漁獲にブレーキをかける効果がない。
魚が減り続けると、そのまま減ることになっている。
現場では魚が減っている。
漁業者のモラルの問題でなく、現在の制度の問題。
取らざるを得なくなっている。
取り残す制度がない。
規制がないことの漁業者は被害者。
テクノロジーの発展で漁業の能力があがるのに応じて、
魚を残すための制度も進化させないといけない。
サバの場合、小さいサイズだとエサにしかならないが、2年待てば
鮮魚サイズになり、高く売れる。
アマエビの場合、きちんとした規制ができたおかげで、自分たちが
獲らなかったものを後で獲れる。
だから漁業者は取り組める。
サバの場合、そういう制度がないので、自分たちが獲らないと
ほかの人が獲ってしまう。
きちんと取り残したものを、我慢したひとが獲れる仕組みを早く導入してほしい。
規制を入れる際は、どの国も苦慮している。
漁業者は最初は大反対する。
だが実際に規制が始まると、5年もしないうちに漁業が儲かるようになる。
そのため漁業者は支持するようになる。
だが最初の政治的ハードルは高い。
待つと価値は上がる。
きちんとした規制をいれ、マグロは6年間大きくしてから獲れるよう
にすれば、消費者もより多くのマグロを今より安く食べられるようになる。
消費者も漁業者も一時的な我慢ができるような支援を政治が支えることが必要。
規制があることで漁業は成長産業になる。
全体の利益が増えるビジョンを共有することと、我慢した人が報われる制度が必要。

日々の記録9(梁塵秘抄、ソーラー飛行機、蓮如上人御一代記聞書、3Dプリンターの 地域活性化、リディラバ)

人口変化,さすがマップ化されるとよく分かる
http://www.nikkei.com/edit/interactive/population2014/map.html

ブラタモリの鎌倉編を見た。
鎌倉石と言う加工のしやすい石材で作り上げた街。鎌倉は小山が多い街でもある。
材木海岸は遠浅で船着場としての活用が難しい中、和賀江島という人工の港を
1ヶ月で作り上げた。幕府の力は強かったのだろう。その影響で八幡宮を境にして
土地の高低差が大きくなった。砂丘となって市街地に寄って来たからである。
余り知らない鎌倉があった。詳細は別のページに金沢とあわせて、ある。

一瞬、すべてが自分の周りから消えた。目の前のずんぐりした身体に申し訳なさそうに
張り付いている頭の毛とその下にあるどんより曇った目、派手なピンク縞のネクタイ、
白く光る中に消えた。体がゆらぎ、手と足の先が見えない。今日は黒の革靴
だったんだけ、そんな考えが頭を支配していた。
そして、急激な感情が足元から突き上げてきた。俺はくびになったんだ、人生も
終わりだ。妻と啓太の顔が目の前に大きく写り、直ぐに消えた。目の前の常務の
口だけが動いている。金魚がえさを食べる時のようにただただそれは閉じたり
開いたりしているだけ。断片的に「明日から、、、、」
「和邇君どうした、、、」「まあ、君も頑張った、、、、」が聞こえてくる。
再び、あのどんよりした目と脂に汚れた歯だけが目の前に現れてきた。
それに向って私は言った。
「いつからですか」「わかりました」
冷静に答える自分がいた。周囲は既に何時もの部屋に戻り、目の前には何時もの
人間が愛想笑いをしながら立っていた。





ピンク色の小ぶりの花が幾重にも重なり合うように五月が庭を覆っている。その花に
一粒、二粒と雨がかかってくる。道路にもその水跡が初めは現われては消えていたが、
やがて小さな水模様となり次第に大きくなり、道路は水面となる。五月の周りある
紫陽花の葉、その花はすでに枯れ落ちているが、も降り落ちる雨に洗われる様に
先程より一段とその緑が映えていた。すでに、ポーチにも水が薄い膜を張るかの
如く雨が降り注いでいた。ガラス戸には、その雨が降り注ぐたびに一すじづつ
その軌跡が下へと続いている。少し目を上げれば、薄い光を含んだ雲間から幾筋もの
雨が注いで来るのが見えた。遠く琵琶湖は薄明かりの中で、八幡山や三上山の
灰色の姿を背景に静かな水面をたたえている。静寂という言葉が似合う情景に
思わず、ごくりとつばを飲み込んだ。雲の流れが少しづつ早くなっているのか、
黒く重たい雲が次第に私の前に現われてきた。
「今日は、もっと雨になりそうだな」思わず、気持が言葉になった。
午後の晴れと言う気象予報に期待していた私にとって、最悪の状態になりそうだ。
気持がさらに落ち込むのが感じられた。



5月の連休最中である。
世間では多くの人が何か楽しみを見つけようと動いているのだろう。
しかし、我が夫婦は少し違う。
先ずは、365日連休のような年金生活者となったからである。
さらに、人の多さが苦痛となって来た年齢であるからだろう。
代わりに、自然の中で過ごす事に幸せを感じる年齢になったからでもある。
今日は、雨の日。先日までの青空と強い陽射しはそれなりに素晴らしい日々を
与えてくれるが、このしっとりとした静けさは老夫婦にとって、恵みの雨でもある。
比良山は雲の中に顔を隠し、琵琶湖も遠い鈴鹿連山や八幡の山々が霞む中、
湖面の灰色と共にその静けさを漂わせている。気のせいか通り過ぎる車も
柔らかく微妙な音感を周囲に発しながら、この静けさに一種の高まりを与えていく。
2人の周り全てがゆるゆると流れる時間の中で進んでいるようだ。
我5人の同居人たちも夫々の思いや夢を描きながら、それぞれの姿でこの静けさを
味わっている。チャトはいつもの如く窓辺のソファーに、ナナは二階の
ママのベッドでお休みし、ライはレトと共にテーブルの椅子でノンビリと
毛繕い、ハナコも最近の生活パターンとなった二階の主人のベッドにナナに
睨まれながらも、堂々と寝ている。ママは小雨の中、芝桜やまだ咲かぬ紫陽花
に想いを込めながら小さな草花をいじっている。主人は、何をするのでなく、
漫然と庭の梅ノ木に滴り落ちる小雨の露をみている。
燕が一羽、軒先に飛んできた。新しい巣でも造ろうとしているのか、忙しく
羽を動かし、周囲を見回している。その羽音に気付きチャトが上目遣いに
燕を見ていたが、この静かさを破りたくないのであろう、その三角眼を
再び閉じていく。燕が飛び去った後には、しばらく音がこの家から消えた。

初夏の陽射しはきつい。眼を閉じその奥にある眼球までその光りが差してくる。
少し眼を開けると、その先にあるのは白く輝く蒼い空とそれを取り囲むかのように
風に揺られる緑の葉の群れである。
さらに細めた視線を下に向ければ、そこには数ヶ月前まで咲き誇っていた白の
西洋芙蓉や赤いガーディアン、さらには小粒のさくらんぼの白い花、全てが
消え去り、緑色一色に変わり、わずかな風の動きに合わせて様々な緑の模様を
描いている。中天からふり降りる強い光の中で、緑色に塗られた世界ですべて
がその生命を謳歌している様でもある。
私の身体にも差すその光りはその暑さと共に、生きるためのエネルギーも与えて
くれている。同時に、わずかな空気の流れが頬をなぜ、少しながらの安らぎを
与えてくれる。私と太陽の間を遮るものは何もない。
だらりと下げた指の先にわずかな動きを感じるが、多分、チャトなのであろう。
わずかにできた日陰の中に身を横たえ、私に寄り添うように寝ているはずである。
いつもそうなのだ。彼との付き合いは長いが、それがそろそろ終末を迎えよう
としている。私にも、猫の予知能力が移ってのか、それともチャトの予知能力を
ただ感じ取ったのであろうか、多分、後者のような気がする。彼も残された
日々を私と過ごしたいのかもしれない。

ハーブは薬草でもあるが、料理のスパイスにもなる。しかし、これらを使って料理を
するとか、何かの薬を煎じる事など考えもしない。ただ、全部ムラサキ色で庭が
咲き乱れた情景を思えば何かしたいという気持は起こる様だ。
ローズマリー、ポリジ、タイム、イリスバリダ、セージ、アマ、フレンチラベンダー、
ムラサキハナナ。

夢から引き戻されるように、朝の光りをまぶたに感じた。薄く開けた眼の先に軽く
流れるような朝日が窓辺に差し込んでいる。今日も天気だ、と思いつつまだ夢の中
にいたい。このまま起きると昼間がきついな、と半ば念じるような思いで眠りに
入ろうとする自分が居る。傍では、妻がナナにあっちにいって、もう少し眠りたいの、
とうわ言のように喋っている。たぶん、夢うつつの中でナナと会話をしているので
あろう。窓辺にかすかな影が動いている。部屋の外では、ライとハナコが大きな声で
何かを求めるように歩き回っている。多分、朝の食事がしたいのであろう。
人間とは違う習慣の猫たちは朝夕関係なく私たちに様々な要求をしてくる。
夢と現実の中で、行きつ戻りつ今日もまた朝を迎える。

ペットの高齢化が進んでいると言う。
日本では、今、犬猫合わせて2000万人の犬猫が居ると言う。この数字がどんな
形で把握できたのか分からないが、野良猫の多さを考えるとさらに多いのであろう。
飼っている人の比率では、50代が44.5%、40代が37.2%、60代が
36.4%と言われている。50代が多いのは少し意外だが、かなりの家でペットは
飼われ、しかも食糧事情や日本人の特性から家族の一員として大事にされる
こともあり、高齢化が進んでいる。昔は、10数歳で亡くなるのが多かったよう
であるが、今は20歳前後(人間で言えば、90歳)のペットが増えている。
このため、人間並みの介護が行われており、デイケアーサービスや歩けなくなった
ペットのための義肢具など、要介護度のレベルに応じた様々な介護サービスがある。
まさに人間の高齢者サービスがペットにも同様にビジネスとしても成り立つ社会なので
ある。
これはキリスト文化の世界のペットと人間の主従関係ではない、日本の家族意識化
の現われでもある。人の高齢化が進む中、よき伴侶としてペットは益々その必要性
を高めていくであろうし、たとえば、ペットと一緒に住める特別養護施設もある。


『梁塵秘抄』は、後白河法皇(1127-1192)によって、嘉応(かおう)元年(1169年)
頃にそのプロトタイプが完成し、1180年前後に補筆されたと考えられる、今様の歌詞集
全十巻と口伝集全十巻のことである。(口伝集第十一巻から十四巻も発見されているが
、歌い方や伝承など編纂前の印象もあり、解読も困難で、後白河法皇と直接関わりがあ
るのか不明である)そのうち、現存するのは歌詞集が巻第一の一部(309首のうち21首
)、巻第二(545首)、口伝集が巻第一の断片、巻第十(後白河法皇の今様歴)となっ
ている。
題目の『梁塵』とは、「梁(うつばり)の塵(ちり)」の意味で、虞公(ぐこう)・
韓娥(かんが)という歌の名手が歌うと、人々はなみだを流し、柱の上に掛ける横木(
梁・うつばり)の塵さえも響きに呼応して、三日の間静まらなかったという中国の故事
に由来する。
『梁塵秘抄』と言えば、
「近江の湖は海ならず、天台薬師の池ぞかし、何ぞの海、常楽我浄の風吹けば、
七宝蓮華の波ぞ立つ」
第二に収められた有名な歌である。
近江の湖、すなわち琵琶湖は、常楽我浄の風が吹き、七宝蓮華の波の立つ、天台薬師の
聖なる池だ。天台薬師とは、天台宗総本山延暦寺のある比叡山こそ日本の天台山であり
、
根本中堂の本尊は宗祖最澄が自ら刻んだという薬師如来立像であった。薬師如来の
いる東方瑠璃光浄土にあるべき宝池が、現実の琵琶湖の風光に二重写しになっている。

「誘給べいざたべ隣殿,大津の西の浦へ雑魚漉すきに、此の江に海老無し彼の江へ
往坐いませ、海老混じりの雑魚やあると」


「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえ
こそ動がるれ。
舞え舞え蝸牛、舞はぬものならば、馬の子や牛の子に蹴させてん、踏破せてん、
真に美しく舞うたらば、華の園まで遊ばせん。」
のような童心の歌が有名であり、あるいは
「東屋(あづまや)の妻とも終(つい)に成らざりけるもの故に、何とてむねを
合せ初めけむ。」
のように艶っぽいものもある。 しかし、数の多くを占めるのは
「仏は常にいませども、現(うつつ)ならぬぞあわれなる、人の音せぬ暁に、
ほのかに夢に見え給ふ。」
のような法文歌である。また、神社への道行や、風景を歌ったものも多い。

337 天魔が八幡に申すこと 頭の髪こそ、前世の報にて生いざらめ
    そは生いずとも絹蓋長幣なども奉らん
    呪師のまつりぬとただ秘せよ しないたまえ

(訳) 天魔が八幡神にこう言った
    「その頭がつるつるなのは 前世の報いでハゲたんでしょう
    髪の毛なんか生えなくたって
    絹蓋や長幣を着せて豪華にしてあげましょう
    呪師が奉納したんだと言って
    人には秘密にしておきなさい お取りはからいなさい」

425 聖の好むもの 比良の山をこそ尋ぬなれ
    弟子やりて 松茸、平茸、滑薄 さては池に宿る蓮のはい
    根芹(ねぜり)、根ぬ菜(ねぬなは)、牛蒡(ごんぼう)
    河骨(かわほね)、独活(うど)、蕨、土筆(つくづくし)

(訳) 修験者の好物なら 比良の山で探すといいよ
    弟子をやって 松茸 平茸 榎茸 それから池底の蓮の根っこ
    芹の根にじゅんさい ごぼう
    河骨 うど わらび つくしんぼ

梁塵秘抄の歌集
http://homepage3.nifty.com/false/garden/kuden/index0.html



ソーラー飛行機
3月に中東のUAE=アラブ首長国連邦を出発した太陽光発電だけで飛ぶ飛行機が、中
国・南京に到着して、地元で盛んな歓迎を受けました。化石燃料を使わない飛行機によ
る世界一周に成功すれば世界初の快挙で、飛行機は今後、世界一周に向けた山場ともい
える太平洋横断に挑戦することになっています。
この飛行機は、2003年からスイスで開発が進められてきたもので、3月9日にUA
Eのアブダビを出発し、およそ5か月かけて世界一周する計画です。
飛行機は1人乗りで、ジャンボジェット機に匹敵する72メートルある両翼に取り付け
られた1万7000個余りの太陽電池を使って、4基のプロペラを稼働させ、最高速度
は時速140キロということです。
4月21日の早朝、5か所目の経由地中国内陸部の重慶を出発し、1300キロ余り飛
行して、その日の深夜に南京の空港に到着し、盛んな歓迎を受けました。
計画の発案者で、飛行機を操縦するスイス人の冒険家、ベルトラン・ピカールさんは、
「16時間飛行して、半分は夜間だったが電池も十分あり、あすにも飛行できる
状態だ。この技術が飛行機だけでなく、あらゆるところに活用できることを知って
もらいたい」と述べました。
次の経由地はハワイで、5日間連続して飛行することから、世界一周に向けた大きな山
場ともいえます。出発は5月上旬の予定ですが、飛行機は雷や暴風雨に遭うと墜落する
おそれもあることから、飛行に適した気象状況を慎重に判断して出発日を決めることに
しています。
目的は再生可能エネルギーの本格的利用
プロジェクトを提唱したのは、1999年に気球による無着陸世界一周を達成したスイ
スの冒険家、ベルトラン・ピカール氏で、環境に優しい再生可能エネルギーの本格的な
利用を実現することが大きな目的です。
プロジェクトの総予算はおよそ1億5000万スイスフラン(日本円にしておよそ19
0億円)で、民間企業が出資したり、スイスの大学などが技術支援したりしています。
太陽光発電だけで飛ぶ飛行機「ソーラー・インパルス2」は、飛行機の両翼の長さはジ
ャンボジェット機に匹敵する72メートルあり、最高速度は時速140キロということ
です。
機体に1万7000個余りの太陽電池を貼り付けて、日中に余った電気を小型で軽量な
リチウムポリマー電池に蓄えて、夜間の動力源にすることができます。
完全に充電できれば、曇りや雨の場合でも10時間程度飛行できるということです。
操縦室は、大人1人が乗り込むのがやっとの広さで、暖房や気圧を調節する装置はあり
ません。
食事は特別に作った流動食で、操縦席で済まさなければならないほか、トイレは操縦席
の下に備え付けられ、密封性のある専用の袋を利用しています。
飛行ルート
3月スタートした今回のフライトでは、ベルトラン・ピカール氏とパイロット経験のあ
る事業家アンドレ・ボルシュベルグ氏の2人が、1人乗りの飛行機を経由地で交代しな
がら操縦しています。
「ソーラー・インパルス2」は、3月9日にUAE=アラブ首長国連邦を出発し、イン
ドやミャンマーなどをへて、4月21日に6番目の経由地中国・南京に到着しました。
これで7300キロ余りを飛行したことになりますが、まだ全体の5分の1で、世界一
周を達成するまでには2万8000キロ近い道のりが残っています。
飛行機は今後、南京を出発し、これまでの総飛行距離を上回る8172キロを飛んでハ
ワイに向かう予定で、その後もハワイを経由しての太平洋横断や、ニューヨークからの
大西洋横断など、最大で5日間にも及ぶ長時間のフライトが予定されています。
前人未踏の挑戦は早速、山場を迎えることになりそうです。
ソーラー飛行機 挑戦は日本でも
太陽光で発電したエネルギーで飛び続ける、ソーラー飛行機を実現させるための挑戦は
、日本でも進められています。
東京・青梅市の航空エンジニア、四戸哲さんのグループは3年前から、日本初の人が乗
れるソーラー飛行機の開発に取り組んできました。
開発中の機体は、全長およそ9メートル、翼の幅はおよそ17メートル。
木や発泡スチロール、それに炭素繊維などの軽い素材でできていて、重さは原付バイク
1台分ほどの80キロほどしかありません。
翼一面に張り巡らした太陽光パネルによって、ヘアドライヤー1つ分ほどの消費電力に
当たる700ワットの電気を起こします。
この電力でプロペラを回して、自力で離陸し、飛行を続けることを目指しています。
機体が完成した去年、福島県の飛行場で車で引っ張って加速し、機体をグライダーのよ
うに飛ばすテストを行いましたが、横風にあおられ、バランスを崩して失敗。
このときの教訓から、四戸さんは横風でも機体を制御できるよう翼に改良を加え、こと
し中の成功を目指しています。
四戸さんは、規模の違いこそあれ、自分たちと同じ挑戦を行っているソーラーインパル
スの動向を固唾を飲んで見守っています。
四戸さんは、「これまで世界中でさまざまなチャレンジがありましたが、ソーラーイン
パルスがその最先端を走っていると思います。
日中に発電して貯めた電気だけで夜間も飛び続けるという、技術は非常に
高いものです。
彼らのチャレンジを支える文化的な背景もあり、やりたいことを思いっきりできている
のが羨ましい」と話していました。
四戸さんのプロジェクトのメンバーは、航空工学を専攻する高等専門学校の生徒や大学
生などおよそ10人。
小型飛行機の設計から製作までをこなす四戸さんの技術を学ぼうと、ときには泊まり込
みで作業を進めてきました。
機体の製作や操縦を担当するサレジオ工業高等専門学校の卒業生、横山慎二さんは「も
のづくりには、技術も勉強もどちらも必要だということを、四戸さんから教わり
ました。
ソーラーインパルスに対しては、ライバルや憧れというよりも、本当にすごいなと感じ
ます。自分たちの挑戦は比べものにならないくらい小さいですが、自分たちの力を試し
たい」と話していました。
四戸さんは「自分たちのプロジェクトは若い世代に関心を持ってもらい、チャレンジで
きる環境を提供するのが趣旨で、そういう環境さえあれば、あとは自然に育って
いきます。
若い世代にものづくりの合理的な考え方を教えるのが、僕の使命だと思っています」と
話しています。

蓮如上人御一代記聞書
「南無阿弥陀仏」の教えが、多くの人に伝わったのは、
五百年程前、蓮如上人のご苦労が大きいといわれます

蓮如上人の日頃のお言葉を記録した
「蓮如上人御一代記聞書」の現代語版が、
この度、新しく発刊されました。
内容は、浄土真宗の教義、倫理、生活、儀礼などにいたるまで、
懇切に興味深く記されていますが、全体を通しての主題は
「他力の信心」 を 得ることが、いかに大切で
あるかに、尽きるといってよいでしょう。
お念仏の喜びを味われた、南無阿弥陀仏の
生活を体験された方、蓮如上人の、有難い記録です。
蓮如上人御一代記聞書き現代語版より
本願寺出版社  平成11年発刊
蓮如上人御一代記聞書            
(一)
 勧修寺村の道徳が、明応二年の元日、
蓮如上人のもとへ新年のご挨拶にうかがったところ、
上人は、「 道徳は今年でいくつになったのか。
道徳よ、念仏申しなさい。
念仏といっても自力と他力とがある。
自力の念仏というのは、念仏を数多く称えて
仏に差しあげ、その称えた功徳によって
仏が救ってくださるように思って称えるのである。
他力というのは、弥陀におまかせする信心が
おこるそのとき、ただちにお救いいただくのであり、
その上で申す他力の念仏は、お救いいただいたことを、
ありがたいことだ、ありがたいことだと喜んで、
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と申すばかり
なのである。
このようなわけで、他力というのは他の力、
如来の本願のはたらきという意味である。
この信心は臨終まで続き、浄土に往生する
のである 」 と 仰せになりました。
(二)
朝の勤行で、『高僧和讃』 の
「 いつつの不思議をとくなかに 」 から 
「 尽十方の無碍光は、無明のやみをてらしつつ、
一念歓喜するひとを、かならず滅度にいたらしむ 」 
までの六首をおつとめになり、
その夜、蓮如上人はこれらのご和讃のこころに
ついてご法話をされたとき、『観無量寿経』 の
「 光明はひろくすべての世界を照らす 」 という文と、
法然上人の、
月かげのいたらぬさとはなけれども、
  ながむるひとのこころにぞすむ
月の光の届かないところは一つとしてないが、  
月はながめる人の心にこそやどる。
という歌とを引きあわせてお話しになりました。
そのありがたさはとても言葉に表すことができません。
蓮如上人が退出された後で、実如上人は、
前夜のご法話と今夜のご法話とを重ねあわせて
お味わいになり、「 まったくいいようのないありがたい
ご法話であった 」 と仰せになり、上人の目からは
とめどなく涙があふれ出たのでした。

3Dプリンターが生み出す地域活性
デジタルモールドで作る製品は多品種だけれど小ロット。そんな組み立てラインはなか
なかどこの工場も引き受けてくれないという問題がありました。そこに、地元に歴史深
いスワニーに近所のお年寄りから声がかかりました。「月に一万円でもいいから毎日何
かできる内職はない?」そんなニーズがあったのか! と、シャッターが増えていた商店
街の空きスペースを利用して「内職ワークスペース」を設置しました。

長野県の小学新入生に無料で配る防犯ブザーを地元の大人が作るというコンセプトでス
タートし、現在組み立てをやってくれる内職者は80名ほどの登録があるそうです。商店
街に来る予定がなかった40人ほどが毎日通うというだけでも活気が沸くことでしょう。
耐久性がなくて数がこなせない。でもはるかに安くて短時間で簡単に出来る。そんなメ
リットを最大限に活かしたデジタルモールドは地域活性化にも役立っています。失敗を
こなして新しいことに挑戦する。そんなスワニーの姿勢が産業界の革命へとつながりま
した。

*補足: 産業用3Dプリンターの一般的利用方法
産業界のものづくりに馴染みがない読者のために、3Dプリンターがどこに使われている
か少し補足です。一般に3Dプリンターが使われているのはプラスチック部品などの開発
途中の試作品です。まずCADという設計ソフトでアイデアを形にして、最初のプロトタ
イプ1を3Dプリンターで作ります。3Dプリンターには実際の製品の材料が使えないので
ここではあくまで形の確認がメインです。

プロトタイプ1が合格したら次に実際の材料を使って耐久試験と呼ばれるようなテスト
をしないといけません。なので金属などで作るモールド(鋳型)と言われる型を
作ります。
型が出来たらプロトタイプ2を作ります。最終製品としての手触りや機能、耐久性のテ
ストをします。
ダメならまたCADに戻って描き直しをします。
そしてプロトタイプ1,2へと繰り返します。
だいたい3,4回は繰り返して、やり直しの度にこのモールドを作り変える必要
があります。
モールドを作るには数日がすごくかかります。早くても数日から数週間、小さいもので
もコストが何十万円もかかります。

ちょっと考えるべきたび企画のサイト。
http://ridilover.jp/
さまざまな場所で問題が解決せず、人々を苦しめ続けている
原因のひとつに 「構造的な社会への無関心」 があります。
リディラバは、その無関心を生み出す構造を解消するために、
「社会問題を知ることのできるツアー」 を立ち上げました。
このツアーに参加すれば、社会問題の現場に自ら訪れることができ、
そして、そこで知ったことを、私たちの提供するメディアで発表することができます。
さまざまな問題を知り、そして、それを発信できる場ができたことにより、
社会問題に対するアクションを起こすことはより簡単になりました。
リディラバでは、これからも、もっと気軽に、社会に存在する課題に
「情報を知ることができ」 「現場に訪れることができ」 「解決方法を考えられる」
環境をつくり、社会問題に対して興味を持ってもらえる社会を実現します。

さらに、リディラバが運営している投稿サイトにTRAPRO(トラプロ)がある。
その中から、社会事情について、

「1980年代の新聞を読むと意外とおもしろい。ここでは1980年代の新聞記事を引用して
紹
介していきます。
働き過ぎ・遊び過ぎ ? 睡眠不足増える
日本人は宵っぱりで、成人の3人に1人が睡眠不足?NHKの世論調査部が昭和35年から5年
に1回実施している「国民生活時間調査」の昭和60年度の調査結果が、2月28日まとまっ
た。それによると、夜ふかしをする人が前回調査より増え、平均睡眠時間は平日で前回
より9分短い7時間43分。
(読売新聞:1986年3月1日)
【意見・感想】
7時間43分と聞くとたくさん寝てるという印象を感じてしまいます。実際、2010年のNHK
の調査では平均睡眠時間は7時間14分となっており、25年でさらに30分近く短くなって
いるそうです。
昨今では短眠法が注目されたりと睡眠時間を削ってやりたいことをやるという志向が増
えていたり、睡眠は習慣であり長短は関係ないという意見もあったりしますが、この短
眠傾向が良からぬ結果を招くのではないかと懸念しています。
親子の同居志向強まる
親子は、同居か、同居しない場合も近くに住みたいと考える人が親子とも約8割を占め
しかも子の若い世代ほどそう望んでいることが、3月20日、経済企画庁がまとめた「
長寿社会へ向けての生活選択」調査で明らかになった。
(読売新聞・朝日新聞:1986年3月21日)
【意見・感想】
1986年に同居志向が強まっていたというのは驚きである。
しかし現実には、1986年以降三世代世帯は減少傾向にある。
(参考:年々増える核家族と一人身世帯…種類別世帯数の推移をグラフ化してみる
http://www.garbagenews.net/archives/1344618.html)
2012年現在、同居志向の人はどれくらいいるのだろうか。
新人類は”フリーアルバイター”志向
フリーアルバイターということばをよく見かけるようになった。学校を卒業しても会社
に入らなかったり、入ってもすぐに退社して、アルバイトで生活している若者たちが、
自分たちのことをそう呼び出したのが始まりらしい。
(読売新聞:1987年11月7日)
【意見・感想】
フリーター(=フリーアルバイター)という言葉は20年ですっかり定着しましたね。
この時代は自己選択でフリーターを選ぶことが多かったらしく、現代においてもその印
象でフリーターも捉えられてしまっている部分はあるのではないかと思います。
生活に満足68%?総理府世論調査
生活への「満足度」「充実度」「中流意識」のすべてで、女性が男性を上回っているこ
とが、総理府が11月2日発表した「国民生活に関する世論調査」で分かった。
(読売新聞・東京新聞:1987年11月3日)
【意見・感想】
タイトルを見ると、当時の生活満足度の高さがうかがえる。
(別団体調査になるが、2007年の調査では満足度は46.2%となっている。
http://www.research.nttnavi.co.jp/304z/701koufuku.html)
生きがい新旧格差
20歳代の社員ほど、家族を犠牲にして仕事に打ち込むことに否定的であり、生きがいを
仕事以外に求める人が3分の1を占めている?日本能率協会が11月24日発表した「生活意
識多様化調査」で20歳代と40歳代の「新・旧対比」がはっきりした。
(朝日新聞:1987年11月25日)
【意見・感想】
1987年の20歳代というと、2012年現在40歳代だと思うが、実感値として家族を犠牲にし
て仕事に打ち込む40代が多い印象を受ける。
それは立場によるものもあるかもしれないが、例えば「残業後に会社チームで飲み会に
行く」「会社のゴルフ大会に精を出す」など、生きがいを仕事に求める人が多いのでは
ないだろうか。
近年取られるアンケートでも20代の仕事離れが進んでいるという話題がたびたび取り上
げられるが、20年後には立派に仕事人間になっていると思うので、あまり問題視する必
要性はないのかもしれない。」

約30年前の社会事情だが、現状はどのように変わっているのだろうか?
温故知新と言うように、古き時代から今を見直すのも、中々に参考となる。

日々の記録10(郡上の白山盛衰、現在の信仰は?フットパス、遺跡ウォーカー、和邇 祭り、団地未来プロジェクト、青の浮世絵、10句観音経、綱島温泉

「神仏習合思想としての白山信仰の背景?現代に生きる平和と文化・歴史・
自然環境保全の思想」
白山エコカフェでは、白山と長良川流域の自然と文化に関して地域の皆さんの
ご経験・(伝統的)知識・視点と、科学的な観点から研究者(家)・技術者等
と共に自由に話し合い、長良川・白山の自然とその文化に関する情報を共有・
発掘し、地域の自然環境・文化の保全と継承の大切さ、そして共生と進展、
さらには持続可能な地域活性化のための糸口等をみつけられれば幸いで
あろうと考えております。
今回は昨年に続き、郡上地域に1300年にわたって生き続けている「神仏習合
思想としての白山信仰の背景」を、基調講演(後半)と意見交換等によって
学びたいと思います。
神仏習合思想の創始者の一人は白山を開山された泰澄大師であるといわれており、
現在も白山山系(中部域)を中心として全国的に根づいています。
郡上市には太平洋側の白山信仰の拠点として、長滝白山神社と長滝長瀧寺、
白山中居神社、洲原神社等が残っています。また白山美濃禅定道へは静岡県、
愛知県、三重県、滋賀県から続き、岐阜県に入り美濃市洲原神社で合流し
長良川に沿ってさかのぼります。その禅定道に沿って白山系神社・寺院、修験の場、
十一面観音菩薩等の泰澄大師ゆかりの白山信仰文化が今でも根づいています。
白山信仰に関連する歴史遺産として、加賀禅定道、越前禅定道、美濃禅定道の3つ
のうちの一つである本禅定道は、白山市内にあり今も残っていることは、先人の
偉業が現代に残る貴重な証拠である。
また、白山信仰にまつわる文化は今も祭りや芸能として受け継がれている。

「生雲いくも」
建物の中央にある本殿て?は、「神道護摩・古代神道火祭り」を行っています。
生雲の火祭りとは、仏教・道教・神道を一つとした日本古来の 祈りの儀式て?あり、
現代の日本て?体験て?きるのは生雲た?けて?す。
自然を本尊とする道場て?、自他の願いや想いを書き記した「符」を煙とともに天に
昇らせ、魂を鎮め、心を平安にします。
古代の白山信仰を受け継き?、自然を本尊とするため、尊像は祀られていません。
東側には、いつて?も白山を拝すことか?て?きるように大きな窓を設置しています。
ここて?はひたすら白山を拝み、自然と感応しなか?ら、宇宙のエネルキ?ーを感し
ことかできる。
生雲は、素朴な信仰の儀式を守りなか?ら、自然を拝し、新しい信仰のスタイルを
模索する場て?ありたいと願っています。
古代の人々が、かけがえのない存在として崇めてきた山や川。
越の国(北陸)では、白き女神の住む孤高の山「白山」が、泰澄神融禅師
(たいちょうじんゆうぜんじ)※が登拝して以来、仏教的山岳信仰の対象となり、
那谷寺とともに信仰が深まりました。
その那谷寺と白山を結ぶ線に、かつて修験者たちが修行したとされる伝説の山
「円行山」があり、ここに自然智行の求聞持堂を建てたのが生雲のはじまりです。
さらに、白山・那谷寺・円行山を結ぶ線の延長線上には、加佐ノ岬・木曽御嶽山・
富士山も存在し、パワースポットで名高い場所が不思議と繋がります。
天と地、山と川、そして深い森に抱かれた生雲は、心と身体を浄化・再生させる
現代の癒しの宿。
下界から霧か?立ち昇り、雲か?湧き上か?る見渡す限りの自然の中て?、日常
のストレスから解 放され、自然と融け合う安らき?を感し?てみてくた?さい。
※泰澄神融禅師:奈良時代に白山を開き、白山信仰を広めた僧。

明治になると、廃藩置県が行われ現在の県の範囲はなかなか定まりませんでしたが、
白山山頂の帰属も同様で、明治5年(1874)ようやく決まり、白山麓18ヶ村は石川県
となり現在に至っています。白山本宮・白山寺は白山比咩神社として、白山を奉祀
するようになります。また、越前馬場は白山神社と平泉寺に、美濃馬場は長滝白山
神社と長滝寺に分離されました。明治期、神仏分離-廃仏毀釈で幾多の仏像が破壊
されましたが、石川県では、当初は白山比咩神社周辺の仏教関係事物の撤去だけを
おこなっていましたが、明治7年(1874)になると、石川県令は、前年白山比咩神社
の本社と指定された山頂の三社から、仏体仏器を取り除き、下山さすよう通達を
出しました。この仏体下山作業に際して、山頂や、かつての信仰登拝のための
登山道であった禅定道周辺に多く奉納されていた無名の石仏が、ただちに破壊された
ようです。そして山上にあった本尊は白峰の林西寺や、尾添の白山社に下山仏
として安置されることになりました。 こうした廃仏毀釈運動の先頭に立って実行
したのは、石川県の場合、神社係で、急進的廃仏論者で、白山信仰など考証論的な
郷土史の先駆者の一人である森田平次という人のようです。これも1つの信仰の
厚さゆえに、他宗教を排他しようとする一例といえましょう。
ただ森田平次氏は、その急進的神仏分離論から、一時期取り上げられることが
敬遠される時期もあったようですが、近年、白山信仰の縁起、本来の姿など、
その地域史的研究の成果はあらためて評価されてきたようです。
郡上八幡市街地は近世初期に形成された山と川に囲まれた城下町であり、町の骨格が
変わることなく現代に受け継がれ、建物 ... 発祥祭. 日吉神社 大神楽. 長滝地区は、
白山信仰の拠. 点であった美濃馬場の中心的. な存在である。
白山信仰で隆盛を極めた。
古くから白山信仰の美濃馬場で「一に長滝お蚕祭り・二には千虎の甘酒祭り」と
いわれたこの祭りはかつては甘酒六斗余を社前にすえた大釜で煮立て、村人は一人
ずつ名前を呼ばれて一椀の甘酒を受け、全員飲み終わると一同ときの声を
上げて大釜を囲み、残った甘酒をたいらげたという。祭礼は三月の第一日曜日に行われ
ます。
白山比咩大神(菊理媛神)については、
http://www.y-tohara.com/shirayama-11.html
白山七社とは、加賀における里宮(遙拝所)7社をまとめた呼称で、その成立時期は
不詳ながら、白山本宮が比叡山延暦寺の末寺となった久安3年以降、比叡山・日吉七社
にならって成立したともいわれ、白山之記によれば次の7社から成っている。
本 地 垂 迹 現 在
本 宮 十一面観音 女形(白山妙理大菩薩) 三宮の地に遷座
金剣宮 倶利伽羅明王 男神(武神)・白山第一の王子 金剣宮(白山市鶴来日詰町)
三 宮 千手観音 女形・白山第三の姫君 白山比咩神社(白山市三宮)
岩本宮 地蔵菩薩 僧形・禅師権現 岩本宮(能美市辰口町)
中 宮 如意輪観音 女形・ただし童形(児宮)か 筍笠中宮神社(白山市中宮)
佐羅宮 不動明王 男神(金剣宮と同じ) 佐羅早松神社(白山市佐良)
別 宮 十一面観音
阿弥陀如来
聖観音 女形(本宮と同じ)
奇眼の老翁
宮廷に仕える大臣形 白山別宮神社(白山市別宮)

今回から3回は白山信仰にかかわる連続講演で、講師は長滝神社宮司の若宮多門氏がつ
とめる。
今回の講演は、神社の拝殿で行われたのですが、拝殿に並べられた椅子が埋まるほどの
盛況振りだった。
私自身、若宮宮司のお話は何度か伺っているので、決して驚くようなことはありまない
が、
初めてお話を聞いた人はたぶんきっと大いに驚かれたのではないだろうか。
というのも、宮司の話される話は、宗教者の語る内容とも、研究者の語る内容とも
違い、白山山系から流れ出る水が長良川となり濃尾平野を潤す、その「水」という
キーワードから白山信仰の意味を説き、現代にこそその「水」の信仰が必要であるとい
う。

今日の話を聞いていてふと昨日聞いた話を思い出した。
昨日は、「市民による豊かな海づくり大会」というテーマで、
河口堰閉鎖後の河川環境の変化についての話でしたが、
河口から40キロ当たりまでは汽水域と言い、海の潮の影響を受ける地域だという。
その周辺は現在大量のヘドロが溜まっており、干満の変化のなくなった堰上流部には、
以前まで大量に生い茂っていた葦原がほとんど姿を消したという。
若宮宮司は、長滝のあるこの地域は、古くから中品(ちゅうぼん)と呼ばれ、
人々が暮らす生活の場所である下品(げぼんと読む)と、神の領域である
上品(じょうぼん)とをつなぐいわば汽水域のようなところであったという。
だからこそ、さまざまな文化や芸術、芸能が古来よりこの地域で生まれて
きたのだと語った。
葦原のある汽水域も、海から川へ、川から海へと交じり合う生物の交流点であり、
また、その自然環境が水の美しさを保つ浄化作用をもつという場所であった。
まさに、白山の神は、海から豊かな幸の姿となって川を溯り、人々や獣の命
をささえる糧となり、そして、みどり豊かな山の中をめぐって、ミネラルたっぷりの
水となって海を下り、伊勢湾という豊かな海を作り出していると言えるの
ではないだろうか。
循環する命のそのものを、白山と長良川は現しているといっても過言ではない。
そういう意味においては、河口堰という人の欲望の作り出した境界は、循環という
神の意思を冒涜しているとも言える。
長滝白山神社 でででん祭り
拝殿の背戸扉がとりはずされた向こうから、郡上の遅い春の風が吹き降ろして
いました。それはあたかも、白山三山の神々が中品(ちゅうぼん)の庭に風
となって現れたようです。
祝詞と巫女舞と玉ぐしが奉納された後「でででん」というリズムが響き渡り、
神輿渡御の始まりです。
三基の神輿は一直線に神社境内を駆け下ります。


フットパスとは
「森林や田園地帯、古い町並みなど、地域の昔からあるありのままの風景を楽しみなが
ら歩く
【Foot】ができる小径(こみち)【Path】」のこと。
イギリスが発祥の地とされており、日本各地においても、市民団体、自治体を中心に
整備が進められています
http://www.japan-footpath.jp/index.html

遺跡ウォーカー
http://www.isekiwalker.com/

彼の顔に赤みが差し、次第に顔全体がゆがみ始めた。目尻は下がり、目が潤んで
いるようにも見えた。半開きとなった口からは、訳の分からない単語が発せられ、
息苦しそうにも見える。
身体が浮き立つようにゆらりと揺れた。やがて、自分で自分にで納得させるかの如く、
何度もうなずき、座り込んでしまった。今の彼には、何も見えないのであろう。
たとえ、そこに死体が転がっていようと、それさえ分からないのかもしれない。
そこにお金が転がっていようと、ただの紙切れと思うかもしれない。もっとも、
その紙切れの存在すら見えないかもしれない。
彼は、喜びと言う表現を最大限にしているのだ。
チャトはじっとその光景を見ていた。主人とのつながりから人間の行為の不思議さには
慣れていたが、いまだその本当のところは分かっていない。身体と言う見えるものに
対しての認識はできるが、その心と人間が呼ぶ見えないものには理解が及ばない。
仙人猫によれば、その見えない心を喜怒哀楽と呼ぶそうだが、それが人間としての
最大の欠点と言う。
目の前のこの不可思議な行為を見ていると、中々に楽しいものである、
とチャトは最近思うようにもなった。猫たちの行為は怒りと言う、尻尾と体の毛
を逆立て、牙を剥く、だけである。この単純な表現にチャトは飽きていた。
自分も、彼のような喜びという感情を身体全体で表したいとも思っていた。


レトは大変なものを見てしまった、そんな想いが身体を突き抜けて行った。
何げなく通った見知らぬ農家の庭であった。
一人の年寄りが、力なく庭先に立って、湧き上がる憐憫の情のために眉をよせ、
舌で上顎のすりへった金歯をいじりながら、彼女を見ていた。
彼は、少女が眠っている犬の上にかがみこむのを見た。
犬は、彼女が触れると、涙ぐんだような片目を開けた。その眼のすみに緑色
のにかわのようなものが、べったりこびりついている。
彼女は手を伸ばして、犬のあたまにさわり、やさしくなでてやった。
それから、肉の塊りを軒下にいる犬の鼻のそばにおいた。
犬は臭いで目がさめた。頭を上げ、もっとよく臭いをかごうと立ち上がった。
それから、三口か四口でそれを食べてしまった。少女がもう一度犬の頭をなでると、
犬は大人しい三角の目で彼女を見上げた。
突然、犬は咳、痰が詰まった老人の咳、をして立ち上がった。
少女は跳び上がった。
犬は咽喉を詰まらせ、空気を吸い込もうとくちをあけてあえいだが、すぐに
ばったり倒れた。それから、起き上がろうとしたが、起き上がることができず、
再び起きようとして、そばにあた壊れかけの椅子にぶつかった。
息をつまらせ、よろめきながら、犬はこわれた玩具のように、庭中を
這い回った。少女の口が開いて、ちいさな花びらのような舌が見えた。
彼女は片方の手で狂ったように訳の分からない身振りをしたが、やがて
両手で口をおおった。少女は吐くまいと一生懸命になっていたのだ。
犬は再び倒れ、からだがピクピク痙攣した。それから静かになった。
少女は両手で口をおおったまま、少しづつあとずさりし、それから
背を向け、庭から走り出て、通りを下って行った。
老人は、横たわっている犬の傍に近づきそっとその顔を撫ぜた。
その皺に満ちた顔は、無表情であったが、身体からは黒い悲しみの空気
がそっと上がって行った。
レトはしばらくその場を動かなかった。というより、動けなかったという方が
正確なのかも知れない。特徴あるあの鍵型の尻尾が小刻みに震えていた。
足は地面に吸い付いたように動かない。頭では、早くこの場から離れろと
言っているのだが、身体は膠着したままであった。その黒い瞳だけが
横たわってる犬の、既に死骸と化した、姿に注がれている。後ろ足に
温かいものを感じた。水が後ろ足の周りに溜まっているのに気付いた。
レトにとって、凄く長い時間が亀が進むが如き遅い速度で進んでいた。


和邇祭り  5月の第二日曜日
その天皇神社(大宮)の両脇に合計5つの神社が並んでいる。
左から、三宮神社、樹下神社、若宮神社、大国神社、松尾神社。
御神輿は5基あり、それぞれ地元の各地区が担当しているとのこと。

その各地区と担当神輿をリストする。

三宮神社:北浜
樹下神社:中浜
大宮(2):今宿、下今宿
若宮神社:高城

木元という神輿グループもあったが、大宮の一つかと思う。

その和邇祭が5月12日(日)に行われた。
裃(かみしも)を着た年配の関係者に聞いた話では、昔は5月8日に行っていた
そうだが、平日にはなかなか町内の人も集まりにくく、数年前から、
5月第二日曜日に実施、となったそうだ。昔はほとんど農家の体力も
ある人が多かったが、最近はみな高齢化し、若者が少なくなりさらに
会社勤めが多くなったため、町内で人を集めるのも大変、と言っていた。
先頭では祭の責任者がなにやら祝詞奏上。
突然若い担ぎ手が竹竿をもって疾走してきた。
竹竿は神輿に立てかけられた。おもしろいことに大部分の竿の先端には藁が
荒縄で巻きつけられている。
またまた例の年配の関係者に聞いてみた。
今は、体力ある若い人がすくなくなり、神輿を全行程担ぎ通すことはせず、
大分部分は台車に載せて練り歩くことにした。しかし昔は全行程を担ぎ通していた。
時々登り坂で厳しくなったときにこの竿を使って皆で押して、助けたそうで、
藁先はその時のクッションのために巻いてあるそうだ。
今は竿を使うことはないが、伝統的な形式を残すために、こうして青竹の
竿を準備するそうだ。

神輿の飾り付けの一つに鏡がある。「神輿大全」P36によると、
『昔から鏡は、神秘の力の宿るものとして、多くの神社でご神体とされ、
また、魔を撥ね退ける魔除けとしても珍重されてきた。
神輿で唐戸の前に据えられる鏡は、邪気を祓う防波堤のような役割を
果たしていると考えられる。また、機能としては唐戸を押さえる役割もある』
とある。
この神輿の鏡は側面にあった。この場合魔除けではなく、
神を招き入れる意味があるのかも。


「祭りの風景」
春から夏への季節の移ろいが始まり、大きく育った草花がそれぞれの花や大きな葉
を気の向くまま広げていた。
この頃、彼方此方で春の祭りが行われる。田には水が満ち、稲の子供たちが一列
となって希望の歩みを始めるようだ。今日は近くの神社の春の祭りである。
昨日から我が家にも風に乗って祭囃子の練習の音が聞こえてきた。
ゆるゆるとした尺のテンポと小気味よさを伴った太鼓の連打する音がこれを聞く
人々にもなにか心地よさを与えてくれる。
そして全く雲が一片足りとも見えない蒼い空とともに祭りの日となった。
普段わずかな人影だけが残されている境内には8基ほどの神輿がきらびやかに
鎮座している。その少し先にある鳥居から3,4百メートルの道の両脇には
色々なテントが軒を並べている。焼きとうもろこし、揚げカツ、今川焼き、
たこ焼きなど様々な匂いが集まった人々の織り成す雑多な音とともに一つの
塊りとなってそれぞれの身体に降り注いでいく。やがて祭りが最高潮となると
ハッピを着た若者たちが駆け足で神社に向って一斉に押し寄せてくる。
周りの人もそれに合わすかのようにゆるりと横へ流れる。
駆け抜ける若者の顔は汗と照りかえる日差しの中で紅く染め上がり、陽に
照らされた身体からは幾筋もの流れとなって汗が落ちていく。
神社と通り一杯になった人々からはどよめきと歓声が蒼い空に突き抜けていく。
揚げたソーセージを口にした子どもたち、Tシャツに祭りのロゴをつけた若者、
携帯で写真を撮る女性、皆が一斉に顔を左から右へと流していく。
その後には、縞模様の裃に白足袋の年寄りたちがゆるリゆるりと歩を進める。
いずれもその皺の多い顔に汗が光り、白髪がその歩みに合わし小刻みに揺れている。
神社の奥では、白地に大宮、今宮などの染付けたハッピ姿の若者がまだ駆け抜けた
興奮が冷めやらぬのか、白い帯となって神輿の周りを取り巻いている。


団地の未来プロジェクト
先ずは洋光台から
「団地の未来を描く。それは、社会の豊かな未来像を描くことでもあります」
クリエイティブディレクター、佐藤可士和氏がそう語る通り、日本の高度成長期に誕生
し、
以来、40年以上の歴史を持つ「団地」には、日本の社会が抱える課題と可能性が
映し出されている。
今年3月、都市再生機構(UR都市機構)が団地の再生に取り組む「団地の未来プロジェ
クト」
が発足した。プロジェクトには、佐藤可士和氏とともに、建築家の隈研吾氏が参加。
横浜市磯子区の洋光台団地を舞台に、新しい住まい方、地域のあり方を発信する
試みが始まっている。
「集住のパワー」を引き出す
かつて成長期には憧れの対象でもあった「団地」は、人口減少の時代の中で、空室の
増加や老朽化に直面しており、その再整備・再活用は大きな課題となっている。
プロジェクトは、逆風の中にある「団地」の価値を再定義し、新たな視点で
未来を描いていく。
佐藤可士和氏によると、大切な考え方の一つが「集住のパワー」を最大化すること。
集まって住むメリットをさまざまな形にし、住む人が享受できるようにするという。
今後、プロジェクトで展開する試みの一つが、「図書館」。団地に図書館をつくり、
知育や世代交流のコミュニティスペースとして活用し、独自のライブラリーを
そろえる予定だ。また、「防災の新しいカタチ」や「商業空間の活性化」などの
取り組みも予定されており、開かれたまちづくりにつながるプロジェクトにしていく。
新しいライフスタイルに適した建築・空間設計を担当する隈研吾氏は、団地の
外壁のリニューアルを実施。露出していた室外機置き場をアルミ製の「木の葉パネル」
で覆うことで、室外機のようなマイナスと思われていた要素をポジティブな
要素へと転換した。
団地のイメージを刷新
団地の未来プロジェクトのロゴデザインも担当した佐藤可士和氏は、そのコンセプト
について、「『団』の字の四隅を丸くしたアイコンで、既存の枠組みに捉われない
柔軟な考え方から創造される新たな可能性を表した」という。そして、「団地から
想像するこれまでのイメージを刷新し、新たな文化の創造につながる独自のアイデア
を展開していきたい」と、プロジェクトに懸ける思いを語った。
団地の未来プロジェクトは、目標を2020年に設定した長期の取り組みとなっている。
今後、そこで生まれた成果は、他の団地にも活かすことが考えられている。
日本に数多く存在する団地という「ストック」の価値が、見つめ直されている。

青の浮世絵
三島市の佐野美術館(三島市中田町)で現在、浮世絵の展覧会「世界を魅了した『青』
浮世絵名品展 春信・歌麿の“露草青”写楽の“藍”北斎・広重の“ベルリンブルー”
」
が開催されている。
同展覧会では、東京都文京区にある礫川(こいしかわ)浮世絵美術館の約2000点の収蔵
品から、
江戸時代の浮世絵の名作約100点を展示している。
展覧会の構成は、初めて青色を本格的に使用した鈴木春信などの美人画に見られる淡く
繊細な
「露草青」、東洲斎写楽の役者絵の頭の青々とした月代(さかやき)に見られる「藍」
、
そして18世紀初頭にドイツで発明された合成顔料「ベルリンブルー」という3種類の青
色
の絵具の変化によって、浮世絵の表現の変遷をたどっている。
作品には、どの種類の青色彩色がなされているか表記があり、「露草青」が使われてい
る
とされる作品は、退色して青が全く見えなくなっているのに対し、藍が使われている
とされる作は淡い青色を見ることができる。そして、「ベルリンブルー」が使われた傑
作、
葛飾北斎の「冨嶽三十六景」では、ふんだんに使われた青色によるグラデーションや
ぼかしなど、多様な表現を楽しむことができる。
来場者からは「青という着眼点が面白い。青の歴史、浮世絵の変遷がわかった」
「見慣れるとどの絵具が使われているか分かるようになってきて面白い」などの声が聞
かれた。
5月23日(土)、30日(土)の午後2時から、主要な作品を解説する、担当学芸員の
ギャラリートークが予定されている。


『十句観音経』
観世音。南無仏。 (観世音菩薩に帰依します)
与仏有因。与仏有縁。 (我々にも仏と同じ因果の法則があり、また縁でつながってい
ます)
仏法相縁[1]。常楽我浄。 (仏と法の縁によって、私たちは常に心を清らかにし、楽
しく過ごせます)
朝念観世音。暮念観世音。 (朝にも夕べにも観世音菩薩を念じます)
念念従心起。念念不離心。 (この念は仏心から起こり、また心を離れません)

綱島温泉
今日NHKでこの温泉の休館が報じられていた。
綱島は私の故郷である。小学生の頃、よくここのラジウム温泉の湯船の中で、泳いだり
していた事が忘れられない。その頃の記憶はかなり薄くなったが、3,4歳のでこチン
の
私がこちらに眼を飛ばしている、そんな写真が残っている。広場には、沢山の人が
何やら陽気に騒いでいたようであった。
スーパー銭湯がにぎわっているこの時代には、既に姿を変えていたと思っていたが、
今まで営業していたとは、感激である。しかも、今回のNHKの映像からは、私の記憶
の
端にあるあの皆が和気藹々と過ごしていた昔の情景がそのまま残っている。
建物はコンクリートになっているが、庭はまだその面影を残している様でもある。
創業が昭和21年とのことだから、私の時間とほぼ同じ時間をお互いすごしてきたのだ
。
映像からも中の施設が綺麗とは余りいえないものの、知らぬ同士が歌い、踊り、
食べて、そしてゆるやかな人間関係を作っていく、昭和のよき姿が残っている。

以下の幾つかのサイトの記事からもその雰囲気が分かるのでは。
「綱島温泉東京園は東急東横線の綱島駅のすぐ近くにある温泉センターだ。東京園 は
1946年操業だが、綱島温泉の歴史は1914年に始まるという。
戦前は東 京の奥座敷として大きな温泉街になっていたが、現在は数件の温泉銭湯と
東京園 がその名残を止めている。、、、、、
浴室の端に源泉そのままと思われる水風呂がある。足を浸けるだけでも効果があると
掲示してあるのでためしてみることにした。水風呂にしばらく足を浸し、温浴槽に
浸かり、また水風呂と繰り返した。これはなかなか効果がある。体の芯からさっぱり
した気がする。
休憩室は1階にも2階にも大広間が何カ所もある。売店でビールやつまみも安く
売っている。中庭に面した窓際に座って、風に当たりながらビールを飲むのは最高に贅
沢だ。
、、、、、、、
東京園は温泉センターでも特に気取らない雰囲気だ。昭和の初めのレトロな雰囲気を
残して、なにかなつかしい、ほのぼのとした気分を満喫した。」

「こちらの「東京園」にはめちゃんこデカい宴会場がついていて、
温泉を堪能しながら宴会が出来るのです!
実はフォロワーさんから「マジで良いっすよ」っていう情報が何度か入っていて、
その度に「温泉の神であるところの僕が知らない東京周辺の温泉があるわけないし、
その温泉神に意見しようなど神をも恐れぬ所業である事を自覚するべき」なんてな
感じで激怒していたのですが、とある忘年会に誘われてこちらに来た所、
マジでハンパ無く良い施設だったのでご紹介したいと思います。」

「創業昭和21年という歴史を持つ当店は、元気で楽しく低料金をモットーに、人々に
憩いの場を提供しています。
自慢の温泉は天然のラジウム温泉です。まじりっけなし100%天然のお湯は、
さらりとした中にもまろやかな粘り気があり、肌全体を潤してくれます。
またラジウムの効果で体の芯から暖まります。
ラジウム温泉、広間、店内には日当たりの良い大小4つの大広間があり、庭の樹や
花を眺め、小鳥のさえずりを聞きながら、舞台で歌ったり踊ったり、また
ラジウム温泉に入り、のんびり読書やおしゃべりに最適です。」

2005年4月の文芸春秋には「消えた「昭和」 日本人が失くした暮しと心」
の特集があった。今読んでも参考となる。
蚊帳 蚊に灯虫毒虫なつかしや   佐藤愛子
焚き火 暖を取りモノを焼き語り合う   椎名 誠
和式便所 日本が誇るべき「腰・肚」文化   齋藤 孝
ナイフ 僕たちは、なめていた   重松 清
原っぱ 虫取り、凧あげ、草野球   北 杜夫
紙芝居 実はモダンな路上芸   鴨下信一
駄菓子屋 ねえちゃんばあちゃんの店   泉 麻人
ラジオ 家族の話の真ん中にラジオ   永 六輔
縁側 日溜りの中、母の社交場   久世光彦
箒とちりとり 母・幸田文のお下がり   青木 玉
ちゃぶ台 秘技「ちゃぶ台返し」の効用   山本一力
神棚と仏壇 「神仏共存」日本列島の源流   山折哲雄
蝿取り紙 私が最後に看取った蝿たち   小川洋子
押入れ 女の子と一緒にかくれんぼ   藤原智美
書斎 絶滅する男の居場所   藤森照信
給料袋 幸福が月に一度やってきた   阿久 悠
半ドン 土曜の午後は父とともに   深田祐介
社員旅行 会社がいまだ共同体だった頃   嵐山光三郎
中卒 学歴なくとも皆夢があった   小関智弘
そろばん はじける珠は「人間の音」   出久根達郎

内容は記事でかくにんしたい。